留置場体験 by  ひろ

ニフティサーブ、FSHIMINに以下のレポートが掲載されていたので、転載させてもらいます。
この文章については、ニフティサーブの当該会議室でコメントして下さい。
このページへの転載は、僕が勝手にやったことなので、執筆者のプロフィールはこれだけでは分かりません。その辺りは、了解して下さい。



03194/03199 MXC01571 ひろ 留置場体験
( 2) 96/09/07 17:23 コメント数:3

 594の発言で自己紹介してます、ひろです。594で私たち7人の学生が早慶戦会場の神宮球場で逮捕された経緯を書いてますが、その際私は板橋警察署の留置場に三泊勾留されました。これは釈放から数カ月後に書いたそのときの日誌みたいな物です。興味のある方におもしろがって読んでいただけたらと思いアップしました。
 2、3日前にアップしたものが長すぎて途中で切れていたので、やり直しました。
 1と2に分けてあります。ダウンロードして読んでください。

03195/03199 MXC01571 ひろ 留置場体験1
( 2) 96/09/07 17:37 03194へのコメント

1994年
5月29日
 四谷署で取調室に入れられた私は、黙秘しようと努力したが、完全黙秘ではなかった。最初に弁解録取書をとられる際「建造物進入の現行犯で逮捕した」と知らされたときには、心底驚いて、「えっ!!…それじゃ、あそこで新聞配ったりしてる人たちはどうなるんですか?!」と叫んでしまった。
「あれは許可をもらってるからいいんだ」と軽くいなされた。
 黙秘しようとしたのは、「警察の取り調べに応ずると巧妙に誘導された。嘘の調書を作られたりするから、何もしゃべらない方が賢明だ」という話を聞いていたからだ。しかし逮捕された当初は、本当かなあ、自分がしっかりしていれば内容によってはしゃべったってかまわないのでは、という思いが強くあった。けれど6人一緒に逮捕された以上、私が何かしゃべることで他の人に思わぬ迷惑がかかる恐れも考えられたので、とりあえず黙秘することにしたのである。
 最初は人間と相対していながら何も応対しないということに慣れず、苦痛に感じた。私の精神はかつてないほどに敏感に感覚しているのに、それを表に出さないのは難しかった。私はおかしければ笑い、腹が立てばそっぽを向いたりした。その状況で何かおかしなことがあったのかと問われるかもしれないが、元来皮肉屋なので、逮捕されたときから自分の状況がおかしくてならなかった。
 取調官は、私を護送車から降ろしてズボンのベルトを持って引っ立てた男で、書類に署名するのを盗み見たところによれば、前田某という。ベルトを引っ立てられた時私が「持たないでくださいよ」と抗議すると「だって持たなきゃお前ら、逃げるかもしれないじゃないか。何するかわからないじゃないか」と真面目に答えた。俳優の岸谷吾朗に縦幅70%縮小をかけたような外見の人である(失礼!)。彼の他に立ち会いの阿部という警官が取調室に入った。これは顔にアトピーの痕のような斑があり、手塚漫画「アドルフに告ぐ」に出てくる特高刑事そっくり。
 弁解録取書・調書を取られ、所持品検査の後、写真撮影に出され、また取調室に戻って両手の指紋を採られた。取調室では手錠付き腰縄で椅子に結ばれていた。手錠は取調室でははずされるが、部屋の外ではトイレに行くにも両手錠である。この手錠というもの、もちろん被疑者の自由を物理的に奪うために作られたのだろうが、精神的な効果も大きいと思う。自分が絶対的に管理される存在へと貶められていることを、体で感じた。
