-- 館長の独り言 --
Index
2001年 09/23(1), 09/27(2), 10/14(3), 10/13(4), 11/5(5), 11/10(6), 11/27(7)
2002年 01/9(8), 02/14(9), 05/10(10)
2003年 01/03(11)
2004年 09/21(12)
2005年 01/28(13), 8/18(14)
2006年 04/08(15), 4/19(16)

 

2006年04月19日(16)



5年ほど前までは、とにかく宝石が好きでした
宝石屋さんの前を素通りするのは、とても難しかった。
もちろん、とんでもなく高いものを買うわけではなく、
ファッションジュエリーの類を手に入れて
嬉しがっていたわけです。
バロックパールは好きだし、ダイヤモンドは誕生石なのでなおさら好き。
琥珀も好きだし、カメオも好き。珊瑚も、ピンクと白が特に好き。
トルコ石も、オパールも。。。。ま、
何でも好きな私でした。( ̄ー ̄)v

ところが、わたしだけでは無く
一度人形に目覚めると、洋服も宝石も
憑き物が落ちたみたいに
あっさり、興味を捨てられる。
ま、今度は人形に「取り憑かれた」とも言えますが。。。ははは。( ̄ヘ ̄;)

そんな淡白な日々(宝石に関しては)を送っていた私が
久しぶりに宝石屋さんに立ち寄りました。
いつものお店の、いつもの店員さんのNさんは(ちょー美人&性格良し)
久しぶりのH様ご来店に、ちょっと驚いてる。
本当にこの5年は、立ち話さえしなかった。(手は振ったゞ( ̄∇ ̄;))
今回久しぶりのご来店理由は、
自分の為ではなく、娘の為。

外国のお金持ちは、娘が生まれると
誕生日毎に、一粒ずつ質の良い真珠を手に入れ、
大人になった時、ネックレスを作る。。。
と、どこかで読んだような気がする。
何という美しい話だ。出来れば、もちろん「お金持ち」ではないが、
それをやってみたいものだ。。。
と思っていたが、娘がいざ出来、成長すると
とにかく、ことごとく、趣味が合わない。(娘はヴィヴィアン? ラブ)
何を買ってやっても、身につけるでも無し、
あれ欲しい、買ってくれという子でも無い。難しい人です。
そこでいつからか、プレゼントは、「食べ物」ということに。
「残らないものが最適」というところに落ちついた。

それが。。。です。
今年の正月に、突然「ダイヤとパールが欲しいな。。。」と言い出した。
もちろん「買ってくれ」という意味ではなく。
もう社会人なのだから、自分で買うべきだ。。。。が、
その話に、母が自分のダイヤの指輪をあげる。。。という。
(79歳の彼女は今、まったく宝石は興味が無くなってしまった)
父がその当時、今の値段からすると、
「騙されたんじゃないの??」ぐらいほど出して買ったものだ。
私も、使っていないパールのネックレスがあったので
それを「お下がり」することにした。
ただ、小粒ながらそのパールは、
私が成人したお祝いに母が買ってくれたもので
今でも、沢山の束のなかから自分で一番良い色・艶のものを
選んだその光景まで思い出せる。
もう30年以上も前のものなので、使って使って、
糸が緩んだまま、ずっとしまったままだったものだ。
(でもやはり好きなので、時々磨いてた)
その2点を抱えての、久しぶりの宝石屋さん。。。というわけだ。

リフォームは初めてなので、一体どのくらい掛かるものなのか、
それより何より、立爪をネックレスに。。。の加工を引き受けるものなのか。
いやー、出来ない事はなにもない。。。って感じでしたねー。
しかも、その場でデザインを携帯で画像に撮り、娘に送り、
好きなものを選ばせる事が出来る。便利になったものです。
チェーンは私好みのものを。
Nさんが加工屋さんと連絡を取ってる間、この母は
ひさしぶりの店内♪をあちこち見て回り、いいものを見つけてしまった。
それはMOP(白蝶貝)で出来た薔薇の花の
最新のパールネックレス用の留め金。くう〜。。。
何でまた都合良くこんなもの、あるかなー
綺麗、可愛い。白とピンクのうち、白を選び
糸を替えるついでに、留め金も、それに換えてもらう事に。
「犬も歩けば」しっかり棒にあたりました。

加工に2週間ほどかかりましたが、先日出来あがり
わくわくして、受け取ってきました。満足の出来。

デザインを決め、チェーンを選び、
その出来上がりまで、何故こんなに嬉しいんでしょう?
それは、
2点とも新しいものではなく、「お金持ち」の立派な宝石ほどでは無いにしろ
小さく、ささやかな、私達3代の「歴史」と「思い出」の品だから。
苦労を掛けさせられた父から母へのプレゼントだった指輪は
今、一粒ダイヤの、ちょっと贅沢なネックレスに。
ずっと好きだった、私のパールのネックレスは、
糸替えをし、新しいクラスプがついて、お洒落な表情に。
しっかりしたプラチナの指輪の爪は、相場で引き取られ、
加工代と相殺に。
最終的には、は?そんな値段でいいんですかー?。。。
ぐらいで済んでしまいました。
お店のNさんは、いつもながらの誠実な応対。
何も無駄になったものが無かった。そして、
娘がやっとベーシックなものを身に着けてくれる年齢になった事が
格別な嬉しさなのかも知れません。
私の母も、仕舞い込まれていたものが生かされて
とても嬉しそうです。

思えば、アンティークも絶える事無く
人から人へと手渡されていく道筋の中で
きっと、沢山の平凡な人達の「歴史」や「物語」を
そのうちに秘めているはずです。
それだからより美しく、魅力的なのです。

今回の事で、人形も素敵だけど
宝石も魅力的だなー。。。と。。。ははは。
綺麗なものはやはり良い。\(^o^)/人生を彩ります 。

 

表紙へ  /  このページのtopへ

2006年04月08日(15)



トリノオリンピックが終わって早2ヶ月になろうとしているのに
私はまだ、飽きずに毎日のように女子フィギュアスケートの
ショートプログラム、フリーの録画を見ている。
家族は「はぁ〜。。。。また見てるー。。。」と呆れ顔。
自分でも、何故こんなに毎日見ても飽きないのか不思議。

英語を教えていても、結構勝負、勝敗にかかわるイベントがある。
「スピーチコンテスト」
やはり勝てば嬉しいし、負ければどこがいけなかったか、反省もするし、気も重い。
当然、ゴールドメダル、一等が良いに決まってる。
でも、そんなに簡単に勝たせてはもらえない。
いくら練習に練習を重ねても、
全国の代表が集まる本番では、何が起こるかわからない。
「完璧」はありえない。
発表者が、極度の緊張を、どうコントロールし
日ごろの力を出し切れるかにかかっているし、
もともと発音など技術的な問題があれば
ネイティブの審査員に当然見抜かれてしまう。
指導した者は、最低、間違えずに無事に終わる事のみを祈るしかない。
勝負の世界はなべて同じだが
フィギュアスケートは、特に繊細なスポーツのように思う。
いかに訓練をつんでも、ジャンプに100%の成功はない。
氷上で滑りながらのジャンプは、きっと
体操などの技とは違う難しさがあるに違いない。
体操も好きだが、フィギュアのジャンプほど
はらはらするものは無い。
成功率は、他のスポーツに比べて
格段に低いのではないだろうか?

最近のアクロバット的な、難易度の高いジャンプ
=高得点の採点法になってからは
荒川選手のような、一度は世界の頂点に立った人でも
演技の美しさに拘るあまり、新採点法に阻まれ、点が取れず
賞を逃したり、表彰台の3位に甘んじるしかないのを見るにつけ
心の中にどんな思いがあったろう。。。と思わずにはいられなかった。
一度頂点に立ったからこそ、下に落ちる事の無念さが
より感じられるはずだから。
努力しても報われない。。。と感じる長い苦しみの時期。
それでも必死で、彼女はひたすら練習していたわけです。

何故荒川選手だけに特別な思いいれがあるのか。。。いうと
2005年の全日本のエキシビションで、初めて彼女のイナバウワーを見て、
(今、大変なブームになってしまっているが)「え゛え゛え゛ーーーっ!!」。。と。
それのみならず、あの時の、演技、衣装、そして曲(You Raise Me Up)、全てが
フィギュアスケートの美しさや、本来こうあるべきなのだ。。。という
完璧なまでの理想を見せてくれたような気がしたからである。
本当にショッキングなほど、美しかった。
成熟した女性の、美しさや、凛とした佇まい
指先まで行き届いた演技
それを全て見せてもらったような気がした。
私がフィギュアで見たかったものの、全てがそこにあった。
そして、それでも荒川選手が、3位だったことの不思議。。。
このままで終わっていいわけがない。。。と思った。

