演奏 レスリー・ハワード       
タイトル 『リスト ピアノ独奏曲全集 VOL.53 a ピアノと管弦楽のための作品 I』
データ
1997/98年録音 HYPERION CDA67401/2
ジャケット アルフレッド・レーセル『Death as an Avenger』
収録曲
≪DISC 1≫
1〜4.ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調                              
5〜7.ベートーヴェン〜リスト “アテネの廃虚”のモティーフによる幻想曲        
8〜14.死の舞踏 ”怒りの日”による変奏曲   最終ヴァージョン            
15〜16.ベルリオーズ〜リスト ”レリオ”の主題による交響的大幻想曲         

S124
S122
S126ii
S120
DISC INDEX DISC.1≫ ≪DISC.2
感想 ≪DISC.1≫
1〜4.ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調        S124      1856年
リストの曲の中で最有名な曲の一つです。現代のコンサートにおいても数多くの演奏家がとりあげています。

作曲は1830年代から開始され、その後1849年、1853年、1856年に改訂されます。1855年2月の時点で、ワイマール宮廷でベルリオーズの指揮、リストの独奏で初演されています。56年の完成後の初演は、1857年1月に同じくワイマールにおいてリストの指揮、ブロンザートの独奏で行なわれました。曲は音楽家であり出版社主のリトルフに献呈されました。

とにかく華麗なピアノの響きが魅力の、リストならではの大ピアノ協奏曲です。巨大なだけでなく、導入部の後にくる管楽器による美しい旋律や、細やかな装飾など、響きに対する繊細な神経が隅々まで行き届いています。輝かしい“響き”に力点が置かれたことは、アレグレット・ヴィヴァーチェの部分でトライアングルが多用されていることにも現れていると思います。楽想全体がリストの“挑戦”“野心”というものを強く感じる作品で、若々しさと充実した構成力を備えています。

ハワードの解説によると、冒頭の有名な主題について、リストは“誰も理解できない”という言葉を言ったとか。それに対してピアノが力強く応える、という構成のようです。このあたりにも“ピアノ協奏曲第1番”の“挑戦”的な性格を感じます。

Concerto No.1 in E♭ major
(20:11 HYPERION CDA67401/2)
5〜7.ベートーヴェン〜リスト “アテネの廃虚”のモティーフによる幻想曲
    S122   1855年
ピアノ独奏曲版、2台のピアノのための版、ピアノ連弾版もある“アテネの廃墟”による幻想曲のピアノ協奏曲版です。協奏曲版は1837年、1848年〜52年、1855年、と3度の改訂を経ています。この協奏曲版の初演は、1853年の4月にハンガリー国立劇場で、ハンス・フォン・ビューローの独奏、フェレンツ・エルケルの指揮で行なわれました。ニコライ・ルービンシュタインに献呈されました。

ピアノ独奏曲版よりも、エンターテインメント性、ヴィルトゥオジティに優れています。管弦楽による出だしが終った後に入ってくる、ピアノの落雷のような登場には衝撃を受けます。ピアノ独奏の後にくる、オーケストラパートとピアノの響きの絡みも絶妙です。後半は有名なトルコ行進曲です。この作品は曲調も明確で親しみやすく、もっとポピュラリティを得てもおかしくない、魅力に溢れた作品です。

Fantasie uber Motive aus Beethovens Ruinen von Athen
(13:16 HYPERION CDA67401/2)
8〜14.死の舞踏 ”怒りの日”による変奏曲   最終ヴァージョン 
     S126ii  1852〜59年
リストは1837年にマリー・ダグーと長女ブランディーヌと共に、イタリアへ行ったとき、ピサの墓所カンポ・サントにあるフレスコ画“死の勝利”を見てインスパイアされます。この“死の勝利”はオルカーニャの作とされてきましたが※1、最近の研究では14世紀のフランチェスコ・トティーニ、あるいはボナミコ・ブッファルマッコという画家の作とのこと。

※1
リストも、オルカーニャ作と考えていました。重要な芸術観が語られる1839年10月2日にサン・ロレンツォで書かれたベルリオーズ宛ての手紙でその記述が見られます。

通常この“死の舞踏”の作曲背景としては以上のことが語られてきましたが、ドレーク・ワトソンは違う考えを紹介しています。その考えとはウィンクルホーファーという学者が発表した考えとのこと。ワトソンは、下の≪死の舞踏≫のところに書いた、ホルバイン作の同名の連作版画集が直接のインスピレーションではないか、という考えをとっています。ワトソンは、リストがビューローに書いた(書簡でしょうか?)文章を紹介しており、それには“われわれは、大衆の趣向に合わせたホルバインを非難する”というようなことが語られています。ワトソンは続けて“死の勝利”が影響を与えたのは、“呪い”(S121)の方ではないか?としています(“呪い”は1833年頃には完成しているので、1840年の改訂から影響が入り出すということになると思います)。僕は、リストにとって、インスピレーションの源は何か?というのを、限定するのは、あまり意味がないのでは、と思います。さまざまな芸術の根源的な関連に早くから着目していたリストですから、“死の勝利”も“死の舞踏”もいっしょになって、リストの“死の舞踏”の創作に影響を与えたのではないでしょうか?

