【1992】
 あけましておめでとうございます。
 全国年末宝くじ3等百万円は各組共通164106でした。わたしがただ一組買った連番十枚は、
164090〜164099でした。
 バカヤロー!

 前号で岡本俊弥先生にいただいたご忠告でありますが、先生がすべきであると申しているようやったつもりであるのだけれど。もう一度、あとがきの文章をよく読むように。だから、思いつきや萌芽レベルのアイデアまでかたっぱしからほりこんで、このへんのところをもっときちんとやったらいいのに、などといっぱい言われるのである。商業的制約(読んでもみんなおもしろがらない)や構成上の美学的対応として踏みこまなかった領域は、ないではないけど、とりあえず、関連的に思いつくもの、全部ほりこんだつもりであります。京フェスパネルのなかでの「未完結の状態を目指して書いた」という発言の意味をとりちがえたみたいだけれど、序章をちゃんと読み返すように。整理された結論的言辞のもつ〈正義〉の立場、押しつけがましさに文句をつけていくからには、書いた本人にとってさえ、読み返すたびに切り捨てたり追加したりしたくなる(かもしれないように思えてくるかもしれないような)、形成過程、発展途中的スタイルをとれないものかと意識した、そういう意味の発言だったつもりであります。あるいは本を読んだ感想が、そういうものであるのなら、わたしに対する過大評価が過ぎるというもの。書ける中味を温存して、あれができるくらいなら、わたしゃ会社をやめている。長いつきあいなんだから、ぼくの場合、「『SFに何ができるか』と戦える本になった」なんて発言はよほどのことがないかぎり言えないくらい、理解するように。
 まったく、気はずかしい弁解をさせるんじゃない。そっちが活字にしなければ、絶対に書いたりしない話なのである。そうでなくても、あのパネルでは、意図やテーマや、本来著者がしゃしゃり出て講釈たれるべきでない、くだらないことをいっぱいしゃべるはめになり、おわったあとでけっこう自己嫌悪におちいってるのだ。
 と、いったことを例会でしゃべったら、てらさんにも古沢にも、岡本先生が指摘したようにとれる言い方を京フェスで言っていたと言われた。
 うーむ。
 自業自得らしい。

 大野万紀先生の発言については、どんどんおやりくださいといっておきます。
「宇宙船やタイムマシンが出てくればSFなのか」という設問に、そうじゃないと思うのだけどというところから出発し、たどりついた答えの極北としての「『火星の砂』より〈ザンス〉の方がずっとSFである」というフレーズは、前にも言ったようにぼくだってどこかへんだと思うもの。でも、ぼくの理屈だとそういうことになっちゃうのである。ぜひとも「〈ザンス〉より『火星の砂』の方がずっとSFである」という文章につながる、「宇宙船やタイムマシンが出てくるのがSFでないならば、何が出てくればSFなのか」というのを、かたちにしてほしい。それは同時に「『甲賀忍法帖』が『妖説太閤記』より、よりSFに近しい」という結論にも結びつくはずである。健闘を祈ります。
 塩をひとつ送ります。フレデリック・ポールの『ゲイトウェイ』という話、SF以外のなにものでもないくせして、認識的異化作用まがいのぼくの論旨がぜんぜん適用できない。この本がSFの本質をなぜ体現しているか説明できればべつの(ハードSF寄りの)SF論ができるような気がします。

