【1993】
 
【現在からの注 11月22日発行のザッタ100号特別号は、96ページ上下巻。その反動で、101号が出たのは2月21日と、3ヵ月の間が開いた。そのせいもあり、頭のあたりの時間線は少し92年ものが混じっている】



■10月にはいって、読む本がなんにもないやとぼやいていたら、月末あたりから出るわ出るわ、枕元に積みあがった本のかさにげんなりして、逆に全然読めなくなってしまった。それでも年末に向けて、総まとめはしないといけないし、がんばるしかない。
 今回の目玉はなんといっても『80年代傑作選 上下』である。今年の翻訳SF本のまちがいなくベストである。ひさしぶりに全作品にコメントをいれてみる気になった。SFMに載った翻訳短篇をあんまり読んでないはずだけど、ここに収録されたのはそこそこ読んでいるみたい。そういう意味ではわりと古い作品が選ばれてるということになる。
 全体のコンセプトは、アンソロジーとして最良の部類である。思い入れのはいった序文もいいし、作品単位の解説もいつになく自信とめりはりがある。80年代という状況を俯瞰し意味づけようとする作業としては、党派的色彩をそこそこに盛りこんだバランス感覚が好ましい。
 個々の作品の評価に移ろう。作品集の性格として、出来がよくてあたりまえ、というのが前提条件になってくるので、評価は1ランク低めになる。
 「ニュー・ローズ・ホテル」ウィリアム・ギブスン 再読。洗練されたエンターテインメントとしての文学的感動を生むスタイリスト。純文としてはむろんのことSFとしても凡庸である。SFのなかに置いたとき、はじめて輝く風俗小説作家というのが、ウィリアム・ギブスンに対するぼくの一貫した評価であって、本篇はその最良の例といえる。評価4。
 「スキン・ツイスター」ポール・ディ=フィリッポ 再読。めずらしくもないアイデアにかさついた性格の登場人物を配した凡作。キャラクターの個性が非モラルであるところが80年代の空気を象徴しているというなら、なにもSFにこだわるまでもない。短篇の組み立てとしては一本抜けてるものがある。フィリップ・K・ディック『いたずらの問題』の当局からはモレクがわからないといわれそう。そのあたりは、短篇の約束事をきっちり守って、紋切型を読まされた読後感を与えられた「ブラインド・シェミイ」と対象的。たしかにこの二つの短篇はストーリイの核の部分で呼応しあっている。どっちもたいしたことはないけど、ジャック・ダンの方がまだ趣味である。評価1。
 「石の卵」 キム・スタンリー・ロビンスン 作品集に入れるほどのものかという疑問は残るが、別に悪い話でもない。評価2。
 「わが愛しき娘たちよ」コニー・ウィリス 再読。「少年と犬」の系譜に連なる好感の持てる作品というのが、折りに触れて唱えているぼくのなかでのこの作品のポジションで、むしろ近来ものにはめずらしくSFっぽい骨格を備えている。評価4。
 「ブラインド・シェミイ 」ジャック・ダン さっき触れたように、「スキン・ツイスター」と共鳴しあうところに収録された値打ちがある。評価2。
 「北斎の富嶽二十四景」ロジャー・ゼラズニイ この人の魅力って、スピーディな展開の中、一本気な、本質的に濁りのない登場人物たちがけっこう含みのある会話を軽く洒落のめしながら進めていくところにある。へたに深刻ぶると、かっこつけるぶん頭のわるさがモロに出て、思わずどなりつけたくなる。本人はいたってまじめに立派な主義主張を唱えているつもりなだけに困ったちゃんになるのである。で、そういう話の方が世評が高かったりする。これも困った話である。本篇などその典型で、謎めかして小出しにしていくアイデアや、動機と基本となるスローガンがめまいがするほどバカなため、知識と教養がてんこ盛りされた中篇のヴォリュームを支えきれない。あふれるような教養を身につけても、バカはバカでしかないことを痛感させられる。評価1。(いまさらながら言っとくけど、わたしゃゼラズニイのファンなんだからね)。
 「みっともないニワトリ」ハワード・ウォルドロップ 再読。ある種短篇のお手本みたいな作品だけど、もうこういう小説が書けるかどうかは作者のセンスの問題である。SFでもなんでもない、いかにも70年代ものという点をのぞけば、収録されたことも含めて文句はなにもない。評価4。
 「竜のグリオールに絵を書いた男」ルーシャス・シェパード 再読。これまた純然たるファンタジイ。これをSFだと強弁する言というのは聞きたくない。しかし収録されたことについて文句はない。上巻の柱である。評価4。5でもいいかな。
 「マース・ホテルから生中継で」アレン・M・スティール 粒が小さいのと、80年代SFという刺激性に欠ける点で、作品集のコンセプトにはむしろマイナス。ただし、こういう話は基本的に好きだ。評価3。
 「シュレーディンガーの子猫」ジョージ・A・エフィンジャー 再読でなかったりする。なにがやりたかったかわかるけれども、つまらない。評価1。
 「胎動」マイケル・ビショップ 再読したら、いい話だった。でもぼくが抱えこんでるマイケル・ビショップのイメージって、いい話を書く作家じゃなくてもっと挑発的な作家なのね。80年代のビショップってみんなこんな感じがしてしまうのがものたらない。評価3。
 「祈り」ジョアンナ・ラス 再読。SFマガジンで読んだとき、感動した記憶がある。今度もこの作品の再読がじつは期待の一番星だったりする。80年代作品集というコンセプトのなかでどれだけの力を持てるかってね。
 読みなおすとけっこうマイルドな印象に変わっていた。アイデアだけでなく、文体まで含めた話の出来あがり方とか余韻まで、ジェオムズ・ティプトリー・ジュニアの「男たちの知らない女」や平井和正「悪夢のかたち」を連想する。ポール・アンダースンの「野生の児」やクリス・ネヴィルの「ベティアン」も同じ系統かな。評価4。
 「間諜」ブルース・スターリング 再読。短篇集『蝉の女王』は意外な粒の小ささと紋切型の話の作りが気になって、『スキズマトリックス』でのぼくの評価を一部ダウンさせられたのだけど、この作品はいい。そのまま『スキズマトリックス』につながる味がある。評価3。
 「確率パイプライン」ルディ・ラッカー&マーク・レイドロー いつものコメント。ラッカーが噛むと、なんか話が面白くないのだけれど、つまらないと言いきるのにためらいが残る。主観的には1をつけたい気があるけれど、評価不能としておこう。
 「ペーパードラゴン」ジェイムズ・P・ブレイロック この作家ってわりとだめ。のめりこめないで、いいふんいきをだしてるじゃないとよそごとみたいにつぶやいておわってしまう。長篇をまだ一冊も読んでない。これも純ファンタジイ。評価2。
 「血をわけた子供」オクティヴィア・バトラー つまらない。わたしゃ「愛はさだめ、さだめは死」に3しかつけない人間なんだからね。「ことばのひびき」の方が好きだ。評価2。
 「ぼくがハリーズ・バーガー・ショップをやめたいきさつ」ローレンス・ワット=エヴァンズ なんというか、こころあたたまるSF小話のスタンダード・ナンバー。五〇年代SFだといって紹介してもすこしも違和感がない。2も4も絶対につけることができないまるっきりの評価3。
 「鹿金 戦」グレッグ・ベア 一〇代のころなら、まちがいなく5をつけていた。熱狂的に支持をしていた。収録されたどの作品よりこの作品の中にこそ、根源的なSFのエッセンスが詰めこまれている。不幸なことに、ここでいうエッセンスという言葉の中には、本質的に凡庸である、鈍重である、武骨である、といったマイナス面まで含まれてしまう。マイク・レズニックをソフィスティケートされたポール・アンダースン、グレッグ・ベアをスケールアップしたポール・アンダースンというのが毎度くりかえしている持論であって、この二人にこそ現代SFの中心点にいてほしいとは思うけど、ソフィスティケートされようが、スケールアップされようが、所詮ポール・アンダースンはポール・アンダースン、凡庸で、鈍重で、武骨である。評価4。
 「帝国の夢」イアン・マクドナルド ひとつだけはいっているイギリス作家、トリをかざる作品という見方からすると、この話は弱い。アイデアは珍しいものでないし、書き方にもかったるさがある。わかりやすい泣かせ話という意味で一般受けはするかもしれない。レイ・ブラッドベリの「ロケットマン」を連想したけど、あれとくらべると小説の凝集度において大きく欠ける。サイバーパンク・ヴァージョンのふりをして上巻にまぎれこませた方がよかったんじゃあないだろうか。評価2。

 以上、結局5がひとつもつけなかったけど、アンソロジー全体には5をつけたい。
 最後に本書の並びの作品に合わせるかたちで、七〇年代傑作選を作ってみた。内容にけちをつける意図ではないからね。山岸先生。単に、70年代対80年代の勝負をしてみたくなったというだけ。(ほんとうは、65から74年でやりたいのだけどね。この区分だと、第二黄金時代の後期から、LDGまで全部はいってしまうのだね。)


 80年代                      70年代

ウィリアム・ギブスン          ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
「ニュー・ローズ・ホテル」       「そして目覚めるとわたしはこの肌寒い                     丘にいた」(72)
ポール・ディ=フィリポ         ヴォンダ・マッキンタイヤ
「スキンツイスター」          「火の河」(79)
キム・スタンリー・ロビンスン      カート・ヴォネガット
「石の卵」               「ビッグ・スペース・ファック」(72)
コニー・ウィリス            ジョン・ヴァーリイ
「わが愛しき娘たちよ」         「鉢の底」(75)
ジャック・ダン             ノーマン・スピンラッド
「ブラインド・シェミイ」        「美しきもの」(73)
ロジャー・ゼラズニイ          フィリップ・ホセ・ファーマー
「北斎の富嶽二十四景」         「わが内なる廃虚の断章」(73)
ハワード・ウォルドロップ        R・A・ラファティ
「みっともないニワトリ」        「田園の女王」(70)
ルーシャス・シェパード         マイケル・ビショップ
「竜のグリオールに絵を書いた男」    DEATH AND DESIGNATION AMONG THE ASAD                    I (73)
アレン・M・スティール         アーサー・C・クラーク
「マース・ホテルから生中継で」     「メデューサとの遭遇」(71)
ジョージ・アレク・エフィンジャー    ラリイ・アイゼンバーグ
「シュレーディンガーの猫」       「時と場所の問題」(70)

