易の力 


【超能力は夢ではない】

         


非現実の空想や人の力を超える力を映画で観ると、気持ちが鼓舞され、勇気づけられます。     
特別な力を身に付けるのを不可能な事だと思う人が、ほとんどです。

しかし、易の力によって、この世の神秘の凄さを実感でき、神様の存在すらも実感できる方法があるのです。

よく当る占いに魅せられて弟子入りし、30年以上易の勉強をしてきました。占い師というものが社会的に市民権を得たまっとうな仕事とは思えない私は、占いが好きでも占い師だけには絶対になるまいと心に誓っておりました。
普通の暮らしをしながら、易を学び、その時々の的確なアドバイスを易を通して得てきました。
子供の塾選びも占いで決めました。まったく情報のない塾に関して占えば、その塾の先生の教え方から塾の生徒に対する対応まで詳しくでました。病院選びも家の購入も、些細な事も易を使いながら決断し、生活していく上で悪いものを選択しないで済むことの便利さを実感してきました。

わたしは、この占いを自分と自分の親しい人にだけ使って生きていくつもりでしたし、占い師になりたいとも、この占いを世間に公開しようとも思っていませんでしたが、この本筮易の存在が世間に知られていないこと、また易経に記載されている本当の易が世間に出ていないことから、本当の易を世間に知ってもらいたいと思うようになり、
子育てが落ち着いて、時間にゆとりが出たことから、本当の易の存在と本当の易の力を、私に伝えられたものを皆さんにもお見せしなければならないという使命感のようなものを感ずるようになり、一週間に一日だけですが占い師として外に出ることにしました。

そして、原宿の占い館・塔里木という店で、毎週土曜日だけですが、占い師としてお仕事をさせていただくことになったのです。

入ったばかりの私は、とても緊張して、すぐにトイレに行くありさまでした。
「怖い、怖い、お客様が来たらどうしましょう」と言って、ドキドキしていたのです。
先輩の占い師さんは、そんな私に親切にお菓子を下さって励ましてくださいました。「占い師という仕事は、大変厳しいもので、あなたのような人にはとても出来るものではないですよ。あなたはすぐに根をあげて、辞めるでしょうし、お客様にも来てもらえませんよ」といわれました。
経営者の会長さんからは、「あなたは占い師じゃなくて、お客さんに見える。もっと占い師らしくドッシリと構えて、口紅くらいつけなさい。綺麗にお化粧しないとだめですよ」といわれました。
わたしの頭の毛までダサくて酷いと言って、頭まで櫛でとかしてもらったり、お食事を差し入れていただいたりと、かばっていただけて、楽しいところです。

そこでは、10人ほどの占い師さんたちが、各人のブースの中に入っていまして、お客様はご自分の好みの占い師を選んで鑑定してもらうシステムです。
各ブースの前には、占い師の占いの特徴がパネルに示され、お客様が、それぞれの占いを判断しやすいように、その占い師の得意な占術を書いておられたり、占い師の写真が貼られています。

わたしは、自分の得意な占術の説明として、
お客様が読んでいる本の内容を言い当てることもできると書いたことがありました。

もちろん、本の表紙を見ずに、その人のカバンの中に本をしまったままでその本の登場人物の性格も占いで当てることができるし、どういったストーリーかも占いで出して見せることができるのです。
しかし、お客様で、自分の持っている本の内容を占って下さいと言う依頼を受けたのは一度だけで、それは男性のアダルト雑誌の記事にされてしまいました。
このときは、舅さんから、占いをすることもやめるように言われまして、わたしは嫁としても異端児になってしまいました。
今の時代は占い師=うそっぽい職業として軽んじられているようです。
古代の中国では王様の上に立つ位でしたのに、どうして、ここまで大きく下がってしまったのか、それも、これから書く内容からご理解いただきたいと思います。
お客様達は、占いが終わると「生年月日も名前もわからないのに、相手の情報がゼロで、どうしてこんなに詳しく判るのですか?」と質問をなさる方が多くいらっしゃいます。

