演奏 レスリー・ハワード       
タイトル 『リスト ピアノ独奏曲全集 VOL.12 巡礼の年 第3年』
データ
1990年録音 HYPERION CDA66448
ジャケット サミュエル・パーマー『ティヴォリのエステ荘からの眺め』
収録曲
  5つのハンガリー民謡
1.第1曲 ラッサン(レント)
2.第2曲 メルセケルブ(アレグレット)
3.第3曲 ラッサン(アンダンテ)
4.第4曲 キセ・エレンケン(ヴィヴァーチェ)
5.第5曲 ブソングヴァ(レント)

  ハンガリーの歴史的肖像
6.第1曲 セチェーニ・イシュトヴァーン
7.第2曲 エトヴェシュ・ヨーゼシュ
8.第3曲 ヴェレシュマルティ・ミハーイ
9.第4曲 テレキ・ラースロー
10.第5曲 デアーク・フェレンツ
11.第6曲 ペテーフィ・シャンドール
12.第7曲 モショーニ・ミハーイ

13.憂愁の草原
14.ハンガリーの神 左手のための編曲

  巡礼の年 第3年 イタリア
15.アンジェルス!
16.エステ荘の糸杉に 悲歌 1
17.エステ荘の糸杉に 悲歌 2
18.エステ荘の噴水
19.ものみな涙あり ハンガリー風に
20.皇帝マクシミリアン1世を悼んで “葬送行進曲”
21.スルスム・コルダ 心を高めよ
S245
S245/1
S245/2
S245/3
S245/4
S245/5

S205
S205/1
S205/2
S205/3
S205/4
S205/5
S205/6
S205/7

S246
S543 a

S163
S163/1
S163/2
S163/3
S163/4
S163/5
S163/6
S163/7
感想   5つのハンガリー民謡                           S245   1872年
1.第1曲 ラッサン(レント)                          S245/1
“ハンガリー狂詩曲”を思わせる旋律がでてきます。5曲の中でも郷愁を帯びた旋律が魅力です。これら5曲はとくにまとまりもなく、小品を気が向くままにアレンジしたかのようです。

Five Hungarian Forksongs − Lassan(Lento)
(1:13 HYPERION CDA66448)
2.第2曲 メルセケルブ(アレグレット)
イントロは軽やかで愛らしい旋律で、その後、“ハンガリー狂詩曲第14番”を思わせる旋律が登場します。

Five Hungarian Forksongs − Mersekelve(Allegretto)
(0:37 HYPERION CDA66448)
3.第3曲 ラッサン(アンダンテ)
“ハンガリーの神”に似た旋律の登場する小品です。

Five Hungarian Forksongs − Lassan(Andante)
(0:37 HYPERION CDA66448)
4.第4曲 キセ・エレンケン(ヴィヴァーチェ)
“ハンガリー狂詩曲”のイントロに、まるで“忘れられたワルツ”のイントロがつけられたような曲です。

Five Hungarian Forksongs − Kisse elenken(Vivace)
(0:52 HYPERION CDA66448)
5.第5曲 ブソングヴァ(レント)
最初から最後まで不思議な印象を受ける小品です。和声も不思議ですが、旋律が特に独特で、そしてなぜか最後の終結の和音が妙に明るく終ります。

Five Hungarian Forksongs − Busongva(Lento)
(1:38 HYPERION CDA66448)
  ハンガリーの歴史的肖像                     S205      1885年
6.第1曲 セチェーニ・イシュトヴァーン              S205/1
第55巻には、正しい順序による“ハンガリーの歴史的肖像”が収められていますが、こちらは出版された際の順序によります。セチェーニは政治家・著述家です。民族的な旋律と、とても重たい低音のリズムをもつ曲です。

Szechenyi Istvan
(2:33 HYPERION CDA66448)
7.第2曲 エトヴェシュ・ヨーゼシュ                S205/2
エトヴェシュは政治家です。似ているというわけではないのですが、印象的な導入部から華やかな部分に移る感じが、同時期に作られている“メフィストワルツ”の3番、4番あたりを思い出させます。

Eotvos Jozsef
(2:18 HYPERION CDA66448)
8.第3曲 ヴェレシュマルティ・ミハーイ              S205/3
ヴェレシュマルティは詩人で、リストが1840年にハンガリー演奏旅行を行った際、リストに詩を献呈しました。

