演奏 レスリー・ハワード       
タイトル 『リスト ピアノ独奏曲全集 VOL.11 後期作品集』
データ
1990年録音 HYPERION CDA66445
ジャケット アーノルド・ベックリン『浜辺のヴィラ』
収録曲
1.眠られぬ夜 問いと答え
2.灰色の雲
3.瞑想
4.トッカータ
5.諦め
6.子守歌
7.凶星!
8.P-N夫人の回転木馬
9.5つのクラヴィーアシュトゥック 第5番 溜め息
10.眠られぬ夜 問いと答え  オルタネイティブ・バージョン
11.クラヴィーアシュトゥック 嬰ヘ長調
12.5つのクラヴィーアシュトゥック 第1番 ホ長調
13.5つのクラヴィーアシュトゥック 第2番 変イ長調
14.夢の中に 夜想曲
15.5つのクラヴィーアシュトゥック 第3番 嬰ヘ長調
16.忘れられたロマンス
17.5つのクラヴィーアシュトゥック 第4番 嬰ヘ長調
18.悲しみのゴンドラ 第1番
19.悲しみのゴンドラ 第2番
20.R.W.−ヴィネツィア
21.リヒャルト・ワーグナーの墓に
22.別れ ロシア民謡
23.盲目の歌手
24.ハンガリーの神
25.ハンガリー王の歌
26.エデュアルト・レメーニの結婚式のための祝婚曲
27.モショーニの葬送
28.ペテーフィのために
29.悲しみの序曲と
30.葬送行進曲
S203
S199
S204
S197 a
S187 a
S198
S208
S214 a
S192/5
S203
S193
S192/1
S192/2
S207
S192/3
S527
S192/4
S200/1
S200/2
S201
S202
S251
S542 a
S543
S544
S526
S194
S195
S206
S206
感想 1.眠られぬ夜 問いと答え             S203           1883年
リストの弟子のアントニア・ラープ(トニー・ラープ)の詩にインスパイアされて作曲されました。この詩は出版されておらず、内容はわからないそうです。1883年3月に作曲されています。アラン・ウォーカーは1883年2月13日にワーグナーが死んでいることとの関連を示唆しています。“眠られぬ夜 問いと答え”はブレンデルが録音しているため、リストの晩年の作品の中でもよく知られている作品だと思います。ロマンティックな性格と、思索的な性格を併せ持った、リストらしい傑作です。

前半が流れるような、暗く、不穏な響きで妖しく美しく奏でられ、その後、単音で主題が奏でられエンディングにつながります。前半がホ短調で書かれており、後半がホ長調となります。アラン・ウォーカーは、ホ長調という調性はリストにとって“宗教的な調性”であると指摘しています。前半の不穏さは、後半の宗教的な穏やかさで安堵を得る、という構成です。楽曲の構成はとても自由なのですが、“眠られぬ夜 問いと答え”というタイトルがそのままコンセプトとなっているのは明らかです。

1:最初の流れるような箇所が“眠られぬ夜”、次の単音によるマイナーの主題が
 “問い”、その後の単音によるメイジャーの主題、穏やかな帰結が“答え”。
2:もしかしたら、前半が“問い”、単音主題以降すべてが“答え”

になるのかもしれませんが・・・分かりません。

このコンセプトについてのヒントはオルタネイティブ・バージョン(OSSIA)で与えられていると思います。

Schlaflos! Frage und Antwort: Nocturne nach einem Gedicht von A Raab
(1:52 HYPERION CDA66445)
2.灰色の雲                     S199        1881年
1881年8月24日に作曲されました。アラン・ウォーカーによれば、リストはこの年の7月2日に階段から転げ落ち怪我をします。回復は遅く、8月の終わりになっても思うように動けなかったとのこと。階段から落ちた怪我だけでなく、視力の低下、むくみなどにも悩まされました。そんな頃に生み出された曲です。

静かに、曖昧で、霞がかった世界を描いていきます。ブレンデル、ハワードによれば、この曲はストラヴィンスキー、ドビュッシーから賞賛されているとのこと。まさに印象派の先駆的な作品です。