そういった感想を頂くと、「わたしのパネルを読みましたか?あなたが読んでいる本の登場人物の性格や、生き方までも占いで出せますって書いてありましたでしょ?
名前がわからなくても、そのことに関して質問すれば、答えてもらえる占いなのですよ」と答えますと、誰もが「私のパネルに書いた内容を、誇大広告で嘘だとおもった」とおっしゃるのです。
多くの人たちは、占いがそこまで、詳しく当てることができるとは思っていないのです。本の内容を占いで当てる事が本当に出来ても、かえってこんな事を書くと嘘の占いだと思われるのも分かり、その言葉はもうパネルから消してしまいました。

それほど、色々な事が細かにわかってしまう占いが、この世の中にはあるのです。
占いがそこまで詳しく判るわけがないと言う、占い師もいますが、それは本当の占いを知らないからこそ言えるのです。
人は、自分が知らないと言うことすら知らずに、思い込みの信念に囚われて自信を持ち、自分と違う感覚の人間を間違っていると批判しながら生きている人が多いと思います。
では、先ほどから語ってきました、誇大広告と思えるような「神秘な占いの技」について触れます。
之は、世間にある、誰もが耳にしたことのある「易」と言う占いなのです。

「易」なら知っていると、思う人はいるでしょう。
事実、プロの占い師が、「易」なんかで、そこまでわかるわけがないという方もいらっしゃいます。
私が、言っている「易」は、世間でいわれている「易」とは違うのです。
易とは何か、まずそのことについて申します。
易は、古代中国の最古の古書である「易経」と言う経典なのです。
4-5千年前の時代から、伏犠・文王親子・孔子の3人の聖人によって、編み出され、周の時代に完成されたものが、「易」です。
周の時代に完成されたために、「周易」とも言われています。

易を使って、古代の聖人は占いをして、国を治めておりましたが、その経典である易経には、占いの方法が記載されていますが、そこには、18回の陰陽を出すと言う本筮方法の占い方しか書かれていないのです。
にもかかわらず、易経に記載されている、この占い方法は、世の中から消滅されて、後からつくり直した安直に省略した易が、世の中に広がっていき、それが本当の易だと思われてしまったのです。

易は、八卦とも言われています。
「当たるも八卦・当たらぬも八卦」は、ここから来た語源ですが、
このことわざは、易を軽んじています。
「当たらぬも八卦」とは、八卦は当たらないのだと言っているのです。
正しく易経に記載された占いをせずに、古代の三人の聖人によって、何世紀にもわたって編み出された物を、間違って捕らえていることも知らずに、易は当たらないこともあると言う台詞をもっともらしく、常識としての概念にしてしまえるほど、易が軽んじられたことは、とても残念な事だと思うのです。

文章では、ありもしない嘘も書けますので、わたしがここに書いていることを、簡単に信じて頂きたくはありません。
疑う事は大いに望ましいことです。
騙しの多い社会ですし、純粋な人は、簡単に騙されてしまいますから、しっかりと見極める目を養っていくように、ご自身の目と判断をしっかりとなさって、この世の真理をみぬける生き方をしていただきたいと思っています。

本当の易の力が歪んだまま伝わったように、それを真実だと思ってしまう社会であることも、人の判断力は絶対のものではないといえます。
日本の歩んできた歴史を振り返っても、時代により、その時々の真実は異なっています。
日本を神の国だと信じ込んでいた時代もあったわけです。
わずか60年前までは、天皇を神様だと信じていた日本だったのです。
そして、戦争をすれば、かならず神風が吹いて日本は勝つと信じた時代があったのです。
物事を、社会の価値や時代の価値に囚われずに、自分だけの判断でみつめることはこうやって長い日本の価値判断をながめてみますと、回りの判断に影響されずに、自分の頭で見極める事は難しい事かもしれません。

