キトラ古墳の星宿図1・緯度
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●キトラ古墳とは

●キトラ古墳
 キトラ古墳は7世紀末から8世紀初めに作られたと考えられておりまして、 奈良県明日香村大字阿部山小字ウエヤマ136−1にある上段が直径約9.4m・下段が直径約14m・ 高さ3.3mの円墳であり、埋葬者は不明です。天武天皇や持統天皇の墳墓の近くにあるので、 天武天皇の皇族の関係者では?と言う見方も出ているようです。
●石室
 平成10年3月6日にファイバースコープによる調査が再開されまして、 その石室には神獣鏡でもおなじみの四神獣 「青竜(せいりゅう)」「玄武(げんぶ)」「白虎(びゃっこ)」 「日月(じちげつ)」・黄道や赤道を示す四重の円上の「星宿図」が 描かれていることが発見されました。

 当初星宿はとても詳しいという報道でありましたが、 ここから先は星が見えない範囲を示す「外規(がいき)の円」が小さすぎることが再確認され、 「精密な天文図」の発表が修正されました。

●星宿(せいしゅく)

●二十八宿
 新月→上弦→満月→下弦→新月などの月の周期は、 数え方にもよりますが約27〜29日の周期になります。

 また、天空の中で月の通り道を特に「白道(はくどう)」と言いまして、 古代中国では、この白道に接する古代中国で使われていた星座に、 月が1日1宿ずつ28日かけて宿ると考えたのです。これが二十八宿です。

 しかしこの二十八宿は、天を正確に二十八区分したわけではないので角度は一定ではないのですね。

●星宿
 さて、上記で「古代中国で使われていた星座」と書きましたが、 これを古代中国では「星宿」と呼びます。 つまりキトラ古墳では星座が赤道円などと一緒に描かれていたわけです。 ありていに言えば「天文図」が書いてあったわけです(^^;

 キトラ古墳は誰のお墓か?は、他に方にお任せするといたしまして(^^;
この天文図から何かわからないか、考えて見ることにいたしましょう。

 古い時代のなにがしかの資料を模倣(高松塚古墳と下絵などが似ているらしいですね) したとも考えられますので、 石室の星図から年代を特定することは無理であるようです。 惑星が描かれていれば、ほぼ時代が特定できると思いますが

 では・・・きばってみますか(^^)/



緯度の計算
●38〜39度の緯度
 中間の発表では星宿図は北緯38〜39度辺りでの観測が基になっている天文図で、 なかでも「外規」が小さ過ぎるとの事でしたので、まずそれを検証して見ることにしましょう。

円図  内規は、観測者が北を向いて、天の北極(ほぼ北極星の辺り)から、地平線まで 真っ直ぐ線を引きます。これを半径として、夜空の回転と同じく北極星を中心に ぐる〜と描いた円を言います。内規の中の星は地面に触れないので沈まない星なのですね。

 この場合観測者のいる緯度と、天文で使う赤緯は同じに扱って良いので、 ここから観測者のいる緯度が割り出せそうですが、なにせ書いてある星宿が フリーハンドなので(^^;良く分からない。では別の方法が必要ですね。


 赤道は、北極と南極を線で結んで、その真中から垂直に伸ばした線が、 地球にガリガリとぶつかる部分ですね。それはほぼ地球の円周になるわけですね。 ここで地球(正確には天球)の大きさが分かります。

 黄道は、天空の中での太陽の通り道で、赤道に対し23.45度傾いています。 これも赤道と同じくほぼ地球の円周になるわけですね。そして球の大円である赤道と黄道が 重なる点が2つあり、それが「春分点」「秋分点」になるわけですね。 黄道のお話は後ほどする事にいたしまして、次!

 外規は、内規の反対。観測者が南を向いて、南極から地平線までの半径で、 南極を中心とした円。つまりいつも地面の下にあって見えない星であるわけです。

 注)キトラの項目は内規に北斗七星が描かれているので 北半球を前提としてお話を進めています。

●円の比
 では内規・赤道・外規の比率から緯度を割り出して見ようと思います。 高校の地学などで習う周極星の式を星宿図用(赤道座標正距離方位図法)に変更します。

内規径:赤道径:外規径=緯度:90:180−緯度

 注)天球と呼ばれる考えをします。観測者は地球の中心にいて、真球の地球に映った星を 見ると考えるのです。

 この考えでは、 内規は観測者のいる緯度と等しい。赤道は地球の中心から見て北極との角度は90度。 外規は北極から南極までは180度で、地平線まで戻るのですから−緯度となります。
 この比では計算しにくいので緯度を割り出すように式を変更します。

