神谷神社拝殿。


入母屋造の美しい神谷神社の本殿。京都府の文化財に指定されている。


神谷磐座。この磐座周辺は、近年まで女人禁制であったという。


「鬼滅の刃」で注目された岩の割れ目。


磐座群の一番奥に、人が通り抜けられる岩の割れ目がある。


神谷磐座に隣接する境内社の八幡神社。
 京都府と兵庫県との県境、京丹後市の久美浜湾岸から500mほど南下した道路の左手に「神谷(かみたに)太刀宮(たちのみや)」の看板が見える。

 社号標には「式内郷社 神谷神社」、鳥居の扁額には「神谷太刀宮大明神」と記されているが、もとは神谷神社と太刀宮神社は別の神社であった。中世の頃、神谷神社の社屋が戦乱によって破壊されたため、現在地の太刀宮に合祀された。神谷神社の旧社地は、大字神谷小字明神谷にあり、今も山林中に平坦地が残されているという。
 当社は『延喜式』に掲載されている式内社であるが、この式内社に太刀宮神社も含まれているのかは定かでない。

 現在の本殿は、天明元年(1781)に建てられたもので、出雲大社の建築様式が取り入れられた桁行(けたゆき)2間、入母屋造、桧皮葺(ひわだぶき)。本殿の右手には、境内社の稲荷神社と猿田彦神社。 左手に相生之松と恵美寿神社が配されている。

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 太刀宮は、丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)薨去の後、命を追慕して創建された神社で、近畿地方で唯一丹波道主命を主祭神とし、命が身につけていた宝剣「国見の剣」をご神体としてお祀りすることから「太刀宮」と呼ばれている。一説によれば「国見(くにみ)」が「久美(くに)」に変化し、「久美浜」になったとする地名由来もある。

 江戸時代後期に編纂された丹後国の地誌『丹哥府志(たんかふし)』に「延喜式に所載の神谷神社元此処にあり、乱世の頃修覆も出来かね太刀宮に合せ祭るといふ、今太刀宮にあり」と記されている。

 また、江戸後期の『丹後旧事記』には「神谷神社 祭神神谷大明神、天神玉命。当社は垂仁天皇の朝旦波道主命勧請なり」とあり、太刀宮は太刀宮大明神として「崇神天皇十年癸巳秋、旦波美知能宇斯命(たにはのみちのうしのみこと)四道将軍の勅諚(ちょくじょう)を蒙り、国土順見事終るの悦に、帯せし劔(つるぎ)を天照大神に奉り、天下泰平の祈り終て此地に太刀宮を造立あるよつて国見の庄と名付く」と記されている。

 旦波美知能宇斯命は、諸国平定のために四方に派遣された四道将軍の一人、丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)の別表記で、崇神天皇10年、勅命を受けて丹波に巡視されたとき、武運長久を祈願して、久美浜の地に社地を定めて八千矛神・天神玉命・天種子命を祀ったのが神谷神社の創祀とされている。

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 神谷神社の西、道路を隔てた八幡山の山麓(文化財環境保全地区)にも境内社の一つ八幡神社が鎮座している。本殿は、小規模ながら一間社流造の柿葺(こけらぶき)、孔雀の彫刻が施された秀麗な建物(京都府登録文化財)で、祭神に応神天皇が祀られている。本殿は覆屋の中に安置されており、そのすぐ隣に「神谷磐座」と呼ばれる巨石群がある。

 散見される巨石群の中で、もっとも下部にある注連縄を巻かれた大きい岩は、高さ約5m、周径10m超。岩の中央部に北を向いた割れ目があって、その先に北極星が見えることから、郷土史家の間では神社以前の古代の太陽祭祀・観測装置の跡とみる説もある。現地の案内板には、巨石の配置には意図的なものが伺われると記されているが、磐座は本来、人為的な力で造られたものではない。人工説の真偽のほどは分りかねる。

 令和2年10月、劇場公開されるや記録的な大ヒットとなった「鬼滅の刃 無限列車編」。これを観た地元住民が、主人公が斬った岩に似ていると、SNSに神谷磐座の写真を投稿した。これがまたたく間に拡散されて、鬼滅ファンの注目を集めるパワースポット神社となった。地元保存会では、主人公が着ている緑の市松模様の衣装を用意して、鬼滅の「聖地」にしようと盛り上げているという。
 一過性のブームと思うが、余りに多くの人が訪れると「聖地」の神聖感は失われてしまう。といって、過疎となってまったく人が訪れなくなるのも困りものだ。なにごとも「ほどほど」がいいのだが、これが一番むつかしい。

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2020年10月24日 撮影


石段の先に境内社の皇大(こうたい)神宮が祀られている。

案内板