REMINISCENCE DE FILM

『マルクス兄弟 御冗談でショ 華麗なるドタバタ』
Horse Feathers (1932)
『御冗談でショ』は1932年の作品。後の『オペラは踊る』や『我輩はカモである』に比べると、まだ舞台の出し物をそのまま映画にしたような感じがあり、時間も1時間ちょっとしかない。ハーポはほとんど狂人レベルのめちゃくちゃさ。
≫DVD


ジュディ・デイヴィス
ジュディ・デイヴィスを僕が最初に観たのは、『バートン・フィンク』においてだった。W.P.メイフューの秘書オードリー、あるいは“マッドマン・ムント”に殺害される女性と言った方がいいかもしれない。その存在は、なにか病的なところがあり、不安定で、脆い謎めいたイメージだった。

これはコーエン兄弟のなせる業なのだろうか?『インドへの道』で僕は、ふたたびジュディ・デイビスを観る。僕はここで初めて、『バートン・フィンク』のオードリー役から感じた、何か病的なものが、ジュディ・デイビス自身にしか演じられない何かによるものだ、ということに気づいたのだった。

それは、『さらば愛しき女よ』 のヴェルマ・パレント(シャーロット・ランプリング)が持っているもので、『ヨーロッパ』のカタリナ・ハルトマン(バルバラ・スコーヴァ)が持っているものと共通する。クールで病的で、そしてエロティシズム。


映画に登場するイス、インテリア
確か、カソヴィッツ監督の『アサシンズ』という映画では、老いた暗殺者が孤独に住む家に、なぜか派手な色のパントンチェアが隅っこに置かれていたように記憶している。すでにキャリアを終えた老いた暗殺者の、生活に対する無関心ぶりを感じた。

『めまい』では、ミッジの家にベルトイアのワイヤーチェアが置かれている。

『サムライ』で、舞台となるジャズクラブのイスは、イームズのワイヤーチェアだろうか?少し形が違うような気がする。またが私室で座る白く大きなイスが気になる。

オードリー・ヘップバーンは、『麗しのサブリナ』で、トーネット(コーンのデザイン?)のロッキングチェアに座るが、同じイスを、後年『暗くなるまで待って』において、でも座っている。この部屋ではイサム・ノグチのAKARIも置かれている。現行のものより足が長いよう。


『サムライ』 『仁義』 ジャン・ピエール・メルヴィル
もともと『サムライ』という映画の存在を知ったのは、5〜6年前で、デザイナーのagnes bが好きな映画として、取り上げていた。それは“agnes.bが愛する映画”とかそんなタイトルで、実際にいくつかの作品を集め映画館で公開したのだ。その中にこの『サムライ』があった。『サムライ』のスチールを一枚でも見れば、agnes b の感性がいかに『サムライ』から影響を受けたかを知ることができると思う。

『サムライ』はその後、ジム・ジャームシュによって『ゴースト・ドッグ』という完全なオマージュ映画が作られ、僕は先に『ゴースト・ドッグ』を観ることになる。卓越したストーリーと現代的な音楽感覚に貫かれる『ゴースト・ドッグ』と比べると、『サムライ』は不利なのかもしれない。しかしメルヴィルがいうところの“最後のスター”であるアラン・ドロンを中心にすえた、これぞノワールという映像感覚は、『ゴースト・ドッグ』に勝るとも劣らない。

『サムライ』と『仁義』を観て、興味深く思ったのは、主人公達は“死”を求めているかのように、自らそこへ通じる道を選ぶ。『仁義』では、コーレイ(アラン・ドロン)だけが生きる望みを持っているが、ヴォージェル(ジャン・マリア・ヴォロンテ)、ジャンセン(イヴ・モンタン)は明らかに死ぬためにその場に立ち合わせたかのようだ。



『シカゴ』
『マトリックス・リローテッド』をDVDで見直し、このたび話題の『シカゴ』を見た。2作を間を空けずに見た感想は、とにかく“ハリウッドというのはとんでもない力を持っている”ということで、その圧倒的な才能、技術に、もう唖然としてしまった。恐れ入りましたっていう感じ。

キャサリン・ゼダ=ジョーンズはいったい何者なのか??とんでもない才能だ。踊り、歌、とてもじゃないけど一人の女優の域を完全に超えてしまっている。とにかく圧倒的だ。アカデミー助演女優賞なんて当然でしょう。泣く子も黙らせる迫力。ということはミュージカルの世界では、もっととんでもない才能がひしめいているということになるではないか・・・・。恐るべしアメリカ。

レニー・ゼルウィガーは合格点以上の文句のつけようのない演技と歌いっぷり。でも、ほんと残念なんだけどどうしてもキャサリン・セダ=ジョーンズと比べてしまう。分が悪いです。でも2人の個性がよく対比されていたってことは、それだけゼルウィガーががんばったってことでしょう。普通なら見せ場をセダ=ジョーンズに全部持ってかれるところを、あれだけ取り返したんだから。