宗教を信じてしまうと、マインドコントロールされるように、人は自分の考えが回りと異なったり、偉いと思う人の考えを聞けば、自分の頭でよく考えないで、回りの意見を正しいと思うような弱さがあるのです。
つまり、自分の信じている思想や信念は、社会の考えを取り入れて暗記しただけの物でもあると言えてしまうのです。
之は、心理学の実験でも証明されていますが、自分の目で判断して絶対に正しと信じていたことすら、回り全員が違う事柄を正しいといった態度を示すと、自分の判断が壊れてしまうのです。
人は自分の判断力よりも回りの判断に流されてしまいやすいのです。
こんな弱さに、人の感覚を可愛いらしくも感じますが危険性も感じます。

超能力的な神秘は、手に入らないと思うのも、人が常識だと思っている真理です。
手に入らないから、能力を超えるという意味で、「超」がつくのですしね。
社会の今までの価値に流されないで、自分の判断で、事の真相を見つめていく発想をもって生きていくことがより良い生き方につながるのだとおもいます。

つまり、私の言う言葉を、大いに疑いながら、「易の力」を試していただきたいのです。
その結果から、真実の答えを、自分自身で見つけていただきたいのです。

この易経の正式な占いを、きちんと学ぶことができたことは、私の人生の中で一番の大きな幸運だったと思っています。
真勢中州の流れを汲んだこの本筮易の占術は、本場の中国でも、できる人はいないだろうと言われています。
長い年月がかかると言う理由で、身につける人も少なく、本筮の先人たちの地味で商売性のない性格から、世に出ないままでひっそりと一子相伝のように受け継がれてきました。
私は、この本筮の宗家に弟子入りして、27年以上学ばせていただき、習う人も少なかったために、本筮易の宗家を継承させていただくような私の力を超える、大きなものを頂いてしまったのです。
学びながらその価値を知らずにおりました。
あなたは、ダイヤをガラス玉だと思って、ぼろぼろとこぼしながら歩いていると、ある学者さんから言われました。
かなりの大金を払うからと言う条件で教えてもらいたいと言われたこともありますし、「独り占めで抱え込んでいるなんて間違っている。それだけのものがあると言うことを、世間に知らせることは、文化として必要なことだ。誰にでも無料で提供するべきだ。それが人間としての正しさだ」と言われることもありました。

妬まれて、憎まれ口を叩かれることもありました。 教えてくれないならば殺してやりたいと思った人とも出会いました。
思わぬ状況に追い込まれながら、やっとこ、わたしは自分が身に付けたこの本筮易の魅力に気付かされたのです。

のんびりと趣味のようにして、自分と自分の愛する仲間に使うつもりでいたのですがこれからは、この幻とされる「本筮易」を世に広げようと思ったのです。

私が受け継いだ「本筮易」は、私ではなくて、もっと他の智恵のある実力のある人が見つけてくださっていたら、この「本筮易」の価値を世間に広げて、世の人に驚きと
神秘をもっと身近なものとして感じさせることが簡単に出来ただろうと思います。

よりによって、何でわたしのような平凡で、根性も力もない主婦が、こんな秘宝を手に入れてしまったのだろうかとおもいます。

私が、これを自分だけのものとしてしまっていたら、この本筮易は、この世から消滅してしまうと思います。
今まさに消滅しかかっているのですから。
私の先生は、この易を私にバトンタッチできたことを喜んでくださいました。
受け継ぐ人習う人が少なかった事を嘆いていらっしゃいました。
どこにもない、ここにしかない本筮易を、今まで習う人が出なかったことや、世間に知られていないことが、私はとても不思議に思います。
易の本当の深さを、私は少しでも皆さんにお伝えしていかなければならないと思うようになったのです。
文才もなく、根性もない私ですが、教科書としての本筮易の建て方と、読解の仕方を飾りの言葉なく、ありのままを書いていくことにしよう、
「この本は大切だ」と思っていただける、そういう本を書こうとおもっています。
時間がかかると思いますが、待っていてください。