.



元に戻る

ソーシャルワーク関係における「自己決定」

1.はじめに

 バイスティックのケースワークの原則をひくまでもなく、クライエントの「自己決定」はソーシャルワーク関係において重要視されるべきものとして理解されてきている。しかしソーシャルワーカーにとって、クライエントの自己決定はなぜ重視しなければならないのだろうか。このようにあえて問いかえしてみると、意外に答えにくいのではないだろうか。援助は「クライエント・センタード」でなければならないからといった原則論や援助効果を上げるためには本人の積極的参加が不可欠であるという議論、また人は本来的に自己決定の権利をもつのだといった議論はできるが、クライエントの自己決定が重要であることは、自明すぎる(ように感じられる)だけに詳細な検討がなされてこなかったという面があるかもしれない。
 そして、このクライエントの自己決定の尊重の原則ほど、実践にあたるワーカーを困惑させる原則もないであろう。ワーカーが援助相手の自己決定を尊重するべきだというのは理解できるが、具体的に何をどうすればよいのだろうか。またどうみてもその決定が本人のためにならない(とワーカーに思われる)場合も、自己決定は尊重されるべきなのか。といった答えにくい問いがこの原則にはつきまとうのである。

2.「自己決定」尊重の必要性

 1) 個人の自己決定の権利

 クライエントの自己決定を論じるためには、援助関係という限定された状況以前の「人間」のもつ自己決定の権利について論ずる必要があるだろう。援助関係における自己決定権は、それが単独で存在するというよりは、人間が本来自己決定権を、社会および他者に対して主張できるものであるからこそ、援助関係においてもその原則が導入されるべきであるという論理展開になると考えられるからである。
 これについては、J・S・ミル(John Stuart Mill)の思想に、その根拠を求められることが多い。彼は『自由論』の中で、「人類がその成員のいずれか一人の行動の自由に、個人的にせよ集団的にせよ、干渉することが、むしろ正当な根拠をもつとされる唯一の目的は、自己防衛であるということにあり」、ある人が「本人の意志に反して権力を行使」されるのが正当化されうるのは、その権力が「他の成員に及ぶ害の防止」のために使われる場合だけであるとしている。そして、「ある行為をなすこと、または差し控えることが、彼のためになるとか、あるいはそれが彼を幸福にするであろうとか、あるいはまた、それが他の人の目から見て賢明であり或いは正しいことであるとさえもある(ママ)とか、という理由で、このような行為をしたり差し控えたりするように、強制することは、決して正当ではありえない」と述べている。(注1)
他人への干渉は、自己防衛以外には原則的に認められず、本人のためにという名目での介入も正当性をもたないと言うこの見解は、「自由主義」そのもののもつ限界を含みながらも、自己決定論の重要な根拠の一つになっている。
 例えば、全国青い芝の会の会長であった横塚晃一の著書の序文において本多勝一は、自らの障害をもつ妹を巡る幼い頃の出来事に触れ、次のように述べている。

  「このとき母が共に生きる決意をしたことは、家族みんなにとってまことに幸せでした。
  けれども、節子の側から考えてみると、これは、父や私の考えるていどの『よかっ
  た』次元のものではない。もちろん妹はまだ何も知らぬ赤ん坊ですが、少なくとも、
  当人は『死にたい』などと思ってはいません。母ともに心中させられるということは、
  要するに殺されることであります。いかに未来が悲観的であろうと、それは親が考え
  てのことであって、当人が考えてのことではない。(注2)

