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徒然山

登山史に関するメモと、
私が登山に関連して勝手に思うこと

なぜ山に登るのか

「なぜあなたは山に登るのですか?」

過去から現在に至るまで登山家、というよりは山に自らの意志で登ろうとする人間(ここでは登山愛好家と呼ぶ)に対してこの質問はいったい何回繰り返されたのだろう。登山家と呼ばれる人たちにとっては最もうんざりする質問だろう。

スポーツ≠登山?(登山愛好家の場合)

登山をスポーツの一つとして考えたとき、 テニスが趣味の人に「なぜあなたはテニスをやるのですか?」とはなかなか聞かないし、聞いたにしても「好きだから」で会話は終わってしまう。 しかし、私自身も登山愛好家であることを友人に告げたときに、半数は「それは楽しそうですね」という反応をしてくれるが、残りの半数は「なぜ登るのですか?」という質問を受ける。何を隠そう私も山に登るようになる前は、「何で登るんだろう?」と素直に思っていたものだ。。。

登山が一般的なスポーツと違っているために上記の質問を引き起こすと思われる原因は、以下の2つだろう。

  1. 過去に学校の遠足などで強制的にやらされた影響で、「人間にとっては体力的につらいものである」という印象が強い
  2. 冬山での遭難や、落石・滑落による事故など身近なスポーツよりも生命の危険が大きい
第1点目の「体力的なつらさ」は学校で行う集団登山の短所としてあげられるのでは。「趣味でテニスをやっている人」と「部活動のテニスの練習風景」を比較すれば容易に想像できる。強制されなければ楽しく感じる可能性は十分にあるだろう。
とはいえ、実際に学校以外で初めて登るときというのは大抵「山好きの人に引率してもらう」というケースが多いので、この山好きの人が、初心者のための登山の楽しさとペースへの配慮を怠る(実際知り合いのただの山好きであってそのような配慮を身につけていない人も少なくないようだ)と「登山はつらいもの」という固定概念が強化されるようだ。登らされる側は山の名前さえも把握していない場合が多いので、登ったときの素晴らしさよりも、体力的に容易に登れるようなプランを立てた方がよいのかもしれない。

「体力的なつらさ」と考えたときに、地上のスポーツなどでは疲れたら休めばよいし、本当につらくなったらやめればよいけど、登山の場合は「どうしても自分の足で歩かなければいけない」という義務感がよくないのかもしれない。 「自分の足で歩くからこそ素晴らしい」とする意見も多いので難しいところだが、最初くらい同行する体力のある人に荷物を持ってもらったって構わないのではないだろうか。荷物が軽くなれば本当に登山は楽になる。ポーターを雇わない海外登山隊なんて少ないだろうし、ネパールに行けば一般登山者だってポーターを雇うのが普通(私もそうした)だ。登山パーティーとして必要な装備を持っていれば危険ではないだろう。

第2点目の「危険なスポーツ」という点に関しては、登山の分野に大きく依存する話だけど、日本国内の多くの登山愛好者が楽しむスタイルに関しては他のスポーツに対してそれほどの大きな危険性があるようには見えない。それよりも、電車でいけるところでも時間や手間の節約のために自動車やバイクで移動することの方が今の日本でははるかに危険だと思う。

しかし、危険もまた楽しい。モータースポーツも同じ。 実際、過去においてモータースポーツも登山と同じように「命を大切にしない遊び」という面が強かった。
この楽しさを求める時にある程度の危険は必要不可欠なのかもしれないが、 私の価値観では、剣岳のカニの横這いをザイルをつけずに雨の中通過するよりは、 インドアのフリークライミングで次のホールドに一か八かで飛びつく方が、 落ちる可能性も楽しさも大きいが、重大事故になる可能性は小さいと思う。 つまり、危険を求める楽しさと言っても私のように「落ちるかもしれないというどきどき感」 が好きなだけで、「本当に重大災害の危険を冒すこと」が好き (という人がいることは全く否定しない)な人は意外と少なくて、 それに合わせた形態を選べばより安全(完全な安全はやはりないだろう) に楽しむことは可能だと思う。