1840年代終わりから作曲が開始され、1849年に完成します(S126i の第1バージョン)。その後1853年、1859年に改訂されます。初演は1865年にハンス・フォン・ビューローのピアノでハーグで行なわれました。初演は失敗に終ったとのこと。 1865年にはピアノ独奏版(S525)が出版され、1859−65年の間に2台のピアノ版(S652)があります。また1860年のスケッチとして断片(S701d)があります。

この曲はトーマス・デ・セラーノ作とされる“怒りの日(ディエス・イレ)”の有名な旋律、“死”をイメージさせる旋律の変奏曲という形をとっています。全体の構成は次のとおりになります。

1.導入部 アンダンテ − プレスト − アレグロ − アレグロ・モデラート
2.変奏 I  アレグロ・モデラート
3.変奏 II (ル・イステッソ・テンポ) − ウン・ポーコ・アニマート
4.変奏 III モルト・ヴィヴァーチェ
5.変奏 IV (カノニーク)− レント − プレスト
6.変奏 V ヴィヴァーチェ.フガート − カデンツァ
7.変奏 VI センプレ・アレグロ(マ・ノン・トロッポ)− ウン・ポーコ・メノ・アレグロ
        − カデンツァ − プレスト − アレグロ・アニマート

とにかく恐ろしさを上手く表現した作品で、ピアノも管弦楽も迫力を持っている作品です。ピアノと管弦楽が上手く絡み合い、融合され、素晴らしい響きに満ちています。一定のテーマを取り扱っているため、分かりやすいばかりでなく、次々と表情を変える変奏が聞き手を飽きさせません。リストの2大ピアノ協奏曲に勝とも劣らない傑作です。

≪死のテーマ≫
この“怒りの日”のテーマは、ベルリオーズの“幻想交響曲” の最終楽章にも使われています。日本では“死”をイメージさせる旋律として、なぜかショパンの“ピアノソナタ 第2番”の“葬送行進曲”が定着してしまいましたが、西欧諸国では、こちらの“怒りの日”のテーマが定着しているようです。スタンリー・キューブリックの映画『シャイニング』、イングマール・ベルイマンの映画『第七の予言』でも、このテーマが使われています。

≪死の舞踏≫
“死の舞踏”は15世紀から16世紀にかけて、人々に親しまれた文化です。当時のヨーロッパでは特にペストの流行などがあり、“死”が非常に身近な存在でした。ペスト禍による“死”は誰彼と分け隔てなく襲ってくるもので、“死の舞踏”は、そんな時代に生まれて来たイメージです。ホルバインの連作絵画“死の舞踏”では、様々な身分・職業の人間の傍らに骸骨の姿をした“死”が訪れている、というイメージです。墓地で死者達が輪となって踊り、生きている者を輪の中へ加えて、またその踊りは陰鬱な踊りともなり、それが“ダンス・マカーブル(陰鬱な踊り)
※2”となりました。ドイツでは“トーテンタンツ”と呼ばれます。“死の舞踏”の文化というのは、とても根が深く絵画、文学等で繰り返し取り上げられました。リストやサン=サーンスの作品はこれらの“死の文化”の上になりたっているものです。

※2
マカーブルの語源ははっきりとしておらず、ユダヤの愛国者マカベ、あるいは最初に“死の舞踏”のテーマで絵画を描いたのがマカブレという画家だった、などの説があります。

≪死の勝利≫

“死の勝利”の物語は、3人の王子が、隠者に呼び止められ、横たわる棺桶を見せられます。王子たちが棺桶を覗き込むと、そこには自分達の死骸が入っていたのです。“死”を題材とした絵画、等は多くのものがあり、一連の“死の舞踏”の中には、骸骨のオーケストラを描いたものもあります
※3