 親による、「障害児殺し」は「自己決定」の問題以前の生存権の侵害の問題であることは言うまでもない。しかし、同時に親は、自分の「ため」だけでなく、我が子の「ため」をも思っている「つもり」で行動していることも事実であろう。そうであったとしても、他人がある人のためを思うことと、本人の思いは必ずしもイコールでないし、他人が本人のための行動を本当にとることなどできるのか(それが親子であろうとも)というこの指摘は重要である。。
そして、この見解は、「最後の断を下すべき者は、彼自身である。彼が、他人の注意と警告とに耳を傾けずに、犯すおそれのあるすべての過ちよりは、他人が彼の幸福と見なすものを彼に強制することを許すの実害の方が遙かに大きいのである。」(注3)というミルの指摘へとつながるのである。
 このような、個人の自由の強調=自己決定の権利は、法律レベルでは、どのように保障されているのだろうか。日本国憲法においては、直接自己決定そのものについて触れている条項はないが、第13条と、第19条から第23条にかけてが関連するものとして指摘されることが一般的である。
 山田卓夫によれば、第13条の「幸福追求の権利」を一般的な前提とした上で、具体的には「自己決定権」の根拠として以下の二つの考え方を示している(注4)。一つは、憲法第21条の「表現の自由」の一態様として自己決定を保護の対象とする考え方である。今一つは、第19条「思想及び良心の自由」、第20条「信教の自由」、第21条「集会、結社及び言論、出版その他の表現の自由」、第22条「居住、移転及び職業選択の自由」等の、具体的な「自由」に関わる規定の上位概念として、「自己決定権」が認められるとする考え方(注5)である。その上で、山田は、「国民は憲法をまつまでもなく自由であり、自己決定は憲法が例示する諸自由の前提ないし上位概念」であるとしている。
 ただし、これら自己決定の権利はミルの文章にもあるように、他の成員に害のない限り許されるのであり(注6)、法律レベルの権利としても、憲法で言う「公共の福祉」に反しない限り(13条,22条)という相対的な権利である。さらに言うならば、自己決定の権利は、「あらゆる個人に認められるわけではなく、『成熟した判断能力』をもつものについてのものである点で、権利としては、特殊である。」(注7)という制限的権利であることに注意しなければならないだろう。

  2)援助関係における自己決定

 次に、援助関係においては、クライエントの自己決定はどのように位置づけられるのだろうか。
 このことを論じるには生命倫理(Bioethics)における研究が示唆的である。医療従事者の価値判断の基準については、ピーチャム(Tom L. Beauchamp)とチルドレス(James F. Childress)の『生命医学倫理』(注8)で明確化された4つの基本原理が前提とされることが多い。(注9)"Respect for Autonomy"(自律尊重原理) "Nonmaleficence"(無危害原理、無害性という訳もある。) Beneficence(仁恵原理、恩恵、善行等とも訳されている。) Justice(正義原理、公正とも訳されている。)の4原理である。

   (1)援助者の論理と社会の論理

 自己決定の権利問題と直接関わってくるのは、自律尊重原理であるが、他の原則も当然ながら、援助を考えるに当たって欠くことはできない。古来、医療においては「無危害原理」と「仁恵原理」の二原則が重要視されてきた。これらの考え方は、約2500年前の医聖ヒポクラテス(Hippocrates)の『誓い』にある「私は、自分の力の及ぶ限り病人を助けるために治療に当たります。また、病人にとって有害無益なことは決してしません。」「私は、誰に対しても、たとえ求められても、決して毒薬は与えず、またその使用を勧めることはありません。」(注10)等といった言葉に求められる。
 無危害原理と仁恵原理は、少なくとも患者に害を与えず、できる限り利益を目指すのであるから、必ずしも区別しないという考え方もある。実際、前述の『生命医学倫理』の著者の一人である、ビーチャムが執筆している別書では、インフォームドコンセントの原則について「自律性の尊重」「善行」「公正」の三者をあげ、善行の原則の中で、この両原則を統一すべきとしている(注11)。また、日本におけるバイオエシックス研究の第一人者である、木村利人も、自著の中で、バイオエシックスの四つの視座として「自己決定」「恩恵」「公正」「平等」をあげており、無危害原理と仁恵原理の区別を付けていない。(注12)(注13)いずれにしろ、無危害原理と仁恵原理は、ヘルピングプロフェッションの基本であることは確かであろう。
 これらの権利とは、全く異なる視点からのアプローチを求めるのが正義原理である。最もわかりやすい例が、医療資源などの利益の配分に関する「公正」の問題であろう。資源に限界がある状況で、誰に対してどのように利益を分配することが正義なのかという問題である。ニードに対して圧倒的にサービスが不足している場合に、どのような順位をつけることが正義にかなうのだろうか。市場原理に任せるべきか。過去の本人の功績によって順位付けられるべきだろうか。クライエントの社会的地位や今後の可能性によって判断されるべきだろうか。それとも、申込み順やくじ引きといった形が望ましいのだろうか。これは無危害原理や仁恵原理を時に制限したり、順位を付けたりする根拠になるだろう。
 正義原理は、現実のサービスシステム作りや供給現場レベルでの判断においてはしばしば重要になってくるが、「不正であるとする多くの批判は、正義以外の原理の侵害であるとして、適切に分類できる。」(注14)という指摘もある。少なくとも、援助の本来的目的ではなく、目的達成のための重要な手段的目的といえるだろう。

