演奏 レスリー・ハワード       
タイトル 『リスト ピアノ独奏曲全集 VOL.53 b ピアノと管弦楽のための作品 II』
データ
1997/98年録音 HYPERION CDA67403/4
ジャケット アルフレッド・レーセル『友人としての死神』
収録曲
≪DISC 1≫
1〜7.ピアノ協奏曲 第2番 イ長調                              
8〜13.デ・プロフュンディス“深き淵より”
14〜17.シューベルト〜リスト さすらい人幻想曲

S125
S691
S336
DISC INDEX DISC.1≫ ≪DISC.2 , DISC.3≫
感想 ≪DISC.1≫
1〜7.ピアノ協奏曲 第2番 イ長調        S125  
     1839/49/53/57/61年
楽譜の表紙に“交響的協奏曲”と書かれているそうです。ピアノ協奏曲第2番は、ちょうど53年の改訂頃にアルテンブルクへ来訪した、リストに“ハンス II”※1と呼ばれることになる、ハンス・フォン・ブロンザートに献呈されます。初演は1857年1月7日、指揮はリスト、ピアノはブロンザートによって行われました。

ピアノと管弦楽が、渾然一体となっており、交響詩としての性格が強く、ウェーバーの“コンツェルトシュトゥック”の影響を非常に感じる作品です。1859年に2台のピアノ版(S651)に編曲されています。

※1 VY P187。ハンス・フォン・ビューローと名前が似ているため。

Concerto No.2 in A major
(21:04 HYPERION CDA67401/2)
8〜13.デ・プロフュンディス “深き淵より”    S691    1834/35年
リストがピアノ協奏曲群をスケッチしだす1830年代に作られた充実した傑作です。リストが、大作のレベルで文学的世界を音楽化した最初の成果だと思います。

≪リストとラムネ神父≫
1834年にリストはフェリシテ・ロベール・ド・ラムネ神父の著作『Paroles d’un croyant』を読み、深い感銘を受けます。ラムネ神父は、その頃、異端的な思想から時の教皇グレゴリオ16世から教会追放を宣告され、フランス、ブルゴーニュ地方のシャニーに隠遁していました。リストはラムネ神父に手紙を書き、自分がいかに『Paroles d’un croyant』に感銘を受けたかを伝えます。するとラムネ神父はリストを自分のもとへ招待します。そしてリストは1834年の夏と秋に数週間ずつシャニーで過ごすことになります。リストはラムネ神父と接することにより、宗教観、芸術観において強い影響を受けることになります。

“デ・プロフュンディス”はそのような背景から産まれてきた作品です。テキストは詩編130(129)からとられました。1835年1月14日のリストがラムネ神父に宛てた書簡で、リストが“デ・プロフュンディス”を作曲中であり、ラムネ神父に献呈しようとしていることがわかります。この曲はほとんど完成しますが、出版のレベルまで到達しませんでした。そのため未完成の位置付けになります。何種かの録音が発表されていますが、すべて演奏家によって加筆がされています。ハワードの演奏では、ローゼンブラットが提供した草稿に、最後の方の小節をハワードが加筆しています。オーケストラパートはすべてリストによるものとのこと。

ハワードは“デ・プロフュンディス”に、1830年にベルリオーズがリストに紹介した“ファウスト”の影響を見ており、特に緩徐部は“ファウスト交響曲”(S108)のグレートヒェンに似ているとのこと。ですが僕はあまりそのような感じを受けませんでした。むしろ“デ・プロフュンディス”は、ところどころで見せるグロテスクな響き(ピアノの低音の強い打鍵など)が、ベルリオーズの音楽性に似ていると思います。またハワードによると最初の方のカデンツァが、同じ1834年に書かれている“幻影”(S155)に似ているとのこと。

“深き淵より”湧き出るかのような、オーケストラの導入で始まります。その後、優雅で美しい響きに満ちたピアノソロとなります。そしてピアノとオーケストラで冒頭の音世界を推し進め、壮大な盛上がりを見せた後、この曲で最も印象的な聖歌の主題へとつながります。音の高低のほとんどない弔鐘のような響きの主題がそうです。全体の構成は特に複雑ではなく、いくつかのブロックをピアノソロ、管弦楽、ピアノと管弦楽と編成を変え、アレンジを変えながら広げていく感じです。構成の点で、他のピアノと管弦楽のための作品のレベルに達していないかもしれませんが、いたるところで印象的な響きや効果が見られる傑作です。ピアノと管弦楽で、深く沈みこむような聖歌の主題を奏でるところは、異様な美しさを持っています。ハワードの演奏で#9、5:00あたりでオーケストラの最大音量で聖歌の主題を鳴らす劇的な効果は、その後の傑作“グラナーミサ”を思わせます。またこの聖歌の主題は、シューベルトの“さすらい人幻想曲”の主題に似ていると思います。