リストの音楽が印象派の入り口にまで到達したのは、壮年期の終わりに集中して信仰のための音楽を書いたことが大きな理由になっていると思います。宗教的大曲ではなく、“ロザリオ”や“コラール”“レスポンソリウムとアンティフォナ”のような作品群です。自身の内面・印象を感じたとおりに素直に音化するスタイルが、最晩年に達し音楽が純粋に自分自身だけのものとなり、印象派のような響きの世界に辿り着いたのでしょう。

Nuages Gris − Trube Wolken
(2:39 HYPERION CDA66445)
3.瞑想                          S204    1877年
ラウロ・ロッシというイタリアの作曲家に献呈されました。イントロのゆるやかなアルペジオが美しい作品です。それが終わると、もう曲はエンディングに向かうようになって行きます。特にイントロのアルペジオの部分はノスタルジックな印象を受けます。

邦題は“瞑想”で定着していますが、英語で並列表記される“Recollection”という語には、“記憶、追想、回想”という意味になります。またボードレールが『悪の華』で“Recueillement”というタイトルで詩を書いており、その詩を元にドビュッシーが歌曲を作っています。

Recueillement
(2:25 HYPERION CDA66445)
4.トッカータ                      S197a   1875−81年頃
メフィストーフェレス的な様相を持つ作品です。白水社の図解音楽辞典によれば“トッカータ”というのはラテン語の“toccare”=触れる、という言葉が語源で、鍵盤に触れるような自由な形式の走句、とのこと。リストのトッカータはそのとおりで、鍵盤上をスイープし駆け抜けるような自由さがあります。

Toccata
(0:59 HYPERION CDA66445)
5.諦め                          S187a   1877年 
1877年10月19日にエステ荘で作曲されました。この曲は“サルヴェ・レジーナ”の空白ページに書かれた断片です。とても美しい和声進行を持つ小品で、コードのトップノートが旋律をうみだし、そして曲の途中で“はっ”とさせるような感じで終ってしまいます。その途中で終ってしまう感じが、タイトルの通り“諦め”という感じを漂わせます。この曲にはピアノ独奏版として第2バージョンがあります。第2バージョンでは曲として完結されています。オルガン版はS263になります。

Resignazione
(0:59 HYPERION CDA66445)
6.子守歌                        S198  1881年頃
この曲は他の多くの曲の元となっており、最も有名なのが交響詩“ゆりかごから墓場まで”(S107)の第1部です。ハンガリーの画家のミハイル・ジチー伯がリストに贈呈したペン画からインスパイアされて作曲されました。関連するすべての作品が1881年作曲です。ハワードによる作曲順序でこの主題を使った曲を列記すると、

最初にピアノによる草稿(S?)、次に連弾曲(S598)、管弦楽版(S107)、そして最後にピアノ独奏版(S512)となるそうです。“子守歌”(S198)と、4つのヴァイオリンによる“ゆりかご”(S133)はどこに入るか、ちょっとわかりません。

ピアノ独奏曲版のS198は弟子のアルトゥーロ・フリードハイムに献呈されました。

Wiegenlied(Chant du berceau)
(2:36 HYPERION CDA66445)
7.凶星!                         S208  1880年頃
“不運!”というタイトルでも一般的に呼ばれています(どちらかに定着させて欲しいのですが・・・)。

冒頭は不穏な旋律で始まり、だんだんと音数を増やして荒々しい響きとなっていきます。中間部の響きで穏やかさが一時的に現れますが、次第に響きはまた薄暗くなっていき、静かに終わります。晩年のリストの小品の特徴として、作品がそれぞれが独自の構成を持っていることではないでしょうか?

アラン・ウォーカーは、“凶星!”の音楽性について“devil in music”という表現を用いています。確かに悪魔的な音楽です。僕は加えてハンガリー的な、葬送的な要素も感じます。

原題は“UNSTERN!,SINISTERE,DISASTRO”という3つの単語が使われています。それぞれの意味が正確に分からないのですが、“不吉な”“災害、カタストロフィー”といった意味を言い換えているようです。またハイネの詩にも“UNSTERN”というタイトルのものがあります。さらにヴァレリー・アファナシエフがロ短調ソナタを収録したCDのライナーで、この曲にインスパイアされた“UNSTERN”という詩を発表しています。