   (2)当事者の論理

クライエントの危害になることはせず、極力利益となるように援助者は全力を尽くす。そして、それにあたっては社会全体の資源をそれを必要とする者とのかねあいで不公正のないように留意する、という援助者及び社会の側の援助の論理に、援助を必要とする当事者の側の論理を持ち込んだのが、「自律性尊重」の原理である。思想的にはカント(I.Kant)や前述のミルを初めとする考え方を背景としたものとされる。これらの思想の影響が、医療を中心とする援助原則の中に取り入れられるようになったのは、いつごろからであろうか。厳密には、思想レベルでの自律尊重原理が、援助レベルにおいては自己決定の尊重という形で実現されるということになるであろう。人の自律を尊重するためには、関わりにおいては相手の自己決定を尊重する必要が出てくるということである。本論では必ずしも区別せずに用いている。
 一つは、第二次世界大戦以前の人体実験への反省がある。特に、ナチスの強制収容所の非人道的人体実験を裁いた、ニュールンベルグ裁判に際して定められた「道徳的・倫理的・法律的概念を満たすために従うべき基本的諸原則」(ニュールンベルグ綱領1947年)が、本人の同意をはじめとする医学上の臨床研究に関しての倫理を定めている。(注15)例えばこの綱領には、「実験には被験者の心からの同意が絶対に必要である。」「被験者は同意を与える法的能力を持っている。」「実験を受ける被験者は確実な決定を受け取る前に、実験の性質、期間、目的、行われる方法と手段、理性的に予想される全ての不都合と危険、実験に関与することから起こる可能性のある健康や人格への影響などが、知らされることを要求している。」といった記述がある。(注16)この綱領に続いて世界医師会総会による「ヘルシンキ宣言」(1964年)が出されて、広く世界に影響を与えるようになったという。
 もう一つは、1950年代からの公民権運動を初めとする、人権運動の影響を受けていると言われる。特にアメリカでは、ラルフ・ネーダー(R. Nader)の唱える消費者運動に強い影響を受けて患者の人権運動が起こってきたという。(注17)
 これらの流れを受けた、自己決定権の尊重の考え方は、援助原理において重要な役割を果たすことになった。それまでの援助論においても、確かに援助者はクライエントのためを思って全力を尽くすことは義務づけられていた。しかし、その全力の内容は、あくまでも援助者の判断に任されており、クライエントはまさに「対象者」として受け身でいるしかなかったのである。こういった「善行モデル」が20世紀半ばまで患者に対する医師の責任の唯一のモデルとして機能しており、「医師たちは、患者を医学的に管理するさいに、ほぼ完全に自分の判断だけに頼れば良かった」(注18)という。これに対して、木村利人は、「医療従事者の価値観の押しつけは、人間としての患者の人格と尊厳をふみにじることになりかねず、医療から患者や家族を疎外させる」のであり、「医療の方向付けやそのあり方等に関することを医療専門家だけにまかせておけばよかった時代は完全に過ぎ去りつつ」ある(注19)としている。
木村は、有名なコワート(D.Cowart)のケースを援助関係における「自己決定」の重要性を語るものとして、『いのちを考える』の中でとりあげている。ガス爆発によって全身65%に重度(3度)の火傷を負った(救急外来時には生存可能性は20%と診断されている)コワート氏は、14ヶ月間に及ぶ治療中一貫して「治療停止」を訴えた。その時のコワート氏の様子は「両目は潰れ、両手指が焼けついてしまって握りこぶし状に一つの塊となっていました。腕や足の骨はむき出しになっていて、更に顔は耳も口元も変形し、髪の毛もありせん。」(注20)(注21)という状況であった。しかし本人が全治療期間治療をとおして一貫して治療停止を求め続けたにも関わらず、治療は続けられた。その結果治療は成功し、後に弁護士の資格を取り高校時代のクラスメートと結婚もしたという。
 典型的な「仁恵原理」と「自律尊重原理」が葛藤する例であろう。援助のプロセスにおいて自己決定権が軽視されたという問題を抱えながらも、結果において治療は成功し、その後の就職・結婚という社会生活を営むに至ったということに注目される例だろう。しかし、木村は事故から十年後のコワート氏のコメントとして「あのときのあの願いが聞かれていたら、今の自分は存在していないのは事実です。にもかかわらず、いま私が幸せに生きているという事実が、あのときの決定を正当化することにはならないのです。」「私の自己決定権があのとき拒否されたという事実は消えませんし、それを私は一生この身に負って生きていかなければならないのです。」(注22)という言葉を載せ、援助関係における、自己決定権の絶対性を強調している。
 この内容について共感するかどうかは別として、「自己決定」の権利の重みや重要性について考えていく必要を明らかにしているといえるだろう。