トリノでの演技と結果は、ご存知の通り。
「これでいいのだ\(^o^)/」という結果です。
毎日、親でもないのにビデオ見て、喜んでます。
そしてイナバウアーで、いつも泣きそうになる。
それは、得点にならないと知っていて、敢えてそれを観客に披露してるから。
「潔よさ」を感じるからなんですね。
自分の信じ求める「フィギュアの美しさ」を、信念を持って表現する。
スポーツ選手というより、「アーティスト」です。
(私の好きな孤高の画家、田中一村に通じるところもあり。。。)
同じく元金メダリストのクリスティヤマグチが、解説して 
「ドガの絵から、バレリーナが抜け出てきたようだ」と、評したらしい。
他のスケーターとは、明らかに違った、圧倒的な「美しさ」。
変に媚びず、威圧的でもない。自然そのもの。流れる様。
だから、何度ビデオを見ても、観賞に耐える。
単にジャンプの正確さだけを問う演技には、私は興味がない。
楽曲の音に、演技がしっかり「乗っている」素晴しさ。
音楽と滑りの表現が、これほど胸を打つスケーティングを
これまで見た事が無い。
ああ、この「形」は、ここでこそ映える。。。と納得出来る場面ばかり
指導する者の立場が若干わかる私としては、
モロゾフコーチ、あなたは偉い!といいたい。
彼が勝つための、緻密な計算をしたはずだから。
そうでなければ、日本3位が、短期間のうちに世界1にはなりません。
技術も、才能も、優しさもある人だと思う。
ただただ厳しいだけでは、「指導」はだめな事が多い。

もう一つ思ったのは 
NHKの今回の解説者2人が、すばらしかったこと。
人柄って、本当に言動にでます。
荒川選手の演技にも感激したけど、同じくらい
解説の2人にも、感激させてもらいました。
あなた達も、えらい!
気品、ノーブルさというのは、家柄とか地位に関係なく、
人が自己の責任で培っていくものだし、いけるはずだ。。。と感じたことでした。
努力して、、身に着ける価値のあるものだ。。。と。
エキシビションの五十嵐さんの解説も良かった。
素敵な人達を見つけたオリンピックでもありました。

 

表紙へ  /  このページのtopへ

2005年08月18日(14)



昨日で私の夏休みも終わり、今日から2学期。
会社のお盆休みで、弘前に帰省していた娘も大阪に帰り
もう仕事を始めているとメールが来ました。

今年は、私達家族にとっては少し辛い年でした。
6月に、13年ほども飼っていた猫のまるちゃんが亡くなりました。
あまりに静かで天晴れな最期だったので、
思い出すたび涙がこぼれます。

BBSでも書きましたが、弘前市では
市の斎場に動物用のものも作られていて
頼めば他のペットと別に焼いてもらい、お骨を引き取る事が出来ます。
まるちゃんもそうしてもらい、亡くなったのが6月だったので
子供達がお盆に帰省する8月を待って
いつも眺められる庭に埋葬しようという事にしました。

先日、八甲田山に家族4人で行き
幾つかの候補から、良いと思う小さな石を拾って来ました。
記念の墓標にするためです。
夕暮れ時に行ったので、あたりはとても静かで
空も山もとても綺麗でした。

息子は、高校時代辛い時期があって
何の芸も無いまるちゃんがきっと自分に重なり
でも、呼べば自分のところに来る、
ただただ飼い主を信頼し切っているまるちゃんに
ずいぶんと慰められたようです。
親に出来ていなかった事を、物言わぬ
まるちゃんがしてくれていたわけです。
亡くなったときは、私と夫しか立ち会っていないので
北海道にいる息子には電話で知らせたのですが
これまで、これほど泣いた事は無いほど、涙が出た。。。と
メールをくれました。
私は、今立ち直れたのは、まるちゃんのおかげ。。。と信じています。
これからも、きっと大丈夫。。。と。

娘は、捨て猫だったまるちゃんを友達と連れてきた張本人です。
ドライな娘なので、
可愛がりたい時だけ可愛がる。。。という風でしたが
これまた、電話で亡くなった事を知らせると
大阪の街中にいたにもかかわらず、わんわん号泣でした。
今回帰省して、もう亡くなって日も経ってるし
落ち着いてお線香上げたり、ちゃんとお骨も見ていましたが
ある日、テレビを見ていたと思っていたらいないので
隣の部屋に行くと、
暗がりの中で、じっとたまちゃんを見ていました。
たまちゃんは、元気だった頃まるちゃんが寝ていた
小さな箱のうえの「ベッド」が今とても好きです。
生きていた頃は、ひどく仲が悪かったのに。
寂しいと思っているのかもしれません。

ベッドに寝ているたまちゃんを見ている娘は、泣いていました。
日が経ったからといって、簡単な事ではないのだな。。。と
あらためて思いました。
きっと、ちゃんと臨終に立ち会っていないからだと思います。
今年のお正月には、家族全員+猫2匹で記念写真を撮ったのです。
次に帰ったら、もう居ない。

先日、元生徒と飲んだとき
彼女も今年同じ頃に飼い猫を亡くしていて
思い出を話すと二人ともやはりまた涙。。。でした。

もう、まるちゃんは目の前の写真だけになりました。
でも、今回子供達が、「ほら!」って、携帯の動画を見せてくれました。
私の携帯には、その機能はありません。
娘、息子、夫。それぞれが、ちゃんと猫達の画像、動画を
たくさん持っていました。
「まる、わたしの革ベルト舐めてるんだよ。ばかだねー」
と、娘。
息子の携帯にも、名前のとおりまあるくなってすやすや寝ている
まるちゃんがいました。


家族それぞれの小さな携帯の画面の中で
まるちゃんは、まだちゃんと生き続けています。

 

表紙へ  /  このページのtopへ

2005年01月28日(13)



新しい年です。遅れてやってきたブームに
わたしなりのやり方で、浸っています。
ヨンハな毎日。\(~o~)/
ヨンハ君とは、あの「冬のソナタ」で、主人公二人の恋路の邪魔をする
サンヒョクという青年の役を演じた韓国の俳優さん、パクヨンハ君です。


ネットサーフィンをすると、サンヒョクはメインの二人を応援する人達に
疎まれ憎まれてる。。。。と思いきや、
なかなかの人気で、大健闘。ぱちぱち。
その演技が真に迫っていて、見る人の
(T_T)(T_T)「うう。。。かわいそー」と哀れをさそう。
あらすじは、ご存知と思いますので詳しくは書きませんが
ヒロインの初恋の相手が死んだので、彼女を支え
おさななじみでずっと好きだったヒロインと
さて、いよいよ結婚か。。。という時に、
死んだはずのその相手が、一応記憶を失った
別人。。。という設定で目の前に出現!おーまいがっ!!
サンヒョクの、悪夢のような日々がスタートするの。(-_-;)
次第に壊れていくサンヒョク。。。くぅ〜。。。(ToT) (号泣)


良い子のサンヒョクですが、恋人としての力量には欠ける。
単に「良い人」では、恋は勝ち取れない。。。ってことだ。
ヒロインがまた、あっちふらふら、こっちふらふら。。。で
どっちなんじゃー!はっきりしろーーーーーーーー(怒)!!って
どなりたくなる。
設定は、突っ込みいれたくなる事で溢れ返ってるけど、
これは、韓国版ソープオペラだし。
外国もね、皆好きですよ。ソープオペラ。でも、巨大な差がある。
韓国は、俳優さん綺麗。もう、うちゅくしやー\(~o~)/
こうでなくちゃ。
音楽も、景色も、俳優達の涙も、
絶品でした。
イギリスのとか、もう、絶句です。(゚o゚)
あれなら、私でも出られる。選考会は、あるのかいったい。。。(-_-;)


20話近くあったのかしら。
最初の頃は、テレビに映っていれば、ぼーっと見てただけ。
1割も見てないと思う。
完全版が放映されてから、終わりの2つ手前ぐらいまでみて
止めた。
何故?
それは、もうサンヒョクが、辛くて見ていられないから。
どーせ、ヒーローとヒロイン、ハッピーエンドだろ?
つまんねー。(-_-)です。かなり、ふてくされてます。(~_~;)
そしたら、同じくすっかりのめり込んでたKeiko先生から、
「先生、ちゃんと見なきゃだめですよ。サンヒョク立派に成長するんです」
って、お叱り?励まし?いただきましたが。。。ははは(^○^)
普段から、解りきった辛い設定は、いらん!という私です。
わたしの人生も、ドラマなもんで(勝てると思うなよー)
敢えて、思い入れのある人の辛いものが、見られない。(T_T)/~~
私の「冬のソナタ」は、こうして燃えずに終わったのでした。ーFINー
ヒーロー、ヒロインも、興味無し。。。と、ばっさり。名前も書いてないでしょ?
ファンのかた、めんご。(適当に名前入れておいてねー\(~o~)/)


サンヒョクの役は、難航していたらしいです。
ヨンハ君が、美味しくない役を引き受けたのは
それなりの理由があったと思います。
結果、「あのサンヒョクの」という形容詞が相当、ついて回る。
でも、今日本で歌手として大ブレークだ。
本当にのめり込んで、一生懸命演じたようです。
それが、見る人に伝わったんだと思う。よかったね。
サンヒョク(T_T)。。。。って、ほら、やっぱりついて回る。(~_~;)