Vorosmarty Mihaly
(2:40 HYPERION CDA66448)
9.第4曲 テレキ・ラースロー                    S205/4
前半部分がどことなく“死のチャルダッシュ”に似ています。この曲は同年に作曲されている“悲しみの序曲と葬送行進曲”の後半“葬送行進曲”を短くしたものです。またモショーニのピアノ曲“セチェーニ・イシュトヴァーンの死を悼んで”からベースラインを取っているとのこと。

テレキは政治家でありまた著述家で、迫害され自殺したそうです。ドレーク・ワトソンは、この曲の単純な音型を繰り返すところが、現代音楽の主要潮流の“ミニマルミュージック”と近接していることを指摘しています。ですが旋律は明確な区切りとともに少しずつ変化するため、僕は“ミニマルミュージック”から受けるような印象は受けませんでした。

Teleki Laszlo
(2:47 HYPERION CDA66448)
10.第5曲 デアーク・フェレンツ                  S205/5
デアークは政治家で著述家です。7曲の中では比較的、親しみやすい旋律を持っています。

Deak Ferenc
(2:08 HYPERION CDA66448)
11.第6曲 ペテーフィ・シャンドール                S205/6
この曲は“ペテーフィのために”(S195)と同じです。またこの曲はメロドラマの“死せる詩人の愛”(S349 1874年)を編曲しているものです。ペテーフィはハンガリーの国民詩人で、1848年の革命では中心的な活動をし、革命の戦火の中、1849年25歳の若さで生涯を終えました。またペテーフィ作の詩“ハンガリーの神”にリストは歌曲を作曲し、ピアノ独奏曲、オルガン曲に編曲しています。この第6曲は7曲中最も静かな曲となっています。

Petofi Sandor
(4:47 HYPERION CDA66448)
12.第7曲 モショーニ・ミハーイ                  S205/7
この曲は“モショーニの葬送”と同じです。モショーニ(1814−1870)はハンガリーの作曲家です。リストはモショーニの死を悼み、この曲を作曲しました。新しい順序による“ハンガリーの歴史的肖像(S205a)”と、唯一曲自体に違いがあるものです。

Mosonyi Mihaly
(5:39 HYPERION CDA66448)
13.憂愁の草原                             S246    1880年?
これもハンガリー風の作品です。ラッサンとフリスカの部分を持つため、“ハンガリー狂詩曲”により近くなります。ラッサンの部分が大半を占めるため、郷愁を感じさせる曲です。ハワードの解説によると、この曲はリュドミラ・ギジッカ(旧姓ツァモイスカ)伯爵夫人が作った旋律によるものとのこと。またツァモイスカはレーナウの詩をもとにこの曲を作ったとのこと。またこの曲が出版されたのは1885年になります。

Puszta Whemuth(A Puszta Keserve)
(2:20 HYPERION CDA66448)
14.ハンガリーの神 左手のための編曲              S543 a    1881年
これは“ハンガリーの神”の左手のみの演奏用の編曲です。1881年2月26日付けのオルガ宛て書簡で、この左手のみの版が、友人のゲザ・ジチー伯のために作曲されたことが分かります。ゴドフスキーのエチュードなどで、左手のみの演奏のための作品はありますが、リストにはめずらしいです。これには理由があります。それはゲザ・ジチー伯が子供の頃に狩猟の時に負傷し右腕を失っているからなのです。ジチー伯のピアニストとしての腕前は、デレク・ワトソンが“レフト・ハンド・ヴィルトゥオーゾ”と呼んでいることから推量できます。またジチー伯の作品をリストは編曲もしています。“ひげなが蛾のワルツ”(S456)がそうで、もちろん原曲は左手のみの演奏になりますが、リストの編曲はピアノ2手用となります。

ハンガリーの革命国民詩人ペテーフィ(1823−1849)の詩に作られた同名の歌曲の編曲です。この“ハンガリーの神”には他に多くの編曲版があり、オルガン(またはハーモニウム)独奏曲、ピアノ独奏曲、ピアノ(アドリブ)伴奏のバリトン歌曲、ピアノ伴奏による男声合唱曲、管弦楽伴奏による男声合唱曲があります。

