雪の五箇村




  2012年は豪雪の冬になりました。雪が見せてくれる素敵な風景はいっぱいありますが、その中でも幻想的で美しいのが、雪に埋もれた合掌造り集落の景色です。大雪のこの時期は、ライトアップが限られた日しかない五箇山を訪ねる絶好のチャンスです。東海環状道路に東海北陸道路がつながり、浜松から富山までは日帰り往復が可能になりました。

解説によれば、ここは、もともと加賀藩の、いわゆる「政治犯」を流し、牢に押し込めておく所に指定されていたということです。五箇山は山深く、冬は豪雪で人が近づけない地域でしたから、簡単に出入りが出来ない土地でした。そのために政治的な対立者を閉じ込めておく為の流刑地になったのでしょう。加賀藩は、流人の逃亡を防ぐため庄川に橋を架けることを禁じ、一人では往来できないように、ロープに篭を引っかけて渡すという方法をとらせていました。明治以降は流刑の制度がなくなり、橋も架かりました。今は当時をしのぶ一軒の流人小屋だけが残っているのだそうです。

時の権力の側(がわ)から疎んじられ、抹殺される者は、いつの時代にも居りました。 幽閉され、志かなわず、この地で一生を終えた人の無念が伝わってくるような話でした。

想いと恋と笹舟に乗せりゃ 想いは沈む恋は浮く
まどのサンサもデデレコデン
はれのサンサもデデレコデン

地元の人が歌い継いできた「こきりこ節」は、日本最古の田踊り歌なのだそうですが、労働の歌にしては寂しい旋律です。繰り返される囃し詞(ことば)の単調な響きは哀切を帯び、降りしきる雪のせいか地を這うように低く流れ、豪雪地帯の厳しい冬を、急ぎ送る御詠歌のように聞こえました。

茅葺きの屋根作りでも知られるように、五箇山には細い草や茅を上手に編む技術が古くから受け継がれていて、黄緑色の萌葱糸(もえぎいと)の「網」を掛けたセンスのいい上品なデザインの「蓑(みの)」を作ることが出来ました。この集落から加賀藩が買い上げた「蓑」は、おしゃれな「加賀蓑」として評判をとり、他藩の武士の羨望の的だったのだそうです。

集落では、和紙漉きや養蚕が盛んでした、そして鉄砲の火薬の原料である塩硝(えんしょう)を作る技術も持っていましたから財政は豊かだったそうです。しかし、塩硝の生産は、明治になって加賀藩の庇護がなくなり、輸入品が安く入ってくるようになり、衰退していきます。

平成7年、世界遺産になった五箇山集落には今は住む人はなくなりましたが、町を挙げてこの集落を盛り上げようとしています。降りしきる雪の中で、多くの人達が観光客の案内と接待につとめていました。(2012.2.04.)


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