先人、作家、詩人の言葉〜死別の悲しみを癒す名言

Edited & Commented by 中原 憬



癒しの広場


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The EnidのThe Loved Onesを聴きながらどうぞ







あなたのように、一度魂全体を傷つけられてしまったかたは、もうきれぎれの
喜びに安住することはできません。あなたのように味気ない無を感じとったかたは、
最高の霊気を受けて晴れやかになるほかはないのです。

あなたのように死を知ったかたは、神々にまじわってよみがえるほかはないのです。
あなたのお心がわからない人は仕合わせです。あなたのお心がわかる者は、
あなたの偉大さと同時に、あなたの絶望を、わかち持たなければならないのです。


〜ヘルダーリン「ヒュペーリオン」より

「人生を励ます言葉」中野好次著(講談社現代新書)



死の絶望という影を持つ人の魂の深さと、その人に訪れるであろうひとしなみの魂の救いを予感させる言葉です。悲しみや苦しみの試練を通過してきた人には、それだけの魂の光を得て、やがてより広い世界が見えていくようになるのではないでしょうか。








愛し、そして喪ったということは、
いちども愛したことがないよりも、よいことなのだ。


〜テニスン

イン・メモリアムより



その人は、あなたの前から姿を消してしまいました。しかし、それならば最初から出逢わなければよかったと思いますか?
きっとそうではないと思います。お互いが愛し合ったという事実は、死が二人を別つとも、決して変えようのない事実なのです。無論、二人の間には甘い体験もあれば苦い体験もあったと思います。しかし、あなたがこれほど悲しんでいるからには、そこには純粋な愛情があったとことは、間違いないことなのだと思います。

あなたは、その人を愛したのです。そして、今も。−−−そのことは、多くのものを生み出しているはずです。








看脚下 (脚下を看よ)


〜仏果圜悟(「碧巌録」の完成者)

松原泰道著「禅語百選」(NON BOOK)より



「禅語百選」より本文を引用します。



ある夜、五祖法演禅師が、三人の弟子と帰る途中、風のために手にしていた灯火が消えました。すると、法演は弟子達に「一転語を下せ」と命じます。転語とは、さとりの心境を表す言葉です。つまり
 「暗夜を行くには、灯火が何より頼りになる。それが、いま消えたのだ。さあ、お前らはどう行くか、速やかに言え!」ということです。暗夜行路は人生を指します。杖とも、柱とも頼むものを失った今、人生をいかにおくるか、現在の心境を問い詰めるのです。

三人の弟子はそれぞれ自分の力量を述べます。中でも仏果圜悟の「看脚下」の一語が、師の方演の心に適ったのです。「看脚下」−−−足もとをよく見よ、という平凡な言葉です。灯火が消えたら足もとによく注意するのが何より大切です。暗夜行路も禅も脚下−−−自己の凝視から一歩を踏み出します。日常の豊かな生活もそこから始まります。
 (中略)
禅は、自己の中に灯を持つとの教えです。醜悪な自分の心のどん底にも、こころの点火、こころのめざめを呼びかけるのです。はかない人間の命の中に、久遠のいのちを発見せよと教えるのです。



どうか、愛する人を失った悲しみに自暴自棄にならないでください。
自分も死ななければならない、などと考えないでください。
今日一日のつらさだけなら十分に耐えられるものだから、あまり悲観して先を見過ぎることなく、一日一日しっかり足元をみてください。








死んだ時に人を悲しませないのが、人間最高の美徳さ。

〜川端康成

「故人の園」より



あなたはこの言葉に共感したでしょうか?
もし、そうならば、あなたの愛する人に心の中で訊ねてみてください。この言葉に共感するかどうかを−−−。その人も、そうしたかったと答えるのではないでしょうか?

その人は、あなたをこんなにも悲しませたくはなかったはずです。
あなたをこんなにも、辛い目に遭わせたくはなかったはずです。
その人の最期の願いは、この世に残す大切な人達が悲しんだり、苦しんだりしないようにという願いだったはずです。

あまりにひどく悲しみ過ぎることは、その人に心配をかけてしまうことかも知れません。
流れ落ちる涙は自然にまかせ、あるがままに悲しみ、何かにしがみ付かないようにすることが大切だと思います。