マイケル・ビショップ          F・M・バズビイ
「胎動」                「ここがウィネトカなら、きみはジュデ                    ィ」(74)
ジョアンナ・ラス            ハーラン・エリスン
「祈り」                「死の鳥」(73)
ブルース・スターリング         アーシュラ・K・ル=グィン
「間諜」                「オメラスから歩みさる人々」(73)
ルーディ・ラッカー&マーク・レイドロー G・R・R・マーチン
「確率パイプライン」          「龍と十字架の道」(79)
ジェイムズ・ブレイロック        トム・リーミイ
「ペーパー・ドラゴン」         「サンディエゴ・ライトフット・スー」                    (75)
オクテイヴィア・バトラー        ケイト・ウィルヘルム
「血をわけた子供」           作品未定
ローレンス・ワット・エヴァンズ     ロバート・シルヴァーバーグ
「ぼくがハリーズ・バーガー・ショップをやめたいきさつ」 「世界の終末がどうの                            (題名忘れた)」(72)
グレッグ・ベア             フレデリック・ポール
「鹿金 戦」              「星虹の果ての黄金」(72)
イアン・マクドナルド          バリントン・J・ベイリー
「帝国の夢」              「ドミヌスの惑星」(73)

 編んでみて、最大の難点はほとんどが単行本で読めること。逆にいえば80年代傑作選が編まれる必要があったことを痛感できる。単行本で読めるものをアンソロジーに含めることはぼくの趣旨に反すのだけど、70年代傑作選というコンセプトからはしかたがない。中篇が長くなって分量的に二割がたは増えているから、これで勝負というのは少し卑怯な気がするけれど、とりあえず70年代の圧勝だと(わたしは)思う。それにしても、こうしてみると、727374というのはとんでもない年だったのだなあ。
 @のジェオムズ・ティプトリージュニアについては、できれば「最後の午後に」か「われらなりに、テラよ、奉じるはきみだけ」をグレッグ・ベアの場所に置きたかったのだけど、ウィリアム・ギブスンの置かれている象徴的位置と作品の長さに照らすと、これをもってくるしかないだろう。
 Aウィリアム・ギブスン流れをもってきた二作めに合わせるには、まだ新しい輝かしい波であった女流作家(やや小粒どころ)というのを持ってくるしかない。パミラ・サージェントの「クローン・シスター」(73)を考えたのだけど、80年代版に比べてやや弱くなる。ヴォンダ・マッキンタイヤのこの作品はちょっと長いかもしれない。
 Bバート・K・ファイラー「時のいたみ」を持ってこようとしたら、68年だった。
 C伝統派の作家であるコニー・ウィリスが置かれているここにジョン・ヴァーリイを置くのが適切かどうか、ためらいが残る。
 DEと少し古めの作家のこの時代の作品を並べている。Eに「ハングマンの帰還」(75)をぶつけろことも考えたけど、弱いものいじめをしている気がして、この選択になった。でもこのほうが強力。
 Fのハワード・ウォルドロップは80年代にはいっているほうがもともとおかしいのである。ほんとうはここにF・M・バズビイを置きたかったのだけど、『タイムトラヴェラー』(新潮文庫)のメイン二作が続くことになる。R・A・ラファティの作品はへんな話にするかいい話にするか迷ったあげく、いい話を選んだ。
 Gのルーシャス・シェパードは上巻の白眉だろう。ここにはどうしても横綱がいる。というわけで、『樹海伝説』第一部、70年代ビショップの最高峰を設置する。「はぐれトマト」に未練も残るのだけれども、あれではここにそぐわない。
 次のH番、ハードSF。これがない。というか、わからない。J・P・ホーガンとかグレゴリイ・ベンフォードとかもねえ。ラリイ・ニーヴンも短篇のピークは60年代後半なのだ。(チャールズ・シェフィールド? ああ、そんな人いたっけ)
 もちろんアーサー・C・クラークは傑作だけど、これを入れると本として大きくなりすぎるんだよね。ジョン・ヴァーリイ、フィリップ・ホセ・ファーマー、マイケル・ビショップ、アーサー・C・クラーク。ノヴェラが四つもはいってしまう。
 そういうわけで、Iは短くまとめることにする。トマス・M・ディッシュかバリイ・マルツバーグも考えたけど、後味を気持ちよくということで、この人にした。F&SFの70年1月号だから厳密にいうと69年になるんだけどね。
 さあ、やっと下巻だ。
 J「胎動」と「ウィネトカ」。巻頭効果としてはわかりやすさで「胎動」の勝ち。(いかにも70年代的な)気分のよさで「ウィネトカ」の勝ち。(とわたしは思う)
 Kジョアンナ・ラスの重厚さには、もうこれしかないだろう。一騎打ちである。
 L80年代を代表する名前には70年代に君臨した女王を持ってくるのが礼儀。たしかにこの二人を並べると、ウィリアム・ギブスンとジェイムズ・ティプトリー・ジュニアでは見えにくかったちがう時代の空気というのが感じられる。
 Mに共作をいれるべきかどうかで、けっこう悩んだ。ハーラン・エリスン&ロバート・シェクリイとか、フレデリック・ポール&C・M・コーブルースとか、ジョージ・R・R・マーチン&リサ・タトルとかね。まあ、結局、この作家はいれとくべきだろうってなことで。
 NはSFとじつはそんなに関係ない小説として選んだ。トム・リーミイってぼくはわりとどうでもいい。
 Oジョアンナ・ラスとケイト・ウィルヘルム、最低どっちか一人はいれないといけないだろう。だけど短篇作家としての全体像がぜんぜんみえない。英語の読める人間にセレクションを委ねます。
 Pはあっちこっちのファンジンに訳されてたので、じっさいに商業誌に載ったときの題名がわからなくなった。ユニヴァースに載った軽い短篇である。
 Qには勝てそうな馬がみつからなかった。ホールドマンの"Hero"、ジーン・ウルフの「アイランド博士の死」、ガードナー・ドゾア「海の鎖」なんかが候補にあがったけれど、ベアのイモイモしさと戦うには70年代作家たちは高踏的すぎた。
 Rは80年代版に合わせて収録をしないできたイギリス作家作品。クラークというのは別格である。
 もうバリントン・ベイリーかイアン・ワトスンしかないでしょう。どっちをとるかとなったら、ぼくならやっぱりバリントン・ベイリーになる。

 うーむ。
 自分で作って感心してても世話はないけど、このラインナップはやっぱりすごい。さらにとんでもないのはこの19本のうち75年以降の作品が4つしかないこと。個人的にはその4つを切り捨てても、ほとんど平気であること。そのかわりに65年から69年を組みこんだら、さらにすごいものになりそうなこと。
伊藤・浅倉訳で作品数で過半数、分量で三分の二を占めてしまうこと。
 私見としては圧勝である。
 ただし、とフォローしておこう。一騎打ち19番勝負としては勝っているけど、本としてどうかという点については保留をする。
 有機的連続性の点で、『80年代SF傑作選』はかなり戦略的な選択と配置を行なっているからだ。全体の流れについてきつめゆるめの調整をしたりするのはある意味で当然ながら、ジャック・ダンやロジャー・ゼラズニイにサイバーパンクの補完的役割を与え、愚作であっても存在意義を認めさせていたりする。
 そしてなにより全作品の収束点としての、グレッグ・ベアの存在が大きい。あそこにあの作品があるというだけで、このアンソロジーのめりはりは倍くらいちがってきている。ベアに匹敵するような、武骨、鈍重、凡庸な、重厚にしてイモイモしい、野心的な大作をみつけられなかったところが、ぼくのセレクションの最大の弱点である。
 60年代だったら、もっとうまく強弱がつくはずである。質の高さを見せつける、中央点(シェパード/ビショップ、ラス/エリスンのところ)には、J・G・バラードの「時の声」とかコードウェイナー・スミスの「クラウンタウンの死婦人」を置いて、ラストのベアのポジションには、「エンパイア・スター」か「龍を駆る種族」をぶちこむ。どっちを置くかでかなり作品集全体のイメージが変わることになるけれど、こいつらなら十分に「鹿金戦」と渡りあえる。
 うーむ。
 60年代もやってみたくなってきた。ばかですねえ。

 解説なしで、リストだけ載っける。選び方のポイントは70年代を選んだときとおんなじ。ただし、60年代の場合は、イギリス作家をはずしてしまうと、全体像そのものが描けなくなる。四人ないし五人くらいまぜることにする。逆に女流作家はひとりもいらない。どこをメインにするかで、じつはまるでイメージのちがう傑作選になるのが、60年代なのである。中心点はサミュエル・R・ディレイニー、ハーラン・エリスン、ロジャー・ゼラズニイであるにしても、その盟友をイフ誌&ギャラクシー誌(ジャック・ヴァンス、ラリイ・ニーヴン、フレッド・セイバーヘーゲン、コードウェイナー・スミス)にもとめるか、NW&『危険なヴィジョン』(J・G・バラード、ブライアン・オールディス、トマス・M・デイッシュ、ジョン・スラデック)におくか、けっこうむずかしいのである。
 80年代               60年代(標準クラいこわもてモデル)

ウィリアム・ギブスン         ハーラン・エリスン
「ニュー・ローズ・ホテル」      「声なき絶叫」(68)
ポール・ディ=フィリポ        ジェームズ・ティプトリー・ジュニア
「スキンツイスター」         「ビームしておくれ、ふるさとへ」(69)
キム・スタンリー・ロビンスン     バート・K・ファイラー
「石の卵」              「時のいたみ」(68)
コニー・ウィリス           J・G・バラード
「わが愛しき娘たちよ」        「時の声」(60)
ジャック・ダン            バリー・マルツバーグ
「ブラインド・シェミイ」       「最終戦争」(68)
ロジャー・ゼラズニイ         フィリップ・ホセ・ファーマー
「北斎の富嶽二十四景」        「紫年金の遊蕩者たち」(67)
ハワード・ウォルドロップ       ジョージ・マクベス
「みっともないニワトリ」       「山リンゴの危機」(66)
ルーシャス・シェパード        コードウェイナー・スミス
「竜のグリオールに絵を書いた男」   「クラウンタウンの死婦人」(64)
アレン・M・スティール        ラリー・ニーヴン
「マース・ホテルから生中継で」    「銀河の「核」へ」(66)
ジョージ・アレク・エフィンジャー   ジョン・スラデック
「シュレーディンガーの猫」      「教育用書籍の渡りに関する報告書」(68)

マイケル・ビショップ         R・A・ラファティ
「胎動」               「カミロイ人の初等教育」(66)
ジョアンナ・ラス           ロジャー・ゼラズイニイ
「祈り」               「このあらしの瞬間」(66)
ブルース・スターリング        ロバート・シルヴァーバーグ
「間諜」               「ホークスビル収容所」(67)できればも                   っと短いの。
ルーディ・ラッカー&マーク・レイドローフィリップ・K・ディック
「確率パイプライン」         「パーキイ・パットの日」(63)
ジェイムズ・ブレイロック       トマス・M・デイッシュ
「ペーパー・ドラゴン」        「リスの檻」(66)
オクテイヴィア・バトラー       ハリイ・ハリスン
「血をわけた子供」          「異星の十字架」(62)
ローレンス・ワット・エヴァンズ    ボブ・ショウ
「ぼくがハリーズ・バーガー・ショップをやめたいきさつ」 「去りにし日々の光」                            (62)
グレッグ・ベア            サミュエル・R・ディレイニー
「鹿金 戦」             「エンパイア・スター」(66)
イアン・マクドナルド         ブライアン・オールディス
「帝国の夢」             「賛美歌百番」(60)

