大村入国管理センター探訪記―施設見学と意見交換会の報告―
挽地康彦(移住労働者と共に生きるネットワーク九州・事務局)

1.予想外の電話から

 2004年9月8日、ネットワーク九州と大村入国管理センターの意見交換会が実施されました。毎年ニューズレターでお伝えしているように、福岡入管との意見交換会は年1回行われていますが、大村入国管理センターとはこれが初めてです。全国のNGOのなかでも、ネットワーク九州だけが入国管理局との意見交換会をもつわけですが、入国管理センターに対しても同様、NGOが意見交換するのは歴史的にも全国的にも他に例を見ません。ですから、大村入国管理センター側もまた、正式な意見交換会としてNGOを迎えるのは、これが初めての経験だったといえます。
 この意見交換会が実現することになったそもそもの発端は、美野島司牧センターに入った大村入国管理センターからの一本の電話でした。「帰国費用の用意ができない外国人のために寄付を集めてもらえないか、退去強制に応じるように説得してもらえないか」。むろん、このような拍子抜けする相談に素直に応じるわけがなく、「よりによって…」というのが私自身の率直な感想でした。
 しかし、ネットワーク九州の構成団体のなかには、今年に入って大村入国管理センターに収容される外国人から個別に相談を受けていたこともあり、この電話を何とか活かす方法はないかと議論したところ、この機会を逆手にとって、面会を兼ねた意見交換会と施設見学を大村入国管理センターに打診することにしたわけです。
 その後、大村入国管理センター側もこの打診に前向きな反応を示したので、これを受けてネットワーク九州では事務局会議のなかで何度か話し合いをもち、準備を進めました。その過程で、わたしたちはこの意見交換会の目的を大村入国管理センターの現状の把握と、被収容者の支援に向けた「土台」作りの2点に定めました。したがって、当日の意見交換会では、いきなり戦闘モードで挑むのでなく、今後も会を継続させていくために、なるべく柔軟な態度で臨もうと確認しました。もちろん、積極的な関係を構築することは、あくまで被収容者のサポートを考えていくためにあります。

2.施設見学と意見交換会の報告

長崎県大村市にある「大村入国管理センター」は、郵便局に隣接し、近くには警察署もあるなど、公的機関が集まる町中に存在しています。入管側が「ハイテク産業の研究所を思わせるようなすばらしい新庁舎」(パンフレットより)と自賛する4階建ての施設は、表札も小さく、周囲からみて何の施設かわからない姿をしていました。9月8日の参加者は、福岡県内から12名、熊本県内から3名、長崎県内から1名の計16名。「清潔感」漂う大村入国管理センターに到着するとまもなく、2階の会議室に通され、午後1時からの意見交換会を待ちました。私自身は2度目の訪問でしたが、始まってみないと何が明らかにされるのか予想不可能な場所なので、これからどのような展開になるのか、様々な思いをめぐらしていたことを記憶してます。
 会議室では総務課長、警備課長、入管職員ら3名が応対し、まず総務課長によって、今回の意見交換会を実施することになった経緯と、日本の出入国管理行政の概要、大村入国管理センターの役割についての説明がありました。
 席に着くと彼はまず、「法律に基づいて不法滞在者の取締りとその収容・送還を行うことは、今後の入管にとっても重要な仕事であるが、ヨーロッパ諸国のように日本も、市民と協力する開かれた入管行政をめざすべきだと考えている。したがって、この意見交換会もそのような認識から実施するに至った」と述べました。たぶん、これは総務課長自身の個人的な見解によるところが大きく、必ずしも入管行政全体の動向ではないと思われますが、それにしても以前の大村入国管理センターからすると大きな変化を感じさせる一言でした。その後も、「大村入国管理センターの仕事を理解してもらいたい」、「被収容者の人権には配慮している」という趣旨を強調する言葉が、30分ほど続いた説明の端々に聞こえてきて、とても印象的でした。
 一通り説明が終わると、大村入国管理センターの施設(1階、2階部分:面会室、警備指令室、診察室、レントゲン室、学習室、カウンセリングルーム、検査室、中庭の屋外運動場など)を約1時間かけて見学しました。ただし3、4階の被収容者のいる場所は見せてもらえず、その後は2階会議室に戻り、先の3名の職員と40分ほど意見交換して、午後3時すぎに終了しました。それから、参加者は3組に分かれて、収容されている3名の外国人とそれぞれ面会(30分)しました。

