梅安の時代


(13)〔神田明神〕  (12)〔鬼子母神〕  (11)〔愛宕山権現〕
(10)〔目黒不動尊〕 ( 9)〔王子権現〕  ( 8)〔護国寺〕   ( 7)〔小野照崎明神社〕( 6)〔待乳山聖天〕
( 5)〔瑞聖寺〕   ( 4)〔欣浄寺〕   ( 3)〔万福寺〕   ( 2)〔不動院〕    ( 1)〔雉子神社〕

[藤枝梅安と寺と社](13)〔神田明神〕
 本編の「さみだれ梅安」の書き出だしは、

 『 「萌葱(モエギ)の蚊帳あ」
  と、ただ一声。
  その、さわやかな蚊帳売りの声に、
  (江戸の夏だな……)         』

 で始まる。初夏の陽光と涼しさを伝え、池波ファンの視覚と聴覚に訴えるビジュアルな書き出しである。
 「守貞慢稿」(東京堂出版:守貞慢稿第一巻 P204)の「蚊帳売」の項には、

『近江ノ冨賈ノ、江戸日本橋通一丁目等、其他諸坊ニ、出店ヲ構フ者アリ。専ラ近江産ノ畳表蚊帳ノ類ヲ、賣ル店也。此店ヨリ、手代ヲ賣人ニ市街ヲ巡ラシム。
--中略--
又、此雇ニハ、専ラ美声ノ者ヲ撰ブ。雇夫、数日之習テ、後二之為。賣詩「萌木ノカヤア」。僅ノ短語ヲ、一唱スルノ間ニ、大略半町ヲ緩歩ス。』

 とある。蚊帳売は、近江商人の手代や雇い人から、美声の持ち主が選ばれ、数日練習して、売りに出る。ゆっくり歩きながら概ね半町(50m)程度に一回売り声を発するとしている。「萌葱(モエギ)」と「萌木」があるが、「萌葱(モエギ)」は、葱が芽生えるときの色で、緑と黄の中間色をいい、「萌木」は芽吹いた木の意味であり、この場合「萌葱(モエギ)」が正しい。
 ところで蚊帳売だけでなく、最近は蚊帳も使わなくなった。これも強力殺虫剤の開発によるものかはいいとして、昭和30年(1955)頃はわが家でも蚊帳を愛用していたが、それからすでに50年近くも経っている。子供の頃あった江戸がますます遠くなっていく。


[藤枝梅安と寺と社](12)〔鬼子母神〕
 「粋」(すい)が上方の言葉に対して、「通」(つう)は吉宗の頃(享保)から江戸で使われ始めた江戸語だそうである。吉原などの遊里や遊興の場で、気も顔もきく「顔も通った粋人」を「通り者」とよび、「通者」から省略されて「通」になったという(中野三敏著 「江戸文化評判記」 中公新書)。
 現在では「粋」は「いき」にかわり、「通」が残っている。「通」のつく言葉は、「食通」、「相撲通」などを思いだすが、「食通」と言えば、料理にくわしく美食家といった意味合いがあり、「相撲通」といえば、相撲界の状況や相撲の歴史などよく知っており、知識・情報の豊かな人といったニュアンスで、料理人や相撲取といったその道の「職業人」といった意味はない。
 ところで、知識をひけらかしすぎると陰で「通ぶって」といわれ恥をかく。知識の深さに限界はないために「生半可な通」と「通」の境界はむずかしい。「通」となるにはその道の専門家と言われる領域に達しているか否かであろう。しかし 「通ぶって」と言われず、恥をかかないために「生半可」は避けたいが、「玄人はだしの趣味」といえばプロレベルの領域に達した「趣味」という意味であり、したがって 一般の「趣味」は「生半可」なものであり、プロのものではない。
 ホームページに「生半可」な話を書くのも「趣味」であることにして許されるべきか。

