直接援助技術

本節の課題は、社会福祉援助技術のなかでも直接援助技術について論じることにある。
社会福祉に関わる援助の専門職のことを、国際的にはソーシャルワークというが、日本においては「社会福祉士及び介護福祉士法」中の用語に従って社会福祉援助技術と呼ぶことが多い。そして、そのなかでも個別援助技術(ケースワーク)と集団援助技術(グループワーク)の2方法を直接援助技術と呼び、地域援助技術(コミュニティワーク)、社会福祉調査等のその他の福祉援助技術を間接援助技術と区別して整理されている。

1)ケースワーク

人間は、いくら与えられた環境や立場、抱える課題などが似通っていても、あくまでも他人とは異なる独自の存在なのだという認識に立つとき「ケースワーク」はまず必要な援助方法となる。
「ケース」という言葉には個々の・個別の・事例等という意味があり、ケースワークとは一人ひとりのクライエント(福祉の援助を必要としている人のこと。かつては「対象者」と訳したが、最近では「利用者」ということが多い)とともに作業(ワーク)をしていくことである。個別援助技術ともいう。
例えば、施設で3人の子どもが一緒に無断外泊をしたとしよう。施設職員や仲間たちを心配させ、大きな迷惑をかけた彼らは丸一日して施設に戻ってきた。施設職員である私は、どのように働きかけることになるだろうか。
おそらく、3人を一カ所に集めて「君達は、何ということをしたんだ!」と叱る。そして、共同で悪いことをしたんだからと3人に同一の罰を与えることになるだろう。
確かに、彼らは一緒になって「悪い」ことをした。この行為については、同一の罰を与える(処遇をする)しかないだろう。しかし、無断外泊をしたときの気持ちは一人ひとり違うのではないだろうか?たとえばA君は、前日に他の子どもがした「いたずら」の犯人だと誤解されて指導員に厳しく叱られた。それで、施設にいたくなかった。B君は、最近お父さんが、施設にまったく尋ねてきてくれなくなったことで気持ちが荒れていた。C君は、高校進学のことで悩んでいた。進学はしたいが、経済的に自分の家庭が苦しいことを知っている彼は、進学か就職かで悩んでいた。その日は進路についての懇談会がちょうどある日だったので面接がいやで欠席をした。
上に述べた例のように、同じ行動をしたからといって一人ひとりの心まで一緒なわけではないのである。このように考えた時、3人をまとめて叱るだけでは効果的でないことは明らかだろう。
A君は、誤解をした指導員との話し合いが必要になってくる。B君対策としては、お父さんが最近来てくれなくなった理由を確かめ本人に知らせ、場合によってはもっと来てくれるように父親に促すことも必要になってくるかもしれない。C君については、奨学金や授業料免除の制度について話し、さらに行政の対応等ついて説明することで私立高校でも進学可能な道があることを話せばよいだろう。もちろん、これらの個別の対応をするためには、まず一人ひとりとじっくりと話をしなければならないことはいうまでもない。
このように、人間の「個別性」に焦点を当てて一人のワーカー(指導員、保母・寮母等援助を行う人を総称してこう呼ぶ)がクライエントと一対一で、じっくりと関わっていく援助形態をケースワークという。
ケースワークを専門に行う場としては、福祉事務所や児童相談所等の機関における相談面接等があげられる。その他にも広くとらえるならば、保育所における自由保育時間中に保母が子ども一人ひとりに関わることや、老人ホームで寮母がお年寄りの食事介助をしながら悩みを聞くこともすべてケースワーク実践といえるだろう。
ケースワーク実践にあたって心得ておくべき原則としては、バイスティックの7つの原則が有名である。個別化、意図的な感情表現、統制された情緒関与、受容、非審判的態度、クライエントの自己決定、秘密保持の7つである。(新訳がでたが、ここでは定着している旧訳をもちいた。)
ここでは、ケースワーク実践にあたって留意すべきポイントをバイスティックの原則を中心にいくつかの説をも参考にして、筆者なりに整理して説明していこう。

