『航路』訳者あとがき


   訳者あとがき

大森 望  




 読者としての個人的立場で言えば、小説の帯に『心揺さぶる感動の名作』とか書いてあると「けっ、そう簡単に感動してたまるかよ」と反発するほうだし、訳者あとがきに「ひとりでも多くの人に読んでほしい」みたいなことを書くのもなんだか押しつけがましい気がする。
 しかし、この『航路』に限っては、それを承知であえてこう言いたい――「心揺さぶるこの感動的な傑作を、ひとりでも多くの人に読んでほしい」と。
 少なくとも、ぼくがこの十数年で訳してきた四十冊近い本の中では、この『航路』がまちがいなくベストワン。そりゃま、鬼面人を驚かすアイデアとか、リリカルな異世界描写とか、一点突破的に大好きな作品はほかにもいろいろあるけれど、総合力(リーダビリティ、キャラクター、プロット、ストーリーテリング)で考えれば、この『航路』を凌駕する作品はそうそうないだろう。掛け値なしに、これこそ十年に一度の傑作≠ニ呼ぶにふさわしい小説だと思う。訳者じゃなきゃもっと心おきなく絶賛できるのにと悔しい気がするくらいである。

 コニー・ウィリスの新作のサンプル本が来てるんですけど――とソニー・マガジンズ編集部の鈴木優氏から電話があったのは二〇〇一年春のこと。ああ、これが数年前ウィリスにインタビューしたとき執筆中だと言ってた臨死体験サスペンスか――と思いつつ、届いた原書をぱらぱら読みはじめたとたんページを繰る手が止まらなくなり、あらゆる仕事を放り出して十時間ぶっ通しで読みつづけ、それでもこの長さなんで半分しか読めず、三日がかりで読了したときには、コニー・ウィリスの最高傑作どころか、医学サスペンスの最高傑作、現代エンターテインメントのオールタイムベストにもランクする傑作だと確信していた。
 たいていの泣かせ≠ノは動じないと自負しているこのぼくでさえ、58章のラストでは不覚にも涙をこぼしそうになった――というのは、年のせいで涙腺がゆるんできたせいじゃないと思う。もともとウィリスは泣かせの技術でも定評がある作家で、『ドゥームズデイ・ブック』のときは、泣く子も黙るミステリ評論家・新保博久氏をして「あれには泣かされましたネ」と言わしめたくらいだが、その技術はさらに向上し、『ドゥームズデイ・ブック』の三倍は泣ける感動作になっている。ただの感動作なら「けっ」とそっぽを向くところだが、ここまで高度な小説技術を見せつけられると素直に参りましたと脱帽するしかない。
 不幸にしてウィリスの作家的実力を知らない読者の場合、これだけの長さの本を読みはじめるのは相当の勇気を必要とするだろうけれど、費やす時間に見合う値打ちががあることは(訳者としてではなく書評家として)保証する。
 この小説は、だれが読んでも絶対に面白い。

 というわけで、本書『航路』は二〇〇一年四月にバンタム社から刊行されたコニー・ウィリスの最新長編、PASSAGEの全訳である。
 メインテーマはNDE(near-death experience)、すなわち臨死体験。暗いトンネルを抜けるとまばゆい光が見え、死んだはずの家族や親戚が出迎える――というのがNDEの典型的なパターンで、天使や神と出会ったり、手術台の上に浮かぶ体外離脱体験を報告する患者も少なくないという。
 立花隆のノンフィクション『臨死体験』(文春文庫)によれば、

 臨死体験というのは、事故や病気などで死にかかった人が、九死に一生を得て意識を回復したときに語る、不思議なイメージ体験である。三途の川を見た、お花畑の中を歩いた、魂が肉体から抜けだした、死んだ人に出会ったといった、一連の共通したパターンがある。
 臨死体験とはいったい何なのか。その意味づけと解釈をめぐってさまざまの議論がある。
 一報には、これをもって死後の世界をかいま見た体験であるとし、臨死体験は魂の存在とその死後存続を証明するものであるとする人がいる。他方では、臨死体験というのは、生の最終段階において弱りきった脳の中で起こる特異な幻覚にすぎないという人がいる。