3. ソーシャルワークにおける自己決定

 ソーシャルワークも援助職の一環であることからすでに述べた論理の展開に従うことが相応しいと考えられるが、本節では改めてソーシャルワーク援助におけるクライエントの自己決定の意味について簡単に触れてみたい。

  1) ソーシャルワークの目的−倫理綱領の検討を通して

 ソーシャルワークとは何を「目的」とする実践なのだろうか。目的を明確化することによって、ソーシャルワーカーが重視するべき原則が見えてくることになるはずである。ただし、ソーシャルワークの目的についてここで厳密に検証する余裕はないので、ソーシャルワーカーの行動規範となる各種の倫理綱領を検討することで、ソーシャルワークの目的について考えてみることにしたい。
 例えば、日本において他の援助専門職との比較でも、早い段階で「倫理綱領」をもつことになった、日本医療社会事業協会の「医療ソーシャルワーカー倫理綱領」(1961年)では、その本文第1条で「個人の幸福増進と社会の福祉向上を目的として活動する」とうたわれている。また、日本ソーシャルワーカー協会が定めた「倫理綱領」(1986年)では、前文で「われわれソーシャルワーカーは、平和擁護、個人の尊厳、民主主義という人類普通の原理にのっとり、福祉専門職の知識、技術と価値観により、社会福祉の向上とクライエントの自己実現を目ざす専門職であることを言明する。」としている。目的について限定して言えば、「社会福祉の向上とクライエントの自己実現を目ざす」ということであろう。日本精神医学ソーシャルワーカー協会倫理綱領(1988年)では、前文に、「われわれ精神医学ソーシャルワーカーは、個人の尊厳を尊び、基本釣人権を擁護し、社会福祉専門職の知識、技術及び価値観により、社会福祉の向上並びに、クライエントの社会的復権と福祉のための専門的社会的活動をおこなうもの」という記述がある。
 このように三綱領をみると、30年もの差があるにも関わらず(注23)、ソーシャルワーカがなすべきことについての指摘は、非常に明確な共通性をもつことが明らかになる。クライエントと社会をともにソーシャルをワーク援助の視野にいれるという視点が三綱領を貫いて共通しているのである。
 個人へのアプローチの側面で言うと、「個人の幸福増進」(MSW協会)、「クライエントの自己実現」(SW協会)、「クライエントの社会的復権と福祉」(PSW協会)という言葉で各綱領が強調している。また、社会を対象とするという側面で言うと、「社会の福祉向上」(MSW協会)、「社会福祉の向上」(SW協会)、「社会福祉の向上」(PSW協会)が目標とされている。
 つまり、個人への働きかけと社会全体への影響を志向する側面の2段階の目的をもつと言うことであろう。(注24)もちろん、30年の時を通して福祉の理念が全く固定的であったわけではないだろう。というより、実質的な展開は見せている。例えば、クライエントの「幸福増進」「自己実現」「社会的復権と福祉」と、社会の「福祉向上」との両者をソーシャルワーカーが目指すという点では共通であるが、個人と社会の関係理解は変化を見せていると考えられる。
 戦後日本国憲法下においては、「公共の福祉」に反しない限りの「個人の幸福」追求権の尊重(=公私の拮抗)が認められたのであるが、現在は「個人の福祉」追求が「社会全体の福祉」向上を促すというノーマライゼーション型の論理の展開へと内実において福祉理念は発達してきていると考えられるのである。つまり、戦前の「公あってこそ、個人の幸福は可能になる」という公主民従的立場から、戦後の「公の不利益にならない範囲での個人の自由」を追求する立場へと社会と個人の関係理解が変化した時期に、MSW協会の綱領が成立したと考えられるのに対して、「個人の幸福追求」に専念することは「社会の発展」と対立するものではなく、資するとする考え方を背景にもつ80年代の綱領へと、各綱領の制定時の福祉論の背景は違いをもっているといえるだろう。
 また、援助を必要とする人々をどのように呼ぶかという点をとっても1960年代初期制定のMSW協会の綱領では「対象者」という呼び方であったものが、1980年代以降制定の二綱領では「クライエント」へと変わっているなど、確かな変化がみられる。そして、当然ながら各綱領はその基本は保持しながらも、その「意味」においては新しいものへとその解釈は深められているのである。
 ただ、このように個人と社会の関係の捉え方を始めとしていくつかの視点が変わってきているにしろ、クライエントと社会の両者ともに援助の視野に入れるという発想法は従来から変わっていないといえよう。全米ソーシャルワーカー協会倫理綱領(1996)の前文では、以下のような記述がある。「歴史的にも、この専門職は、社会との関連のなかで個人の幸福を求め、社会そのものの幸福を追求することが、その特徴であるとされてきた」(注26)。このソーシャルワーク理解としての基本的な立場が、以上のような日本のソーシャルワーカー関連の倫理綱領と密接に関連としていることは明らかである。
ソーシャルワークはクライエントの幸福をはかるのであるが、それは社会的存在としての人間と関わるのであり、個人の問題解決・成長発達と、社会全体のそれを相互関連的にとらえ、両者に同時に働きかけていこうとするものということであろう。