Unstern − Sinistere,Disastro
(3:12 HYPERION CDA66445)
8.P-N夫人の回転木馬              S214 a   1875年〜1881年頃
P−N夫人というのは、ペレ=ナルボンヌ夫人のことで、オルガ・フォン・マイエンドルフの領地内の貴族でありオルガの友人です。オルガ宛のリストの書簡の中でも、名前がところどころ出てきます。エキゾチックな旋律と、とても面白い曲調の作品です。明らかにリストは何かを音楽で描写しています。それは“小鳥に語るアッシジの聖フランシス”や“エステ荘の噴水”に通じる楽しさがあり、またそれらをさらに現代音楽の領域にまで推し進めた成果だと思います。

さて、その描写されている“何か”である、タイトルの“Caroussel”なのですが、この点についてはっきりしません。1度NMさんのサイト“Page de Ferenc Liszt”さんの掲示板でも、NMさんに相談したことがあります。NMさんに教えていただいた、“Caroussel”の意味を書くと、1.回転運動をしながら行われるパレード、パレード場、2.回転運動の装置、3.人が入れ替わる動き、4.回転木馬、という意味があるそうです。またフランスでは通常“Manege”という言葉が回転木馬を指すそうです。

ハワードのライナーを改めて読むと、“ride on a roudabout”という表現が出てきます。これだとストレートに“回転木馬”になるのではないでしょうか?

またEDITIO MUSICA BUDAPESTの楽譜 “性格的小品 II”の解説で、“P-N夫人の回転木馬”の作曲背景が次のように書かれていました。“カーニバルでリストは生涯においてとても面白い光景を目にした。巨体でかしましいペレ=ナルボンヌ夫人が回転木馬に乗っていたのだ。リストは後で「こんな感じだったよ」と即興でピアノで弾いてみせた。オルガがその即興的作品を紙に書き留めておくよう希望し、この作品は書かれた”とのこと。またこのエピソードは、オルガの息子のアレクサンダー・フォン・マイエンドルフ男爵の著作に、載っているとのこと。

なぜ、この点にこだわるのかと言うと、この曲を“回転木馬”の動きを描写している、していない、で音楽の聴き方が変わってしまうからです。少なくとも、ペレ=ナルボンヌ夫人のおかしな回転運動の様子を、リストがからかうように音楽で描写していることは確かです。

この作品は、これだけ知られてきたリストですが、それでもまだ知られざる傑作があることを証明する小品です。ハワードもこの作品を重要視しており、別巻1の“エッセンシャル・リスト”の“予言者リスト”のグループにも取り上げられています。ちなみにハワードが“予言者リスト”のグループに取り上げた曲目は、この第11巻から集中しています。“灰色の雲”“眠られぬ夜!問いと答え”“夢の中に”“トッカータ”そしてこの“P−N夫人の回転木馬”です。

Carrousel de Madame P-N
(0:49 HYPERION CDA66445)
9.5つのクラヴィーアシュトゥック 第5番 溜め息      S192/5   1879年
“5つの小品”はサイクルではなく、オルガ・フォン・マイエンドルフが集めた作品集です。そのため作曲年代がバラバラです。辞典では“オルガに献呈”となっているのですが、献呈されたのか、オルガが集めただけなのか分かりません。ハンフリー・サール、諸井三郎さんの作品表では“オルガ・フォン・マイエンドルフのために”、となっています。

第5番は、晩年のリストの諸作品と同じような不思議さ、奇妙さが漂います。その不思議なニュアンスがなんともいえない美しさをかもし出します。曲も解決せず、まるで謎かけをするかのような終わり方をします。

Sospiri!(Funf klavierstucke No.5)
(2:30 HUNGAROTON HCD11798)
10.眠られぬ夜 問いと答え  オルタネイティブ・バージョン      S203 1883年
“眠られぬ夜 問いと答え”には楽譜の上段に、ほとんど1曲分のOSSIAが書かれており、だいぶニュアンスが変わっています。最もはっきりと分かる異なる点は、前半のアルペジオ部が短く、終わりが、鍵盤を強く叩きつけるような和音の一撃となっていることです。まるでそれは身を苛む不安感を叩き払うような感じを受けます。このことから考えると、

1:最初の流れるような箇所が“眠られぬ夜”、次の単音によるマイナーの主題が
 “問い”、その後の単音によるメイジャーの主題、穏やかな帰結が“答え”