 日本語版への序文でウィリス自身も書いているように、本書の主人公たちはもちろん後者(幻覚説)の立場をとる(ただし、前者の立場を代表する敵役の人物も登場する)。
 臨死体験をモチーフのひとつとする瀬名秀明の小説『BRAIN VALLEY』(角川文庫)では、作中人物の孝岡が、
「もし臨死体験やアブダクションといった超常体験が脳内の生理作用なのだとしたら、こういった内因性の神経伝達物質によって幻覚が発生していることになる」
 と語るが、基本的にはそれとおなじく、科学的・医学的な立場から臨死体験の謎にせまってゆく。

 物語は二〇〇一年一月、若い認知心理学者の主人公ジョアンナ・ランダーが、コロラド州デンヴァーのマーシー・ジェネラル病院で、臨死体験者の対面聞きとり調査をしている場面から幕を開ける。彼女の目的は、臨死体験の仕組みを科学的に解明すること。しかし、同じ病院には、ジョアンナの天敵とも言うべき男がいた。あの世の実在を証明≠キるトンデモ系臨死体験本を大ヒットさせたノンフィクション作家、モーリス・マンドレイクが、次作の取材のため長期滞在中だったのである。
 マンドレイクと面接調査の先陣争いを繰り広げる最中、ジョアンナは神経内科医のリチャード・ライトから、臨死体験プロジェクトの共同研究を持ちかけられる。リチャードは、ジテタミンと呼ばれる神経刺激薬によって擬似的な臨死体験を誘発できることを発見し、被験者が報告する幻覚体験を本物の臨死体験と比較対照するため、ジョアンナの助力を必要としていた。
(余談ながら、増築・改築を重ねて迷路のような構造と化した病院内でのすれ違い劇と、ふたりがマンドレイクから隠れて階段室に潜む場面は、シチュエーション・コメディとしても絶品。リチャードが白衣のポケットから次から次へと食べものをとりだすギャグはその後も何度となくくりかえされる)。
 ジョアンナはその申し出を受け、臨死体験をシミュレートする実験に参加する。しかし、リチャードが調達したボランティアたちは、次々に不適格であることが判明。暗礁に乗り上げた研究プロジェクトを救うため、ジョアンナはみずからが被験者となることを申し出る。しかし、ジテタミンを投与されたジョアンナが疑似臨死体験の中で赴いたのは、思いもよらぬ#実在の#場所だった。わたしはこの場所をたしかに知っている。でもどこだったのか、どうしても思い出せない……。
 ただの幻覚だから思い出せなくて当然だというリチャードに反発し、その場所がどこなのか、なぜ自分がその場所を知っているのか、必死に記憶を探りはじめるジョアンナ。とうとう突き止めた答えは、まったく予想もしないものだった……。

 ヒロインが臨死体験で赴く場所はどこなのか? この謎をめぐって展開する第一部は、(犯罪の起きない)医学ミステリ的な展開。心臓発作で死亡した男がいまわの際に言い残した「五十八」という言葉はなにを意味するのか? なぜそれが、思い出せない記憶と関連している#気がする#のか?
 もうちょっとで思い出せそうなのに思い出せない――そのもどかしさだけでぐいぐい話をひっぱっていく語りの技術は絶品だ。その合間にさまざまな手がかりと伏線をちりばめながら、小説はジョアンナの閉ざされた記憶に迫ってゆく。
 比較的ゆったりした展開の第一部に対し、ジョアンナが臨死体験で赴く場所がどこなのか明らかになった第二部からは加速度的にテンポが上がり、コミカルなシーンを随所に交えつつ、やがて怒濤のクライマックスへ雪崩れ込んでゆく。非常階段を駆け上がり、連絡通路を走り、エレベーターに飛び込み、大病院と臨死体験の迷路を必死に行き来するジョアンナ。鳴り響く心停止アラームとポケットベル……。
 このあたりの展開は、文字どおり、ページを繰る手ももどかしいほど。そして第二部のラストで待ち受ける、前代未聞空前絶後の大どんでん返し!
 あとから考えてみるとたしかにいろいろ伏線は張ってあるのだが、原書で読んだときは、あまりのことにしばし茫然としたものである。

