『特盛! SF翻訳講座――翻訳のウラ技、業界のウラ話』





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カバーデザイン:岩郷重力 挿画:とり・みき
四六判並製260頁 定価1,800円+税 ISBN4-327-37696-5 C0098





ブックファースト渋谷店にて特盛!大森フェア実施中。





CONTENTS


■序にかえて――本書使用上の注意 iii

■一の巻 翻訳入門 
【1】小説の翻訳「きほんのき」
【2】翻訳家になるには――または、わたしはいかにしてSF翻訳者になったか
【3】名訳博覧会――海外SFの名文たち
【4】訳者冥利――バリントン・J・ベイリー『時間衝突』の愉楽

■intermission 大森望☆サクセスの秘密

■二の巻 実践的SF翻訳講座・裏ワザ編
【1】勝手にしやがれ――翻訳書ができるまで
【2】待っちゃいられぬ成熟するまで――意外と役立つ受験英語
【3】ささやかだけれど、役に立つこと――一時間でできる訳文の磨きかた
【4】どうでもよくない、どうでもいいこと――人称代名詞を減らすには
【5】バベルの図書館――翻訳に役立つ参考書その1
【6】犬も歩けば棒にあたる――翻訳に役立つ参考書その2
【7】「それは何ですか?」――『英和商品名辞典』の楽しみ
【8】棒大なる針小――『和英ポルノ用語事典』の使いかた
【9】君の名は――カタカナ表記を考える
【10】「あるかあらぬか、それが疑問だ」――会話の訳しかた
【11】おしゃべり階段――続・会話の訳しかた
【12】ロックンロール・ウィドウ――会話における正しい改行術
【13】超訳者の時空――シェルダン超訳騒動の真実
【14】無への跳躍――歴史的超訳℃タ例集
【15】麦わら帽子はもう消えた――夏休み翻訳教室・実技篇
【16】I love you からはじめよう――なにを訳すか
【17】まちぶせ――人脈を大切に
【18】報道されないY型の彼方へ――翻訳語の謎
【19】訳しきれないろくでなし{アスホール}――罵倒語の諸問題
【20】エースをねらえ!――「ウケる翻訳」のすすめ
【21】ガラスの仮面――翻訳の演技力
【22】無縁坂――悪訳とはなにか
【23】彼は友達――サルでもできる悪訳の見分けかた
【24】恋人も濡れる街角――ベッドシーンの訳しかた
【25】すーぱーかりふりらじゃりすてぃけくすぴありどうしゃす! ――専門用語の訳しかた
【26】終わりよければすべてよし――訳者あとがきの正しい書きかた

■intermission 私的翻訳環境変遷史
【1】へたの道具しらべ――プロの使う辞書
【2】漁師の網にかかった犬――パソコン通信事始
【3】ゆうわくのうた――電子リファレンス事始
【4】私が愛したリンゴ――マッキントッシュ日記抄
【5】ぼくらが旅に出る理由――インターネット事始
【6】シャーロットの贈り物――ウェブがもたらすもの

■三の巻 SF翻訳者の生活と意見
【1】How Many いい顔――素顔のSF翻訳者たち
【2】新米の主張――「様変わりする翻訳界」の真実
【3】カリフォルニアの青いバカ――翻訳ファンジンのすすめ
【4】愛がなくちゃね――小説の読み方と訳しかた
【5】秘密の花園――確定申告の傾向と対策
【6】ハートのエースが出てこない――カードの教え
【7】そうはいってもとぶのはこわい――翻訳者が会社を辞めるとき
【8】土曜日のタマネギ――翻訳の速度
【9】もしもピアノが弾けたなら――翻訳という仕事
【10】鮮やかな場面――SF翻訳者にいたる道
【11】悲しい色やね――方言の壁
【12】快盗ルビイ――振り仮名が振れるしあわせ
【13】うれしたのし大好き――翻訳者の正しい資質{ライト・スタッフ}≠ニは
【14】走れ 正直者――訳題のつけ方
【15】われら誇りもて歌う――黒丸尚氏追悼
【16】夏ざかりホの字組――世界SF大会レポート
【17】去りにし日々、今ひとたびの幻――絶版の問題
【18】にくまれそうなNEWフェイス――これが正しい翻訳コンテストだ!
【19】そしてぼくは途方に暮れる――なんでも屋の日常
【20】ワイルド・サマー/ビートでゴーゴー――締切の問題
【21】バスルームで髪を切る100の方法――編集者に愛されるために
【22】君を見てるとしょんぼり――新しい人よ目覚めよ
【23】がんばりましょう