[藤枝梅安と寺と社](11)〔愛宕山権現〕
 「粋人」(すいじん)という言葉は、広辞苑によれば「@風雅を好む人。A世態・人情に通じた人、さばけた人。」とあるが、最近は眼に触れない言葉である。「いき」を広辞苑で引いてみると「粋」とあり、「意気」から転じた「ことば」とある。  江戸の初期には「粋」は「すい」であり、「いき」という「訓(よ)」みはなかったそうである。当時は「粋」は「水」、「推」、「帥」が宛字として用いられ、中でも「水」が代表する。
 「水」は、丸い器には丸く、四角い器には四角く収まり、常に水は水であり、本質を失うことがなく、見事な平衡感覚が水にはある。このような見事な平衡感覚をもちあわせた人は、
『他人の志向をよく推量するから「推」、そして、そのような人は自然と重んじられて一軍の将帥となるから「帥」であり、それこそは人のなかの人であり、まじりけのない「純粋」な、良質の「精粋」な人の意になって「粋」に落ち着いたと思われる。』
 (中野三敏著 「江戸文化評判記」 中公新書 p87)
 「粋人」に近いことばは「通人」であるが、これもあまり聞き慣れなくなっている。むしろ「遊び人」の方が、いわゆる「ナウイ」言葉かもしれないが、もともと遊里・遊興の場から生まれたことばであり、いつの時代も「遊び」には金のかかるものである。中年サラリーマンの遊びの話題がゴルフ程度であれば、「人の中の人」が生まれる環境はなくなっている。