 ここでちょっと脱線すると、じつはこの本を訳している最中、SF翻訳家の山岸真氏から、《本の雑誌》の先取り書評コラム用に原稿を読ませてほしいという依頼があり、第二部まで仕上がっていた訳稿をメールで送ったんですが、二日後に電話してきた山岸氏いわく、
「ここまでしか読めないのは拷問だから一刻もはやくつづきをメールしてくれ!」
 編集者からじゃなく、同業者から原稿を催促されるのもめずらしい。
 これは山岸氏に限った話じゃなくて、医学的な描写をチェックしてもらうため、新潟に住む友人の神経内科医・今村徹氏のところに原書ペーパーバックと訳稿を順次送ってたんですが、今村氏の奥さん(年季の入ったSFファンで、しかもジョアンナと同じ心理学者)も横からその訳稿を読み、なかなか第三部が届かないのに業を煮やして(翻訳が遅くてすみません)続きは原書で読んでしまったとか。
 いやまったく、第三部は袋綴じにして《返金保証》をつけてもいいと思ったくらいで、この小説を読むのを途中でやめられる人は自分の意志力に自信を持っていいと思う。

 閑話休題。
 そして問題の第三部では、綱渡りの魔術師空飛ぶワレンダ一家≠烽ヘだしで逃げ出すアクロバティックな大技が炸裂するのだが、ウィリスは前人未踏の見えない道を軽々としたステップで歩き、みごと華麗な着地を決めてみせる。こんな奥の手があったとは……。
 クライマックスでは、四百字詰め原稿用紙にして二〇六〇枚にわたる枚数を費やして積み上げてきたすべての要素――病院の構造、アルツハイマー病、世界の災害、著名人の臨終の言葉、英文学からの引用、映画談議などなど――が有機的にからみあい、重層的なメタファーとなって立体的に立ち上がり、死≠フ真実が明かされる。そして感動の結末が訪れる。

 ほとんど完璧に構築されたこのプロットと圧倒的なストーリーテリングの力は特筆に値するが、この長丁場を飽きさせないのは登場人物の魅力も大きい。
 誤解を恐れずに言えば、ウィリスはエンターテインメントの古典的な文法に則った類型的キャラクターの使い方が抜群にうまい作家だ。主人公のジョアンナとリチャードはあくまでストレートな主役らしい主役キャラだし、敵役のミスター・マンドレイクやミセス・ダヴェンポートは(コミカルな誇張を含めて)典型的な悪役キャラ。
 重い心臓病で何度も心停止を経験し、長期にわたって入院している災害おたくの少女メイジー(世界の災害を集めた本をかたっぱしから読むのが趣味)は、勝ち気で聡明なおませな女の子<^イプ。ERに勤務するジョアンナの親友ヴィエルは、世話焼きで実際的なヒロインの友人≠フ典型キャラだし、ジョアンナの高校時代の恩師はあくまで先生らしく、リチャードに色目を使う看護婦のティッシュは軽い脇役タイプという具合。
 どういうキャラなのかがだいたいひと目で了解できるわかりやすい人物ばかりをそろえながら、ウィリスはそうした類型の持つ可能性を最大限に引き出し、感動的な物語を紡ぎ出す。シェイクスピアとジェイン・オースティンが大好きで、二〇世紀の小説にはあまり興味がないと広言するウィリスらしいというべきか。
 キャラクターに対する素朴な信頼感が根底にあるおかげで、設定やテーマになじみのない読者でもすんなりと物語に入っていくことができる。異常心理サスペンスやノワールの流行で、現代エンターテインメントにおけるキャラクターもずいぶん様変わりしているけれど、ウィリスはむしろ昔気質の作家なのである。