2.1 大村入国管理センターの概要

 以下に、意見交換会と施設見学のなかで説明・確認された内容を、周辺事項とあわせて報告します(より詳細な報告については、「コムスタカー外国人と共に生きる会」のホームページ:http://www.geocities.jp/kumstak/index.html「2004年9月8日大村入国管理センターの施設見学と意見交換会報告」も参照)。
 (1)大村入国管理センターの設置目的:入管職員によれば、「入国管理局の5つの仕事(出入国管理、在留管理、退去強制、難民認定、外国人登録)のうち、大村入国管理センターはその一部を担っているに過ぎず、退去強制令書が発付され、退去強制されることが確定した外国人を、送還できるまでの間一時的にとどめておく場所で、刑罰や更正のための矯正施設である刑務所とは異なる施設である」とのこと。
(2)収容状況:大村入国管理センターの収容定員は800名ですが、説明によると現時点では約300名(うち女性約100名)を収容する体制で運用しており、これらの被収容者の約9割はニューカマーの中国人で、子どもの収容対象者(中学生以下)は、大村入国管理センターでなく児童相談所へ送られるとのことでした。さらに全被収容者のうちの半数以上が、「不法滞在者」の摘発強化で「過剰収容」状態になっている東日本入国管理センター(茨城県牛久市)から移送された外国人であることもわかりました。
 (3)処遇状況:「帰国するまでの間とどめておく施設なので、逃亡などの保安上の支障がない限りできるだけ自由を与えている。各収容室には8〜10人ほど入居しており、食事は収容室でとる。テレビも各収容室ごとに設置している。4つある各収容ブロックごとに日中は開放処遇(9:00-17:00)を認め、娯楽室や図書室も利用できる。アルコールは認めていないが、タバコは認めているし、清涼飲料水も自動販売機で自由に買える。電話も2台設置し、テレホンカードを購入して誰にでもかけることができる。運動は、屋外運動場で一日30分の運動が認められ、娯楽室には卓球用具を備えている。食事も、外国人の宗教・習慣・生活様式などに配慮して10種類ぐらい用意し、年に1度希望も聞いている。面会も親族に限定することなく、外国人が同意すれば誰とでも面会できる。」
 (4)診療状況:「医療職として、内科の医師1名、看護士2名、薬剤師1名の計4名が常勤、歯科医師が1週間に2日、臨床心理士が毎月2回(平日の午後に4時間ほど)希望する被収容者に対して、職員の立ち会いなしでカウンセリングを行っている。」カウンセリングには1日4、5人が利用しているらしいのですが、月2回では不十分ではないかとの印象を受けました。
 (5)不服申し立てについて:「まず、直接担当の警備官へ苦情を申し立てることができるが、担当者に言いにくいときは、意見箱を設けてあり、そこに意見を書いて提出すると、現場の担当警備官にわからない形で施設の次長に届けられ、被収容者の声を処遇行政に反映するようにしている。さらに、施設関係者に知られたくない場合には、法務大臣への不服申立制度があることも、多言語の説明書を作成して入所者に渡している。」実際、護送されてきた入所者が最初に入る1階の入所者検査室には、英訳された不服申立制度の説明書が壁に貼ってありました。

