一九四〇年 東京万国博・オリンピックと被差別部落へのまなざし

友常 勉

はじめに

万国博・オリンピックとふたつの事件

 一九四〇年(昭和一五)、「紀元(皇紀)二六〇〇年」記念事業として、東京市(当時)において開催される予定であった日本万国博覧会および第十二回オリンピック東京大会は、日中戦争の激化のなかで、国民総動員体制・国家統制のつよまりと、その侵略行為にたいする国際的非難などの理由で中止においこまれた(1)。近代オリンピック史上、開催国が大会を返上したのはこのときが唯一であるが、それは関東大震災以後、総力をあげて帝都復興にとりくんできた東京市が、つぎのステップとして、国際都市への飛躍をかけてとりくんだ一大イベントであった。おなじことは万国博にもいえる。さらに、万国博の開催は、確認しうるかぎりでは一八八六年(明治一九)の田口卯吉の提言を嚆矢として(2)、一八九〇年(明治二三)の農商務大臣西郷従道による亜細亜大博覧会開設の建議書(3)、さらに西園寺内閣のもとでの一九一二年(大正元年)の日本大博覧会計画など、資本主義国としての国力をアピールし、欧米諸国と対峙しようとしてきた日本にとって、必然的な国家的欲求でもあった。

 万国博・オリンピックというふたつの大イベントは中止となったが、「紀元二六〇〇年記念式典」自体は、まさにしゅくしゅくと挙行された。そうした流れのなかで、部落解放運動史上における「紀元二六〇〇年」は、周知のように皇国主義に統合されつつおこなわれた奈良・洞村移転の跡地に出現した神武天皇陵・橿原神宮となってあらわれ(4)、そして金靜美があきらかにしたように、「解放令」=『明治天皇の聖旨』という規定を歴史的に選択したことを内外にしめす、一九四〇年八月二八日開催の全国水平社第十六回大会となってあらわれた(5)。一九四〇年ー紀元二六〇〇年は、この国の帝国主義的膨張が破局に達する直前の段階にあたり、同時に、融和主義ー融和体制が完成にいたった段階でもあった。

 一方、東京における差別問題という観点からみたとき、一九四〇年の万国博・オリンピックは、忘れられない事件とともに思い起こされる。ひとつは、一九三七年(昭和十二)一月十二日付け報知新聞東京版の差別記事「大東京を美化しよう」である(6)。前年七月のオリンピック東京大会開催決定をふまえ、東京の景観美化をよびかけたこの記事は、京橋付近の「不良住宅」の写真を掲載しつつ、「三河島や向島のある部落のやうな風景を、この大東京の真中でさらけ出して得々としてゐるやうでは、東京市民もまだ文化人だといへないでせう」「大東京の、少なくとも中央地帯は決して特殊部落ではないのです、これではオリムピックのお客様は、東京市民をジプシーと間違へるかも知れません」と書きたてた。これは「大東京を美化しよう」という連載の第一回目にあたり、その後も銀座の「不良住宅」を「世界の銀座が泣く 背後は見ないでください」と続け、また、公共施設の美化、看板の自粛などをもとめる記事を掲載し続けた。この差別記事にたいし、向島・三河島の皮革工場主たちを中心とした住民ー吾嬬奉明会・地区の融和委員、および全国水平社は、報知新聞社と評者である美術批評家協会にたいする糾弾をおこなった。このいきさつに関しては、すでに木下川沿革史研究会による調査報告『木下川地区のあゆみ』が事件の概要をくわしくまとめており、向島(木下川地区)住民の動きがきちんとトレースされているので、ここでは省略する(三河島地区における動向については、後述)(7)。

 もうひとつの事件は、本年(一九九五年)三月、江東・在日朝鮮人の歴史を記録する会の手で編集・発刊された『東京のコリアン・タウン 枝川物語』にまとめられている(8)。これは、オリンピック・万国博開催の決定によって、開催地近辺の深川区(当時)のバラックに居住していた在日朝鮮人住民が、バラックを撤去され、枝川地区へと移転させられたという事件である。正確にいうと、移転計画は、万国博・オリンピックの中止が決定したあとでも予定どおり強行され、一九四一年に実現した。このとき、住民の抵抗にたいし、東京市は枝川に簡易住宅を建設した。しかし当時の枝川は「埋め立てを終えただけの未整備の荒れ地で、ゴミ焼き場と消毒所のほかに建物は一つもなかった。移転はいわば孤島への『収容』なのであった。こうして枝川に、ある日こつぜんと一〇〇〇名を超える朝鮮人集落が出現したのである」。政策的に形成された枝川の朝鮮人集落は、戦前・戦後、「解放区」として闘いの歴史をあゆむことになる。

 さて、一九四〇年の万国博・オリンピックは、それを契機として、戦前の東京における、部落解放運動と在日朝鮮人運動とが重なる瞬間を生み出した、ということになる。とはいえ、本稿の目的は、当時の運動史をたどることではない。ふたつの差別事件が象徴的にしめしているように、そして後述の歴史的変遷をみることでよりはっきりすることだが、万国博・オリンピックとは、資本主義の文化装置として、ついで帝国主義のプロパガンダとしての性格を有して形成され、それゆえその時々の国家の政治性から自由ではありえなかった。スポーツと博覧会というふたつの文化的表現は、当初は博覧会=万国博が中心であり、オリンピックはその付属物という関係にあった。これがオリンピックが主となり、博覧会=万国博が従となるのは第五回ストックホルム大会からだといわれ、それでもなお一九二〇年代までは万国博を凌駕するものではなかったオリンピックは、一九三六年・第十一回ベルリン・オリンピックにおいて博覧会との関係が逆転し、「帝国」の覇権を世界にしめす国際イベントになったといわれる(9)。この形態が戦前ー戦後と連続して今日まで続いていることはいうまでもないだろう。さらにいえば、万国博・オリンピックとは、近代性(modernity)そのものの集約であり典型として、「民衆」を「観客」に変え、余暇や消費の領域までも商品性社会の論理で組織化していくスペクタクル(=語義は見世物・ショー、支配的な社会文化的表現であるところのもの)なのである(10)。そのようにみたとき、当然ながら万国博・オリンピックの検討は近代社会を理解するための有効な手続きとなる。吉見俊哉がいうように、「ここで万国博とオリンピックの同型性として述べたことは、より身近なレベルで考えるなら、明治以来のわが国の小学校における展覧会と運動会の同型性ともつながるものである。…本書で得られた展望から出発し、近代社会の日常性の構造が、とりわけ儀礼とスペクタクルが複雑に絡まりあった文化的かつ政治的パフォーマンスのなかでどのように変容してきたのかを、地域的レベルから国際的レベルまでを含んだ重層性において明らかにしていくことも、けっして不可能ではなかろう」(11)。
 ここで吉見俊哉が述べる「近代社会の日常性の構造」は、「近代社会の差別という構造」といいかえることもできる。そしてまた、この「構造」は、同時代において普遍的に「同型性」を確認できるが、それぞれの社会ではそれぞれの特異性をもってあらわれる。本稿の目的は、『紀元二六〇〇年のスペクタクル=万国博・オリンピック』を契機に発生した差別事件を手がかりに、「近代社会の日常性の構造」のなかで生成していった差別という〈まなざし〉について考察しようするものであるが、それは日本社会における特異性を確認することにもなるだろう。

 本稿はすぐれた先行研究ー吉見俊哉、中川清、内田雄造、ロバート・W・ライデル等ーによるところが大きい。しかし、企図したところの大部分はここで論じつくせなかった。今後の課題としたい。

(はじめに 註)

(1) 紀元二六〇〇年記念事業に関しては、「東京市紀元二六〇〇年奉祝記念事業誌」(昭和十六年、東京市役所)、また、オリンピックについては「第十二回オリンピック東京大会東京市報告書」(右同、昭和十四年)がある。オリンピックの招致決定から返上までを知る通史としては、橋本一夫『幻の東京オリンピック』(NHKブックス、一九九四年)が唯一にしてもっとも適切。また、本稿は、内外の博覧会の歴史の文化社会学的解明をおこなった吉見俊哉『博覧会の政治学』(中公新書、一九九二年)なくして成立しなかった。先駆的であるだけでなく微細な部分まで念入りに書き込んであり、今後とも一級の研究として記され続けるだろう。

(2) 「東京経済雑誌」第三三〇号(明治十九年)。

(3) 吉見前掲書、一九九二年、二一五頁。

(4) 辻本正教『洞村の強制移転』解放出版社、一九九〇年、一九七〜一九八頁。ちなみに、国家的イベントとそれにともなう「美化運動」の関係は、近代にはじまるわけではない。すでに江戸期初頭、一六二四年(寛永元年)、一六三六年(同十三)に、朝鮮通信使・琉球使節などの「国賓」行列に際して、幕府は、「風俗取締り」として、見物人の行儀を規制し、河川・道路・橋などの町並みの整備、屋上の物干し竿の取り外し、「見苦しき看板」の取り払いなどを命じている(ロナルド・トビ「外交の行列・迎列ー異国・ご威光・見物人」、『朝日百科 歴史を読みなおす 一七 行列と見世物』、朝日新聞社、一九九四年、四八頁)。ただし、近世の見ル側ー見セル側の関係は、祭礼的要素、祝祭的空間によって特徴づけられていた(鳶米黒和三「都市の祭礼文化」、同右所収)。しかし、そうした空間はM・フーコーがいうように、近代化の過程において秩序と規律、監視のまなざしにとりかえられ、〈行列〉〈祭り〉を見ル側ー見セル側の関係も解体・再編成されていったと考えるべきであろう。そこに近世と近代ーおそくとも明治中後期以降ーとの断絶があると考える。