 私は取り調べ中に生理が始まって、服を汚してしまった。着替えを貸して欲しいと言うと、他の課から若い女性警官を呼んで生理用品を買って来させ、古いトレーナーを貸してくれた。その女性の警官がトイレに連れて行ってくれたのだが、私を非行少女か何かと思ったらしく、「何悪いことしたの?」とたしなめる口調で聞く。「なんにもしてないんですけど」と答えると「なんにもしないでこんな所来るわけないでしょ」と言われた。
 取り調べ自体は、厳しくなかった。私は全く無反応でいることはできず、人定や当日の行動に関係することを訊かれれば横を向いたり首を傾げて見せたりし、持ち物検査の時は、これはお前のか、などと聞かれて、うなずいて肯定した。後から考えれば、心に壁を作って閉じこもってしまえば良かったと思う。バカ丁寧に相手の言葉に耳を傾けていちいち対応を判断していたのでは精神的に疲労し、取り調べが長引けばつけ込まれやすくなるだろう。
 昼をかなり過ぎ夕方近くになって、食事として食パン一斤と給食で出るようなマーガリンとジャムが出されたが、最初「今まだ欲しくないので」と言って食べなかった。しばらく経ってお腹が空いたので、「これ、頂きます。腹が減っては戦ができぬからね」と言って取り調べに構わず食べはじめたら、笑われた。前田氏、説得口調で曰く「素直ないいお嬢ちゃんなのに、こんな事でつかまったらご両親嘆くぞ」。皆の中でも「誘われて来ちゃった」的な人だと思われていたようだ。
 四時前には一通りの取り調べが終わり、留置場にまわされることになった。警官が都内の女性留置場に電話をかけて私の行く先を探していたが、板橋に送致されることが決まった。一緒に逮捕された者はなるべく別々に留置したいようで、板橋に行くのは私だけだった。
 前田氏と阿部氏、それにもうひとりの警官が乗って、普通の白い軽四自動車(だったと思う)で板橋警察署に移送された。まだ明るかったが、署内の女性留置場ではもう食事が始まっていて、四谷署の警官が私の夕食にとローソンで照り焼きチキン弁当を買ってきてくれた。留置場の女性警官が「あらいいわねーこんな立派な食事で」というようなことを言った。
 留置場で身柄の受け渡しが済むと、まず小部屋に連れてゆかれ、服装と持ち物のチェックを受けた。服はラフなものとズボンなら一応何を着てもよいのだが、着替えは三日に一度で、ブラジャーは着けてはいけない。ヒモがついているからだろうか。靴紐も靴から抜かれた。私は着ていたTシャツがピッタリしたものだったので、留置場で長袖のトレーナーを借りることになった。体の線の見えるようなものを着てはまずいということらしい。留置場の世話をする「担当さん」から規則の説明を受けて、自分が「79番」となることを告げられた。そして20センチ四方くらいの小さなタオルと、昔のトイレで使われていた落とし紙ひとつかみを渡され、入り口から三番目のオリに入れられたのであった。
 オリの中は奥に細長い四畳半くらい、オレンジ色の絨毯敷きで、そこにふたりの女性が向きあってぺったんと座っていた。こういう時の作法って、どうしたらいいものか。「おじゃまします」もおかしいだろう。ちょっと戸惑ったけれど、「今晩は、よろしく」と簡単に挨拶すると、二人とも会釈を返してくれた。
 私と同い年の91番(本名Yちゃん)は明るいよく喋る人で、私が担当さんに渡されたタオルと紙の処置を分からないでいると、親切に教えてくれた。落とし紙は一枚ずつ四つにたたんで重ね、それを小さいタオルでくるんで置いておき、トイレに入るとき持っていって使うのである。生理用品などはその都度「担当さーん!」と声をかけて持ってきてもらう。オリの一番奥にはちゃんと仕切られてドアのついた便所があるが、大きなガラス窓から中の様子がほとんど見えるようになっていた。
 オリに入ってから私は先ほど警官が買ってきたローソンのお弁当を食べた。食事はオリの下部に開く口から入れられ、正座して正面廊下に向いて食べなければならない。同室の91番や87番が言うには、やはりここの食事はあまり良くないそうだ。
