日本書紀や古事記に書かれております「天の岩戸」のお話は、江戸時代に荻生徂徠が、 皆既日蝕を物語として伝えたのではないかと考えたのが初めであるようです。
この「天の岩戸」に出てくる「天照大御神は卑弥呼」ではないかという説があり、また、 その卑弥呼は日蝕の予報が外れて殺されたとする説もあるようです。ここでは「天の岩戸」「天照大御神は卑弥呼」「日蝕の予報が外れて殺された」が 事実であると仮定しまして、では実際に皆既日蝕は起きたかを追検証して遊んで(^^; みようと思います。
あと2つ大事なことがありまして、大変に古くに遡りますので計算誤差が大きいことと、 皆既日蝕が見れる天候であったかは不明であることが注意事項です。
日の神である天照大御神(アマテラスオオミカミ)には、素盞鳴命(スサノヲノミコト)という弟が おりました。この弟の素盞鳴命は大変な乱暴者で手がつけられませんでした。素盞鳴命の悪さで天照大御神に仕えていた機織女が死んで、天照大御神も怪我をしてしまいました。 怒った天照大御神は「もう二度と素盞鳴命の顔も見たくない」と「天の岩戸」に隠れてしまいました。
日の神が隠れてしまったので、下界も、神々のいる高天が原(たかまがはら)も真っ暗になって しまいました。それは大変だと神々が集まり相談し、三種の神器などをこしらえて、天の岩戸の前で 踊ったりして大騒ぎをしました。
天の岩戸に隠れていた天照大御神(アマテラスオオミカミ)は、世界は真っ暗になっているのに なんで皆は楽しそうに笑っているのだろうと不思議になり、天の岩戸を少し空けて様子を見てみました。 天照大御神は佃女命(うずめのみこと)に「何事か」と聞くと、 「あなたより何倍も尊い神が現れたので、今までよりももっと明るく輝いています」と答えました。
そして大玉命などが捧げ物の鏡を見せたので、天照大御神いよいよ怪しく思い、 もう少し岩戸を開けて様子を眺めていたところ、隠れていた手力命が天の岩戸を開け、 天照大御神の手を引き天の岩戸から出して、大玉命は天照大御神がもう天の岩戸に入れない様に、 綱をかけました。
こうして「日」を取り戻した神々は、素盞鳴命(スサノヲノミコト)に沢山の賠償を払わせるなど して、素盞鳴命を下界に追放しました。
卑彌呼(ヒミコ)の記述があります「三國志・魏書(巻二十)東夷傳・倭人」:通称「魏志倭人伝」には 「・・・名は卑彌呼と曰う。鬼道に事え、能く衆を惑わす・・・」 として登場します。他の書にも卑彌呼の記述がありますが、大体この「魏志倭人伝」が元になっているようであります。 魏志倭人伝にはなく他の書にはあると言うような記述もありますが、ここではこれらの書の 追求は置いておきます。
「魏志倭人伝」の最後の方の記述で、正始8年(AD247)に女王卑弥呼は、狗奴國と戦いをしている 記事がありまして、その記事に続くのが続かないのか曖昧な所がありまして、「卑弥呼以って死す。」 とあります。「以死」を「すでに死す」との解釈もありますので、247年か248年の出来事であると 読むことはできましょう。また「北史」には「正始中(AD240-248)卑弥呼死す」とありますので、調べる範囲を 240−248年と年数を広げた方が良さそうですね。
いわゆる邪馬台国の「九州説」と「近畿説」が有名どころなので、場所は 仮に「奈良」と「福岡」の2地点としましょう。
奈良県奈良市
地平線 日付 蝕最大時 離隔 地平線下 AD240/02/10 23:56 0゚27' + AD240/08/05 15:50 0゚26' 地平線下 AD241/01/29 23:39 0゚15' + AD241/07/26 06:00 0゚47' 地平線下 AD242/01/19 01:30 0゚46' + AD242/06/16 05:45 0゚51' + AD243/01/08 11:08 0゚55' + AD243/06/05 08:28 0゚19' + AD243/11/29 17:02 0゚56' + AD244/05/24 10:44 0゚21' + AD244/11/18 03:57 0゚08' + AD245/11/07 13:39 0゚20' 地平線下 AD246/04/04 00:27 0゚22' + AD246/10/27 15:04 0゚58' 地平線下 AD247/03/24 18:29 0゚01' 地平線下 AD247/09/16 22:24 0゚60' + AD248/09/05 06:03 0゚02' 福岡県博多区
地平線 日付 蝕最大時 離隔 * AD240/02/11 00:02 0゚24' + AD240/08/05 15:48 0゚23' * AD241/01/29 23:45 0゚17' + AD241/07/26 06:00 0゚47' * AD242/01/19 01:35 0゚49' + AD242/06/16 05:45 0゚50' + AD243/01/08 10:59 0゚55' + AD243/06/05 08:20 0゚17' + AD243/11/29 17:01 0゚56' + AD244/05/24 10:31 0゚21' + AD244/11/18 04:00 0゚09' + AD245/11/07 13:29 0゚21' * AD246/04/04 00:32 0゚24' + AD246/10/27 15:00 0゚59' * AD247/03/24 18:30 0゚00' * AD247/09/16 22:31 0゚60' + AD248/09/05 06:02 0゚03'
