ラファエロ<I>
   〜草原の聖母

ラファエロの名画をあれこれと挙げるのは楽しい。私のもっとも好きな画家のひとりだし、どれもが甲乙つけがたい傑作ぞろいだからだ。それにつけても、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロという巨人たちが、ルネサンスという同時代に、地理的にもごく近隣の場所に生を受けたというのは、まさしく絵画史上の奇跡とさえいいたくなる。
私の中でのラファエロのイメージって、作曲家にたとえると、モーツァルトだ。同時代のベートーヴェンより、スケールの雄大さでは一歩譲るが、その分、繊細で優雅で中庸を得ていて、なにより「自然」な作風。そして、まるで駆け抜けるように、短い人生をまっとうした点。ラファエロがまさに「夭折」という言葉のとおりに世を去ったのは1520年のことで、当時まだ37才という若さだった。死因は突然の高熱によるものだったらしい。

ラファエロの作品を語るには、システィナ礼拝堂の壁面に描かれた「アテネの学堂」や「聖体の論議」などの大作ももちろん忘れられないが、多くの人が彼の名を聞いてまず思い出すのは、やはり珠玉の「聖母子像」たちだろう。

そこで私がふと疑問に思ったのは、一連の聖母像は、彼が何歳の時に書かれたものなのかということだ。
調べてみると、これが案外早い時期に書かれているのである。
・1504年「大公の聖母(右図)」(21歳)
・1505〜06年 「ひわの聖母」(22歳)
・1506年「草原の聖母」(23歳)
・1508年「美しき女庭師」(25歳)
・1512〜13年「サン・シストの聖母」(29歳)
・1514年「小椅子の聖母(下図)」(31歳)
優雅や甘美などという形容が陳腐に聞こえてしまうような、聖母の気品に富んだ美しさ、そして画面からにじみ出る包み込むような暖かい母性。年齢で人を判断するのは、自分がオヤジになりつつある気がしてイヤなんだけれども、それでもこのような深い精神性に満ちた絵画を当時20才そこそこの若者が描いたという事実には改めて驚嘆の思いを禁じえない。
もっとも、生前のラファエロという人物は女好きで、上昇志向が強い、いわばかなり俗な人間だったらしい。作品のテイストからすると意外だが、先ほど例えに出したモーツァルトも、天上の音楽のごとき名曲を生み出しつづける一方で、日常においては猥雑な表現や会話好きだったというように、芸術とは案外そんなものなのかもしれない。いずれにしても、私のような凡人には計り知れない世界だ。
私が生まれて初めてヨーロッパを訪れたのは、かれこれ10年以上前のことだ。当時自動車メーカーに勤めていた私は、ウイーン(とジュネーヴ)で開かれる見本市に、新車を出品するために現地に赴いた。旧市街の安ホテルに泊まり、シュテファン寺院の鐘の音で目覚める朝は、心を洗われるような新鮮な体験だったが、あちらの現地社員や駐在員たちにとっては、初めて欧州の地を踏んだ言葉もろくにしゃべれない若造がポツンといても、何の役に立たないどころかむしろ足手まといだったろう。しかし、彼らがそんなそぶりひとつせずに、仕事のあいまに美術館や博物館に精力的に連れて行ってくださったのは、本当に感謝にたえない思いだ。もっとも、当時絵画にさほど興味なかった私は、連れられるままに漠然と館内を見て歩くだけで、むしろそのあとの「ホイリゲ」の食事の方を楽しみにしていたのだけれども。
その後、ずいぶん経って、講談社より「ラ・ミューズ」という世界の美術館を紹介する雑誌が発売になったおり、懐かしく思って、「ウイーン美術史美術館」の刊を買ってみた。
つらつらとページをめくってみると、「ああ、あのとき見た!」と鮮やかに自分の脳裏に記憶がよみがえってくる絵が3つあった。ひとつは「ブリューゲル」の「雪中の狩人」、もうひとつは「フェルメール」の「絵画芸術の寓意」、そしてもっともよく覚えていたのが、このラファエロの「草原の聖母(ヴェルデベーレの聖母)」だった。スケール感のある明るい背景、鮮やかな色彩の聖衣、素人の私にも理解できる三角形を基調にした確固たる構図。聖母マリアの表情は、一種近づきがたいような気品を備えていながら、ルネサンス以前の聖母像に見られるような謹厳さはなく、どこまでも優美でおだやかだ。
