産地支えた大衆娯楽
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薄暗い映写室。開館当時から使い続けている映写機は今も現役=西脇市西脇、西脇大劇 |
「休みには友だちとよく映画館に通いました。いつもお客さんが多くて後ろの方は立ち見でしたよ」。懐かしそうに振り返るのは、戦後間もない一九四七年、鳥取県から西脇市内の織物工場に就職した徳永より子さん(75)。
真っ暗な館内で、巨大なスクリーンに次々と映し出される時代劇、西部劇、恋愛ドラマ…。平日は一日中、織機の前に立つ女子従業員たちが、つかの間の「休息」を感じる瞬間でもあった。
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かつて、西脇市内には最多で五つの映画館があった。一九一九年に「蓬莱座」、二六年には「寿座」がオープン。戦後の四六年に「西脇映画劇場」、五八年に「西脇大劇」、六〇年に「西脇銀映」と開館が相次だ。
これだけの映画館を支えたのは当時、好況に沸いていた播州織業界と、集団就職で全国からやって来た女子従業員たち。県織物協同組合連合会によると、全盛期の女子従業員数は一万五千人に達したという。
しかし、工場の省力化で業界の従業員数が徐々に減少。六四年には約一万八千人だった従業員数は、七〇年代後半には約三分の一にまで落ち込み、女子従業員になる中学生たちの集団就職もなくなった。
六七年に最古の蓬莱座が閉館。八四年に寿座が閉められた後も相次いで映画館が閉館し、現在では北播四市一町で唯一、西脇大劇だけが営業を続けている。
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1960年代の西脇大劇(奥)と西脇映画劇場。映画劇場は現在、駐車場になっている=「写真集西脇」より |
真っ暗な館内の空気は少しほこりっぽい。客席には人影もまばらで、スクリーンに映し出されていた映画は、いつの間にか終わっていた。西脇大劇の普段の風景だ。
西脇大劇の創業者、故高尾常松氏は、亡くなるまで「赤字でも何でも、西脇から映画館の灯を消してはいけない」が口癖だった。孫で同館を運営するクレンツ映像株式会社社長の高尾博さん(43)は「どこまでやれるか分からないが、地元のお客様に楽しんでもらえるよう続けたい」と語る。
同大劇で四十年以上、映写師を務める村上明久さん(69)は「体が動く限りこの仕事を続けたい」。手際よくオープンリールを取り替えながら、長年の“同僚”の映写機にじっと目をやった。
<メモ>蓬莱座や寿座は戦前まで演劇小屋としても使われ、ボクシングや柔道などの国際試合や歌舞伎なども催された。蓬莱座は1931(昭和6)年3月、火事で全焼したが翌年12月に再建された。西脇大劇の故高尾常松氏は旧加美町出身。西脇銀映、西脇映画劇場も経営した。西脇市岡之山美術館の建設資金として1億円を同市に寄付したことでも知られる。 |
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