のように僕は考えます。

現代の演奏家でハロー・ルイセナースというチェリストが、“眠られぬ夜 問いと答え”をこのオルタネイティブ・バージョンの方で、チェロとピアノの室内楽曲に編曲しているのですが(CLASSICO CLASSCD379 )、その編曲では、チェロとピアノが“問い”と“答え”を弾きわけており、1の構成をとっています。

Schlaflos! Frage und Antwort: Nocturne nach einem Gedicht von A Raab
(1:43 HYPERION CDA66445)
11.クラヴィーアシュトゥック  嬰ヘ長調           S193   1860年以降
この曲はリストの死後に草稿から発見されました。“5つのクラヴィーアシュトゥック”とは別に分けられています。優美なピアノ小品です。

Klavierstuck in F# major
(1:53 HYPERION CDA66445)
12.5つのクラヴィーアシュトゥック 第1番 ホ長調     S192/1 1865年
歌曲“私は死んだ”(S308、1850年)と同じ主題、つまり“愛の夢 第2番”(S541/2、1850年頃)、と同じ主題です。ハワードの解説では、なぜか“第2番が愛の夢 第2番と同じ”と書かれています。“このディスクにおいて2番目に収録されたクラヴィーアシュトゥック”という意味なのかな?と思ったら、第11巻の“愛の夢”の解説においても、同じように“マイエンドルフのクラヴィーアシュトゥックの第2番でも使われる”となっているので、ハワードの勘違いだと思います。

さらにおかしいのは、上で紹介した、ルイセナースのチェロとピアノ編曲でも、“解説で第2番が 愛の夢 第2番”と同じと書かれています。ハワードの解説を参考にしたために間違えたのでしょうか?さっぱり分かりません。

“5つのクラヴィーアシュトゥック”(S192)は同じ曲集として括られているため、同じ性格の小品集と勘違いしてしまいますが、作曲年が異なることが重要です。性質は3つのグループに分けられると思います。

第1番・・・・・・・・・・・・1850年頃作曲の原曲を元にした優美な作品
第2番、第5番・・・・・1865年、79年印象派や無調音楽につながる性質。
第3番、第4番・・・・・1873年、76年作曲。宗教的小品を洗練させた性質。

Funf klavierstucke No.1
(2:27 HYPERION CDA66445)
13.5つのクラヴィーアシュトゥック 第2番 変イ長調      S192/2 1865年
出だしの旋律が明瞭でありながら、奇妙な感じを受け、不思議な美しさを持つ作品です。最晩年のリストを予見させる作品です。僕は“5つのクラヴィーアシュトゥック”の中で最も美しい作品だと思います。

Funf klavierstucke No.2
(2:05 HYPERION CDA66445)
14.夢の中に 夜想曲                      S207    1885年
旋律線が明確な小品で、まるでパリ時代のリストを思い出させる優美な小品です。ですがやはり旋律はどことなく奇妙で不安定な感じを受けます。2ブロック目で、旋律が駆け上がり、裏打ちで継続して鳴らされるF♯の音に、トリップ感を受けます。“忘れられたワルツ”に似た性格を持っていると思います。

この曲はリストの弟子のアウグスト・ストラーダルに献呈され、ストラーダルによって1888年に出版されました。ストラーダルは『フランツ・リストの思い出』という著作を発表しています。

En Reve − Nocturne
(2:02 HYPERION CDA66445)
15.5つのクラヴィーアシュトゥック 第3番 嬰ヘ長調   S192/3  1873年
簡単な旋律を静かに奏でていく、短くも美しい小品です。1873年、76年に作曲された第3番は、1865年作曲の1番、2番と異なり、瞑想的な“レスポンソリウムとアンティフォナ”や“コラール”などを音楽的により優雅に洗練させたような感じを受けます。

Funf klavierstucke No.3
(1:15 HYPERION CDA66445)
16.忘れられたロマンス                    S527   1880年
1880年12月6日にエステ荘で作曲され、友人のオルガ・フォン・マイエンドルフ夫人に献呈されました。この曲の主題は1848年にすでに作曲されていた歌曲“おお、いったい何ゆえ”(S301a)のものです※1。1880年12月6日付けのマイエンドルフ夫人に宛てた手紙に書かれた内容によると、どうも出版社がこの作品を見付けて出版しようとしたらしく、リストは(自分にとって古い未熟な作品を出版されるということに対する)抗議の意味も込めてヴァイオリン(あるいはチェロ、ヴィオラ)とピアノ(S132 a)、ピアノ独奏曲(S527)の版で書き直したとのこと。曲はもの憂げな歌曲のような作品です。