※3 『死の舞踏』 水之江有一著 丸善ブックス 028  1995年初版/1995年初版

Totentanz − Paraphrase uber “Dies irae”
(15:46 HYPERION CDA67401/2)
15〜16.ベルリオーズ〜リスト ”レリオ”の主題による交響的大幻想曲
       S120 1834年
ベルリオーズの“レリオ または生活への復帰”は、“幻想交響曲”の続編として1831〜32年に作曲され、1832年にパリで初演されました。音楽を伴う演劇という作品で、独唱者、合唱、オーケストラ、ピアノと一人の演技者によって構成されます。この作品は総合芸術のようなもので、物語の進行上、必要な措置として、ベルリオーズは音楽を奏す部隊は独唱者も含め、聴衆からは見えない位置に配するよう指示しています。

“幻想交響曲”は、音楽家は麻薬を飲み、それが致死量に至らなかったため、数々の悪夢を見るというコンセプトでした。その音楽家が夢から覚め、“神よ!私はまだ生きている!”と叫ぶところからスタートします。“Lelio”という音楽家の名前は、当然“Berlioz”のアナグラムだと思います。“レリオ”は複雑なリブレットを持っており、それは“幻想交響曲”よりもはるかに重要な役割を占めています。全体がレリオの独白と、その独白に合わせた音楽によって進んでいきます。

第1章:漁夫
第2章:亡霊の合唱
第3章:山賊の歌
第4章:幸福の歌
第5章:エオリアン・ハープ − 回想
第6章:シェイクスピアの『テンペスト』によるファンタジー

リストの協奏曲版の編曲は1834年に行なわれ、同年にパリで初演されました。また1836年12月18日にもリストはパリで演奏しています。リストが使用している部分は、第1章“漁夫”と第3章“山賊の歌”です。この協奏曲は、“主題による”作品であってリストの創造の比重も大きいです。特に原曲ではほとんどがピアノ伴奏歌曲の形式である、第1章“漁夫”の部分はその傾向が強いです。同じ頃に書かれた“デ・プロフュンディス”(S691)と同じく、リストの初期のピアノと管弦楽のための作品の傑作に数えられます。

Grande Fantaisie symphonique (on themes from Berlioz’s Lelio)
(29:44 HYPERION CDA67401/2)

DISC INDEX DISC.1≫ ≪DISC.2≫ 
収録曲
≪DISC.2≫
≪DISC.2≫
1〜4.ピアノと弦楽のための協奏曲ホ短調 “呪い”
5〜9.ピアノ協奏曲 変ホ長調
10〜13.演奏会用大独奏曲
14〜26.ヘクサメロン(演奏会用小品)
27.ウェーバー〜リスト 華麗なポロネーズ 

S121
S125 a
S365
S365 b
S367
感想 1〜4.ピアノと弦楽のための協奏曲ホ短調 “呪い”
1827年リストは15才のときロンドンで演奏会を開き、その場で自作の協奏曲を演奏しました。ですが、その協奏曲は現在では紛失してしまっています。その後16ページの草稿が見つかり、そこにはこの“呪い”で使われているいくつかの主題が見受けられる、とのこと。現在残されている版は、1847年頃に採譜されたものとのこと。“呪い”は1827年〜1847年の間に作られています。音楽学者は1833〜1835年頃がこの作品のメインの成立時ではないかと考えています。1830年代の半ばからリストは、一連の主要ピアノ協奏曲のスケッチを始めており、“デ・プロフュンディス”(S691)、“レリオ”の主題による交響的幻想曲(S120)もうまれているので、この頃の作品と考えるのが自然です。

“呪い”という標題は、曲の冒頭の主題のところに、リストが楽譜で書き記した言葉からきています。他にもリストはカルマートの箇所に“傲慢” “苦悩” 、 ヴィヴォの箇所に “嘲り”という言葉を書き記しています。

ハワードはこの曲の主題が、リストの他の作品に使われていることを指摘しています。冒頭の感じは“巡礼の年 第1年 スイス”の5曲目“嵐”(S160/5)の冒頭に似ています。また僕にはちょっと分からないのですが、“ファウスト交響曲”(S108)の“メフィストーフェレス”の主題となるもの、また“忘れられたワルツ 第3番”(S215/3)の主題に似ているものも入っているとのこと。

“呪い”という言葉にふさわしいインパクトのあるピアノの導入で始まります。“恐ろしさ”というよりも、若い頃の作品らしく瑞々しい響きが魅力です。弦楽のアレンジも導入部のあたりなどよく出来ています。