[藤枝梅安と寺と社](10)〔目黒不動尊〕
 「大江戸日本橋七つ立ち」 、「草木も眠る丑三つ時」、「今日のおやつは、」 といった江戸の時刻の言葉が残っている。「おやつ」の「やつ」は「八つ」。「八つ」は現在の1時から3時であるが、元禄時代は食事は1日2回で、午後の「八つ」どきに空腹から軽い間食をとった。これが「おやつ」の語源であるという。
 1日の始まり(0時)が、「子」。次に「丑」、「寅」、「卯」、「辰」、「巳」、ときて正午(12時)の「午」。正午の前が「午前」、その後が「午後」である。続いて「未」、「申」、「酉」、「戌」、「亥」で1日が終わる。これに「鐘」や「太鼓」の数が、時刻に変化して、0時が「九つ」、2時が「八つ」、4時が「七つ」。これが「大江戸日本橋七つ立ち」 の「七つ」で、朝の4時に日本橋に出発したのが、「七つ立ち」である。
 そして「明け六つ」、午前6時である。8時が「五つ」、10時が「四つ」で、午後の「九つ」にかえる。そして「八つ」、「七つ」ときて、「暮れ六つ」となる。なぜ「三つ」、「二つ」、「一つ」が抜けているのか解らないが、「鐘」や「太鼓」の数から来たとすれば、「一つ」と「二つ」では「聞こえない場合もあるので」ということかもしれない。  「丑」は午前の「八つ」、1時から3時で、これを4つに分けて2時〜2時半が「丑三つ」で、まさしく深夜である。
 「おやつ」の語源が、それが「300年」前の元禄時代(1688-1702)の食習慣と、時刻の「八つ」からきているのは面白い。
[藤枝梅安と寺と社](9)〔王子権現〕
 木場に事務所を持つ知り合いが、私が「鬼平・梅安」のファンであるのを知って、雑誌の「東京人・3月号」 と 「散歩の達人・8月号」 を届けてくれた。「東京人・3月号」 には、特集 「地図があれば東京が広がる」 が組まれ、ページをめくると巻頭に「池波正太郎と切絵図」と題した記事が載っている。「切絵図」は「鬼平犯科帳」や「仕掛人・藤枝梅安」を読み進めるには欠かせない江戸の地図である。
 武家には当時は表札もなかった為に、毎日毎日番町の旗本の役宅に賄賂を届ける人の役宅探しの問い合わせに閉口した商人が、江戸版住宅地図を作ったのが切絵図の始まりというが、後年江戸のガイドブックとして江戸土産にもなっていたという。「散歩の達人・8月号」には、鬼平の話の他に、深川の地名のつく「深川丼」・「深川めし」の話、高橋の「伊せ喜」、桜鍋の「みの家」も載っており、門前仲町、深川、木場の特集である。
 ところで、この「鬼平・梅安」のホームページで愛用にしている地図は、まず人文社の「嘉永・慶応 江戸切絵図」東京地図出版の「東京都・千葉県区分市街地地図帖」、昭文社の「東京都区分地図」である。人文社の切絵図は復刻版で、現在の地図と比較し当時を解説している。東京地図出版の地図には、橋名が他に比べ多く記載されており、江戸切絵図にでている橋名と現代の橋との比較ができ、デジカメをさげて写真を撮りに行くのに重宝である。
 確かに地図が細かく情報が詳細になるほど、江戸・東京が拡がり楽しくなる。
[藤枝梅安と寺と社](8)〔護国寺〕
     店舗 スタンド 計 
千代田区 240 9 249 
中央区 254 10 254
港区 306 4 310
新宿区 280 2 282
文京区 136 2 138
台東区 236 9 245
墨田区 187 0 187
江東区 179 3 182
品川区 187 2 189
豊島区 179 2 181
板橋区 231 2 233
北区 153 0 153
荒川区 104 1 105
 計  2672 46 2718
 前回 守貞謾稿によれば、万延元年(1860)に江戸府内には蕎麦・饂飩屋が3763店あったと書いた。
 当時の江戸府内は、文化13年(1816)の寺社奉行所からの申し渡しによると、「江戸城曲輪内から四里」、東は、砂村・亀戸・木下川・須田村かぎり、西は、代々木村・角筈村・戸塚村・上落合村かぎり、南は上大崎村から南品川宿まで、北は千住・尾久村・滝野川村・板橋の川かぎり、曲輪は「東は常磐橋御門、西は半蔵門、南は桜田門、北は神田橋御門」からであるという。(中公新書 岸井良衛著 「江戸の町」)
 この地名を現在の区部に当てはめてみると、渋谷区を入っていないのが気になるが右表の区部が該当すると思う。前回「当時の府内のエリアに140年後の現在、何軒のそば屋あるか調べられれば面白いと思う。」と書いた。
 「はて、何で調べるか」と考え、今時「そば・うどん屋」に電話もない店もないと思い、思いついたのがNTTのインターネットタウンページである。
 右表はNTTのインターネットタウンページからひろった「そば・うどん店」の数である。タウンページには「そば・うどん店」と「そば・うどん店(スタンド)」に区分されているので、ここでは通常の店(店舗と書いた)とスタンドに区分した。スタンド゙は立ち食いの店ではないかと思うが、街で見かける数の印象からすると少ないように思う。
 ところで 万延元年の3763店と平成12年の2718店。現在が1000店も少ない。確かにファミリーレストランなどが街々でき、商売としては押されていると思うが「そば・うどん店」が特に衰退しているとも思えない。万延のそば屋はそれほど多かったといえるのだろうか。
[藤枝梅安と寺と社](7)〔小野照崎明神社〕
 「江戸のはなし」 を読んだり書いたりするときに江戸時代の風俗・習慣の参考書になっているのが、「守貞謾稿」である。「守貞謾稿」は文化7年(1810)に大阪でうまれた「喜多川守貞」の著書で、全30巻、追補4巻で構成されている。本書は天保8年(1837)に書き始められており、(この年、大坂町奉行所与力・大塩平八郎がいわゆる「大塩平八郎の乱」を起こした。)江戸後期の江戸・京大坂の世態・風俗を克明に描いている。この復刻が東京堂出版より出版されている。1巻6,600円もするので買い渋っていたが、思い切ってインターネットで注文をしてしまった。本が全5冊届いてみると、「カタカナ」文章で、読めない程でもないが、あっさり読み進むわけにもいかない。大きな出費をしたのだから、これをネタにこの原稿を書かなくてはと思っている。
 手始めに「巻之五 生業」の「饂飩蕎麦屋」をあけてみると、「京坂ハ、饂飩ヲ好ム人多ク」とあるのに対し、「江戸ハ、蕎麦ヲ好ム人多ク」とある。人間の嗜好は親から子へと伝えられ100年や200年では変わらないようだ。また 「京坂ノ饂飩屋、繁盛ノ地ニテ大略四五町、或ハ五七町ニ一戸ナルベシ、所ニヨリ、十餘所一戸ニ当ルモアリ」に、「江戸ノ蕎麦屋、大略毎町一戸アリ。不繁盛ノ地ニテモ、四五町一戸也」とある。この町は一町内を意味していると思うが、「万延元年(1860)、蕎麦高價ノコトニ係リ、江戸府内、蕎麦店會合ス。其戸数三千七百六十三店」とあるから、すでに3763店の蕎麦屋が商売しており、これだけでもいまから140年前に、江戸では外食産業が繁盛していたことがわかる。当時の府内のエリアに140年後の現在、何軒のそば屋あるか調べられれば面白いと思う。