(5) 金靜美『水平運動史研究』現代企画室、一九九四年、一四六頁〜。
 八月二十八日は、一八七一年(明治四)に「賤民廃止令」の太政官布告(いわゆる解放令)が発布された日である。
 秋定・渡部編『部落問題・水平運動資料集成』第三巻、三一書房、一九七四年、六五七頁。

(6) 報知新聞東京版、昭和十二年一月十二日。

(7) 『木下川地区のあゆみ』(『明日を拓く』二・三合併号)、東京部落解放研究会、一九九四年、七八〜八三頁。

(8) 江東・在日朝鮮人の歴史を記録する会編『東京のコリアン・タウン 枝川物語』、樹花舎、一九九五年、一七頁〜。

(9) 吉見前掲書、一九九二年、二七四頁。

(10) Debord, Guy. 'La sociere du spectacle'. 木下誠訳『スペクタクルの社会』、平凡社、二五〜六八頁。Certeau, Michel, d. 'La culture au pluriel'. 山田登世子訳『文化の政治学』、岩波書店、一九九〇年、二三二〜二三三頁。

(11) 吉見前掲書、一九九二年、二七七頁。


第一章 万国博・オリンピックのまなざしの生成

第一節 『都市美運動』と美化・衛生運動

 住民たちや水平社が糾弾したように、美術批評家協会の記事で問題にされているのは、京橋地区の「不良住宅」であっても、より下位におかれ「排撃すべき対象」とされているのは「三河島や向島のある部落のような風景」「特殊部落」である。「三河島や向島」「特殊部落」に共通するのは皮革関連工場地帯であり、この記事は、「特殊部落」を比喩としてではなく、明白に被差別部落を念頭において書いている。同時に、この記事は、当時、博覧会・オリンピックを前にして注目を集めていた都市下層対策、都市美化対策の流れに沿ったものであった。「最近の世界の文化国は、ユルバニズム(都市計画美術)といふ問題を極めて重要視し始めてゐます。例へば今年のパリに開かれる博覧会には、世界各国の建築家は、ユルバニズムの模型を出品して…」「大東京には既に、都市美協会なるものもあり、一九四〇年をひかへて、都市の美化を叫んでゐる人もゐます」。

 ここで、記事を書いた美術批評家協会がひきあいに出している都市美協会とは、東京市土木局内に事務所を置いていた学者・建築家・東京市職員らによる有志団体のことである。まず、この節において、万国博・オリンピック開催決定にともなって噴出した「都市美」「都市風景」という名の社会運動について概観していこう。

 時間的な経過から説明すれば、「紀元二六〇〇年」国家祝典が公式に議会(貴族院)でとりあげられたのは一九三二年(昭和八)のことである(1)。祝典の内容は神宮や官国弊社の祭典、大観兵・観艦式、奉祝会、記念事業としては橿原神宮・神武天皇陵等の拡張整備、国史館建設、日本文化大観の編集出版であった。一方、記念事業のひとつとして構想された博覧会の開催にむけた動きは公式にはやや早く、一九二九年(昭和四)には政府に建議が提出され、同年には東京市会において建議が提出されている。そして、一九三三年(昭和八)に市会産業局内に日本萬国博覧会協会創立準備事務所が開設され、翌年日本萬国博覧会協会が創立された。また、オリンピック東京大会招致が俎上にのぼったのは、一九三〇年に第十四代東京市長・永田秀次郎の就任にともなうとされ(2)、各国の招致合戦のすえ、東京大会が決定したのは、ベルリン・オリンピック開催の前日の一九三六年七月三一日、ベルリン大学で開催されていたIOC委員会においてであった(3)。

 前述の都市美協会は、東京市において観光課を設置する計画と連動しつつ、万国博開催に早くから対応していたようである。だが、「都市美」「都市景観」をめぐる政府当局、学者・文化人、そして商店街などの広汎な運動が開始されるのは、オリンピック開催決定を目前にした一九三六年初頭からである。まず、かつて都市美術協会(都市美協会と同一であるか不明)設立者であった橡内吉胤が、パリー会幹事・武藤叟、工政会・倉橋藤治郎、詩人・川路柳紅、造園研究会・石川全、照明研究家・小西彦麿、同潤会関係者などと一九三五年十一月には都市風景協会を設立した。都市風景協会は会長に徳川義親をすえ、報知新聞の後援のもとで「東京都市百景」の制定、機関誌「都市風景」の発行、銀座通り木建築の促進運動、東京・上野・新宿など主要駅頭構内や広場の風致運動などをてがける(4)。この都市美協会も都市風景協会も、東京市内の公共施設・空間をチェックし、審美的な基準を設け、オリンピックにそなえた都市景観を創出することを目的としていた(5)。観光課設置五ヵ年計画を策定した東京市もまた、これに連動して東京市観光協会を設置し、報知新聞と共催で「東京府観光新一二ヵ月」のコンテストをよびかける(6)。東京市と都市美協会などの動きが先導したあと、つづく「都市美化」騒動を規定していったのは、政府当局の決定であった。オリンピック開催決定の一ヵ月後、九月二日に内務省、警視庁、逓信省、東京府市が一堂に会し、「文化都市建設」のために「都市美化計画の策定」「架空線統制(電柱の地中化など)」、「路上工作物統制計画」が協議された(7)。これに前後して、商業界でも、オリンピック開催決定時に銀座デパート街、浅草六区などの繁華街で祝賀祭が展開され、オリンピック・グッズが販売される一方で、「東京大会準備対策座談会」が、各区会長、三越、伊勢丹、帝都座、武蔵野館、ホテル、カフェー関係者などの出席で開催され、「帝都の美化」「四谷旭町などの貧民窟の移転」などが議論される(8)。浅草でも「世界的繁華街」「アミューズメント・センター」建設とバラック移転が論議された。「路上工作物」すなわち都心に乱立していた看板についても自主的な取り締まりが始まる。それはいずれの団体も強調していたが、当事者たちの集まりである看板装飾組合が「街の美化、商店繁盛祈願」で亀戸天神に参拝する(9)、あるいは「商業都市美協会」なるものが創設され、銀座・上野・浅草・新宿といった盛り場の店頭広告や照明をチェックし、「盛り場を日本化」することを提唱する…(10)。この年の明治節(十一月三日)を前には、「愛国市民会」などの協賛も得ながら、「看板美化デー」「盛り場清掃デー」などがよびかけられ、この「都市美化」騒動は翌年にひきつがれていく。当然ながら、そこでは「衛生」がつけくわえられる。一九三七年一月十四日、読売新聞は「衛生オリンピック 大東京 雪辱の陣」と報じた。それによれば、警視庁衛生部・保安部、内務省は合同協議を持ち、「わが国の風土病ともいふべき腸チフス、赤痢、トラホーム、さては世界最高率といはれる結核患者、寄生蟲患者、狂犬病等、躍進ニッポンにとっておよそ不名誉この上ない数字をこのまま放置しておく時は施設、人口とも世界第二位を誇る東京として三年後にドッと押し寄せて来る外人観光客に對して顔向けできない不名誉」である。そのため、旅館・飲食店の衛生検査、あるいは野犬の取り締まり・去勢、伝染病対策などを取締規則として公示する、というものであった(11)。

 「美化」とはいいながら、「風致、清潔、衛生」をその内容とした社会運動が展開されるなかで、万国博会場付近の「ルンペン」の存在が問題とされ、深川区浜園等のバラックに集住していた在日朝鮮人の移転が協議されるのである(12)。さらには、震災復興計画でもちこされた懸案の事項であった、「不良住宅」対策も議論となり、東京市による四谷旭町、荒川区南千住、小石川などの「不良住宅改善」を前提とした調査がおこなわれるのである(13)。

 こうして、「都市美化運動」が、「清潔化、衛生化」と同義にとらえられ、都市「不良住宅」やスラムが、その意識とまなざしによる差別と排除の対象に直結していった過程があきらかになる。行政施策上は確かに「改善」であったが、一般的な意識においては、「清潔化、衛生化」の対象になったのである。だが、だいいちに語義からいって、「美化」を「清潔化、衛生化」と同じに受け取る感覚は、けっしてあたりまえではない。こうした言説はひとが自然に生まれもってきたものではなく、都市下層社会にたいする歴史的なまなざしの変化によって形成されてきたのである。その点は後述したいが、その前に、このときの「都市美運動」が、日本に移入される際の大きな読みかえから生じていったということ、およびその意味についてしめしておこう。

第二節 「美化」と風致・清潔・衛生

 一九六四年の第十八回オリンピック東京大会の際にも、「首都美化審議会」「美化推進協議会」が設置され、都市美化運動が清掃・衛生運動として展開され、「美化」とは通常そのような意味としてとらえられてきたことがわかる(14)。だが、いわゆる『都市美運動=city beautiful movement』は、一八九四年のシカゴ万国博から出現し、フレデリック・L・オルムステッドらによって提唱され、主に都市の中上層階級のライフスタイルを基準にした理念と審美的基準にもとづき、公園と並木通りを生かした都市空間の機能的分割、保養施設の設置、上下水道・道路の浄化、自然を生かした環境整備という包括的な都市計画のスタイルを指していた(15)。シカゴ万国博ではミシガン湖周辺の自然環境を生かした調和のある景観が評判を呼んでいる。さらにこの運動は全米に広がり、急激な人口増加と産業の発展を遂げた都市のリフォームを手がけていった。その影響を受けた作品のひとつに、ホワイトハウスを中心としたワシントン・D・Cの都市デザインがある。それはすでに一九三〇年代には主流ではなくなっていたはずだが、多分に都市の未来にたいするユートピア的な期待を有した運動であり、おそらくそうした印象から、日本の都市計画においても、モダンな建築と伝統的な建築を自然環境のなかで調和させることや、都市における伝統の発見・保存・活用などが提唱されたのであろう。だが、日本における「都市美運動」は、都市風景協会の方針に「痰なしデー」の提唱があるように、都市計画というよりも、精神的な運動であり、しかも清潔化・衛生化と容易になじむものとして理解されていった。この当時は、実現はしなかったが本格的な都市計画として一九一八年の「『新東京』計画」や、部分的な実現に終わった「東京緑地計画」が構想されていた(16)。そうした計画への影響がみられないことからいって、当初から東京をデザインする総合的な都市計画として移入されたのではなかったのかもしれない。