  第2節 ソーシャルワークと自己決定

 以上に述べたようにソーシャルワークの目的を一般原則レベルで明示することは比較的容易である。しかし具体的に、「個人の幸福増進」「クライエントの自己実現」「クライエントの福祉」とは何か、「社会の福祉」とは何かと考えると、途端にその意味する実体は不明瞭になる。(注27)(注28)
 それは、「幸福」や「自己実現」という概念が、主観的側面を強くもつからであろう。よく言われることであるが、家族から見て本人(クライエント)に良かれと思うことと、本人の望むことが違う場合は、どちらをワーカーは「幸福」と言うべきなのだろうか。また、心身にハンディをもつクライエントを「施設に入所させる」ことと、「在宅サービスを提供する」ことと、どちらがより福祉的といえるのだろうか。ケースバイケースとしか答えようがない。少なくとも、ワーカーの側が彼の意に反して本人の幸せを決めることは許されるべきでないということになるだろう。
 このことは仁恵倫理と自律尊重原理の矛盾の問題であり、第1章で触れたコワートケースとも重なるものである。中でも、特にソーシャルワーク援助が、社会的存在としてのクライエントを相手とする、言い換えれば個人と社会の相互関係そのものが良い方向へ向かうことを目ざすという側面をもつことからすると、特に強調されるべきものとなるだろう。
 このように、具体的な「状態の確保」をもってソーシャルワークの目的の達成とは言いにくいと考えるならば、「状態へ到達するためのプロセスの確保」が、「援助におけるポイントということになってくる。確かに、「幸福」とか「自己実現」といった言葉は、「本人にとって」という側面を強くもち、ある意味で「他人から見て」「客観的にいって」という側面と相容れないことにもなる。このように考えてきたとき、「本人の立場はどうか」「本人が何を願うのか」と言ったことが、大切になってくるのである。
 このことは、障害者の自立生活運動が「リスクをおかす権利」という形で明確にしてきている。障害者にとって施設入所が本人の意向に添うものでないならば、いくら本人の「ため」のサービスであったとしても、それは権利ではなく義務になってしまう。「何故我々は施設で安全な生活をしなければならないのか。危険でもいいから一人暮らしをしたい」という声に、抵抗する論理の構築は難しい。また、重度の障害を胎児がもつことが分かったときに妊娠中絶を勧める医療関係者や決断をする親に対して、「障害をもつ子どもが不幸になると勝手に決めないでくれ」「健康に生まれ育っても不幸になる人もいれば、障害をもって生まれても幸せな人生を送っている人もいる」「親が本人のためと称して子どもを殺すことはできないはずだ」と主張する声も、説得力がある。(注29)
 その人にとって、何が幸せで何が不幸せかを決めることは他人にできないならば、本人の「自己決定」を最大限に実現していくことが、「援助」において必要になってくるのではないか。そして、そのことが「自立」につながるのであり、クライエントの「主体性」の尊重にもなるのではないかという論理が重要になってくるのである。

