評者・増島みどり スポーツライター 2001.10.29 update
特筆すべきは、本著には本人だけが「表現できる」、それは名波が展開するパスにも似た「他人には絶対に分からない」表現が満ちている点である。それらは彼独特の、「感覚の表現法」といっていい。普通の人間は感覚を何とか言葉に換えて説明しようとするものだが、名波は長いこと、それを左足だけで表現してきた稀な競技者ではないかと思う。
実際、彼のロングパス、スルーパスには、表現しがたい美しさがある。背筋がゾクっとするようなデリカシーが満ちている。前線に出す長いパスの繊細さに触れるとき、なぜか、菓子職人がデコレーションの最後に細い飴を空気に散らしていく、あの透明感や輝きがイメージとして重なる。
彼の言葉は左足ほど多弁ではないが、それでも本著にはこれまでのインタビューによる第三者が書いた記事にはなかった「感覚」がある。
サウスポーといわれた「手」の、つまり野球の時代を、レフティと呼ばなければならない「足」の時代に力強く変革したのは、間違いなく名波である。代名詞でもある「レフティ」について、「右足が嫌いになった」とある。
「そして気が付くと右足が嫌いになっていた。右足は感覚として許せない」
非常に面白い。延長上の表現として、少し長いのだが以下にも好感を抱く。
「人と接するのは嫌いだ。初対面ならなおさらで、そこで打ち解けるのは難しい。もちろん、そんな自分がいいとは思っていないし、好きではない。直したいとも思うが、直らない。いまさらどうしようもない。サッカーをしている限り、そんな自分を忘れさせてくれ、そして本当の自分がそこにいると思う。間違いなく名波浩という人間を見つけられる。サッカーがあるから僕は人と付き合うことができるのだ」
まったく正しい。
もうずいぶんと長いことさまざまな競技で、トップアスリートを取材しているために、よくこう聞かれる。
「どうやって選手の言葉を引き出すのか」と。
私たちが使うようなさほど意味のない言葉など引き出そうとは思わないし、不可能だ。彼らトップアスリートはそれが非常に苦手か、もっと言えばできないからこそ、わざわざ肉体を、プレーを、技術を使って自分を表現するのだから、といつも返答する。
名波のパスはそれ自体が完璧な「言葉」であり、あの繊細さの塊のようなプレーには潔さを感じる。
98年フランスW杯後のインタビューで、「どんなパスが出せれば満足なのか」と聞いた。名波はフランスで出した2本のパスについて詳細を説明し「あのパス2本は、受け手が一歩たりとも足を合わせていないはずだから」と言った。
本書にもあるが「僕は基本的に競争をさせるようなパスは出さない」といった、別の表現と重ねると、それらはまた新たな輝きを放ち始める。「初めて語った真実」といった衝撃的な部分ではなくて申し訳ないが、私はこうした、実にささやかな、少しもセンセーショナルではない部分が、本著の深い味わいだと思う。
余談ではあるが、ベネチアに行った当時、インタビューは受けないと話していた。しかし雑談の中で、「飛行機で夜降りるときの夜景が素晴らしいんだ。本当にきれいで、きらきら輝いてんだよね、街が」と言った。
先発か、ポジションは、チームとのコミニケーションは? といった、一種殺伐とした質問ばかりを浴びせ、実際私自身もそういう類のことを聞いていたと記憶する。
サッカーとは無関係だったが、あの答えはとても魅力的だった。移籍先の困難を聞かれてあんな風に答える選手は少ないだろう。
スポーツマスコミへの不満、反論を、選手も公言する。ホームページという最終手段を用いて媒体を中抜きし、読者、ファン、サポーターとのコミニケーションをはかる時代である。
そもそも隠し守ろうとするものがあり、それを明らかにしようとする立場にある両者の利益は絶対に接点を見出せないはずで、名波に代表されるように選手は言葉を拒否し、こちらは残念ながら言葉を商売にしている。
そもそも、川を挟んだ関係なのだと、私は仕事を始めて以来ずっと考えている。
フランスW杯の前後は、双方のこうした立場の違いが、もっとも悲劇的な格好でぶつかってしまった現実のひとつである。選手との信頼関係、とよくいう。しかし選手がもし仮にライターを信頼するようなことがあるのだとすれば、こちらにも信頼に値する選手かどうか見極める自由はある。
帰国し、Jリーグが始まっても選手たちがみな沈黙する中、名波とかわした短い会話は、忘れられない。
国立競技場の試合の後、インタビューをしたいと申し込むと、「今は話したくないし、話せない。だけどいつか、必ず話すから」とだけ言った。
「いつか」は、おそらく彼の気遣いで早めにやって来たのだと今も思っている。本当に自分のほうから事務所を通じて連絡くれた。
名波浩は約束を守る。これは男として。
ピッチでも、選手同士の約束の形をパス交換によって守り続けてきたのだ。
これは最高のMFとして。
残念ながらあのパスを同じピッチで受け取れない以上、彼の嫌いな会話によって何とかするしかこちらの選択肢はない。個人的にも、特別濃い取材関係にあるわけではないし、こうした本を出す以上、彼自身、人に書かれるよりも、「自分が語る」ことのほうにより大きなウエイトを置いているのだとすれば、それもある部分では残念ではある。
しかしそれでも、本著の読後感は清々しい。
左足から放たれる1本のパスをピッチで受け取れない私たちは、紙の上でそれを懸命に受け取ろうとするような気分で、ページをめくることになるだろう。
そして清々しさが、一体に何によるのか、実感できるはずだ。 |