リチャード・ギアは僕ははっきり言って興味のない俳優だった。女性が好きな映画に出ている俳優というぐらいしか認識がない。つまり男が興味を持つような俳優じゃないと思っていた。ところが今回の『シカゴ』。リチャード・ギアもとんでもない才能を見せ付ける。タップダンスのところ、相手を言い負かす弁術とタップとかが上手くマッチするのだけど、すごい迫力だ。

『マトリックス・リローテッド』も『シカゴ』も、とにかく超一流の才能が、超一流としての努力をしたら、どんな作品がうまれるかということのお手本みたいなものだ。

それでも僕が一番好きなのは、やっぱりジョン・C・ライリーだ。最初出ていることを知らなくて、物語の最初の方で出てきた瞬間喜んだ“ハードエイトのジョンじゃん!!”。あのまんまのしゃべり方。今回も情けない男だけど情のある男の役ではまり役。もらっている歌“ミスター・セロファン”もいい曲で、終わりの方で、半音下がるようなコード進行がもう僕好み。メイキングでも出演者の皆が、“ジョンはいい歌をもらった”と言っていた。歌唱の方は、リチャード・ギアと同じで自然に歌う方法だけど、曲の終わりの方では声が実によく伸びていて感動的。

分かりやすい映画というものには、作品全体を通して、一言で説明できるようなシンプルなテーマがあるもので、この『シカゴ』の場合も、“あきらめない”とか“希望”とか“強い女性”とか、そんな分かりやすいテーマが根本にある。どんなあくどい手を使ってでものし上ってやろうとするヒロイン2人は、大勢の人の共感を得られるだろう。そのあくどい手というものも、うまくユーモアで味付けされているので、ぜんぜん嫌味がない。


『インドへの道』 『アラビアのロレンス』 D・リーン、そしてヴィスコンティ
『インドへの道』は、まるでもうひとつの『アラビアのロレンス』を思わせるような作品だ。ロレンスの異常性は、アデラ・クェステッドの異常性にとってかわられる。『アラビアのロレンス』のときは、異常性は本人が生来的に持っているものという面が強く描かれていたが、今回は異文化が与える影響によって導き出された異常性という側面が強く描かれる。

今回はアジーズが、族長アリの役だ。イギリスへの憧憬と反発。フィールディング学長への尊敬と軽蔑。相反する感情の中で、複雑な表情を見せる。

2つの映画の中で、最も複雑な感情を持つ表情。ロレンスが、アカバ攻略の前夜、処刑する男が命がけで助けたガシムであることを知った時の表情。アジーズが、裁判での勝利を祝うパーティに出かけるときに、振り向いてフィールディング学長へ“あなたも来るか?”というときの表情。泣き出しそうな2人の中の強く反発しあう葛藤が、見るものを強く打つ。

『インドへの道』において、リーンが使った手法で、『アラビアのロレンス』にはないものは、イメージの使用ではないか。『インドへの道』においては、“死”をイメージするものが随所に挿まれる。それは老境のモア夫人の不安と死、悲劇のような裁判へのつながりを予見させる。月、河に浮かぶ死体の話、とおりですれ違う死体、そしてすべてを予言者のように見抜くコトボリ。インドを離れるモア夫人に、駅でコトボリがとるポーズも鮮烈なイメージだ。

この手法は、ヴィスコンティが『ベニスに死す』で取り入れた手法ではないか?『ベニスに死す』でも多くの死をイメージさせるものがたたみかけるように挿入されていた。そしてこの手法は、トーマス・マンが『ファウストゥス博士』で取った手法である(『ベニスに死す』はそういう意味で、『ファウストゥス博士』のテーマも同時に盛りこんでいる。近親者の死のイメージと、連続する死のイメージ、そしてヘタエラ・エスメラルダがそうだ)。

ヴィスコンティが最も強く意識した自分のテーマというのは、彼自身が貴族であることからも来る、“貴族の没落”“病的な芸術精神”“芸術が、ひとつの家系を没落に導く”“退廃的な、病弱化した貴族と、生命力にあふれる庶民”“古い文化と新しい文化の軋轢”ということだろう。そしてそれはトーマス・マン自身のテーマにもつながる。

それに対しD・リーンの映画をすべて見たわけではないが、リーンが強く意識していたテーマというのは、“イギリスと異文化”、“イギリスの異文化支配”“文化とはなにか?”ということではないか。彼にとって、彼の根源は、異文化(アジア、中近東)が彼に与えたショックと、その文化に対する自分との関係ではなかったか。

『アラビアのロレンス』において、リーンはロレンスに“運命などない。 Nothing is written,”と語らせた。だが『インドへの道』においては、コトボリに“すべては運命(カルマ)です。”と語らせる。これはリーンの心境の変化ではないだろうか?


『明日に向かって撃て!』
この映画、とてもシンプルで太い複線がひとつだけある。

エッタはなぜ途中で2人のもとを去るのか?