悲しみを声に立てなさい。
口に出さない悲しみは荷の勝ち過ぎた心臓にささやいてそれを破裂させる。

〜シェイクスピア

「マクベス」より



涙は心の汚れを流し落としてくれます。しかし、涙を流さないと、心は黒く汚れていってしまいます。
涙を流すことで、溜まった感情を吐き出すことができます。

涙は、心を護ってくれます。








一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、
われわれが与えたものである。

〜ジェラール・シャンドリ

フェデリコ・バルバロ神父 編纂「三分の黙想」より



その人が与えてくれたものは、あなたをこんなに悲しませるほど大きかったのです。

あなたは、奪われたことばかりを思うのかも知れませんが、実際にはあなたはずっと与えられ続けてきたのです。こんなにも大きかったものを。

あなたの人生は、その人の存在のおかげで、愛情に満ちたものでした。幸せでした。
その人の人生は、そんなにも与える人生だったのです。

残念ながら、その人は役目を終えて、天の高みに戻ってしまいました。
あなたは、与えられたものを受け取っています。心の中に。

今度は、あなたが、その人のように生きてみませんか。








時間がやわらげてくれぬような悲しみはひとつもない。


〜古代ローマの政治家、文筆家、哲学者 キケロ



時間の流れが悲しみを癒してくれることを、日本ではよく「時間薬」といいます。

少しずつ、少しずつ気持ちが変わっていくため、短期的にしか見ていない場合、時間の経過とともにさらに落ち込んでいくと嘆く人もいます。でも、大局的に見れば、この薬は、間違いなく悲しみを和らげ、心を癒してくれます。

いいえ、私はこの悲しみを忘れない、この悲しみが減ることはない、と思う人もいるかも知れません。忘れてしまったら、その人が可哀想だから、私は絶対に忘れない、と。

おそらく、このキケロの言葉は、時間の経過によって忘れていきますよ、という単純な意味ではないのです。

確かに、愛する人を思い出す回数は、長い年月とともに減っていきます。でも、愛情の本質は変わるものではないと私は思います。ただただ、純化していくのみです。

時間が果たす最も大きな役割は、人を、その不条理に耐えられるだけの大きさに育てていくことだと思います。愛の本質が変わっていくのではなく、相対的にあなたが悲しみに対して大きくなって、上手に対処できるようになっていくということです。

時間の流れが、若木をいつの間にか見上げる樹木に成長させることと同じです。自然の摂理です。








人生とはその時々に自然に変化し、移りゆくものです。
変化に抵抗してはなりません。
−−−それは悲しみを招くだけです。
現実を現実として、あるがままに受け入れなさい。
ものごとをそれが進みたいように、自然に前に流れさせてやりなさい。

〜老子

スーザン・ヘイワード編、山川紘矢・亜希子訳の「聖なる知恵の言葉」(PHP研究所)より



悶えるような悲しみは、現実を拒むことでもたらされます。
もう、その人が死んでいない、という事実は事実として正面から受け止めないと、いつまでも現実と思い出の狭間(はざま)に囚われることになってしまいます。

その人のためにできること、他の遺された人達のためにできること、そして、何よりも自分のためにできることをこの現実の中で、見つけていってください。

※老子は私のものの考え方に大きな影響を与えました。「無為自然」という言葉どおりに自由な精神でしなやかに生きていけたらと常に思います。








心の平和は、許しを実行できた時にだけ得られます。
許しとは過去を手離すことであり、過去の誤解を解きほどく方法なのです。


〜ジェラルド・ジャンポルスキー

スーザン・ヘイワード編、山川紘矢・亜希子訳の「聖なる知恵の言葉」(PHP研究所)より



その人の死で許せなくなった人は、自分かも知れないし、他の誰かかも知れません。いずれにしても、その人を許すことで自分自身を苦しみから解放させてあげることができると思います。
自分や他人を憎み続けることが、その人の望んでいたことではないでしょう。








立派な生き方をせよ。それが最大の復讐だ。

Live well. It is greatest revenge.


〜The Talmud (ユダヤの聖典「タルムード」)より




愛する人が殺められたとき、自殺に追い込まれたとき、遺族の心は、無念さとともに、激しい恨み、怒り、憎しみで占められてしまうことがあります。

しかし、復讐すれば、心の満足を得られるかといえば、そうではなく、さらに深みに堕ちる行為であることは、自分の心の奥からの声でわかっているものです。
どれだけ苦しんで、葛藤して、心の中がボロボロになっても、最後の一線を越える遺族はほとんどいません。
自分の中の理性や良心がそれを許さないからです。

許されない思いを抱えて長い時間を過ごした人ならば、この言葉に共感できるのではないかと思います。

もちろん、無理に自分の感情を押さえつける必要はありません。いますぐ許すことは土台無理な話です。この言葉は、そうありたいと願う自分の心を再確認させてくれる言葉だと私は思います。

