●『鉄鼠の檻』書評(週刊現代)

「島田荘司の奇想、竹本健治の蘊蓄、綾辻行人の論理、我孫子武丸のユーモア、高村薫の筆力――ミステリのすべてを過剰に備えることで、『魍魎の匣』は軽々とミステリを超える。残るライバルは『薔薇の名前』か」

 某誌の新刊時評の最後で、ぼくがこう書いたのは九五年一月のこと。それからちょうど一年経って、ネズミ年の年頭を飾った大長編『鉄鼠の檻』は、まさしく和製『薔薇の名前』の趣き(二階堂黎人『聖アウスラ修道院の惨劇』の禅宗版って見方もあるけど、とりあえず話は大きいほうがいいからさ)。

 ウンベルト・エーコの歴史的傑作を向こうにまわして一歩も引かない戦いぶりはさすが京極夏彦で、ミステリ界の陰陽師、十年にひとりの逸材という金看板は伊達じゃない。

 作中の時間は、長い長い昭和二七年(『姑獲鳥の夏』『魍魎の匣』『狂骨の夢』の事件はすべてこの年の夏以降に起きている)がようやく終わり、明けて二八年の一月。物語の焦点は、箱根山中の奥深くに位置する謎の寺・明慧寺。五山の寺にも劣らぬ大伽藍を擁しながら檀家を持たず、その存在を知る人間すらほとんどいない山中異界≠フ独立寺院である。

 この謎の寺をめぐって発生した事件に、底抜け探偵トリオ(鬱病の作家・関口巽、超能力探偵・榎木津礼二郎、古本屋兼陰陽師の京極堂こと中禅寺秋彦)が挑む……と、ここまでは毎度おなじみのパターンなのだが、過去三作とちがって、今回の『箱根山僧侶連続殺人事件』にとりたてて怪現象は介在しない。

 書きも書いたり千七百枚、製本技術の限界に挑むノベルス判八百二十五ページの超大作――でありながら、『鉄鼠』のミステリ的結構は、シリーズ中もっとも平凡かつシンプル。これまでの京極作品が、常識では説明できない異様な謎を物語の中心に据えていたのに対し、『鉄鼠』の事件はごく常識的な(?)連続殺人でしかない。島田荘司的な意味での本格ミステリー≠フ幻想性を期待する読者はみごとに肩すかしを食うことになる。じっさい、「この事件に謎はない」という作中の言葉どおり、密室だの死体消失だのトリックはほとんど出てこない(「足跡のない殺人」はあるものの、めずらしく名探偵ぶりを発揮した榎木津が一瞬で解決してしまう)。

 ミステリ的な焦点はただひとつ、被害者の僧侶たちがなぜ殺されねばならなかったのか。したがって、ミッシングリンク(見えない共通項)探しのホワイダニット物として、伝統的な本格探偵小説に分類することも不可能ではない。『魍魎』や『狂骨』の意匠/衣裳がいかにも変格%Iだったのに対し、今回は本格一直線。仏教史と禅をめぐる膨大な蘊蓄や難解な議論のすべてが犯人の動機を解明する伏線となり、長大な物語は怒涛の勢いでただ一点に向かって収束してゆく。最後に明かされる驚天動地の真相だけでも、本書が『九尾の猫』や『プレード街の殺人』を凌ぐミッシングリンク物の傑作としてミステリ史に残ることはまちがいない。

 とはいえそこは京極夏彦。『姑獲鳥の夏』のそれにも比肩するあまりにもシンプルかつ意外な解決(じっさい、たった一行で説明される)は、あんぐり開いた口がたっぷり三分はふさがらない爆笑物のオチで、そのために八百ページの物量が必要とされたのかと思うと思わず気が遠くなる。しかし、この壮大なバカバカしさはある意味でパズラーの本質だろうし、京極夏彦を読む醍醐味でもある。

 最後まで事件と関わることを拒みつづけた中禅寺が、ついに意を決し、黒装束に身を包んで明慧寺に乗り込んでゆく場面は無敵のかっこよさを誇り、思わず「京極堂!」と掛け声をかけたくなる名調子だが(考えてみると、事件解決の前にちゃんと正装する探偵役ってのも珍しい)、だからといってそこに至るまでの過程が退屈というわけではけっしてない。例によって突拍子もない言動で笑わせてくれる榎木津の天衣無縫の活躍や、『姑獲鳥』の事件から連綿とつながる脇筋を交えながら、一瞬たりとも飽きさせずこの長丁場をぐいぐいひっぱっていく筆力は特筆に値する(ただし、「肝心の謎解きの場面まで行き着くのが一苦労」という声もあるから[茶木則雄、扶桑社『PANjA』2月号]、その種の読者にとって八百ページの伏線は壮大なページの無駄に見えるかも)。

 言葉と論理で憑き物を落とす京極堂vs不立文字の禅(論理を超越し、脳の外部に悟りを見出す)の対決はこの大長編の白眉だが、しかしその一方、一九九五年に書かれた『鉄鼠の檻』は、宗教をめぐるアクチュアルな問題を必然的に逆照射する。本書はある意味で、心の中に檻を抱え込んでオウム以後の時代を生きる人間に対する救済の書かもしれない。

 ところで、鉄鼠と並んで登場するもう一匹の妖怪、大禿{ルビ

 おおかぶろ}のほうは、京極堂の力をもっても落としきれていないようだけど、いつか再び対決する時が来るんでしょうかね。。