旅に出る前にエッタは2人に約束をする。“ひとつだけ条件がある。絶対に2人が死ぬところは見ません”

エッタが途中で2人のもとを去ったのは、あのとき彼女はエンディングを予感したのだ。

アメリカン・ニューシネマと呼ばれるジャンルには明らかになんらかの共通点がある。“イージー・ライダー”“俺達に明日はない”“明日に向かって撃て!”“真夜中のカウボーイ”。自由とやるせなさ。


『X−MEN』
ただのSFヒーローものの映画と一線を画している点は、キャラクターの造詣が深いところ。ミュータントたちの劣等感と優越感の複雑に入り混じった感情が描かれているため、物語の深いところで説得力がある。

X-MEN側で人間を一番憎んでいるのはストームだ。第1作では、ケリー上院議員との会話で、人間が怖い、と発言する。第2作ではナイトクロウラーとの会話で、人間に対して憐憫など、とっくの昔に捨てた、と発言する。次に憎んでいるのは、パイロ。結局、彼はその憎しみから、X-MEN側からマグニートの方へつくことになる。パイロの優越感に動機付けしたのはマグニートだ。飛行機の中での会話。

ナイトクロウラーが第2作では魅力的だ。彼は、最初ストームとジーンに連れられることになり、その後、ウルヴァリン、サイクロプスと会うことになる。その度に“誰だこいつは?”と聞かれると、急場であるにも関わらず、ナイトクロウラーは、“オレはサーカスのナイトクロウラーだ”とまるで決まり文句のような節回しで自己紹介し、その度に、その長引きそうな紹介を“もういいよ分かった”と制止されてしまう。ナイトクロウラーにとって、自分がサーカスの曲芸師である、ということは、プライドの拠り所なのだ。おそらくいままでにも何度もそのように自己紹介してきたのだろう。ナイトクロウラーに魅力を感じずにはいられないモティーフだ。ミスティークとナイトクロウラーの会話もまた2人の差が出るいい場面だ。“変身できるのなら、人間の姿になっていればいいのに”というナイトクロウラー、“そんな必要はない”と冷たく言い切るミスティーク。

ミスティークはとにかくミュータントの中でも、抜群の魅力を持っている。ミスティークとマグニートは本当はいい奴なんだけど、人間からとてつもない迫害を受けたため、人間を憎んでいる。ミスティークが本当はいい奴、という説明も第1作ですでにされている。ケリー上院議員を誘拐するヘリコプターの中でのミスティークのセリフで、子どものころに彼女がいじめにあったことが語られる。

マグニートの場合は、第1作の冒頭で説明される。強制収容所に連行されるユダヤ人。その中で母親と離れ離れにされたときに泣き叫びながら鉄格子を曲げてしまう少年。これがマグニートで、この迫害がマグニートの人間に対する恨みの根源になっている。少年=マグニートというのは映画の中で、はっきりと説明されていない。第1作の中で、ウルヴァリンの認証札を取り上げて眺めるときにマグニートの腕に焼き付けられた囚人番号を見せるところと、ローグに人間への恨みを語る場面から想像できるのみ。

第2作でも、結局ウルヴァリンの過去は完全に説明されなかった。映画の中で説明がまだ十分でない部分は、マグニート = ユダヤ人迫害 = 戦争、軍隊 = ストライカー = おそらく軍隊にいたウルヴァリン、の関係。これが第3作で明確になるのだろうか?

『コーエン兄弟の静物』
コーエン兄弟の映画にきまって登場するイメージに、“静物の単純な運動”というものがある。『ビッグ・リボウスキ』では、映画のオープニングで、風であおられて飛ばされるゴミをカメラが追いかけていくイメージがある。単純で静かな映像だ。『バーバー』においては、事故をおこした車のホイールキャップが、コロコロと勢いよく転がっていく。今回僕が見た『ミラーズ・クロッシング』では、主人公トムの夢として、風に吹き飛ばされる帽子の映像が取り扱われていた。それはとても一生懸命に単純な運動を繰り返す静物の映像で、なんだか見ていておかしくなってしまう。

これはいったいなんなのだろうか?僕が受ける印象は、この映像こそが、コーエン兄弟のほとんどすべての映画で取り扱われる主題の象徴なのだ。
コーエン兄弟の映画のキャッチコピーでよく使われるのは、“人間はおかしくて哀しい”とかそんな言葉がよくつかわれる。たとえば『ファーゴ』も『バーバー』も、自分で仕掛けた事件でありながら、自分の力ではどうしようもならないほど事が勝手に進んでしまい、“もう、どうでもいいよ”と思うしかない悲劇を迎えてしまう。おろかで滑稽で、何か一生懸命なのに、自分の力ではどうしようもならない大きな力に翻弄される。映画全体に、一連の映画作品全体に共通するテーマを、これらの“静物の単純な運動”が象徴していると思う。

『ミラーズ・クロッシング』
『ミラーズ・クロッシング』が他のコーエン兄弟の作品と最も異なる点は、“主人公がトラブルを乗り切ってしまう”点だ。『ブラッド・シンプル』も『バーバー』も『ファーゴ』も主人公達は、強力な推進力を持つトラブルに引っ張りまわされ悲劇的結末に突き進むのに対し、トム・レーガンは、何度もあぶない危機に会いながらも乗り切ってしまう。ジョン・タットゥーロがインタビューで“これはトムの旅の映画だ”と言っていたが、まさにそのとおりだと思う。