 だが、「都市美運動」が容易に「清潔化、衛生化」として理解されていったということは、そして戦後もまたその運動が繰り返されたという事実は、文化人類学者・大貫恵美子のつぎのような指摘を想起させる。すでに『日本人の病気観』において、大貫は、現代日本における日常衛生観と行動のなかに、「浄・不浄=内部・外部=上・下の対立と相関」がはたらいていることをしめした(17)。日本人にとって、「外部」「他者」とは、「内部」の「浄」を浸食する「不浄」としてみなされるというのである。これをマレビト論との関係で論じたとき、「前近代日本社会では、村民が周期的に神々の肯定的力を引きよせる儀礼をとり行わなければ、村の生活それ自体が停滞するとされていた。その儀礼は内部の清浄さを高めるのみならず、外部をも統御するもので、儀礼によってはじめて、外部の力は破壊的作用の牙を抜かれ、創造、恩恵の力へと変容させられた。現代においても、この儀礼は衛生習慣に形をかえて残っている。身体、家などすべて「内」に属するものは常に繰り返し清められ、清浄で純粋であるべきとされる」。つまり、日本文化においては、内=浄、外部=不浄という対立図式が根底にあり、自己を存続させるためには、内部を浄化しなければならない。それによって、外部からの不浄なる力を破壊する作用を持つ、というのである。大貫がのべる、自身を維持し、かつまた「外部をも統御する」「儀礼」を、清潔化・衛生化の行為ととらえることは可能である。ではこのとき「外部」とは何か。新著『コメの人類学』においては、さきのコメ騒動とコメ輸入自由化に題材を得ながら、かつてのようなマレビトを喪失した現代日本人にとって、「米」「稲田」は、「優勢な他者」(この場合は象徴としての外米)を拒否し、「自己」に再生の活力を与えてくれるエネルギー源となっている、と述べる(18)。この行動様式を万国博・オリンピックという事態のなかで考えると、「外部」とは「海外からの観光客」およびそれを象徴とした異質な文化の流入となる。このとき、日本人が、自己に自信を与え、自己を保持するためには、自己を「浄」の状態にしなければならない。そうした心の動きが美化=清潔化・衛生化という強迫観念を生み出し、都市の徹底的な浄化へと駆り立てたのではないか、という仮定が可能となる。

 大貫の議論における〈内部・浄ー外部・不浄〉という対立図式の不変性などについては異論がある。だが、こうした視角からの研究は、より多大な可能性を残して歴史学に与えられた課題といるといえるだろう。

 ずいぶん遠回りをしたが、美術批評家協会による差別記事を生み出していった当時の社会的状況をおさえることはできたのではないだろうか。もともと他紙にたいするセールスポイントを、家庭紙・娯楽紙という性格においてきた報知新聞にとって、美術批評は重要な柱であった。「創刊六十五周年」記念事業にあわせ、他紙にさきがけてビジュアルな「報知グラフ」のページをつくり、また「観光欄(旅行情報)」を設けたのもこの頃である。オリンピック決定までの報道と、ベルリン・オリンピックの報告記事をもっとも大きくとりあげ、その気運の形成に重要な役割を果たしたのも同紙であった。そして記事掲載の前年から、「都市美」運動に連動しつつ、美術批評家協会による合評形式で、街の景観にたいする「批評」が随時掲載されるようになる。もっともこうした取り組みは、新聞社ー「美術諸団体」の連携によって、各紙それぞれが競合する状態にもあった。

 さて、地域住民と水平社の糾弾にたいして応対したのは、美術批評家協会側は会員の外山卯三郎であった。記事の執筆責任がはたして彼であるのかどうかは不明であるが、外山は、一九〇三年生まれ、京都帝大哲学科を卒業後、西洋美術の批評家として出発し、造形美術協会会員、美術工芸学院長などを歴任した。その批評分野は文学史にまでおよび、在米詩人・野口米次郎の研究者としても知られる。三〇代なかばの当時は気鋭の批評家であったのにちがいない。記事執筆にはまちがいなくたちあっていただろう。差別事件にはたらく心理を考えるためには、現時点では材料が不足しているので、これ以上の追求はできない。だが、これまでみてきたように、大枠では日中戦争下の国民精神総動員運動の開始前夜という状況のなかで、「文化都市」という美名に酔いながら、美術批評家・都市デザイナーたちは、審美的な基準をつくり出すために努力しながら、「清潔化・衛生化」を文化・文明・進歩の基準としてとらえ、その推進をみずからの使命にしていったのである。狭義の政治から自由であるそうした営為も、「挙国一致で邦土美化」といったように、膨張する国民国家のなかではナショナリズムの運動に一体化することになる(19)。だがそれは、近代化そのものが持つ差別という原理のあらわれでもあった。そして、その運動のなかに、きわめてオーソドックスな部落差別(意識)が、「自然に」挿入されたのであった。

 こうした連関を規定している原型を、私たちは当時の都市下層社会調査のなかにみることができる。次章でそれをみていくこととするが、この章の最後に、このときの万国博・オリンピックがもたらしたまなざしの変化を整理しておきたい。

第三節 風致・衛生・健康

 これまでみてきたように、「都市美化運動」は、文化・文明・進歩の実現を合言葉に、清潔・衛生を指標とした社会運動を展開してきた。だが、この清潔・衛生は、明治中後期に集中する単なる浄化=クリアランスの再現ではない。まず、景観の「風致」という要素がくわわることによって、「観光」という欲望が大衆化され、前近代の「巡拝」「景勝めぐり」などとは違う形で組織化されている。これは同時に余暇=消費生活の組織化でもある。東京市が他の都市と協議しながらすすめていった観光課の設置運動などは、その結果でしかない。そして、「都市美化運動」をになう美術諸団体・都市デザイナーたちは、新聞社とデパートメント・ストアが企画する観光イベントの演出家でもあったのである。さらに、ここまでの論述ではふれられなかったが、この時期の社会運動には「健康」という重要な要素がつけくわえられるのである。オリンピックはスポーツ熱を高める。このときに新聞が果たした役割が重要であることは、一九一七年(大正六)の「奠都五〇年記念博覧会」において、読売新聞社による「東海道駅伝競争」(20)が、さらに一九一九年(大正八)、報知新聞社が主催して「大学駅伝」が始まったことからもわかる。ベルリン・オリンピックにおいて、ラジオと新聞メディアは、番組欄を通した予告ー実況中継ー結果報道という劇的効果を活用しながら、スペクタクルの創出のうえで重大な役割をはたした。とくに、河西アナウンサーによる「前畑がんばれ」「(放送時間を過ぎたことにたいして)ラジオを切らないでください」というベルリンからの放送は、今日までも繰り返される逸話である。一方、東京朝日新聞は、一九三七年二月から「進め!国民體位の向上へ」という連載を開始している。ここでは、オリンピック開催を契機に、国民体育振興のために制度上の整備をおこなうことが提唱され、国内の体育実践(その多くは『精神スポーツ』『鍛練』『頑張リズム』などの地方・農村の教練の称揚であった)の紹介と、国外のスポーツ政策が紹介された。ここでもアメリカ・イギリスなどのレジャー、あるいは個人の楽しみとしてのスポーツ文化よりも、ドイツ・イタリア、そして自画自賛であるが「満州国」などにおける全体主義的なスポーツ政策を奨励するという内容になり、準戦時体制下における軍事的関心が濃厚に反映していた(21)。これは同時に、「結核予防展覧会」(一九二九年)のような結核病対策キャンペーンのように衛生政策とむすびついていた。また、帝国軍隊の兵役検査の方法を活用しつつ、児童保護の指導機関である愛育会によって、神奈川でのテストケースとして、「虚弱・健康別々に」した児童の発育水準を五ヵ年にわたって測定するという試みがおこなわれ(22)、さらに全国の「健康優良児」が新聞紙上で表彰されるように、「少国民」の「錬成」にむけた『健康キャンペーン』が展開された。こうした動きは、やがて、一九三七年の内務省社会局の厚生省への改編、そして一九四〇年の「国民体力法」「国民優性法」などの戦時体制における人的資源確保の法制度へと統合され、「不健康」「虚弱」なものを排除する体系をつくりあげていく(23)。だいいち日本における近代「体育」は、健康ブームの源となった「ラジオ体操」自体が、一九二八年(昭和三)の天皇大礼記念事業として、町内会・青年団、内務・文部省、在郷軍人会などの後援ではじまったように、当初から国家主義のもとに組織されていた(24)。

 こうした動向のなかで、「都市美化」を中心とした言説も編成されていったのである。この時期の雰囲気をより象徴的にしめすスローガンとして、「東京を美化せよ、都市を明朗に」がある(25)。「明朗」は、疑獄事件にまみれていた当時の政界のなかでも流行語のように使用されていた。「風致・健康・衛生」を表現し、大衆消費社会と軍国主義の曖昧な融合状態をしめす恰好の表現ではないだろうか。

 国民国家の帝国主義的膨張の過程で、この国の社会の特異性を付与された「美化」「健康」「体育」、そして「衛生」といった言説は、こうして編成された。いわば、近代日本のなかで形成されてきたその最終的な仕上げを、私たちはみてきたようなものである。そしてこれらの言説は、いずれもその構造のなかに差別と排除の原理を有したものとして、現在でも、汎歴史的に連続してきたかのような「伝統」として生きているのである。

(第一章 註)

(1) 前掲「東京市紀元二六〇〇年奉祝記念事業誌」、一三頁。以下の経過についても同じ。

(2) 橋本前掲書、八頁〜。

(3) 同右、九六頁。

(4) 報知、昭和十一年二月九日。

(5) 同右九月六日、昭和十二年三月十四日。

(6) 同右昭和十一年四月二十四日。

(7) 同右九月二日。

(8) 同右九月三日。

(9) 同右十一月三日。

(10) 同右九月三日。

(11) 読売、昭和十二年一月十四日。

(12) 報知、昭和十二年二月二十一日。

(13) 東京朝日、昭和十二年四月十七日。

(14) 東京都編『第十八回オリンピック競技大会東京都報告書』、一九六五年。

(15) Wilson, William, H. 'The City Beutiful Movement' John Hopkins U. Press, 1989, pp.53~95.