1848年作曲のものは歌曲“おお、いったい何ゆえ”(S301a)、ピアノ独奏曲“ロマンス〜おお、いったい何ゆえ”(S169)で、これは1840年代にロシアの小説家のカロライナ・パヴロブ夫人によって与えられた詩によります。パヴロブ夫人の詩は“女性の涙”というタイトルのようです。

※1 1840年頃作曲の歌曲“彼は私を深く愛していた”にもこの主題は使われています。

Romance oubliee
(2:48 HYPERION CDA66445)
17.5つのクラヴィーアシュトゥック 第4番 嬰ヘ長調     S192/4 1876年
調性が同じであるため印象が似ていますが、第3番よりも晴れやかで華やかな印象を受けます。コードで旋律を奏でていく小品です。

Funf klavierstucke No.4
(1:09 HYPERION CDA66445)
18.悲しみのゴンドラ 第1番                S200/1  1882年
1882年11月19日から1883年1月13日まで、リストはヴィネツィアでワーグナー夫妻に呼ばれ、ホテル、パラッツォ・ヴェンドラミンで過ごします。1882年11月29日にオルガ宛の書簡で、パラッツォ・ヴェンドラミンでの家族ともに穏やかな生活であることを伝えています。その後オルガに12月6日に送った後、手紙は途絶えます。

翌年1月7日になってリストはオルガに書簡を書かなかったことを詫び、その理由は“ここ数週間は作曲ばかりをしている。‘悲しみのゴンドラ’の漕ぐ音が頭から離れないのだ”と伝えます。
そして“さまざまな死にまつわる出来事が思い出される”とも語っています。

その時、たまたま出会った運河での葬儀の模様にインスパイアされ、ピアノ独奏曲版を2曲書きました。その翌年、2月13日にワーグナーが死去。エルンスト・バーガーによると、リスト自身がこの“悲しみのゴンドラは、ワーグナーの死去する6週間前に書かれた予兆だったのかも”と語っている、とのこと。またハワードの解説によると、リナ・ラーマンの書簡において“悲しみのゴンドラ”は、エレジー第1番、第2番に続けて“エレジー 第3番”と呼ばれているとのこと
。ムハノフ・エレジー、ラーマン・エレジー、ワーグナー・エレジーといったところでしょうか?

“悲しみの”という邦題から、ロマンティックな曲調を期待してしまいますが、原題の“lugubre”という言葉には、“陰鬱な”とか死に対して喪に服する意味合いがあり、より“死”のイメージに近接しています。英語では“Death gondola”とストレートに訳されているようです。

第1番はバルカロールのスタイルをとっており、冒頭の主題が水に揺れるゴンドラを想起させロマンティックに夢想的に響きます。

La lugubre gondola I
(3:47 HYPERION CDA66445)
19.悲しみのゴンドラ 第2番                 S200/2  1885年
第2番は作曲年が異なります。第2番はあまり“水”を想起させません。冒頭のユニゾンで奏でられる不安定な旋律、半音階の旋律に支配され、より死のイメージに取り付かれ、不安に身を苛むような印象を受けます。

第2番のみチェロとピアノの二重奏版(S134)に編曲されています。

La lugubre gondola II
(6:18 HYPERION CDA66445)
20.R.W.−ヴィネツィア                     S201   1883年
ワーグナーの死を知った直後に書かれた作品です。非常に重々しい低音を、ずっしりとしたリズムで奏でていきます。だんだんと盛り上がっていき、凱歌のような響きへ(ワーグナー的なといってもいい響きで、アラン・ウォーカーは“ワグネリアン・ファンファーレ”と呼んでいます。またハワードは“Echoes of Wagnerian grandeur”と呼んでいます)と変わっていきますが、暗さに対する救いは与えられず終止は常に不協和音となります。曲の構成は、同じくワーグナーと関係がある“エクセルシオール”に似ていると思います。