第3章 自己決定論導入に当たっての課題

 本章では、クライエントの自己決定の尊重について考えていくに当たっての問題点をいくつか論じておきたい。
 一つは、既に触れてきているように仁恵原理と自律尊重原理の衝突の問題である。これは、援助職共通レベルの課題である。例えば、既述のコワートケースについても、木村は医療の結果が成功しようと幸福であろうと、本人の自己決定権がその時無視されたという事実を問題視している。しかし、これを本人の希望があったのだから、治療停止されるべきであり、結果としての現在の生も意味はないという形で理解できるかというと疑問が残るだろう。言い換えれば、クライエントの自己決定はワーカーの仁恵倫理より自動的に優先されるべきなのかという問題だろう。この葛藤の一番典型的な例は、医師による自殺幇助事件としての「バウドワイン・シャボット医師事件」に見ることができる。息子を二人もつ女性が、夫からの暴力に苦しんでいた。あるとき、長男を自殺で失った。その後女性は、離婚するに至ったが、唯一の心のよりどころであり、同居をしていた次男が悪性の腫瘍で死亡してしまった。生きる望みを失った彼女は自殺を試みたが失敗に終わった。その後、何人かの医師に自殺の幇助を頼んだが断られ、最後にシャポット医師に出会い、医師により「手渡された薬」を服用して死亡した、という事件である。(注30)本人は、絶望はしていたが、死に至る病や耐え難い肉体的な苦痛などには侵されていなかった。しかし、医師は、死に至る薬を処方したのである。これに対して、オランダの最高裁判所は、担当医師以外の医師が本人に面接しているべきであるという、手続きを踏んでいないという事実に対してのみ有罪を認め、刑罰は課さないという結論を出している。
 自己決定権がここにまで至るとき、仁恵原理が最早援助においては不要になってしまうのだろうかという疑問がでてくる。ワーカーは利用されるべき対象(=手段)なのだろうか。援助者をクライエントにとっての「利用できる資源」と、単純にとらえることには問題があるのではないだろうか。なぜなら被援助者が援助関係における一方的対象ではないのと同様に、援助を行う者もまた、クライエントによって単に利用されるだけの存在ではないと考えるべきだと思われるからである。
 ワーカーを援助関係の一方の主体とする考え方は、クライエントが関係における中心であることを前提とした上では、大変重要なものになってくるだろう。クライエントは、社会の偏見や差別、また一方的な要求などを前にして、身動きができなくなってしまう場面がままある。その様なときに、ワーカーはクライエントの側に立ち、社会に対して様々な要求をしていったり、誤解を解いていくといった作業をしなければならないことがある。そのためには、ワーカーはクライエントが利用できる、単なる資源の作り手・紹介者ではなく、援助関係における一方の主体としての立場が必要になってくるのではないだろうか。援助職としての価値観や態度をしっかりともった一方の主体者でなければならないのである。そうでなけれのば、ワーカーはクライエントから要求されたことにだけ対応することになる。そうすると、クライエントが自ら問題を感じ解決策をイメージできているときには良いが、本人もどうしたら良いか分からないような課題を抱えているときには、新たな解決方法の展開といったことが不可能になってくるのである。