扉をひとつ、開けてくれる言葉ではないでしょうか。








過ぎてかえらぬ不幸を悔やむのは、さらに不幸を招く近道だ。

〜シェイクスピア

「オセロ」より




もう、人生なんてどうでもいい、と当時思ったものです。
そこには、ただ悲しみがありました。その他には何もありませんでした。

生きている意味もないし、生きたいとも思いませんでした。
人生をバカらしい無意味なものと疎んじました。
ただ、懈怠のうちに、死を望みました。
死ぬことだけが救いとさえ思いました。
失うものなど何もないと感じていました。

私が当時気がつかなかったことは、私が悲しみに溺れ、死を望む姿は、私を本気で心配する人の心身にすさまじいプレッシャー掛けていたことです。
さらなる不幸がやってきました。

大事なものを失うところでした。
いまは、残されたものを大切にすることに力を尽くしています。








死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ。

There's something just as inevitable as death. And that's life.


〜チャールズ・チャップリン

映画「ライムライト」より




あなたは愛する人を喪って、生きる意味を見失い、日々、流されるように生きているのかも知れません。
こんな悲しみに満ちた人生はもう、うんざり、と。
もはや、あの人のいないこの世なら、死ぬことしか望みはない、と。

しかし、生、それは避けられないものなのだと、映画「ライムライト」の中でチャップリン演じるカルヴェロはいいます。生きることに絶望し、命を絶とうとした若きバレリーナ、テリーに対して。

この言葉は次のように続きます。



 生命だ 命だ!
 宇宙にある力が、地球を動かし、木を育てる。
 君の中にある力と同じだ!その力を使う勇気と意志を持つんだ!



映画「ライムライト」は人間愛に満ちた名作です。心に希望を灯してくれますよ。







天の父さま


どんな不幸を吸っても

はく息は感謝でありますように

すべては恵みの呼吸ですから


〜河野 進

詩集「ぞうきん」より




作者の河野進はプロテスタントの牧師として活躍する傍ら詩作を続けました。

彼は、岡山ハンセン病療養所での慰問伝道に50年以上たずさわり、インド救ライセンター設立の運動、マザー・テレサに協力する「おにぎり運動」に尽力しました。「玉島の良寛さま」と呼ばれたそうです。

彼の詩は、素朴で純粋な言葉で綴られ、クリスチャンとしての温かさに溢れた作品ばかりです。

人生には思い通りにならず、どうしようもなく不幸と感じることもあります。
でも、そんなときでも、感謝の姿勢が揺るがない、この心の在り方に、ハッとさせられます。

つらい日々もあったことでしょう。でも、自分の不幸を嘆くばかりではなく、すべてを恵みとして受け入れ、周りへの愛へと変えていく強さと豊かさに勇気づけられます。








愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持ちに、ならなけあならない。
奉仕の気持ちに、ならなけあならない。


〜中原 中也「春日狂想」より

「中原 中也 詩集」神保光太郎編(白凰社)に収録




中原 中也は私の敬愛する詩人です。
私のペンネーム中原 憬もこの詩人の名を冠したものです。

中也の詩には、愛する者との死別をうたったものが少なくありません。彼は、愛児を亡くした深い悲しみを胸に秘めていました。やがて、その悲しみは第二詩集「在りし日の歌」という美しい言霊に昇華しました。

彼の詩集は切なさで胸がいっぱいになるので、いまでも少ししか開けません。








(『人間は何のために生きているのですか?』と学生に質問されて)
「他人を喜ばすためです。そんなことがわからないんですか?」


〜アルバート・アインシュタイン




かけがえのない愛する人を失った日から、人生に何の望みもなくなってしまった人もいることでしょう。

いままでの幸せが嘘のように、毎日がつらく、悲しいだけの日々。
何もかもが暗転してしまい、何をしても楽しくない、惨めで暗い生活。人生ってこんなに苦しかったっけ?

いったい、何のために生きていくのか。何のための人生か−−−。
暗闇の中で、何を目指したらよいかのわからず、うずくまり続けているのかも知れません。

そんなときは、このアインシュタインの言葉を思い出してください。
自分のことばかり考えていると辛さが増すばかりです。そう、他人に親切にすることを考えてみてください。

生活を立て直すためのプランや新しい夢は、すぐには生まれないかも知れません。
でも、誰かにちょっと優しくすることぐらいなら、すぐにできるはずです。

そうすると、心に小さなあかりが灯りますし、ほっとできますよ。









私たちの国籍は天にあります


新改訳 聖書より



公園墓地を歩くと、この句を刻んだお墓が幾つもあることに気づきます。
この言葉には、この世を去ってしまった人との再会の願いが込められているように思います。
残されてしまった人が、深い悲しみの中で信仰を支えに心に刻む言葉なのでしょう。

