五十鈴川と朝熊川の合流点。手前の岸に鏡宮神社、右向いの岸に朝熊神社がある。


 鏡宮神社。対岸に鎮座する朝熊神社とは直線距離で80mしか離れていない。


鏡宮神社の本殿裏手にある「虎石」。増水時には水に浸かってしまうだろう。


この石の上に二面の鏡が置かれていて、しばしば奇端を現したという。
 鹿海(かのみ)町の加努弥(かぬみ)神社から東南に550m。五十鈴川(いすずがわ)に架かる堀割橋を渡り川沿いの未舗装道を北上する。
 五十鈴川とその支流・朝熊川(あさまがわ)の合流点に形成された三角州の突端に鏡宮(かがみのみや)神社があり、その対岸の朝熊川に架かる人道橋を渡った森のなかに朝熊(あさくま)神社・朝熊御前(あさくまみまえ)神社(写真下)が並立して鎮座している。
 ちなみに、町名・山名・川名の「朝熊」は「あさま」、神社名にかぎって「あさくま」と読む。

 朝熊神社は、皇大神宮(内宮)摂社27社の中で第1位、朝熊御前神社は第2位の格式を誇る。鏡宮神社は内宮末社16社のうち第16位である。
 一般には、本社の格式がもっとも高く、それに次ぐのが本社の主祭神と関係の深い神様を祀った摂社、そして主祭神とはあまり関係のない客分の神様を祀る末社の順とされている。また、伊勢神宮では『延喜式神名帳』に記載のある式内社を摂社、『延暦儀式帳』に記載のある神社を末社として区別している。

 朝熊神社の祭神は大歳神(おおとしのかみ)、苔虫神(こけむしのかみ)、朝熊水神(あさくまのみずのかみ)の3柱とされている。大歳神は穀物の守護神、苔虫神は石長比売命(いわながひめのみこと)の別名で、長寿の神といわれている。朝熊水神は水の神で、3柱の神はすべて朝熊平野の守護神かつ五穀と水の神とされている。
 鏡宮神社の祭神は「岩上二面神鏡霊(いわのうえのふたつのみかがみのみたま)」で、後段で紹介する「虎石」の上に置かれたていた2面の神鏡とされている。

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 朝熊神社の創祀については、鎌倉時代中期の神道書『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』に、天皇の命を受けて皇大神宮の宮地を求めて各地を巡幸した倭姫命(第11代垂仁天皇の皇女)が、垂仁天皇27年(BC3)に石と化した大歳神(おおとしのかみ)を祀る社を建てたのが創祀であると伝えている。

 ただし、一般には『倭姫命世記』の内容が神話的物語であり、物語に登場する倭姫命や垂仁天皇が実在したのかさえも定かではない。史実としての信憑性が希薄であることから、創建年代は不詳とすべきであろう。
 確かなところでは、『皇太神宮儀式帳』に「小朝熊」の記載があることから、儀式帳が編まれた延暦23年(804)の以前から存在していたと考えられている。

 室町時代の内宮禰宜(ねぎ)荒木田氏の『氏経卿(うじつねきょう)神事記』『内宮引付』に、文正2年(1467)、明応元年(1493)に朝熊神社で祭礼が行われたという記載があるが、後の戦国時代に衰微、廃絶して、本来の鎮座地がどこであったのかもわからなくなったという。

 戦国の動乱期を経て、江戸時代初期の寛文3年(1663)に、朝熊神社は大宮司・河辺精長(かわべきよなが)の尽力によって復興されるが、不明となった社地の選定については、ことのほか苦慮されたようだ。
 再興に当たっては、確たる史料のないまま鎮座地の考証がおこなわれ、大宮司らによって現社地が旧地であると比定された。社地を平らにする整備が進められた折、掘り出された石の上に古鏡があり、その下に鏡を守っているかのように蟠屈(ばんくつ)した小蛇が見えたという。この奇瑞を得て、社地選定に苦慮した大宮司らはことのほか勇気づけられたという。

 発見された古鏡は、朝熊神社の西側に建てられた「鏡宮」とも称された御前社に奉祀された。その後、朝熊神社の隣に朝熊御前神社が建てられ、鏡宮神社は現在地に移され、朝熊神社から独立した神社となった。
 明治5年(1872)、儀式帳に鏡宮神社の記載がないことから、神宮所管から外されるが、神宮側は「儀式帳にこそ記載はないが、他の古典では存在が確認され、朝熊神社の属社として往昔は格別の崇敬のあった神社である」と主張。この主張は聞き入れられ、明治9年(1876)に内宮末社に復帰した。

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 鏡宮神社の社殿奥(境内の東北隅)に、朝熊川の川床に降りる石段がある。これを降りたところに木柵があり、なかに「虎石」と呼ばれる磐座が鎮座している。虎石のある一角だけ、川の護岸が凹まれて整備されているのも、なにか手間ヒマをかける謂われをもつ特別な石であるためだろう。
 「虎石」の名の由来についてはよく分からない。どことなく形状が虎の寝姿に似ているようにも思えるが、はて、いかがなものだろう。

 伝承によると、この虎石の上に2面の神鏡が置かれていたという。『群書類従』所収の「小朝熊社神鏡沙汰文」にも、神鏡は「往昔の当初より、当社の御前に流れ徹る江澤の中に在る所の岩上に御坐すなり」とある。
 しばしば、鏡面に様々なものを映し出す奇瑞を起こしたという巷説もあり、この地を訪れた僧が、鏡に梵字が浮かんだと旅行記に記している。
 また、神出鬼没な一面もあったようで、平安時代後期の長寛元年(1163)には神鏡が紛失するという事件が起こり、「小朝熊社神鏡沙汰文」に神鏡紛失に関わる公文書が残されている。さらに、のちの建久10年(1199)、天福2年(1234)、文永6年(1269)にも神鏡が岩上に出現したという伝承がある。

 さて、現在の両社の由緒を見ると、神鏡が信仰の柱となっているが、当社の川にかかわる地形と虎石のある場所から鑑みて、本来のご神体は、五十鈴川と朝熊川の2つの川の流れであったと思われる。
 古神道における原初的な祭祀は、神の依り代とされる磐座を中心に営まれたものであった。当社の場合では、虎石のある川床に臨時の祭場が設けられ、水霊をまつる祭祀がおこなわれていたと推察する。

 伊勢の神は、皇祖神をまつる伊勢神宮の創始によって大きく変遷していった。神宮の創始年代は、「天皇」の語が用いられるようになった7世紀後半ごろ(直木孝次郎など)とされている。常に神が常住しているとされる社(やしろ)が建てられると、信仰の対象は自然物の神体から遠のき、社に収められた人工物である鏡や剣、勾玉へと移っていった。虎石は、ご神体の移り変わりを示す最後の痕跡となるものだろう。

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2022年6月27日 撮影


川の護岸が、虎石のある部分だけ凹んでいる。


向かって右側が朝熊神社、左側が朝熊御前神社。両社とも南西方向に向けて社殿が建てられている。