 同室の人の身の上話は、やはり興味を引かれた。91番−この21歳のほっそりした女の子は、覚醒剤所持で逮捕され、公判進行中。もう三ヶ月も留置場にいて、ここでは一番の古株である。トラック運転手をしていることもあって19の頃から覚醒剤を使いはじめ、過去に一度つかまっている。以来やめていたのが、最近つきあいはじめた彼氏に誘われてまた始めてしまったという。新宿で売人と会うためトラックを停めて待っていたところ、売人が逮捕されて取引場所を話してしまい、職務質問されて見つかった。彼氏も芋蔓式に逮捕されたが、もうつきあうのはやめるそうだ。私の左腕の関節にアトピー性皮膚炎の跡が青黒く残っているのを見て、「シャブ?」と言った。
 87番は35歳の中国人女性である。気持ちが沈んでいるようであまり話をしないので、91番が主に彼女の事件について話してくれたのだが、それによるとほとんど誤認逮捕である。87番は中国人の夫と日本に暮らし、なんと早稲田大学で掃除のパートをしていたという。夫が、知人でパチンコ屋を経営する中国人に金を貸した。それをなかなか返済してくれないので、何度も催促した末、夫婦で高円寺にあるそのパチンコ屋に行き、相手の男を87番の自宅に連れてきて説得した。それもお茶やお菓子を出したりしての平和的なものであったのに、返済を逃れたいその男が突然電話で「監禁されている」と110番したため、夫婦で逮捕されてしまったのだそうだ。「ダンナサンが心配です」と言っては涙をこぼしていた。
 食事の時間後、しばらくすると留置場では夕刊がまわされる。端の部屋から、読み終わったら次へとまわってくるのだ。91番は「家にいたときは新聞なんか読まなかったけどさ、ここだと他にすることないから」と言ってページをめくっていた。社会面に、黒く塗りつぶされた部分があった。「両陛下、早慶戦を観戦」という写真付き記事のすぐ下だったので、おそらく私たちの逮捕記事だろうと思った。これは留置場を出てから分かったことだがその通りで、記事のタイトルは「神宮球場で過激派?逮捕」だったのである。留置場で取っているのは読売新聞であった。
 それにしても、留置場や刑務所で、自分に関係した事件の記事が黒塗りにされるのはどういうわけだろう。私の場合などすぐに出られたから読売新聞に「過激派」呼ばわりの報道に抗議する手紙を送ったが、一般には自分の事件がどう報道されているのか知ることもできないで法廷に立たされることが多いわけだ。報道が公正にされているかどうか確かめようがなく、抗弁のしようもない。こうしたことも、マスコミが警察発表の一方的垂れ流しを行い、冤罪の温床を作っている一因ではないかと考えさせられた。
 留置場の夜は早い。八時半に就寝準備・点呼があり、九時には就寝してしまう。オリの鍵が開けられ、一人一人廊下の押入に寝具を取りに行く。寝具はひとり分ずつまとめて重ねてあり、敷き布団一枚にオレンジ色の毛布二枚である。91番に教えられて寝具を敷いた。新入りは一番廊下側に寝ることになっているのだそうだ。寝具は、二枚ある毛布の古い方をシーツ代わりにして敷き布団をくるみ、その上に新しい方の毛布を掛けて寝る。枕がないので87番は辛そうだったが、91番と私は「ぜっぺき頭だから、要らないのよねー」と平気であった。
 一旦覚悟すると図太くあっけらかんとしてしまう私だが、さすがに床につくと長い一日のことが思い出された。明日は朝からコンビニのバイトのはずだが、どうしようもない。一緒に逮捕されたみんなはどうしているだろう。それよりも外にいる友人知人が大騒ぎしているだろう。妹や母親には、連絡が行っているのだろうか・・・。