『ミラーズ・クロッシング』の、最も間違った見方は、おそらく“トムはすべて計算づくであった”と考えることだ。トムは、上手くたちまわっただけであり、すべて計算づくでなんかなかった。バーニーが舞い戻ってきてしまうのも、ミンクが死んでいるのも、キャスパーがデインを殺すのも、すべてトムは呆気にとられていた。けどトムはその都度うまくたちまわったのだ。

もうひとつ面白いのは、この映画、結局“悪い方が勝つ”という点だ。もちろんトムは悪者じゃない。レオだって、ヴェルナだって悪者じゃない。けどエゴを振り回したのはこの3人であることは間違いない。この映画の中で、一番正しいことを言っているのは誰か?というと・・・。

キャスパーとデインなのだ。

キャスパーはいい奴だ。人情味があり昔からのギャングのボスっていう感じがする。『ゴッドファーザー』で言えば、PARTUに出てくる、フランク・ペンタンジェリに似ている。デインは、チッチに似ている。二人ともマフィアの倫理として、実に正しいことを言っているのに、負けてしまうのだ。

しかもデインは、相当腕が立つ上に、かなり頭がいい。トムよりも頭がいいかもしれない。デインはすべてを見抜いていた。けどデインはキャスパーに最後まで忠実であったために死んでしまうのだ。レオを裏切ったトムとは、デインは違うのだ。

『ミラーズ・クロッシングの帽子』
『ハードエイト』のDVDの解説でリチャード・T・ジェームソン氏は、“『ハードエイト』のアクションの基調となっているのは、銃の引き金を引くことではなく、タバコに火をつけることなのだ。”と書いている。

この文章の体裁を借りて僕は“コーエン兄弟の『ミラーズ・クロッシング』に対してこう言いたい。“『ミラーズ・クロッシング』のアクションの基調となっているのは、銃の引き金を引くことではなく、帽子を被ることなのだ。”

とにかく『ミラーズ・クロッシング』には、帽子のモティーフが連続して出てくる。逐一、説明していくことで、いかに帽子がキーとなっているかを浮き彫りにしよう。

・定義
1.別れ際に帽子を被ることは、その場のエンドを意味する。
2.死んでいるものは帽子を被っていない。
3.生きているものが帽子を被っていないことは、リラックスしていることを意味する。
  逆に被っている場合は緊張を意味する。
4.帽子を手に持つことは忠誠を意味する。

≪冒頭≫
・帽子を被っているのはデインのみ。デインは絶対に帽子をとらない。
→帽子を被るということは、“緊張”を意味する。
・レオは帽子を被らない。
→レオはボスであり、何か用事があっても人はレオのところに訪れるのだ。
→帽子を被らないことは、“リラックス”を意味し、その場の支配者であることを基本的に示し、支配者の前で帽子を被っていない者(ここではキャスパーとトム)は“忠誠”“親しみ”“仲間”“対等”であることを意味する。この場面で、デインだけが帽子を被っているのがキーだ。彼はレオ、トムを仲間と思っていない。

・トムの帽子の夢
→これは定義2から、“死”を暗示する。

・ヴェルナとミンクに帽子を奪われるトム。それを取り返しに行くトム。
→帽子を取り返すこと→自分の命、プライド、魂を取り返すことを意味する。

・トムの家を訪れるレオは帽子を被っている。
→ボスであるレオが人を訪れるのである。これはレオが弱っていることを意味する。レオはヴェルナのことになると弱くなってしまう。注目すべきは、この映画の中でレオが帽子を被るのは、この場面と、エンディングのみなのだ。

・ラグのかつら。
→死んでいるラグは帽子を被っていてはいけない。かつらは子どもに盗られてしまう。それは“命”“プライド”“魂”を失うことだ。

・キャスパーの家
→つれられてきたトムは帽子を被っていない。フランキー、ティクタクは帽子を被っている。キャスパーはこの場の主人であるから被っていない。トムは対等であること、動揺していないことのポーズとして帽子を被っていない。キャスパーの居所にいるにも関わらず、デインは帽子を被っていない。常に緊張しているデイン。

・投げ飛ばされるティクタクの帽子。

・ヴェルナの家をおとづれるトム。
→帽子を被ったままだ。ここでのトムは長居するつもりではない、というポーズをとる。しかし結果はそうならない。ヴェルナの方がうわてだ。

・トムとレオの決裂
→殴られて、帽子が飛ばされるたびに、頭に帽子をのせられるトム。レオは最後にトムに帽子を投げつけ、出て行け、という。これは決裂を意味するが、定義2、3を考えると、レオはトムの命までは奪わない、と言っていることになる。

・バーニーの射殺、ミラーズ・クロッシング
→トムは帽子をかぶったまま、バーニーは帽子を被っていない。立場の優位性を表す。殺し屋としての緊張。

・舞い戻るバーニー
→バーニーは今まで、トムの家に勝手に上がりこんでもつねに最初から帽子をとっていた。ここではハンティング帽を被っており、話が進んでからとっている。つまりバーニーは緊張状態にある。