登山家はなぜ登るのか

エベレストの頂上へのアタックのまま消息をたったマロリーの有名な返答 「そこに山があるから」 という言葉の意味は世間一般には単純に考えられているようだが、 実際のところ彼は海があってもそこに命がけで潜ったわけでもなく、 優秀な登山家であった彼の言葉を、 私程度の登山愛好家が理解するのは険しい。

8000m峰14座全てを無酸素で登った超人メスナーは「登山とは生きることと等価」と言っている。 つまり、人間が生きることに理由がないように、 彼が山に登ることに理由はいらないそうだ。 「登山は楽しい時を過ごすための手段である」 程度に思っている私にとってこの言葉は奥が深すぎる。 メスナーは「登山はスポーツではない」としてオリンピックの特別メダルを拒否しているので、私の考えも含めて一般的な「登山はスポーツの一つ」という考えは彼には否定されている。現在の人工壁クライミングなどをスポーツと考えないのは難しく、結局メスナーの登山や私の登山などをひとまとめに考えること自体難しいのかも。


何のために山を登るべきなのか

創造的であれ

山を登る人間への課せられた使命として「創造的冒険行為でなければいけない」という風潮がある。この使命に基づくが故に「深田という作家が選んだだけの山に登る百名山ピークハンティングは本来の山の楽しみ方ではない」という意見が堂々と口にされる。

テニスを遊ぶのに創造的なルールを考えなくても、普通は何も言われない。 もちろん、プロテニスプレーヤーなどのレベルになれば自分なりの他人に無いものを武器として考案したり、身につけたりする必要があるが、登山という分野においては全くの初心者に対しても「創造的行為でない」ことを理由に否定的な意見が存在する。

「何らかのブームが始まる以前からのファンが、ブーム自体を煙たく思う」という一般則が「百名山登山ブーム」においても発生しているだけ、とも見えるが、 「創造的でなければいけない」という固定概念も、なかなかどうしてかなり創造的ではない、と私には感じられる。

「沢登りというのは昔は岩登りの練習だから濡れてはいけない、 などという堅い考えがあったが今は自由に好きにやればいい。 それが沢登りの素晴らしさだ」などと本に書いている人間が、 「磁石を使って地図を読めない人間は山に入るべきではないが、 高度計やGPSを持って入るとつまらなくなるからダメ」と言い切る。

自己資金のみ

植村直己が冒険のために広く一般からお金を集めたことに関して、 「冒険を金で売った」という批判があったそうである。超人メスナーに関しても「彼の偉業は認めるがスポンサーなどがいなければもっと素晴らしい」などと言われたらしい。 ヒマラヤへの登山隊の多くがやっている「給料の安い現地ネパール人を金にまかせてポーター、ガイドとして雇い、彼らに荷揚げをさせておいて頂上にたつのは自分たちだけ。登頂記録もネパール合同隊ではなくお金を出した国の名前だけ」という行為は「冒険を金で買ってる」わけではないのだろうか。 自分で稼いだ金で行くのはいいことらしいのだが、 もとからの金持ちだけがチャレンジできることが理想なのだろうか。

登頂にこだわる

「百名山ハンター」とともに否定的な響きの単語として「ピークハンター」という言葉がある。頂上にたつことだけを目的とした人々をさす言葉である。 なるほど、私も羅臼岳の登山口で雨の中登る準備をしている人たちを見て「なんでそうまでして登るの?」と思ったものだ。

主に初心者登山愛好家に対して使われる言葉であるが、 有名な登山家ダグ・スコットは最近の登山隊が頂上だけに執着することを嘆いているほどなので、上級なレベルでも同様に問題らしい。 しかし、ダグ・スコットの場合には危険になることを心配しているのに対し、 ピークハンター否定者は単に自分の楽しみ方と違うことを問題にしているように見える。 人がどのような形で楽しもうと、 他人に迷惑をかけないのであればその人が楽しいことが楽しみなのだ。

