スタンド・プレイ

ぱっとしない学生時代を一変させてくれたものがある。それはバンド活動だった。
80年代は音楽とテレビが融合した時代だったように思う。国内でMTVの放送が始まり、多くの音楽番組がゴールデンタイムに流れた。80年代の中盤にはバンドブームが起こり、高校生たちは「ボーイ」やレベッカ」などを競ってコピーしていた。

「おまえ、ボーカルやってみない?」
と友達から何気なく誘われた。これがバンドを始めるきっかけになった。友達の話によると、それまでバンドで歌っていた先輩がやめることになり、代わりを探していたという。もちろん、それまでボーカルなどやったこともないし、音楽の成績も良かったわけでもない。僕は返事に困った。どんな曲をやっているのか聞いたところ「ボーイ」のコピーだという。僕はさらに困った。実は曲はもちろん「ボーイ」なんて名前すら聞いたことがなかった。でも、なぜかやることになっていた。

さっそくバンドのメンバーに引き合わされ、貸しスタジオで練習することになった。メンバーは、キーボードの女の子、マッチョなベース、色白のギター、友達のドラム、そして僕の5人。僕はかなり緊張していた。初めて会う人と、初めて入ったスタジオで、初めて歌う。何もかもが初めてのことばかりで、真っ白な頭のまま一面防音材に囲まれたスタジオの中へ入る。重いドアがロックされ、外の音が遮断される。なんだか息苦しい。

突然、スネアドラムの乾いた音がして、僕はびくっと体を振るわせた。つづいてエレキギターの甲高い音が頭のてっぺんからつま先まで響きわたり、ベースの重低音が胃袋を痙攣させる。僕の全身は音の洪水に翻弄されて、あともう少しでバラバラになる寸前のところにいた。

すっかりこの状況にトリップしていた僕にギターの弦からピックを離したリーダーが話しかけてきた。

「じゃ、1曲やってみようか」
やがて音の洪水は引き、うそのようにシンとスタジオ内が静まり返る。そして、ドラムのスティックをカチカチと撃つ音につづいて演奏が始まる。それは、数日前に友達からカセットテープと歌詞カードを渡されていた曲だった。イントロが終わり、いよいよボーカルの入る部分がきて、僕はマイクに向かって口を開いた。

「えっ、どうして。声が全然出ない?!」
僕はあせりまくっていた。どんなに口を大きく開けても、両足に力を入れて踏ん張ってみても、自分の声がモニタースピーカーから聞こえてこない。顔はかっと熱くなり、背筋は冷や汗で寒くなってくる。これはかなりヤバイ。

実家の宴会場には仕事柄、カラオケセットが完備されている。僕は店が終わると宴会場に行き、密かに歌の練習をしていた。練習のときは何も問題はなかったはずなのに、いざスタジオに入ってみると練習の成果がまったく発揮されなかった。このとき初めて知ったのだが、カラオケで歌うのとバンドを前に歌うのでは、声の出し方が全然違う。音楽の授業で、先生からよく歌うときは背筋を伸ばして、お腹から吐き出すようにしなさいと言われたことを思い出す。それはまさにスポーツに近い作業だった。1時間後、スタジオから出た僕は心身ともに疲労困憊していた。

その練習から数週間後、僕らはライヴを行なった。当事、ライヴハウスを借りる場合、1ステージ2万円かかった。そこで1枚500円(ドリンク付き)で40枚をさばかなければならない。知り合いとそのまた知り合いにチケットを売り歩いた。

学校の部活は早々に帰宅部になったが、バンド活動は学校を卒業するまでつづけた。ライヴも何度か行ない、バンドコンテストなどにも出場した。学校帰りにライヴハウスに寄り、ステージの手伝いなどをしたこともあった。

いま思うと、学校にはいつも話をする友達はいるにはいたが、テストや成績表という見えない壁に阻まれて、無意識のうちに競争相手としか見ていなかったような気がする。反面、バンドで知り合った仲間は何の利害もなく、また同じことをやっているという同調感が強いので、仲良くなれた気がする。どちらが良いとか悪いとか、重要か重要でないかという損得ではなく、どちらも大切なことで、その両方を体験できたことを幸運に思う。

失明した直後に、当事のメンバーでライヴを行なった。いまでもそのときのテープを大事にしている。聞くとただただ恥ずかしいばかりだが、その中にいろいろな出来事が思い出されてくる。「スタンド・プレイ」というバンドでともに活動したメンバーたちは、いま一人一人何をしているのだろう。


当時演奏したオリジナル曲

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Last update: 2001/11/25