2.2 長期収容問題

 以上が職員らによる説明の概要ですが、その後の意見交換のなかでは、とりわけ「長期収容者」の問題が大きな焦点となりました。職員の説明によれば、大村入国管理センターは、退去強制令書が発付され帰還決定された外国人を収容している施設で、平均収容期間は3週間程度ということでした。しかし、その一方で、収容が3カ月以上にわたり長期化する被収容者が存在していることも事実で、わたしたちが気になるのは、むしろこの問題の方でした。
 中島真一郎氏(コムスタカ)によると、大村入国管理センターの被収容者については、つぎの(A)、(B)、(C)の3つに大別されます(前掲報告書より)。
(A) 帰国意思はあるがパスポートなど帰国するための証明書がない場合
@パスポートや渡航書が、その国の大使館・領事館などから発行されるまでの期間中(2、3週間)の収容で、大村入国管理センターにとって基本的な収容対象者となっています。
A帰国意思はあるが、帰国のための旅費を用意できない。
(B) 帰国意思がない場合
日本に、婚約者・配偶者・子どもなどがいるため、あるいは難民認定申請中や裁判係争中などを理由に、日本への在留を希望し帰国しようとしない場合です。
(C) 出身国の政府が受け入れ拒否、あるいは国籍不明のため受け入れ国がない場合
 ベトナム難民の家族、中国残留日本人の家族や無国籍の場合など
 このうち長期収容される可能性があるのは、(B)、(C)の場合です。意見交換のなかで、ネットワーク九州の参加者から「自殺、自殺未遂、自損行為の有無」や「仮放免の適用」など長期収容に関わる質問があがると、これに対して入国管理センター側は「自殺等の事件は、近年、大村入国管理センターでは起こっていない」、「仮放免は、感染するおそれのある病気や収容が長期化した場合などに認めている」と回答しました。これらの回答がどこまで真意を含んでいるのか、今のわれわれは正当に評価できません。しかし、今後も交渉のなかで問いつづけていかねばならない問題です。

3.大村入国管理センターの歴史

 さて、今回の意見交換会は第1回目ということもあり、それほど大きな証言を引き出すまでには至りませんでしたが、部分的であれ施設内部を参加者自身の目で確認できたことは重要な成果であったといえます。もちろん、このような形での施設見学や意見交換会が可能になったのは、大村入国管理センターの職員の考え方や姿勢の変化が前提となっていることは言うまでもありません。見学の最中、私は、訪問者の対応に不慣れな一人の警備官につきまとい、あれやこれやと質問を投げかけては言葉を詰まらせましたが、答えにくい質問にも何とか応じてくれました。
 先述した、東日本入国管理センターからの移送の話もそうですが、見学のなかで明らかになったことは非常に多かったように思えます。他にも例を挙げると、中国人の被収容者の間に結核罹患率が高く毎年2、3人が発症していること、常駐しているはずの医師らの姿はなく診察室の棚に置かれた数多くの薬品も未だ封を切られていなかったこと(他の参加者の談)、屋外運動場といっても天井からしか空をおがめないこと、学習室のホワイトボードになにやら講義をした跡が残っていたこと、等々。
 このように、施設見学の際に知った話や出来事はどれも興味深いものばかりで、すべてを語り尽くすことはできませんが、ここからは、そのなかの一つのエピソードを取りあげて話を広げたいと思います。そのエピソードとは、上に挙げた学習室で見た出来事です。

3.1 被収容者の移り変わり

 参加者一同がぞろぞろと学習室に入ると、何人かはすばやく「あるもの」を見つけて、とっさにそれをノートに書きつづりました。それは、ホワイトボードに<不法滞在者の形態の推移>と記された図式らしきものでした。「@.出戻り韓国・朝鮮人(働き盛りの男性)、A.アジアからの出稼ぎ目的の女性(いわゆるジャパユキさん)、B.査免協定による出稼ぎ男性急増(イラン、パキスタン、バングラディッシュ)、C.アジア諸国留学生受け入れによる若年急増→不法就労、D.ベトナム難民問題→カモフラージュ案件の急増、E.中国からの不法入国の急増」(実際は@〜Eまで縦書き)。おそらく、これは入管職員の学習用に使われたものの消し忘れと思われますが、大村入国管理センターの主な被収容者の変遷が示されていて、とても興味深い記述でした。
 今日でこそ大村入国管理センターの被収容者を代表しているは中国人ですが、@〜Eまでの流れを見ればわかるように、その歴史のなかでは、実に多様な人々が収容され送還されてきたことが伺えます(もちろん、今でも中国人以外の被収容者はいます)。これに加えて、上記の図式をいくつかの時期に区分し、送還方法の変化などもあわせて見ていくと、被収容者の変遷の歴史はより鮮明になってきます。
 まず、時期別にみると、@は1950年代から1970年代まで主な被収容者であったオールドカマー、AからDは1980年代以降に収容されはじめたニューカマー、Eは1990年代以降に被収容者の大半を占めることになった同じくニューカマーとなります。ちなみに、インドシナ難民の流入が増加した1980年代には、「大村難民一時レセプションセンター」が同じ敷地内に開設され、難民の一時庇護事業を展開しています(1982年−1995年)。
 また、難民認定された者を除いたこれらの被収容者は、1970年代までは長崎港から民間の商船を使って送還されています。そして、1980年以降は長崎空港、福岡空港から航空機で、場合によって下関港(青島行き)から船で送還されています。1970年代までの@の主な送還先は朝鮮半島(釜山)、それ以降は送還先が多様化したということです。