頂上への執着を「狭い視野」と考えているようだが、 当人が「広い視野」を持ちたくなったら持てばよいわけで、 自分が十分な「広い視野」を持っているなどと断言できる人間は 「狭い視野」の持ち主だと思う。


何をもって記録とするか

登山家、冒険家という人種の中で世間からのコンセンサスを得ている人は少ないので、他人の評価を完全に無視して、己のこだわりで登っている人がほとんどに見える。 しかし、そういう登山界で記録が重んじられているのも事実に見える。
一般登山愛好家に関しては単なる趣味と考えられるので、他人にどう評価されるかは(たまの雑談で漠然と自慢すること程度以外には)基本的に気にしない人が多いようだ。

大陸最高峰

植村直己は5大陸最高峰に最初に登頂したことで高い評価を得ている。 当時のヨーロッパ最高峰はモンブランであったがソ連が崩壊した今はエルブルースらしい。植村さんはその後登っているが、最新のヨーロッパ最高峰という自覚はあまりないように書いてある。

7大陸などになると、オーストラリア大陸も含まれるが、それはオセアニア最高峰ではないのですぐそばのマウントクックも含まれない(実際はクックよりも高い山(カンステンツ・ピラミッド)がパプアニューギニアにあるらしい)。
ヒマラヤと比較した難易度を考えるとキリマンジャロ、モンブラン、アコンカグアはそれほど大変な山ではないようだ。 植村さんの記録は、 政治的に世界の山が解放されていなかった時代 だったことと単独であるからこそすごいことなのだろう (実際当時は5大陸最高峰を登ったことで評価の対象となって賞ももらっているのだから)。

ヒマラヤ

難易度と考えると、ラインホルト・メスナーはヒマラヤ8000m峰14座に無酸素で登っているのだから、やはり超人なのか。 ただ14座を登ったわけではなく、毎回課題を決めて、新しいスタイル「さらに1歩先へ進めること」で挑んでいた。 確かに創造的冒険行為というにふさわしい。 メスナーは本当に14座一番のりにこだわりはなかったのだろう。 こだわっているのであれば初登ルートなどで登った方がもっと楽なのは分かっている。
彼が優秀なクライマーだと言われる最大の根拠は 「今でも彼が山で死んでいないこと」。 ヒラリーもメスナーが躊躇無く撤退を決意することを評価している。
ただメスナー本人も言っているように8000m峰というのはメートル法だからであって、本来の山としての価値に基づいた区切りではない。これは国内の3000m峰に関しても同様。

難易度は高度のみによって決まるものではなく、 K2の方がエベレストよりも難しいと言われている。 実際強力な登山隊でないと挑戦が難しいために、その数も少なく、 メスナーでさえもアルパイン・スタイルでなく(ただし非常に小さな規模で)、 普通のルートで登頂した。 ナンガパルパットは魔の山と呼ばれていて、その成功率は38%(とはいえエベレストも登頂率は41%)。

一般への知名度という点で考えると、エベレストに比べてK2を知っている人は非常に少なく(富士山を知らない人はいないが北岳の名前も聞いたこともない人がほとんど)、 世界3位以降の山の名前を知っている人は山好きの中でもほとんどいない。 それに関係あるのかは分からないが、 エベレストの登山隊の数が他の8000m峰のそれぞれの登山隊の数の倍近い数となっている。

カンチェンジュンガ初登頂では宗教上取り決めにより数歩手前で撤退。 しかし、登頂とは認められている。
8000m峰に挑戦した隊の数として最も多い国は日本。

どのように登るか

無酸素で登る、ということはより人間として援助を受けない、 ということで評価を得ているが、 だからといって服を着ないで登ったりはしない。

危険な登山において単独で登る場合には、 (確保をしてくれる人がいないために)何倍もの時間と労力を必要とするので、 高い評価を得る。
エベレストにベースキャンプから24時間以内往復などといった登頂時間の記録もある。アルプスでも同様に3大北壁24時間(こちらの方が先?)などといった記録が見られる
1982年に3つの8000m峰をたてつづけに登った行為は、 ハットトリックと呼ばれている。