この“デ・プロフュンディス”(S691)の聖歌の主題は、その後“死の舞踏”の第1バージョン(126i)にも使われます。リストの宗教合唱曲に同じく詩編130(129)をテキストとした“詩編第129編 深き淵より、われ汝を呼ぶ”(S16)がありますが、この“デ・プロフュンディス”(S691)とは音楽的に関係はありません。

De Profundis - Psaume instrumental pour orchestre et piano principal
(36:13 HYPERION CDA67403/4)
14〜17.シューベルト〜リスト さすらい人幻想曲     S366     1851年
シューベルトの“さすらい人幻想曲”はリストにとって、非常に重要な作品で、1851年のこのピアノと管弦楽のための作品(S366)の他に、2台のピアノのための作品(S653)にも編曲しています。それは明らかに同年に作曲が開始されるピアノソナタロ短調に影響を与えました。また後年1868年頃には独奏曲版で、演奏を容易にする校訂を行っています。

とても自然にアレンジされた協奏曲です。エンターテインメント性も十分あり、楽しめます。

Gosse Fantasie “Wanderer”
(21:55 HYPERION CDA67403/4)

DISC INDEX DISC.1≫ ≪DISC.2 , DISC.3≫ 
収録曲
≪DISC.2≫
≪DISC.2≫
1〜6.悲愴協奏曲 ホ短調
7〜10.ウェーバー〜リスト コンツェルトシュトゥック へ短調
11〜20.死の舞踏 ピアノと管弦楽のための幻想曲 “デ・プロフュンディス”バージョン
21.死の舞踏 変奏7 初期バージョン
22.ハンガリー幻想曲

≪DISC.3≫
1.メンター〜リスト?〜チャイコフスキー
 ハンガリーのツィゴイネルワイゼン(ハンガリー風の協奏曲)

S365 a
S367 a
S126@
S126@
S123


S714

感想 1〜6.悲愴協奏曲 ホ短調            S365a    1885/6年
これは“演奏会用大独奏曲”(S176)を原曲とするものです。

タイトル ジャンル 作曲年
S175a 演奏会用大独奏曲 ピアノ独奏曲 1850年
S176 演奏会用大独奏曲 ピアノ独奏曲 1849/50年
S365 演奏会用大独奏曲 ピアノ協奏曲 1850年
S258 悲愴協奏曲 2台のピアノ 1856年
S365a 悲愴協奏曲 ピアノ協奏曲 1885/86年

S176は1850年にピアノと管弦楽版(S365)が作られます。1856年に2台のピアノ版として“悲愴協奏曲”(S258)が作られます。このS258は、リストの弟子達の間で親しまれていましたが、出版は1866年になります。1872年頃にリストの弟子のエデュアルト・ロイスが、この1866年出版の版を元にピアノと管弦楽版を作ります。ですがリストが、このロイス編曲の版を知ったのは1885年のことでした。そしてリストが亡くなる年にあたる1886年に、このロイス編曲版にリストが手を加えたものが、このS365aということになります。

ピアノと管弦楽版の“演奏会用大独奏曲”(S365)と比べると、使われる主題、大きな枠組みとしては同じ曲とはいえ、だいぶアレンジが変わり、曲も長くなっています。ピアノパートとオーケストラパートが分離し、さらにオーケストラパートはより充実することでピアノ協奏曲らしくなっています。

ハワードの解説では、“Lento quasi marcia funebre”に登場する独特のリズムが、他にオラトリオ“キリスト”の3曲目“スタバート・マーテル”のラストの1節“Quando corpus morietur・・・”のリズムで使われるのみ、ということが語られています。僕にはちょっと聴いた感じ分からなかったです。ハワードはここの部分のアレンジが“アヴァンギャルド”と言って特に注目しています。ティンパニと管楽器が後ろにまわり暗いリズムを奏でる上に、低音のピアノの打撃音による旋律がのるところなど、斬新な感覚に満ちています。