a.個別化
これは、対人援助において最も基本となる姿勢である。人間は誰でも一人の人間として扱われたいというニードを持つ。それとともに、実際人間は一人一人異なった生育歴をもち、異なった性格をしている。それに対応しようとするものが個別化の原則なのである。
先にあげた例のように、どれだけ目の前にいるクライエントの気持ちや行動を、他人とは違う彼自身のものとして受けとめていけるかが、問題解決の糸口を見つけることにつながるのである。
b.クライエントの態度の意味の理解
人間の行動や言葉、態度等には、全てに意味があるという前提からこの原則は出てくる。 他人が理解できない言動をしたとき、我々はそれを無視したり、怒ったりはするが「原因を考える」ことはしない場合が多い。
例えば、痴呆のお年寄りが理由もなく突然大きな声をあげて怒りだしたとする。施設職員である私に直接思い当たる理由がないとき、我々は「またか、あの人は痴呆だからな」というように聞き流してしまう。
しかし、クライエントの行動がいくら突然にみえても、それはワーカーからみたときに「理由もなく」なのである。つまり、正しくは理由について気づくことができていないのである。クライエントの側には何らかの理由があるのである。ワーカーが無意識に言った、何気ない言葉がクライエントを傷つけたのかも知れないし、前日に起こした他のお年寄り同士のいざこざがずっと気持ちを重くしていたのかもしれない。
このように、あくまでもクライエントの言動の意味を考えていこうとすることが、大事になってくるのである。すでにあげた3人の子どもたちの例もそうだろう。彼の行動の意味をしっかりと考えることが、クライエントを個別化することにもつながってくるのである。
特に、否定的な感情は表現しにくいため変形された形で出ることが多いので注意が必要である。クライエントが何かワーカーに不満をもったからといって、「いやです」「嫌いです」というような表現をとることはむずかしい。そこで、クライエントが持つ不満や不安をワーカーは見逃してしまうことになってしまうのである。
例えば、ワーカーがクライエントのしたことを叱ったときに、本当はいろいろ反論したいが怒られるのが恐くてクライエントは黙っていたとする。それをワーカーは、納得しているのだと思ってしまう、といったことがしばしば起こるのである。
これへの対応としては、「言語的」表現だけでなく、クライエントが話し合いの最中に、視線を外したり、あくびをしたり、身体を揺すったりするといった「非言語的」な表現に注目していくことも有効になってくる。しばしば、言語的な表現は(意識的にしろ、無意識にしろ)「うそ」をつくことがあるが、非言語的な態度は「うそ」をつきにくいからである。「はい、わかりました。」という返事がいやいやされているとき、われわれはその不満をきちんと感じとることが可能なのである。
c.受 容
人間には誰でも「自分の気持ちを分かって欲しい」という思いがある。それに対応していこうとする原則である。クライエントの感情や行動・言葉等に秘められた真の意味に対して理解を示していくことが重要になってくる。
クライエントのうれしい気持ち、悲しい気持ち、驚き、腹立たしさ、等といったさまざまな思いをどれだけワーカーが共感をもって感じとれるかが大切になってくるのである。
しかし、社会的によくないことをしたクライエントを「受容しろ」といわれる場合どうだろう。例えば「弱いものいじめ」をしたクライエントを「受容」するというのはどういうことなのだろう?
ここで、大事になってくるのは、「受容」と「許容」の違いである。「受容」とは、クライエントの「思い」を受け入れることである。それに対して、「許容」は、彼の「行動」を許していくことであろう。弱いものいじめという行動が絶対に許されないのは間違いない。したがって「許容」する必要はなく、叱るべきであろう。しかし、の原則からも分かるように、意味もなくいじめたわけではないはずである。例えば、親や職員、学校の先生に誤解され、傷つけられた気持ちが、彼を「荒れた」行動に走らせたのかも知れない。そのいらいらした「思い」を「受容」することはできるはずなのである。
もう一つ大切にしておくべきポイントは、言葉そのものでなくその背景にある思いに焦点を当てれば見えてくることが多いということである。たとえば、寝たきりのお年寄りが「もう生きている甲斐がない。死にたい。」とおっしゃったとき、われわれはどう受け止めるべきなのであろう。死にたいという言葉そのものにこだわったとき、われわれは受け止めきれず戸惑うことになる。しかし、「死にたいほど、つらい」という思いとして理解できたとき、その思いを受け止めることは可能になってくるのである。クライエント一人ひとりの態度や言葉にこだわりながらも、その表面的な意味にとらわれない態度が必要になってくるのである。
d.自己覚知
これは、a〜cの前提となる原則である。そして、他の原則がクライエントに「対する」関わり方の原則であるのに対して、自己覚知はワーカー自身に「関する」原則である。
この原則は、一言でいえば「ワーカーであるあなた自身について良く知りなさい」ということであろうか。人は誰でも、自分自身の価値観・道徳観に基づいて自らの行動を決め、他人の行動を判断している。そして、それを「正しい」と考えて行動している。しかし、私にとって正しいことが他人にとっても正しいこととは限らないのである。
例えば、泥遊びをして服まで汚れている子供がいたらあなたはするだろうか。「服が汚れているじゃない!もう止めなさい」と、叱るかもしれない。しかし、本当に泥遊びはいけないことだろうか?「遊び」としては誰でもが経験するものであり、ある意味で必要なものであろう。服も洗えば済むのではないだろうか。
つまり、服が汚れてはいけないというのはあなたの思いであり、多くの人が賛成する常識ではあっても、けっして児童の発達を考えた「真理」ではないのである。また、「夫婦は離婚すべきではない」という価値観を強くもっている人が、自らの考えを絶対正しいものとして固執したままで「離婚したい」と思っているクライエントの相談にのることができるだろうか。
「服が汚れてはいけない」のも、「離婚は良くない」のも、「私の思い=価値観」である。そして、人間にとって自分が自分らしくあるためには、この個人としての価値観は大切である。しかし、その自分の価値感を、他者にとっても当然守られるべきものとしてクライエントに接するとき問題が生じるのである。夫の暴力に悩む妻の「離婚したいほど苦しい」という苦しみを受容できず、「そんなこと考えたら駄目でしょ」と説教することになってしまうのである。
とはいっても、自分の価値観や道徳観を変えなければならないのではない。「自分はきれい好きなところがあるタイプだ」「自分は古風な結婚観を持っている方だ」等という 「自分は...」に気付いていれば、それを無意識に相手に押し付けたりしなくても済むのである。自分の価値観を「正しい」ものとして押しつけてはいけないが、自分の思いを相手に伝えることは間違ってはいないのである。