そ・し・て。。。私が何気に深夜テレビを見ていたら、
新曲「カジマセヨ」のPVが放映されていて
あの、弱っちい、「ストーカー」サンヒョクが、すんばらしい声で歌い
27歳とは思えない初々しい表情で演技してるではないですか。(゚o゚)
これは、ただもんじゃない。サンヒョクじゃない。。。当たり前だ。
涙うるうる(T_T)(T_T)何て美しい人。がぁ〜ん!!!
サンヒョガァ〜。。君って、声良し、姿良し、性格良し、魅力満載。
な〜んで、今まで黙ってたのよぉーーーー!!!
で、「冬のソナタ」。。。あ、そんなのもあったっけね。。。って感じ。


歌手としての声と、そのルックスのギャップが良いんだと思う。
でも、今日届いたCD「期別キビョル」の写真は、笑えるけど。
もう、タンニングマシーンで、焼きましたか〜??
っていうお顔。似合わないって。マッチョ系は。
http://plaza.rakuten.co.jp/momoironeko222/5002
「初めて出逢った日のように」MV視聴 をま、
見て御覧なさい。
変なサングラスかけてるけど、
美しいお顔が見られます。
そして良い声も。
これは、中森明菜が、ぜひに。。。と申し出てカバーしてる曲の
オリジナル。やはし、上手いなー。


日本に沢山のヨンハファンが出来ました。
ヨンハらぶ。。。で、ダイエットしてるひと。→
「ヨンハダイエット」といいます。
わたし?ヨンハ聴いて、あんまん食べてますぅ〜\(~o~)/
第一、わたしまで、出てるCD2枚買い、MVDVD買い、
もうすぐ、台湾版「期別」のPVの付いたCDを、
だぶってまで買うんだよー。無駄を承知でー。
「期別」のプロモビデオが、これまた泣かせるんだとよー(T_T)
で、もうそろそろ、日本を責めてばかりを
止めてくれないかなー。
政府間はともかく、仲良くしたい。民間レベルでは。
このブームがとても良いと思うのは、そんなところもある。
日韓には、まだまだ、戦争のしこりは、根深く残ってるので。


ヨンハ君は、学生時代、カンニングの疑いを先生にかけられて
それを謝ってくれるまで、学校へ行かないことを選んだそうです。
勉強に対する意欲も失ってしまったとか。
スターになってからも、疑問を感じてショービジネスを離れ
カーレースに没頭したり。(A級ライセンスの持ち主)
最近は、共演女優とのちょっと(-_-;)な写真を公開され
仕事を干されてる。。。とも。いえ、たいした写真ではないようですが。
でも、そこに持ってきて、この日本での超ブレーク。
よかったね、サンヒョク。(T_T)(T_T)。。。って
(-_-;)またですかー。(ヨンハ)


日本の女性には、この一重まぶたの、おしょうゆ顔
そして、礼儀正しく、優しい青年が
とても親しみやすいんでしょうね。
はにかみ屋で、あまり場慣れてない
格好つけても歩けない。(歩き方、コーチしたいです)
でも、一度歌いだしたら、凄いです。
初めて日本のファンの前で
自分のカバー曲ではないけど、「冬のソナタ」の有名な曲を歌った時
ヨンハ君、思わず、涙がつつつー。。。と。。。
それは、
「サンヒョクが、かわいそうで、つい。。。」って。(T_T)(T_T)
そうだよね。解ります。


でも、もう「サンヒョク」にさよならしていいよ。
見事にそのイメージを、コンサートの成功で裏切ってくれたので。
「歌手ヨンハ」は、ハッピーエンド♪
この声に出会えて本当に嬉しい\(~o~)/
私の宝物です。
カムサハムニダー!

 

表紙へ  /  このページのtopへ

2004年9月21日(12)



暑い夏も終わり、今日は秋の雨です。

先日、仕事で大阪へ行ってきました。
行く前に、恒例の大掃除。何時何があるかわかりませんので
旅行の前は大掃除。。。が決まりです。
「何と、殊勝な。きちんとした人だ。館長は。。。(^o^)丿」
とお思いのあなた。あなたは、人が良すぎます。(-_-;)
何のことはない。
もし、私がこの世を去ったあとで、この家の有様を見て、
「だらしない」と言われたくないだけなのです。
格好を気にしているだけなんですよ。(~_~;)

客観的に見て、これは駄目です。\(゚o゚)/
押し入れは、今年かなり整理致しました。
フリーマーケットで、不要の物をかなり売りました。
洋服など、ボタン1個分ぐらいの値段で。
それでも、まだまだ整理は済んでいません。
いや、別にいますぐどうこう。。。というわけではないのですが。

今年は、ひと月のうちに
親しい友人のお父さんとお母さんの
2つのお葬式に参列しなければなりませんでした。
悲しい事でしたが、ああ、こうして
皆少しずつ「死」を受け止めていくのだな。。。
と思ったことでした。
私も、友人も、その年齢に達したのだと。

高校の頃は、結婚式には嘘があるが、お葬式には嘘は無い
などと考えていたものです。
死は、厳然としてそこにある。ゆるぎない。死者は何も語らない。
でも、生前葬というものがあり、
人によっては、自分の生きている間に
自分のお葬式を、自分のやり方でする人も出て来ています。
そうなると、その人への配慮から
「嘘」が入り込む可能性も出てきますね。
「館長は、本当に素晴らしい方でしたー(T_T)号泣」。。。とか。
また、「死者」の側も参列者への配慮から、
「生前は有難うございました(-_-;)」とか。

亡くなってしまえば、式はもう「自分のもの」では無く
残された者の為のものなのですから
どの様なものであろうと、関係無いのでしょう。
でも、
人生の最初、誕生を選ぶ事は出来ずとも
人生の最後、死は様々に選ぶ事は可能です。
最後の自由。。。とでもいいますか。遺言ですね。
残されても、叶えてあげられないものもあるでしょう。
海に、山に、河に遺灰を撒いて欲しい。。。と言われても
法律がある。

私の願いは、そんなにだいそれた事ではありません。

1.葬式は、してもしなくても良い。
2.するのであれば、音楽はサラ・ブライトマンの
'Nella Fantasia' を。そしてイタリア語?の歌詞を訳して渡してもらい
皆に読んでもらいたい。色々な意味で、私の大切な曲。
(生徒である、Sherryに頼んでね。今イタリア語も勉強中なので)
3.司会をしてもらう人は、絶対プロで無い人に。
友人の一人でいいです。希望はHiromiちゃん。
4.写真は、今年展覧会をしたときに
当時弘大のYukiちゃんが撮ってくれたもの。
なかなか撮れない良いショットを
彼女なりの工夫で撮ってくれました。
まず壁に向かって後ろ向きに立つ。
「先生!」と名前を呼んでもらって振り返る。
カシャ!
5.友人代表挨拶は、ずっと以前から、青森の
Kazuちゃんと決まっております。よろしく。
6.お花はTomokoさんに活けてもらう。
7.ご馳走はSeikoさんかな。完璧、好みの味です。

遺影でも、私は皆に向かってにっこりしていたい。
「ありがとね!ばいばい」って。
そんな写真です。

金庫にしまわずに、ここに書いておけば解りやすい。\(^o^)/

 

表紙へ  /  このページのtopへ

2003年1月3日(11)



毎年の事ですが、生徒のホームステイを引率して
アイルランドとイギリスへ2週間出掛けます。
なかなか、骨の折れる旅行なのですが、体験させたいものが沢山あり
単なる観光旅行では無い、全編学習の旅(-_-;)。
なんたって、私が引率ですから。。。

普段は、私、1週間休み無くレッスンをしていますし、
祝日でも、中学生以上は原則休みません。
そのかわり、春夏冬をしっかり休みます。
そして、冬をぎりぎり2週間ホームステイに当てる訳です。
わたしにとっても、海外へ出るいまのところ唯一のチャンスです。
ただ、仕事を兼ねていますので、ヴァカンス。。。という気分ではありません。
その証拠に、帰るとぐったり疲れ、まず1年分の風邪を引く事になっています。

それでも、
洋服だけは、ヴァカンスしたいわけなのです。
何から何まで新しく揃えるなどということは、勿論しませんが、
洋服の数点は、作ります。
この度表紙に、お人形とは無関係のコートを出して遊んで見たのは
このコートの素性がなかなか面白いから。

2週間ほど前に、お気に入りの古着屋さんである、福祉バンクへ行きました。
その時、和服用のコートを見つけました。
袖がたーっぷりの、身頃たーっぷり。
素材はピンクの混ざり織りの、ツイード。
なかなかです。
でも、それより私の心をぐっと引いたのは、
襟のところに付いていたタグでした。
「Miyakawa Tailoring Dep’t Hirosaki]
これは、今はもう無い、ある年齢の人間にとっては、とても懐かしい、
デパートの御仕立てのものだったのです。
東京のような、大都市ではどうなのかわかりませんが、
もう、最近ではデパートの生地売り場や、御仕立てのコーナーは
どこにも見当たりません。
既製服全盛となってしまいました。
このコートは、40年ほど前ぐらいのものでしょう。