[藤枝梅安と寺と社](6)〔待乳山聖天〕
 「おんなごろし」で始まった仕掛人・藤枝梅安の年齢は35歳、その年は寛政11年(1799年)で、今回の話がその翌年とすれば、1800年。今からちょうど200年前の話である。ところで、年末年始、2000年問題で明けたためか、「今年は400年に1度の閏年である」という特徴的な年であるといった話が話題になっていない。
 現在の暦は、1582年2月にローマ皇帝グレゴリオ13世が定めた「グレゴリオ暦」である。「グレゴリオ暦」以前の「ユリウス暦」は、1年を365.25日、4年に1度、366日としていた。正確な1太陽年は、365.24219879日である。「ユリウス暦」は、1年を365.25日、4年に1度閏年としたために、128年で1日暦日が増えてしまうことになる。

 グレゴリオ暦は、この欠点を解決するために、、
 「西暦年が4で割りきれる年を閏年とする。ただし、西暦年が100で割りきれても、400で割りきれない年は平年とする」
としている。これであれば、閏年は400年で97日、約3300年で1日の誤差にしかならないという。

 この「グレゴリオ暦」では、1700年、1800年、1900年は平年、1600年が閏年。1600年は、慶長5年、 家康・三成の「関ヶ原の合戦」の年であったが、日本の「グレゴリオ暦」の採用は明治5年、1872年であり、1600年を閏年にしたのは、1600年以前に「グレゴリオ暦」を採用していた、イタリア、スペイン、フランスなどのカトリック教徒の世界だけである。


[藤枝梅安と寺と社](5)〔瑞聖寺〕
 年末年始のわずかな休暇の中で今回の編を書き始めた。あと十数時間で2000年だが、筆者の使う「日本史年表」(東京堂出版)では、ちょうど200年前の1800年、寛政12年の記事に
 『・伊能忠敬 蝦夷地を測量、・この年、富士山に女人の登山を許す』 とある。
 忠敬の測量は寛政12年の第1次から第10次(文化12・13年の江戸府内の測量)にわたって行われたが、200年前のこの年が伊能測量がスタートする記念すべき年であった。この時、忠敬は55歳。歴史に残る第二の人生である。忠敬含め6人の測量隊は、4月に江戸を出発し、千住、宇都宮、白河、仙台、野辺地、青森を経て、津軽半島の北端の三厩に到着。蝦夷地の吉岡に上陸し、函館、室蘭、襟裳岬、釧路と東海岸を測量・踏破し標津に達し帰路についた。往路と同じ道を測量して戻り、10月に江戸に着く。その旅程距離は3254km(海上を含まず)であったという。
 井上ひさし著の「四千万歩の男」は、伊能忠敬が主人公である。忠敬のモットーは「目の前のことに集中せよ」であったという。
[藤枝梅安と寺と社](4)〔欣浄寺〕
 今回訪れる「欣浄寺(ごんじょうじ)」は、たくさんある京都の寺の中で、梅安の恩師・津山悦堂の墓がこの「欣浄寺」にあることになっている。江戸の「雉の宮」と京の「欣浄寺」が、梅安の物語の拠点といってもよいと思う。右の写真は本文にもある欣浄寺の北側にある墨染寺の山門である。
 梅安は寛政11年(1799年)に35歳というから、11代将軍・徳川家斉の世に生きている。家斉の治世は天明7年(1787)から寛政、享和、文化、文政、天保8年(1837)までの半世紀の長きにわたった。家斉は15歳で将軍になり、65歳で家慶に職を譲り、その4年後の天保12年(1841年)に69歳でなくなっている。天明7年の家斉が将軍についた年に松平定信が老中首座になり、いわゆる「寛政の改革」を始め、天保12年の家斉がなくなった年に、「天保の改革」が始まった。この間に現代の生活習慣に繋がる江戸文化の隆盛をみているといえる。また 家斉は妻妾16人、子供54人を得たという。まさしく大奥はハーレム。家斉は徳川幕府の記録保持者でもある。ちなみに家康も妻妾19人、子供19人であった。
 享保改革[享保1年(1716)]、寛政改革[天明7年(1787)]、天保改革[天保12年(1841)]