Ungarn’s Gott
(3:26 HYPERION CDA66448)
 巡礼の年 第3年                           S163     1877年
“巡礼の年 第3年”は、第1年、第2年と比べると性格が異なります。第1年“スイス”は、異国スイスで過ごした頃の、情景描写をメインとした作品。第2年“イタリア”は、同じように異国イタリアで過ごした頃に、リストが接した数多くのイタリア芸術に対する印象。そしてそれらは1840年代までに作曲され、50年代にリファインされました。

それに対し“第3年”に収められている作品は、1867年が一番早く、多くは1877年に作られています。またローマに定住していた時分に書かれているとはいえ、“旅行”というニュアンスからはほど遠いです。“巡礼の年 第3年”は、晩年のリストの内面的な私的な宗教心から産まれているものなのです。そのため先の“スイス”“イタリア”に比べ、ポピュラリティを得られていませんが、決して作品が劣る、というようなことではなく、巡礼の年の最後を飾るにふさわしい傑作群となっています。

Annees de Pelerinage,Troisieme Annee
(Total 36:49 HYPERION CDA66448)
15.アンジェルス! 守護天使への祈り          S163/1   1877年
“アンジェルス”はジャン=フランソワ・ミレーの有名な絵画“晩鐘”と同じタイトルです。朝、昼、晩の3度に行なわれる“お告げの祈り”、またその時の“お告げの鐘”のことです。第55巻に収められている、1877年の第1草稿(S162a/1)、第2草稿(S162a/2)、1880年の第3草稿(S162a/3)、1882年の第4草稿(S162a/4)、の他に1880年に弦楽四重奏版(S378/2)、1883年にオルガン独奏版(S378/1)が作られています。

不思議なイントロで始まる曲です。主旋律がはっきりした曲なのですが、曲全体は不思議な感じにつつまれています。そして最後にもう一度不思議なイントロに戻ります。このような構成は“ソナタロ短調”でも使われていますが、“アンジェルス!”の音世界が一番近似しているのは“ノンネンヴェルトの僧房”だと思います。

この曲は、コージマの娘ダニエラに献呈されました。オルガ宛の日付なしの書簡で“天使の小さい歌をコージマの長女に書いた”という記述があります。

“巡礼の年 第3年”として定着している版がどこに入るのかちょっとわかりません。第2草稿と第3草稿の間でしょうか。

Angelus!− Priere aux anges gardiens
(5:30 HYPERION CDA66448)
16.エステ荘の糸杉に 悲歌 1               S163/2    1877年
“エステ荘の糸杉に 悲歌1”は、とても重々しいエレジーです。黒田恭一さんが朝日新聞の連載で書かれた“離宮と音楽 第6回”によると、リストはこの曲を1876年に亡くなった“マリー・ダグーを悼んで書いた”となっています※1。確かにマリー・ダグーは1876年に亡くなりました。ですがヘルム著『リスト』で紹介されている、リストがヴィトゲンシュタイン侯爵夫人に宛てた手紙では、リストが“ダニエル・ステルン(マリーの筆名)の死を新聞で知ったが、全く悲しむことができない”ということが述べられています※2。またデサンティ著『新しい女』では、マリーの死について、リストが“ダグー夫人の思い出は苦悩にみちた秘密です”と語ったとのこと※3

そのため“マリー・ダグーの死を悼んで”という考えはちょっと難しいです。おそらく黒田さんは、マリー・ムハノフ・カレルギスの追悼に書かれた“エレジー(悲歌) 第1番”と混同されたのではないでしょうか?

1977年9月13日付けと9月27日付けのオルガ宛書簡で“エステ荘の糸杉に”のことが触れられています。リストは“エステ荘の糸杉に”を“陰鬱”で“侘びしい”作品と呼び、このような“悲しい”作品は、成功を得られるような作品ではない、と語っています。