・デインがトムを拉致し、ミラーズ・クロッシングへ向かう場面
→ここのシーンは面白い。車の中に乗っている人間は4人。デイン、トム、ティクタク、フランキーの4人。なんと帽子を被っていないのはデインだけだ。3人は全員帽子を被っている。つまりここの場面ではデインは支配者なのだ。デインが帽子を被っていないシーンは、こことラスト近くで、殺される場面のみ。定義2、3だ。

ドロップ・ジョンソンの家
・帽子の小ささでジョンソンをからかうトム。はっきりとわからないが、この帽子がバーニーのものであることでジョンソンをからかったのか?帽子を使った印象的なモティーフ。

・アイルランドの息子 社交クラブ
→ここでも吹き飛ばされる帽子が2回とらえられる。

・市長のもとをおとづれるトム。
→秘書(フランシス・マクドーマンド)と軽口を交わすトム。帽子を捉えたカットから始まる。

・キャスパーの家、デインの死。
→ここでデインは意に反して2回目に帽子をとることになる。しかしそれは死を意味している。

・バーニーを射殺するトム。
→トムは帽子をかぶったまま、バーニーは帽子をかぶっていない。ここでも立場をあらわす。

・エンディング
→この映画の最も感動的な場面だ。いままでの帽子のモティーフの積み重ねは、この場面のためにあったといってもいい。レオとトムは帽子を被らずにバーニーの葬儀を終え、そのまま家路にゆったりとつく。話しながら。お互いの本心を探るような会話にじれったくなり、レオはトムに言う“オレのところに戻ってくれ!”。しかしトムは拒絶する。“お別れだレオ”。その言葉をきき、老いたレオは先に歩いてかえる。木にもたれて見送るトム。最初に帽子をかぶるのはトムだ。そして次のカットで、レオが帽子を被る。いままでの場面で2人が同時に帽子を被っていたことはなかったのに。本当のお別れだ。



『湖畔』
“湖畔の生活”というものは誰もが憧れるもので、多くの芸術家達も、その優雅でゆったりとした生活に魅了された。フランツ・リストは“巡礼の年 第1年スイス”において“ワレンシュタートの湖にて”を作り、チャップリンは晩年をレマン湖畔で過ごし、同じ場所を年老いたオードリー・ヘップバーンも選択した。

だが、その人里離れた湖畔の静けさは、誰もいない隔離された空間は、一転して恐怖と悲劇の場所ともなりうる。シュタルンベルク湖には今でも謎の死を遂げたルートヴィヒ2世のための十字架が立ち、1942年にヴァンゼー湖畔でナチスの幹部が決定したことは、血も凍るようなおぞましい事であった。

映画においても、“血も凍るような”おぞましい事件の舞台として“湖”はよく使われる。『ゴッドファーザー PART2』のラストで、その後マイケル・コルレオーネに背負いきれない罪悪となる事件の舞台として選ばれたのも湖畔であった。僕の耳には今でも水鳥の夕闇をつんざくような鳴き声がこだましている。

『13日の金曜日』で執拗に舞台として使用されたのもクリスタル・レイクという湖であった。湖は、隔離された場所であること、そのため助けも呼べず、目撃者もでないため、サスペンスの場所に最適となる。そこに湖の持つ神秘性も加えなくてはならない。不穏な“霧”がまとわりつくイメージもちょうどいい。芸術家達が魅了された湖の静けさと、そこで起きる“血も凍るような”事件とのギャップがそのまま恐怖感を呼び起こしていく。

ヒッチコックへのオマージュとして作られた『ホワット・ライズ・ビニース』も湖畔が舞台だ。この映画のベースとなっている、いくつかのヒッチコック作品の中の一つ『レベッカ』は、舞台は海岸沿いであった。ロバート・ゼメキスは湖畔を舞台とすることで、さらにサスペンスフルな作品を産むチャンスを得る。舞台の設定については2作品とも原作を読んでいないので何とも言えない。原作者の設定に従っただけなのかもしれない。少なくとも『レベッカ』の方はそうだ。


舞台として“海岸沿い”と“湖畔”が選ばれる結果としての効果はどうだろうか?“海岸沿い”は動的である。“海岸沿い”は打ち寄せる荒々しい波が、事件の激情と興奮をいやがうえにも強める。ドラマティックなのだ。
一方“湖畔”は静的である。波一つ立たない“湖畔”の静けさは、事件の不気味さと恐怖感をじわじわと増してゆく。

僕が“湖畔”を舞台にした映画で、真っ先に思い出す作品は『黄昏』だ。原題は“The Golden Pond(黄金の湖)”。人生の“黄昏”時にある老夫婦の生活を描き、湖畔のゆったりとした雰囲気の中で親子の確執を徐々にといていく、あたたかい映画だった。

かつてのアメリカの強い男優ヘンリー・フォンダと、かつての知的で強い女優キャサリン・ヘップバーンが老夫婦を演じた。その姿はレマン湖のほとりで静かに老後を過ごすチャップリンとウーナ夫人の姿を思い起こさせる。