5月30日
 起床が何時であったかは、はっきり覚えていないが、6時半とか7時とか、相当早かったように思う。まず「起床!」という声と共にブザーが鳴って、寝具をたたんで待っていると「点呼!」となる。寝具を壁に付けてきちんと起き、廊下側向きに正座して点呼を受ける。「79番!」と呼ばれたら「はい」と返事して起立するのだ。終わると順にオリが明けられて寝具を押入に戻しに行き、廊下の洗面台で三分間程度のあわただしい洗顔が許される。上の戸棚に一人一人の歯ブラシ・歯磨き・石鹸・タオルなど置く場所があり、私はこの時まだ差し入れてもらっていなかったので、留置場のものを借りた。使った洗面器などは、一粒残らず水気を拭き取ってからしまうように言われた。洗顔が済むと、オリの中側と外側に別れて掃除をする。私は外側を担当したが、雑巾でオリの鉄棒と金網を拭くだけの簡単なものだった。
 朝の食事は、給食でよく出たようなこっぺパン2本とマーガリン、ジャム、それに白湯だった。91番が「検察に行くとね、これよりもうちょっと大きくておいしいこっぺパンがお昼に出るんだよ」と言うと87番が「うそ。同じだよ」と反論した。二人言い合っていたが、今日87番が検察に行くことになっているので、確かめてくることになった。91番が言うには、ここの食事はやはり少なすぎてお腹が空くので、お昼にはお金のある人は五百円の「外弁(そとべん)」を取るのだそうだ。これはお昼にしか許されず、前日予約制である。あまり動くわけでもないのにお腹が空くのかなあと思ったが、確かにこの食事が毎日続くとかなりつらいだろうと、その後分かった。しかしこの時はパンが朝御飯には多く感じてひとりぐずぐずと食べていたので、担当さんに「みんなと大体同じ早さで食べるようにしなさい」と注意された。食べ物をあげたりもらったりするのは禁止されているのだが、残りのパンをこっそり91番にあげた。
 食事の後、87番が検察で取り調べを受けるため、呼ばれて出ていった。その日警察や検察で取り調べのある人が全員廊下に出され、すぐ腰縄と手錠をかけられて、お互いに腰縄で数珠繋ぎにされて出てゆく。“囚人”という言葉が頭に浮かんだ。