 ……と、話が先走ってしまったが、このへんで著者の経歴と作風について簡単に紹介しておこう。
 コニー・ウィリス(コンスタンス・E・ウィリス)は一九四五年コロラド州デンヴァー生まれ。教職のかたわらぽつぽつと短編小説を書きはじめ、一九八二年の「クリアリー家からの手紙」でネビュラ賞を、「見張り」でヒューゴー賞・ネビュラ賞両賞を受賞(いずれも短編集『わが愛しき娘たちよ』ハヤカワ文庫SFに収録)。それを機にフルタイム・ライターとなってからは、ありとあらゆるSF賞を総ナメにする活躍を見せ、アメリカSFの女王≠フ座を獲得する。
 一九八七年、南北戦争をテーマにした第一長編『リンカーンの夢』(ハヤカワ文庫SF)ではジョン・W・キャンベル記念賞を受賞。一九九二年には、四年の歳月を費やしたタイムトラベルSF大作の第二長編『ドゥームズデイ・ブック』を発表、SF界の三大タイトル、ネビュラ賞、ヒューゴー賞、ローカス賞のトリプルクラウンに輝き、さらに#月経#をテーマにした爆笑コメディ短編「女王様でも」(SFマガジン九四年一月号に訳載)で同年の短編部門で三巻同時受賞を達成。ウィリス時代≠フ到来をまざまざと示すことになった(二部門同時トリプルクラウンは、あとにも先にもウィリスのこの例しかない)。
 ちなみに、これは山岸真氏に言われて気がついたのだが、まだ駆け出しの新人作家だった一九八二年、ウィリスは「救難信号」Distress Callという十ページほどの短編を書いている(The Berkley Showcase Volume 4 初出。短編集未収録・未訳)。本棚の奥からひっぱりだして読んでみると、これは、本書第二部の鍵を握るモチーフとアイデア(ブライアリー先生の例の授業部分)を独立したホラーに仕立てたような短編。つまり、ウィリスにとって本書は二十年ごしのアイデアをついに開花させた長編だということになる。

 SF界での圧倒的な人気を背景に、コニー・ウィリスはふつうSF作家と見なされているが、長編に関する限りSF性は希薄で、奇抜なアイデアを核心に据えることも、はるかな未来や宇宙の彼方を舞台に選ぶこともない。本国では、SFは苦手なんだけどウィリス作品だけは必ず読むという読者も多い。
 時間SF大作『ドゥームズデイ・ブック』(早川書房《夢の文学館》刊)でも、タイムトラベル理論がくわしく検討されることはなく、ペストの蔓延する十四世紀に手違いで送られてしまった史学科の女子学生が悲劇に直面する歴史小説的なパートと、なんとか彼女を救出しようと奔走する近未来オックスフォード大学の歴史学教授のパートが中心になる。ちなみにこういう二元中継スタイルはウィリスの得意技で、本書ではそれが現実/臨死体験の関係に置き換えられている。『ドゥームズデイ・ブック』でくりかえし出てくるせりふ、「ほうぼう捜しまわったんですよ」が本書にもさりげなく使われていたり、手法的にも類似点が多いので(もちろん、話の中身はまったくなんの関係もありませんが)本書を気に入った方は『ドゥームズデイ・ブック』もご一読をお薦めしたい。
 その姉妹篇にあたる『To Say Nothing of the Dog』は、ジェローム・K・ジェロームの名作『ボートの三人男』を下敷きにしたヴィクトリア朝タイムトラベル・コメディで、奇妙なタイトルは『ボートの三人男』の副題に由来する(ので、丸谷才一訳に従えば『犬は勘定に入れません』となる)。こちらは、密室状況で消失した邪悪な飾り台をめぐる本格ミステリ風の趣向もあり(半分ギャグですが)、ミステリおたくの登場人物がドロシー・セイヤーズやクリスティをひんぱんに引用する。
 また、CGの発達で生身の役者が絶滅してしまった近未来のハリウッドを舞台にした『リメイク』(ハヤカワ文庫SF)は、映画業界の片隅でバイトに明け暮れる冴えない若者が、ミュージカル映画に出たいと願うヒロインと出会う古典的なボーイ・ミーツ・ガールのラブストーリー。
 このへんの作品は一応SF設定だが、未訳のBellwetherは、サンタフェ研究所みたいな民間の研究所を舞台にした(サイエンス・フィクションならぬ)サイエンティスト・フィクション。流行(ティラミスとかパワー・レンジャーとか)がなぜ生じるかを研究している女性社会学者と、カオス理論を研究している男性物理学者を軸にした爆笑のラブコメディで、SF要素はまったくない。
 抜群のストーリーテリング、生活感あふれる日常描写、SFになじみのない読者でも抵抗感のない語り口、おまけにいろんな賞を山のように受賞していることまで含めて、訳者はつねづね「コニー・ウィリスはアメリカの宮部みゆきである」と主張しているのだが、そう思って読むと、さしずめ『ドゥームズデイ・ブック』は『蒲生邸事件』だし、『航路』の(長さじゃなくて)小説構造は――とくに第二部と第三部の関係が――『模倣犯』を連想させるところもある。
 その意味で、ウィリス作品はSF読者だけではなく、広く一般読者にもっと読まれていいんじゃないかと思う。