「かくは宮川」という弘前で一番古いはずのそのデバートは
子供に、「かくはの、馬っこに乗せる」(お金をいれると動くあれです(^o^) )
と親が特別のご褒美として連れていってくれる、特別の場所でした。
また、大きな鬼がいて、臍にボールを当てると、「うおーっ!」と
金棒を振り上げ、うなりました。今でいう、ゲーセンのはしり。ははは。
可愛いもんです。ああ。。。涙が出そうなほど、懐かしい。

和装コートの仕立て直しは、なかなか大変で、
たっぷりだからいいか。。。というとそうでもなく。。。
特に、腕の長いわたしには、袖丈が断然足りません。
そこで、これもアメリカの古着であるミンクのケープを使って
袖口につけました。(ぴえーるちゃんとお揃いってわけです)
裏地は、ちょっとパス。。。のえんじ色でしたので、ミンクと同じ、
ベージュに全て変えました。
形は、娘が着ないので私が着ているドルガバを直に当てて
怒涛の直断ち。立体裁断。ははは。何とかなるってば。
襟はミンクのマフラーの他に、元の襟を利用した
共のマフラーもつくりました。雰囲気が変わります。

先日、大人のクラスで、古着を利用するか?の質問に、
8人ほどいた大学生、社会人の中で、私唯1人が
古着OK派でした。(゚o゚)
抵抗あり。。。が多いと思います。
わたしは、逆にその歴史のようなものを楽しみたい。
このコートは、まだつやつやの状態で、
うっとりするほどの質です。
これを、捨ててしまうのは本当に勿体無い。
そして、縫いなおしをしながら、何故か懐かしい気持ちになっていました。
思い出しました。

亡くなった父は、国鉄に勤めていて、たいして楽な暮らしでは無かったはずですが、
毎年、冬になると、鉄道弘済会からの生地見本を持って帰りました。
そのなかから、好きなものを選ぶと、母が仕立ててくれるわけです。
中学生だった冬に、私が選んだツイードが、
今回の古着のコートの感じに、とても似ているのです。
ああ、40年経っても、
人の好みって、変わらないんだな。。。って
縫い物をしていると、色々な想いがくるくると頭の中を巡ります。

2003年。良い年であるように。

 

表紙へ  /  このページのtopへ

2002年5月10日(10)



英語のレッスンの中で、初対面の人に尋ねると良いでしょう。。。の質問の一つが、
「あなたの趣味はなんですか?」です。
本当は、こんな質問をする事は、あまり無いんですけど
16年間、教えています。(-_-;)
大人になると、ちょっとこれは「くさい」質問のたぐいだって
わかってくるんですよね。
子供達は、本当に素直なので
テキストに書いてある事は、正しいと信じて疑わない。私の言う事も。

昨日も、中2のクラスがあって、
一クラス10人。女の子2人、男の子8人。
前半は、会話表現や、聴解問題。
後半は、文法ですから、ワークブックの類を
必死にやらないといけません。
前半は、元気のいい、うるさい子達です。
「これ!聞きなさい!」ということも、しばしば。
でも後半、4ページもの、問題を黙々とやっている彼らをしみじみ眺めていると、
胸がちょっと苦しい。
なんて、君達はすごいんだ。。。と思ってしまう。
学校でも、塾でも、溢れるほど問題を解いているだろうに。。。
静か過ぎて、怖いほど。
私はそんなに、恐ろしい先生ではないのだが。。。
だから、学ぶ事が、苦痛で無いように、元気が出る様に、努力はしている。

夜の中2のクラスに先だって、昼は、浪人生に個別に教えています。
覚える事が、山の様に有る。
しかも、「何故?」が許されない。
「何故、勉強しないといけない?」「何故、暗記しないといけない?」
全て、投げ出してしまいそうなところと、面白さを見出し、自信をつけて、
大変身しそうなところもある子。
うーん、細ーい糸で繋がっている,凧のような。
彼が凧。わたしが、糸をにぎっている。でも、風強し。。。

その生徒の後は、ダウン症の、Nori君。
幼稚園の頃から通っています。今、中2。
わたしの考えは、アメリカのダウン症の子は
日本の子が、日本語を話し、理解する様に、英語を話し、理解する。
よって、
日本の子も、教えれば、英語話し、理解できる様になる。。。です。
週1回、40分を10年間続けて来ました。(40分が、Nori君の限界)
今は、人称によってbe動詞、助動詞が変わる。。。
ということも、理解できる様になっていますし、
簡単な文は、読める、書ける。英語で、タイタニックのテーマ、歌える。
じっと、何年も貯めてきた事が、一気に花開くという驚き。
先日、お母さんが、「帰省先で、突然英語を話し始め、皆びっくりしました」と
うれしい報告。場面で、英語が出てくる。(^o^)
でも、何より、10年間通って来れたという事に、感謝。

今月、Teruちゃんが、アメリカの大学へ旅立ちます。
Teruちゃんは、高校時代英語以外はぜーんぜん勉強しませんでした。(^o^)
テストの事を、クラスでよく尋ねたものでしたが、
そのたび、「追試」「赤点」の話ばかり。。。(-_-;)
ところが、2年の終り、わたしや、他の生徒たちとアイルランドへ行ってから、
俄然、留学を意識し始めて、
一日中猛勉強。
最終的には、1年未満でTOEFL550点まで上げてしまって
全国の留学参加者を集めての団結式で、代表スピーチまで。(T_T)
これからはお母さんと、メールでやりとりしないといけないので、
パソコンを買い、ネットに繋ぎ、初めての練習メールを
わたしに送って来ました。
その中で、「先生、勉強って本当におもしろいですね!」と。
少しでもその子の学習に係わった者にとって、これほどの言葉はありません。
Teruちゃんも、10年間通って来てくれました。
今、きりりと良い男になって、旅立ちます。いっといでーっ。

わたしの日常は、こんなです。
嫌々(-_-;)教室を開いて、16年目の春です。

 

表紙へ  /  このページのtopへ

2002年2月14日(9)



久し振りです。
このひと月、独り言をいう暇も無い程、忙しかったのではなく、
怒ったり、泣いたり、笑ったりの激しい感情が
無かったような気がしています。
いよいよ、枯れてきたのでしょうか。
日々、淡々と過ぎていきます。
良い音楽と、香と、物言わぬお人形たちに囲まれて。

何時も誰かと会っていないと、気が済まない人もいれば、
私のように、1人でもOKのひともいる。
たまにとっておきの人と会えればいい。
前にも書きましたが、無理に合わせるのは、辛い。
「誰だってそうですよ!」という声。
でも、私の場合、100人生徒がいたとして、
100人に、日々合わせている訳です。
どの子にも満遍なく目をくばり、励まし、ジョークをいい
聖徳太子に負けぬよう、話しに耳を傾ける。
適当に聞く。。。ということが出来ません。毎日真剣勝負です
生徒達に全精力を使っているような状態では、その他の人に
「無理」に合わせるのは、それこそ無理とわかってからは
全ての人に「良い人」ぶるのをやめることにしました。その人にも失礼ですし。

ある時、お孫さんが入学したいと言う事で、
おじいちゃんが、付き添いで見学に来ました。
レッスンを見て、後にその感想が人伝えに聞こえて来ました。
私が、どの子にも平等に質問し、語りかけ、
そして、生徒が全員しっかり私の目を見て、授業に集中している。
驚異的だ。。。と。
彼は、もと校長でした。
確かに良いクラスではありましたが、学校に対して批判的な私は、
何と言う感慨も無くそれを聞きました。「あたりまえ」だからです。

学校では、こうは行かないことは重々解っています。
40人近くを、コントロールすることは、まず無理です。
私の友人の多くが先生です。彼らの苦悩はよく知っています。
勉強したい、させたい親の子達が来る、塾や、会話教室は
目的がはっきりしているだけに、解りやすく、やり易い。いいとこ取り。。。です。
私がうらやましい。。。とさえ友人の高校教師はいいます。
でも、効果が無ければ、生徒がすぐ辞めていくといシビアさは、
学校の先生にはありません。

人の話しを聞く。聞いて欲しい時は、聞く用意がある。。。
ということでは、私は誰にも負けないつもりです。何時間でも付き合います。
そのかわり、話す人も真剣であって欲しい。
時々、温度差を感じていったい私はなにをしてるんだろう
と思うこともある。
適当。。。が「話す」という事に関しては出来ない。
(お掃除、料理はOKなんですけどね。。。)

5人の5歳児がいれば、5人の話を聞く。ほぼ同時です。ひょー。。。。(-_-)
質問は、どんなに小さくても、きちんと答える。3歳児の判別不能の質問???にもきちんと。(T_T)
でも、質問に答えるのが、私は大好きです。

以前、来ていた女の子は、小学生の頃に職員室へよく質問に行き、
それを先生に疎まれ嫌がられたのが原因で、不登校になりました。
お母さんは、「お宅のおじょうさんは、うるさい」とその先生に注意されたそうです。
中学は、学区から遠く離れた養護学校へ行き、
英会話だけ、養護学校の先生の紹介で
私の所で、本来の学区の子達といっしょに学ぶことになりました。
一緒に学んだ子達(全員男の子)の心配りは、今でも忘れません。
紳士でしたよ。本物の。中学生なのに。
高校は、望み通り、本来の学区の高校に入る事が出来ました。