ヘンリー・フォンダと、娘役を演じたジェーン・フォンダには実生活においても確執があった。ヘンリー・フォンダはこの映画に主演後まもなく他界した。『黄昏』はヘンリー・フォンダの最後の主演作品となった。娘ジェーンからのあたたかいプレゼントのような映画だった。



『タバコと映画』
映画の世界では、昔からタバコは登場人物の性格、あるいは心理を描写する小道具として重宝がられてきた。

タバコといってまず思い出すのは『ゴッドファーザー』である。入院しているドン・コルレオーネにソロッソの一味がとどめをさしに来る場面がある。病院の護衛がもぬけの殻であることに気づいた息子マイケルは、偶然見舞いに来たパン屋にマフィアの振りをすることを強要し、さも護衛が厚いように見せかけ、窮地を脱しようとする。そのときのパン屋とマイケルの心理描写にタバコが一役買うのだ。パン屋がびくついてしまいなかなかタバコに火がつけられない。そこにマイケルが震えもせず堂々と火を付けてやる。この時点ですでにドンの後継者としてのマイケルが顔をのぞかせるのだ。

タバコは決して吸うもののイメージを高める役を果たさない。利用のされ方は“動揺、焦り、不安”を表す場合であることが多い。『ゴッドファーザー』でも物語の終盤、義理の兄弟殺しのことを妻ケイに糾問されると、マイケルは怒鳴り、落着きなく部屋を歩き回る。あのパン屋に堂々と火をつけてやった手は、焦りから威厳を失い、その指の間には、タバコが挟まれているのである。

『レベッカ』でも同じようにタバコが使われる。マキシム・ド・ウインターがレベッカの難破したヨットが引き上げられた時、乱れ髪で取り乱す場面がある。その時、あの威厳あるウインター侯爵がタバコを持つ手を忙しなく振り乱すのだ。

“動揺、焦り”をタバコで表現した最高の場面は『チャイナタウン』にも登場する。

正式にギデスと契約を交わしにきたイヴリン・モウレー。オフィスでのギデスとイヴリンは、2人の最初の邂逅の時とは打って変わり、完全にギデスが優勢となっている。余裕たっぷりに交渉をすすめるギデス。軽い質問をイヴリンにぶつけると、彼女の目は落着かず、動揺を隠せない。そして“パン屋”と同じように震える手でタバコに火をつける。そしてギデスの一言。
“ミセス・モウレー....まださっきのタバコの火がついてるよ”
灰皿には、まだ半分も吸い終わっていないタバコが煙りを立ちあげている。イヴリンは2本同時に吸うのだろうか?この瞬間イブリンは、ギデスに服従しなければならないことを知るのだ。


『ファイトクラブ』では、登場する3人の主要人物すべてがタバコを吸う。ただしここでは“だらしなさ”の象徴として使用される。タイラーと付き合うようになった主人公は、オフィスにおいてネクタイも締めず、空ろな目でタバコを吸う。タバコは反抗の象徴でもあるが、反抗という一種のクールさは、実はタバコをその人物から取り上げてしまっても、十分成立しえていなければならない。そう考えると、ここでの主人公の吸うタバコは“だらしなさ”以外のなにものでもない。

マーラ・シンガーは、もしタバコを吸わなければ、クールな自立した女性として成り立ち得るほど格好がいいのに、タバコを始終、吸い続けることによって、タイラーの言う“堕ちるところまで堕ちる女”というイメージが完成することになる。
タイラーがタバコを吸う効果がちょっとわからない。もちろん20世紀末に誕生した究極のトリックスターの吸うタバコを分析することなど馬鹿げているため、分析する気は全くない。


誰もが知っている通りタバコは吸うものを落着かせ、そのため人はタバコに依存する。結局その依存傾向がその人の弱みの象徴、やめられないという意志の弱さを表すことになる。弱みは人を愚かな行動にはしらせ、それはコメディにおいては格好の題材となる。

チャーリー・チャップリンはタバコを使ったギャグをいくつも作品に取り入れた。『キッド』において朝の散歩をする放浪紳士チャーリーが、気取りながらシガレットケースを取り出す。中に入っているものは、必死になってかき集めた吸い殻ばかりだ。『黄金狂時代』のラストで、金鉱を掘り当てたチャーリーは高級服に身を包んでいるにもかかわらず、長い間の習慣で落ちている葉巻を見つけると、顔色を輝かせ拾おうとしてしまう。この外見は大金持、中身は浮浪者という誤解を利用したギャグは『街の灯』において素晴らしい完成をみることになる。

久しぶりにタバコをおいしく描く映画を見た。『ハードエイト』だ。クレメンタインとジョンがベッドに腰掛け、談笑しながらタバコを吸う場面がある。恋人になりかけている二人が吸う、ひたすらおいしいタバコが描かれている。
『ハードエイト』の主人公シドニーが吸うタバコは、フィリップ・マーロウへのオマージュからだろうか、ハードボイルドの象徴キャメルである。『ハードエイト』にはタバコを使った名場面が続出するが、極めつけはラスト近くに登場する。