この世は、仮の世でしかないはずです。
愛する人同士が別れなければならない世の中なんて間違えていますし、この溢れる想いが伝わらない世の中なんて間違えています。そして、優しい善き人は幸せに生き続けなければならないと人は自然に思うものです。

人は弱さからあの世を信じるものでしょうか。いいえ、それは直感的にわかるものでしょう。
この世界は、それほど無意味に残酷な世界ではないはずです。
貫かれた純粋な愛情こそが、価値を持つ美しい世界であるはずです。

もし、あの世が「本当」の世界なら、そこで別れた人とも再会できるし、そこで優しい善き人は幸せに生き続けることができることでしょう。この世の方が、一時的な仮の世にすぎないのです。きっと。

そう、聖人は嘘を付かないに違いありません。この言葉は真実なのでしょう。








萬物(ばんぶつ)は
生まれ、育ち、活動するが
すべては元の根に帰ってゆく。

それは、静けさにもどることだ。
水の行く先は−−海
草木の行く先は−−大地
いずれも静かなところだ。
すべてのものは大いなる流れに従って
定めのところに帰る。
 (そして、おお、
 再び甦るのを待つ。)

それを知ることが智慧であり
知らずに騒ぐことが悩みの種をつくる。


〜老子

加島祥造 訳、「タオ−−−老子」(筑摩書房)より



万物はすべて流れゆき、変転し、やがて大いなる根本に帰っていきます。
それは、人の魂も同じではないでしょうか。

人の世の限られた命ののち、何の痛みも苦しみもない、愛に満ちた静かなところで過ごすことは、当然のことのような気がしませんか。

その人は、何も所有していないし、所有もされていないからこそ、すべてと一体として、天の高みで安らかに過ごしているのでしょう。








私はこのようなことをする人生に対して憤らずにはおれません。
私は最も美しいものを生み出すことによって人生に復讐しないではいられません。


〜藤井武(藤井武全集第十二巻、岩波書店)

「生きがいについて」神谷美恵子著(みすず書房)からの孫引き




「生きがいについて」という書籍から引用します。



「こうして彼は妻の死後七年間、自らの死に至るまで、子どもたちをかかえた独身生活の不自由と淋しさに耐え、さらに高く深い信仰生活に飛躍し、長詩「羔(こひつじ)の婚姻」をはじめ多くの文章によってみごとな形而上的世界を創りあげたのであった。」



残酷な運命によって悲しみのどん底に突き落とされても、人は、人生でかくあるべきという信念を貫き通すことができることを彼の生き様は示しています。打ちのめされたままでいることを彼は望まなかったのです。彼は自らが美しいものを生み出すことで、世界の価値を見出していこうと努力をしたのです。








疲れた人は、暫し路傍の草に腰をおろして、道行く人を眺めるがよい。
人は決してそう遠くへは行くまい。

〜ツルゲーネフ




早く立ち直らなくては、と焦ることはありません。
いまは人生で最も困難な局面なのですから、無理は禁物です。
ゆっくりとでも、間違いのないようにすることが大切です。








幸せが訪れても、悲しみにであっても、
心を開いて、それらを味わいなさい。

〜ジョン&リン セントクレアトーマス

スーザン・ヘイワード編、山川紘矢・亜希子訳の「聖なる知恵の言葉」(PHP研究所)より



悲しいときには、自分の感情に正直に、泣いて涙を流すことが大切だと思います。自分に向かい合って、自分の気持ちを確かめていってください。決して悲しみを心の奥に押し込めないでください。

あなたがあなたであるために、自分自身の魂の声に耳を傾けてください。








ほんとうに出会った者に別れはこない

あなたはまだそこにいる

目をみはり私をみつめ くり返し私に語りかける

あなたとの思い出が私を生かす

早すぎたあなたの死すら私を生かす

初めてあなたを見た日からこんなに時が過ぎた今も


〜谷川 俊太郎

詩 谷川 俊太郎, 絵 田中 渉 「あなたはそこに」 (マガジンハウス)より



「あなたはそこに」は、四節からなる詩で、掲載した部分は最終節です。
この部分だけからは想像しにくいのですが、本の帯のコピーにあるように、これは「世界でいちばん短い恋愛小説」なのです。
人を愛することの切なさで胸がいっぱいになる美しい作品です。







一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

〜ヨハネによる福音 十二章二十四節より



人が生きて、死ぬこと、その意味を示唆する深い言葉です。




あなたの心に響く言葉がありますように



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