[藤枝梅安と寺と社](3)〔万福寺〕

 彦次郎は、こころを許した梅安の仕掛人の相棒である。梅安は品川台町の「雉子の宮」の近くに住んでいるが、彦次郎は浅草・総泉寺の「塩入り土手」に住んでいる。今回は彦次郎が仕掛人になる以前に寺男をしていた「万福寺」を訪れる。この寺は、「江戸名所図絵」の「慈眼山万福寺」に、「馬込村にあり。曹洞宗の禅林にして、梶原平蔵景時創立。」とある。鎌倉時代に建立された寺のようである。

 彦次郎を仕掛人に追い込んだ描写の中に「彦次郎は、馬込八幡の裏の畑で、ひとり、はたらいていた。馬込村は土地の高低が多く、〔九十九谷〕といわれたほどで」とある。 図絵では、小高い丘のうえに万福寺の本堂と庫裡、奥の丘には八幡宮、周囲は田畑で、遠くに農作業をしている様子も描かれている。

 ところで 「江戸名所図絵」は神田の名主であった斉藤幸雄・幸孝・幸成の祖父・父・子の三代が30年以上の年月を費やして、天保7年(1832)全七巻として完成・出版した書籍である。現代版としては、「ちくま学芸文庫」に「市古夏生・鈴木健一校訂」として「新訂江戸名所図絵」 6が出版されている。「慈眼山万福寺」はその2巻のp136に載っている。


[藤枝梅安と寺と社](2)〔不動院〕
 「雉子の宮」についで梅安が登場する舞台は、「おもん」のいる浅草・橋場の「井筒」である。[おんなごろし]の話では、「おもと」は、両国・薬研堀の「万七」の座敷女中で、梅安から「井筒」に誘われてきているが、この話以降は「井筒」の仲居として「おもん」が梅安のお気に入りとして登場する。このシリーズを進める以上、「雉子の宮」についで井筒のある「不動院」を訪れるのが順序であろう。井筒は浅草・橋場で、「不動院」の北側にあるという設定である。不動院は現在の台東区橋場、白髭橋の西詰めにある。
 ところで、本文にでてくる「おもと」の「万七」は、「四代つづいた料理屋で、当主は善四郎」(P20)とあるから、これは「八百善」がモデルではないかと思われる。八百善の当主である四代目の栗原善四郎は、文政5年(1822)の年に「江戸流行・料理通」という料理本も出版し、風流人でしかも経営手腕もたけた人物だったという。(江戸の料理史、原田信男著、中公新書) しかし 「おんなごろし」の万七の当主とはだいぶ違うようだ。

 右の絵は広重の「名所江戸百景」のうち向島側から不動院のある橋場側を遠望した絵で、隅田川はここで大きく西に曲がる。遠くに見える山は筑波山の形をしているが、この方向に本当に見えるかどうかは疑問である。


[藤枝梅安と寺と社](1)〔雉子神社〕

 鬼平犯科帳に登場する「橋」の50橋について、平蔵の時代の橋と現代の橋をすでに見てきたが、このシリーズでは「仕掛人・藤枝梅安」に現れる「寺と社」を訪れることにする。
 梅安は寛政11年(1799)に35歳、平蔵は寛政7年(1795)に50年歳でなくなっているから、梅安は平蔵の手にはかかることなく物語は展開する。
 梅安は「東海道・藤枝の宿」の生まれ。父親に死なれ、母親におきざれにされて途方にくれていたところ、京の鍼医者にすくわれ鍼の修行をした。おんなと間違いを起こし、その女の嘘から針を使ってその女を殺し、仕掛人の道に入っていった。江戸にくだり、表の世界の鍼医者も裏の世界の仕掛人も今回の 〔雉子の宮〕の近く「風雅な構えの小さな家」が藤枝梅安の活躍の舞台になっている。

 右の浮世絵は歌川広重の「東海道五十三次」の藤枝の宿である。