ゆがんだ月

失明した僕が、リハビリ施設で点字や白杖を使った歩行の訓練を受けている頃のことです。ここ数日、入所生は僕を含めそわそわしていました。なぜなら、数日後に映画やテレビでしか会ったことのない大女優が、この視覚障害者のリハビリ施設へやってくるというのです。その大女優とは、「鎌田行進曲」でおなじみの松坂慶子さんです。入所生の間では連日その話で持ちきりとなっていました。

どうやら松坂さんは、次回撮影する映画の中で視覚障害者の役を演じることになっているらしく、今回の施設訪問はその映画に向けた役作りの一環のようでした。当然、映画の中でも家の中や外を移動する場面はあり、それを視覚障害者らしく演じなければいけないので、そうした生活訓練の様子と、女性らしい化粧の仕方を見るのが主な目的でした。

松坂さんが見て回るのは女性の入所生が中心という話を聞いて、僕は半ばがっくりしながらオプタコンという紙に書かれた文字を指先で読み取る訓練を受けていると、後ろのドアでノックする音が聞こえてきました。横にいた指導員が外へ出ると何やら廊下で話しています。すると間もなく指導員が入ってきて、僕に話し掛けてきました。

「松坂さんが話を聞きたいっていうんだけど、どうする?」

「どうする?」っと聞かれて断るわけがありません。僕は2つ返事どころではなく、鞭打ちになるんじゃないかというくらい首を縦に振ってそれに応じました。果たして、次の瞬間、松坂さんが部屋に入ってきたときには、音が外に聞こえるのではないかと思うくらい動悸が激しくなり、自分でも訳のわからない挨拶をしたように記憶しています。

話を聞いてみると、松坂さんは映画の中で事故により失明する約らしく、やはり事故により失明した僕の当事の様子を聞きたいということでした。オプタコンを訓練する部屋は2畳もないような狭い空間で、壁は前面防音設計になっていましたので、ものすごい密接感がありました。実際ひざを突き合わすような形で話をすることになったわけですが、その最中、「なんかいい匂いがするなぁ」などと僕は考えていました。

どれくらいの時間が経ったのか、まるで一瞬の幻だったかのようにその時は過ぎてしまいましたが、別れ際に松坂さんと握手をしてもらうことができました。並んで立つまで気付きませんでしたが、思ったよりもずっと小柄な人でした。テレビや映画ではすらっとしているので、もっと長身の人かと想像していたのです。そのときの様子を写真に収めてもらいましたが、自分で確認できないところが何とも残念です(とほほ)。

それから数ヵ月後、映画は「ウォータームーン」というタイトルで公開されました。僕は当事付き合っていた彼女と一緒に、その映画を観に行きました。彼女は僕が失明してから知り合った人です。映画の主演は長渕剛さんで、坊主に扮する宇宙人と目の見えない女性との出会いを描いたロマンス映画となっていました。

ある事件がきっかけとなり2人は出会います。彼女は事故により身内を失っており、自分もその事故で両目の視力を失っていました。その過去の忌まわしい出来事から逃れられず、彼女はふさぎ込んでいました。そんな彼女を宇宙人役の長渕さんは懸命に励まし、立ち直るための手助けをします。そのうち彼女も長渕さんに対して徐々に心を開き、いつしか長渕さんに惹かれていきます。

しかし、地球に落ちた宇宙人扮する長渕さんも地球の環境になじめず、どんどん弱っていきます。そんなある日、宇宙人役の長渕さんは道端で苦しくなり、とうとう倒れてしまいます。そこへ白杖を突いた松坂さんがやってきますが、松坂さんには道の反対で苦しがっている長渕さんが見えません。長渕さんは金網にもたれながら必死に松坂さんに向かって声をかけようとしますが、それも空しく、彼女はそのまま通り過ぎて行ってしまいます。

映画のラストのほうで、宇宙人の長渕さんが目の見えない松坂さんに尋ねます。

「1つだけ、願いがかなうとしたら、君は何を願う?!」
それに対して、見えない目をまっすぐ長渕さんに向けて松坂さんが答えます。

「あなたの顔が見たい」

その台詞を聞いた僕は鼻の奥がツンとなるのを感じて、隣に座る彼女に気付かれないように、そっと上を見上げました。そのとき、僕の目の中に浮かぶ丸い月は、まるで水面がゆれているかのように、ゆらゆらとゆがんで見えました。

「ウォータームーン」
(89年 東映)
監督:工藤栄一
原案・出演・音楽:長渕剛
脚本:丸山昇一
撮影:仙元誠三
出演:小林稔侍、松坂慶子、他


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Last update: 2000/10/22