 80年代               60年代(偏移おもしろモデル)

ウィリアム・ギブス          サミュエル・R・ディレイニー
「ニュー・ローズ・ホテル」      「ドリフトグラス」(67)
ポール・ディ=フィリポ        J・G・バラード
「スキンツイスター」         「スクリーン・ゲーム」(63)
キム・スタンリー・ロビンスン     シオドア・L・トーマス
「石の卵」              「ドクター」(67)
コニー・ウィリス           ロバート・F・ヤング
「わが愛しき娘たちよ」        「リトル・ドッグ・ゴーン」(64)
ジャック・ダン            ダニー・プラクタ
「ブラインド・シェミイ」       「何時からおいでで」(66)
ロジャー・ゼラズニイ         アルフレッド・ベスター
「北斎の富嶽二十四景」        「昔を今になすよしもがな」(63)
ハワード・ウォルドロップ       R・A・ラファティ
「みっともないニワトリ」       「その街の名は」(64)
ルーシャス・シェパード        コードウェイナー・スミス
「竜のグリオールに絵を書いた男」   「アルファラルファ大通り」(61)
アレン・M・スティール        ジェームズ・ティプトリー・ジュニア
「マース・ホテルから生中継で」    「セールスマンの誕生」(68)
ジョージ・アレク・エフィンジャー   フレッド・セイバーヘーゲン
「シュレーディンガーの猫」      「理解者」(70)

マイケル・ビショップ         ポール・アッシュ
「胎動」               「コウモリの翼」(66)
ジョアンナ・ラス           フリッツ・ライバー
「祈り」               「六十四コマの気違い屋敷」(62)
ブルース・スターリング        ロジャー・ゼラズニイ
「間諜」               「十二月の鍵」(66)
ルーディ・ラッカー&マーク・レイドローハーラン・エリスン&ロバート・シェクリイ
「確率パイプライン」         「男が椅子に腰をかけ、椅子が男の脚を噛                    む」(68)
ジェイムズ・ブレイロック       キース・ロバーツ
「ペーパー・ドラゴン」        「レディ・マーガレット」(66)
オクテイヴィア・バトラー       フィリップ・ホセ・ファーマー
「血をわけた子供」          「宇宙の影」(68)
ローレンス・ワット・エヴァンズ    ゴードン・R・ディクスン
「ぼくがハリーズ・バーガー・ショップをやめたいきさつ」 「コンピュータは語ら                             ない」(65)
グレッグ・ベア            ジャック・ヴァンス
「鹿金 戦」             「龍を駆る種族」(72)
イアン・マクドナルド         ブライアン・オールディス
「帝国の夢」             「リトルボーイ再び」(66)

 うーむ。
 60年代がこんなにむずかしいとは思わなかった。
 B面版からもわかるように、いわゆる時代を代表する名作としての意義や風格にかけるいい話がいっぱいあるのだ。ロジャー・ゼラズニイにしても、好きな話がありすぎて何をえらんでも迷いがくる。それにしても全セレクションにフィリップ・ホセ・ファーマーがはいってきたのにはわれながらおどろいた。それほど好きな作家でもないんだけどね。B面でラリイ・ニーヴンを落としたのはエッセイに例の「スーパーマン」を入れたいからである。

 『柳生十兵衛死す』 山田風太郎の凡作。書評がみんなほめているのがわからない。しかけを差し出す手つきが大仰すぎてしらけてくる。むかしはもっとはでなしかけをもったいぶらずに出していた。『室町お伽草紙』は面白いのかつまらないのか判断不能の部分があったが、この本は大仰なぶん、つまらなくなっている。本人がインタビューで喜々として言っているんだからしかたないけど、こんなものを『柳生忍法帖』『おぼろ忍法帖』とくっつけて、『柳生十兵衛』トリロジー完結編なんて命名するのはやめてほしい。軽く黙殺しておくつもりだったが、本人並びに出版社が本気でそういう売りをやりだしたので、一言書き留めておくことにする。
 ジョージ・R・R・マーチン編『ワイルドカード1』は作家たちがわくわくしながら書いている、そんな熱気が伝わってくる。上巻は完全にぼくの好み。でも下巻はだんだん飽きてくる。第二巻まではたぶんちゃんと読む、と思う。
 フィリップ・K・ディック『いたずらの問題』 同時期刊行の『ジョーンズの世界』に比べて、ネタも努力も3分の1程度の仕込であげている。全体あらの塊りだけど、根本的なところで、いかにも然の五〇年代SFで、いかにも然のP・K・ディックで、読みたいものをちゃんと読ませてもらったという充足感が読後に残る。ヒロインは二人ともうっとおしい部分を削ってあるし、役立たずの隣のおじさんがいい役をもらっている。社会的な洞察で、ロバート・シェクリイと視線が重なる面が多い気がする。この時期SF界の共有資産として存在した社会的洞察の方向づけというのは、けっこうぼくがSFに期待する重要要素であるみたい。 『アルファ系衛星の氏族たち』(創元版)には、バリー・マルツバーグの長文エッセイがおまけについている。毎度ながらとてもいい。どこか、マルツバーグのエッセイ集を出してくれないかしら。
 偏向報道翻訳家Fによると、白石朗先生が、わたくしめの『法律事務所』の感想にいたくおかんむりであらせられるとのこと。「宇宙船が光速以上で飛んだりするのはけしからん、というのと同じレベルの言いがかり」とのことである。
 で、同じような言いがかりをつけたくなる本が出たぞ。
 『ゴールデン・フリース』ロバート・J・ソーヤー
 47光年彼方の星に向かって虚空を翔ける宇宙船アルゴ号の船内で中枢コンピューターが一人の女科学者を殺害する。「事故」を知らされた元の夫は、ひとつひとつ事実を集め、一歩一歩「犯人」を追いつめていく。はたして「犯人」はつかまるか、そして「犯人」の動機とは?
 これを倒叙ミステリでやるというのだから、すごい。思わず意気ごむではないか。解説も一行目からこうである。
 単刀直入にいって、このSFは面白い。
 読もうじゃないの。半分まで読み進んでいたロマンス小説(ダニエル・スティール)こっち置いて。
 読んだ。
 カス。
 コンピュータがバカ。
 べつにコンピュータがバカであってもかまわないけど(じっさい探偵もわりとバカだから、コンピュータがかしこかったら話にならない)、コンピュータがただのバカなアメリカ人というのがたまらない。コンピュータならちゃんとコンピュータらしくふるまえ!とわたしは言いたい。”感情を持つコンピュータ”をリアルに描いた話題作 と書いてあるけど、単に作者がコンピュータをコンピュータぽく書けないだけのことではないか。ストーリーを変える必要さえないはずである。要は言い回しや端処理をブラッシュアップするだけのことである。それだけで、充分臨場感は増すはずである。人間と同じようにしゃべれば感情を持っているのだとするこの短絡思考が耐えられない。本当にリアルさを求めるのなら、コンピュータがいかにもコンピュータらしく稼働しながら起こす行為のところどころで”良心の咎め”めいたミスを起こして墓穴を掘っていくというので充分なはずである。
 この小説をそのままアイザック・アシモフに渡してリライトさせたら三倍くらい面白い作品にしあげてくれているだろう。アシモフがリライトしたら、たぶん並の上くらいの本になってたはずだ。
 せっかくのりっぱな発想を著者がみずから台なしにした本。
 『ヴィーナス・シティ』柾悟郎 今年読んだ日本作家のベスト3は、佐藤亜紀『戦争の法』、早瀬耕『グリフォンズ・ガーデン』、それにこの本。
 処女長篇にしては、あまりに作者にゆとりがありすぎる、作者の力量からすれば八分咲きくらいの作品だという人もいて、いわれてみるとたしかにスマートすぎる気がしないでもないけれど、投入されてるアイデア、情報、表現実験その他の量はけっして並のレベルではない。そこのところは、今年出た全SF作品中、トップにいくのではないか。たしかに投入された大量のイメージのなかに、見覚えのあるものがいっぱいあって、話作りがこなれてしまったぶん、衝撃力が弱っているといえないことはないけれど、小松左京型小説の華麗な再生として高く評価していい。
 うーむ。
 この比較がよくないのかもしれない。小松左京と比べると、パワフルさにはたしかに欠ける。

□クイズです。 赤いマフラーなびかせてたのは009。では、黄色いマフラーなびかせてたのは?
それから白いマフラーが正義のしるしだったのは?




 THATTA百号、一部では、なかなかそこそこ受けたみたいであります。古沢嘉通先生のおたくには、さっそく山田順子様から「ばーか」とお電話があらせられたそうで、そのあとわたしをタネにいろいろ雑談をなさったとのこと。ちなみにこの偏向報道翻訳家Fはネタにつまるとすぐにわたしで遊ぶということを所々でくりかえしておるようで、そういう話題誘導が下浦某の怪文書にみられる巽ネタから水鏡子ネタへの移行といった迷惑を生んでいる。あれなんか露呈した部分にすぎない。Fによる話題誘導の害悪は水面下深く広くひろがっているはずである。
 うちには浅倉さんからかかってきた。主として〈HSFS〉の浅倉さんにからんだ部分についてだけれど、あそこ(70番以降)での選択の、いちばん重要な役割を果たしていたのはじつは森優であり、その名前が抜けていることで誤解が世間に流れかねないとのことでした。また、浅倉本というのは一見色合いが揃っているようにみえるけれど、編集部からのあてがいぶちがいっぱいあるそうで、たとえば『時の歩廊』や『無限軌道』などのポール・アンダースン、それにノヴェライゼーションも(こっちはまあ予想がつく)は編集部からのものだという。ポール・アンダースンについては、最初に何作かまとめて版権をとったものがパラパラ割れて訳されたということらしい。浅倉系作品を岡部さんがやってたみたいに、伊藤系作品をやる人ってなかったんですかねえといったら、浅倉さん本人がそうだったんじゃないかと言われた。カート・ヴォネガットなんかははた目にもはっきりわかるいかにも伊藤カラーの作品だけれど、『宇宙零年』『アンドロメダ病原体』なども伊藤さんがみつけて回して(押しつけて?)きたあと浅倉さんの持ち作家化していったケースだという。これもけっこう意外だった。ジェイムズ・ブリッシュっていかにも浅倉本のイメージだから。マイケル・クライトン訳者の酒井昭伸というのは伊藤典夫の孫訳者ということになる。
 あと、これは東京にいったとき、良平さんに聞いたのだけど、初期のHSFSはおそらく初版三千部くらいの単位だったということ。この時代というのは、奥付にまだ検印証書を(手で)貼っていた時代であって、そういうことをしている時代の常識的な出版部数はそういうレベルだったとのこと。これで、ますます昔のSFファン人口は小さくなった。
 とにかくこういった知識というのは、ぼくなんかの年代だと、もう、実体を知らない、読者としての推測的記憶しかないのである。このへんのひとたちがまだ現役であるうちに、オープンにしておいてもらいたい。(今、なんか、かなりこわい発言をしてしまったような気がする。)

