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実証研究と規範理論研究

―ソーシャルワーク研究のあり方として―

 

同志社大学 小山 隆

 

 T.はじめに

 

 筆者はソーシャルワークにおけるワーカー・クライエント関係に関心をもつ中で、「クライエントの自己決定」と「ワーカーのパターナリズム」の関係について論じてきた。そして、ワーカーの判断によるクライエントの行為への介入は「パターナリズム」の脈絡でとらえたときには、クライエントの自己決定を阻害する要因としてもみなされることとなり、一方「善行原理」「無危害原理」という援助原理との関わりで理解したとき、クライエントの自己決定権の尊重と並立する重要なワーカーの援助行動と考えられることを指摘してきた。(文献1,2)

「クライエント本人の望みを実現することに専念するワーカー」と「専門家の立場から時にクライエントの意に反する行動をとることもありうるワーカー」のどちらをより望ましいと考え選択するかという問題は、ソーシャルワーク論上の問題、さらにいえば対人援助論上の問題(注1)であり、「援助関係は如何にあるべきか」という「あるべき」論=規範的態度の問題ということになる。

そして、実はこのソーシャルワーク論上の規範的態度についての議論を深めていくためには、援助論上の論議を超えた社会的規範理論レベルでのあり方について検討していくことが必要になってくるのである。例えば、ワーカーのバターナリズムを批判し「当事者の自己決定権こそが援助関係において尊重されるべき」という現代のソーシャルワークにおける主流ともいえる考え方は、アメリカにおける障害者の自立生活運動や日本における障害者解放運動の影響を受けていると考えられる。そして、これらの思想はさらに60年代の公民権運動やコンシューマリズムといった大きな市民運動の影響を受けており、その源流を求めるならば「他者に危害を加えない限り、本人の思いはそれがどれだけ本人のためにならないと考えられるものであっても尊重されるべきである」という、J.S.ミル等にもさかのぼる功利主義的自由主義の考え方に至ると考えられるのである。(文献1 pp.150-155

つまり、援助を必要とするクライエントに対して、どのような専門的立場(態度)で接するべきなのかという、実践的でミクロな福祉的課題は、大きくは我々の社会はどのようなものであるべきなのか、社会において人はどのように遇されるべきであるのかという、「社会のあり方に関する価値判断的な議論」(文献3 p.C)とも関連することになってくるのである。上で歴史的に関係を論じたことを同時代における社会的規範と援助原則の関連で論じるならば、個人への国家や他者の介入は最小限にとどめられるべきであるという、「自由主義」的な社会的規範を前提とする社会においては、ソーシャルワーク援助においてもワーカーの善行原則、無危害原則よりも、クライエントの自律が尊重されるべきという「自己決定」尊重の援助規範が優先されることになるのである。(注2)その意味で社会的規範理論のあり方とソーシャルワークのあり方との関連を検討していくことは重要になってくると考えられる。

しかし一方で、近年Evidence-Based Social Workが注目され始めている。この立場から見たとき「如何にあるべきか」という規範的立場に執着することは、実践の効果や評価を蓄積するという必要不可欠な営みを妨げることにもなりかねないという指摘がでてくる。実際、ソーシャルワーク研究において近年研究方法論が話題になることが多いが、その背景には実証的研究が必要であるという問題意識が高まってきていることがあると考えられる。ソーシャルワーク実践の効果を質的調査や量的調査を駆使することで実証し、蓄積された知見を、今後の実践に利用できるようにしようとする実証的態度はソーシャルワーク研究にとって重要であることは確かだろう。

それでは、先ほどあげた筆者が関心をもつような規範理論研究は、ソーシャルワーク研究において無意味なのであろうか。筆者の感じるところでは、この規範理論研究と実証研究は矛盾する関係ではないにもかかわらず、しばしば対立的に理解されることがあるようである。どちらの立場での研究を行うにしろ、両者のもつ意義や役割を事前に明らかにしておくことは必要であると思われる。

