藤井右門邸址

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 この地に江戸中期の尊王論者藤井大和守直明(右門)の居宅があった。
 右門は播磨赤穂藩の遺臣の子で、享保5年(1720)富山県小杉町の生まれである。 京都にでて竹内式部らと交わり、皇学所教授となって公家に尊王論を説いた。
 宝暦8年(1758)幕府が右門ら尊王論者を弾圧した宝暦事件がおこり、 右門は江戸に逃れて山縣大弐の元に身を寄せ、その塾で尊王論や兵学を講義した。
しかし、幕府は明和3年(1766)ある事件にかこつけて右門と大弐を捕らえ処刑した(明和事件)享年48才。
 それから約100年右門らがさきがけとなった尊王論は多くの志士の心をとらえ、 明治維新の思想の主流となった。末孫九成、多門らもその遺志を継いで、勤王家として活躍した。
 右門の旧宅は、現同志社大学の地に薩摩藩屋敷があった関係から、 志士たちの会議連絡場所としても活用され、明治維新の史蹟としても忘れ難い。
屋敷は大正11年(1922)区画整理のため取り壊されたが大正12年(1923)右門の顕彰碑がが建てられた。




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