応仁の乱勃発地

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応仁の乱
 文正2年(1467)1月18日早朝、畠山政長と義就との争いから応仁の乱は始まった。

 始め、17日夜、畠山政長は自邸を焼き奈良成身院光宣らと兵約2000を卒いて布陣したが、畠山家の家督を争い畠山義就が兵約3000を卒いて攻撃をかけた。義就の方には、朝倉孝景・山名家がついたが、政長方ではまだ細川勝元が動かず1日の合戦の後、政長が、敗退した。同年3月には、応仁と改まり、細川、山名両陣営ともに味方を集め5月には戦時体制へと入った。

 細川勝元は幕府足利義政、義視を擁し東軍として細川一族、畠山政長、斯波義敏、赤松政則、京極持清など、24ヶ国を集め、西軍には、山名宗全を頭に、山名一族、畠山義就、斯波義康、一色義直、土岐成頼、六角高頼など20ヶ国が集まった。

 戦いは、大内政弘の加勢もあり、西軍有利に運び、西軍が京への街道を押さえ、10月には相国寺において、決戦が行われたが決着しなかった。その後、徐々に長引くとともに、周辺にも戦乱が広がり、大名の中にも国元へ帰るものも見られるようになった。

 そして、文明5年(1473)3月、西軍の山名宗全が死に、さらに、その年の5月には細川勝元がこの世を去るに及び、翌年4月には、宗全の子政豊と勝元の子政元との間に講和が成立した。





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