本論では、ソーシャルワーク研究を進めていくにあたって必要となってくると考えられる、規範理論研究と実証研究のもつ意味について整理し確認していくことにしたい。

 

 U.実証研究について

 

1)実証研究の重要性

 

近年、社会福祉研究において注目されはじめている、Evidence-Based Social Workは、ソーシャルワーク研究を「科学」としてしっかりと位置づけしていこうとするものであり実証科学としての社会福祉学の構築を志向するものといえよう(以下、Evidence-BasedをEBと略すこともある)。例えば、秋山薊二は、慈善・慈恵的発想に端を発するソーシャルワークは、人権、主体性の尊重、個の尊重などヒューマニスティックな価値観を尊重さえすればよいように理解され、援助実践の効果や評価は軽視されてきたと指摘する。また、近年エンパワメント論、ストレングス論、ナラティブ論等の新しい視点やアプローチが日本に紹介されているがこれらは権威にもとづく実践であって、実証されたものではないと指摘する。(文献4)

 

「あるべき」論のやりとりをいくら繰り返しても援助実践に関する知見は蓄積されないのであり、実証的な研究こそ必要であるという指摘は(乱暴ではあるが)重要である。「患者の命を救うことが医療の目的である」と繰り返し「理想」を確認しても医学が進歩するわけではない。Aという手術とBという手術ではどちらの成功率が高いのかを、手術例を蓄積し客観的事実として証明していくことが医師にとっては重要になってくる。そしてそこで明らかになった事実の蓄積にもとづいて、医師と患者はどの治療法を選ぶか決めることができるようになるのである。そしてこのことは、医療に限らず、福祉、教育、カウンセリング等対人援助の分野においても同様といえる。

確かに、どのような癌にはどの手術がより効果的なのかといった実践的課題は、「いかにあるべきか」という「規範」の問題ではなく、「事実はどうなのか」という「実証」の問題である。例えば、20世紀初頭から約70年にわたって乳癌治療において世界標準の位置を占めたハルステッド手術は、筋肉まで切除しあばら骨が浮き出た外観になるという、患者にとって非常に負担の大きい手術であったが、実は手術をしなかった場合と比べてさえ効果の証明できないものであることが後に明らかになったという。(文献5pp.156-164)当時、ハルステッド手術について成果があるという報告がなされてはいたが、その報告は内容に問題があり、(現在の)「医学雑誌に投稿されたら、簡単に却下されてしまうような体裁と内容」(文献5p.162)であったという。その意味で、きちんとした手続きに基づいた実証的研究が必要であることは間違いないところであろう。

そう考えた時、ソーシャルワーク研究においても「利用者の自己決定を尊重すべきである」とか「クライエントの人権尊重が何よりも優先されるべきである」という「理念」を確認するだけで良しとするわけにはいかない。さらにいうならば、「エンパワメントアプローチ」「ナラティブモデル」「ストレングスモデル」などの海外から紹介される新しいソーシャルワークのあり方も、大切にされるべき理念から導き出されてはいるが必ずしもその有効性が実証されているわけではない。本当にそのモデルが日本の実践に役立つのか、どのような実践にはどの援助モデルがより効果的なのかといった視点からの検証が必要になってくるという指摘は重要である。このような具体的視点から実践を評価していき、研究が実践に貢献していく「実証研究」は今後ますますソーシャルワーク研究においても必要になってくるだろう。