(16) 石田頼房編『未完の東京計画』、ちくまライブラリー、一九九二年。

(17) 大貫恵美子『日本人の病気観』、岩波書店、一九八五年、五六頁、二三五~二三八頁。

(18) 同右『コメの人類学』、岩波書店、一九九五年、二七六~二七七頁。

(19) 東京朝日、昭和十二年、四月十四日。

(20) 吉見前掲書、一九九二年、一七一頁。

(21) 東京朝日、昭和十二年二月十五日~三月。

(22) 報知、昭和十二年一月十七日。

(23) 吉田久一『改訂 日本社会事業の歴史』、勁草書房、一九七一年、二六七頁~。

(24) 鹿野政直『週刊朝日百科 日本の歴史九七 コレラ騒動』、朝日新聞社、一九八八年、九巻二七〇頁。

(25) 報知、昭和十一年九月二日。


第二章 都市下層社会への平準化・数量化のまなざしと世帯の確立

 第一節 大正・昭和期の下層社会調査

 「特殊部落」という言辞の使用をも生み出した「都市美化運動」が、「風致・健康・衛生」のまなざしに直結していく構造は、当時ほぼ体系的に整理されつつあった都市下層社会調査のなかに形成過程をみることができる。これに関しては、中川清の労作『日本の都市下層』(1)、および内田雄造『同和地区のまちづくり論』(2)があるので、これらに依拠しつつ、論を進めていきたい。

 大正中期から、都市東京は急速に市街地の拡大をみることになったが(3)、とくに、第一次世界大戦後、工場労働者、都市下層などの住居が場末から市街地へと拡大していった。いわゆる中心五区(麹町、神田、日本橋、京橋、芝)、山手六区(麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷)、そして下町四区(下谷、浅草、本所、深川)といった旧市域のうち、下町四区に集中していた都市下層住民は、「長屋構造制限」などの建築制限を通じて、東京東部地域の新市域へと拡散し、また、工場地帯も、江東・江北・月島に展開し、定着する。同時期、私鉄の整備により、市街地と工場地帯をむすぶ交通網ー省線網がほぼ完成した。こうした展開は関東大震災後、さらに加速されていく。

 この都市膨張に対応し、東京府は、一九一九年(大正八)「都市計画法」「市街地建築物法」を公布・施行し、一九二二年(大正十一)には都市計画区域を決定した。「市街地建築物法」は、それまでの都市計画が道路事業の整備が中心であったことにたいし、工場地帯(生産能率ノ増進)、商業地帯(繁栄利便)、市街地(安静快適)といった用途別の地域指定にもとづいて、都市の面的な整備を企図していた。東京の部落問題という関心からいうと、一八九二年(明治二五)、東京市区改正計画の一環として布告された「魚獣化製場取締規則」が、一〇年以内の製革工場の強制移転を命じるものであったが、「市街地建築物法」は、震災後に修正され、用途地域別指定の名のもとに、ふたたびの移転命令ー木下川地区の製革工場・化製工場の移転政策として登場した。なおこれは、激しい抵抗運動によって失敗においこまれたことが記憶されている(4)。

 この用途別地域指定には「未指定地域」という項目があり、中川清の推定によれば、それは後の調査における「不良住宅地区」「要保護世帯地域」とほぼ重なっている。面的な整備とともに、明治中後期以来「細民地区」として一括されてきた地域は、それまでも「長屋制限」などの住居状態を介して把握されてきた。さらに、この「細民住宅地区」調査を布石としながら、内務省社会局の六大都市の代表的な「細民集団地区」調査(一九二一年)、人口五万人以上の都市・隣接市町村「不衛生集団地区調査」をふまえて、一九二七年(昭和二年)に、「不良住宅地区改良法」が制定されていくのである(5)。この「不良住宅地区」調査の基準を、東京府学務部社会課『東京府郡部不良住宅地区調査概説ー社会調査資料第六輯』(大正十五年五月)でみていこう(6)。

 「湿地、窪地、袋地等に棟割、トンネル又は普通長屋、然らずれば狭隘なる単独家屋密集し、通路狭隘、下水設備不完全にして排水従って悪く、住宅の室数は一室乃至二室、畳数は一畳乃至九畳、家賃は二円乃至九円程度のもの約二十戸以上の集団地」。

 まなざしの変化からみたとき、この『概説』の調査項目は、明治中後期にみるような、近世的な慣習の徹底的な否定にもとづく「近代化・文明化」を指標とした把握とははっきりと一線を画すものであった(7)。以前の「細民地区」調査は、その職業固有の異質性に注目した調査であり、分類であり、したがって、横山源之助が『日本の下層社会』において試みたように、職業分類だけでなく風俗調査、心情調査が渾然として語られていた(8)。これにたいして、『概説』の調査は、一般地域を基準としたうえで、調査項目は数量化された家計・所得・畳数・戸数ー「二十戸以上の集団地」が指標となる。いわばここで地区は固有性は失い、記号化して把握されているのである。あるいは、「府下貧民の真況」で「貧民の巣窟」「獣に均しき」、桜田文吾が「堕民の巣窟」とのべたように(9)、「異質性」において把握された「細民地区」が、「特殊な秩序ある地区」として描かれる。「住宅地として不適当」「生活の根拠として…安住すべき地として一般に嫌悪せらるるが如き場所」「何人と雖も住居を構ふるを欲しない地域」「普通住宅は決して建設されざる如き地域」のように(10)。

 また、東京市社会局『東京市新市域不良住宅地区調査』(昭和十一年三月)があげる「不良住宅調査の環境」の指標はつぎのようになる(11)。

  1. 庶民階級の集団地ー自由労働者、熟練労働者、手工業者、行商人、小商人、下級棒給生活者等の小額所得に依って生活する者の密集して居住する地域。
  2. 工場街ーこの地域は何れも煤煙と騒音に悩まされ、下水溝は工場の排泄する汚水が充満している。
  3. 木賃宿街、
  4. バタヤ街その他。
  5.  小分類ではそれぞれの職業名が残るが、すでに調査のまなざしは、工場労働者を基準にした社会的安定の度合いから整理されていることがわかる。そして、「不良住宅地区」の指標は、中川清が抽出したように、「景観・悪臭・騒音」にもとめられるのである。

     これに加えて「要保護世帯集団地区」という調査項目がたてられる。都市下層にたいして、集住、家賃と収入の視点からとらえたのは、明治四四年から大正元年までの「内務省細民調査」であった。そこでは、すでに、「異質性」を比較する基準として、「世帯」が導入されていた。大正中期からの東京市細民地区調査にも共通するその調査項目は、世帯数・人口とその分布、年齢をふくむ世帯の性格、教育程度、職業、健康状態、収入額と支出、畳数・住居状況などである。これらはまた、悉皆調査としておこなわれたところに大きな特徴がある。そうして得られたデータの蓄積は、調査の基準としての「一般勤労階級の普通生活」というモデルを確実なものにしていったのである。それは、また、「不良住宅地区」「要保護世帯地区」にたいする対策政策の立案を容易にする。かくして、これらの調査を基準にして「不良住宅地区改良」事業が、一九二七年(昭和二)「不良住宅地区改良法」施行にもとづく、「東京市不良住宅地区改良委員会」を通じて開始されることになる。「改良法」は、「公共団体ハ不良住宅密集シ衛生、風紀、保安等ニ関シ有害又ハ危険ノ虞アル一団地ニ付本法ニ依リ改良事業ヲ行フコトヲ得」と述べる。

     その内容を、東京市社会局『東京市不良住宅地区調査』(昭和七年)に具体的にみてみよう(12)。「湿気、煤煙等に悩まさるる不健康地であり、且つ上水、下水、便所等の設備が不完全な為、極めて不衛生な地域を形成している。加ふるに其処に密集して生活している人々が、又衛生思想に乏しき為、一朝伝染病が発生すれば、甚だ急速に蔓延する」「雑駁にして無味、不潔にして陰鬱なる家庭生活は、自然居住者を駈って飲酒、賭博其の他の不健全なる快楽に耽らせ、而かも住民の大多数は日夜一室に雑居同寝するため、殊に其の子女に及ぼす感化は怖るべきものあり、不良児の発生、道徳の頽廃、男女の離合易々と行はるる等、風紀の乱るる、又当然」「保安状況を観るに、狭隘なる地区に生活困難なるもの多数集団して生活する関係上、寒心すべき状態にあるは想像に難くない。地区に行はるる犯罪は喧嘩、賭博、窃盗の類である」(同二六頁)。

     こうした「不良住宅地区」へのまなざしは、「衛生・風紀・保安」からみて「有害・危険」という抽象化された規定にまとめることができる。さらに、のちに調査の結果、実態を反映しているものではないことが明らかになるが、「不良住宅地区」が「犯罪」「罹病」発生率が高い、という認識も披露されていた。これを慣習・風俗面でのチェック事項とするなら、その社会環境的指標は、さきにみた「景観・悪臭・騒音」となるのである。