シドニーは“これから恐喝られるのだ”という予感と共に、こんな夜遅くに自分を呼び出したジミーの車の助手席に乗り込む。シドニーは人の車に乗りこんでもタバコを吸うのをやめない。紳士的であるはずのシドニーがマナーを無視する。これから始まる交渉を少しでも優位に進めたいため、強硬なポーズをとり続ける。運転席のジミーが“タバコを捨てろよ!”と一発怒鳴る。シドニーは無言。ジミーも、車の中でタバコを吸われても一向にに構わないのだが、交渉を優位に進めたいという考えは同じであるため、引き下がらない。結局この埒のあかないやりとりは、ジミーが折れて、“俺にも一本くれ”と一緒になって吸い出すことで決着する。タバコを道具に心理を表した見事な場面だ。

僕が今まで見た映画の中で、最も好きなタバコのシーンは『ロング・グッドバイ』の中にある。自分を翻弄する様々な出来事を体験し、夜遅くに自宅に戻ったフィリップ・マーロウは、郵便受けに一通の手紙が入っているのを見つける。手紙はすでに死んでいるテリーからのものだ。時間のズレによって死者から届けられた形となった手紙を、マーロウはエレベーターの中で読む。5000ドル紙幣一枚と共に、簡単な謝罪の言葉が書き添えられているだけの手紙を読みながらマーロウはタバコを吸い続ける。『ロング・グッドバイ』のテーマ曲が女声ヴォーカルによってやさしく歌われる。豊かな詩情に満ちた名場面である。


『いつも2人で』
最近、会社で働いていると、映画『いつも2人で』の旋律が頭の中を流れ続ける。

実は、僕の働いているフロアに、ヴァイオリニストの川井郁子さんの写真が貼られているのだ。とてもキレイな人だ。毎月、掲示板に、映画や音楽その他いろいろなチケットを割安で購入できるという、ポスターが貼られるのだけど、今月は川井郁子さんのリサイタルが大きく取り上げられていて、コピーを取りにいくたびに、FAXを送りにいくたびに、その美貌を見ることになる。

つい先日、BSを見ていたら、突然『いつも2人で』が演奏された。ヴァイオリンとチェロとピアノだったかな。そのヴァイオリンを弾いていたのが川井郁子さんだった。そのため、僕はこの人の写真を見るたびに頭の中に『いつも2人で』が流れ出すことになった。

僕がドイツに、つまりリストの家を訪れた時、リストの他にMDで聴いていたのが『いつも2人で』だった。車を運転すれば最高だったのだけど、僕は鉄道で旅行した。ワイマールからの帰路。他に誰も乗っていない特急の中で、左右の窓いっぱいに広がるチューリンゲンの森のパノラマは、まるで映画の世界と同じオープンカーに乗っているかのようで、『いつも2人で』の音楽にぴったりだった。日本について、真っ先に『いつも2人で』のサントラを買った。4年前のちょうど今ごろ、ゴールデンウィークの話だ。

オードリー・ヘップバーンの映画で人気投票をしたら、はたして『いつも2人で』は何位に入るだろうか?おそらく『ローマの休日』『麗しのサブリナ』『ティファニーで朝食を』で上位を独占されてしまうのだろう。僕はオードリーの映画は、彼女が30歳代の、つまり60年代の作品が一番好き。このことは、僕の母親とも意見が合う。僕のベスト4は『ティファニーで朝食を』『いつも2人で』『おしゃれ泥棒』『暗くなるまで待って』だ。

そんな“とびきりのメジャー”ではない『いつも2人で』を褒めている小説家がいて、すごくうれしかった。村上龍だ。2回ぐらい取り上げているのではないだろうか?『いつも2人で』を、結構な長文で褒めていた。とても好きな作品なんだそうな。僕は村上龍の小説を読んだかどうか、おぼえてないけど、『いつも2人で』を褒めるというだけで、村上龍が大好きだ。

そういえば、高名な小説家が、僕の好きな“メジャーだけれど、とびきりのメジャーではない”映画を褒めているケースが他にもあった。ジュリアン・デュヴィヴィエの監督作品で人気投票をしたら、どの作品が上位にくるだろう?『望郷』?『舞踏会の手帖』?『地の果てを行く』??。僕はベスト3に間違いなく『アンリエットの巴里祭』を入れる。

大学の図書館で、その頃集中して読んでいたある小説家の全集をぱらぱら見ていたら、『アンリエットの巴里祭』を褒めた文章が出てきたので、びっくりした。めちゃめちゃ嬉しかった。それが三島由紀夫だった。

『アンリエットの巴里祭』のヒロインは、ダニー・ロバン。オードリーに負けないぐらい可愛いらしい女優だ。その後、ヒッチコックの映画『トパーズ』に出ているのを見たっきり。