Concerto pathetique in E minor
(25:22 HYPERION CDA67403/4)
7〜10.ウェーバー〜リスト コンツェルトシュトゥック へ短調 S367a  1872年頃
ウェーバーの“コンツェルトシュトゥック へ短調”作品79は1821年に作曲されました。この曲には標題がありませんが、ウェーバーは弟子のベネディクトに次のようなストーリーを語ったとのこと。

城主の妃が、長年、十字軍の一員として戦地に赴いている夫に想いをはせます。彼女は、激しい戦闘を想像し、そのうち夫が瀕死の重傷を負い倒れているという妄想にとらわれ、そして気を失います。そのとき遠くから騎士達の奏でる音が聞こえ、彼女の夫が凱旋するのです。

単一楽章のピアノ協奏曲として、またストーリーを持つ音楽として、リストに強い影響を与えた作品です。特に僕はリストの“ピアノ協奏曲第2番”(S125)が構成の点で非常に影響を受けていると考えています。ヴィルトゥオーゾ時代のリストはこの曲をピアノ独奏曲としてアレンジし好んで演奏しました。

この晩は1868年、1870年、コッタ社から出版された教則版のものになります(1868年の版に、ピアノ独奏版S576aが収録されています)。1883年に2冊を合わせた形で再出版されているので、このピアノと管弦楽版はその時に追加されたものでしょう。ピアノと管弦楽版といっても、教則版としての意味合いでリストはピアノパートにのみさまざまな改訂を加えた形です。オーケストラパートはウェーバーのオリジナルのままとなります。そのリスト改訂のピアノパートのとおりにハワードが、オーケストラに合わせて演奏していることになります。

前半はほとんど変更なく、“戦闘の想像”不穏な感情が膨れ上がるような箇所から、随所でヴィルトゥオジティを発揮した華々しい旋律を加え音を厚くしています。またマーチの部分ではリスト編曲版では、オーケストラの旋律とユニゾンでピアノの高音が奏でられます。エンディング近くのピアノソロではグリッサンドが加えられます。

Konzertstuck in F minor
(17:28 HYPERION CDA67403/4)
11〜20.死の舞踏 ピアノと管弦楽のための幻想曲 
       “デ・プロフュンディス”バージョン      S126@ 1849年
異様な雰囲気を持つ“死の舞踏”です。普及している版よりもさらに恐ろしさが増しています。第1バージョンの“死の舞踏”は個人所有のもので手に入らないらしく、このバージョンはフルッチョ・ブゾーニが1919年に出版した版を使っているそうです。“1849年作曲”というデータはブゾーニの記述によるものだそうです。

冒頭でいきなり低音のゴングの音が鳴らされます。この異形さが、リストや他のロマン主義作品にあまり感じることのできない“恐怖”というものを感じさせます。ドレーク・ワトソンが紹介している、リストがビューローに書いた(書簡でしょうか?)文章で、“われわれは、大衆の趣向に合わせたホルバインを非難する”というようなことが語られているのですが、僕には普及版の“死の舞踏”に、そこまでの(ホルバイン以上の)“恐怖”というものを感じませんでした。ですが、こちらの“デ・プロフュンディス”バージョンでは、グロテスクさ、恐怖、というものを感じます。

リストの作品の中でも極めて異例な楽器であるゴングの使用に注目せざるを得ません。ケルビーニ作曲の“葬送行進曲”“レクイエム”でも、このゴングの音は使われます。ゴングの音が持つイメージが“死者を弔う”

そしてもうひとつの大きな違いが後半で、“デ・プロフュンディス(深き淵より)”につながることです。この深遠を蠢く暗い葬送曲のような響きから、また“ディエス・イレ”のテーマへ戻る箇所のオーケストラにも、強いエネルギーを持った恐怖感を感じます。

Totentanz - Phantasie fur Pianoforte und Orchester “De Profundis’ version”
(Total 17:23 HYPERION CDA67401/2)
21.死の舞踏 変奏7 初期バージョン          1849年頃?   
ブゾーニ版では変奏7のみ初期バージョンが参照として付けられており、ハワードはその初期バージョンも録音しています。本体の変奏7の方が、オーケストラとの掛け合いの後にピアノ独奏のみの部分がある程度の長さで入るのに対し、こちらではほとんどありません。

Totentanz − Variation 7
(0:42 HYPERION CDA67401/2)
22.ハンガリー民謡の主題に基づく幻想曲(ハンガリー幻想曲)
    S123 1852〜55年
 