教える者にとって、生徒の質問ほどわくわくするものは無いはずなのに
なぜ、質問させない先生がいるんでしょう?
私は、教員免状を持っていますが、教師にはなりませんでした。
(理由はありますが、それはまた日を改めて)
ずっと、教師は完璧でなければ。。。という厳しい見方をして来ました。

今は、教師を目指す子には、「始めから先生の人は誰もいない」。。。と言えるようになりました。
教師は、教えるうちに「なる」ものだと。
私は、大学時代に、初めて心を開ける先生に出会いました。
堀部先生といいます。
ゼミを選ぶ時、他の教授では、絶対パスでした。
私が、人生で出会った全ての教師に幻滅せずにすんだのは、ただ、堀部先生のおかげです。
その彼が、4年のとき、私が一般企業に就職することを告げると、
「なんで君は先生にならないんだ?」と不思議そうでした。
私のほうこそ、先生が、私に教師に成ることを期待している事が不思議でした。
なぜ、教師なのか。そこに、どんないいことが待っているのか。。と。

私は、小学校ですでに教師に幻滅した人間です。
その私の所で縁あって学んだ子達のうち、5人も高校の英語の教師になりました。

堀部先生はもう私の大学では教鞭をとっていらっしゃらない様ですが
時々、お会いしたいな。。。と思います。
それは、とても頑なだった自分を、少し変える事が出来たことを報告して、
先生に誉めてもらいたいからなのかもしれません。
先生は私が教師になる事を期待してくれている。。。という、嬉しい気持ちが
あの時、心のどこかにあったのかもしれません。

毎日、私は生徒達を、誉めます。それが、仕事と思っています。
なぜかといえば、学校でも、家庭でも
子供達は、本当に誉められていないから。

誉められるのが嫌いな人は、
誰もいません。
たとえ、それが3歳の子であっても、70歳の人であっても。

 

表紙へ  /  このページのtopへ

2002年1月9日(8) 



2002年です。シンメトリーですね。世の中は面白く無いことだらけで
この先、何も良い事など無さそうなのに、
年末から年始にかけて、デパートへ行ってみれば皆結構
楽しそうにお正月のお買い物。日本は平和です。

高2の息子と二人で迎えたお正月、いいもんです。
私のお正月は、殆ど毎年仕事で1月3日にアイルランドへ向けて出ますから
いつもでしたら、夫と子供達は、夫の実家の京都へ暮れのうちに帰ってしまいます。
私の年齢ともなると、一人で過ごす大晦日と正月3が日は
かえってぜいたくで嬉しい。皆さん、どうでしょうか?
いや、お正月こそ家族全員で。。。と思われるでしょうか?
うちの場合、ずっと夫婦2人で、うちの中で仕事してますから
それこそ、3食作らないといけませんし、(コーヒーさえ淹れるのを待っている)
毎日、会社勤めしている夫婦の何倍も顔を毎日突き合せているわけです。
時々、「うらやましい、何時も一緒で」と言われます。
皮肉か?まあ、良い点もあります。
私の場合あまり苦にはなりませんが、普通「00達者で留守が良い」というほどですから
邪魔な存在なんでしょうか。
特に日本の男性は、自立度が低いので、手がかかる。(でも育てたのは日本の母ですよね。。。)
冗談まじりに、娘がお婿さん候補を連れてきたら
彼が、炊事洗濯をどれくらい出来るかがチェックポイントだ。。。と言っています。
それも、いやいやでなく、必要な事として自発的に出来るか。
生きて行く為、誰もがしなくてはいけない事なのだから。
あたりまえの事が、あたりまえと解らない男が多すぎます。世界中。

さて、今年は私が旅行をパスした為、うちに残ることとなり
夫のみ京都へご機嫌伺いに帰り、私と息子と2人のお正月となったのでした。
その息子も大晦日の夜8時頃ともなると、友人との初詣で、嬉しそうに出かけてしまいました。
残るは、私と猫2匹。ああー極楽、極楽。
ぬくぬくこたつでテレビ。
普段はテレビ見ている暇が無い。
こんなにテレビ見たこと無い!。。。というほど見ました。
朝新聞が来ると、まずする事は、番組欄に丸をつけること。
そうしないと、見逃してしまう。
まあ、見逃してがっくり。。。という番組もないんですけどね。

明日で、2週間のお休みが終わり、再び忙しい日々が始まります。
2002というシンメトリーな数字のせいか、何かいい年みたい。。。と勝手に思っています。
悪いと思えば、より悪くなるというのが私の考えです。
去年はお人形を通じて、新しいお知り合いも出来ました。
素敵な人達、いますね。。。うれしかった。
マーチンのギターも、完璧に修理されてうちへ戻ってきました。
Marguerite へは日本に関する本を贈りました。(1冊はベーシックな料理の本)
とても興味を持ってくれています。
「日本の家の中は、皆こんなにすくない家具で、きちんと整頓されているのか?」(古民家を見て)
うーん、違う!などなど。。。子供のような素直な質問が可笑しいし、私にとっても、新鮮。
お互いの母親の写真までメールで送って、日米母親比べ。

こんなにのんびりしたのは、久し振りだったのですが
休みの前は、あれもこれもやるぞーと思っていたのに(^。^)
裁縫の部屋の片付けもまだ中途。とほほ。。。ルルーさんに誓ったのに(-_-;)
出来たのはちびリプロジュモーの洋服4枚(各帽子付き)、ミニョネットのドレスの手直し2枚、
HPのニューフェイスのドレスと帽子、ケストナーちゃんの新しいドレスの着付けと帽子の手直し。
おお!人形関係は、完璧じゃないですか。母とも一杯出かけたし、満足です。
外国で2週間も、「いいじゃない!」といわれますが、ミシンの無い2週間は、
私には、寂しい2週間なのです。人生無駄に過ごしているような。。。
お休みプラスミシンで、うれしい休みなのです、私は。針仕事無しではね。。。つまらなーい。

さて、皆さん、新しい年はきっといい年ですよ!弘前からパワー送っときます。

 

表紙へ  /  このページのtopへ

2001年11月27日(7) 


とうとう二度目の雪が降りました。
雪が降る前がとても好きです。空も、空気も、木の葉も。
弘前からは岩木山がすっきり、くっきり見えて
空の雲が綺麗な日は本当に幸せな気持ちになります。
夕暮れの空をながめながら自転車をこぐ時。地球に住んでる幸せです。
(ここから今の岩木山の映像が見れます)
雪が降るとあきらめがつきます。
4ヶ月を待たなくてはいけません。
来年の春、また今度は春の空気、空の下を
幸せな気持ちで自転車をこぐ日が来るまで。

今、今週の日曜に迫ったお人形の展覧会の準備をしています。
ここで紹介したお人形と、まだこれからのもの、
そして私がお願いして出品してもらうもので構成します。
勿論無料ですが、一応お知らせの葉書を配ったり
ポスターをお願いしたり、歩いています。地方新聞ですが取材にも来てくれました
皆さん大抵は、めずらしいといってくださいますが
中には、人形には魂がとか、怖いとかの話がでて
閉口することもあります。

私としては誰でも来て。。。というわけではなく
好きなかただけでいいのです。
その好きなかたにめぐり合うまで、その他大勢の
ひとの気持ち無視、の人達にも声をかけることになります。疲れます。

でも知人を通じて、お人形に興味を持っている人達に
ついに会えるかと思うと、うれしくて。
嫌なことも忘れることにしてもいいかなと思います。
ナイーブ。。。というと日本語では「繊細」で
良い意味ととられますが、英語は違います。
自分がその意味でナイーブだとずっと思っています。変えられません。変えたくても

高校で極端に人嫌いになった私なのに
今とても不思議です。
私のリンクで紹介したFret Not Guitar Repair の
Marguerite とはいま頻繁にメールをやりとりしています。
それは単に家のギターが現在彼女に修理されているという事のみでなく
(Yes, もうアメリカまで送って、かなり修理もすすんでいます)
彼女が多くを乗り越えてきた人だということが解ったから。
彼女のギター修理のホームページで写真を見、文を読んだその時から
なにかあるのだろうな。。。と感じさせられたことが
わかりはじめたから。
とても魅力的な人です。ご主人もまた。
60億のなかから、こんな出会いをいったい誰が用意してくれたんでしょう。
こんな意地悪な私でも芥川の「くもの糸」のカンダタのように
どこかでいいことをした褒美なんでしょうか?
彼女もまたとても意地悪だったそうです。

眼の前には依然として四角の小さなスクリーンしかないのに、
そしてMargueriteとは面と向かって話しているわけでも
日本語で話しているわけでもないのに
なんで彼女のメールをよんでると涙が出てくるんでしょう?
悲しさをよくわかっているひとだから。
出来るなら会いたいけど、会ったら
彼女がぽかんとするぐらい、泣いてしまうかも。