■あとがき







序にかえて――本書使用上の注意


「へえ、大森望って翻訳もやってたの?」と思う人がいるかもしれないが、大森望がはじめての単独訳書を出したのは一九八六年のこと。つまり、こう見えても、プロ翻訳者歴は二十年に達する。「デビュー十年程度じゃまだまだひよっこだね」という翻訳業界の基準に照らしても、ぼちぼち中堅にさしかかろうかというキャリアなのである。

 もっとも、職歴の長さにふさわしい実績を積み重ねてきたかははなはだ疑問。気がついたらいつのまにか二十年経っていただけの話で、その間に刊行した単独訳書は、文庫化等の重複を除くと五十冊にも満たない。エンターテインメント系の翻訳者としてはずいぶん少ないほうだろう。おまけに最近五年間だと、長篇の翻訳はたった三冊しかなく、翻訳家の看板を掲げるのがおこがましいほど。

 しかしそれでも、「お仕事は?」と訊ねられると、「ええと、主に翻訳とか……」と答えることが多いし、いちばんよく使う肩書きも《SF翻訳家》だ。これは、SF業だの書評家だの文芸評論家だのコラムニストだのとくらべて、まだしも《職業》っぽく見えるという理由がひとつ。もうひとつは、翻訳をやっているときは、ほかの原稿を書いているときとくらべて、仕事をしているなあという気分になりやすいから。本籍地はSF、生業はSF翻訳業というのが、当人の最大公約数的な自己認識なのである。

 というわけで本書は、その生業に関するエッセイ集。過去16年間に書いてきた翻訳についての原稿を集め、大幅な加筆訂正を施したうえで、書き下ろしを加えて再編集した。

 主たる材料は、見開きの連載コラム「翻訳講座」。早川書房の月刊専門誌SFマガジンに、1989年8月号から1995年12月号まで、6年余・全74回にわたって連載された。真面目なSFマガジン読者からは、タイトルに反してぜんぜん「講座」になってない、それどころか翻訳の話さえほとんど出てこないじゃないか――と非難囂々だったが、はっきり言ってこれは、そんな立派なタイトルのコラムの筆者にオレを指名した編集部が悪い。

 なにしろこの連載がはじまった時点で、大森望は翻訳者デビューからまだ3年。訳書はやっと七冊を数えたところで、年齢は二十八歳だった(おまけに本業は、早川書房の同業他社に勤務する社員編集者)。そもそも、そんな若造に翻訳講座を書かせようと思うのがまちがっている。変わったことならなんでもいいじゃんという今岡清編集長(当時)らしい、ぶっとんだ発想である。(というか、他にも何人かのベテランSF翻訳家に声をかけたものの次々に断られ、最後にオレのところにお鉢が回ってきたというのが真相らしい))

 そりゃ、伊藤典夫や川又千秋は二十代前半から人気コラムを連載していたかもしれないが、その頃とは時代が違いますよ。だいたい、SFマガジンで仕事をしている翻訳者陣の中でもいちばん若い駆け出しが、えらそうに「SF翻訳講座」なんか講釈してたら、ちゃんちゃらおかしいってもんでしょう。

 とはいえ、天下のSFマガジンに連載させてもらえるチャンスを棒に振るのもあまりにもったいない。そこで一計を案じ、翻訳にまつわるさまざまな tips を小出しにしつつ、毎度ばかばかしいお笑いでお茶を濁すというか、翻訳の周辺をぐるぐるとさまよう原稿を毎月書くことにした。なにしろ行き当たりばったりなので、ゲームにハマってるときはゲームのネタが、パソ通にハマってるときはパソ通のネタが、にハマってるときはのネタが多くなる。十数年後に読み直してみると、なんとまあ、驚くばかりの蛇行ぶり。あっち行ったりこっち行ったりまた戻ったりと話が迷走をつづけるうえに、自分でもさっぱり意味がわからないギャグがあったりして、若者の考えることは理解できません。

 そのままではあまりにとっちらかっているので、テーマ別に再編集し、時の流れで陳腐化した箇所や、マニア以外には理解できない箇所を削除しつつ、全体的に手を入れ、さらに 【後記】 として、2006年2月現在の情報を適宜補った。「翻訳講座」の連載全体で言うと、2割ぐらいを削除し、3割ぐらいを大きく書き直し、1割ぐらいを新たに書き加えた感じでしょうか。専門読者ではない一般の翻訳家志望者が読んでもだいたいのことはわかるように、用語や人名にはなるべく説明を加え、現時点での注釈([ ]で囲った部分)を入れた。

