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市松人形です。可憐なお顔でとても、とても好きです。
家へ来て10年ほどになります。
10年前のある朝、粗大ゴミの日に、道で拾いました。
はい。拾ったんです。ひょー!(゚o゚)
息子が小1か小2の頃、朝自転車で、学校へ送って行った帰り
ふと、ゴミの山を見るとその一番上に、この子が置かれていました。

一度は通り過ぎました。
拾う?まさか!いい大人が。。。
でも引き返しました。
だって、この子はそれはそれは大変な状態でしたから。
髪はところどころ禿げていて、右手の親指は無し、お顔きたなーい!
左足首は取れていて、着物とは名ばかりの布が
ぐるぐる巻かれていて、それを一応、帯のように紐で縛ってありました。

今思うと不思議なのですが、
こんなひどい状態なのに、取れた足首も
大切な部品のように、添えられてありました。
別に盗む訳ではないのに、後ろめたくて
普通なら絶対しないのでしょうが
捨ててあったところの家の戸を開けていました。
「すみませーん。ごめん下さい」
そしてこれは、いただいていって良いものか、尋ねていました。
うーん、勇気ありますねー。
はたまた、どんな神経してるんじゃ。。。か。
でも憑かれたみたいに、尋ねている私がいました。(文学的!)
その家の人は、無表情で、「はい」と言ったように思います。
うれしくて、ぐんぐん自転車漕いで帰りました。
帰ってまずした事は、お顔の汚れを落とす事でした。
でも、これは日本人形の場合ご法度ですよね。
でも、やってしまったんです。
結果、少し綺麗になったところで
眉が薄くなりかけていることに気づき(゚.゚)ストーップ!!!
怖い人だ。私は。リスキーな事を好む性格なんです。
後で、濡れタオルでこすったのに、これで済んだ訳がわかります。
普通は、ダメダメ。絶対に止めましょう。

髪の毛はあちこちから寄せてなんとか形にしました。
足首は接着して、親指は粘土で作りました。
ぐるぐる巻きの布を取ると、体には
「松屋謹製」のスタンプ。東京?
ゴミに出したお家は、もともとは洋服屋さんだったようで
古いお家のようでしたから、先代が
東京へ布の仕入れに行ったときのお土産かな。。。
などと、想像するのも楽しい事でした。
本当は、お話が聞ければよかったのですが
何しろ、状況が状況だけに、
捨てた人も、聞かれてもきまりが悪かったと思います。
済みません。m(__)m

さて。
お顔の修復がそこそこ出来たところで
いよいよ着物です。縫ったことありません。自慢じゃないけど。
大体、私は母が洋裁出来る人なもので、
自分で洋服を縫う必要はとんと無かったんです。
高校時代の家庭科の宿題も母がやっていたくらいです。
洋裁のほうは、就職してから独学で始めました。
でも、着物。。。どうやるの?サイズは?型紙は?

でも愛があれば、何とかなるものなのですよ。これが。
愛は強し!
この着物は、実は2枚目です。1枚目はもっと地味めでしたが
やはり、絹の着物のはぎれで作ってあげました。
それはそれでとても良く似合っていたのですが
着たきりすずめにしたくなかったので2枚目に無謀にも着手しました。

まず、骨董市で古い大人の振袖ゲット。
本当は、縮緬のいいのがあって、(よだれ出るほど)
それにしたかったのですが5万と聞いて諦めました。
でも、結果この柄で大正解だったと思います。

前回のより、本式に近く縫った分、頭痛くなりました。
わっかんなーい!の連続。まあ、見た目OKか?
帯は、金糸の帯のはぎれの裏を使いました。
髪飾りと帯締めは、捨てられていた時、体を縛ってあった布で作りました。
前の生活の全てを捨ててしまっては、可愛そうな気がしました。
この子のアイデンティティーの一部です。

今年、実に10年ぶりに、この2枚目の着物を作らなければ
このお人形の詳しい事も、顔を濡れタオルで拭いたのに
どうしてもっと大変な事態にならずに済んだのかも
分からないところでした。
それをお話するには、このぼっちゃんに
登場していただくことになります。
この子の作者は滝沢光龍斎といって、大正から昭和にかけて
関東の市松人形界の中心人物でした。
昭和2年、アメリカから青い目の親善のお人形が送られたことは
もう既にコンポジションのページで詳しくお話しました。
それに対して、お礼に日本からも何か送らねば。。。
と考えたのは、「お返し」の好きな日本人ですから当然です。
ギューリック博士がその手紙で、
「お礼はくれぐれも心配しませんように。。」と述べているのに、です。

文部省が東京の百貨店協会に答礼人形の製作を依頼し
(協会のメンバーの中には松屋もありました!)
協会は、主要な人形7体を京都に、
51体を東京の人形組合に製作を依頼しました。
その東京の51体の原型を彫ったのが、
このぼっちゃんの作者、滝沢光龍斎です。
この原型をもとに、200体ほどの「生地」がつくられ
どうもコンテストのように人形師達が腕を競いあったようです。
そのうち、51体が選別され、そのなかには
人形製作から後に人間国宝となった平田郷陽(生き人形)や
光龍斎、徳久、東光斎など12名が名を連ねています。。