 傑作選目次作り、やりだすとやっぱり尾を引く。第二黄金期が分割されてて、それにLDGを含めないといけない70年代という区分がどうも落ちつかなくて、65−74でもう一度作ってみたくなった。コンセプト的には『80年代傑作選』と若干ちがってくるので、参考として55−64も作った。75−84、つまりLDGの時代というのは、ほんとうに作りたいと思わないんだわ。しかも黄金期を受けての新しい動きという感じでジョン・ヴァーリイやマイケル・ビショップをはなばなしく登場させることができるから、よけい作る意味が失われる。山岸先生に作ってほしいね。逆に言えば『80年代』も75−84あるいは76−85で組んだ方がさらに充実した本が作れていたという気がする。
 本数の19作品は、『80年代』と合わせたけれど、中短篇の配置についてはぶれが大きくなった。勝負の判定がちょっと難しくなった。

     65−74年                    55−64年
(上)
@ハーラン・エリスン             @フィリップ・K・ディック
 「声なき絶叫」(68)             「探険隊還る」(59)
Aロバート・シルヴァーバーグ         Aエリック・フランク・ラッセル
 「世界の終わりを見にいったとき」(72)    「地球の絆」(55)
Bバート・K・ファイラー           Bウィリアム・モリスン
 「時のいたみ」(68)             「スター・スラッガー」(56)
CF・M・バズビイ              Cロバート・F・ヤング
 「ここがウィネトカなら、きみはジュディ」(74)「リトル・ドッグ・ゴーン」(6                         4)
Dジョージ・マクベス             Dアルジス・バドリス
 「山リンゴの危機」(66)           「めぐりあい」(57)
Eフィリップ・ホセ・ファーマー        Eキャロル・エムシュウィラー
 「紫年金の遊蕩者たち」(67)         「ベビイ」(58)
Fジーン・ウルフ               Fゼナ・ヘンダースン
 「デス博士の島その他の物語」(70)      「ページをめくると」(57)
Gマイケル・ビショップ            Gダニエル・キイス
 DEATH AND DESIGNATION AMONG THE ASADI(73) 「アルジャーノンに花束を」                         (59)
Hノーマン・スピンラッド           Hアイザック・アシモフ
 「カーシノーマ・エンジェルス」(67)     「夢を売ります」(55)
Iジェイムズ・ティプトリー・ジュニア     Iロバート・シェクリイ
 「最後の午後に」(72)            「夢売ります」(59)
(下)
JR・A・ラファティ             Jブライアン・オールディス
 「カミロイ人の初等教育」(66)        「未来」(56)
Kフレデリック・ポール            Kアルフレッド・ベスター
 「星虹の果ての黄金」(72)          「昔を今になすよしもがな」                         (63)
Lバリントン・ベイリー            Lフリッツ・ライバー
 「ドミヌスの惑星」(73)           「交通戦争」(63)
Mラリイ・ニーヴン              MJ・G・バラード
 「スーパーマンの子孫存続に関する考察」(71) 「時の声」(60)
Nフレッド・セイバーヘーゲン         Nヴァンス・アーンダール
 「理解者」(65)               「広くてすてきな宇宙じゃない                        か」(60)
Oロジャー・ゼラズニイ            Oロン・グーラート
 「十二月の鍵」(66)             「ダイアローグ」(58)
Pアーシュラ・K・ル・グイン         Pワイマン・グイン
 「オメラスから歩みさる人々」(73)      「空とぶヴォルプラ」(56)
Qサミュエル・R・ディレイニー        Qジャック・ヴァンス
 「エンパイア・スター」(66)         「龍を駆る種族」(62)
Rジョン・ヴァーリイ             Rコードウェイナー・スミス
 「逆行の夏」(74)               「鼠と竜のゲーム」(55)
 
 65−74。
 『80年代』に準じてイギリス作家はなるべくはずした。55−64に入れているから、J・G・バラード、ブライアン・オールディスをこっちにまでいれることもないだろう。クリストファー・プリースト、イアン・ワトスンにためらいが残ったけれどもバリントン・ベイリーで代表させることにした。そのくせジョージ・マクベスがはいっているのがすこしへん。
 65−74では、まず「エンパイア・スター」を中心に、とくに下巻は進化や超人をまじえながらの宇宙小説で揃えてみた。「オメラス」は「エンパイア・スター」とのつながりでこの位置に置いた。ラリイ・ニーヴンについては、ノウン・スペースを置くのが筋だと思うけど、いい作品だと中篇になり、この顔ぶれでニーヴンごときにそれだけの長さを与えたくはない。
ロバート・シルヴァーバーグの場合も似たような意図がある。
 最後は常套ながら、新しい時代の幕開けとしてのジョン・ヴァーリイである。そういう意味での異質な輝きがたしかにジョン・ヴァーリイ登場にはあった。長いのが二つ並ぶけれど、まあいいだろう。ロジャー・ゼラズニイの中篇がほしかった気分はあるけれど、フレッド・セイバーヘーゲンからサミュエル・R・ディレイニーまでは感傷的ヒューマニズム色の強い作品配列で、たちの悪い前四つと対にしてみたつもりである。また、イメージ的には上巻をオリジナル・アンソロジー、下巻をイフ、ギャラクシーのカラーにまとめてみた。
 落ちた主な作家。トマス・M・ディッシュ、ジョン・スラデック、イギリス作家ほとんど、フリッツ・ライバー、キース・ローマー、ジャック・ヴァンス、ケイト・ウィルヘルム、ジョアンナ・ラス、ジョージ・R・R・マーチン、ガードナー・ドゾア、エド・ブライアント、ヴォンダ・マッキンタイヤ、ジョージ・A・エフィンジャーなど。

 55−64年。25−34(アメージング時代)、35−44(キャベル黄金時代)、45-54(第一次黄金時代)の次の端境期である。常識では最悪の10年間のはずだけど、イギリスNWはすでに動きだしているうえに、コードウェイナー・スミスと「アルジャーノンに花束を」のせいで、おそろしくメリハリのあるラインナップができあがる。各年代が本屋の棚で並んだら、これがいちばん売れるのではないだろうか。
 上巻はとことん気持ちよく、たちの悪いのは下巻という配列である。巻頭のフィリップ・K・ディックは時代の代表なのでしかたがない。アイザック・アシモフ、ロバート・シェクリイの仕掛けとか、ウィリアム・モリスン、ロン・グーラートの話をむりやり押しこんだのと、65−74と作家のダブリがないように作ったため、やや決定版の凄味が欠けた。
 コードウェイナー・スミスは「クラウンタウンの死婦人」か「アルファラルファ大通り」を入れたかった。バランス的にあきらめて、人と知的な異生物とのコミュニケートを中心にした話のかたちでうしろ三つをつないでみた。デーモン・ナイトが落ちてしまった。「昔を今に」(58)か「王者の祈り」(56)を考えたのだけれどもね。トマス・ディッシュがまた落ちた。ポール・アンダースン、ゴードン・R・ディクスン、クリフォード・シマック、ウィリアム・テン、ウォルター・ミラー・ジュニア、チャド・オリヴァー、その他いっぱい落ちた。
 もっと迫力のある選択もできると思うのだけど、五〇年代がはいってくると、どうもこっちの視線がやさしくなってだめですね。「孤独の円盤」や「大いなる飢え」が入れられなかったものだから、もひとつ前の時代にも、ちょっと気分が動いたけれど、過激さ挑発性よりも、やさしさ気分に傾いたのであきらめた。55−64上巻よりさらに感傷的になりそうだから。「危険な関係」とか「黄金律」なんてのもあったなあ。

 京フェスで、大森望や小浜徹也が若い連中が出てこない、とぼやいていたけど、結局こういうことと同じなのである。
 頭から『60年代SF傑作選』を作りなさいといわれても、そう簡単に作れるものではないけれど、ひとつ『80年代SF傑作選』という雛型があると、それをアレンジ、換骨奪胎するだけで、いくらでもいくつでもアンソロジーが作れてしまう。要はひとつの集団のひとつの世代にひとりそういう人間が出てきさえしたならば、そいつを雛型にして有象無象が個性の表現方法を見つけだし、黄金時代を作っていくということなのだ。それが伊藤典夫や安田均であり、大森望や渡辺兄弟、まきしんじなんかだったのだ。「ワークブック」やスタッフの動きなんかをみていても、京大現役勢の潜在力は少なくともぼくよりかなり上であると思う。
 うーむ。
 **と**が雛型であるせいだろうか?