そしてこの実証研究の必要性は、ソーシャルワーク研究においても従来から強調されており、決して近年のEBソーシャルワークの流れによってはじめてもたらされたものということではない。実際、ソーシャルワークのEBプラクティスとの関連は1970年代にまで遡ることができるとされる。(文献6 p.12)この時代にアメリカでリサーチと理論と実践の統合化が図られるようになり、実践者が少なくとも自分自身がする実践の評価ができ、しかも新しい実践知識の創造ができる「リサーチャー=実践者」であることも求められるようになったという。(文献7 p.28)この、リサーチャー=実践家という視点は重要である。まさに自らの実践を通しての知見が援助理論の構築に役立ち、他者の実践の蓄積から自らの取る技法などを定めていくということが出来れば、「理論は実践の役に立たない」といった、指摘は当たらなくなるはずなのである。例えば、シングルシステムデザイン法(単一事例実験計画法、シングルサブジェクトデザインともいわれた)1980年前後には日本のソーシャルワーク関係者にも紹介されており(例えば文献8)一定の実証研究も蓄積されている。その意味で芝野は、「近年欧米のソーシャルワークでは、『エビデンス・ベースト・プラクティス』が再び注目を集めている」(傍点引用者)(文献9 p.89)とEBプラクティスにつながる動きが決して新しいものではないことを指摘している。

また、「実証的態度」を「科学性を重んじる」「恣意的な援助をしない」という意味で言えば、ソーシャルワーク自体が慈善事業からの脱皮を図り専門職業化を始めたその始原からそもそも実証志向があったともいえるだろう。

2)エビデンスベーストソーシャルワーク

 

それでは、近年注目されるようになってきたEBな考え方、研究方法は従来の実証的研究とどこが違うのだろうか。Evidence based medicineという言葉は1980年代にカナダの大学で使われるようになり、EvidenceBased Medicine(EBM)として広く知られるようになったのは、1992年に”Journal of American Medical Association”で紹介されてからであるという。(文献10 pp.8-9

当然、EBソーシャルワークも実証的ソーシャルワークに位置づけられるが、いくつかの特徴をもつ。EBという発想は、EBソーシャルワーク、EBナーシング、EBカウンセリング等対人援助の各分野において普及し始めているが(総称してEBプラクティスともいう)、基本的にはEBメディシンの影響を受けており、その内容を見ることでEBプラクティスに求められる基本的な条件も明らかになる。

まず、EBメディシンの実践のプロセスは、

)臨床上の疑問の特定

 2)問題を解決するための情報の系統的な収集

 3)情報の批判的吟味

 4)患者への適用(文献10 p.9

の四段階を経るとされる。援助実践を開始するに当たって課題を設定したならば、それについて論じられている既存の文献や調査結果、実験データ等の情報を徹底的に集めること、そしてその集めた情報を鵜呑みにするのではなく批判的に検討した上で患者に適用していくというプロセスは実証的態度として一般的に了解できるものといえる。

 しかし、従来からの実証的な態度を基本にしながらも、あえてEBと冠する一連の援助実践が近年注目されてきたのには一定の理由が考えられる。例えばEBプラクティスでは、どの情報が実証的データとして妥当性がより高いかということについての基準が明示され、データの利用と作成に当たっての標準化が促進されているところに特徴の一つがあるのではないだろうか。

具体的には、臨床医学研究の研究タイプによる妥当性の階層として、米国の健康管理政策研究局(AHCPR)は

 1)複数のランダム化比較試験(RCT)のメタアナリシスによる研究

)少なくとも一つのランダム化比較試験による研究

)少なくとも一つの、よくデザインされた非ランダム化比較試験による研究

)少なくとも一つの、他のタイプの良くデザインされた準実験的研究

)比較研究や相関研究、ケースコントロール研究など、よくデザインされた観察的研究

6)専門委員会の報告や意見、あるいは権威者の臨床経験

(文献10 p.127

という六段階に整理している。

 そして、このようにエビデンスの妥当性を厳密に階層化したとき、実践のプロセスにおける「情報の批判的吟味」がより高い精度でできるようになり、実践結果のデータベース化も促進されることになり、全国的さらには国際的なレベルでの既存情報の共有化も可能になるのである。          

例えば、ヘルスケアの分野での巨大なデータベースとして、コクラン計画が有名である。(注3)

“The reliable source of evidence in health care”という、サブタイトルが表すように、ヘルスケア関連の膨大な研究論文について収集しレビューしたデータベースが、オンラインとCDROM上で利用できるものである。その概要は注3に記したホームページが参考になる。版としては古いものになるが、特に日本語サイトが手軽にEBメディシンの目指すところを理解するのに便利であろう。

