史跡 船岡山

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史跡 船岡山
船岡山は標高112メートル、面積25000坪の優美な小山である。
今より1200年の昔、京都に都が定められる際、船岡山が北の基点となり、この山の真南が、大極殿・朱雀大路となった。 これは、陰陽五行思想・風水思想に基づいて、船岡山は大地の気が溢れ出る玄武の小山であるとされたためである。
平安朝の昔には、清少納言が枕草子で「丘は船岡‥‥」と讃え、又、清原元輔・藤原俊成等、多くの和歌がのこされている。 船岡山は平安京の人々、若菜摘み、わらび採りに興じるまさに、清遊の地であった。
戦国時代の応仁の乱の際、この船岡山が西軍の陣地になり、船岡山周辺一帯はその後、西陣の名で呼ばれている。この戦国の世を統一して太平の世を開いた織田信長が本能寺の変で没すると、豊臣秀吉は時の正親町天皇の勅許を得て、主君信長公の御魂をこの船岡山に祀ろうとした。
以来、船岡山は信長公の大切な地として伝えられ、明治3年、明治天皇がここに建勲神社を創建された。
文部省は日本歴史の重要な舞台に、しばしば登場した船岡山の全体を指定基準に基づいて国の史跡に指定し、地形や現状を変更しない様、保護を計っている。
又、京都府は平成7年3月27日、新たに制定した京都の自然200選歴史環境部門第1号に選定した。なお、京都市は、昭和6年7月14日付にて、制定直後の風致地区に船岡山を指定した。

建勲神社





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