高野の決闘 ■ホームに戻る
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日本最後の仇討ちは高野であった!!

文久2年(1862年)に、赤穂藩森家の家老、森主税と村上真輔が、尊王攘夷をさけぶ一派によって殺される事件がおこっている。
無残にも切り殺された父真輔を思うとき、子どもたち4兄弟の胸は、張り裂けんばかりの悲しみと悔しさでいっぱいであった。
そこで、4兄弟と助太刀3人の、7名が、紀州九度山の中屋旅館に集まり、仇討ちの相談をした。
機会をうかがっていたところ、暗殺に加わった6名が、紀州高野山に登ることを知り、山中で待ち伏せしたのである。
そして、高野町神谷の地で、村上兄弟は、念願の仇討ちを果たすこととなった。
時に明治4年(1871年)2月のことである。
しかし、この仇討ち行為がきっかけとなり、明治6年(1873年)に仇討ち禁止令がだされることとなり、村上兄弟による高野での仇討ちが、日本で”一番最後の仇討ち”となったのである

●村上側の配置状況

大久兵助
 見張り役として高台の観音堂付近にひそみ街道を監視。

水谷嘉三郎赤木俊三
 赤鳥居をぬけてあがったところの左側茂み。

池田農夫也村上六郎
 それより南20メートル道路の左側。
 松の木の根本に池田農夫也が顔に膏薬を貼り歯痛の恰好をし、それを介抱している風体で待ちかまえた。両人の刀は嘉三郎と俊三が預かった。

村上四郎行蔵
 短かい槍を手に、村上六郎よりさらに35mばかり進んだ藪の中に潜伏。

津田勉
 最後に槍を持って黒岩の陰に隠れた。

●西川方


一同堺で買った品々を、それぞれ風呂敷包みにして背負い、先頭は西川邦次が子供岩吉の手を引いて歩き、次に八木源右衛門吉田宗平が肩を並べ,続いて田川運六山本隆也、最後に山下鋭三郎が、少し遅れて通りかかった。

(決闘現場から高野連山を眺める)
西川方が鳥居をくぐり抜けて坂を登りきり、旅商人姿の池田農夫也と村上六郎の前を通り、最後の鋭三郎が行きすぎた時に、農夫也と六郎が鉄砲を放った。
ちょうど風が強く、敵は気づかないままそのまま進んだ。
水谷嘉三郎と赤木俊三は素早く飛び出し、農夫也と六郎に刀を渡し、四人そろって敵の背後に迫った。
前方からは、村上四郎、村上行蔵、津田勉の3人が各自短槍をしごきながら、西川方の前に立ちふさがって名乗りを上げた。
双方戦闘の火ぶたが切られたのである。

津田勉は手槍をしごいて先頭に立つ西川邦次に立ち向かい、行蔵は八木源右衛門に立ち向かった。さらに切り込んできた田川運六の胸元を突き、吉田宗平にも突きかかった。四郎も同じく宗平の胸元に一槍を入れた。このとき四郎は源右衛門に顔を斬られた。

四郎はそれをものともせず、再び源右衛門の胸元に突きを入れた。
その途端、田川運六が後ろから四郎の耳元に斬りつけた。
それを見た行蔵は、横から運六の腰部をめがけて突きかかった。

八木源右衛門、吉田宗平、田川運六の3人は深手を負いながらも、山本隆也の助けを得て行蔵と四郎に激しく斬りかかった。四郎も数カ所傷を受け、苦戦を強いられた。そこに嘉三郎が飛び込み、相手かまわず斬り込んだ。
そのとき山本隆也が、「おのれ」と叫びながら嘉三郎めがけて斬り込んだ。
嘉三郎危うしとみた行蔵は、無我夢中で隆也の右頬に一槍入れた。

そこへ山下鋭三郎を斬りつけた六郎がそのまま飛んできて、隆也の肩を手ひどく斬りつけ、隆也はその場に倒れた。
宗平は、農夫也のために、背後から右肩と右膝を斬りつけられその場に倒れ、四郎は最後の槍で源右衛門を倒した。運六は行蔵が3本目の槍で討ち果たした。
最後邦次に立ち向かった津田勉は、運悪く杉の根につまづき倒れたので、邦次が飛び込み組打ちとなった。
六郎が気付き重なり合ってもみ合っているところへ馳せ来て一気に邦次の脇腹を刺し通した。農夫也も続いて右肩に斬りつけた。

また、六郎のために深手を負った鋭三郎は、そのまま逃げようとするのを俊三が立ち向かい、眉間に一刀斬りつけたが、それにもひるまず脇道を100m ほど逃げて路傍に倒れていた。
これを行蔵と農夫也が見つけてとどめを刺し、ここに仇敵6人を残らず討ち果たした。
子供岩吉は、後頭部から襟元にかけての手負いで、いったん観音堂の前に運ばれた。村人が桜茶屋から持ってきて与えた水が、口から入って襟元の傷口から流れ出たとのことである。

四郎も勉も重傷を負ったので、嘉三郎と俊三、兵助の三人が用意の木綿と傷薬を取り出して手当を加えた。その間に、鋭三郎と運六の首級は、六郎が切り取った。

行蔵は矢立を取り出し、用意の料紙をひろげて墨痕鮮やかに、亡父、亡長兄、亡次兄等霊位を書き、黒石の手前西側路傍の松の木に貼り付けて、怨敵六人の首級をその前に供えた。

そして一同は傷の痛みも忘れて霊前に、うれし涙にむせびながら復讐の成果を報告したのであった。

<地形>

作水峠の絶頂、通称「黒石」付近、峠の登りつめたところに赤鳥居があり、これをくぐり抜けて右手の高台に登ると、観音堂がある。(写真は、今も残る黒石と観音堂。ただし黒石は道路拡幅により一つなくなった)
観音堂の南側には小さいマンジュウ山がある。山の東側から上る山は急な坂で約100メートル、東南側は傾斜の急な深い谷間になっていて、遙か彼方に高野の連山がくっきりと空を切っている。
マンジュウ山の北側から黒石まで約70メートル、北端から南西へかけて幅員2メートルの平坦路で、西側には小山が続き、東は開けて谷に落ちている。
こんな地形の路上で日本最後の仇討ちの戦闘が展開された。


(南海高野線神谷駅)

(高野街道のルートでもある)
 
(仇討ちの現場まで後2km)

(観音堂)

(墓所)

(黒石)
 
(現場)
 
「右京大阪」「高野山女人堂」とあり、現場は右側の道へ

(現場の案内板)

(以前撮ったもの1996年頃)

(道は改修されていた2017年)

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