  e.自己決定
 福祉援助がワーカーの自己満足にとどまってはならないことはいうまでもない。援助がクライエントにとって本当に意味あるものになるためには、援助を受ける本人がその援助を本当に必要としているか、サービスの利用を望んでいるのかといった点についての検討が必要になってくるのである。このことを実現するためにはクライエントの自己決定の原則が必要となってくる。
 他人から見て、いくら「本人のために良かれ」と思った行為でも、本人が望んでいない援助であれば、結局本人はそれを生かすことができないのである。 ただ、ここで注意しなければならないのは「自己決定」そのものは、クライエント本人の行うことであって、ワーカー側は直接それに関わることはできないということである。他の受容、個別化をはじめとする援助原則は、一般にクライエントと接するに際してのワーカー側が心がけるべきことである。その意味では、われわれはクライエントの自己決定を尊重するしかないということになる。では、クライエントの自己決定に際して我々は「見守る」以外にすることはないのだろうか。
 この問いへの回答はいろいろ考えられるが、ここでは「選択肢」の準備の大切さについて指摘しておきたい。「自己決定」とは複数の選択肢から自ら一つの道を選ぶことだろう。例えば、本章の最初にあげた例のC君についての対応についてもう一度考えてみよう。進学したいが経済的な負担のことでもし、C君が悩んでいるとしたとき、職員が具体的な努力をせず「自分で決めてごらん」といっても、「就職」を選ぶしか道がないだろう。つまり、進学と就職の二つの選択肢のうち一つは現実的には彼にとっては閉ざされてしまっているのである。先の例でも書いたように、高校に進学したいなら経済的負担の大きい私立でも進学可能であるという具体的な選択肢を提示してもらえたときはじめて彼は本当に進学したいのか就職したいのかを自己決定できるのである。

f.秘密保持
これは、すべての援助専門職に共通の原則である。福祉職につく者は、クライエントやその家族のさまざまな秘密に接することが多い。それを、無神経に他人に対して漏らすことが許されないことは当然である。クライエントの人権を尊重するという意味からも、専門的信頼関係を保つという意味からも、秘密保持はもっとも重要な原則であろう。
ただし、これは処遇向上のために、職員会議で議論をしたりすることまでも禁止するものではない。福祉の向上のためには、細心の注意を払った上でクライエントの秘密を専門家間で話題にすることは許される。