高峰を登る際に、 当初は南極探検で使われた極地法(ポーラーシステム)が用いられたが、 最近はアルパインスタイルで登る形が現れ、高い評価を得ている。 ダグスコットは日本隊が力はあるにも関わらず、 現在でもポーラーを好みすぎるのを嘆いていた。

登頂

現在の登頂の記録では下山時に死んでしまっても登頂と見なされる。 これについては以前に山と渓谷に提案などが載っていたが、 私としては「死んでしまっては記録にならない」 とすることによって果敢に登って死ぬ人が減ればいいのに (ほんとに減るかは非常に怪しい)、と思っている。

K2初登頂では登山者の名前を長い間公表しなかった。 登山隊の登頂であって個人の力ではない、と言いたかったようだ。
植村直己は未踏峰に登頂後、 自分が準備などに参加してないのに名誉を受けるのを苦にして隊と一緒に帰国しなかったが、 実際は隊にさらに迷惑をかけているのだから、ちょっと困ったものだ。

ヒマラヤでは高所ガイド(シェルパ)が一緒に登頂したりしても、 登頂はそのシェルパを雇った国(隊)のものであって、登頂リストに載っていなかったりする。 ただしエベレスト初登頂のテンジンは特別で、 隊員として扱われていたので「初登頂はヒラリーとテンジン」ということになっているが、 これは例外だろう。


何が真実なのか

マロリーがエベレストの頂上に立った証拠は未だ無し。 証拠がないのだから頂上に行けなかった、と考えるのが自然だと思うのだが。。。
トモチェセンの南壁単独登頂は疑われている。

当時は無酸素で8000m峰の頂上までいくと脳障害を起こすと言われていたので、 メスナーはエベレストを無酸素で降りてきてもしばらく信用されなかった。 メスナーのことだから写真などの証拠はたくさん見せたとは思うのだが、当時の医者たちは無酸素登頂が多数行われるようになるまで疑っていたらしい。


何が危険なのか

ロック・クライミング、フリークライミングなどに関して多くの一般人は 「そのような危険なことをしないとその場所(頂上など)に行くことができないので、やむを得ずやっている」と思っているようだが、 実際現在行われているクライミングのほとんどは、最終地点に到達することではなく、その課程を目的としている。 以前にTVでフリークライミングの特集があったときに、難易度の高いルートの開拓のために、壁を裏の道から登って上からぶら下がりながらルートを探したりしている映像を見て、初めてゲストや回答者が「このスポーツはその壁の上の地点にたつことを目的としていない」ことに気づいたようであった。
人工壁に至っては登山が好まれる大きな要因であろう「いい景色、変化のある景色」という要素は皆無であり、コンペなどは手段が目的化したという以上にごく普通のスポーツであり、登山という響きに含まれる冒険的要素は見あたらない。

筑紫哲也さんのエベレストで難波さんが死んだときのコメント「技術が進んでも自然の恐さは変わらない」は、日常に置いても技術の進歩が自然には無力な場合があることを阪神大震災から学べてない証拠である(技術が自然におよばないことはエベレストに限ったことではない)し、過去の技術進歩を認めないのであれば今後の地震対策を提案する姿勢も理解しがたい。登山は技術の進歩により確実に安全度が高くなっているのだ。しかし、100%の安全などと言うものは今の世の中には存在しない。一度の事故から技術の進歩を全て否定することは安直すぎる。

百名山最短登頂に挑戦したニュージーランド人ガイドが、「日本では夜間登山が危険と考えられているが、ニュージーランドでは日本でよく行われている単独登山の方が危険だと考えられている」と雑誌で言っていた。
これは道に迷う危険と怪我をして行動不能になる危険の比較によるものだろう。実際に日本の夏山を考えると、行動不能になっても夜が明けるまで他の登山者を待つ(他人をあてにすることの是非もあるがよほど多人数でないと自力脱出は無理なはず)ことも可能であるが、暗くて道を誤って遭難する例はよくある。 ニュージーランドがどのような登山形態なのか分からないが、 日本の夏山であればやはり夜間登山(富士山などは別)は、 危険であると言える。