 91番と私は呼び出されなかったので、のんびりしていた。八時半頃になると、担当さんがラジカセを持ってきて廊下に据え、ポピュラー音楽を十分くらい流してくれた。これが91番には毎日の楽しみで、リクエストして好きな曲をかけてもらうこともあると言う。91番は担当さんを呼んで軟膏をもらい、唇に塗っていた。ここではご飯の後口をゆすいだりできないので、唇が荒れるのだそうだ。事実彼女は唇の端が痛々しく切れていた。「もうここに来てからずっと、治らないんだよ。動かないから、便秘もするし」。
 その後しばらくして「運動の時間」になり、全収容人員の半数ずつ交代で廊下奥のベランダに出された。ここで初めて他のオリの人と顔を合わせたのだが、2割くらいが外国人であった。ベランダは狭くて、とても「運動」などのできるところではない。順番に床に置かれた大きな空き缶の上に頭を乗り出して髪をとき(髪を床に落とさないため)、タバコを吸う人は自分のお金で買って預けてあるものを吸う。そのタバコも一日二本と決められているという。私はタバコを吸わないので、ベランダの端の方に行ってわずかな隙間から外を眺めていた。裏通りに向いていて通る人も少ないのだが、通勤途中らしい人の姿もある。道路を挟んで向こうにある空き地に古自動車が一台、そのそばに子猫を二匹見つけてみんなに知らせた。91番が言うには、お母さん猫がそこで子供を生んで、ずっと子育てをしているのだそうだ。見ていると自動車の下からお母さん猫と、他の子猫が次々出てきた。子猫達は自動車の周りを暴れ回って遊ぶので、一体何匹いるのかなかなか数えられない。夢中で見ているうちに時間が来て、中に入れられてしまった。
 今日はこのまま何もないのかしらんと思っていたら、十時過ぎて呼び出された。別室に四谷署の前田氏らが来ていて、「どうだ、元気でやってるか」。何か忙しい様子で、私の所持品の帽子・サングラス・マスクを取り出して写真を撮り、押収の手続きをした。これらは風貌を隠すための三点セットで、公安警察に写真を撮られないよう使うかも知れないと友人に言われ持っていたもの。実際は使う暇もなく素顔のまま逮捕されるというちょっと間抜けな結果になったのだが。書類に指紋を押捺させられた。他の取り調べはなくてすぐに終わり、彼らはあわただしく帰っていった。
 昼御飯は、私は「外弁」を注文していないので、「官弁」を食べた。91番は「外弁」で、これは外部委託注文の日替わり弁当のようなものだ。「官弁」の内容は、四角い赤いお弁当箱にごく控えめにご飯が入り、上にお新香と昆布の佃煮が少し乗ったもの、それに白湯。ご飯粒は長くてぽろぽろしていたのでタイ米だろうか。なるほど、「外弁」の三分の一くらいしかカロリーがなさそうだ。
 午後は、91番と床に寝転がったりしてごろごろしていた。こんなに暇にしていることなんて、近頃なかった。ちょうど季候のいいときで、昼寝をしても気持ちが良さそうだが、これが毎日だとたまらないだろう。夜早く寝るので昼寝もできないそうだ。91番が「食事だけが楽しみになるよ」と言うのも、宜なるかな。彼女はソラマメが好物だそうで、「今頃はもうソラマメが出てるかな。ああ、ソラマメ食べたいなー」と何度も何度も言っていた。ソラマメをどうやって食べる?と訊かれて私の田舎では甘辛く味を付けて煮ると話すと珍しがった。
 夕方四時頃呼び出され、弁護士が接見に来たと告げられた。逮捕されてから初めての外からの反応なので、やっとお互いの様子がわかると思い嬉しかった。意外だったのは、接見室には警官が入らず、ある程度秘密性が守られていたことだ。接見に来てくれたW弁護士はまだ若くエネルギッシュな感じの人で、私を非常に勇気づけてくれた。外の人に伝えることはと訊かれ、バイト先と介助に行くはずの障害者の方、それにサークルへの連絡を頼み、親には言わないで欲しいと告げた。バイト先はクビになるかもしれない。また所属していたサークルは企業や省庁から賛助金をもらって活動しているので、メンバーの私の逮捕が万一そういう方面に知れるとまずいなあと思った。
 夕食は早くて、五時だったと思う。そのころには87番も検察庁から帰ってきていた。昼と同じような四角いお弁当箱が出されたが、今度は二段になっていて、上は白いご飯、下におかずが入っていた。おかずはイカリングのフライなどだったのを覚えているが、普通の駅弁のような感じで、ただご飯・おかずとも量が少なめだった。
 91番が「検察のパン、どうだった」と87番に訊いたが、「やっぱり同じだよ」と言うのでまた言い合いになり、そこで今度は明日検察に行くであろう79番こと私が確かめてくることになった。87番は何となく元気がなく、きいてみると今日検察でひどい扱いを受けたということだった。検察官は早口でまくしたて、通訳が追いつかなくて87番が理解できないのに、「返事をしろ!」「お前やったんだろ!」と机をバンバン叩いて詰め寄るのだそうだ。そして何が書いてあるのか87番に全く理解できない書面を示して「署名しろ」と迫るのだと言う。ここで、聞いていた91番と私が異口同音に「そんなの絶対署名しちゃダメだよ!」と言ったのだが、それには87番も頑張って、署名を断って帰ってきたそうだ。そう聞いてほっとしたが、これが日本の検察のやり方なのだろうか。言葉も通じない外国で捕らわれてただでさえ心細い思いでいる者に対して、何ともひどい扱いである。かわいそうに87番はすっかり怯えていて、話しているうちにしくしく泣きはじめてしまった。
 この日の夜、消灯前の点呼のとき、この留置場の責任者である男性の場長が見回りにやってきた。その後寝具を準備している私たちのオリに近づいて来、私に向かって、「黙秘しているというのはあんたか。そんなこと無意味だぞ」「ここは留置場で、取り調べとは関係ないんだからしゃべったらどうだ」という内容を、絶対君主が農奴に命ずるが如き傲慢不遜な態度で述べた。私はこの男に心底軽蔑を感じながら、逆にじいっと彼の顔を見つめてやった。男は少し動揺し「まあいい」と言って帰っていった。