3.2 「大村朝鮮人収容所」の時代

 このように、学習室のホワイトボードに残された内容は、大村入国管理センターの過去の姿を、見学に訪れたわたしたちに思い起こさせるものでした。
 大村入国管理センターが新たに誕生したのは1993年、それ以前の大村収容所時代は、かつて(在日)韓国・朝鮮人ばかりを追放の対象として収容し、ときに彼ら彼女らを長期収容したこともあって、「大村朝鮮人収容所」、「刑期なき牢獄」とも呼ばれていました。
 大村収容所、正確には法務省大村入国者収容所が現在の場所に設置されたのは、朝鮮戦争が勃発する1950年です。終戦時に日本にいた旧植民地出身者(朝鮮人や台湾人)は、まもなく、帰国する人と日本に残留する人に分かれましたが、当時は自国と日本の間の自由な移動を制限されたために、引揚と残留の狭間で離散家族になる人も少なくありませんでした。そのようななか、家族再会のために再渡航し不法入国者として捕らえられた者、戦前からの日本居住者だが刑余者として退去強制になった者、戦争難民なのに密入国者として検挙された者など、理不尽な取締りが、とりわけ朝鮮半島出身者の間に相次ぎ、収容先の大村収容所は彼ら彼女らでごった返していました。
 そこでは、現在と違って、幼児から老人に至まで無差別に収容され、送還までの「船待場」でありながら面会や通信(電話、手紙)の自由も制限されていました。また、収容所の外には、高さ5メートルのコンクリ−ト壁が囲い、監視塔も立つなど、現在の姿からは想像もつかないほど陰惨な雰囲気を漂わせていました。
 収容所設置から20年間の歴史をまとめた『大村収容所二十年史』によれば、1950年12月から1970年9月末までに大村収容所内部で起きた事件は、騒擾事件34件、ハンスト22件、自損行為27件(自殺既遂4件、同未遂16件、自損7件)、暴行事件49件、逃走事件35件70名、その他、脱棟、放火未遂、退去強制令書破棄、嬰児遺棄、告訴等42件。またこの間、合計75回にわたり16,391名の(在日)韓国・朝鮮人が強制送還されています。この中には、密航者、刑余者、政治犯とみなされた様々な人びとが含まれており、長崎と釜山の間の海峡を何度となく渡った人もいます。
 (在日)韓国・朝鮮人への植民地支配は、終戦を境に消えたわけではありません。指紋押捺や参政権問題と同様に、大村収容所の存在もまた、戦後においてもなお(在日)韓国・朝鮮人に従属を強いたことを如実に物語っているのです。

4.曖昧な状態にさらされること

 大村収容所から大村入国管理センターへと移り変わり、また被収容者や職員たちも入れ替わっていくなかで、大村収容所の以前の記憶は薄れつつあります。今回は、特にそう感じた訪問でした。しかしながら、大村入国管理センターには、昔と変わらず、多くの「不法滞在者」が収容・送還を余儀なくされている現実があります。また、「長期収容」の問題など根本的な課題も依然として残っていることも確かです。「被収容者の人権には十分配慮しています」、とわたしたちに訴える職員の好意的な態度とは裏腹に、矛盾する入国管理のあり方が浮き彫りになった意見交換会と施設見学でした。
 午後4時、参加者たちと大村入国管理センターを後にすると、私はその足で「ハウステンボス」に向かいました。あまり知られていませんが、意外にもそこは大村収容所の前身となる「針尾収容所」があった場所なのです。大村入国管理センターで煙に巻かれたような気分になった私は、何とかそれを振り払おうと過去の痕跡をたどり、自分に対する説明を求めて、今回の探訪を終えることにました。しかし、その間も、また今もなお、長期収容の被収容者たちは、いつ終わりが来るのかわからない曖昧な状態に置かれていることには変わりあません。