ちなみにこの絵は、美術書でみると、ほんの50cm程度の大きさぐらいかと錯覚するが、実際は縦113cm×横88.5cmとかなり大きい。あれだけ散漫に見たのに、10年近く経過しても記憶の片隅に残っていたというのは、ほとんど実物大の人物に近い大きさの画面が与える視覚的なインパクトも大きかったのだろう。そんなこんなで、ラファエロの聖母像というと、まずこの絵を思い浮かべる私である。
ただ、この絵でちょっと不思議なのは、絵の左下の部分だ。いや、その前に聖母の足を見てほしい。右側に伸びているのは、「右足」なのである。ということは聖母はかなり不自然にねじれたポーズをとっているわけだ。では左下の青く塗りつぶされた部分は何なのだろうか?これはきっと聖母が腰掛ける玉座が隠されているということなのだろう。どうも三角型の構図にこだわるあまり、この部分に破綻をきたしてしまったような気もするのだけれど、トータルとしてのこの聖母像のすばらしさの前では、重箱の隅的粗探しかもしれない。
その2年後に描かれた「美しき女庭師」は珠玉の名品ぞろいのルーヴル美術館の中でもひときわオーラを放つ名作だ。画面の構成はより緻密になり、伏目がちの聖母の表情はより生身の母性を感じさせる柔和なものになってくる。貴族セルガンティのために描かれたものを、フランソワ一世が買い取った、ルーブル最初の所蔵品の一枚だそうだ。洋の東西は異なるが、私はこの聖母の表情を見ると、広隆寺の弥勒菩薩像を思い出す。
「ひわの聖母」は不遇をかこった一枚だ。この絵はラファエロが友人の結婚祝いに描いたものだが、友人の家が地すべりに会い、この名画もバラバラになってしまった。17個の小片を継ぎ合わせて修復したこの絵は、よく見ると、画面のあちこちに痛々しい継ぎ跡が見て取れる。見るも無残な小片をつなぎ合わせて、鑑賞可能なまでに修復したその技術は賞賛されるべきものだと思うが、おそらく、技術だけでなく、ラファエロの聖母像をこの世から消し去るまいという情熱とラファエロへの敬慕の情があって、はじめてなし得た作業だろう。
「ひわ」とは小鳥の名前で、いばらの棘を食べることから、いばらの冠をかぶせられて磔になったキリストの受難の象徴とされる。
ウフィッツィ美術館を訪れたとき、残念ながら、この絵のあった一画が工事中やらなにかで、見ることができなかった。
フィレンツェのピッティ宮殿にある「小椅子の聖母」は異色の作品だ。聖母像というには、あまりに自由な構図。玉座は申し訳程度にほんの一部だけ描かれ、聖性をあらわす頭部の光輪も、ほとんどわからない程度にしか描かれていない。ここでの聖母はいよいよ生身の人間らしい生き生きとした表情で、画面いっぱいにあふれるばかりの「母」としての愛情が、厳かな聖母像とはまた違った感動を私にもたらす。
伝承によれば、昔ある娘が、行き倒れになった隠者を助けた。隠者はお礼にあなたに永遠の生命をさずけましょう、と言い残して立ち去った。その後、この地を訪れたラファエロが、母となったその娘の美しさに感動して、ワインの樽をキャンパス代わりに書き残したのがこの作品だという。おとぎ話のような逸話だが、一方で、この作品のモデルになった銀行家の娘は、実はラファエロの愛人で、描かれた幼きイエスはラファエロとの間に設けられた子供だというエピソードも残されている。
つらつらと書き連ねてきたが、ここでもう一度最初に記した、それぞれの絵の制作年代を見返してほしい。年を経るごとに、聖母の表情がより豊かに、より生身の人間に近くなってくるのがわかるはずだ。

その後、ヨーロッパには何度となく行く機会があって、特にラファエロの絵はずいぶんと見て回った。一時期はほとんど「ラファエロ・マニア」とでもいいたくなるほどラファエロの絵を追いかけていた(凝り性なのだ)。このことについては、またいずれ書きたいと思うが、残念ながら、初めて彼の絵に接した思い出の地、ウイーンだけは再訪する機会に恵まれない。もし機会があれば、クリムトやシーレの一連の絵画とともに、もう一度じっくり「草原の聖母」を時が経つのを忘れるぐらい眺めたいのだが。