03196/03199 MXC01571 ひろ 留置場体験2
( 2) 96/09/07 17:43 03194へのコメント

5月31日
 朝は30日と同じように起床・洗面・食事。その後、私は東京地方検察局に送致される為に呼び出された。廊下で手錠・腰縄をつけられ、他の人と数珠繋ぎにされてそのまま護送車へ。私は車内で窓際の席に座っていたので、風通しのために開けられた窓の金網の隙間から、街を眺めることができた。たった二日ほど留置場されているだけなのに、明るい初夏の街は妙に遠く手の届かない世界に感じられ、不思議そうに護送車を眺めて通る人達に私の存在と私達の逮捕された事情を知ってもらえないことを、非常にもどかしく思った。
 地検の建物の、多分裏手にある駐車場に車は入り、待ちかまえていた警官に腰縄を持たれ、迷路のようなルートを辿って地下の待合い室(?)につれて行かれた。留置場と同じような大きさの細長いオリが並んでいて、中は壁沿いに作りつけられた板張りのベンチが向かい合っている。ベンチの奥に洋式便器があるが、仕切は腰の高さに幅50センチほどの板があるだけで、丸見え開放状態である。私は入り口から三番目くらいのオリに入れられたのだが、二番目のオリに一緒に逮捕されたYさんが居るのが、前を通るときちらっと見えた。彼女はうつむいていたので気付かなかったようだ。今日はみんなここに連れて来られているのだろう。
 朝十時半頃地検に着いて、四時半頃留置場に送り返されるまで、ひたすらに板張りの直角な椅子に座り続けるのが被疑者の仕事である。検事に呼び出されるのはほんの十分か十五分に過ぎない。座っている間、手錠は両手錠から片手錠(片方の手首に手錠の両輪をかける)にしてくれるが、ちょっとでも下を向いたり足を組んだり姿勢が悪かったりすると、「こらっそこ、顔を上げろ!」「今度姿勢崩したら両手錠にするぞ!」という婦人警官の怒号が飛ぶ。ここの婦警さんは驚くほど女性性を感じさせない人ばかりで、威圧感と迫力はものすごいものがあった。
 91番と87番の話から、「地検のコッペパン」を楽しみにしていたのだが、果たしてそれは91番の言うとおり、留置場のものよりも一回り大きくて柔らかくおいしかった。コッペパン二本に、マーガリンと苺ジャム、ここまでは留置場の朝御飯と同じなのだが、地検の昼食にはさらにスティックチーズ一本と蜂蜜が付いていた。食べ終わったらチーズやジャムなどのビニールごみをパンの入っていた袋に入れ、口を結んで回収させるのがここの流儀であった。コッペパンといい、食べ方片づけ方の細かい管理といい、なんだか小・中学校の給食を思い起こさせる。
 私のオリには両側のベンチに5人ずつ、十人くらい居たと思うが、二人のタイ人、台湾人とフィリピン人ひとりずつと、あとは国籍不明だが外国人らしい人が多かった。彼女たちは皆私と同じくらいの年格好で、おそらくは不法滞在で摘発された人が多いのだろう。二人のタイ人は警官が離れた隙に小声で話を始めた。言葉はわからないが、異国で同じ境遇の同胞に巡り会ったという状況から、何を話しているのかある程度推測できる。お互いの出身地を名乗りあい、年齢を訊き。二人とも21歳で同い年であることがわかり、二人の間に親密さが芽生えた(ひとりが手で数字を示したので私に理解できた)。この時私も同じく21だったのでこの二人に親近感を持ったのだが、その不安そうな様子が何とも痛々しかった。華奢でまだあどけなさの残る彼女たちには、この先守ってくれるものが何もないのだ。親兄弟も友人も、法律の知識も、流ちょうな言葉さえ。
 昼を過ぎて、私は呼び出されて検事と会った。検事はK.E.という厳めしい名前で、顔が大きくちょび髭をはやし、下がり眉毛の困り顔、どこか滑稽な雰囲気を漂わす、とにかく印象的な風貌の人だった。大きな部屋にぽつんと置かれた机に、書類に囲まれて座っており、向かい合って座った私に質問して取り調べた。「名前は」から始まって警察で訊かれたこととほとんど同じだったが、私が黙秘することを予想していたらしく、あきらめ気味の訊き方だった。一緒に逮捕された人たちの調べは既に終わり、私が呼ばれたのは一番最後だったらしい。取り調べは五分で終わり、私はまた待合い室に戻された。
 四時をまわった頃だと思うが、やっと!地検から帰されるときが来、婦警さんがその説明をした。検事の取り調べの結果はいつわかるとか、手続きの説明などあったのだが、半分ほどもいる外国人に理解できたとは思えない。ひどいと思ったので「あのー、日本語で言っても外国人の方には解らないんじゃないですか。通訳するべきではないですか、重要なことですから」と言うと、「あなたは余計なことを言わないで良いの、ちゃんと処理するんだから」という答えだった。
 帰りも来たときと同じように迷路のような長い通路を通って護送車まで連れて行かれたが、その時私の腰縄を持って歩いたのは若い婦人警官だった。彼女は他人を犬のように縄をつけて連れまわすことにまだ慣れていないらしく、そのことに若干の戸惑いを持っていた。私がすたすたと歩くと「もうちょっとゆっくり歩いて」と言ったが、腰縄をぎりぎり引っ張ることはせず、むしろたるませておきたがっている風だった。ちょうど私がうちのハナコ(柴犬)を散歩させるときのように。「前を歩いている人が見えちゃったらダメなのよ」と説明までしてくれた。ところが外に出る直前の階段の所で、案の定前を歩く人が見えてしまったのだ。それはなんと私をビラまきに誘ったNさんであった。「Nさん!」と声をかけると振り向いて「おう!」と言った。婦警さんは慌てて私を停止させた。Nさんが護送車に乗ってから、「友達?一緒に捕まった人と会っちゃうといけないんだけどね」と言った。後で考えれば、Nさんも名前を黙秘してるはずなのに「Nさん」なんて声をかけるとは。アホな私。
 板橋の留置場に帰ると、担当さんが私を呼び、「検察の結果だけど、処分保留ということだから、今日はまだ帰れないからね」と告げた。正直言って、また何日か勾留がつくのかと思うとさすがに不安になった。お風呂に入りたい、という切実な欲求があったし、あまり何日も入っていると親にも知らせが行くだろう。最高23日の勾留ともなれば、実際困ることが色々ある。
 自分のオリに帰ると、ルームメイトがひとり増えていた。45歳くらいのそのおばさんは土気色の顔をしてがりがりにやせ細り、全体に肌がかさついて老人のようだった。ぽんぽんと気持ちよく喋る江戸っ子で、聞けば二十歳の時から二十年以上覚醒剤を打ち続け、夫と共に摘発されたのだそうだ。心臓が弱い夫の身を案じていた。同じく覚醒剤で捕まっている91番に「絶対に止めた方がいいよ。こんなんなってからじゃ遅いからね。あんたみたいにまだ若くて綺麗な体をダメにすることないよ」と力説し、91番も「うん、もう絶対やらないもん。私、捕まってよかったかもね」と答えていた。