     なお、この「改良法」施行にあたっては、一九二五年(大正十四)、同潤会(前年に大震災後の善後事業をおこなう機関として設立された。その活動は一九四一年・昭和十六年に住宅営団法に継承される)に深川区猿江裏町の地区改良事業をおこなわせ、四〇〇戸の不良住宅地区の改善をてがけさせるという試みが反映されている。それはイギリスのスラムクリアランスを参考にした試みであったが、従来の土地収用法だけでは事業の実施が難しかったため、新法の制定がもとめられたという事情があった(13)。

     さて、ここでまとめられた「景観・悪臭・騒音」という指標は、「不良住宅地区」をかかえた工場地帯の調査から抽出されたものであるが、これがそのまま皮革なめしの工場や化製工場などの部落産業にたいする指標になりうることがわかるだろう。そして、「景観・悪臭・騒音」の条件を満たす皮革関連産業が集中する地区は、ア・プリオリに「衛生・風紀・保安」上、危険な地区であるというきわめて差別的なまなざしがなげかけられるのである(14)。

     「不良住宅地区」の調査と「不良住宅地区改良事業」は、たしかにその指標を策定するにあたって、一般地区・世帯を基準にした数量化と、平準化をおこなった。だが、それは、法的な「基本概念」の確立にはいたらずにとどまった。その理由として内田雄造は、「不良住宅、不良住宅地区と言えば誰でも一定の了解に達しうるといった当時の社会状況と共に、他方で事業主体に大幅な裁量の余地を残しておきたいという政府の意向」(15)があったとしている。だが、その結果、今日においても「居住不適格住宅」の概念が確立されていない、とする。また、東京市社会局の一連の「不良住宅地区」調査は、確かに「内務省社会局、同潤会、東京府社会課、東京市統計課との緊密な連携のもとに実施され」た、しかし、「都市計画行政とのつながりは弱かった」とも述べている。調査がその時代においては高水準であったとしても、「不良住宅地区」改善事業が一部にとどまったことの理由であっただろう(16)。
     私たちの関心からいえば、ここに残された『裁量のはば』のなかに、社会が有する日常意識、すなわちそこに存在する差別のまなざしが融合し、「不良住宅(地区)」という社会認識を支えていたのだといえる。その意味で、東京市、同潤会の調査活動・改善事業は、数量化・平準化という装いのもとに、社会の差別のまなざしを合理化し、「都市美化運動」の言説を編成する根拠となった。実際、「都市美化運動」をになった主力は東京市土木課、同潤会であったのである。

     ただし、法的な基本概念としてはまったく論外であったとしても、平準化・数量化という手法の獲得は、明治中後期の調査のまなざしとは異なっている。それは、かつての「異質性」ゆえの「畏怖」のまなざしが存在する余地がなくなり、少なくとも下層社会を対象としてとりこむことを可能にしたといえる。「改善事業」として政策対象化することが可能になったということは、そういうことなのである。また、社会調査におけるそうしたまなざしの確立があってはじめて、明治末・大正期に開始される融和運動・部落改善運動もあったのではないだろうか。

     第二節 「新中間層」の確立と家族

     下層社会調査の数量化・平準化をうながした社会的な背景には、産業社会の進展にともなう世帯の定着とその構成の変化があげられる。すなわち法的な「家族」の成立が、下層社会にもおよんでいったのである。これも中川清の整理にしたがうと、東京市社会局『東京市内要救護世帯に関する調査』(17)によれば、「要救護世帯」の場合でも、内縁関係は八・二%で、九割以上が法律婚である。これにたいして、明治・大正初頭の内縁比率は四一・九%、大正中期は三七・一%である。小木新造があきらかにしているように、明治初期ー一八八一年(明治十四)までの離婚率は極端な高率をしめしており、明治十三年にはその年の婚姻件数の七三・六%に達している(18)。さらにそれは下町に集中現象がみられ、人口構成でいうと小商人・雑業・諸職人層が圧倒的であった。これを小木は、文化慣習の考察をふまえて、「本来庶民間の慣行のなかには離婚にたいする夫婦平等の請求権を保有していたのではないか」と推定している。こうした結婚・離婚にみる変化は、近代家族の成立を明治中後期におく所論の正しさをしめている。また、同様に、子供の届出について昭和一〇年の調査によれば、「嫡出子」が九四・二%、「庶子」が三・五%、「私生児」が二・一%という結果が残っている(19)。これらは確かに国民の定着と安定化を目的とした生活扶助、救護法の確立などの制度的な条件であった。だが、長屋の後退と個室をそなえた住居によって、内部空間が形成された。さらに職業構成の変化として、都市下層住民の職業階層としての固有性が、昭和恐慌期の失業圧力のなかで決定的に喪失され、雑業も「雇用」に近くなる。

     こうした世帯の確立とそれを可能にした職業構成の変化は、昭和にいたって、国民の家計調査という分類を有効にした。そうした家計調査から、都市住民にたいする、都市下層、工場労働者、「新中間層」という調査区分が可能になる。「新中間層」は、都市における教員、会社員、官公吏などのホワイト・カラー・給料生活者を指すが(20)、南博らの調査によれば、一九二〇年代には国民人口の七〜八%に達し、その後増加しつづける(21)。そして、これらの「新中間層」が、新しい都市生活のスタイルを模索し、定着させ、これに工場労働者、都市下層住民がついていくという傾向が生まれていくのである。家計支出でいえば、明治・大正・昭和を通じて、飲食物費が低下し、雑費と被服費が増加していく。これをあらわしたのが表一(次頁参照)である。そしてそれに対応して、都市生活をいとなむ家族のガイド的な役割をになった雑誌『主婦之友』の生活記事構成が、家計節約・貯蓄、内職・副業にかんする記事(大正六〜七)から手芸・家具、余暇、美容に関する記事(大正一〇年以降)へと変化し、しかも多様化することを、中川清は指摘している(22)。

     こうした階層変化と生活スタイルの確立は、日本における大衆消費社会の成立をも意味した。すでにこの点も吉見俊哉が検討していることであるが、一九二〇年代をつうじて『中央公論』『改造』につづいて新中間層を対象とした『文芸春秋』、そして大衆娯楽雑誌『キング』などが発刊され、発行部数を増大させ、さらに盛り場に映画館があいついで建設され、ラジオ受信が一般化し、レコードが大量生産されていく(23)。

     このとき、世帯の成立と大衆消費社会のなかでの文化・「道徳」の確立は、差別という事象を考えるうえで重要な意味をもっている。世帯すなわち近代家族の確立について、上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』は、その指標が従来いわれるように「核家族」にはおかれず、核家族それ自体は通時代的であることを述べたうえで、核家族をコアとした近代家族の性格が、祖先崇拝や非親族(ヨソモノ)の排除という性格を有した直系家族を理想とする家族であることを明らかにしている(24)。

     血縁関係による「家」の相続を維持する直系家族の習慣は、過去の遺物として観念されているかのようである。だが、「当該の社会に生きている人々が規範的に指示する類型があれば、統計的には三割に達していなくてもその社会の『規範的モデル』と見なしてかまわない」。直系家族を理想的モデルー「規範的」モデルとして核家族を運営していく形態としての近代家族の成立。さらに、これが、明治以降、天皇制のもとでの国家主義イデオロギーとの親和性を有するように形成されてきたことを、上野は、高取正男・橋本峰雄や佐藤忠男の諸研究にもとづきながら指摘している。

     世帯ー近代家族が享受するところの大衆消費社会では、あらゆるものから固有性がはぎとられ、商品として陳列され記号化される。そこでは『流行』という運動によって、さまざまな価値は不断に差異化され、序列化される。この差異化の序列のなかでは、「景観・悪臭・騒音」に抵触するような文化は下位におとされ、忌避される。そして、このときに、近代家族は、自身の維持と安定のために「景観・悪臭・騒音」を拒否し、「治安・風紀・保安」を積極的にになう重要な社会的単位となる。いわば、社会調査や都市計画がうみだす「差別」「美化」を受け入れ、網の目のような監視網をはりめぐらすのは、近代家族という最小単位でもあるのだ。その意味で、現時点では詳細に論じることはできないが、「固有の家父長制を有したものとしての近代家族」と部落差別との関連は、今後重要な視角となると考える。

     補足 三河島地区の状況

     これまでの検討のなかで、「不良住宅地区」の典型として、また、報知新聞が「特殊部落」としてとりあげた三河島地区そのものの状況についてふれられなかったので、この章の最後に、補足しておきたい。

     さまざまな「建築制限」や都市計画の過程で、隅田川の東岸に形成された新市域としての三河島地区をかかえた荒川区は、昭和初期の段階ですでに「不良住宅地区」「要保護世帯地区」としては、東京市内でほぼ一、二位の位置にあった。表二、三はそれをしめしたものだが、「不良住宅地区」では旧市域の小石川区についで二位、新市域では一位であり、「要保護世帯」分布では、新旧市域を通じて、深川区についで二位であった。さらにいえば、「要保護」「不良住宅」数では、旧市域の深川、本所、浅草の三区と新市域の荒川、向島、城東の三区とはひとかたまりで、全市域の四六%〜三七%が分布していた。

     ただし、ふたつの表によれば、「要保護世帯」のうち、「不良住宅地区」に集住しているのは、調査上は十分の一にも達していない。この点についても中川清は、「要保護世帯」の九割は「不良住宅地域から分散して居住している」「(周辺に)分散して居住していた」としている(25)。ただ、ここでは中川は触れていないが、「住宅以下」とみられた『長屋以下』の住居は、不良住宅調査からはずれていた。また、「不良住宅地区」に居住しているのが、かならずしも「要保護世帯」とはかぎらない。これらの調査から、地域の生活のようすを類型化してとらえてはならない。数字はあくまでめやすでしかない。