内規と赤道の比 (内規径*90)/赤道径=緯度
赤道と外規の比 (赤道径*180-外規径*90)/赤道径=緯度
内規と赤道の比 (内規径*180)/(内規径+外規径)=緯度

●キトラ古墳学術調査報告書より
 キトラ古墳学術調査報告書には内規180mm・赤道425mm・外規640mm(CM表示)とあります。

これを上記の式に当てはめた結果は次の通りです。

内規赤道比北緯38.11764705882353度。
赤道外規比北緯44.470588235294116度。
内規外規比北緯39.51219512195122度。


緯度の決定
●外規の考察
 上記の表の3つの比がそれぞれバラバラであるので、 それぞれの円の精度は良くないことが分かります。 おっと待った(^^;  報告書には38.4度とあります。ほげ?大気差か?

 大気差が星宿図に考慮されていないとしたら、大気の浮き上がりで内規が大きく 描かれた事になるので、実際には大気差の分だけ高い緯度の観測地であることになりますね。  視高度0度とした場合大気差は約0.57度です。径で考えているので 北と南合わせて約1.04度とすると、ほげ?

 これはファイバー・スコープで斜めに写った画像を完全に元に戻せなく 「赤道径」が東西と南北では違い正確な円ではないとの記述があります事と、 内規円がかすれていて判定が難しかった事が報告書に書かれているので、 合わない原因はこれですね。報告書の図ではわざわざ南北に線が引いてあるので、 その写真から再計算して見ましょう。

キトラ古墳学術調査報告書の写真より
 報告書に掲載の写真を測ると内規42mm・赤道98.5mm・外規150mmでした。

これを上記の式に当てはめた結果は次の通りです。

内規赤道比北緯38.3756345177665度。
赤道外規比北緯42.944162436548225度。
内規外規比北緯39.375度。

いたいた北緯38.375度
 赤道外規比からの北緯42.94度は、モンゴル高原の南側などが該当しますので、 この天文図を観測した場所としては、高緯度過ぎてまずありえないことでしょう。 そうすると赤道径か外規径の少なくとも片方は正しくないと言うことになります。

 内規外規比北緯39.375度は、観測地の候補としては 427年以後高句麗の首都となった平壌が北緯39度があり、 北魏が501年に遷都する前の平城北緯40.1度があります。 但し天文図が描かれていた明日香(北緯34.5度)でそのまま採用するには、 高緯度のままである欠点があることになってしまいますね。 わかんなかったのかな?

 ここから仮に「内規外規比」「赤道外規比」の何れも高緯度過ぎると考えれば、 両方の比に含まれる外規の大きさが良くない・・・ つまり外規円が小さいために 高緯度となってしまうのではないかと考えることができると思います。

[例:(内規径*180)/(内規径+外規径)の分子が小さくなってしまうため高緯度になる]
[例:(赤道径*180-外規径*90)/赤道径の分母が大きくなってしまうため高緯度になる]

緯度の決定
 では仮に外規が入っている比は使えないとしますと、残るは内規赤道比のみになります。 すると必然的に北緯38.37度・つまり報告書の38.4度の数字が出てきます。 長安の34.2度や洛陽の34.6度には少し外れています。恐らく星宿図の基となる観測は、 首都付近(星占に使われたので天子などに報告の義務があるので、あまり首都から離れているとは 考えにくい)であると考えますと、適当な場所がないのですね。

 ハハ困りましたね(^^;つまり計算で割り出すほどの正確な天文図ではないことがわかります。

 内規赤道比は実際に目に見える部分ですし、直接的に一番測定がしやすいことを考えれれば、 内規赤道比の北緯38.37度が、単なる計算結果としては一番妥当な線と言うことになりましょう。 他の後世の天文図でも外規の大きさが適当でないケースもあるので、ま〜北緯38.37度・・・ う〜ん。緯度の計算ではだめですね(^^;


参考資料
円の比率
 西暦1247年に中国で書かれた淳祐天文図を上記の式で計算してみます。 内規20.0赤道52.5外規85.0との事ですから、内規赤道比34.2857度。赤道外規比34.2857度。 内規外規比34.2857度。と見事に一致しています。
計算式
 比と淳祐天文図は★客星さんに 教えていただきました。また麦星さんには円の算出方法がr=R CosΘではなく、 あくまで比で計算すると教えていただきました。次の黄道の描き方も同様です。


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