“ハンガリー幻想曲”として知られている曲です。1852年に作曲され、翌1853年にハンス・フォン・ビューローの独奏でブダペストで初演されました。冒頭で使われる旋律は、ハンガリー民謡の“鶴は高く飛ぶ”というものです。“21のハンガリーの民族旋律と狂詩曲”から“第10番 ニ長調 アダージョ・ソステヌート・ア・カプリッチョ”(S242/10)と“第21番”(S242/21)を使用しています。

ハワードによると“ハンガリー狂詩曲第14番”は1853年出版で、“ハンガリー幻想曲”と同じ頃の作曲ですが、着手は“ハンガリー幻想曲”の方が早いです。これら2曲は“21のハンガリーの民族旋律と狂詩曲”の第21番を母体として産み出された2つの曲と考えられます。

導入部から徐々に雄大に盛り上がり、構成がつかみやすいこともあり、協奏曲にも向いています。

Fantasie uber ungarische volksmelodien
(16:18 HYPERION CDA67401/2)
≪DISC.3≫
1.メンター〜リスト?〜チャイコフスキー
  ハンガリーのツィゴイネルワイゼン(ハンガリー風の協奏曲)  S714  1885年
ハワードの独奏曲全集第53巻bの3枚目はボーナスディスクです。この3枚目に収められた曲は、リストの曲である、と断定することが難しいものです。

ハワードも解説において、明確な事実から書き始めています。この作品は、1)ゾフィー・メンターが友人のチャイコフスキーに素材となるスコアを渡し、オーケストレーションを依頼。1892年にチャイコフスキーは完成させた。2)チャイコフスキーはその翌年に亡くなり、この曲が出版されることを知らなかった。

次に背景的な事実は、ハワードの解説によると、まず1885年8月3日付けのメンター宛のリストの書簡で、“ゾフィー・メンターの協奏曲の作曲が始められた”という記述があるそうです。そしてリストは2日間のみメンターの住むチロル地方のイッター城に行っています(1885年10月18日のオルガ宛の書簡が、イッター城のゾフィー・メンター気付になっています)
※1

※1
はっきりと分かりませんがWEB上で公開されている資料で、メンターはイッター城を1884年に購入。定住するのは1887年から1902年のようです。またチャイコフスキーは1892年に2週間イッター城を訪れ、そこでメンターから依頼されたようです。(以上は the Tyrolean Land of Music で公開されている資料を参照しました)

ハワードは以上の事実に加えメンターがリストの未発表の旋律、作品等を収集していたことを論拠とし、次のストーリーを組んでいます。メンターが集めていたハンガリーの旋律を使って、リストがイッター城に訪れた際に、二人で協力して作曲。そしてリストは自分の名前を隠してチャイコフスキーにオーケストレーションを依頼するようメンターに示唆。リストの名前が隠されたことは、リスト自身がチャイコフスキーが自分のことをそれほど好んでいないことを知っていたため。という筋書きです※2

※2
ヘルム著『リスト』の野本由紀夫さんの注釈ではストーリーは異なります。野本さんのストーリーでは、1885年メンターの依頼でリストが作曲したが、オーケストレーションまで辿り着かなかった。そこでメンターがリスト作であることを隠してチャイコフスキーにオーケストレーションを依頼した、となっています。そして最近になってウインクルホーファーが、メンターの手が入っているとはいえ、リストの作品である、ということを認めたとのこと(音楽之友社 P157)。ハワードと野本由紀夫さんのストーリーを合わせると、いくらかはリストの創造が入っていることは間違いないようです。

僕はリストの示唆というのは、おそらくリストの日常的な友人との関係にある会話のようなものではないか(“シシー伯のシャコンヌを編曲してあげよう”というような)?と思います。“あとは君の友人のチャイコフスキーに頼んだらどうか?”ということを言ったのでは、と推測します。

全体の構造の印象が“ハンガリー幻想曲”に似ています。オーケストレーションは明らかにチャイコフスキーのものです。ハンガリー風の雰囲気に彩られていますが、ピアノパートですらリストらしさはほのかに感じるぐらいです。僕は聴いた感じ、ほとんどリストの手は入っていないのでは?と思います。ピアノパートの段階で一部を校訂しているぐらいではないでしょうか。

Ungarische Zigeunerweisen (Konzert im ungarischen Style)
(17:37 HYPERION CDA67401/2)

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