 つまり、従来からの実証的研究をさらに標準化を進め、データベース化を促進し、援助者個人の恣意的な判断による誤りを排していこうとする試みがEBプラクティスといえるのではなかろうか。

 ソーシャルワーク研究においても実証的調査研究が進み、その結果が埋もれることなくデータベース化され実践に当たって利用できるようになるシステム作りを目指すことは重要になってくるだろう。

 本稿ではEBソーシャルワークについての詳細は論じることが出来ないが、秋山薊二の一連の研究が詳しい。『ソーシャルワーク研究』等にも氏の論文は掲載されているが、ホームページ上に紙媒体で公開されている論文についてのより詳細な版や関連文献が紹介されている。例えば、EBプラクティスとEBソーシャルワークの違いなど豊富な文献に当たった上での筆者の見解が紹介されている。(注4)

なお、本稿のテーマとは異なるので詳述しないが、EBな実践が医療やアメリカの心理療法において要請されている背景にはコストイフェクトの問題があり、クライエントの役には立つがあまりにコストを費やす実践は制限されるべきであるという考え方にもつながっているという指摘も意識をしておかなければならないだろう。(文献9 pp.17-18

 

 

 V規範理論研究について

 

1)規範理論とは

 

既に述べたように、ソーシャルワーク研究が実証的であるべきとする論は一般的に理解できるが、規範理論が必要であるといわれることはそれほど一般的ではないかもしれない。ここでは先ず、規範理論について実証的理論とのかかわりで簡単に論じることとしたい。

規範理論とは「実証理論の対概念であり、『である』という事実ないし真理ではなく、『であるべき』という価値ないし規範を研究する理論」(文献11 編集後記)とされる。また冨塚嘉一は「理論のあり方を問題にするとき、しばしば理論が現実の姿を記述、あるいは説明する側面(記述論あるいは説明論)と、あるべき姿を提案する側面(規範論)とが区別される。」(文献12 p.35)としている。

また、『大辞林 第二版』(インターネット版)では、「規範理論」という語はないが、「規範学」という語があり、「事実が『如何にあるか』を扱う経験科学に対して、『如何にあるべきか』という規範・当為を取り扱う科学。倫理学・美学・論理学など。規範科学。」とある。また、関連する語として「規範経済学」と「規範的倫理学」があげられている。そして前者については「ある価値判断に基づいた場合、いかなる経済目標の達成が望ましいかを明らかにする経済学。厚生経済学はその典型。」、後者については、「〔normative ethics〕具体的・実質的規範の定立にまで踏み込む倫理学説。たとえば、『人種差別は悪である』という命題を正しいとする立場。」とある。また「規範的倫理学」の対語としてあげられた「メタ倫理学」は「〔meta ethics〕一定の道徳的立場を擁護することを避け、道徳的言語の形式的分析に集中する倫理学説。例えば『善とは単純で非自然的な質を意味する名辞である』という命題はこれに属する。」と説明されている。

要するに、「実証理論」に対する「規範理論」、「経験科学」に対する「規範科学」といった位置づけということになり、科学ないし学問の性格をこのように大きく二つに分けて説明することは比較的一般的に行われる。(注5,6)

 

2)規範理論研究の重要性

既に見てきたように、自明の規範の確認や海外の理論の直輸入をただ繰り返すのではなく実践の蓄積による「実証」を重ねていくことがソーシャルワーク研究にとって必要であり、ソーシャルワーク実践に貢献するとの指摘は重要である。しかしそれでは、ソーシャルワーク研究において規範に関する議論は不要なのかというとそうではない。実証研究を開始するにあたって「どの状態が望ましい状態か」という価値的判断、規範的前提は必要になってくると考えられるのである。