 こんなことならゼロから書き下ろしたほうが早いんじゃないかという気もしたが、怖いもの知らずの若いときにしか書けないこともある。専門誌連載ならではの口調とか、その時代特有の空気もある。ライブ感覚をお楽しみいただければさいわいです。

 とはいえ、本書の版元は研究社なので、にあんまり興味のない読者もいるだろうことに配慮して、一の巻「翻訳入門」には、SFマガジン以外の一般媒体に書いた翻訳に関するエッセイを収録した。比較的新しい(1996年〜2004年)、《翻訳入門》的な内容のものを集めたつもり。さらに、最近の状況を補完する意味で、西島大介氏によるインタビューをオマケとして追加した。再録を許可してくれたウェブマガジン〈アンシブル通信〉に感謝する。

 二の巻「実践的SF翻訳講座・裏ワザ篇」は、「SF翻訳講座」雑誌連載分のうち、SF翻訳家志望者向けのネタを扱っている回をまとめ、テーマ別に再構成した。ふつうの翻訳指南書にはまず書いてないような裏技や、ぶっちゃけた話も出てくるが、あんまり真に受けないように。ふつうに役立つことも多少は書いてあります。

 三の巻「SF翻訳者の生活と意見」は、おなじくSF翻訳講座連載分のうち、(実用的な意味ではほとんど役に立たない)お笑い系のトピックや身辺雑記的なネタ、翻訳者の生活に関する話を扱った回をまとめた。このパートは、翻訳学習者より、翻訳に興味のあるSF読者向けでしょう。

 二の巻・三の巻は、「翻訳講座」の連載各回をばらして再配列したため、掲載順には並んでいない。そのかわり、各回の末尾に初出の連載回数と掲載年月号を示した。各項のタイトルは基本的に連載時のものを使用、単行本化にあたって、内容の推測しやすいサブタイトルを付した。

「SFにはあんまり興味がないんですけど……」というかたは、一の巻、二の巻の順に読み、三の巻は適当に読み飛ばしてください。逆に、翻訳を勉強する気がなくて、「真面目な翻訳の話はどうでもいいんだけど……」っていうファンは、いきなり三の巻からどうぞ。

 ものすごくディープなマニアの人なら、大森が「SF翻訳講座」連載開始前に書いていたコラム「海外SF問題相談室」(太田出版刊『現代SF1500冊 乱闘編1975〜1995』第一部に収録) を読み、つづけて本書二の巻・三の巻の各項を初出の掲載順に読むと、当時の状況が時系列に沿って思い出せるかもしれない。

また、SFマガジン連載の第40回からレイアウトが変わり、とり・みき画伯のイラストが入るようになった。単行本化にあたって、さいわいにもその一部を再録することができた。タダ同然のギャラで再使用を許可してくださったとりさんには心から御礼申し上げます。






本文サンプル
彼は友達――サルでもできる悪訳の見分け方
[『特盛! SF翻訳講座』二の巻・23章より]



 というわけで、いよいよ今回は、「サルでもできる悪訳の見分け方」。

 最初に断っておくと、いわゆる誤訳はかならずしも悪訳の範疇には入らない。もちろんこれも程度問題で、1ページに10個単位で誤訳があれば、たぶん悪訳に分類されるだろうけど、翻訳を読んでる最中にとんでもない誤訳を発見したからといって、「この翻訳はひどいっ」と本を叩きつけるがごとき偏狭な態度はあまり推奨できない。字幕翻訳ほどじゃないにしろ、エンターテインメント系の文芸翻訳では、わざと誤訳するってケースもあることだし。「誤訳の発見」はそれだけで快感なんだから、得したと思ってニコニコしてればいいと思う。人間だれしもまちがいはある。

 したがって、個人的にいちばんたちが悪いと思われる悪訳は、無神経な翻訳。英語と日本語はまったく違う言語体系に属しているわけだから、各部分を機械的に日本語に置き換えてもまともな日本語になるわけはない。パーツ単位の翻訳は正確で、いわゆる誤訳はひとつもないとしも、全体としてまったく読むに耐えない翻訳に仕上がるケースは往々にして存在する。

