◆十年に一度の大傑作、『ウォッチメン』が凄すぎる!(大森望/1998年11月)




 十年に一度の超弩級大傑作、アラン・ムーアの『WATCHMEN』がついに邦訳された。その名も『ウォッチメン日本語版』(発行メディアワークス/発売主婦の友社)★★★★★。

 だってアメコミでしょ。スーパーヒーローでしょ。興味ないもんね。という人こそ、この本を読んでその認識不足を猛省してほしい。アメコミの読み方がよくわからなくて話に入れない――という文化的障壁に直面したら、とりあえず、作中作として挿入されるテキスト、『仮面の下で』の抜粋をじっくり立ち読みしてみること。ライターのアラン・ムーアがただごとではない才能の持ち主であることがたちどころに了解できるはず。

 大友克洋『AKIRA』とジェイムズ・エルロイ、スーパーマンとノワールが合体したこの傑作は、一九八六年から八七年にかけて、全十二話が分冊形式(いわゆるアメコミスタイル)で刊行され、八八年のヒューゴー賞に輝いた。アメリカンコミック史上の最高傑作というだけでなく、SFとクライムフィクションの歴史に燦然と光り輝く、八〇年代ポップカルチャーの代表作。じっくり読めば一週間かかる密度と質を考えれば、三八〇〇円は高くない。

 舞台は、ニクソンがいまだ大統領の座にしがみついている一九八五年のアメリカ。コスチューム姿のヒーローたちが実在し、犯罪者と戦う"もうひとつの世界"。ただし、物語の時点ではすでに民間のヒーロー行為(ヴィジランティズム)が法律で禁止されて久しく、かろうじて政府直属の二人が公的に活動しているだけ。おりしも、引退した元ヒーローたちが連続して襲われる事件が発生する。憑かれたような情熱でゲリラ的な非合法自警活動を続けていた仮面の男ロールシャッハは単身、調査に乗り出す……。

 SF読者なら、この設定で《ワイルド・カード》を思い出すかもしれない。しかし、彼らウォッチメンは、(Dr.マンハッタンを唯一の例外として)超能力を持たない生身の人間。ふつうの男女が奇怪なコスチュームをまとって犯罪者を狩る行為のばかばかしさは、作中でも再三指摘される。いわば彼らは、ハードボイルド・ヒーローのカリカチュアでもある。単純な正義が存在しなくなった時代、ヒーローの生き延びる道は残されているのか(たとえばあなたが異常心理サスペンスや犯罪小説の愛読者なら、ロールシャッハの狂気をめぐる第VI章「深淵もまた見つめる」だけでもまず読んでほしい)。

 そうやって、現代の私立探偵小説やハードボイルドが抱える問題と正面から格闘しつつ、アラン・ムーアは最後に驚天動地のSF的結末を用意する。十年ぶりに読み返しても、傑作だという確信は揺るがない。

 ただし、『ウォッチメン』は読者の側にも主体的な努力を要求する。

 文章を一行ごとに解読しなければならない小説が多くないように、ひとコマずつ綿密に検討することを要求するマンガも多くない。ほとんどの娯楽小説と同様、ほとんどのマンガはリーダビリティを競う。はやく読めるマンガが良いマンガなのである。

 だが、『ウォッチメン』はその対極に位置している。ひとコマごとに立ち止まり、そこに記された文字と絵の意味を考えることを読者に強制する。ほとんどアイコノグラフィカルな手法が駆使されていると言ってもいい。

 たとえば第V章を見てみよう。FEARFUL SYMMETRY(恐怖の対称形)と題されたこの章では、徹底的に対称性が追求される。

 カバーは、水たまりに映るRumRunner(「酒の密輸船」の意味がある)のネオンサイン。Rと逆Rを組み合わせて髑髏に似せたこのロゴ(の鏡像)は、この章を通じて対称性のキーモチーフとなる。1ページ目の最初のコマと最終ページ最終コマは、どちらもカバーと同じ、水たまりに映るRRの絵柄。

 さらに、中央の見開き(分冊中綴じのオリジナル版では、センターフォールドにあたる部分)は、Vの字(VeidtのVであると同時に、第V章のVでもある)を中心に、左右対称の構図をとる。ページをまたがるコマが全巻を通じてこれひとつしかないことにも注意したい。

 この章だけに頻出する特徴的な絵柄もある。11ページ3コマめの「ロールシャッハが両手で広げるマスク」は、ガンガ・ダイナーのメニュー上にケチャップで描かれたロールシャッハ図形にモーフィングし、さらには「両手で広げる新聞」、「両手でつかむ帆桁」、「両手で広げるメモ」と、同様のシンメトリカルな構図が微妙にかたちを変えながら反復されてゆく。それはもちろん、『ウォッチメン』第V巻を両手に持って読み進む読者自身の目に映る光景の鏡像にほかならない。

 多重的な意味を与えられているのはグラフィックだけではない。『ウォッチメン』では、ひとつの単語が無数のコノテーションを持つ。

 たとえば第IV章。章題の「WATCHMAKER」はアインシュタインからの引用だが、生物を時計に、神を時計職人になぞらえた一八世紀英国の神学者ウィリアム・ペイリーの論考(リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人』にも出てくる)が下敷きになっている。Dr.マンハッタンは、Watchmanであると同時にWatchmaker=神でもある。その視点から語られるこの章は、時系列がばらばらに解体されている。『スローターハウス5』の主人公、ビリー・ピルグリム同様、Dr.マンハッタンも一種の痙攣的時間旅行者で、ドレスデン無差別爆撃がビリーに影を落としていたように、Dr.マンハッタンには広島の原爆が影を落としている。

 そもそも彼が原子レベルにまで解体されるきっかけをつくったのは、ジェイニーの壊れた腕時計だが、その時計を壊したのは、「太った男」。つまり、時計に憑かれたリトルボーイ(広島原爆のコードネーム)が、ファットマン(長崎原爆のコードネーム)のおかげでWatchmakerに変身するわけだ。「Dr.マンハッタン」の名の通り、心ならずも“歩く核”となった彼は、その立場を強く自覚し、ひたいに水素原子のマークを記す。「世界に平和をもたらす水爆」という矛盾。そしてもちろん、核の抑止力は長つづきしない。

 ……以上はほんの一例。『ウォッチメン』は何度でも読み返すことができるし、そのたびに新しい発見を与えてくれる。SFファンが一生で一冊だけアメコミを読むとすれば、手にとるべき本はこれだ。必読。




(初出〈本の雑誌〉1999年1月号。大幅加筆した太田出版『現代SF1500冊 回天編 1996〜2005』より抜粋し、加筆訂正)








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