マイクル・カンデル『キャプテン・ジャック・ゾディアック』(ハヤカワ文庫SF)訳者あとがき






 舞台は世紀末のアメリカ、大都市郊外に位置する中流階級の住宅街。フロンガスによるオゾン層の破壊で有害な紫外線が降り注ぎ、温室効果のおかげで気温は上昇の一途、清掃業者のストライキで町にはゴミが山積み。ついでに核戦争まで勃発する悲惨な世界で、今日も渋滞にめげず会社へと向かう勤勉なサラリーマンたち……。

近未来アメリカの"ふつうの人々"の生活をブラックユーモアに包んで描き出す本書『キャプテン・ジャック・ゾディアック』は、一九九二年四月にバンタム・スペクトラからペーパーバック・オリジナルで刊行されたマイクル・カンデルの第二長編 Captain Jack Zodiacの全訳。邦訳では順序が逆になってしまったけれど、『図書室のドラゴン』(ハヤカワ文庫FT既刊)のひとつ前の長編にあたる。

『図書室のドラゴン』がファンタシーの道具立てを使った風変わりな成長小説だったように、本書は伝統的なSFの道具立てを使った風変わりなスラップスティック・ブラック・コメディ。カート・ヴォネガットの短篇「ビッグ・スペース・ファック」やマーク・レイドロー『パパの原発』(ハヤカワ文庫SF)、あるいはポール・セルーの異色近未来小説『O‐ゾーン』(文藝春秋)を思い出す人もいるかもしれない。タガのはずれ具合、破滅的なギャグ、崩壊の危機に瀕した"家族"の問題が中心にある点などは、ブライアン・ハーバートの怪作『消えたサンフランシスコ』(ハヤカワ文庫SF)とも共通する。
 もっとも、『図書室のドラゴン』をお読みの方ならご承知のとおり、カンデルの性格の悪さは折紙つき。
 なにしろ本書では、温室効果と化学薬品の相乗効果による突然変異で知能を持った芝生が人間に襲いかかり、ティーンエイジの男の子たちは非合法ドラッグで宇宙空間へトリップしてBEMたちと戦い、スーパーヒーローはマスコミの袋叩きにあい、黒のトークンで地下鉄に乗れば死後の世界を訪問できる。物語の冒頭で勃発したロシアとの核戦争はえんえんつづいている(らしい)のに、登場人物たちは戦争のおかげで今日も渋滞がひどいとぼやくばかり。
 一応主人公格のクリフォードにとっても、核戦争の帰趨より、恋人の父親に会いにいくことのほうがはるかに重要というていたらく。井上陽水はかつて、都会じゃ若者の自殺が増えてるけど、今日の雨のほうが問題で、傘がないから困った困った――てな意味の歌をを歌ったけれど、本書の場合、
「都会には核爆弾が落ちてきた。空が白く輝いている。けれども問題は今日の渋滞。きみに会いに行かなくちゃ」
 てな感じなのである。社会問題より個人の生活を上に置くという正しいSFにあるまじき態度で、むしろ現代小説っぽい印象があることはたしか。もっとも、コミックブックから抜け出したみたいなスーパーヒーローだの、格闘技の達人たるサヤエンドウ型異星人だの、小熊座行き銀河鉄道だの、サイエンス・フィクションの世界からコラージュされた小道具がちりばめられることで一種の異化作用が働き、現代文学の範疇にもおさまりがたいなんとも奇天烈な小説になっている。
 
 さて、本書の翻訳中に参加した九三年度の世界SF大会コンフランシスコで、著者のカンデル氏に会う機会があった。現役編集者兼翻訳者兼新進作家ということで、「言語:障壁か架け橋か」「SF/ファンタシーにおける文学的技法の使用」など、各種のパネルディスカッションにひっぱりだこ。
 その合間を縫ってティールームで聞いた話によると、マイクル・カンデルはニューヨークのハーコート・ブレイス社に勤務する編集者。ギュンター・グラスやガルシア・マルケスなど、主に海外文学の編集を担当しているとか。そのかたわら、スタニスワフ・レムを翻訳し、小説も書くマルチタレントなのだが、前述の「文学技法」パネルでは、やおらジェイムズ・シュミッツの文体の魅力について力説しはじめたSFおたくでもある。ま、ジャンルSFに対する愛着は、『図書室のドラゴン』や本書からも明らかだけど、ストレートではなくじつに屈折したかたちでその愛情が表現されているところがカンデルらしさといえるかもしれない。
 なお、現在執筆中の新作長編は、「読み返してみたらあんまり深刻そうなのでいやになって」半分近く書いたのを放り出し、最初から組み立てなおしているとのこと。まあいわゆるベストセラー作家には縁遠いタイプであることは作品からも明らかだけれど、こういうへんな人がアメリカSF界にひとりくらいいてもいい。天邪鬼な訳者としては、この天邪鬼な作者がつぎにどんなへんてこりんな小説を書いてくれるのか、首を長くして待っているわけである。

1994年1月 大森 望   



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