     荒川区内の「要保護世帯」のうちわけをみると、三河島一丁目から九丁目と町屋一丁目から三丁目までのあいだに全体の三二%が集中していた。それゆえ、ここは「不良住宅地区改善事業」の実施対象となり、一九二七年(昭和二)から一九三二年(昭和八)にかけて三河島町に改善住宅が建設され、また、日暮里町には、同潤会による改善住宅が建設されている。しかし、それは地区内に展開する「不良住宅」ー長屋の部分的な改善でしかなかった。

     地区のなりたちからいうと、一八七一年(明治四年)から地区内に屠場はつくられていたが、さきにふれた一八九二年(明治二五)の強制移転の前後から製革工場が移転しはじめ、一九〇二年(明治四二)に日本家畜市場が三ノ輪にでき、その後皮革工場が三〇余も建設された。一方で一九〇七年(明治四〇)に高村屑物輸出工場が日暮里に建設された関係から、紙屑業を中心とした廃品回収業が集中する場所となる。一九三九年(昭和十四)の調査では、紙屑屋が八〇戸、雑誌選別業が三〇〇戸、「ぼろ屋」が二六〇戸となっている。屑物業は一九二四年(大正十三)に「関東屑物商組合」が組織され、大阪・名古屋などの屑物もいったん日暮里に集中して整理し、国内外に輸出された。こうした屑物業の展開にあたっては、明治の終わりから昭和の初期にかけての市電・国電の設置・連絡がはたした役割が大きい(26)。

     さてこうした地場産業の形成にともない、三河島・日暮里は「バタ屋」「皮革業」を中心にした「細民地区」としてとらえられる。それは南千住のトンネル長屋(一九〇二年・明治四二)、日暮里金杉の通称『おまじない』長屋などが開設され、その後、大正期に千軒長屋や、震災後に警視庁が応急施設をつくるなど、「不良住宅」が集中する過程でもあった(27)。こうして三河島・日暮里の「不良住宅」およびその周辺に居住していた住民は、したがって、その多くが屑物業、屠場・皮革業に従事していたのである。屠場・皮革工場にははじめは中国人、その後は朝鮮人労働者が働いており、朝鮮人の共同住宅もあった(28)。

     こうした多様な内部構成をもつ地域であったにもかかわらず、三河島地区は実態とはまったく別に、ひとくくりに「細民地区」「不良住宅地区」として差別のまなざしにさらされたのである。とはいえ、当然ながらそうしたまなざしに地区住民が馴化していたわけではない。差別事件のさいに三河島地区内からも糾弾にたちあがった藤田栄次郎の動きにあらわれているが、皮革業者は軍需景気もあって社会的な自負を有していたし、向島(木下川)の皮革業者との日常的な連絡関係もあった(29)。さらに、差別記事が書きたてた地区は、工場ではたらく中国人・朝鮮人をふくむ職工たちの居住地区でもあり、地域への差別そのものに抵抗する基盤があったとみなければならない(それは、かれらの一部が移っていった、もうひとつの大きな「スラム」ー足立区・本木地区の歴史にもかかわっていく)。また、藤田は全国水平社の活動家であったともいう(30)。長屋の住民たちも、戦後のことであるが、改善運動のさいに立ち退きー共同住宅への収容にたいして反対運動を展開している。そうした地域の動きについての調査は今後の課題であるが、「不良住宅地区」として把握された地区が、「停滞的」であったという認識はただされなければならない。

     三河島地区をはじめとした東京の下層社会の被差別部落民、在日朝鮮人・中国人などの在日外国人を対象とした生活史・社会史についての研究(例えば先述の『東京のコリアン・タウン』が可能にしたような)は、いまだに不十分なままである。ここではその一端しかふれられなかったが、社会調査のまなざしを克服する、都市マイノリティーの生活の生産・再生産を「近代社会の日常性の構造」のなかで描いたエスノグラフィーが必要であることを、確認しておきたい。

    (第二章 註)

    (1) 勁草書房、一九八五年。

    (2) 明石書店、一九九三年。

    (3) 中川前掲書、一六六〜一七七頁。

    (4) 大串夏身『近代部落史研究』、明石書店、一九八〇年、八一〜一五九頁。

    (5) 内田前掲書、九二頁。

    (6) 東京府学務部社会課『東京府郡部不良住宅地区調査概説ー社会調査資料第六輯』、大正十五年。

    (7) 友常勉「明治期の衛生政策と東京の被差別部落(上)」『解放研究』一〇号、東日本部落解放研究所、一九九五年、八四〜八五頁。

    (8) 『日本の下層社会』、岩波文庫、一九四九年。あるいは、呉文聡『東京府下貧民の状況』、初出は『スタチスチック雑誌』、一八九一年、中川清編『明治東京下層社会生活誌』、岩波文庫、一九九四年に所収。

    (9) 中川清編『明治東京下層社会生活誌』、岩波文庫、一九九四年、二〇頁、六四頁。

    (10) 東京市社会局『東京市不良住宅地区調査』、昭和七年、SBB出版会『東京市社会調査報告書』三一巻、一九九五年、に所収。(以下『社会調査報告書』と略)

    (11) 同右『東京市新市域不良住宅地区調査』、昭和十一年、『社会調査報告書』四九巻、に所収。

    (12) 前掲『東京市不良住宅地区調査』、昭和七年。

    (13) 内田前掲書、九三頁。

    (14) 部落産業にたいするこうしたまなざしは、今日でも続いている。内田前掲書、六六頁。

    (15) 内田前掲書、九三頁。

    (16) 内田雄造『住宅問題、住宅政策研究と東京市社会局調査』、『解放研究』、一〇号、一二四〜一二六頁。

    (17) 東京市社会局『東京市内要救護世帯に関する調査』、昭和七年、第二部、三七頁。『社会調査報告書』三〇巻。

    (18) 小木新造『東亰庶民生活誌研究』、日本放送出版協会、一九七九年、二九八〜三三〇頁。

    (19) 東京市社会局『要保護世帯における乳幼児の生活状態』、昭和一〇年、一〇頁、三六頁。『社会調査報告書』四八巻。

    (20) 中川前掲書、三七九頁。

    (21) 南博編『大正文化』、勁草書房、一九六五年、一八三〜一九五頁。吉見前掲書、一九九二年、一五八頁。

    (22) 中川前掲書、三八五頁。

    (23) 吉見俊哉「現代都市の意味空間」「コミュニケーションとしての大衆文化」、『メディア時代の文化社会学』、新曜社、一九九四年、一九六頁、二一八〜二一九頁。および中川前掲書。

    (24) 上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』、岩波書店、一九九四年、八三〜一〇四頁。なお、こうした近代家族論と部落差別ー結婚差別との関係については、関口寛氏によって教示された。

    (25) 中川前掲書、二七二〜二七四頁。

    (26) 荒川区役所『新修荒川区史』、一九五五年(昭和三〇)、五七〜七一頁。

    (27) 同右一〇四〜一〇六頁。

    (28) 部落解放同盟荒川支部『ひがしの光』No.九、一九七七年六月一日、二〇頁。

    (29) 同右『ひがしの光』No.十一、一九八五年一月二〇日、二〇頁。

    (30) 同右。


    第三章 帝国主義のイデオロギーと万国博・オリンピックをになうもの<

    万国博・オリンピックのプロデューサーたち

     一九四〇年の万国博・オリンピックはついえたが、この計画は戦後になって、一九六四年の第一八回オリンピック東京大会、一九七〇年の大阪花の万博として実現された。戦争をはさんだふたつの時代のイベントが、そのスペクタクルとしての性格だけでなく、いくつかの共通性があることはこれまで述べてきた。ここでは、実際にプロデュースするものたちの連続性についてみていきたい。

     これも吉見俊哉が明らかにしたことであるが、第一八回オリンピック東京大会(以下、東京オリンピック)と大阪花の万博(以下、大阪万博)のキー・マンとして、前東京都知事・鈴木俊一があげられる(1)。鈴木は、一九三二年(昭和八)に内務省に入省し、埼玉県社会課長、福島県警務課長などを歴任したあと、戦前内務省地方局において地方選挙制度の調査策定にかかわった。戦時中には「第十六防疫給水部」ーいわゆる石井細菌部隊の主計に応召され、その後、山西省特務機関の補佐官に任命され、「満州国」の地方制度事務をになった(2)。戦後は地方自治省から新設自治省に在籍し、一九五八年に第二次岸内閣において自治庁官内閣官房副長官をつとめ、その後、東龍太郎都政のもとで副知事をつとめたあと、七九年に美濃部亮吉のあとをついで東京都知事に就任、九五年まで一六年間鈴木都政を築く。戦後にかぎった場合、鈴木は、第二次岸内閣時代に、岸がオリンピック招致準備委員会会長をしていたということを直接の契機として、オリンピック実現のためであったとされる東龍太郎の都知事当選にともない、補佐役として内務省から東京都副知事に引き抜かれている(3)。オリンピック開催は、大がかりな基盤整備事業の運用を可能にする。これは万国博と都市改造計画の歴史的な関係でもあるが、実際、一九五八年から開始された「首都圏整備計画」の全体の三分の一は、オリンピック準備対策事業が包含していた(だが、一九五五年より安井都政のもと、山田正男を責任者とした都市計画は、都市高速道路を中心とした道路事業に偏って終わったといわれる(4))。こうしたイベント、都市計画のにない手として嘱望されたのが鈴木であった。さらに鈴木は、一九七〇年の大阪万博においても、実務のリーダー・日本万国博事務総長として腕をふるうことになるのである。そして、そうした経験のなかで得た財界、あるいは丹下健三といった都市プランナーとの密接な関係をつくりあげ、自身の都政時代に、周知の東京新庁舎(丹下健三の設計による)、破産した「国際都市博覧会」構想をつくりあげた。「国際都市博覧会」についても、原型として、戦前、紀元二六〇〇年にともなうイベントのひとつであった「国際都市会議」が念頭にあったのではないかと想定する(5)。また、「都市博」がその一環である「臨海副都心開発」計画は、東京湾埋立地の一角、四四八ヘクタールに居住人口六万三〇〇〇人(住宅二万一〇〇〇戸)、就業人口一〇万六〇〇〇人という国際ビジネスセンターを建設するという内容であったが(6)、これは「紀元二六〇〇年記念日本万国博覧会」の構想とも(7)、鈴木が懇意にしている丹下健三の「東京計画・一九六〇」ともよく類似している(8)。こうしたイベント・プロデューサーとしての鈴木の情熱にくわえて、未完に終わった「紀元二六〇〇年」の万国博・オリンピック当時、彼が内務省にいたということは、「彼なりの思い入れがいまだに続いている」と考えざるをえない(9)。と同時に、これも吉見俊哉がいうように、ここで確認できることは、一九三〇年代・四〇年代と今日が人脈・発想ともにほとんど連続しているという事実である。