ネパールでトレッキングツアーが山小屋で雪崩に巻き込まれる、 という事故があった。 普通小屋を作るときには雪崩の起きないところを選ぶ (どうしても雪崩が起きる場所に作りたければ、 白馬尻のように毎年建設・分解を繰り返しているところもある) ことは、山に登る多くの人は知っている。 しかし、 多くの報道は「ヒマラヤの雪山に行こうなどという命知らずの連中の自業自得」 という論調。 ネパールのトレッキング・ツアーに参加するよりも、 日本の交通社会で暮らすことの方がよっぽど危険だと思うのだが、、、

危険を伴う登山においてその代償として有名なのは、 アンナプルナ初登頂(人類にとっての8000m峰初登頂)での登頂者の負傷と、 マッターホルン初登頂時のメンバーの滑落だろうか。

8000m峰の生還率は96%。 8000m峰での死亡者の60%は雪崩、氷塔によるもの。 滑落は15%。技術的ことよりも自然の変化を読みとり、予測する力が要求される。


何が自然保護なのか

百名山ブームなどで山の環境破壊が問題になったりするが、 廣重さんが百名山を登って今の日本の山に感じたことは、 「昔よりもきれいになった」。 山でのマナーに対する登山者や関係者の努力が山をきれいにしたようだ。 ただただ「環境が破壊されていく」と叫び続けるだけでなく、 このような形で良くなったところを認めていくことも必要なのでは。

一般登山者よりも遠征隊などを組んでいる人たちの方が、 環境に対しての意識が低いと思われる。 エベレストのサウスコルの酸素ボンベや、 イタリア隊が落としていったヘリを見れば明らかだろう。


山を何と呼ぶか

世界で一番高い山の名前は、エベレスト(イギリスのインド測量局初代長官の名前)、 チョモランマ(中国語)、サガルマタ(ネパール語)。 中国側から登るときはチョモランマと呼ぶのが一般的らしい。 サガルマタは残念ながら一般的にはならなかったらしい。
世界で2番目に高いK2はカラコルム山群の2番目という意味でしかない。 現地語ではチョゴリというらしいが、この名称が使われることはあまりない。
日本でも県境にある山がそれぞれの県側で名称が違う場合ある。


何処が山頂なのか

9000m以上の上空で飛行機が激突しそうになったという中国謎の高峰アムネマチン。 中国政府のこの発表は信用されず、後に標高を測ったところ6282mだった。
最新の計測手段を用いることにより順位が逆転しない程度の標高変更は年中ある。

全く別の理由により山頂が変わることがある。 六甲山山頂には以前アメリカ軍の設備があって標高はそのすぐそばの山頂 (としていたところ)のものだったが、その土地が返還されて標高変更になった。
関西の金剛山は山頂付近が一般開放されていないため、 その地点よりもずいぶん低い地点が山頂となっている。 この場合は不思議なことに一般開放されている土地で一番高いところでなく、 ちょっと低い見晴らしのいいところになっているので、逆からやってくると高いところから下って山頂に到着する。

サブピーク、支峰は8000m峰としてカウントされてない。 日本でも3000m峰と言ったときに槍ヶ岳と穂高岳の間のピークなどを加えないのが普通。エベレスト南峰などは世界標高第2位だが、ピークどころか単なるコブとして扱われている。何をもって分類されているのかは不明。


その他

撤去命令が出された北アルプスの山小屋に関していろいろな意見が出されたりしているが、 「私が利用すると便利なのに、どんな理由だろうと撤去しないで」 などという論理が見られる。
撤去命令が出されたのは管理官庁の指示に従わなかったからであり、 その指示の是非に関してもめるのは分かるが、 その内容については全く知らずに「便利なものをなくさないで」というのはいかがなものか。
指示内容に関しての不満を見ても、 「経営収支内容を管理官庁に公表する義務はない」などというものがあるが、 サラリーマンなどは源泉徴収などと言う自動的なシステムで公表されてしまっているわけで、 それを拒否してクビになったって誰も同情してくれない。
北方領土にはいろいろな資源が埋まっているから返還を要求しよう、 という発想に近いと思う。
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