本能寺址

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応永22年(1415)日隆上人が油小路高辻の地に本応寺を創立したが、後に破壊されたので、永享5年(1433)に六角大宮に寺地を移して本能寺と改称された。
天文法華の乱で焼失したが、天文16,7年(1547,8)頃、第8世日承によって西洞院と小川との間の四条坊門(今の蛸薬師)の北の地に再興された。当時は広大な寺域を占め、織田信長の仮宿所となったが、天正10年(1582)6月2日に信長を攻めた明智光秀の兵火にあい一山の堂塔を失った。
後に信孝が、父信長の廟を建てたために本能寺は再びこの地に復興を見ることになったが、豊臣秀吉の区画整理により、天正年間に東京極(今の寺町)の三条坊門(今の御池)南の地に移された。
(京都市)



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本能寺の変





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 応永22年(1415)御開山日隆聖人は、本門八品の正義を弘道せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却されたので、永享元年(1429)小袖屋宗句の外護により町端に再建、次いで永享5年(1433)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移転再建、本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。
 その後、天文5年(1536)天文法乱によって焼失。天文14年(1545)第八世伏見宮日承王上人によって旧地より四条西洞院の此の地に移転、壮大なる堂宇の再興を見た。然るに天正10年(1582)彼の「本能寺の変」によって織田信長とともに炎上、天正17年(1589)この地に再建せんとし、上棟式の当日、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転を命ぜらる。一山の大衆声を放って号涙すと。因みに本能寺は度々火災にりたるをもって「ヒヒ」と重なるを忌み、能の字を変えてと書くのが慣わしである。
 大本山本能寺







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