私の好きなことばに「愛しい」があります。
何故好きかというとそれは「かなしい」という意味もあわせもつから。
Margueriteを見ていると胸の中をぎゅっと掴まれるようなそんな気持ちになります。
強さを持っている人のはずなのに、無防備な幼子を見ているみたいで。
彼女が全てにあまりにも真摯で。。。
心の芯に硬い透明の、クリスタルを持っているような、そんな人です。
大大フアンです。

 

表紙へ  /  このページのtopへ

2001年11月10日(6)



今日は土曜日です。朝から思わず涙。
土曜の朝、NHKの教育テレビで真剣10代「しゃべり場」という番組があります。
ご存知ですか?
10代の子達が話し合う番組。。。といえばそれまでなのですが
大人が口出しせずに順番に、一人の子の悩みや、考えについて、
15人ぐらいの「同期」といわれる同じ時期に募集された子達が、意見を述べるものです。
本心を話したい、でもそれを許さない自分もいる。他人も気になる。TVという事も。親も見てるだろう。
出ている子達の葛藤がとてもよくわかる、いい番組と思っています。

見ようと思って見るわけで無く、いつもたまたま。。。という感じなので
今日も途中からでした。
あとで新聞をみたところ、今日が同期の最後の回だったとわかりました。
一人の男の子、高校生かな?の番で、今日の討論の題が「自分を変えたい」のようでした。
自分を変えたい、つらい、どうしたら良いのか。死にたいとも思った。
自分が嫌い、これまで自分を主張出来てきていない、いつも人に合わせてきた、
そう言う自分が嫌で嫌で。。。という。
ひとりの男の子が、良い事を言いました。
「お前,考え過ぎるんだよ。だから辛いんだよ」って。
そうなんです。でもこの子には幾ら努力してもその罠みたいなものから
なかなかぬけられないんです。
私が思うに、病的な程、自分を殺さなければ、
このタイプの人は自分の周りに無関心、無意識ではいられない。
私もそうでしたから。
考えるのを止められる、気にしないで居られるタイプの人間ではないのです。

私は「知る」という事は、本当に辛く、寂しい事だと思っています。
知らない方がどれほど楽か。暢気なものです。
知った以上忘れる事もできない。さりとて、もっと知ればもっと寂しい。
世の中の事を知れば知るほど楽しくなるんだよ。。。
と子供達にいえたらどんなにいいことか。

番組の子は、小さい時いつもお姉さんについて歩いてて
何でもお姉さんのすることを背伸びして吸収しようとしたそうです。
でもそのお姉さんが結婚して家をでてしまってから、誰も頼る人が居なくなってしまったようでした。
学校で友達に話を合わせる為「学習」までしたそうです。
学校で、一人だったようでした。両親と姉の間にも問題があったようです。
その子の頬に涙が流れだしたのは、
一人でも、お姉さんが居た時は「僕にはお姉ちゃんがいる」
と思うだけで、学校で一人ぼっちでも我慢できた。。。と言ったときでした。
つらかったんだな。。。って解りましたよ。
でも、彼に助言を与えようと頑張っている今日の同期の子達は
「寂しいんなら寂しいって言えばいいじゃん」
「あんたは、自分が変われないのを人のせいにしてる」
「親に愛されてないの?」「あんたの事心配してるから、こんなに真剣になるんじゃない」
うーん、全部正解。解るけど。でもそう言う言葉を言われると、吐きそうになるかもしれない。彼は。
彼はこれまで精一杯、自分のプライドをぎりぎりで保ってきたんだと思う。
変えたい。。。と言いながら絶対へらへらの流れに身を投じる事が出来るタイプではない。
それが出来たら、今日泣いてないよね?
でも、一人の子が「今日泣けたから、きっと変われるよ」って。
(この子はほんとに自然体。大人の私が理想とする子です)
いいんだよ、辛い道で。
ここにも、約一名それを通ってきた大人がいるよ。
でも、今とても楽になったよ。

番組の終わりで若いNHKのスタッフが、泣いてそっとその子の肩に手をかけたのは
精一杯クールにしようとしていた彼が、こんな気持ちをずっと抱えていたことが解ったからだろうか。
それも見ていて気持ちよかった。本当に心配してるのが解ったから。
唯一の大人のゲスト、女流監督もよかった。彼女も辛い事経験してる人だから。
すくなくとも、悩みを共有してくれた同期の子達は、
これからもずっと彼の本当にいい友達になるはずで、見ていて「よかったね」ってうれしくて涙。
エンディングの時の彼の笑顔がほーんとにいい!そっと、ガ、ン、バ、レ。

見終わって、皆幸せになりたいのに、どうしてこうなんだろう。
って寂しくなってまた涙。
でも私は悩む子達が大好きです。
神様。もしいたら、この子達をまもってね。

 

表紙へ  /  このページのtopへ

2001年11月5日(5)



みなさん乗り物は何が好きですか?私は汽車が好きです。
汽車の窓から外を眺め、家が見えれば
「どんな人がどんな暮らしをしてるのかな」とか
こうやって眺めている私とは別の時間が窓の外の人達には
流れているんだな。。。と思ったりします。
世界60億の人のうち、一生で、一体何人の人と私達は会う事になるのでしょう。
「会う」だけで「接点」を持つに至らなければお互いにとって
存在しないも同然なんでしょうか?
それとも「風景としての人」も、毎日の生活に必要なんでしょうか?
そうですね。言葉を交わさなくても、そこに誰もいなければ
日頃の風景は殺風景で寂しいものになりますね。
マーケットに買い物に行く途中、唯の一人とも会わなかったり、
マーケットで買い物をしているのがいつも自分一人だったら。
「トワイライトゾーン」の世界ですよね。ちょっと古いか?
じゃ、「世にも不思議な物語」ね。
私達は「人」だから人恋しく、自分以外のひとが必要なのです。(でも家の猫達も人間に近いですけど。。)

外国で雑踏の中を歩いている時、日本で見知らぬ土地を歩く時
私の存在はそこのほとんど人達に何の意味も持ちません。
それでも2週間ほども滞在すれば、ホテル、B&B、コンビ二のようなお店
バス、レストラン、デパートと少しは「接点」を持つ場面が出来ます。言葉も交わします。
そして、ある日突然私は消え、人々の生活はそのまま続いていきます。

昔は、無視されたり、忘れられたりは、とても我慢がならなかったのですが
最近は「枯れ」てきたのかぽかんとしていられるようになりました。
過剰に反応しなくても良くなったんです。
昔はちょっと苦しかった。理想と現実が合わなかったり、悔しかったりで。

一般的に、親は高い理想を子が持っている事が素晴らしい。。。と考えます。
それをどこまでも、どこまでも追い求めていく子が。
親がそれを望む場合も有るし、子が望む場合もあるでしょう。
幸い、というか私の親は押し付けの教育をする人たちではありませんでした。放っておいてくれました。
でも子の私が負けず嫌いだったように思います。
自分をコントロール出来るようになるまで、
世の中には願っても叶わないことが山の様にある。。。と知るまで、
長い事かかりました。
今でもまだ後遺症があるかな?でも随分楽になりました。
この私の子供達は二人とも本当に負けず嫌いでなく (-_-;)
他人の良い点を手放しで認められるということ、 )^o^(
人を蹴落としてでも。。。という欲の無い事 (^。^)
それを有りがたいと思うようになりました。
人によっては、なんと不甲斐ないと言われようとも。
色々な仕事の頂点にいる人達は孤独なのでは。。。とおもいます。
弱さを見せられない、見栄も張らないといけない。
厳しいものです。
あっさりと、2等,3等いや賞取らなくて良い。。。と言えるのは
私にとっては、うらやましい。いつも自分を追い詰めて来た様な気がするので。

大袈裟に言えば「人間って一体何だ?」と
考え直すきっかけになったのは、一つには宇宙の番組をよく見たこと。
ジョディーフォスターの「コンタクト」を見たとき
映画自体は特にどうという事もなかったのですが、
窓の外に銀河のような星の集まりが見えるシーンがありましたよね?
人間がとちゅうで死ぬことも覚悟でどこまでもどこまでも宇宙船でいったら
こんな光景が。。。と思わせるようなシーンでした。私の思っていた通りの、静かな風景。
宇宙の番組を見ていると自分が生きている事、回りの物達ですら
不思議で一杯になります。
ここは何処?。。。私は誰?。。。です。動きまわっている猫だって奇跡です。

もう一つは南米のテーブルマウンテンの番組を見たとき。
切り立った山のてっぺんがテーブルのように平らでいつも霧に覆われている不思議な地形。
霧が晴れると、何も無い所から突然水道の蛇口をひねるように水が流れ出し、
目もくらむ高さを落ちる、世界最大の標高差のアンヘルの滝。
あまりに高いので下に落ちる頃には霧になってしまっている。
それだからその頂上に人をよせつけない。
でも、そこでも日夜生命の、そして自然の営みがある。綺麗な水が流れ、可愛い生き物が
過酷な環境で必死に生きている。
勿論、私がパソコンに向かっている今も。
人一人として居ないジャングルや海の中や山の中でも、また宇宙の星雲でも
私の存在とは関係なく事は起き、生き物は暮らしている。
いったい宇宙の果てはどうなってるんだ?ほんの片隅の私は何故私なんだ?哲学的。。。