オードリー・ヘップバーンと『アンリエットの巴里祭』は、実は関係がある。オードリーの主演映画『パリで一緒に』は、実は『アンリエットの巴里祭』のリメイクだ。

『戦場のピアニスト』
やはりポランスキーらしい異様な映画という印象。まずなにが不思議なのかというと、登場する人物達のその後がさっぱりわからないこと。主人公を助けてくれたポーランド人はどうしたのか?“ヤーニナは捕まった。自分も危ない”という発言を最後に、その後が一切わからない。マヨレクはどうしたのか?おそらくゲットーでの銃撃戦で死んだのだろう。映画を見ていくと、彼はどうなったのか?彼女はどうなったのか?という人物で覆われていく。家族はどうしたのか?家族と強制収容所行きの列車で離れ離れになって、その後主人公は一切家族のことを回想しない。主人公も生きるのが精一杯で想いをめぐらさない。それが当時のユダヤ人やポーランド人達の心理だったのだろう。目的も理由も、何が行なわれているかも、よくわからない。

戦争はすべて窓の外で行なわれている映像として描かれる。戦争の最前線として描かれた『シンドラーのリスト』や『プライベート・ライアン』とは印象がまったく異なる。戦争、ホロコーストという異常な事態を、庶民のレベルにまで落として描いている。

もうひとつポランスキーらしい異様な点。異様なリアリズム。例えば、射殺された人の遺体が、また別のアングルから角度を変えて映されるようなやりかた。ガソリンをかけられて焼かれる遺体の山。その横をドイツ軍が通る時には、灰になっている。時間の経過をそのようなリアリズムで表現していく。
『戦場のピアニスト』はホロコースト映画としても、戦争映画としても、いままでにない斬新な感覚で作られている。


『フレンジー』
ヒッチコックの晩年の作品。DVDで収録されているドキュメンタリーを見ると、ヒッチコックはすでに“伝説だった”とのこと。『フレンジー』の中でやはり一番インパクトを持っているのは絞殺されたブレンダの舌を出した断末魔の表情だ。ドキュメンタリーで誰かが“ヒッチコックは究極の恐怖を表現したかった”と言っていた。あとはバーバラが殺害される時、静かな部屋からカメラが徐々に外に出ていくロングショット。雑踏が入ってくるところなど。殺人という非日常的なことを日常的な感覚の中に入れることでより恐怖が増す。ヒッチコックはラスクの異常性を描くために、犯人探しの謎解きにする気は全くなかったんだろうと思うけど、謎解きにしてもよかったのではないか、と思う。

『レディ・ヴァニッシュ』
なんとなくお店で手にとったDVDでキャストを見て喜んだ。『ロング・グッドバイ』のエリオット・グールド、『タクシー・ドライバー』のシビル・シェパードが主演。物語はヒッチコックの『バルカン超特急』のリメイク。パッケージもスタイリッシュで、僕はフィルムノワールの匂いを感じ、お金を節約しているにもかかわらず買ってしまった。感想は、それほどサスペンス色は強くなかった。むしろのどかなユーモアが映画全体を支配している。面白いことに、脚色を『ティファニーで朝食を』を手がけた、という人がやっているのだけれど、その雰囲気が全体にある。シビル・シェパードは、おそらく監督からも“『ティファニーで朝食を』でヘップバーンが演じた“ホリー・ゴライトリーみたいに!”と要求されたのだろう。シビル・シェパードもがんばっている。ということは監督が目指したのは、『シャレード』みたいな映画だったのでは。エリオット・グールドは、そんなに見せ場がない。3枚目役っていう感じ。

『アラビアのロレンスのユーモア』
砂漠がロレンスを魅了したように、『アラビアのロレンス』は多くの人を魅了してきた。ロレンスが口笛を吹いたように、人々はモーリス・ジャールの旋律を口ずさんだ。砂嵐のように吹き荒れる名場面の数々は、色褪せることなく記憶され、そして語り継がれる。何も僕が語るまでもない。だから語られることのない、ある場面についてのみ書きたい。

それはデビッド・リーン監督のちょっとしたユーモアだ。『アラビアのロレンス』は非常に緻密にシナリオが練り上げられているのだけれど、ひとつだけ奇妙なセリフが登場する。それは物語の終盤、夢を打ち砕かれ茫然自失となっているロレンスがいうセリフだ。英雄ロレンスと偶然出っくわした一人の中庸な軍人が、ロレンスに嬉々として握手を求める。その軍人に対しロレンスは次のセリフをはく。

“前にどこかで?”

このセリフは、“物語の中”のみで考えるならば、次のような心理から発せられたことになると思う。

“なぜ、自分に握手を求めるのか?自分はこんなにくだらない人間ではないか?以前に私とあったことがあるのだろうか?それならば握手をする理由がわかる”

けれどこのセリフは基本的に“物語の中”に属していない。メタフィクションである。長時間『アラビアのロレンス』を観て来た観客は、握手を求めてきた中庸な軍人が、物語の冒頭で登場していることを忘れてしまっている。そう、彼は冒頭のロレンスの葬儀のシーンで、ロレンスを誹謗する記者ベントリーにくってかかった男なのだ。

“今の言葉は聞き捨てならん。彼は偉大な人物だ”
“知り合いか?”
“親しい仲とは言わんがダマスカスで握手をした”

“前にどこかで?”このセリフは、この握手を求めてきた男は物語の“前にどこかで?”登場していることを観客に対し喚起させるセリフなのだ。僕はこれがリーン監督のユーモアに思えてならない。


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