京都所司代阯

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京都所司代址
 ここより西方大宮通りまで(北は丸太町通り南は竹屋町)の一帯の地で現在そのほとんどが待賢小学校用地となっている。
 所司代名称役職は室町幕府の侍所に始まり、徳川幕府に受け継がれた。徳川時代の所司代は関ヶ原合戦直後設けられ、皇室、公家の監視、京都諸役人の統率、京都町方の取り締まり(町方は後は京都町奉行所が行った)さらに、近畿八カ国の訴訟処理、西国三十三カ国の大名動静の監視など、強い権限を持つもので、幕府の老中に次ぐ最重要役職であった。
 初代奥平氏の後、二代三代は板倉勝重、重宗が任じられ、特に重宗は、名所司代の誉れ高く、京都市政の根本法規を制定した。以後、幕末まで五十八人が任じられた。
 文久2年(1862)京都守護織が設けられると所司代はその管轄下に属し王政復古によって廃止された。跡地には明治3年我が国最初の中学校、京都府立京都第一中学校が建てられた。
 (京都市)




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