 なお、日本では、前述の『To Say Nothing of the Dog』二〇〇三年前半に早川書房より刊行予定。
 ウィリス自身は、ロンドン大空襲(短編「見張り」や『To Say Nothing of the Dog』でも扱われていたウィリスお気に入りの題材)をテーマにした長編と、ロズウェル(そう、宇宙人で有名なあのロズウェルです)を舞台にした長編を準備中とのこと。

 最後に翻訳について。訳者が過去に翻訳した小説の中で最長の作品ということもあって、半年間の翻訳作業中は(臨死体験とまでは行かないものの)、スキャンをにらみつづけるリチャードさながら、ひたすら液晶ディスプレイをにらんでキーボードを叩きつづける毎日だった。
 第二部を訳了した時点でFIFAワールドカップ2002観戦のためまるまる一カ月仕事が中断するというアクシデント(?)にもかかわらず無事にここまで漕ぎつけたのは、メールで的確な催促と励ましを与えてくれたソニー・マガジンズ編集部・真山りか嬢の義務の範囲を超えた献身的な助力≠フ賜物である。翻訳の機会を与えてくれた鈴木優氏、綿密にゲラをチェックしてくれた校正・校閲担当の阿部久美子氏と斎藤なが子氏にも合わせて感謝したい。
 また、前述のとおり、医学的描写に関しては、神経内科医のドクター・イマムラこと、新潟医療福祉大学医療技術学部助教授の今村徹氏に貴重なアドバイスをいただいた。架空の設定上疑問点は、メールで著者に問い合わせ、懇切丁寧に回答していただいたばかりか、この日本語版への序文も寄せていただいた。記して感謝する。
 ついでに「いったい『航路』の医学的な話はどこまでほんとなの?」という疑問をお持ちのかたのために解説しておくと、作中に出てくるRIPTスキャン(実在のPETスキャンを超進化させた夢のシステム)および疑似臨死体験を誘発する薬剤ジテタミンは著者の創作。それ以外は(側頭葉刺激による幻覚などを含めて)おおむね既存の医学的知見や技術が使われているが、神経伝達物質のθアスパルシンは架空の存在。さらについでにいうと、作中に登場する数々の映画もおおむね実在の作品なので、翻訳にあたっては日本公開時の(あるいはビデオ化時の)邦題を使用したが、ごく一部、架空の映画も混じっていることをお断りしておく。
 本文中の膨大な引用に関しては、既訳のあるものはなるべく参照してその訳文を使用させていただく方針をとった。シェイクスピア作品はグーテンベルク21刊の大山俊一訳を、聖書については新共同訳を主に使用。『老水夫行』は上島建吉編訳の岩波文庫『対訳コウルリッジ詩集』から(ただし同書の訳題は「古老の舟乗り」)、クリストファー・マーロウ『フォースタス博士の悲劇』は千葉孝夫訳『マルタ島のユダヤ人/フォースタス博士』(中央書院)から、 ウォルター・ロード『タイタニック号の最期』はちくま文庫版の佐藤亮一訳から、それぞれ引用させていただいた。
 翻訳中にお世話になったその他の参考文献は(ネタバレの恐れもあるので)ここでは明示しないが、著訳者の方々に感謝したい。
 本作品に関するウィリスのインタビューや海外の書評、作品リストなどについては、訳者のウェブサイトに紹介コーナーを設けたので(http://www.ltokyo.com/ohmori/willis/)、興味のあるかたはそちらを参照していただきたい。

二〇〇二年九月、訳者





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