平野国臣外三十数名終焉之址

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幕末尊王攘夷派の指導者平野国臣が処刑されたところである。この地はもと「六角獄舎」があったところで安政の大獄以後は多くの政治犯が収容されていたので会所ともいった。
国臣は、もと福岡藩士で、尊王攘夷運動に参加して脱藩し、生野の乱に挙兵して捕らえられ、元治元年(1864)1月17日ここに収容された。ところが同年7月19日長州藩兵の入京に端を発した禁門の変(蛤御門の変)によって、京都市中の大半が兵火に見舞われ、その翌日火勢が「六角獄舎」に迫るや、幕吏は獄中の尊王攘夷派の志士たちを斬った。このとき斬られた一人が国臣である。この難にあったものは、国臣のほか、古高俊太郎、長尾郁三郎、水郡善之祐ら30数名にのぼった。
なお、当地は宝暦4年(1754)に医師山脇東洋がわが国で初めて死体解剖を行った所とも言われ付近には記念碑も建っている。
(京都市)




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