 したがって悪訳を見分けるには、無神経さが露呈しやすい部分を重点的にチェックすればいいことになる。ひと目でわかるのは、無神経な訳語選択。電子レンジをマイクロ波オーブンと訳すがごとき歴然とした不始末は論外としても、日本の小説ではまずお目にかからない英和辞典の訳語をそのまま引き写したり、ある英単語がカタカナで流通しているからといってなにも考えずにそのままカタカナで表記してしまうようなケースがこれに相当する。

 大韓航空機の墜落事件のとき、第一報から二、三日は、ずっと「ラジオのバッテリー」が報道の焦点になってたのが後者の典型的な例。そりゃ車についてるのはバッテリーだけど、ラジオについてるのはふつう電池だよね。この「バッテリー」が「電池」にかわるまでしばらくかかったのと同様、なまじ日本語で通用しているばかりに誤用に気づかないことがある(そういえば、radio はラジオだという思い込みのせいで、主人公がラジオと話す怪しい電波男になってる例もたまに見かける。この radio はもちろん無線)。

 なかなか絶滅しないのが plastic をどんな場合でもプラスチックと訳す例。日本語でプラスチックと言えばふつう硬いものをイメージするが、英語のほうは合成樹脂全般。つまり plastic bag はプラスチック・バッグじゃなくてビニール袋またはポリ袋が正解 [最近はレジ袋とも言う]。経験的に言って、英語の小説に出てくる plastic の七割以上は、ポリエチレンやビニール系のやわらかい材質です。リポーター(レポーター)もこの同類で、リポーターならともかく、新聞のリポーターはふつう「記者」でしょ。swimming pool をいちいちスイミング・プールとか水泳プールにするのも、場合によっては無神経。日本語のプールはほぼ自動的に泳ぐプール意味するから、プールだけで通じます。あと、two o」clock in the morning をかならず「朝の二時」と訳すのもどうかと思う。日本語だと、「夜中の二時」か「午前二時」。

 特定の単語に頼らなくても、この種の「機械(的)翻訳」はわりと簡単に判別できる。わかりやすい指標は、原文の he/him と she/her がなかば自動的に彼/彼女に置換されていること。前にも書いたとおり、視点の統一による省略や固有代名詞の代入で人称代名詞を減らすのは、訳文を磨く第一歩だが、逆に彼/彼女を野放図に使うとどうなるか。昨年の翻訳界の話題を独占した某ミリオンセラー恋愛小説から引用。
……彼はキャメルのパックを出し、彼女のほうに差し出した。彼女は一本抜き取り、それが彼のひどい汗でかすかに湿っていることに気づいた。彼がふたたび金色のジッポを差し出す。彼女はその手に自分の手を添え、指先に彼の肌を感じてから、椅子の背にもたれる。煙草がとてもおいしかったので、彼女は頬笑みを浮かべた。

 10行のあいだに彼/彼女が八つ。なかなか立派な成績だが、この本、とりたてて訳が悪いと指弾するレベルではない。引用箇所だけ見てなんだかなあと思う読者でも、頭からふつうに読んでいけば、この程度の文章はたぶん気にならないだろう。英語の小説の場合、視点の統一がおこなわれていないことが多いから、それをそのまま訳すとこうなるという見本。じゃあってんでこれに固有名詞を代入するとカタカナが乱舞するだけだから、こういう場合はふつう、視点を固定する。引用箇所では「彼女」の側に視点があるようだから、そちらに固定して書き換えると、
……彼がキャメルのパックを出し、こちらに差し出した。一本抜き取り、それがひどい汗でかすかに湿っていることに気づく。彼がまた金色のジッポを差し出した。その手に自分の手を添え、指先に肌を感じてから、彼女は椅子の背にもたれた。煙草がとてもおいしかったので、頬笑みを浮かべた。

 というような具合になる。まあ、原文の he/she を忠実に翻訳する主義の訳者もいないわけじゃないし、彼/彼女がないと翻訳小説読んでる気がしないって読者もいるだろうから一概には言えませんが、原則論としては、彼/彼女の量の多さは、ある程度、日本語の文章感覚を示すバロメーターになりうる。煙草の受け渡しくらいならこれでも読めるけど、たとえばベッドシーンをこの調子で訳されると立つものも立たない。その好例が……と劣情を刺激しつつ次回につづく。

(SF翻訳講座第56回・初出:SFマガジン1994年5月号)







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