宇宙船から別な銀河系を見るのと、旅行中の汽車の窓から決して会うことのない人達を眺めるのと
実はそんなに大きな違いは無いと思うのです。
私達は情報だ、旅行だと世界がどんどん広がっていって居る様に思っていますが
世界とは実は自分の小さな頭の中にあるだけなのです。
全て在ると思えば在る、無いと思えば無い。「マトリックス」はいいところをついてました。

私は時々、今から何億年か後の地球の姿を思います。
いえ、もうそこには地球は無いのかもしれません。
あるのは宇宙の静寂。
でもそれはテーブルマウンテンの「静寂」と同じ物だと思うのです。
私がそこに在ると解っているから「存在する」のであって
なければなくてもいいのです。ニヒリズムでも何でも無く。

人の頭とは本当に困った物だ。。。と思います。勝手に思い込み、
勝手に悩む。勝手に捻じ曲げる。自然や宇宙にはなれません。なかなか。
多分、なる方法は一つ。
「悟り」をひらくこと。。。かな?
己を無にすることですから。(EJが欲しいと悩む私には無理)

 

表紙へ  /  このページのtopへ

2001年10月23日(4)



今日は大好きな雨の日ですジムクローチの音楽。。。今日の気持ちにぴったり。
ジムクローチは素晴らしい声の持ち主でしたが、たしか1972年、飛行機事故で亡くなっています。
私がちょうどアメリカに居た時だと記憶しています。
本当に残念でした。

1972年。まだ大学生だった私と主人は初めての外国、アメリカへ学生のグループで旅立ちました。
成田空港などなく、羽田から。
家族全員の見送り、おおごとでした。長期でしたので。
娘が今年イギリスへ2年の予定で旅立ちましたが、電話で
「ああ、いってらしゃい。気つけてね」
と言うほどの世の中になりました。
だって、彼女にとっては4度めのイギリスですから。
あっさりしたものです。
多分どのご家庭でも、海外で生活している家族、親戚がいる時代になり
外国が珍しくもなんともなくなりました。
国内旅行の延長と言う感じで海外旅行も気軽なものです。
ロンドンへ行くと大阪弁が聞こえ、はたまた日本人に道をたずねられたこともあります。
ローマへ行けばブランド品店には日本人の列、列、列。
平和です。
さて、主人は(当時はきりりとした大学生!)アメリカ行きはそれ程乗り気ではありませんでしたが
「マーチンのギターが買えるかもよ」
の私の誘いに決心したようでした。私は用心棒に丁度いいかな。。。と。
そして旅の終わりにWashington DC で、あこがれの(ああ、古い!)マーチンD-28にご対面。。。となったのでした。
当時は3万円あれば学生が1ヶ月暮らせた時代です。アパート代も含めて。
そして1ドルが300円程もしていた時代。うーん、厳しい!
その当時で15万でした。日本国内だとその倍ぐらい。あこがれ。。。のはずです。
帰りの飛行機でも機内手荷物にしてもらったぐらい大事、大事に持って帰りました。

それから月日の経つこと約30年!30年か。。。家族も3倍にふえたのね。(子X2,猫X2)
人生の移り変わりが激しい夫婦でしたけどマーチンD-28はいつもかたわらに。
後生大事に、ですが最近ではひいてもらうことも有りませんでした。
それは、
クラックが出来てしまったから。音にうるさい主人に納得の行く音が
D-28君には出せなくなってしまっていました。(ここんとこ、お人形の説明調です)
涙。
あんなに仲良しだったのに。。。

私達も50歳になり、人生の半分をとうにすぎました。
最近私の思うことは、これからは自分の好きなことだけをし、好きな人とだけ
お付き合いさせていただこう。。。ということです。だって先があまり無いんだから。
手遅れにならないうちに、主人のD-28君にもう一度頑張ってもらいたい。。。と思いました。
彼だって(男と思っている)押入れの中で黙ったまま居たくないはずです。
日本の業者さんに頼めば?。。。と言っても主人は「うん」と言いません。
頑固。
こうなったらD-28君の故郷、アメリカだ!インターネットの出番です。
そして素晴らしいサイトに出会いました。生きてて良かった(いつものこと)、英語出来て良かった、誰に感謝しよう!
それはFret Not Guitar Repair というサイトでした。あとは見なくてもいいぐらい。
とにかくギター良くわからんの私が感心し、心動かされ一目でこれだ!と直感したサイトです。
書くことが大好き…と言う感じ。とてつもなく回転早く、面白い人。。。という印象。
お店の名前の由来も気にいったし、『感激』と言う言葉が大嫌いな私が
それを言いたくなるほど心に響く文の数々。
特に、お店を広げたり、広告宣伝したりする気が無いという点。あるのはサイトのみ。それも技術的な。
何故なら、My work is my advertisement (私の仕事そのものこそが私の広告)という考えだから。しびれる!
そして
その人は「女性」であるということ!しかもかっこいいーーー!
おっと、よだれが。。。
とにかく、きめ細やか、親切、面白い。うさぎちゃんのおまけページも必見です。ギターのページに負けません。
マーチンのギターの凄いところは一生涯のワランティーがついてるところ。
彼女がマーチン社に連絡を取ったところ、きちんと主人の名でギターが登録されており、30年経っていても
もちろん無料修理可能との返事をもらいました。30年の月日が今に繋がった、嬉しい瞬間でした。
主人はいそいそ、発送の準備に取りかかろうとしています。

目の前にある25x20の四角いパソコン。この中にとてつもなく魅力的な人達につながるラインがあります。
でもあふれる情報量からその人達に辿り着くのは、至難の技。
でもあきらめない。
多ければ多いほど、その差ははっきりしてくる。見分けるのは難しくない。mmm。。。人生面白くなって来ました。

 

表紙へ  /  このページのtopへ

2001年10月14日(3)



有名なミュージカルに「サウンドオブミュージック」がありますが、その中で
「私の一番すきなもの」という歌があります。
悲しい時それを思い出せば気持ちが軽くなると言う物達。
私の大好きな物は、さて、何でしょう?そして皆さんのは?

どんな仕事でも、、仕事であれば「毎日楽しく仕事をしています!」
とは簡単に言い切れるものではありません。嫌だ嫌だと思っていたものが
思いがけなくうまくいって、気分が最高!とうきうきする時もあれば、
自信満々、が全て空回りするみたいで、どーっと落ち込む時も一年に1,2回はあります。
たった?と言う声が聞こえますがこれでも色々辛い(?)人生だったので
結構達観していて、ちょっとやそっとでは気持ち、動じません。
それでも暫くは頭の片隅にそれが居座って、気持ちを沈ませる出来事が
1つ2つ。。。いえ幾つかは私にもあります。
他の人には恐ろしく落ち着いているように見えるらしいのですが
私も人の子、鉄の女ではありません。
イギリスの元首相、サッチャーさんはあっぱれ芯まで鋼鉄。。。の感がありましたが
私の目指すところは外は鋼鉄、内はシルクでしょうか。

高校時代、一番ほっとするものは、
試験が終わって、土曜日で、雨が降ってて、アガサクリスティーのミステリー小説があり
美味しいおやつとお茶のある晩秋。。。と言うシチュエーション。
または、NHKで土曜洋画劇場(2時ぐらいから?)がある日。昔の土曜日は静かで本当によかった。

大学時代で何も思い出せないのは、苦しみが無かったから?
毎日が日曜日のようなものです。4年間の休日。
勉強しなかったと言うことではなくて、卒業後会社で働いたり、
自分で仕事を始めて見ると、毎日自分の好きなことだけ学んでいればいい状況なんて
甘くて、甘くて。高校は辛かった。ひたすら勉強の学校だったので。
二度と帰りたくない。今でも試験の日なのに勉強できてない!の夢を見たりする。

さて今が私の人生の中で一番すき。もうどこへも戻りたくない。
精一杯の生活、してきたので。
前へ進むことには、好奇心もあって、抵抗ない。
60歳、70歳の自分がどうなっているのか面白そう。(人形修復の勉強をアメリカでするのが夢。50歳の夢!)
一応健康なのでこんなのんきな事をいえるのですが。
今の幸せなひとときは、仕事が夜9時に終わって、自分の部屋へさっさと入り(自宅が仕事場なので)
まずお香に火をつける。沈香です。(沈香にも色々あるので注意。お気に入りの道は険し)
音楽。今は竹内まりあ、かかっています。オペラも良し。
お人形達を眺めたり、大好きなフランスのジャーナルをめくる。
これは1800年代の婦人のためのファション新聞で
まあそのデザイン、絵の素敵なこと。
ヨダレがでてきそうなほど素敵。それがこれでもか、これでもかとページをめくる度です。
(最近、良いものとそうでない物の感覚的見分け方がこれ。ヨダレをイメージできるかどうか!赤ちゃんか?)
はー、へー、ほーと、ただただ感心するばかり。
こう言う社会でジュモーやブリューが生まれたんだな。。。とよくわかる。
(じゃあこれを支える庶民は、どんな生活だったのだ?ひゅるるるーーー恐ろしい程の格差)
いったいこれはどうやってプリントしてるのか誰かおしえてー!
凄すぎる。出会えてうれしー!
これで、お茶をのみながら、次の洋服のデザインを考える時、
これが2001年の私の至福の時です。
そして、大好きな雨が降っていれば
もう何も言う事はありません。。。
でも、自分をこうでもして励ましてあげなければ
前には進めないんですよね。