例えば、乳癌の治療法としては、既に述べたようにハルステッド手術を始めとする(わずかな腫瘍でも)乳房全体を摘出する全乳房切除術(全摘術)が過去においては基本であったが、現在は乳房を残す乳房温存療法(温存療法)が主流となりつつある。そして、これは客観的に全摘術と比べても温存療法が予後において遜色がないというまさにエビデンスが得られたことによって普及しはじめたという意味では、実証的研究の成果だといえる。

しかし、一方で、なぜ全摘術が一般的であった初期の段階で、常識的には予後が悪いと考えられる温存療法に関係者が取り組んだのかというと、そこには医療において何が「望ましい」のかという価値判断の問題が前提となっているのである。先ず医療には「患者の生命を救う」「患者の病気や怪我を治す」「患者の痛みを軽減する」という目標が古来よりある。一方で近年になって、「患者のQOLを高める」「患者の自己決定を尊重する」という新たな価値が医療の世界に導入されるようになってきた。「乳癌患者の生命を守る」という目標を実現するために全摘術が必要であるという判断に対して、「女性の手術後のQOLを守る」という目標を実現するために、可能な限り手術は部分的なものであるべきという判断が対立的に存在することになるのである。(もちろん、手術による患者の負担は軽くあるべきである、という判断もある)そして、この対立する二つの選択肢から一つの手術法を選ぶに当たっての判断材料として各手術法の予後に関する実証的な情報が求められることになったのである。

つまり、「医療は患者の命を守る」という単一の規範のみが医療の世界の前提とされ、「医療は患者のQOLの向上を図る」という規範がない時代には温存療法が模索される必要はなかったのである。「ハルステッド手術や非定型手術(いずれも全摘術:引用者注)が全盛の時代にあっては、『大きく切ること=治ること』が社会通念であり、『乳房を残すのは、いのちと引き換え』」であり、そのような時代に「温存療法が行われはじめたのは、当時の患者たちが『たとえいのちを縮めても乳房を残したいとのぞんだから』」であり、医師もそれに共感したからであり、「でなければ、そのころの常識を破るような治療法はでてこなかった」(文献13 p.66)のである。(注7)

ソーシャルワーク実践においても、先ずはクライエントにとってどのような状態が望ましいのかという規範的目標があり、その上でその目標を実現するためにはどのような方法が採用される必要があるのかという実証的な研究が必要になってくる。いいかえれば、実証研究で証明できないレベルの課題も残るのである。例えば、援助原則として広く通用すると考えられる規範的な基準に生命倫理の四原理がある。善行原理、無危害原理、自律尊重原理、公平原理である。これらの各原理内での問題解決をするための効率的な援助法を明らかにしていくことがEBソーシャルワークを代表とするところの実証研究であるのに対して、どの原理がより望ましいと考えられるのかという規範の優先性を明らかにしたり、ある援助原理に対して誠実な実践を行うことが他の原理に対して不誠実になるといった倫理的ジレンマ状況の解決をすることはEBなアプローチでは困難である。そこには、規範理論研究が必要となってくると考えられるのである。

 

3)代表的社会的規範理論

 

 EBプラクティスといっても具体的な援助方法をさすのではない。帰納法的に理論を生成する一連の態度・手続きと結果として蓄積された知識の体系であり、ソーシャルワーク、看護、医療、カウンセリング等それぞれの領域において蓄積が重ねられていく性格のものである。

その意味では、規範理論も論ずる科学において規範理論の内容は変わってくる。経済学における規範理論、会計学における規範理論、社会福祉学における規範理論等当然論じられる内容は異なってくる。

それでは、ソーシャルワーク研究と関わりの深い社会的規範理論としてはどのようなものがあるだろうか。それはおそらく具体的にはソーシャルワークの援助原則、さらに言うならば対人援助の原則を支える背景としての人間論、社会論とも言うべきものであり、政治哲学、公共哲学、社会哲学、応用倫理学等で扱われてきている議論がその範囲になるのではなかろうか。