またリストはエステ荘に林立した糸杉を見たときに、ミケランジェロが最晩年に設計担当した、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会(カルトジオ修道会の修道院)の回廊を思い出す、と語っています。リストはミケランジェロによって回廊に糸杉が植えられていた、と回想しているのですが、ハワードによると、これはリストの思い違いだそうです。サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会の写真を見ても、目を引くような糸杉は見受けられませんでした。ですがリストの連想は、ミケランジェロが死んだとき、フィレンツェに遺体が移されるまで、サンタ・マリア・デリ・アンジェリで安置されていた、という事実にまで及んでいます。エステ荘の糸杉〜サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会〜ミケランジェロの遺体〜リストを取り巻く近親者達の死、老境の自分、というのが“エステ荘の糸杉に”の作曲背景でしょうか。

※1 1993年6月20日 朝日新聞 日曜版 黒田恭一監修“離宮と音楽”第6回 ビラ・デステ 水の庭園で知られた別邸。またこの考え方は、渡辺学而さんもコチシュのCDライナーで書いています。
※2 『リスト』エヴェレット・ヘルム著 野本由紀夫訳 P.220 音楽之友社
※3 『新しい女』 D・デサンティ著 持田明子訳 P.375 藤原書店

≪エステ荘の糸杉≫

ローマの近郊ティヴォリにある邸宅です。グスタフ・フォン・ホーエンローエ枢機卿の取り計らいで、リストは1868年からこの邸宅に住むようになります。エステ荘は16世紀のイッポーリト・デステ枢機卿が修道院を改築したもの。エステ家はルネサンス期に栄華を誇った、北イタリア、フェラーラの名門貴族です。フェラーラで多くの文化を擁護し奨励しました。ルクレツィア・ボルジアが結婚したのもエステ家のアルフォンソ1世です。またクリスティーナ・ベルジョイオーソ侯爵夫人も名前を正確に書くと(非常に長い名前になるのですが・・・)最後に“d’Este”の名前が見えます。写真を見ると、エステ荘に行くまでの間に大きな糸杉の並木道があります。またエステ荘には数多くの噴水があり、これが第4曲で取り扱われています。

Aux cypres de la Villa d’este − Threnodie(I)
(4:46 HYPERION CDA66448)
17.エステ荘の糸杉に 悲歌 2                S163/3     1877年
悲歌 2の方は、悲歌1に比べると、だいぶ気が軽くなる感じです。中間部の流れるような旋律はとても美しいものです。また曲中で、ハンガリー風の旋律が効果的に曲にアクセントをつけています。

この曲は、作曲年代が異なるのですが、“バッハ〜リスト カンタータ“涙し、嘆き、憂い、畏るることぞ”の通奏低音と、ロ短調ミサの“クルチ・フィクス”による変奏曲”(S180  1862年)の出だしと似ていると思います。

Aux cypres de la Villa d’este − Threnodie(II)
(7:43 HYPERION CDA66448)
18.エステ荘の噴水                       S163/4     1877年
リストは水を描写した作品を若い頃より、数多く書いていますが、その集大成ともいえる作品がこの“エステ荘の噴水”です。“巡礼の年 第3年”は精神性、宗教性が強く、とてもプライヴェートな作品であることから、第1年、第2年に比べ、ポピュラリティを得られていません。ですがこの“エステ荘の噴水”だけは特別で、リストの全作品の中でも“ラ・カンパネラ”や“愛の夢 第3番”と肩を並べられるほど有名です。重々しい前2曲の“エステ荘の糸杉に”の後に弾かれると、美しさが際立ちます。

今までのリストの水を描写した作品は、水の流れ、波、という動きが主でしたが、“エステ荘の噴水”においては、噴き上げる噴水の水しぶきを描写しています。涼しげで透明感のある美しい音世界は、後に印象派の作曲家への大きな影響となり、よく言われるところで、ラヴェルの“水の戯れ”、ドビュッシーの映像第1集“水の反映”があります。特にラヴェルは“水の戯れ”の演奏方法について尋ねられたとき“もちろんリストのように”と答えたとのこと。

またリストは“エステ荘の噴水”に、聖書のヨハネ伝第4章第4節から水に関する一節を記載しています。

≪エステ荘の噴水≫
エステ荘は自然と建築が見事に融合した素晴らしい邸宅で、特筆すべきものにエステ荘の多くの噴水があげられます。100mもある“100の噴水”、“オルガンの噴水”、“楕円の噴水”などが有名です。設計はピッロ・リゴーリオとオラツィオ・オリベーリによります。