ローゼンブラットは、この曲を、ピアノと弦楽6重奏の作品と考えており、室内楽版として演奏されたディスクもいくつかあります。

Concerto in E minor for Piano and strings “Malediction”
(15:47 HYPERION CDA67401/2)
5〜9.ピアノ協奏曲 変ホ長調 (遺作)  S125a      1836〜39年頃
この曲は新しく発見されたピアノ協奏曲で、“第3番”と呼ばれることもあります。楽譜の存在は早くから知られていましたが、長い間、同じ調性の“ピアノ協奏曲 第1番”(S124)の草稿だと考えられてきました。1983年にミヒャエル・ザッフェルが“別の作品ではないか?”と考え、1988年に音楽学者のジェイ・ローゼンブラットが別の作品であると断定したようです。1990年5月3日にシカゴで初演されました。

作品は1836年〜1839年の間に書かれたと考えられ、リストはこの協奏曲に1820年代の若い頃の作品を使っています。冒頭のオーケストラの主題は“華麗なアレグロ”(S151)“華麗なロンド”(S152)中間部のメロディアスな旋律は“8つの変奏曲”(S148)から主題を使っています。

この頃にはすでに2大ピアノ協奏曲のスケッチも開始されています。2大ピアノ協奏曲が、その後もワイマール時代に、しっかりとした構成力を伴った作品としてリファインされるのに対し、このS125aは1830年代後半の状態のままということになります。

オーケストラの少し陰鬱な迫力を持つところなど、“デ・プロフュンディス”(S691)の世界を感じます。“第3番”のピアノ協奏曲として聴くよりも、若い頃の“呪い”(S121)や“デ・プロフュンディス”(S691)の仲間と考えると、僕にはしっくりきます。

Concerto in E♭ Op.posth
(13:58 HYPERION CDA67401/2)
10〜13.演奏会用大独奏曲              S365      1850年
このピアノと管弦楽版の“演奏会用大独奏曲”は、ピアノ独奏曲版と同時期の1850年に作曲されています。“演奏会用大独奏曲”のピアノと管弦楽版の実像は複雑になっており、これはオーケストラパートとピアノパートの草稿からハワードが用意したものです。ピアノパートの草稿は、リストがラフにオーケストレーションを頼むために用意したもののようです。ちょっと僕にはハワードの解説がよく理解できないのですが、ハンフリー・サールはピアノ独奏版の“演奏会用大独奏曲”に、自分のオーケストレーションで演奏したとのこと。

ワイマール時代の傑作群に比べ、構成感がまだしっかりしていないとはいえ、もともとが魅力的な主題を豊富に持つ曲であるため、このピアノと管弦楽版の“演奏会用大独奏曲”はかっこいい作品です。特に管弦楽によるパートが入ることで、この曲の“ファウスト交響曲”と“ダンテ交響曲”との近親性を強く感じます。

Grand solo de concert
(14:50 HYPERION CDA67401/2)
14〜26.ヘクサメロン(演奏会用小品)
       − “清教徒”の行進曲によるピアノのための大変奏曲集  S365b 1839年頃
これはピアノ独奏曲“ヘクサメロン”(S392)のピアノと管弦楽版です。リストはピアノ独奏版の楽譜を出版する際に、各部にオーケストラの指示をしているそうです。リストは当時、実際にピアノと管弦楽版で演奏したとのこと。1840年3月27日のシューマンに宛てた手紙で、リストは管弦楽を伴う“ヘクサメロン”を演奏したことについて、触れています。ですが完全な楽譜は残っておらず、ハワードの演奏は、ハワードによる補筆が入っているようです。

ピアノパートはほとんどピアノ独奏版と同じで、正直、そこに取って付けたようなオーケストラが入るような感じです。全体の感じは音色が増えた分、ピアノ独奏版よりも、“演奏会用小品” “サロン音楽”という趣が強くなっているように感じます。エンディング間際は、ピアノ協奏曲版ならではの迫力が楽しめます。ヘクサメロンはさらに2台のピアノ版(S654)にも編曲されています。

Hexameron − Morceau de Concert − Grandes Variations de Bravoure pour Piano sur la Marche des Puritains de Bellini
(22:37 HYPERION CDA67401/2)
27.ウェーバー〜リスト 華麗なポロネーズ    S367   1848〜52年
ウェーバーの“華麗なポラッカ”作品72を、ピアノと管弦楽に編曲したものです。またラルゴの導入部は“大ポロネーズ”作品21からとられています。これはヘンゼルトに献呈されました。ウェーバーの“華麗なポラッカ”は1819年に作曲されており、“笑いこける”という標題がつけられています。1851年頃に作られたピアノ独奏曲版(S455)もあります。

リストは特にウェーバーの作品において、ウェーバーの趣味の良さを大切にした編曲をしていると思います。

Polonaise brillante
(11:28 HYPERION CDA67401/2)

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