従来から社会福祉界においても、「我々の社会は、自由を尊重すべきか平等を目指すべきか」といった議論や、「要援助者を助ける責任は一義的には公にあるのか私にあるのか」といった福祉を担うべき主体に関する規範的議論はあった。自助−互助−公助のバランスについての議論もそうであろう。

ここでは、福祉制度のあり方、ひいてはソーシャルワーク援助の原則のあり方を検討していくに当たっての根拠となるような「社会的規範理論」について簡単に触れてみたい。もちろん、この言葉が成熟しているわけではない。例えば、『福祉の公共哲学』という著書があり(文献14)本稿でいう社会的規範理論の意味で公共哲学という用語を用いている。ただ、ここで規範理論という用語を用いる理由は、「哲学」「倫理学」は単一科学を想起させるのに対して、哲学や倫理学は重要なバックボーンであるが、経済学、政治学、社会学等の学際的な共同研究としてこれらの規範的論議をとらえていきたいからである。

 

社会的規範理論は、盛山和夫によれば「社会を支える規範的な原理への探求は古代中国と古代ギリシャとにさかのぼる」(文献15  p.22)が、「社会の規範的原理をめぐる現代の探求はジョン・ロールズの『正義論』の刊行とともに始まる現代リベラリズム思想が中心的担い手である」(文献15 p.29)という。この現代リベラリズム(古典的自由主義との関係で「現代的」と冠せられることが多い。)に対して、対抗原理として80年代に注目されるようになったリバタリアニズムやコミュニタリアニズムをあわせた三者が社会的規範理論として紹介されることが多い。

 例えば、小泉良幸はこの三者を「平等対自由」「正対善」の二軸から分析し、「正」志向で「平等」志向が「リベラリズム」、「正」志向で「自由」志向が「リバタリアニズム」、そして「善」志向が「共同体論」であるとしている。(文献16 p.5)また、塩野谷は「個人主義対全体主義」軸と「制度内秩序対制度の基礎構造」軸で同様の分析をしている。(文献14 p.20)もちろん、社会的規範理論が以上の三者に集約されるわけではない。例えば、フェミニズム、多文化主義、時には社会主義等も取り上げられることがあり、いずれも社会福祉理論ひいてはソーシャルワーク理論にも影響を与える重要な規範となりうる理論である。

 

 本来筆者は、援助関係においてクライエントの自己決定がどの程度尊重されるべきなのか、ワーカーがクライエントの利益を考えて本人の意に反した行動をとることがどの程度許されるのかといったソーシャルワーク論上の関心をもち、そこから社会と人間、人間と人間、国家と人間の関係は如何にあるべきなのかといったことを明らかにする社会的規範理論について関心をもつようになった。したがってここで取り上げられるそれぞれの規範理論について強い関心をもっている。しかし本稿はその前段階として、実証的研究と規範的研究のそれぞれのもつ意味を検討しようとするものであるため、各規範理論の詳細については今後に譲り、ここでは小泉の分類軸に従った簡単な説明にとどめることとする。

 

  ○「善」と「正」

 

 社会的規範理論を考える時に重要になってくる軸が「善」と「正」の問題である。(注8)社会的規範というならば、ある行いは良いことで、ある行いは悪いことであるという、善悪の判断が伴うと考えられる。確かに「私利私欲のための殺人は悪い」という判断は普遍的に成立するだろう。しかし、人工妊娠中絶の善悪について言うならば、女性の「生む・生まないに関する権利」という視点からは「善」(注9)であるが、生まれるチャンスを失った胎児の生まれる権利が侵害されるという側面からすれば「悪」ということになる。また、信仰を例にしても、ある宗教を信じるものにとって望ましい行いであっても、別な宗教を信じるものにとっては許されないことも多い。