 文句なしに面白いのだけど、どうにもSFを読んでる気がしない、ジョージ・A・エフィンジャーのブーダインもの第三作『電脳砂漠』は、とうとうミステリ仕立てでありながらミステリ臭まで無くなった。いきあたりばったり。いくつもの挿入されたエピソードは相互にほとんどつながらない。あの濡れ衣の晴らされかたにはミステリ・マニアは怒り狂いそう。でも面白い。この本を今年読んだ海外SFの五位に据えて、二位から四位を埋めてくつもり。一位は『80年代』だよ、山岸先生。『タウ・ゼロ』は『電脳砂漠』より下におきたい。
 『図書室のドラゴン』マイクル・カンデル こういう本を読んで、不愉快になる人間がいるというのがけっこう不愉快。アメリカ人だかSFファンだか知らないけど、こんなのごくオーソドックスなひねりじゃないの。すなおに楽しめる話だけれど、構成の技倆については疑問が残った。話の転換やエピソードの連動、全体の視野構造が、もひとつうまくできてない。二作めは売れないだろうなあ。
 風間賢二編『クリスマス・ファンタジー』 いかにもちくま文庫風の上品さと決定版的なめりはりが感じられないところが不満。思いつくもの、なんでもかんでもぶちこんだみたいな角川文庫『クリスマスの悲劇』『贈り物』のヴァイタリティに引き比べ、ものたらなさが残る。わざわざ訳しおろされたゴードン・R・ディクスンがつまらない。既訳の話のなかにだってもっといいのはあるはずである。たとえばロバート・F・ヤングの「空飛ぶフライパン」とか。あとの二つのSFは角川文庫版とおんなじものだし。フレデリック・ポールの「ハッピー・バースディ・イエスさま」なんてそんな何度も収録される定番とは思えない。あの長さを角川版からの再録SFに当てるなら、リチャード・マシスンの「旅人」とレイ・ブラッドベリの「贈り物」を両方入れることだってできる。
 シーベリイ・クインの「道」を巻頭に持ってきているにしては、全体に揶揄、諧謔調が目だつところに不満のもとはあるのかもしれない。クリスマス・ストーリイのユーモアって、たとえばO・ヘンリーの「賢者の贈り物」みたいなものを期待してたりするのだわ。
 去年の海外SFの総括で、長篇に対してきもちよく安心して読めるぶん全体に小粒な印象が残った、と書いたのだけど、あとで具体に即して考えてたら、安心してきもちよく読めた作家って、ポール・アンダースン、マイク・レズニック、ジョージ・A・エフィンジャーあたりはまあいいとしても、あとがバリントン・ベイリー、フィリップ・K・ディック、ルディ・ラッカーあたりを指していたりする。これはちょっと表現に問題があるという以前、ぼくの受容感覚がいびつになっているというべきだろう。あのへんをもってふつうのまっとうなSFと思いこんでしまったのでは、世間でいうふつうのSFに全部×印をつきかねない。でもほんとうにそういう感じ方をするんだもんなあ。




 仁賀克雄訳編のP・K・ディック短篇集『ウォー・ヴェテラン』の翻訳作品リスト。個々の短篇について、いかにも自分がはじめて訳したといわんばかりに訳出年度を付記している。久しぶりにカチンときた。
 参考資料にしないように。とんでもない量のまちがいがある。誤植とかのレベルでかたづく量でない。こんなものを基礎資料にしたら大混乱のもとである。
 チェックしまくったおかげで、ディック・カルト・クイズをいくつか思いついた。例によって答えは書かない。

☆ディックを文庫のひとつの柱にしている創元だが、ここの文庫ではディックの短篇はひとつも読むことができない。正しいか?
☆サンリオ文庫から他の文庫に移行するとき訳者が変わっていない本を三冊あげよ。
☆創元文庫に収録された、ディックについてのエッセイで翻訳によるものの著者を三人あげよ。
☆いちばん最初に翻訳されたディックの作品はなにか。
☆単行本に収録されていないディックの短篇を三つあげよ。
☆同一訳者による翻訳で訳題が三つある短篇がある。ひとつあげなさい。
☆ディック傑作集ハヤカワ文庫版四冊のタイトルを順に言え。
☆『悪夢機械』『模造記憶』浅倉久志単独訳の本はどっち。
☆「時間飛行士へのささやかな贈り物」以降、SFMに載ったディック作品はすべて浅倉久志訳である。正しいか?
☆ディックはわからないと広言してはばからない伊藤典夫はディックの翻訳を一篇もしていない。正しいか?
☆ハヤカワ文庫とちくま文庫+教養文庫、翻訳作品数が多いのはどっち。
☆ハヤカワ文庫のディック本は、すべて既出版物の出しなおしである。正しいか?
☆ディックの文庫本は版の異なるものを含めると全部で六〇冊以上になる。正しいか?
☆仁賀克雄訳と浅倉久志訳が重なる作品はひとつもない。正しいか?
☆ディックのハードカバー本を五冊あげなさい。
☆マイケル・ビショップの「はぐれトマト」の巻頭で、ある朝目覚めて巨大なトマトに変身していたフィリップ・Kは、〈どこ〉にいる自分を発見したか?
☆ハヤカワ文庫、サンリオ文庫、創元文庫。ディックの本がいちばんたくさん出たのはどこ?
☆ディックのアチラ版短篇集の表題作で、まだ翻訳のされていない作品がある。正しいか?
☆ディックの解説をいちばんたくさん書いているのは誰?


 リサ・メイスン『アラクネ』 思いのほかに面白い。人間くさいAIたちがいい味を出している。この作品がもっと早く出ていたら、『ヴィーナス・シティ』の評価がさがっていた。それくらい、スタンスやなんかで共通点が多い。むしろ未来社会小説としての魅力の方が強くて、謎解きであるアラクネの解釈とかがなかったほうがずっといい。超越のヴィジョンってみんな一緒に見えてしまう。
 ジョン・スラデック『遊星よりの昆虫軍X』 往年の筒井康隆みたい。短篇の過激さの印象が強いので、ラッカーなみの苦痛覚悟でとりついたら、意外とウェットでおセンチで、楽しく読めた。ところどころいっぱい意味不明はあった。
 F・P・ウィルスン『黒い風』 ゲテものは楽しい。池上遼一のできそこないを字で読んでいるみたい。
 『妖魔の宴・ドラキュラ編 12』(竹書房)たとえば、このシリーズを読んでも、この配列を真似て、アンソロジーを作る気にはまるでならない。そもそもそうした配列の仕掛けが見えない。そういう意味でも『80年代SF傑作選』はやっぱり立派なアンソロジーなのである。個々の作品は悪くない。『夜明けのヴァンパイア』のファンなので巻頭のアン・ライスは気にいった。フィリップ・ホセ・ファーマー「誰にも欠点はある」は短篇の出来あがりとしてバランスを欠く面もあるが、発想のひねくれかたではほかの連中と格がちがう。
 P・K・ディック『メアリと巨人』(筑摩) シリングに対する反応はじめメアリアンの性格がいまひとつ書きこみ切れずわかりづらい。ディックのSFのなかにないものがなくて、SFがない。ないものねだりの言にすぎない。読んでて不満を感じたわけではないのだから。ディックの長篇って、ぼくにとっての水戸黄門みたいなもので、なにも発見する気にならない。きもちよく読んでそれで満足。
 L・ロン・ハバード『死の代理人』 『フィアー』は面白かったけどね。これは駄作。
 夢枕獏『空手道ビジネスマンクラス練馬支部』 こういうのっていくらでも書けるんだろうし、ある種の半村良の作品とおんなじでいくつ読まされても別に腹は立たないし、他のを書くのを遅らさないかぎり、いくつでも書いてほしい気はするし、人物の配置のあまりの御都合主義も、大人の願望充足ファンタジイであるとわりきれるから、読んでて別に気にならないし、少なくともこの本はこれでおわっているのだから、まあいいや。この本なら読みたい人に読まない方がいいとはいわない。 『大帝の剣 5』どうしても、対決シーンに気がいって、ストーリーを進める部分になると文体にねばりが感じられない。これだけややこしくしてこれだけこまぎれにされるとねえ。それにしても、たとえば田中芳樹につくようなかたちの読者が獏のキャラクターにつかないのはなぜなんだろう。
 氷室冴子『冬のディーン夏のナタリー 3』『金の海 銀の大地3』 今の氷室冴子ならジャパネスクよりディーンナタリーの方が期待を持てる。しかし、つい@から読み返したら、ディーンナタリーってほんとに話がばらばら。伏線作ってはちがうところに話が飛んでいくののくりかえし。基本的に、ジャパネスクみたいに大状況に巻きこまれていく主人公の話は書ける人だけど、大状況がキャラクターを従えていく〈世界〉がメインとなる話を書けるかどうかは疑問もあって、金銀には最終的にはあまり期待していない。だけどこれを書くことが、著者のなかの、ある種の閉塞状況の突破口に思えるので、とにかく好意的に見まもりたい。



◎乱れ殺法不定期航路@
 また、例によって、読むことと書くことについてのうざったい話にと思ったけれど、新装開店謝恩セールに似つかわしくない。今回はやめることにした。
 ただ最近、そのての話に役だちそうな本を一冊みつけたので、紹介だけしておく。中公文庫の『文學大概』。著者は石川淳。文庫本収録が76年という大むかしのにいまごろ気づいた。いいかげんである。内容もさることながら(全面承服したわけではない)、漢字がやたらとヒラいているのに驚いた。ややこしいことを書いているのに版づらがずいぶん白い。このヒラき方はけっこう刺激的だった。文体をパクりたくなった。いずれはどこかでまとめたかたちでこのひとは読まなきゃなんないだろうと思う。
 前々から言っていることだけど、人間の観賞力なんて、あんまり信用していない。表紙ひとつで作品世界のイメージなんかずいぶんちがったものになる。まして挿絵の力となるともっととんでもなかったりする。たとえばティプトリーの初期コメディのリズムであるとか感触を、SFマガジンの挿絵で覚えた吾妻ひでおの印象抜きに読むことなんてとてもできない。
 若いころは、だからこそ、具象的な表紙絵は読者の想像力に枠をはめるもので、よろしくない、と決めつけていた。金子三蔵の創元文庫の表紙絵をガキ・初心者向け、早川SFシリーズの中島靖侃などを、これこそ大人のSF読者にふさわしい高尚さであると支持をしていた。
 いまでも、原理原則、理想論からいえば、意見が変わったわけではない。けれども、想像力とか妄想力とかいうものも、気力、体力が充実していてはじめて全面的に展開可能なものなのである。文章だけから風景を紡いでいくのにくらべれば、具象的な表紙絵をベースに、型にはまった世界絵図、登場人物の二次元的な顔かたちでイメージを固定化していく作業というのは、とにかくらくだ。現場感覚としては、読むのがらくになるのであれば、イメージが、カスになってもできあいになってもべつにいい。だからぼくはイラストが、いまいちばん使われているエンターテインメント色の強い冒険アクション作品よりも、むしろ重厚長大で、読むのがしんどい文学的香気漂う長篇や、ひとつひとつの作品ごとにいちいちイメージを紡ぎなおさないといけない短篇集やアンソロジーのほうにこそ、挿絵をいっぱい載っけてほしいのである。横山えいじやいしいひさいちのイラストが10ページごとに出てきたら、『重力の虹』も『フーコーの振り子』も、『クラッシュ』だって『サイティーン』だって、けっこう一気に読めてしまう気がするのだけどね。怒りくるうひともいっぱい出てくるはずである。冒涜だってね。(逆にいうなら、まじめな読者を怒りくるくるくるわしてしまうくらい、挿絵がイメージを固定する力というのは強力なのだということでもある)。
 いろんな本にいろんなイラストレーターの挿絵がはいっているところを想像すると、けっこうイメージが混乱をして、めまいがしてきて、きもちいい。『2001年宇宙の旅(真鍋博)』、『闇の公子(西原理恵子)』、『地球の長い午後(日野日出志)』、『アンドロイドは電気羊の夢をみるか(萩尾望都)』、『ニューロマンサー(江口寿史)』… うーむ。漫画家ばっかり。ほとんどミスマッチ感覚だけで考えているなあ。
 文庫の表紙の差し替えについては、創元が創元推理文庫から創元文庫に名前を替えたのを契機として、昨年あたりからシステマティックかつ大がかりな取り組みを見せ、大いに目だっている(『十月はたそがれの国』のムニャイニが吉永になってしまったのだけは少し惜しい)けれど、早川のほうもけっこういっぱいやっている。最近では、悪評さくさくだった『故郷から10000光年』がすごくいい表紙に変わっている。短命におわったサンリオ文庫のなかにさえ、『万華鏡』や『死の迷宮』など表紙を替えたものがいくつかある。
 こういう本のリストというのを、ぜひとも作ってほしい。
 とくに徹底しているのが、早川文庫の白表紙である。創元なんかも、表紙は一括して新スタイルで揃えているけど、さすがに中のイラストは元のまま。企業論理としてはそれでしかたがないと思うのだけど、早川は、中のイラストまで新しくして、表紙と揃えてしまう。そのくせ、奥付をみても改版なんてどこにもうたわない。楢喜八から加藤&後藤に変わった『異次元を覗く家』なんか、これで同じ作品世界のイメージが紡げる人がいたとしたら尊敬する。ぜひ見比べてみてほしい。
 それにしても、ページ割は同じなわけで、当然入る挿絵は同じシーンを絵にしたもの。いったん元の絵を見たうえで書き直す新版のイラストレイターの苦労というのもけっこうありそうで、そういうところを思いながら見比べるのも、また一興である。
                           (ノヴァ・マンスリー)