     部落問題からみた場合でも、鈴木の動向はけっして無視できない。戦前、埼玉県社会課長に出向したとき、彼は社会事業協会理事として融和事業にたずさわった。しかも、皇国主義教育で有名であった茨城県の国民高等学校校長・加藤完治の満州移民政策に感動し、自身、融和事業講習会で「農村更生と人口問題」という題で講演していた(10)。そのうえ、戦後、岸内閣のもとで官房副長官だった時代にも、閣僚懇談会で部落問題の議論をしていたと証言している(11)。

     鈴木俊一にみられるように、世界的な大規模プロジェクトへと止むことなく「拡大」しつづけるしかない資本の運動と、天皇制イデオロギーのもとでのナショナリズムは、まったく矛盾しない。それが資本主義の世界システムのなかの国民国家の原理だからである。

     キャロル・グラックがいうように、突出した戦前天皇制イデオロギーもまた、正統性を有した国民国家のイデオロギーの一変種でしかなく、戦前と戦後の支配イデオロギーは正統性と超・正統性という関係において連続している(12)。その連続性を、鈴木は自己矛盾におちいることなく歩んできた。その意味で、彼は正統的な国民国家のイデオロギーと近代性を体現してきた官僚だといえよう。そしてそのイデオロギーのなかに、臣民ー国民という範囲のなかでの被差別部落にたいする改善事業が位置づけられていたのである。だが、それは「満州移民」と矛盾することのない、部落民を人的資源の活用という観点からとらえたまなざしでしかなかった(13)。

     なお、戦後の大阪万博は、開催当時、鈴木俊一らの主導にもとづいて、旧内務省官僚が主要ポストを占めていることの異常さ、あるいは七〇年安保闘争から国民の目をそらせるもの等々という批判があがってはいた(14)。だが、このイベントは、茅誠治、桑原武夫ら著名知識人がテーマ委員会をにない、「お祭り万国博」というスローガンのもと、基幹施設プロデューサーとしての丹下健三、展示プロデューサーとしての岡本太郎の企画にもとづき、進歩的と目される芸術家・建築家・文学者・映画監督らが動員され、大衆消費文化を喧伝するものになっていったのである。これに組織化された芸術家たちは、磯崎新、黒川紀章、横尾忠則、千田是也、手塚治虫、谷川俊太郎、安部公房、武満徹といった面々が連なる(15)。しかし、大阪万博は炎天下、長時間の行列をつくって「ザンコク博」と称された観客の現実が報道された(16)。また、磯崎新のように、一九六八年の大衆「叛乱」を海外で体験していた建築家・芸術家にとって、万博は「国家の罠」による収奪と感知され、傷痕となって残ることになる(17)。これらは、固有性をはぎとり、序列化・記号化していくコマーシャリズム、スペクタクルが人間性を荒廃させることの一例ではないだろうか。

     優性思想と帝国主義

     戦前ー戦後を通じた鈴木俊一の行動は、万国博とオリンピックのスペクタクルそのものでもあった。「景観・悪臭・騒音」や「風致・衛生・健康」といった、戦前と戦後に連続する博覧会・オリンピックのまなざしは、このスペクタクルを一面においてとらえたものといってもいい。最後にそうしたスペクタクルについて概観しておきたい。

     対外輸出型の国内経済の育成を目的として始まった内国博覧会を、娯楽性に富んだものへと飛躍させたという意味で画期をなす一九〇三年(明治三六)の大阪内国博覧会では、三一六万円の建設費をかけて噴水、イルミネーションがつくられ、市電・蒸気自動車が走り、参加国だけでも一三ヵ国、一五三日間の開催で五〇〇万人が参加したといわれる。しかし、この博覧会では、台湾館、学術人類館という展示館が建設され、それぞれで「アイヌ、台湾、琉球、朝鮮、支那…」という先住民や諸民族が展示された。その後の博覧会でもこうした植民地パビリオンがかならず登場するようになる(18)。

     こうした植民地主義の展示は、すでに欧米の博覧会で実施されていた展示方法であった。一八九三年シカゴで開催された「コロンブス(新大陸発見四〇〇年記念)万国博」では、帝国主義の覇権をそのまま視覚化するために、植民地から移送した先住民とその集落が展示されていた。そうした展示は、その前のパリ万博で確立された植民地主義の展示をより進めたものでしかなかったが、まさに、万国博が、物質的財貨と自然資源という商品を展示し、『夢の世界』を実現することで、『野蛮から文明へ』という社会ダーウィニズムと帝国主義イデオロギーを再生産する装置にほかならないことをしめすものであった(19)。さらに、これ以降の博覧会は、『未来のにふさわしい家族』というテーマのもとで、優性思想にみちた家庭像の展示をも生み出していくのである。

     この時期、一九一〇年代から二〇年代にかけて、イギリスのあとを追いながら、アメリカでも優性主義の運動が広がっていくようになる。運動の主張は、合州国への移民労働者の流入が、アングロ・サクソン民族と上流階級の純潔性を退化させる、というものであり、その防護策としての「断種法」の上程運動であった。アメリカ優性学協会らによるこの運動は、結果的に全米三二州で「断種法」施行を実現するが、その際に手段として活用されたのが万国博と大小の博覧会であった。これはロバート・W・ライデルが人的系譜をふくめて詳細にしているところだが、この運動は全米各地の人類学者や大学教授を糾合しつつ、アメリカ自然史博物館、スミソニアン研究所の研究員たちのプロデュースで、視覚的な展示物によって、優性思想の正当性を普及していったのである。一九二一年に開催された第二回国際優性学会の展示は、十八の部屋に分割し、それぞれにおいて「品種改良による人種改善の科学」「注意深い遺伝分析」等々のパフォーマンス、あるいはアメリカ先住民の骨を展示して、「今日に残るネアンデルタール人と他の原始的な顔立ち」などと解説した。その過程で、一九二〇年のカンサス自由博において開催された「将来の理想的な家庭」コンテストは、「家族感情の奨励と民族(種)的意識と責任」の普及と称して、「家庭の健康と優性思想」の啓蒙活動を展開していったのである。それは、一九四〇年のニューヨーク万国博における、アメリカ生まれの白人家庭しか選ばれることのない『平均的・典型的なアメリカ人』コンテストへとつながっていった。外にたいする帝国主義的イデオロギーは、内にたいする優性思想、人種主義の展開でもあった。同時に、優性主義のもとで組織された家族イデオロギーは、大恐慌期のアメリカ社会を支えるイデオロギーでもあったのである。

     この優性主義運動は、日本においても、一九三〇年(昭和五)の日本民族衛生学会の設立、および一九三三年(昭和八)のナチス・ドイツの「断種法」制定の影響を通じて、社会的な運動として展開された(20)。このときの「断種」の基準としては、「精神薄弱者、てんかん者、早発性痴呆症、盲聾者など」が考えられている。この運動は、やがて、先述した一九四〇年(昭和一五)の「国民優性法」の実現となってあらわれ、それまでの美化運動や健康運動を体系化していくことになった。このような、博覧会ー家庭像の形成ー優性主義という連携に対比される体系が、日本において意識的につくりあげられていただろうか。大正ー昭和初期にかけて、家庭を消費者としてターゲットにした大衆娯楽が登場したことは前述したが、その際に百貨店・新聞社が企画した博覧会が果たした役割は大きい(21)。また、同潤会などが推進する住宅政策は、労働者階級、都市「新中間層」を対象にした住宅の開発と売出しをおこなっていた。これもまた「適正な家族」モデルの形成の運動につながっていったととらえることができる。しかしそれが国家主義的な優性主義運動や、博覧会文化とどう連携していたかを明らかにすることは、今後の課題である。

     優性主義に代表されるこうした社会意識は、戦後にも連続している。いくつかの条件が重なった結果、戦後の東京オリンピックに関しては、開催前に大々的な「変質者取締りキャンペーン」が展開される。

     すでに一九五九年の皇太子(現天皇)結婚パレードの一部に、「精神障害者」が「乱入」するという事件が発生し警視総監の進退問題にまで「発展」するなど、政府が何らかの「対策」を意識していたのは事実である。また、前年には戦前の「国民優性法」を継承した「優性保護法」が成立していた(22)。そして、一九六四年のオリンピックを前にして、「精神障害者」の囲い込み=『変質者取り締まりキャンペーン』が展開されていく。たとえば一九六三年には、銚子市が「精神衛生都市宣言」なるものをあげる。「調査結果」にもとづき、他県より「精神病者」の発生率が高いことがわかったため、早期発見と予防の都市づくりをする、というものであった(24)。さらに、これも部落問題にとってはなじみ深い事実だが、いわゆる「吉展ちゃん事件」「狭山事件」など、多発する幼児誘拐事件にさいした世論のもりあがりである。毎日新聞は、「変質者から国民を守れ」と題した社説を掲載し、「最近、連鎖反応的に異常な犯罪が続出している。…。変質者だけではない。分裂病、てんかん、そううつ病などの精神病者、精神薄弱者もおびただしい数にのぼり、その多くはほとんど放置され、犯罪の有力な温床になっている。精神病患者は全国で約四十五万人、知能指数五〇以下の精神薄弱者は約五十八万人、変質者その他の精神障害者は二十七万人と推定されている。そのなかで精神病院にいれなければ危険なものだけでも、三十五万人もいるのに、現在収容されているのは、十三万人程度にすぎない」と露骨な差別記事を掲載した(24)。