この曲は“悲しみの序曲”(S206)と同じ主題を使っています。“悲しみの序曲”の終わり、葬送行進曲につながる前の旋律が“R.W.-ヴィネツィア”のイントロに似ています。

R.W.−Venezia
(1:57 HYPERION CDA66445)
21.リヒャルト・ワーグナーの墓に                S202  1883年
原曲は弦楽四重奏とハープのための室内楽曲(S135)です。オルガン版はS267になります。1883年2月13日にワーグナーがイタリアで死去。最初リストはその訃報を信じなかったようです。コージマの娘ダニエーラ(リストの孫)から“(わざわざ)バイロイトまでは来ないで欲しい”という電報を受けて初めて理解したとのこと。

リストはワーグナーの死を悼み、この室内楽曲を作りました。その際、自身の1874年作曲の“エクセルシオール(より高く!)”の旋律と、作品の類似をリスト自身気付いていた、ワーグナー1878−82年作曲の“パルジファル”の旋律を使いました。“エクセルシオール!”の最初の合唱の旋律を神秘的に演奏し、その後“パルジファル”の旋律に移ります。

1883年5月22日にワイマールにおいて、追悼の意も兼ねて、ワーグナー生誕70周年記念式が催され、その場で室内楽曲版が初演されました。

Am Grabe Richard Wagners

(2:11 HYPERION CDA66445)
22.別れ ロシア民謡                        S251   1885年
原曲となる旋律をアレクサンダー・ジロティより教えてもらったリストが、それをもとに作曲しジロティに献呈したようです。穏やかな旋律の小品です。

Abschied − Russisches Volkslied
(1:56 HYPERION CDA66445)
23.盲目の歌手                           S542a   1878年
この曲は1875年に作られたピアノと朗唱による“盲目の歌手”(S350)から、ピアノ伴奏部分を使って作られています。“盲目の歌手”はアレクセイ・コンスタノヴィッチ・トルストイ(1817−1875)の詩につけられています。“アンナ・カレーニナ”などで有名なレフ・トルストイとは別の人です。“盲目の歌手”は1873年に作られたバラードです。

アレクセイ・トルストイとリスト、およびヴィトゲンシュタイン侯爵夫人は親しい友人で、リストの書簡の中でも名前がよく出てきます。実際“盲目の歌手”はカロライナ・パブロヴ夫人によってリストは翻訳してもらい、1875年10月7日のオルガ宛書簡で、“その詩にレノーレと同じようにピアノ伴奏をつけています。ワイマールにアレクセイ・トルストイが来たときに彼の家で披露したい”ということが書かれています。

Slyepoi (Der Blinde Sanger)
(5:36 HYPERION CDA66445)
24.ハンガリーの神                        S543  1881年
ハンガリーの革命国民詩人ペテーフィ(1823−1849)の詩に作られた同名の歌曲の編曲です。ペテーフィに対してはリストは“ペテーフィの哀悼に”を作曲しています。おそらくジプシー音楽のリズムだと思いますが、特徴的なリズムの主題です。この“ハンガリーの神”には多くの編曲版があり、オルガン(またはハーモニウム)独奏曲(S674)、ピアノ独奏曲、ピアノ左手のみの演奏(S543 a)、ピアノ(アドリブ)伴奏のバリトン歌曲、ピアノ伴奏による男声合唱曲、管弦楽伴奏による男声合唱曲があります。ハワードによると“ハンガリーの神”のオリジナルバージョンは、ピアノ伴奏による男性合唱曲の版とのこと。

音色の違いによる印象として、オルガン版では宗教色を感じましたが、ピアノ独奏版ではハンガリー色が強く感じられます。

1881年2月26日のオルガ宛て書簡で、ペテーフィの詩に感銘を受け作曲した背景が語られています。リストの意図では、ピアノ独奏曲は一般のピアニストのために、左手のみの版は友人のゲザ・ツィヒー伯のために作曲したとのこと。