Les jeux d’eaux a la Villa d’Este
(6:29 HYPERION CDA66448)
19.ものみな涙あり ハンガリー風に                 S163/5   1872年
“巡礼の年 第3年”は、また暗い世界へ入っていきます。“ものみな涙あり”は重く、力強く、そして暗い曲です。タイトルのラテン語はヴェルギリウスの詩句からとられました。全体はハンガリー風の旋法で書かれています。中間部でハンガリー風の美しい旋律が入ります。僕には、これも続く#20のような葬送行進曲のように聞えました。

Sunt lacrimae rerum − En mode hongrois
(5:25 HYPERION CDA66448)
20.皇帝マクシミリアン1世を悼んで “葬送行進曲”        S163/6   1867年
1867年6月19日に処刑されたメキシコ皇帝マクシミリアン1世を偲んで作られました。この処刑は西欧諸国に多大な衝撃を与え、リストも衝撃を受けた一人ということです。

≪マクシミリアン1世の悲劇≫
マクシミリアン1世の悲劇は1862年にさかのぼります。1862年フランスのナポレオン3世はメキシコへ出兵します。前年にメキシコ大統領ベニト・フアレスが宣言した対外債務の支払延期にたいする抗議が大義名分でした。しかしフランスの本当の目的は領土拡大だったのです。債務不履行に対する処置ということで同調したイギリス、スペイン軍はフランスの真意を知ると撤退してしまいます。さらにアメリカはモンロー主義を標榜するためフランスの進出に反対し、物資援助でメキシコのベニト・フアレスを後押し。フランス軍は苦戦することになります。

そこでナポレオン3世が考えたことは、メキシコにハプスブルク家の皇帝を擁立することでした。かつて16〜17世紀にメキシコを支配していたハプスブルク家の皇帝ならば、王政復古として理屈が通ると考えたのです。そこで“都合のいい人物”としてメキシコ皇帝に担ぎだされたのがマクシミリアン1世だったのです。

マクシミリアン1世は、当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟にあたります。理想主義的な性格であったマクシミリアン1世は、フランスとメキシコ保守勢力の思惑に反し、制限された実権の中で、敵対分子の即時処刑を認めるなど、大胆な統治をすすめます。

メキシコ北部でベニト・フアレスの軍は抵抗を続けていましたが、このマクシミリアン1世の施策に激怒。フアレスは自分を後押しするアメリカで南北戦争が終結するやいなや、反撃にでます。フアレスの猛攻に対し、とうとうフランス軍は1867年2月に撤退します。マクシミリアン1世は見殺しにされる形となったのです。5月14日にベニト・フアレスはマクシミリアン1世を戦犯として逮捕、処刑の宣告をします。西欧諸国から助命嘆願がだされたのですが、受け入れられず、1867年6月19日に刑が執行されました。マクシミリアン1世は“顔を撃たないでくれ”という最期の懇願をしたのですが、それも聞き入れられませんでした。

Marche funebre − En memoire de Maximilien I
(4:03 HYPERION CDA66448)
21.スルスム・コルダ 心を高めよ            S163/7       1877年
数あるリストの作品の中で、僕が最もワーグナーを感じる作品です。この曲に比べればリストによるワーグナー・オペラ・トランスクリプションなどには、逆にリストらしさを感じたりします。この曲の持つ高揚感、半音階進行の効果的な使い方など、決してワーグナーの2番煎じではなく、時代精神を象徴する大作曲家リストの優れた芸術性を感じます。より精神性を深め凝縮された“タンホイザー序曲”を聴いているかのようです。この曲は“ものみな涙あり”“葬送行進曲”の後に聴くと、本当に“死の浄化”という効果を受けます。“巡礼の年 第3年”だけでなく、3つの“巡礼の年”の最後を飾るにふさわしい傑作です。

1877年10月14日のエステ荘にて書かれたオルガ宛書簡で、“スルスム・コルダ”作曲のことが触れられています。1877年9月27日付け書簡でも触れられていますが、リストはこの曲(他に“エステ荘の糸杉に”など、巡礼の年 第3年に収められたような深い精神性を持った曲も含め)が、あまり一般受けしないだろう、ということを述べています。

Sursum corda - Erhebet eure Herzen
(2:53 HYPERION CDA66448)


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