     オリンピックという高度経済成長と近代化の成果を内外にしめすイベントは、都市周辺の農村を「遅れた前近代的な地域」=「衛生・風紀・保安」の対象地区として、都市との「格差」を強調する言説を生み出すことになる。狭山事件を契機に、被差別部落にたいしておこなわれた差別キャンペーンは、そうした「衛生・風紀・保安」に抵触する存在・地区を囲い込む社会のまなざしと、オーソドックスな部落差別意識が出会った結果ではなかっただろうか。事件の容疑者として石川一雄が逮捕されたときの地元紙・埼玉新聞はつぎのように報道した。「環境のゆがみが生んだ犯罪」「石川の住む『特殊地区』には毎年学校からも放任されている生徒が十人くらいいる」「東京から電車で一時間とちょっと、ベッドタウンとして新しい発展を約束されている狭山市だが『文化』とは、ほど遠い」「狭山市の農村部にはまだ『夜ばい』の悪習が残っている」「対照的な二つの環境 こんどの事件の捜査の過程で同じような犯罪をおかす危険性を持つ多数の若者たちの存在が浮き彫りされた。さびれゆく基地の町のスラム地区とその周辺にひろがる『茶どころ』の豊かだが閉鎖的な農村…この対照的な二つの環境のゆがみが生んだ犯罪」(25)。

     地元紙にとどまらず、同様の差別記事は、その後、リアルタイムで事件が報道されるにしたがって、四大紙、週刊誌上でも興味をかきたてるように報道されつづけた。スポーツ報道が、観衆と、その欲望を開拓していくのと同じ効果を、事件報道がもちはじめる。戦前を上回るテレビ・新聞メディアの普及がそれを可能にしていった。この意味で、「美化・健康(そして風致)」という指標で大衆化した戦前の万国博・オリンピックのまなざしは、戦後においても連続しているというだけでなく、マス・メディアの発展にうながされて、より顕在化することになったというしかない。

     おわりに

     紀元二六〇〇年事業にみるように、万国博などの国家的イベントは、国家・王室の建設神話を新たにし、国民統合をうながし覇権を誇示することを目的として開催されてきた。別のところでふれたが、京都で開催された一八九五年(明治二八)の「平安奠都一一〇〇年」は、紀年祭と第四回内国勧業博覧会を開催した。しかし、それは京都におけるそれまでの衛生政策を体系的・積極的に進めるきっかけとして、市中に公衆衛生キャンペーンがはられたときでもあった。小林丈広は、このキャンペーンの結果、「貧民部落」への管理と排除のまなざしがつくられ、そのまなざしの徹底が、のちの「特殊部落」というまなざしを生み出していくことを指摘した(26)。本稿で試みたのは、おなじまなざしが、一九二〇〜四〇年代という戦前の大衆消費社会のなかでとげていった変容をあきらかにすることであった。そこでは、オーソドックスな部落差別意識が「自然に」挿入され融合していく差別と排除のまなざしが、下層社会調査のなかで形成され、近代社会のイベントや消費文化の単位としての家族を通じて組織化されているのではないか、という議論を提起してきた。下層社会調査における統計化、数量化を通して形成されるそのまなざし自体も、商品化・記号化をすすめる博覧会文化の確立と密接な関係をもっているだろう。そうした連関をあきらかにする作業も、今後の課題として残っている。

     博覧会文化が同時代においてどのように発現しているかをもっとも端的にしめすのは、全世界的に建設されつつあるディズニーランドであり、それをひな型にした各地のテーマパークである。そこではアングロ・サクソン優位の人種主義と、「理想的な家庭」像が、高度情報化社会の機能をフルに活用して表現されている。それは吉見俊哉のいう「日常性の構造」を規範化するモデルである。ただ、それが日本の現実のなかでどのように受容され、社会の日常性を組織化していくかのあいだには、ズレがある。差別のまなざしをあきらかにするという研究上の観点は、そうしたズレを埋めていく作業でもあろう。その際には、大衆文化と日常性の生産・再生産構造が、また、地域的な生活史・社会史の形成過程が、同時にあきらかにされなければならないだろう。

     「はじめに」でふれたように、このテーマに取り組むことが可能になったのは、すぐれた先行研究のおかげである。しかし、本稿ではそこから歩を進めることよりも、課題を羅列することのほうが多かった。確認してきた課題についてできるかぎり研究を進めることをもって、先行研究の成果にこたえていきたいと思う。

    (第三章 註)

    (1) 「帝都東京クロニクル 帝都の一三〇年史」における吉見俊哉の発言。『別冊宝島 帝都東京』、宝島社、一九九五年、二三六〜二三七頁。

    (2) 「鈴木俊一氏略歴」『鈴木俊一氏談話速記録』(1)、内政史研究会、一九七七年。

    (3) 同右、(3)、二八九〜二九〇頁。

    (4) 越沢明『東京都市計画物語』、日本経済評論社、一九九一年、二二二〜二四一頁。

    (5) 東京朝日、昭和十二年七月十日。

    (6) 岡部裕三『破綻!臨海副都心開発』、あけび書房、一九九五年、二〇〜六六頁。

    (7) 『萬博』一月号、一九三八年、一月一〇日。

    (8) 石田編前掲書。

    (9) 前掲「帝都東京クロニクル 帝都の一三〇年史」、吉見俊哉の発言。

    (10) 前掲『鈴木俊一氏談話速記録』(1)、四八〜四九頁。『融和時報』埼玉県社会事業協会版、昭和十二年二月一日。

    (11) 前掲『鈴木俊一氏談話速記録』(3)、二八九頁。

    (12) Gluck, Carol. 'Japans modern myths.' Princeton U. Press., pp. 275〜286.
     なおこのキャロル・グラックの見解については、安丸良夫『近代天皇像の形成』、岩波書店、一九九二年、二七五 〜二八六頁、も参照した。

    (13) もっとも、この国民国家のイデオロギーを推進していったのは、支配層だけではない。厚生皇民運動・大和報国運動に合流していった全国水平社、そして全国の部落で組織された融和運動や「満州移民」計画は、被差別部落もまた、「超・正統性」のなかに自身のエネルギーを表現していったことをしめしている(金靜美前掲書、また、藤野豊『水平運動の社会思想史的研究』、雄山閣、一九八九年、二四三〜三三六頁を参照のこと)。だが、マイノリティーの統合過程はけっしていちようではない。それは、一九八九年二月から一九九〇年にかけた「大喪の礼」「即位礼」において抗議の声をあげたのが、在日外国人や女性、被差別部落民、同性愛者などのマイノリティーであったようにーそして米兵の少女強姦事件を契機とした一九九五年十一月現在における沖縄民衆の反基地闘争においてもみられるようにー、単一の原理にもとづく歴史を拒否する立場でもあるのである(T・フジタニ『天皇のページェント』、一九九四年、NHKブックス、二二二〜二二四頁)。このことは、各地の被差別部落において、大きな差別糾弾闘争が、融和体制の完遂期である一九三〇年代後半から四〇年代にかけても闘われている点にあらわれているだろう。この時期、被差別部落の融和運動にとって、差別糾弾の徹底は、皇国主義=国民融和の実現のための啓蒙運動という主張をあわせもっていた。そこでは、「国民統合」という規範観念の実現過程がマイノリティーの差異性によって規定されているのである。おなじことから、被差別部落におけるさまざまなレベルでの対抗文化も生み出されてきたといっていいだろう。

     そうした国民国家内部でのイデオロギー統合過程におけるマイノリティーの差異性とその研究史については、稿をあらためて論じる必要がある。

    (14) 中瀬寿一『万国博と情報ファシズム』、校倉書房、一九七〇年、九二頁。

    (15) 吉見前掲書、一九九二年、二二五〜二二六頁。

    (16) 万国博研究会・吹田市職労共同編集『七〇年万国博の虚像−そのねらいと都市住民の生活』、自治体研究社、一九七〇年。吉見前掲書、一九九二年、二二七〜二二八頁。

    (17) 磯崎新・多木浩二『世紀末の思想と建築』岩波書店、一九九一年、八四〜八五頁。

    (18) 吉見前掲書、一九九二年、二一三〜二一四頁。『万国博のすべて』、日本経済新聞社、一九六六年。

    (19) Rydell. Robert. W. 'World of fair.' The U. of chicago Press. pp. 15〜18.

    (20) 鈴木善次『日本の優性学』、一九八三年、三共出版株式会社、一〇〇〜一一三頁。一四四〜一六二頁。

    (21) 吉見前掲書、一九九二年、一五二〜一七〇頁。

    (22) 同右、一八九頁。

    (23) 朝日、一九六三年三月六日。

    (24) 毎日、一九六三年六月二三日。

    (25) 埼玉新聞、一九六三年五月二五日。なおここで述べた見解は、東日本部落解放研究所第九回研究者集会(一九九五年一〇月二八・二九日)「第三分科会・狭山」における『新聞報道にみる狭山事件』の討論をふまえた。

    (26) 小林丈広「都市と公衆衛生」、『京都部落史研究所紀要』九号、一九八九年三月、六二〜六九頁。また、友常前掲論文参照のこと。


     本稿作成にあたっては、立教大学図書館に大きな便宜をはかっていただいた。同大学法学部図書室・鈴木慰さんには、この場を借りてお礼を申し上げる。また、いくつかの議論のベースには、関口寛さん、森泰一郎さん、伊藤純子さんらとの読書会での討論がふまえられている。各氏にたいしてもお礼申し上げたい。(了)

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