Ungarn’s Gott
(3:01 HYPERION CDA66445)
25.ハンガリー王の歌                   S544  1883年
この曲は1883年にブダペスト歌劇場でのフランツ=ヨーゼフ1世への歓迎のために作曲されましたが、その時は演奏されなかったようです。テキストはコルネル・アブラニーによります。辞典では全6曲あることになっているのですが、僕が持っているCDでは短い1曲になっています。この曲は短いブロックが集まったような感じなのですが、全体としてもとても短いです。6曲ではなく、リストの楽譜によくあるように、6つのパターンの編成での演奏が指示されているのでしょうか?それとも短いブロックをそれぞれ6つのパターンの編成で歌うような指示なのかも。ちょっとよくわかりません。

この曲の同年に作曲されているオリジナルバージョンはS93の合唱曲版になります。

また1883年3月31日にブダペストからオルガ宛に送った書簡で、“ハンガリー王の歌”作曲の背景が語られます。“あなた(オルガ)は、この曲を余分なものと思うかもしれない”と書いた後、リストはヴォルテールの言葉“余分は、必要なこと”という意味の言葉を書いています。

Ungarisches Konigslied
(3:20 HYPERION CDA66445)
26.エデュアルト・レメーニの結婚式のための祝婚曲   S526  1872年
1872年に作曲されたヴァイオリンとピアノの二重奏曲(S129)が原曲です。タイトルどおりヴァイオリニスト、エデュアルド・レメーニの結婚式のために作曲されました。ヴァイオリンとピアノの二重奏の版ではカフェ・ミュージックのようなライトな感じがありました。ピアノの響きだけになることで、逆に曲の持つ自然な起伏が感じられるようになります。結婚を、2人の前途を、祝福する感じが上手く表現されています。

Epithalam
(3:24 HYPERION CDA66445)
27.モショーニの葬送                  S194    1870年
1885年の“ハンガリーの歴史的肖像”の第7曲(S205/7)にも使われます。S205とは違いはないようです。第12巻に収められているS205/7とは演奏時間が異なりますが、それは演奏速度の違いのようです。モショーニ(1814−1870)はハンガリーの作曲家です。リストはモショーニの死を悼み、この曲を作曲しました。

葬送曲らしい重々しい低音と、それを救う中間部の美しさ、エンディングの穏やかさの対比が明瞭に響きます。

曲順の違うS205a/7はもう一度弔鐘が鳴るようにして終わるバージョン違いのものになります。

Mosonyi Mihaly
(5:12 HYPERION CDA66445)
28.ペテーフィのために             S195  1877年
1885年の“ハンガリーの歴史的肖像”の第6曲(S205/6)にも使われます。ペテーフィはハンガリーの国民詩人で、1848年の革命では中心的な活動をし、革命の戦火の中、1849年25歳の若さで生涯を終えました。またペテーフィ作の詩“ハンガリーの神”にリストは歌曲を作曲し、ピアノ独奏曲、オルガン曲に編曲しています。

この“ペテーフィのために”の主題はメロドラマの“死せる詩人の愛”(S349 1874年)を編曲しているものです。“死せる詩人の愛”のテキストは、ヨーカイ・モール(1825−1904)が、友人の詩人であったペテーフィのことを歌った詩です。そのため、この曲の伴奏部を使った曲が、リストにとっての“ペテーフィのため”の曲となりました。

Dem Andenken Petofis
(3:08 HYPERION CDA66445)
29.悲しみの序曲と                       S206  1885年
EMBの解説を読むと、“悲しみの序曲”と“葬送行進曲”は、もともと独立した作品として作られたそうです。“悲しみの序曲”が、ブダペストで1885年4月に作曲され、“葬送行進曲”はワイマールで1885年9月に作曲されたそうです。そしてその後リストによって“悲しみの序曲と葬送行進曲”としてつなげられ、弟子のゲールリヒに送られたとのこと。そのためハワードのディスクではトラックだけ分けられています。

葬送曲の性格の強い、暗澹たる曲です。“悲しみの序曲”と“葬送行進曲”をつなげる部分で、“R.W.−ヴィネツィア”のイントロが登場します。

Trauervorspiel,und...
(1:35 HYPERION CDA66445)
30.葬送行進曲                     S206  1885年
この曲は“ハンガリーの歴史的肖像”(S205)の第4曲“テレキ・ラースロー”と同じになります。“ハンガリーの歴史的肖像”は1885年作曲。EMBによると1885年7月完成とのことなので、“葬送行進曲”はその後になります。

Trauermarsch
(3:39 HYPERION CDA66445)


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