こう考えた時、現代社会では社会の共通善を確立することは無理であるという判断が出てくる。リベラリズムもリバタリアニズムもこの立場に立つ。どのような生き方が良い生き方なのか、どのような社会が良い社会なのかといったことを普遍的に決めることは出来ず個々に任せるしかない。そう考える時、唯一いえることは、一人一人は個人として自由であり、どのような生き方を選ぼうが基本的に自由であるということになる。この原理にたつとき「自己決定」が重視されることになる。そしてこれらの考え方は、現代は相矛盾する多様な価値観をもつ人々がいるという意味で「多元主義」の考え方を受け入れることともつながっている。

「善」よりも「正」を重視するこれらの考え方は、ソーシャルワーク研究においてもクライエントの自己決定権を尊重する考え方につながり、また集団内の(思想信条などの)異質性を理由とした排斥を認めないという意味でも重要になってくる。

それに対してコミュニタリアニズムは、「正」よりも「善」を重視すべきであると考える。個々人は自由な決定を出来るとリベラリズムやリバタリアニズムは言うが、実は人は自分の生まれ育った家庭や集団、地域、信じる信仰などの共有する価値観の影響を受けており、真の意味で「自由」ではないという。つまり本当は地域や家族の影響を受けているのに自由に決めて良いといっても、実は自由な決断はできないというのである。確かに、虐待を受けている児童や、ドメスティックバイオレンスの被害者である妻が、何事かを「自由に決めてよい」といわれてもそれが可能なのかという議論、また特定の時代地域に生きる人々はその影響から完全に自由ではありえないという指摘は重要であり、自由という言葉のもつ疑わしさを、善の問題を議論しようとしない立場への批判から導くコミュニタリアニズムの思想は援助論を展開するに当たっても重要な視点を提供してくれる。反対に共同体がもつ価値観や伝統の影響を認め、個人は共同体の中にしっかり位置づけられてこそ良い人生を生きることが出来るとコミュニタリアニズムは主張する。この視点からすれば、様々な反社会的な行動も共同体内の規範が弱体化する中発生するとも考えられる。ソーシャルワーク実践を考えるに当たっても、クライエントと接するに当たって個人を尊重することは当然であるが、同時に他者との関係、自らの所属する共同体の枠内での決定を行っていくという視点も確かに必要になってくるだろう。

 

○「平等」と「自由」

 

 ではリベラリズムとリバタリアニズムがどう違うかといえば、平等と自由のどちらを大切にするかという判断の差になってくる。リベラリズムは「正義」を実現するための一定の「公正な機会均等」や「資源の平等」の必要性を認める。条件を整えない自由競争は公平ではないということである。そのような意味で、ここで言うリベラリズムは「平等主義的リベラリズム」「福祉国家リベラリズム」などともいわれる。つまり、自由主義は他者による介入を基本的には嫌うのであるが、必要な範囲での国家による条件整備などの必要性を強調する立場である。まさに社会福祉理論としては福祉国家論にもつながる規範理論であり、現在の社会福祉理論にも大きな影響を与えている。

 それに対してリバタリアニズムは自由至上主義とも言われ、個人の自由を究極的に尊重するため、国家も含めた他者の介入を極力小さくしようとする。国家による福祉的条件整備などは、ある意味で本来個人がもつ財産権などを制限することにもなるとする。政府は極力小さなものであるべきで、さまざまなサービスは市場を通して行われるべきであるという市場主義にもつながっていく。(同時に共同体によるサポートが必ずしも否定されるわけではない。)ある意味で近年の福祉理論における、自己決定=自己責任論はリバタリアニズム的背景をもつともいえる。

 

以上を見ると分かるように、リベラリズムは自己決定の尊重とそれを実現するための公的なサポートを促し、コミュニタリアニズムは家族や地域などのクライエントへの影響の大切さを強調する。そして、リバタリアニズムは徹底した個人主義の強調と福祉の市場化を結果的に促す。このような社会的規範理論は一部触れてきたように。社会福祉理論さらにはソーシャルワーク理論に対して重要な貢献を与えうると思われ、今後議論を展開していく必要があると考えられるが、詳細は稿を改めることとしたい。

 

 

 

