秦始皇とハレー彗星
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秦の始皇帝
●秦の国
 古代の中国で春秋戦国時代と呼ばれる時期がありました。七つの国に分かれて覇権を争って いましたが、結局は一際抜きん出た「秦の国」が勝ち、 ついに中国最初の統一王朝「秦」が出来ました。

 世界で初めての官僚による中央集権国家でありましたが、そう、 まだ300年あまり時代の先取りの国家体制でありましたので、秦の国は短命に終わり、 もとの古い体制である王侯貴族の国家「漢(前漢)」に取って代わられました。

●始皇帝
 さて「皇帝」と言う名前を作った「秦の始皇帝」とハレー彗星とのかかわりを見ていきましょう。

 「秦の始皇帝」の記述は、歴史の父とも呼ばれる司馬遷(しばせん)の「史記(しき)」に あります。その史記は「五帝本紀」の中の「秦本紀」に ハレー彗星の記述があり、ハレー彗星の正式な記述としては これが世界最初のものとされております。

●記述
 合戦の合間に彗星の記述が挟まっている形でありますので、その部分をカットして 以後お話を進めることに致します。

●秦対連合軍
 時は「秦」に「韓・魏・趙・衛・楚」の五カ国の連合軍が、 攻撃を開始し「寿陵(陝西省臨潼県東北)」を取り、 秦が出兵した年から彗星の記述があります。

●場所と時間
 場所・・・が困りましたね。広いんですもの(^^; 細かい事は抜きにして取り敢えず ステラナビのデフォルトである西安で行きましょうか(^^;

 時間・・・が困りましたね。広いんですもの(^^; 地方標準時(+8時間)で表示する事にしましょう。

●彗星の遡及不可能時代
 彗星は質量が小さいので、他の惑星や小惑星の重力の影響を大きく受けます。 特に大きな外惑星のそばを通った場合には、彗星は大きく軌道が変わります。 そこであまり過去に遡りすぎますと、誤差が大きくなり計算では算出する事はできるが、 それは正しい位置ではないと言う事が起こってきます。

 今回の「秦始皇とハレー彗星」の項目は、この彗星の軌道が遡及不可能な時代に当たりますので、 以下の項目は仮にたまたま計算と合っていた事を前提とした 「仮のお話し」となります。

 史記にはこの前後数年に渡り色々と彗星の記述が出てきますので、決め手に欠け、 実際にどれがハレー彗星だったのかは不明であります。


記述
●史記の記述
 七年、彗星がまず東方に出て、ついで北方に現れ、五月西方に現れた。(中略) 彗星がまた西方に現れた。この月の16日、夏太后が薨じた。 史記・始皇本紀第六より
七年、彗星がまず東方に出て、ついで北方に現れ
 うむむ、ブラウザで画像表示するとダストテールが良く見えなくなってしまいますね。 それはともかく(^^;

 秦の始皇帝が即位してから7年ですから紀元前240年と分かります。 5月に西方に現れた前に、東方に彗星が現れていれば良いですね。 当時の暦で行きますので、5月とは旧4月ぐらい。

 すると東の空、明け方にハレーが約0等星で出ています。記述どおりですね旧4月16日辺りが 昇降点ですね。ユリウス暦ですとBC240年5月26日ぐらいです。
 ハレー彗星は東に現れ、徐々に北よりに出現し、BC240年5月26日に最高高度になり、 段々太陽に近づいてしまうので、見えなくなります。つまり史記の記述と一致しますね。

 彗星の尾は大きく2種類あり、イオンの尾であるイオンテールが青っぽく ほぼ真っ直ぐで、太陽の方向に向いています。もう1つは塵が太陽風に吹き流されているダストテール で白っぽく曲がっています。  

五月西方に現れた。(中略)彗星がまた西方に現れた。
 今度も史記の記述どおり西にハレー彗星が現れました。最初は北西の方角でしたが、 次第に高度を上げながら西に上がり旧5月中ごろには昇降点となりますね。

この画像はBC240年6月11日の時点です。

 ただ記述と違うのは、西に出現した後、見えなくなり、再び見えたように書いてある事です。 恐らくは曇り或いは雨などで見えない時期があったためであると思われます。
 東の明け方から、西の夕方に彗星が移動する間、一時期見えなくなるのは、 地球から見て彗星が太陽に近づきすぎるため、太陽のほうが明るくて見えないためです。


違う彗星か?
●大彗星?
 九年彗星が現れ、時に天空いっぱいに広がった。
●ハレーの軌道
 さてこの彗星の記述はハレー彗星ではないですね。 地球と太陽の間を、地球の進行とは向かい側から来るハレー彗星がすり抜けて行くのは、 一回だけですので、再び見えるのは約76年後になるからです。

 最初の内は東の空に見えて、段々北よりになり、一時見えなくなり、それから 北西の空に現れ、次第に光度を下げながら、光度は上げながら西に向かいます。 
 昇降点を通過した後、少し北側に移動しながら、光度と高度を下げながら見えなくなります。 図の通り、ハレー彗星が太陽と地球に接近するのは、太陽と地球を通り過ぎる時に水星軌道の 内側に入るだけで、あとは両者から離れて行くのですから、この9年の大彗星はハレー彗星ではないですね。


歴史
●この頃
 秦は他の国に比べずば抜けた力を持っていました。 そこで秦以外の国を全て連合させ、秦に戦いを挑もうとしました。この時の両方の宰相は 同じ門下生の実力1番と2番でありました。

 どうみても連合不利でありましたし、秦の実力1番の宰相は諜報を専門としますので、 ま〜勝負は秦に大きく歩がありました。

 さてこの連合の試みが失敗した後、「韓」が秦を倒し、他の国よりも一歩抜きん出ようとしました。 さて大きな秦をどうやって倒すか。この時「韓」から「秦」へ工作に向かったのが、 筍子の弟子で、法家で有名な韓非子(かんぴし)です。

 韓非子は秦の国力を弱めるため多大な出費をさせようと、秦の国へ灌漑を進めに行きました。 秦は今の四川省(蜀)であったので、いつも兵糧に苦労していました。韓非子が秦に出向いたのが 始皇帝の即位10年目でしたので、ハレー彗星が来た年の3年後と言う事になります。

●三国志
 この時の灌漑事業のおかげで「蜀」は豊かな土地となり、孔明の遠征に 一役買う事になります。いまでも重要な役割を果たし、大きな水車などが残っております。

参考引用文献

  1. 史記1 本紀/司馬遷/ちくま学芸文庫/シ21/ISBN4-480-08201-8
  2. 史記2
  3. 司馬遷/世界の名著11/中央公論社
  4. 小説十八史略(一)/陳舜臣著/講談社文庫

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