三条東殿遺祉

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現在の三条烏丸交差点の東北に位置する方四十丈(約120メートル)の地は、古の三条東殿の遺志にあたっている。
十一世紀の初めここは伊予守藤原済家の邸宅があり、それは子孫の宮内卿藤原家通に伝えられた。 崇徳天皇の天治二年(1125)白河法皇はこの地を得られ、ここに見事な殿舎を造営し、院の御所とされた。
法皇の崩後、鳥羽上皇は三条東殿をやはり院の御所とされ、后の待賢門院と共に住まれ、それは長承元年(1132)七月の焼亡時まで続いた。
その後この地は皇子後白河法皇の院の御所となった。
平治元年(1159)十二月九日の夜、源義朝は軍勢五百余をもって三条東殿を襲撃、法皇をここから連れ去って幽閉し、かくして平治の乱が勃発した。
そのとき武士と火焔にせめたてられた多数の官女が三条東殿の井戸に入って非業の死を遂げたという。
このように三条東殿跡は院政時代における政治的文化的中心地のひとつであり、その点で永く記念にされるべき遺跡である。

昭和四十一年二月
財団法人古代学協会




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