扉を軽くノックする。
しかし期待通りの応えがない。
「あれ、おかしいなぁ」
リーフは小声でつぶやき、不思議に思いながら再びノックを繰り返すが、結果は変わらず誰の返事も返ってこない。
フィンのお手製焼き菓子をたっぷり食べたティータイムの後、確かにナンナは自分の部屋に戻ったはずである。
それから1時間も経っていない。外に出るなら必ず声をかけていくはずだし、なによりフィンが部屋にいるナンナを呼びにいこうとしたのである。
フィン自身が行こうとしたのを、特にすることもなかったリーフは、代わってナンナを呼びに来た。
ナンナの所在をはっきりさせないうちはフィンのところへは戻れない。
疲れたとか言っていたから、もしかしたら寝ているのかも。
そう思いながらノブに手をかける。
しかし思いもかけずにカチリと音を立てて扉は開いた。
てっきりカギはかかっていると思っていた。カギがかかっていれば中にナンナがいるということになる。
しかし扉が開いたということは、部屋にナンナがいないということも考えられる。
リーフは静かに扉を開け、中の様子を伺った。
「ナンナ?」
やはり返事はない。
部屋の中は、大きな窓から夕陽が差し込みオレンジ色に染まっている。
部屋の中を見渡すと、窓際のところで椅子に腰掛けているナンナを見つけた。
リーフは部屋に入って近づいてみる。
背もたれに身体を預け、ナンナは静かな寝息を立てていた。
「なんだ、やっぱり寝てたのか」
リーフはほっとして、ナンナの顔を見た。
寝顔を見るのは久しぶりだな。
ふとそんなことを思う。
小さい頃はよく同じベッドで寝たものだった。
一緒にベッドに入っても、必ずナンナの方が先に眠りについていた。
安らかな寝顔。
こんな寝顔になれるのは、やはりフィアナ村にたどり着き、逃亡生活から離れたからであろうか。
フィアナ村での生活は、ナンナも自分も、そして最近手のこんだお菓子も作ってくれるようになったフィンも、本当に安らげる場所であるのだろうと、リーフは思った。
リーフはナンナが気持ち良く寝ているのを見て、起こすのは可哀相だと思い、黙って静かにこの場を立ち去ろうとした。
そして部屋を出ようとしたその時。
「ん……」
背後から突然ナンナの吐息とも思われる声が、リーフの耳に飛び込んでくる。
何故だかわからないけれど、リーフの心臓が一瞬高鳴る。
リーフはノブから手を放し、そっとナンナのところへと戻った。
ナンナは変わらない体勢で眠っている。
リーフはじっとその場にたたずみ、ナンナを見つめる。
夕陽に照らされたナンナの黄金(きん)の髪がまばゆく輝いている。
白く滑らかな肌、黒い影を落す長いまつげ。歳相応にふっくらとしたやわらかそうな頬。
そんな少女にみとれる。
妹じゃないと教えられたのはいつだったろう。
まだ本当に小さな頃は『にいさま』と呼ばれ、兄妹のように過ごしていた。
しかしいつの頃からかナンナは自分に一線を置くようになった。それを淋しく思ったのと同時に、妹じゃないと知ってホッとした自分がいたことに気がついた。
自分がナンナを家族としてではない好意を抱いていることを知った。
自分にとって、たった一人の大切な少女。
しかし今はまだ彼女はこの気持ちをまったく知らずにいることだろう。
「ん……」
もう一度ナンナの小さな唇から吐息がもれる。
リーフの視線がその唇に引き止められる。
紅をさしたわけでもないのに、ほんのりと色付いた形の良い唇。
触れてみたい。
ふとそんな思いが沸き起こり、リーフの頬が真っ赤に染まる。
すぐさまそんな思いを追い払うかのようにリーフは頭を何度も振る。
しかし一度沸き起こった思いは、そう簡単には消えはしない。
誰も触れたことのないであろう、その小さな唇に、自分が最初に触れてみたい。
そう思うのは、間違いだろうか。
しかし眠ったままの無防備なその姿を見ていると、近づいてはならない、触れてはならないと誰かが語りかけてくる。
ナンナの気持ちを確かめないまま、唇を重ねてもよいものかと、考えあぐねる。
そんなことをしていいはずがない、してはいけない。
そんな当たり前の理性で自分を押さえられるほど、リーフは大人ではなかった。
衝動のまま、ゆっくりとナンナの顔へ自分の顔を近づけていく。
息が触れあうほど近づき、あと少しで唇が重なり合うと思ったその刹那。
「う……ん」
今度はさきほどの吐息とは違う。
慌ててリーフはナンナから飛びのいた。
「ふわぁ……ぁ」
ナンナは欠伸とともに、両手を上へとゆっくりと伸ばす。
眠りから覚めたばかりの瞳に、窓を背にした人影が飛び込んでくる。
「あ、ら? リーフ様?」
まどろみから覚めたばかりの瞳が、2、3度驚いたようにまばたきをする。
「や、やぁ」
目と目が合った途端、リーフは軽く右手をあげる。自分でも馬鹿なことをしている
と思うような行動だった。
「ナ、ナンナ、目が覚めたんだ」
「ええ。いつの間にか眠ってしまったようですね。ここは夕陽が差し込んで、この時間とっても気持ちが良いんですよ」
にっこりとナンナはリーフに笑いかける。
リーフが自分に何をしようとしたかなど、まったく気づいていないようである。
「そ、そうなんだ。き、気持ち良いんだ」
必要以上にリーフの視線は宙を泳ぎ、うろたえる。
「リーフ様? どうかされました? なんだか慌てているようですけれど?」
落ち着きのない完全に浮き足立っているリーフの様子に、ナンナは不思議に思う。
「な、何にもしてないよ! いや、何でもないよ!!」
声が裏返りそうなのをなんとか押しとどめるが、声の音量だけが大きくなる。
「おかしなリーフ様」
ナンナは小さく笑いながらそう言って小首をかしげる。
「ところで、何か私にご用でもありましたか?」
「あ、ああ! そ、そうだった。フィ、フィンが、呼んでいて!」
「お父様が? どんなご用かしら?」
「え、えっと、あ、あれ……?」
リーフは完全に自分を失いかけていた。ちゃんとフィンから呼び出しの理由を聞い
ているなのに、もうすっかり記憶の片隅にも残っていない。
「ホントにどうしたのかしら? いつものリーフ様じゃないみたい。お顔も赤いようですけれど、お加減でも悪いのではなくて?」
ナンナはふいに立ち上がり、リーフの側に寄ると、自分の額をリーフの額に合わせる。
「う、うわぁ!」
突然ナンナの顔が近づいて慌てたのはリーフだった。コツンと一瞬額と額が触れあったあと、思わずナンナから離れようと後ずさった拍子に、何もないのにつまずいてしりもちをつく。
「リ、リーフ様?! 大丈夫ですか?!」
思いもかけない反応に、今度はナンナが驚く。
「だ、大丈夫だよ。大丈夫」
リーフは、ははは、と力のない笑いでナンナに応える。
ナンナは今度はリーフの額に手のひらをあて、もう一度リーフの熱を計る。
「熱はなさそうですね。やっぱり疲れが出たのかしら? お父様に言って何か疲れの取れるようなお茶でもいれていただきましょう」
にっこりと微笑むナンナに、リーフは少し罪悪感を抱きながら、唇をひきつらせたような苦笑いするのが精一杯だった。
Fin
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