2)グループワーク

人間が他人と違う存在であるという点に焦点を当てたとき、ケースワークという方法が生まれた。しかし、同時に人間は家族、学校、職場といった社会集団のなかで影響を受け、育っていることも事実である。そのことに焦点を当てたときグループワークという方法が出てくる。
お互いに相手の顔と名前が一致することが可能な程度の小集団において、さまざまなプログラム活動を行い、それを通してメンバーの抱える問題を解決し成長していこうとするものがグループワークである。集団援助技術等とも呼ばれる。
YMCAやボーイスカウト、地域の子供会等、集団活動を主目的とする活動がグループワーク団体と呼ばれることが多いが、保育所における設定保育の時間にクラスの子ども全体を相手にするプログラムをするときや、老人ホームにおけるサークル活動の時間等も、グループワーク実践の場面ということになろう。
ケースワークも同様であるが、あえてケースワーク、グループワークを実施すべく意図的に参加者を集めプログラムを進行する「構造的」な場面と、施設での介助や保育、在宅におけるホームヘルプなど「非構造的」な援助があることは、意識しておきたい。いつでも、どこでもソーシャルワークは可能なのである。
ケースワークにおいては、一対一のワーカー・クライエント関係が中心となる。もちろんクライエントの家族や友人のことは、話し合いにおける「話題」になることはあるが、ケースワークの実践場面において展開される人間関係はあくまでもワーカーとクライエントの関係である。一元的で密度の濃い専門職的人間関係とでもいえよう。
グループワークにおいても確かにワーカー・クライエント関係はある。ただし、それはワーカー一人に対してメンバーが多数であり、人間関係の密度においてはケースワークよりはるかに薄い。集団援助は、一人ひとりのクライエントとどれだけ深い関係をつくれるかという意味においては、個別援助にはかなわないのである。
しかしグループワークには、それに加えてメンバー同士の人間関係がある。つまり、メンバー同士による励まし合いや競い合いなどといった相互作用が働くことがグループワークの大きな特徴なのである。
例えば、障害児を育てている母親がケースワークを受けているときに、ワーカーにいくら励まされても「先生は、ああおっしゃるけれど、この子を育てている私の気持ちは分からない」といった思いから脱することは容易ではない。それに対して、母親同士が集まる団体である「親の会」に参加した母親は、実際に我が子と同じか、それ以上に重い障害を持つ子どもを抱える仲間(親)の体験談を聞くことで、「私も頑張ろう」といった気持ちを強くすることが出来る。その上で、親同士で教え合ったり、支え合ったりというダイナミックスが働くのである。
つまり、グループワークでは個々のクライエントを大事にしていくことも当然ながら、メンバー同士の相互作用をどれだけ積極的に促していけるかが、ワーカーの重要な仕事になるのである。
グループワークを行なうにあたって、注意しておくべき点をいくつか指摘しておこう。
第1は、「相互作用」の重要性の確認である。グループワークは当然「グループ」という場で行われるのであるが、グループとは何であろう。複数の人々が一カ所に集まっていればグループになるというわけではない。メンバー同士が自由に相互作用を起こしてこそ、励まし合いや競い合いが生じ、メンバーの成長が促されるのである。
ワーカーがクライエント達を前にしていろいろと指図し、クライエントはいわれたことを黙々と実行しているだけ...では、ケースワークの密度の薄いものといったレベルを越えることはできず、グループワークとはいえないのである。
左記の例でもあけだように、メンバー同士が助け合いや競い合いといった影響の与えあいをはじめてこそグループワークなのである。
第2は、グループリーダーとグループワーカーの違いの確認である。グループリーダーとはグループ内の影響力の大きいメンバーのことである。それに対して、グループワーカーはメンバーではなく、グループ外にあってメンバーを側面的に援助する専門家のことである。当然、保母、寮母、指導員等はワーカーである。
グループワークとは関係のない、友達集団等においてもリーダーは存在するが、ワーカーはグループワークにおいて存在するものである。従って、施設でクラブ活動やサークル活動をしているときに、ワーカーである保母や寮母が、自ら率先して「楽しむ」ことに熱中するあまり、メンバーへの配慮を忘れてしまうようなことがあってはならないのである。 逆に、グループ内のリーダーをワーカーは助手的に使ってしまうこともある。これも、注意しなければならないだろう。グループ内でリーダーシップを発揮しているメンバーに対して、ついつい「まとめ役」を任せたり、「問題児」の面倒を見るように頼んだりしてしまうのである。しかし、リーダーといえども、あくまでも彼自身がメンバーであり、グループ体験を楽しむなかでの成長や問題解決を図る必要があることを忘れてはならないのである。
第3はグループワークにおける凝集性の理解である。グループワークのはじめの段階は知らないもの同士が集まりバラバラな状態である。それが、プロセスを経るに従ってだんだんとメンバー同士が仲間意識をもち、一つへとまとまっていくことがグループワークにおいて望ましいことであるように一般的に理解されている。
しかし、本当にそうだろうか。グループワークの対象とする人数がどれくらいになるかによるが、一般的にグループ活動中に意見や思いが一致する範囲は数名程度までである。こういった集団のことをサブグループといい、グループのなかにサブグループが存在するのはいつものことなのである。また、人数がいくら少なくても必ずしも、メンバーの思いが一緒なわけでもない。グループのメンバー全員が無理に心を一つにすることが必要ではないのである。このことを間違うと、グループ内にある、仲良しグループの存在を全体にとって邪魔なものと考えて否定したくなってしまう。しかし、本当に大切なのは、グループ内にいくつかのより密度の高いサブグループがあるとして、それをなくそうとすることではなく、生かそうとすることである。グループ内のいくつかのいくつかの意見の違いが生かされ、協力しあえることこそが大切なのである。

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