6月1日
 朝、食事が終わって送検の人達が出ていく前に、「79番、ちょっとおいで」と呼ばれた。何だろう、と同室の人達と顔を見合わせてから出ていくと、そのまま別室に連れていかれ、服を着替えるように言われた。釈放だ!そうと知っていれば同室のみんなに挨拶してくるのだったのに。
 担当さんが板橋警察署の玄関まで送ってくれ、三田線の駅を教えてくれた。尾行のことが頭に浮かんだが、とにかく早く家に帰ってお風呂に入りたかったし板橋に来たこともなかったので、教わったとおり三田線を利用するしかなかった。
 時刻は八時前。自分が異世界から帰って来たのに周りの誰もそのことに気付かないでいるような、不思議な感覚を味わいながら、私は通勤のサラリーマンに混じって満員電車に揺られていた。

                            以上

 補足だが、この時既に警察の尾行がついていたらしく、2日後には妹と住んでいたマンションに家宅捜索が入った。妹がひとりでいるときだった。
 一緒に逮捕された7人全員の家が家宅捜索された。また7人のうち1人は、理由はわからないがリーダー格とみなされ、13日間も勾留された。6月10日だったかに早慶サッカー戦を皇太子夫妻が観戦する行事があり、それが終わるまでみんなにあからさまな尾行がつきまとった。


トップページへ

僕のお薦めリンクはこちらです。

僕がこれまで書いてきたことは
近況
2012年
2011年
2010年
2009年
2008年
2007年
2006年
2005年
2004年
2003年
2002年
2001年
2000年
1999年まで

読書ノート です。


アマゾンのアソシエイツになりました。
昨年、亡くなったスティーブン・J・グールドの本を買ってもらいたいと思っています。
紹介文をボチボチ書いていくつもりです。まずは机の側にころがっていた「THE MISMEASURE of MAN」のことを書きます。



by 斉藤龍一郎

僕あてのメール