1.現実的にはどちらのワーカー像が正しいかという問題ではなく折衷的答えが正解にもなるが、理念的な問題として本来どちらが優先されるべきかという問いは残る

2.厳密には特定の社会的規範を採用すると言っても、現代の民主主義社会においては多様な価値観をもつ人々の存在は認められている。ここでの議論は特定の社会的規範は特定の援助的態度と原則的に相関するという指摘である。

3.http://www.cochrane.org/

 http://www.niph.go.jp/toshokan/cochrane/JP/REVABSTR/JP/abidx.htm

4.http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~akiyak2/

5.研究者によって一連の用語の使い方は必ずしも厳密ではない。例えば、冨塚は本文でも紹介したように文献11で記述論の意味を規範論に対置されるものとして用いているが、規範的の意味で使われることもある。例えば、秋山論文(文献4 p.38)では、「何の実証性も見られない記述的、論述的、理念的研究」というように、「記述的」という言葉を実証的研究に対置されるものとして論じている。(厳密には、ここの例では「記述論」と「記述的」と、完全に同一の言葉ではないが。)

6.ここで述べたように、一般に実証研究と規範理論研究は対置的に論じられることが多い。しかし、厳密には両者は排他的な関係にはない。規範理論研究が「何を研究するのか」という研究対象、内容に主に関心をもつのに対して、実証研究は「どのように研究

するのか」という研究方法に関わるものであるからである。

7.厳密にはここでは議論を単純化している。規範論レベルとは別に純粋にさまざまな手術法を模索し、よりよい予後を求めていくということは一般論としても当然ありうる。

8.善と正の問題がここで論じられるが、一般に言われる正義や善とは若干異なる意味で用いられている。詳細はこれ自体が議論の対象であり、略述することは困難であるが、一応次のように理解することとしたい。ここでの「善」は個人や、集団などが望ましいこと、善いこととして自ら選ぶ価値観や生き方のこと。それに対して「正」は各自が個人的な善を追求したときに生じる衝突を回避するルールのことである。

9.当然のことながらするべきこと、望ましいことという意味ではない。選択肢が女性に与えられるべきという議論である。

 

 

 

文献

1.小山隆「ソーシャルワーク関係における自己決定」嶋田啓一郎監修『社会福祉の思想と人間観』1999年 ミネルヴァ書房

2.小山隆「社会福祉実践における自己決定の意義と課題―善行原則・無危害原則との関連で―」秋山・井岡・岡本・黒木編『社会福祉の思想・理論と今日的課題』2004年 筒井書房

3.有賀・伊藤・松井編『現代規範理論入門―ポストリベラリズムの新展開―』2004年 ナカニシヤ出版

4.秋山薊二「Evidence-Based ソーシャルワークの理念と方法」『ソーシャルワーク研究』No.122 2005年(http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~akiyak2/ronbun.pdf

5.近藤誠『乳がんを忘れるための本』2002年 文芸春秋

6.A.R.Robert & K.R.Yeager eds. “Foundations of Evidence-Based Social Work Practice” 2006 Oxford University Press,Inc.

7.平山・武田・藤井著『ソーシャルワーク実践の評価方法』2002年 中央法規

8.平山尚「ケースワークの新しい効果測定法『単一被験者方式』(Single Subject Designs)について」『社会福祉研究』No.31 1982

9.『エビデンス・ベースト・カウンセリング』2004年 至文堂

10.森實敏夫『臨床医のためのEBMアップグレード』2002年 医学書院

11.『季刊経済理論』vol.41 no.4 経済理論学会 2005

12.冨塚嘉一『会計認識論―科学哲学からのアプローチ―』1997年 中央経済社 

13.近藤誠他『乳がん―あなたの答えがみつかる本−』2002年 双葉社

14.塩谷野祐一他編『福祉の公共哲学』2004年 東京大学出版

15.盛山和夫『リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理―』2006年 勁草書房

16.小泉良幸『リベラルな共同体―ドウォーキンの政治・道徳理論―』2002年 勁草書房

 

 

 


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