 「自分の意見はあいまいでいいかげんなほうがいい」と、うちわの人間相手に言ったりするのは、二〇年前でも平気でできた。けれども、たとえばファンジンみたいな流通経路がかぎられた場所であっても、文字にするにはそれなりの覚悟がいった。ましてや商業流通の場となると、仮に一〇年前に本を出すことができていたなら、ああいう言葉を冒頭でかます覚悟はまだなかったはずである。(そういえば、最近はじめて商業流通の場で、顰蹙を売るという表現を使った。読んで気づいた八割方の人間は、こいつことばをまちがえている、と嗤っているはずである)
 そこまで固めてしまった意見が「あいまい」でも「いいかげん」でもないことは理の当然で、これはもう、ほとんど〈嘘つきクレタ人のパラドックス〉の世界で、困ったことだと内心困っていたりもしていない。そういうなんだかよくわからない状態ってのが好きなのである。まっとうな世界ってなんかうそくさい。
 注目してほしいのは、この文章の意味内容が今もむかしも同じものであるということ。ひとつの意見を、口にするところから活字に移しかえるところまで、二〇年は極端にしろ、相当数の年月がかかっていること。書くことと話すことの間には、意外と大きな裂け目が開いているということである。
 うーむ。文章を書くには大変な覚悟が必要であるのだぞよなどと、脅しつけてるつもりはあまりないのだけれど、すこしはあるかもしれないなあ、そろそろえらそぶりたい年齢になってきているのかもしれないし、でもほんとのところ、もってまわった言い方で言いたいところの芯というのは、書くという行為が欠陥を内在したコミュニケーションであるということである。話すという行為も別の欠陥を内在したコミュニケーションなんだけどね。

 書いてる立場の人間にとって、なんであれリアクションがあるのはうれしい。反応に対して応答をするのが、誠意だろうなと思ったりしてたのだけど、間にドラクエWがはいって気抜けして、しんどくなってしまった。書かなくて、ごめんなさい。
 雑文を書き散らしていく作業のなかで、こだわってきたことのひとつに、書くことにはプロとアマとはあるけれど、読むという点についてはだれもがすべてアマであるということ。書くという行為が要求してくるプロとしてのスタンスに、まきこまれることなく、読むことのアマチュアリズムを維持すること。非現実的といわれてもブランデージの頑迷をもちつづけたい。ブランデージってなんのことだかわかる人ってあんまりいないんだろうなあ。
 簡単に思う人もいるだろうけど、こいつがけっこう難物なのだ。ぼくの文体がぐちゃぐちゃになってきたのもひとつはこいつのせいである。
 書くことを前提として思考を組み立てていくなかで、読むという行為は独立性を保たれず、往々にいびつなゆがみを生じてくる。受け手という立場。送り手という立場。書くという行為。読むという行為。たかだか数行の雑文のたぐいであっても、そこの活字になるまでの過程のなかではさまざまな自分の内部のスタンスが、ばらつき、あるいは連合し、作業を完結させている。
 書評のたぐいの雑文は、けっしてプロの読み手となることを求めているのでないのである(と思う)。読んだ本について、本を読んだことについて、感じたことをおもしろおかしく文章にしたてあげるということが、金をもらって文章を切り売りしている人間のはたすべき(あくまでも理想としてのべきでしかない)責任であり、その前の感じるところまでというのは、逆にプロ化すべきものではないというのが、可能かどうかは別にして、自分がよくない一歩を踏み出さすことがないように自己規制をするための行動綱領みたいな気がする。

 今のSFファンの若年層で、古本屋を愛用している人間はどの程度いるのだろうか。
 昔、SFファンにとり古本屋情報というのは必須知識だった。
 かってのSF大会ではオークションと古本の即売会が大会の華だった。コスチューム・ショーに華の座を譲っていったあたりからSF大会は変質していく。本を読み、集めている人間主体から、本を読まない参加者でも楽しめる企画中心に。いちがいにいえない部分はもちろんあるけど、参加者全員が一堂に介して、オークションを楽しむことができるくらいの、趣味の狭さと共通性、制限された人数が、重要だったのではないか。コンベンションに参加して、一言も他人と会話を交わさなかったのに、充分満足して帰ってきたりできた時代というのもあった。「異色作家」なんて言葉が、形容詞でなく特定代名詞として了解しあえる基盤というのがまだあった時代のことである。
 本が高くなったと、買いつづけているぼくらなんかは思うのだけど、たとえば喫茶店やら交通費やら、その他経費に較べると、値あがり率はむしろ低い。しかも、めったやたらと出る。氾濫しているといっていい。
 文庫本で出た本が三月もたつと大きな本屋以外では入手不可能になるという、とんでもない事態がずっとつづいている。
 現状に不満を言ってはいけない。この恩恵をいちばんこうむっているのは読者なのである。
 出版、印刷、取次、書店、すべてこの氾濫に疲弊している。
 そして意外なようだけど、古本屋というのも、この氾濫の被害を大きくうけている。
 本が氾濫すれば、ゴミ(古本)も当然増える。本が流行に左右されれば、当然新刊しか買わなくなる。古書市場の流通量が増大して、買い手が新刊を追っかけるのにせいいっぱいという状況のなかで、古書店ならぬ古本屋の存在意義は大きく減じている。
 最近ある古本屋で、店主がバイトに説明している内容を聞いて、茫然とした。文庫本を売りにきたとき、奥付を見て、80年代になっていたら引き取ってはいけないというのである。なぜなら、客が、80年代の奥付の本は買ってくれないからなのだそうだ。
 つらい話である。
 もっともこうしたことは、商売をやっているあちら側の問題である。
 消費者としては、むしろこうした状況のメリット面をいかに享受していくか。そこに知恵をしぼっていけばいいのである。



 連載回数でついに「内輪」と並んだ。最長不当距離(うーむ、この変換はなんだかわからないけど気にいった)をめざしてがんばることにする。
 岩波文庫クイズというのを作ろうとしたけど、四つで挫折。
1 岩波文庫の日本作家の小説で、まだ作者が死んでいない本はなにか。
2 岩波文庫の作品で、講談社文庫福島正実アンソロジーに収録されているものがある。なにか。
3 イギリスの小説で岩波文庫白表紙に収録された作品は?
4 岩波・早川・創元文庫に収録された作品は?

『風太郎はこう読め』(図書新聞社) 平岡正明の山田風太郎についての雑文を集めた本。二九〇〇円という値段は気にいらないけど、買う人間しか買わない本だし、三五〇〇円くらいまでなら怒りながらも買っていたはずだから、まあ、妥当ということだろう。『魔界転生』収録分がはずしてあるのは再刊の予定でもあるということだろうか。そのぶん極真空手や河内音頭に連なる肉体論的風太郎論という、ぼくとしてはあまり好きでない方の平岡風太郎論が前面に出ている。その流れを踏まえて、こいつも『柳生十兵衛死す』に迎合しやがってと怒ったりもしている。本音としてはけなしているととれなくはない文章なので、まあ許そう。裏でけなしておきながら、去年のSFベスト3にすべりこませる某ザッタ関係者もいることだし。この程度のもので年寄りなのに凄いというんじゃ、R・A・ラファティなんかはどうなるのだ。風太郎より八つも年上なんだぞ。『おぼろ忍法帖』と『忍法魔界転生』という題名が混在したり、もうすこし手を入れてほしかったとは思うけど、まあ、楽しく読んだ。
 SFマガジン四月号、見開き2ページにぎゅうづめに押しこめられた安部公房の追悼に、今の日本のSFの、現状というのが反映しているようで、けっこうつらいものがある。早川文庫ベストにしても、70ページをあてたHMMのポケミス一五〇〇番記念号と比べるとずいぶんさびしいものがある。
 アーサー・C・クラーク他『宇宙のランデヴー3』 『宇宙のランデヴー2』が『総門谷』の上巻だとすれば、『3』は下巻である。内容はともかく一生懸命勉強した成果を並べ、それなりの布陣を敷いてみせたのが前者とすれば、敷いた布陣を独力で動かしたのが後者である。構想力と想像力のちがいといってもいいかもしれない。勉強したとおりに大矢倉を組むところまではできても、動かし方がわからなくて、組んだ矢倉を自分で勝手に崩してしまうへぼ将棋指し。『2』で一度逆上し、軌道修整したせいで、もう大丈夫と思っていたら、『3』でもう一度逆上できた。自分が往年のクラーク・ファンなのを実感できる貴重な本。
 困ったことに解説で積極思考を展開したら、言葉に絡め取られてそれなりに許せる気分になっている。許したくない。怒りをかきたてとかねばならない。
そのためにもここに記録を残しておきたい。
 だけど考えようで、愚作を読んだと逆上した読者のわずか数人でも、解説で、その人の読後感をまどわすことができたなら、それはそれでやりがいといっていいことかもしれない。正しく読んで怒るより、まちがって読んで楽しんだほうがいい(かもしれない)わけだから。
 それにしても、なにが苦手といって、R・A・ラファティの書評くらいやりにくいものはない。フィリップ・K・ディックとかジェイムズ・ティプトリー・ジュニアとかならいろんなことをどう書いてもなんとかなる気がするけれど、ラファティだけはなにをどう書いたらいいのかいまだにわからない。そのわりには似たようなことを書いてきている気がしないでもない。
 避けて通るわけにいかないし、やれば自分の読解力の貧しさを満天下に晒す恥ずかしさがある。この人の本についてのいろんな人の書評を、プロジン、ファンジン問わずかき集めて一冊のファンジンを作る気はありませんかね、まきしんじ殿。
 『どろぼう熊の惑星』は、やっぱり読むのに時間がかかった。
 設問1 なぜこの作品が表題作なのか。
 設問2 このなかでいちばんラファティらしい作品はどれか。
 設問3 この作品集から時系列的変化は読みとれるか。読みとれたとしたら、それ    はどのようなものか。
 梶尾真治『ドグマ=マ・グロ』 『ドグラ・マグラ』をきちんと読むいいきっかけになると思ったのだけどね。見あたらなくなっていた『ドグラ・マグラ』を教養文庫版でわざわざ買いなおして、意気ごんで立ち向かったら、ふつーの軽SFだった。
 夢枕獏『新・魔獣狩り 2』 いつになく文章にためが感じられない。
 『海がきこえる』 氷室冴子 『ディーンナタリー』の原型みたいな本。あとがきに納得のいくものがあった。
 読んだあとで土佐弁の言語指導をしたのが大森望だという話を聞いた。読んだあとでよかった。主人公に大森望の顔が重なって、読めなくなった人間がいる。
 同じく氷室冴子『金銀 4』 勢いがついてきた。こちらもなじんできた。だけどコバルト92年12月号までこなしちゃったからなあ。また、当分続篇は出ないということになる。
 『カッティング・エッジ』 デニス・エチスン編のホラー・アンソロジー。序文が一読の価値あり。ただしSFのピークは七〇年代前半までは続いていたと思うのに、自分を正当化するため、SFがすばらしかったのは六〇年代までだったと歴史を歪曲している。SFに幻滅したあげくにみつけだしたのが『心理サスペンス』や『闇の展覧会』だと聞くと、へえそうですかとしかいえないんだけどね。
 『最後の伝令』 ひさしぶりに筒井康隆を読んだら、一時期より作家人格が批評家人格より強くなってきた気配がある。でも『薬菜飯店』とくらべると、ひとつひとつが短くてつまらない。
 『妖星伝 最終巻』半村良 連載をちょっと覗いたときは、あまり感心しなかったけど、こうやって本になってみると、これはこれでいい。長い中断のせいで細部で辻妻のあわないところができてしまっているけれど、しかたのないところだろう。とにかく、前六冊をぶちこわしにするような本ではなかった。