上記の表の内、天の岩戸に隠れ真っ暗になったというので、離隔が1桁になり皆既食に 近いものを選びますと西暦244年11月18日になりますが、食が最大のときが明け方の4時なので、 まだ東の地平線下になりまして、太陽が昇る時には食は終わっているので、 これは除外することに致します。
食が最大97%ほどにもなる日蝕ですが、時間が夕方の6時半です。つまりこの日蝕は欠けながら 沈んでしまう日蝕になります。食のときの太陽の高度が低いのですが、そのまま夜になってしまう のがとても印象的な食であったでしょう。左の図のように、皆既日蝕帯は終わってしまっておりまして、日没になってしまう上に、 高度が約2度と気象条件や辺りの地形が良くないと、見えにくい日蝕です。
この日蝕の場合地平線すれすれなので、盆地や西に山や木または建物など のあるようなところでは見えないでしょうね。
この日蝕が見える場所であるなら日没後、 水星が高い位置にあるので金星と伴に見えたことでしょう。更に上方には木星もあります。欠けたまま沈み、夜になっていくので、お話の通り、日蝕で欠けたまま夜になってしまいますね。 おまけに月齢は29.1なので月は出ず闇夜になります。
ま〜日蝕が起きるときは月齢0の新月で、かならず闇夜となりますね。
やはり大変に深い食となりますが、蝕の最大時は朝の6時頃で、太陽が地平線近くで赤いときは まだ欠けておりませんが、すぐに欠けだして昇ってくる 食となります。これも大変に印象的な食でありましょう。左図のように皆既日蝕になる地帯は日本海から関東北部を抜け太平洋に走っております。
木星が現れたあとに、太陽が昇ってきます。食が最大になった後、月の重なり具合から、東を向いているとして、まず上部が輝き、 すぐ右側に輝きが移り、ついで右上部が輝くようにして、徐々に食が戻ります。
オリオン座、おおいぬ座が昇り、とも座があがりはじめてたころに、 木星と水星がしし座で昇り始め、ついで薄明が次第にはっきりし始め、欠けた日が昇り始め 数分で食が最大となりますね。大気で赤く大きい太陽から直ぐに皆既になるわけですから、 とても印象的であったでしょう。
本当かどうかを別にすれば、夜明けの日蝕の方がカッコいいですね(^^;夕日が日蝕なるとすれば奈良盆地は条件的には不利ですね。多分山に遮られ見えないでしょう。 ま。山に矢倉などを立てていれば見えるでしょう。卑弥呼は斬新なシャーマンとして「共立」 されたわけですから、地方の王も皆見えたことが重要とすれば、朝日の皆既食のほうが 衝撃的でしょう。
天の岩戸の伝承からすれば、新月で真っ暗な中から、薄明に続いて、 一時深く欠けて徐々に戸が開くように日食が回復しながら、 日が昇るわけですから、伝承に似た状態ではありますね。 ついでに朝日の皆既食の後から金星が昇ってきます。薄いですが見えますね。
え〜雑談を(^^;日蝕の予報が外れてと良く聞きますが、まだその説は本で見たことないので推測で書きます。
予報とは何なのだろうと考えますと、暦算を修正出来るほどの高度なものではないきがします。 恐らくはサロス周期のことと思われます。
サロス周期とは日蝕の周期の事で次のような関係があります。
- 19食年---------- 6585.7866日
- 223朔望月------- 6585.3213日
- 239近点月------- 6585.5377日
過去に日蝕が起った日から数えて6585日(18年10日ないし11日)数えると、 その日がまた日蝕になると言うことです。 当然太陽暦は使用していないでしょうから、朔望月(新月から新月・・・この場合は満月から満月か?) を223カウントすれば良かったはずです。
ただし朔望月で0.3213という端数がありますので、 えっと平均で8時間ぐらいずれますね。そして西に約120度位置が移動することになりましょう。
- 274/03/24の1サロス前
229/03/13は「太 月 AD 229/03/13 08:09 0゚34'」で日蝕あり。- 248/09/05の1サロス前
230/0826は「* 太 月 AD 230/08/25 23:33 0゚19'」で日蝕あり。ということは1サロス前から数えれば・・・数え間違いがなければ予想は当たるはずですね。 248年の場合は前のサロスが23時33分でしたので、日付が1日ずれてしまいますが、 予報が外れたとはこの事なのでしょうか?
サロス周期は誤差が溜まるので数回しか使えません。 もっと前のサロスでしたら何処までが有効かですね。面倒なのでまた今度ね(^o^)/
あと予想が外れるのは「時間」と「日蝕の種類」でしょうね。でも江戸時代だって日蝕の 時間予想と皆既とか部分日蝕とか金環食などの種類は当たらなかったのですから、 これじゃ〜ないでしょうね。それとも地平線下で起きたAD247/03/24とかAD247/09/16の日蝕の事でしょうか? 全部試してみるの時間がかかるのでまた今度ね(^^;
それとも上の図の日蝕は欠けたまま沈んで、欠けたまま出てきたから、 2つの日蝕で1つかな?でもそれならその期間ズート太陽がでないことにならないと いけないから違いますね(^^;
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