 

表紙へ  /  このページのtopへ

2001年9月27日(2)


一つ、忘れがたい仕事をした事がありました。
お人形が好きだからこう言う仕事が来たのかとも思いますが。
一昨年の10月でした。
私の長年のアメリカ人の友人はアメリカの大学で助教授をしています。
彼女の研究は青森県の民間信仰で、(有名なイタコとも又違うのですが)
研究のため来日するたび、私が通訳として仕事をしています。津軽弁ー標準語ー英語という仕事です。
その時の彼女の目的は青森県の西部にある弘法寺と言うお寺で
この時期行われると言う「人形まつり」に参加して本にまとめるということでした。

それまでも長年にわたって、かなりの量の仕事を手伝っていますので
それがどういう「まつり」なのかは解っているつもりでした。
他の県でも同じようなものがあるかもしれませんが、
青森では、、結婚をせずに子供が亡くなった場合、
さぞ心残りだろう。。。ということで女性であればお婿さんのお人形を、
男性であれば花嫁さんのお人形を供養として奉納する。。。という風習が一部にあります。
ただ私は、話としてそう言うこともあるのだ。。。ぐらいしか解っていませんでした。

その日は晩秋にしては、とても暖かい素晴らしい日でした。
弘法寺は野原の真中にぽつん。。。とあるお寺で、
車で近づいていっても「本当に人がいるの?」、「おまつりって、本当?」
と思うほど遠くから見るとのんびり、しずかなたたずまいです。
私はサービス精神が旺盛なので、彼女の為に、
ああ、わざわざアメリカから研究に来たのに人も少なく、盛り上がらないおまつりだったら
可愛そうだな。。。などと暢気なものでした。
大袈裟でなく、人生のなかでこんなにも悲しく、こんなにも美しい「おまつり」が
あったことを知る一日になるとは思いもしないで。

まず、駐車場に車を入れた時から「これはただ事ではないぞ」とすぐに感じました。
いったいどこからこんな沢山の車、人、人、人、が湧くように来るんだ?!
来る途中ぜんぜん誰とも会わなかったはずなのに。
お寺の中に入って行くと、お線香の煙、ケースに入ったお人形を祭壇へ運ぶ人、
お供えを運ぶ人、広いお堂にびっしり、一杯の人です。
すでに私の胸はつぶれそうです。そうです。胸がつぶれる。。。と言う表現しかありませんでした。
「私の来るべきところではない。場違いな、失礼な事をしている」と思いました。
それでもお堂を埋め尽くしているおばあちゃんたちは、アメリカ人と私の
変な二人の為、「こっちが空いてるよ」とか「ほらここに座りなさい」と親切です。
泣きたくなりました。「ごめんなさい」と謝りたくなりました。
でも彼女の研究の為だ。。。と気を取りなおしました。プロとしての仕事ですから。 

とにかく研究成果の為、インタビューしなくては、しなくてはと気は焦るのですが、
なぜこんなにも多くの人がここに居るかが解っているだけに難しいのです。
見物に来ている者など、私達だけです。
ここに縁が無い事は、それだけで幸せなのです。
私も2人の子供の母親ですからそれは十分に解りました。
涙が流れてきました。
私など、泣く資格も無いのに、止まらないのです。
そのうち、お坊さんが来て、供養が始まりました。
沢山の悲しい女性達。沢山のケースに入った悲しい、悲しい人形達。
一人一人の名前が読み上げられるのぼう然と、放心状態で聞きながら
飾られた夥しい遺影に眼をやると、そのなかにどうしても心惹かれる一枚の写真がありました。
薄いブルーをバックに素敵な若い男性でした。
ずっと彼を見ていました。
なんで、どうしたの?どうしてここにいるの?そんなに若いのに。

お経が読まれ、お坊さんの供養は終わりました。
終わると、それぞれの家族はお人形と、遺影を祭壇に取り行きます。
私は思い切ってすぐ私達の隣にいた、女性に話し掛けました。読経の間、涙を流していた人です。
「どうして亡くなられたんですか?」
「心臓麻痺だったんです。仙台に住んでいたんだけど、朝会社に出社しないので
アパートに会社の人がいったら冷たくなってたって」
「そうですか。。。それは大変でしたでしょう。。。どの方なんですか?」

彼でした。今回の供養だけでも200人はありそうなのに、彼なのです。
一人息子さんでした。
子供が何人だから良い悪い、というわけでは無いことは重々解っています。
でもこんなに素敵な、たった一人の息子さんを亡くすなんて。
とてもやさしい青年だったそうです。自慢の息子さんだったそうです。
一年しか経っていないので、お母さんはまだ立ち直れない様でした。
それを、一緒に来ていたご主人とおばあちゃんが優しく支えている。。。と言う様子でした。
息子さんの時計をしていて、畑仕事にも息子さんのシャツを着る。。。とも。
いつも息子さんに語り掛けているといっていました。
必死で、かろうじてご自身を支えているのがわかりました。

このおまつりの素敵なところは、お人形と遺影をそれぞれの家族が囲んで
持ってきた沢山のご馳走を、静かにいただくことです。
何か、小さい頃の運動会の風景に似ていました。でもこれは静かな、悲しい運動会です。
本当にそれは「美しい。。。」と素直に感じることの出来た光景でした。
全て、家族の、亡くなった人への暖かい手向け、心づくしなのです。
そこにあるのは、何の欲も邪心も無い、ただただ純粋に子を思う親の気持ちだけです。
Mさん一家は私達にまでご馳走をしてくれて
快く沢山お話して下さいました。
話す事で、せめて息子さんが蘇るような気持ちになって頂けたら。。。と思いました。
最後に花嫁人形のガラスケースの中に
お母さんは、新しい下着、お金、タバコをいれてあげていました。
どんな気持ちでこの買い物をしたのかな。。。と考えさせられました。
本来であれば、母親が楽しみであれこれ選ぶ買い物であるはずなのです。本当にお気の毒でした。

すべてのお人形を収納庫に仕舞い、「人形まつり」は終わりました。
気がつくともう誰もいませんでした。あんなに居た、沢山の人達がいないのです。
お寺は、静かにそこにあるだけです。
夢を見ているみたいでした。
アメリカ人だけど日本人のような私の友人です。
でも、感じかたはきっと違っていたはずです。
だって、私はSatoshiさんの家族をみて、おまつりを見て、
日本人で本当によかった。。。と思いましたから。

お人形が人の心をこんなにも慰めるのです。
お母さん達がこのことで救われているのがわかりました。
先日アメリカからメールがあり、来年また研究のため
青森に来る。。。とのこと。複雑な思いです。
Satoshiさんのお母さんが今、すこしでも元気が出ていてくれたらな。。。と、
思わずにはいられません。


表紙へ  /  このページのtopへ




2001年9月23日(1)


世の中には、人形大好き人間と人形苦手人間がいますね。
どうしてなんでしょうか?
幼児体験とか、親の考え方とかの影響なんでしょうか?学術研究の対象にもなりそうですね。

人形好きの人間の一人として「人形は気持ち悪い」は一番心が痛みます。
これにはメディアの影響がとても大きい。
アメリカのホラームービー、日本の推理小説、映画などでの人形の使われ方。
テレビの怪奇特集で、髪の伸びる人形やら、夜中歩き回るものやら。
髪伸びたら散髪してあげればいいし、歩いたら「早く寝なさい」っていってあげれば?
呪いだ、怨念だと、人形のほうで「いいかげんにしろ」と言いたいのでは?
それだけ人間に近い存在だという事は認めるにしても、
人間の側で必要だからこそ生まれてきたものです。
かってにあれこれ想像を働かせるのはいいのですがl
それを「気持ち悪い」とまで言うとは
どうして?
人に似せて作られた物ならそれって「人間も気持ち悪い」ってことですか?

ある著名な人形作家が「気持ち悪い」と言う人は
その人の心の方こそが問題なんだと言う趣旨のことを
おっしゃったようですが、
まあそこまで厳しく考えないまでも
「私お人形集めてるの」と言うとき結構覚悟、いりませんか?
私は以外とナイーブな人間なので(へへ。。)、人の言葉に傷つきます。
このページに運良く辿り着いた方、
あなたの経験、ご意見をお聞かせ下さい。
お話したい事、山ほどありますが、館長の第一回目の独り言はこのへんで。


表紙へ  /  このページのtopへ





©2001-2014 Y`s Antique Doll Museum
All rights reserved

*このホームページはWin7/IE11/解像度1280x1024で作成/動作確認をしています。