乱れ殺法不定期航路A  英米SF基礎強化夏期特別講座 アンソロジーの十年

 1955年までに英米で出版されたSFアンソロジー(ホラーを含む)のリストである。年度別、編者ABC順であるので、厳密な意味での刊行順にはなっていない。100%の自信はないけど、90%くらいは網をかぶせたはずである。
 スペル・ミスが山のようにある。めんどくさいから直さなかった。ほかで利用するつもりの人は、他の資料ときちんとつきあわせをするように。個々のデータの正確さより、全体の流れや輪郭がうきあがってくることにこそ、リストを作り、リストを読む、楽しさがあるというのがくりかえし主張しているぼくの考え方だから。利用されるリストより、眺めて読んで楽しむリストを!
 
【現在からの注 リストがない。どっかへ行ってしまった! 文章だけというのも間が抜けてるけど、とりあえず入っているので載せることにした。ごめんなさい】


 ここに並んだ100冊ちょいのアンソロジーの位置と特性、編者と収録内容につき、6割がたを空でおぼえることにしよう。
 それだけで、あなたは、日本におけるこの領域の最高権威に成り上がる。伊藤典夫、浅倉久志とだって対等にわたりあえる。(と思う)。ちなみにぼくで、2〜3割くらいの知識量かと思う。
 で、元ネタ本と首っぴきで、必須項目について、駆け足でコメントをしていくことにする。
 bQ:あんまり聞いたことのない本だが、『SF百科図鑑』によると、いくつかの先行本をひとまず置いて、この本をSFアンソロジーの第一号と考えるのが妥当とのこと。編者名、題名ともにじつはまちがい。正しくは、THE OTHER WORLDS ED.BY P.STONG うーむ。頭からおまぬけ。25篇の収録で、そのうち半分がウィアード・テールズから。カットナー、スタージョン、ラブクラフトなどが含まれている。
 初期アンソロジーの代表格とされているのが、bR、bW、10、13の、4本である。
 bR:昔はこの本から紹介が始められるのが常だった。ドナルド・ウォルハイムによる最初のSFアンソロジー。H・G・ウエルズ、アンブローズ・ビアス、ジョン・コリア、スティーヴン・ヴィンセント・ベネーといったジャンル外の大物に、スタンリイ・G・ワインボウム「火星のオデッセイ」、ジョン・W・キャンベル「薄暮」、シオドア・スタージョン「極小宇宙の神」、ロバート・A・ハインライン「歪んだ家」などをからめた全10篇のこぶりな本。
 bW:ウォルハイム二つめの本は収録作品たったの四つながら、七百頁を超える巨大なもの。なにせH・G・ウエルズ『月世界最初の人間』、オラフ・ステープルトン『オッド・ジョン』、H・P・ラヴクラフト「超時間の影」にジョン・テインの長篇というしろもの。
 ジャンルSFの権化のようにみられがちな人だけど、ごらんのように、目配り、土台はきちんとしている。
 10:グロフ・コンクリンの最初の、そして総括タイプのアンソロジーである。
全部で40篇。うち25篇がアスタウンディング誌。ハインラインの中篇が「大宇宙」をはじめ4篇はいっている。
 グロフ・コンクリンの総括タイプ・巨大アンソロジーはこの後も、48年に17(30篇)、50年に27(32篇)などが出ている。
 その後、時間、次元、ロボット、ミュータントなどテーマをしぼったアンソロジーを量産し、五〇年代アンソロジストの第一人者となる。
 テーマ・アンソロジストのライバルとしては、(古い)マーチン・グリンバーグとレオ・マーギュリーズの名前あたりをおさえておくこと。
 13:御存知ヒーリイ&マッコーマスの『時間と空間の冒険』である。全35篇のいち32篇までがアスタウンディング誌。
 金字塔的アンソロジーとして、高い評価を受けている。もっともぼくの趣味としては、この時代の話の大部分は、正面突破の粗っぽさ、泥くささを感じる。
 やたら目につくオーガスト・ダーレスの本は、ウィアード・テールズを中心としたホラーのアンソロジーがほとんど。
 ダーレスの本も五〇年代にはいるにつれて、時代に抗せず、SFへと傾斜していくことになる。
 19:こんなに若い番号で早くも年刊傑作選の出現である。1948年に発表された作品から選りすぐった、最初の年刊SF傑作選。このシリーズは途中から、T・E・ディクティの単独編集となり、姉妹篇の中篇集を出したりしながら、1957年版まで毎年刊行される。ただし、最後の三冊は刊行時期のずれから、年刊傑作選としては収録内容が次の年にまたがったりしたものがあって、計算すると十集ないといけないはずが、第九集までしか出ていない。
 対抗馬として、ドナルド・ウォルハイムによる52年版(84)、オーガスト・ダーレスによる53年版(93)などがあるが、いずれも単発でおわっている。ジュディス・メリルの傑作選は55年版から登場し、T・E・ディクティの本の実質二冊分と競合している。
 その後、1980年代にはいって、アイザック・アシモフ&マーティン・グリンバーグによる年度別傑作選が1939年版を第1集として刊行されている。これらの傑作選との内容比較というのは、またそのうち機会をみつけて行ないたい。
 23:作家自身に自分のベスト作品を選ばせたアンソロジー。39も同じ方法を取っている。
後に、ハリイ・ハリスンが、AUTHOR'SCHOICE という題名で4冊シリーズ化して出している。作者がいちばん気にいっている話であるはずなのに、同じ作家の収録作がアンソロジーごと全部ちがっているのがご愛敬。
 これとはべつに、他の複数の作家や編集者に選ばせた作品をとりまとめて本にしたものがある。『ヒューゴー賞傑作選』や『ネビュラ賞傑作選』などがいちばんいい例だが、101 はその種のもののさきがけといっていい。賞とか、投票行為とかと無縁のものなので、企画的には、23の変形と考えるのが正しい。
 25:すべて新作からなる、オリジナル・アンソロジーの登場である。フリッツ・ライバー「飢えた眼の少女」を表題作としたアンソロジーで、ウィリアム・テンの「金星の七つの性」などがはいっている。
 ただし、この本は新雑誌発行計画が流産した結果としての偶発的なものであり、本来的な企画としては、『時間と空間の冒険』の編者による43:『新・時間と空間の冒険』から見ていくべきかもしれない。レイ・ブラッドベリ「ここに虎あれ」、クリス・ネヴィル「ベティアンよ帰れ」、A・E・ヴァン・ヴォークト「果たされた期待」、アンソニイ・バウチャー「聖者を尋ねて」など、意外なくらい安定した質の高さを維持している。
 ほかにも、54、94などの単発品があるが、忘れてはならないのが、80、81とつづくフレデリック・ポールの『スター』シリーズである。
 ここんところについては、マリオン・ジマー・ブラッドリー『ヘラーズの冬』(創元)のおまけでかなりくわしく書いたので、重複を避けることにする。
 最後に、雑誌別傑作選というのがある。
 これが不思議なことに、52年にいっせいに登場する。
52:『アスタウンディング傑作選』は過去に出版されたものが、半分がたアスタウンディングを草刈場にしてきた経緯もあって、選択に相当苦労をしている気配がある。22篇の内容は、アイザック・アシモフ「夜来たる」、マレイ・ラインスター「最初の接触」、T・L・シャーレッド「努力」あたりはいいとして、ヴァン・ヴォークト「野獣の地下牢」、ルイス・パジェット「親枝の折れるとき」なんて、もっとほかの作品もあるだろうに、という感じ。作家も、小粒なのがたくさんはいって、この雑誌のはじめての傑作選というには、貧弱すぎるというのがいつわらざるところ。
51:『F&SF傑作選』は雑誌自体がまだまだ小粒な状態。
59:『ギャラクシー傑作選』は贔屓目をさしひいても、やっぱりこの三冊のなかではいちばんすごい。33篇の内容は、フリッツ・ライバー「性的魅力」、ワイマン・グイン「危険な関係」、フレドリック・ブラウン「地獄の蜜月旅行」、同「最後の火星人」、フレドリック・ブラウン&マック・レナルズ「未来世界から来た男」、ウィリアム・テン「金星は男の世界」、同「ベテルギュース橋」、アイザック・アシモフ「女主人」、フランク・M・ロビンスン「英雄はごめんだ」などなど。
 創刊されて、まだ一年余りしか経っていない雑誌なのにねえ。
                           (ノヴァ・マンスリー)