このぼっちゃんと、先の拾った女の子が繋がるのがこの後です。
昭和2年、光龍斎が中心となって、58体のお人形が作られ
様々なお道具を贅沢に携えて、アメリカへと渡って行きました。
それから数年後の、昭和8年の東京朝日新聞に
「キッスOK」(???)という記事が載っています。

日本人形が国際親善使節として海を渡ったことから
これまでは思いもよらなかった問題が出てきます。
つまり、西洋では「可愛い!」ということで、
お人形にキスしてしまうことが多く、胡粉仕上げの
日本人形は致命的なダメージを受けてしまったようです。
そこで、これをきっかけに、キスされても傷まない
樹脂系の新塗料が考案されました。
それはこの塗料の記事だったのです。
今年5月に横浜の人形の家へ行った時の本に
それが書かれてありました。

10年前に拾った女の子に今年8月頃、新しい着物を作っていたとき
お腹に赤い「人形液」というシールを見つけました。
この子こそ、親善のお人形から数年後、日本人形の欠点を
克服するべく、考案された塗料を使ったお人形なのです。
このシールのおかげで、女の子は1933年頃のものと解りました。
何か、ミステリー、謎解きしているような、わくわくする発見でした。
男の子には貼っていないので、こちらのほうが古いのでしょう。

私が拾ったとき、綺麗にしようとして、濡れタオルで無謀にも
ふいても、それほどのダメージがなかったのは
実に、その新塗料のおかげだったのですね。
男の子は、5月に横浜へ行って光龍斎のことを知ってから
どうしても実物が欲しくて、日本のオークションで、すぐ手に入れました。
6月でした。8月女の子に着物を作りシールを見つけました。
今2人がならんでいると、拾った時には
何も物語の無い子だったのに、このぼっちゃんが来てくれたおかげで
沢山の事を教えてくれているのがわかります。
   さて市松人形のページのゲストは
Tomokoさんちの箱入り息子、てつろう君です。
私がオークションサイトで見つけました。
落札後届いた時は裸んぼうでしたので
着物を縫ったのですが、いやーまいった。
小さいのと、腕、足がふらふらで、
もう、着付けをどうしましょう。。。という感じ。
手も足も引っ張ると取れそうで、怖い。。。
頭パンクしそうでしたよ。デリケートで。

表地は大島紬を使いました。裏もシルクです。
帯はmokubaの白のりぼんで代用しました。
お布団も、シルクの着物地です。
実は、この生地は女の子の市松さんの
最初の着物と同じもので、色合いがとても渋く
柄もアンティーク風な、とても素敵なものです。
ガラスケースにおさめると、
いつまで見ていても飽きない、いつまでもそばに置いておきたい
そんな子に仕上がりました。
私にはすでに、市松さんがいますので、諦めました。
横取りしようかな。。。とも思ったんですけど。(-_-;)
精魂込めると、難しいですね。お引渡しするのが。
商売人になれません。


実物はもっと可愛いですよ。
こんなお顔の市松さんはあまり見たことがありません。
Tomokoさんはこの子がいるおかげで、
パワー出てくるっておっしゃいますよ。

自分の部屋で、しみじみお人形達を一人ずつ眺めていると
飽きません。でも見て飽きないものが
全部花の人もいれば、ぬいぐるみの人もいるし、
パッチワークの作品の人もいるんですよね。
実に人の好みというのは、不思議で面白い。
私なら、おまけをつけてくれても嫌と思うものが
好きな人も、いる。逆に、お人形が嫌いな人も。

娘が初節句を迎えたとき、一応夫方は京都(の田舎)なので
雛人形やら、叔父、叔母から市松人形が送られてきました。
雛人形に関しては、とても気に入ったのですが(私が!)
市松さんに関しては、立派ではあっても、
新しいものはまったく魅力が無い。。。と知りました。
いまだに何故なのかがよく解りません。
特に、古いけど可愛らしいものを一度見てしまうと
あげると言われても、新しいものは「いりません!」
お面を被っているような表情には、感情が無い。
古いものは、何かを語るんですよ。
それが、人によっては怖さにつながるんでしょう。
私には魅力ですが。Tomokoさんもその魅力に気付いてしまった人です。

さて、光龍斎のぼっちゃんを購入した時
おまけがついてきました。
この豆市松です。アンティークです。
ちいさいながら、手足は動きます。目は描き目です。
来た時は、かすりの粗末な着物に、紐を結んだだけでした。
アンティークの縮緬で着物を作ってあげました。
10センチもないような子ですので、
また、頭いたーい。。。になりました。
こぼうずちゃんみたいで可愛いでしょ?大島紬の座布団という贅沢。

市松という名の由来は、1730年代に美男の俳優
佐野川市松という人がいて
この人を模したお人形が流行したところからだそうです。
市松というのは、京阪での呼び名だそうで
関東では、単に人形。。。と呼ばれていたとのことです。

昭和2年、贅沢な大きさ(約80cm)と、着物、調度品を含め
一体350円(当時の工員の月給が63円)もかけて作られ、
アメリカへ渡って行った答礼人形も、
当時の子供達の背中におぶわれていた最もポピュラーな人形も
基本的には、同じ市松と呼ばれるタイプのお人形でした。
普段使いのお人形が、
人形師が競い合って作ることにより、より高い芸術性を持ち、
その後、芸術品としてまで人形が認められていくきっかけを、
答礼人形がつくった。。。と言われています。

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  (Dec. 26, 2001)


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