 ワーカーは自らの援助専門職としての主体性を保つことにより、真の意味でクライエントの立場に立って援助をすることが可能になると考えられる。その意味では、仁恵原理と自律尊重原理の葛藤を否定するよりは、必然として受け入れていく必要があるのではないか。その上で、「治療方針を決定するのは、単に治療者でもなく、患者でもない。患者と治療者という二つの主体が存在し、両者のあいだで話合いがなされ、信頼関係が形成され、ついには合意が形成されて、共同の意志決定がなされる。」(注31)という考え方を大切にいていかねばならないだろう。
二つ目は、人間がもつ自律権、自己決定権に関する理論自体のもつ限界である。1章1節で触れたように、自己決定の権利はミルの文章にもあるように、他の成員に害のない限り許されるのであり、法律レベルの権利としても、相対的な権利である。あらゆる者に認められる権利ではないのである。
 例えば、障害者がどのような生活をしようが本人の自由であり、施設での生活や親との同居が他者から見ていかに必要であろうとも、障害者本人が一人暮らしをしたいのならばそれを要求する権利をもつという、障害者の「自立生活運動」に対して自己決定論は全面的な支援の論理になる。しかし自己決定論が、フェミニズム運動と連携したときには、女性の「生まない」権利を自己決定権として正当化することになる。胎児が障害児であることが分かったときにそれを理由で中絶することは許されないと言う、障害者運動の主張と衝突するのである。これを、女性と胎児の「権利」の衝突ととるならば、折衷することが必要であり、また可能になるが、自律論の立場からすれば、胎児は自律の権利をもっておらず、従って生まれる権利、生きる権利があるわけではないということになるのである。ここでは、「人格」(person)と「人間」(human being)の区別をすることで、論理が展開される。新生児や胎児は人間ではあるが、未だ人格を獲得するには至っていないとし、「心的状態の持続的主体としての自己意識を欠いた実体は、生存する権利を持っていないのである。」(注32)とする論理である。「インフォームド・コンセントにおける自己決定権の主張は、それ自体が同意無能力者という絶対的な例外例を生むことによってしか成立し得ないという基本的な自己矛盾」(注33)をもつという問題を、やむを得ないこととしてみるか、乗り越えていくべき課題としてみるかはソーシャルワークに関わる者が、考えていく必要があるだろう。
 三つ目は二つ目の課題から導きだされるものであるが、「自己決定原則」は、どのような形で成立しうるのかという問題である。親子といえども夫婦といえども、他人であり、自らの人生を他人が決めることはできない。自分のことを本当に分かるのは自分だけであるという、「個人主義」を前提としているが、本当に、孤立した形での人の自己決定をここで想定することが正しいのだろうか。「ひと」は、「Individual」(=これ以上分かち得ない存在)であるとともに、「人間」(=他者との関係的存在)でもあるという視点を保持することは必要なのではないだろうか。「他から支えられてこそ初めて生活でき、自己決定できるような人間こそが、将来の高齢福祉社会を構成する基本的な人間なのではないか。そういう人間たちが、お互いに支え合うことで、社会は運営されてゆくのではないか。」という森岡正博の指摘(注34)を前提とした上での個人主義を越えた、「自己決定」論を今後構築していく必要があるのではないだろうか。