 TVゲームなどというやくたいもないものとはいいかげんに縁を切らねば。
 そんな決意も新たに、再稼働中あるいは潜在再稼働性をもつゲームをすべて、大野万紀、てらさん、古沢嘉通ほかの地に放逐した。
 次の日から、みんな持ってて引き取りてののない「ドラクエX」が再々稼働している。かなり自己嫌悪を感じている。
 それで「バトルコマンダー」を買ってきた。つまらないつまらないと言いながら、エンディングまでたどりついてしまった。
 鞄に入れて持ち歩いている『重力の虹T』が一週間たっても、20頁しか進んでいない。
 ばかである。
 『伝説のオーガバトル』の攻略本が手にはいらない! 人より遅れて人気ゲームに手を出すと、こんなしょうもないことで本屋をはしごすることになると、身をもって思い知った。
 ばかである。

『アインシュタインの夢』アラン・ライトマン きもちのいい本である。『グリフォンズ・ガーデン』と似た雰囲気がある。きれいごとの科学ときれいごとの人生模様の幸福な結合。『マルコポーロの見えない都市』とは比較しないほうがいい。高校生くらいに読ませたい本。アインシュタイン・エピソードが邪魔だ。今年の中短篇のベストのひとつ。字数を数えてしまった。エピソードひとつが基本的に二千字。原稿用紙五枚である。
 『第七の封印』オースン・スコット・カード カードの小説のやなとこって、本人の心根のどこかに根本的に品性下劣があることだ。しかも、その下劣さに、あきらかに呼応してしまうものが自分のなかにある。カードの下劣さがずぶずぶ自分の内部を侵食し、共鳴りしながらうちなる下劣が立ち上がってくるようで、そこんところがおぞましい。そういいながら本が出ると必ず読む。おぞましがりながらそれなりに汚辱まみれの満足感をかかえてしまう。墓穴世界である。
 ガブル、ガブル、ガビッシュ!
 『血も心も』(新潮)エレン・ダトロウ編の吸血鬼アンソロジー。いくつかの旧作をまじえたオリジナル・アンソロジー。秀作が二つあった。レオニード・アンドレイエフ「ラザロ」とフリッツ・ライバー「飢えた目の女」。あとまあゲイアン・ウィルスンの「海はどこまでぬれにぬれ」もまあ、わるくない。
 なにも好んで古い話を選んだわけではなくて、これらの話の凝集度にくらべると、現代作家の面々は、どれも話が冗長で、とってつけた嘘くさい結びでもって片づけることしか考えてないように見えてくる。それに、サイコ・スリラーのたぐいを読んでいるのと感触がほとんどかわらないのだね。秀作二つはそれぞれに、そんな混同を感じさせない確固とした伝統的風格がある。アンドレイエフには格調高い豊饒な幻想小説ならではのよさが、ライバーにはもちろんみまがえようのないSFの味がある。
 このセレクションのなかでだと、エリスンが不幸だ。それなりの話であると思うけど、むしろつまらなくなるSFの先駆作的印象が生じてしまった。
 『天使猫のいる部屋』 薄井ゆうじ 二年前の話題作。いまごろ読んだ。とてもできのいい、よく研究のいきとどいた、村上春樹の、それも『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の村上春樹のエピゴーネン。さらにいうなら『世界の終わり』よりも、いい村上春樹を読む味がある。ここまでやってくれれば満足。




『金の海、銀の大地5』氷室冴子              ☆☆☆☆
『こっころから』佐野洋子                 ☆
『声のない日々』鈴木いずみ                ☆☆☆
『アヌビスの門』ティム・パワーズ             ☆☆☆
『石の夢』ティム・パワーズ                ☆
『禁断のクローン人間』J・M・トリュオン         ☆
『アベル/ベーカー/チャーリー』ジョン・R・マキシム   ☆☆☆
『約束の土地』リチャード・バウカー            ☆☆
『リムランナーズ』C・J・チェリイ            ☆☆☆
『牙鳴り』夢枕獏                     ☆☆
『スターバースト』ジェフリー・カーヴァー         ・
『スターストリーム』ジェフリー・カーヴァー        ☆
『辺境の人々』オースン・スコット・カード         ☆☆
『エニグマ』マイケル・キュービ−=マクダウエル      ☆☆☆
『ナイトサイド・シティ』ローレンス・ワット=エヴァンズ  ☆☆☆
『敵は海賊・不敵な休暇』神林長平             ☆☆☆
『天国にそっくりな星』神林長平              ☆
『ロボットの魂』バリントンベイリー            ☆☆☆☆・

 ザッタが出ないせいで、文章が書けなくなった。「週間読書人」の二枚の原稿までうまく書けなくなった。惰性の力というものはほんとうに大切なのである。読み終えているSFがらみの本というのはだいたいこんなところだろうか。なんか抜けてるような気もする。あとこれとほぼ同量の挫折本(『重力の虹』『サイティーン』FTいろいろ他)がある。
 とりあえず、いい意味わるい意味で意外性のあった本を拾っていくと、氷室冴子の『金銀』はバックボーンの社会構造を人脈をからめてここまで書きあげる力があるとは思わなかった。メリッサ・スコットに爪の垢を煎じてやりたい。佐野洋子の本は、箸にも棒にもかからない、小説のていすらなさないものなのに、読ませてしまうところすごい。
 『アベル/ベイカー/チャーリー』は夢枕獏みたいな小説だった。こんな小説作法から磨いていって『ファイナル・オペレーション』のプロットにたどりつくということが、出てみると、それなりにつなげて納得できる部分もあるけど、やっぱり意外だ。おもしろかったし、へんなとこがあって好きだけど、あんまりあっちこっちで褒めるほどのものではない。別の本へのオマージュめいたところがあって、まだ習作の域だろう。
 『エニグマ』最後の百頁がなければとてもいい小説だった。『ナイトサイド・シティ』SF的小道具のさりげないあつかいがけっこう好き。だけど、たぶんSFファンはストーリイがSFでないって怒りそうだし、ミステリ・ファンは説明らしい説明も加えずガジェットをまきちらす書き方がうざったらしくていやがるだろうなあ。『ロボットの魂』泣かせのはいったきれいなラストに拍手。小説としての完成度では、これまででいちばんいいのでないか。

 もともとリストの行間をつないでいくのが趣味だから、競馬には手を出さないでおこうとしたのに、てらさんその他にあおられて阪神競馬場につれていかれた。リストの見方と馬券の買い方を教えられると、たしかにテレビの見方が変わるのだ。ひとつのレースが単発で終わらず、そのまま何週間かあとの資料として収納されることになる。あんなものにひっかかると土日が毎週つぶれてしまう。やばいなあと思いつつ、とりあえず『競馬四季報』を一冊だけ買ってしまった。警戒警報。




 アラン・ディーン・フォスター『スペルシンガー』『救世の使者』
 『スペルシンガー』でフォスターという作家をけっこう見直した。なじみのある景色だけだけれど、登場人物ひとりひとりをきちんと愛情こめて書きわけた、ていねいな世界の構築ぶりにすなおに好感を持った。なんにもないけど、なんにもなくてもちゃんとこれだけしてたらいいじゃない、という感じ。それなりの意欲を感じた。もともと小理屈を効かしたユーモア・タッチに弱いところがあるしね。
 それが『救世の使者』で軽くくずれた。ちょうどデヴィッド・ビショフの『運命のダイス』(ゲーミング・マギ)とおんなじで、そういやあっちもノヴェライゼーション作家だった。
 紋切型というのは、じつは過不足なく読者を愉しませてくれる、いちばん強力な技術であるはずである、というのがいわゆるひとつの持論であって、ほんとうによくできた紋切型小説は、絶対に読者に紋切型を読まされたという文句を言わせないという確信がある。その代表がフリッツ・ライバーである。そもそも作風というものは、作家個々が開発した、それぞれ独自の紋切型の謂でもある。紋切型と非難をうける小説は、形どおりの展開に肉の厚みを与えることなく自動書記の要領で字面を連ねることから生じる。あるいは、逆にいつまでもだらだらだらだら読む方が飽きがくるまで語り続けて読者を捉えた呪縛の霧をはらしてしまうことで生じる。
 あとのやつの代表格がエディングス。『ベルガリアード物語』を、けっこう意外な拾い物と喜々として読み出して、かすかな、それでもまあほどほどに心地よい疲れとともに読み終えた。けれどもそのあとしつこく出てきた『マロリオン物語』には、疲労困憊、なんでこんなものを読みつづけないといけないんだろうと自問自答をくりかえしながら読みつづけ、なんと一〇分冊の九冊目まででダウンした。ここまで読んでもったいないと思ったけれどふつうの本より短めの最後の一冊がどうしても読む気にならなかった。キャサリン・カーツを読みかけて放りだしたのも、内容もさることながら、エディングス後遺症という面もたぶんある。(表紙が同じおおやちき)
 『救世の使者』は前者の代表みたいなもの。作者が書くのに飽きたとしか考えられない粗っぽさでプロットを消化していく。布陣を固めるところまであれだけきちんとやっていたのが嘘みたいな拙速ぶり。もっとも五冊くらいかかるのではないかと思っていたのが二冊で終わってほっとしているところもあって、それほど怒ってはいない。でも続篇はもういらない。
 ただちょっと気になったのは、この本のラストのあたりは、かなり有名な向こうの歌をストーリイに重ねるかたちでクライマックスを仕掛けている気配があると思うのだけど、そのへんの仕掛けが翻訳からは読みとれないこと。『スペルシンガー』のときも「インターナショナル」の歌詞を定訳を使ってなかったりして(著作権の問題がからんでるのかもしれないけれど)、ちょっとそのへんのからみで、読みやすさ云々とちがうところで、ぼくとしては珍しく訳について不安が残った。
 グッレグ・ベア『タンジェント』
 序文でベアがSFとファンタジイとの区別を一生懸命つけようとしているけれど、ぼくの割り切り方からいけば、ここにはいった作品までは全部ジャンルSFの集合体に含めてしまう。
 科学的な物の見方に思考の枠を嵌められ、アメリカSFの伝統を忠実に踏まえた作家にちゃんとしたファンタジイなんか書けるはずがないのであって、グレッグ・ベアというのがほんとうにとことんSF作家であるのが一読すればよくわかる。
 どの作品もSFらしさがあふれ、読みどころのシーンがきちんと盛りこまれている反面、話として中途半端なものが多い。ちゃんとしているのは「ウェブスター」と「白い馬にのった子供」くらいで、あとは長さと話の帳尻を合わせられずに苦労している。
 好感を残すものの、短篇作家としては高い評価は与えられない。
 遊びの中に、おうまさんがはいってきて、新聞をいくつも読んだり読み返したり、実況みたり、競馬場にいったりと、金はそれほど使わないけど、あれはいっぱい時間をとる。ロマサガ2も発売されて、わたしゃ時間調整でパニックになっている。