堀河天皇里内裏跡

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堀河院の遺址
二条通と堀川通りによって画された東西120m、南北250mの地域は古の堀河院の遺址であって、(正式には左京二坊九、十町に当たっている)初めのそれは、関白・藤原基経(836〜891)が、造営した大邸宅であった。後は主に公式な行事のため本邸を用いた。ここで宴会などが催されたときなどには、公卿たちの牛車は、堀川の東側に立てられ、牛は二条堀川の橋の欄干に繋がれていたという。この邸宅における苑池の美しさは幾多の詩歌に詠まれている。
基経の没後堀河院は息子の左大臣仲平に伝えられ、彼の娘などの手を経て関白藤原兼通の所有に帰した。兼道の娘詮子は円融天皇の中宮であったため、本邸は円融上皇の御所となったこともある。兼道は息子の顕光がここに居住した時分には様々な話題で時人の関心の的となった。
堀河院が最も脚光を浴びたのは、ここが堀河天皇の御所(里内裏)となっていた時期であって、天皇は嘉承2年(1107)7月ここで崩じた。その委細は「讃岐典侍日記」に見事にのべられている。
(文学博士 角田文衛 石碑説明より)



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