================================注====================================

注1 J.S.Mill "On Liberty" 1859 塩尻公明、木村健康訳『自由論』1971 岩波書店 p.24
注2 横塚晃一『母よ!殺すな』1975年、すずさわ書店 p.6
注3 『自由論』 p.155
注4 山田卓夫『私事と自己決定』1987年、日本評論社 pp.343-344
注5 山田は23条の学問の自由については触れていないが、当然同列に論じられるものであろう。
注6 「自由論」の中でミルは、「この所説を、諸々の能力の成熟している人々にだけ適用するつもりであることは、恐らくいう必要はない。われわれは、小児のことを述べているのではなく、また、男女の成年として法律で定めているであろう年齢よりも下にある若い人々のことを述べているのでもない。いまだ他の人々の世話を受ける必要のある状態にある人々は、外からの危害に対して保護されなくてはならないと同様に、彼ら自身の行動に対しても保護されなければならない。」(p.25)と指摘していることを、我々は注意しなければならない。
注7 『私事と自己決定』p.344
注8 Tom L. Beauchamp James F. Childress "Principles of Biomedical Ethics" Oxford University Press 1st edition 1979 3rd edition 1989 永安幸正、立木教夫監訳『生命医学倫理』1997年 成文堂
注9 監訳者の巻頭言によれば、この原理があまりに広く受け入れられることとなったため、ピーチャムの所属するジョージタウン大学ケネディ倫理研究所にかけて、「ジョージタウンの呪文」と4原理のことが、言われるほどだという。
注10 訳・解説常石敬一『ヒポクラテスの西洋医学序説』1996年、小学館 pp.226-227
注11 Ruth R Faden & Tom L. Beauchamp "A History and Theory of Informed Consent" 1986 Oxford University Press 酒井忠昭、秦洋一訳『インフォームドコンセント−患者の選択−』1994年 みすず書房
注12 木村利人『いのちを考える』1987年、日本評論社
注13 しかし、また「他人を傷つけない義務が他人に利益を与えるために積極的措置を取る義務と区別されるだけでなく、しばしばより緊要なものである。」(『生命医学倫理』p.143)という指摘もあり検討をする価値があるが、本論は自己決定権につながる部分に焦点を当てるため、両原理を区別すべき化しなくても良いかの議論については踏み込まない。
注14 『生命医学倫理』p.310
注15 一人ナチスだけの問題ではなく、日本の中国大陸における731部隊問題なども同様である。
注16 Paul S. Appelbaum & Charles W. Lidz & Alan Meisel "Informed Consent : Legal Theory and Clinical Practice" 1987 Oxford University Press 『インフォームドコンセント−臨床の現場での法と倫理』杉山弘行訳 1994年 文光堂 p.237
注17 星野一正 『わたしの生命は誰のもの』 1996年 大蔵省印刷局
注18 『インフォームドコンセント-患者の選択』p.91
注19 『いのちを考える』p.10
注20 同上 p.16
注21 コワートケース(愛称がダックスであったため、ダックスのケースとも言われる)については、Albert R. Jonsen & Mark Siegler & William J. Winslade "Clinical Ethics " 1992 McGraw-Hill,Inc. 『臨床倫理学』赤林朗 大井玄監訳 1997年 新興医学出版社も参照。
注22 『いのちを考える』 p.22
注24 また、MSW協会の綱領は、本文五条からなるが、ソーシャルワーカー協会の綱領は、17条からなっており、量的にも増加している。
注25 ここで、二綱領で「社会福祉の向上」と書かれているのは、「個人の社会福祉向上」ではなく、文脈から見て「社会の福祉向上」=社会全体への向上を意味すると考えるべきであろう。
注26 全米ソーシャルワーカー協会編 日本ソーシャルワーカー協会訳『ソーシャルワーク実務基準および業務指針』相川書房 1997年
注27 唯一、「クライエントの社会的復権」の問題は理解しやすい。精神障害故に社会から差別され、疎外されてきた人々を「権利回復」すべく努力することがPSWの仕事であるという考え方は、ワーカーがメディエート機能を果たすときも、アドボケート機能を果たすときも重要な指針になりうるのではないだろうか。
注28 また、社会の幸福についての議論もする必要が本来あるが、本論のテーマが自己決定に関わるものであるため、個人の福祉の側へのアプローチについての論に限定する。)
注29 その意味で、最近のセルフ・ヘルプ・グループ(SHG)の動きは重要になってくるだろう。従来のソーシャルワーク援助はともすれば、「私が彼に何をしてやれるか」という援助者側の視点でのみ考えられがちであった。クライエントは援助の受け手として、ワーカーのリードに従っていれば良かったのである。それに対して、セルフ・ヘルプの考え方は「専門家に助けてもらうのではなく、さまざまな生活上の問題を抱えている我々自体が、互いに協力し助け合おう。専門家の援助は必要に応じて利用しようではないか。」といったクライエントの生活者としての側面、当事者性が強調された動きなのである。
注30 宮野彬著 『オランダの安楽死政策−カナダとの比較−』1997年 成文堂PP.219-222 もちろん、医師は合計24時間も話し合った上での決断であり、即決しているわけではない。
注31 熊倉伸宏著『臨床人間学−インフォームド・コンセントと精神障害−』1994年 新興医学出版社 p34
注32 MIchale Tooley,"Abortion and Infanticide,"Philosophy&Public Affairs 2,no.1
1971 Princeton University Press 「嬰児は人格を持つか」 エンゲルハート、ヨナス他著 加藤尚武、飯田亘編『バイオエシックスの基礎−欧米の生命倫理考−』1988年、東海大学出版 p.107
注33 『臨床人間学』p.85
注34 森岡正博編著『「ささえあい」の人間学』1994年 法蔵館 pp.19-20

元に戻る

.