 ジョン・E・スティス『レッドシフト・ランデヴー』五〇ページで放りだした。小説が下手すぎる。
 メリッサ・スコット『遥かなる賭け』プロローグはかっこいい。骨太のストーリーを語り得る筆力のある作家の出現を感じさせた。わくわくしながら三〇〇ページくらい読み進み、詳細に描写される帝国社会の諸制度が、〈制度〉としてたちあらわれる興奮をかけらも生じさせないこと、結局マキャベリの時代から進歩のあともみられない権謀術数ゲームでしかないこと、しかもその種の小説につきまとう殺伐さや平板さを消し去るためのエンターテインメントとして欠くことのできない条件ともいえるラヴ・ロマンス的要素が、フェミニズム的立場から批判されることを怯えているとしか思えない著者の守りのスタンスにより、きれいさっぱりはずされていること、そういうことが見えたところで放りだした。
 その昔、アーシュラ・K・ル・グィンやジョアンナ・ラスやケイト・ウィルヘルムのフェミニズムにからめた攻撃的なスタンスはSFの内容をより豊富化するものにみえ、好感をもって接してきた。
 しかし、この小説から感じとられるフェミニズム的空気は、エンターテインメントのひとつの重要な柱といえるラヴ・ロマンス的テーマを抑圧し、物語の内容を貧しくしていく教条主義的権威である。
 この小説を読んで、はっきりわかった。
 いまやフェミニズムはSFをむしばむ最悪の癌のひとつである。
 わたしは怒っている。
 おかげで、続いて手にした『我らが影の声』の評価がやたらと高くなった。ストレートなまっとうなジョナサン・キャロルである。主人公はもっと悪いやつだと思っていたのだけどね。兄がどんどん悪くなっていったのも、主人公が裏で細工をしていたからだし、兄の死ももっと意図的な主人公の捜査によるもので、そういうもうひとりの自分というのがラストであらわにされてくると思ってた。そういう話もとくになく、たんたんと、まあ、それなりにおわってしまった。この作家の口当たりのよさはいずれ、レイ・ブラッドベリ、スティーヴン・キングに連なる大衆的支持を得るはずである。
 フレデリック・ポール『マン・プラス』今ごろ読んでいる。評判になった仕掛けは評判になるまえに読んでいたら、すこしは値打ちがあったかもしれない。勉強ぶりがうかがえるよくできたたいしたことないハードSF。とくに読まなくてもいい。
 フレデリック・ポール『ゲイトウェイ』今ごろ読んでいる。いやあ、おもしろいではないですか。ポールが小説世界にこれだけ厚みをもたせることができるとは思わなかった。見直した。徹頭徹尾最後までなさけない主人公が成功している。広告その他の差しこみ記事はなかってもいいように思うが、あってもそれほどわずらわしくない。
 フレデリック・ポール『ゲイトウェイ2』これも傑作。ポールって深化してるけど矮小化ぜす、ちゃんと昔ながらの総合科学的姿勢を維持しているではないですか。苦手な領域を避けてるようには全然見えない。最後の数章、このさきなんでもありの大盤振るまいはこれからの人類の大黄金時代を思わせてとてもすてきな結び方だけど、こんなことをして人類種族をスーパーマンにしちゃったら、あとのシリーズ、けっこうつまんなくなりそうである。
 フレデリック・ポール『JEM』ストーリイがけっこうわずらわしい。安田均氏がなぜ『ゲイトウェイ』より『JEM』のほうがいいといったのかよくわからない。異星への人類の植民についてこまめにデータを埋めているだけで、意外性がない。なんのために読めばいいのか、という言い方はへんかもしれないけれど、そういうとこがよくわからない。
 フレデリック・ポール『ゲイトウェイ3』ヒーチーが出てきてこんにちわというお話。まあ、シリーズものとしては可もなく不可もなしというところ。一、二のあれよあれよからみるとあんまり話が動かなかった。
 フレデリック・ポール『ゲイトウェイ4』これはカス。書くネタがもう、〈暗殺者〉とはいかなる存在かというのしか残ってないのに無理に長篇にしようとするから、気の乗らない不必要なエピソードをいっぱいくっつけて、結局なんであんな話がいったんだと腹を立てることになる。
 フレデリック・ポール『ゲイトウェイへの道』上げ底本。ゲイトウェイ外伝にあたる出来としてもまあそこそこの中篇をひとつしあげたものの本にするには長さが足らない。しかたがないからその話をはさんで、『ゲイトウェイ総解説』という珍妙なものを作ってしまったというところ。
 エリザベス・アン。スカボロー『治療者の戦争』なかなか泣かせる話だった。心霊治療ネタというのが気にいらなくて避けてたのだけど、むしろちゃんとSFになっている。今月一番の拾い物。こういうのはわたしはフェミニズム作家とはいわない。
 ピアズ・アンソニイ『タローの乙女』一作目よりはかなり落ちる。



 『本多の狐』羽太雄平 ☆☆+ 隆慶一郎キャラ、オン・パレードという評価すべきか批判すべきか迷う本。隆慶一郎と比較すると、史観的広がりがかなり貧しいけれど、人物はよく動いていて、それなりにおもしろい。
 『龍の帝国』(文春)ディヴィッド・ウィングローヴ ☆☆☆ ここんところ、SFマガジンの良平先生と評価がよくくいちがうようになってきている。総体的にぼくの方が甘い。『治療者の戦争』にしても、良平先生がなにに反発しているかわかんなくはないのだけれど、そういうことを考えようともしない連中のなかで努力しているだけでも許してやっていいと思う。SF的設定は地味だけれど、仕掛け自体は、小説の組み立てのなかで、メリッサ・スコットなんかより、ずっとSFとして機能していると思う。
 『龍の帝国』も設定の何箇所かに無理を感じたことは事実だけれど、けっこううまく未来大河歴史ドラマの風格をかもしだしてて、ぼくとしてはとりあえず期待しながら次巻を待ちたい。
 『臨床の知とは何か』(岩波)中村雄二郎 ☆☆ 過去のこの人の新書本を読んでいて、題名と目次を見たら、内容と結論はほとんど見当がつくという本だけど、だからといってもいいんだろうけど、緊張もせず気持ちよく安心して読めた。読んでるうちに、この人の文章というのは平易な単語を使っているので、知らず知らず頭のなかにすべりこんで、無意識にずいぶん盗作している気がしてきた。
 ただ、前の『問題群』もそうだったけど、以前の本より、資料が生のかたちで引用されるようになってきて、そのぶんやわらかみが消えている。
 『文学がこんなにわかっていいのかしら』高橋源一郎 ☆☆☆☆+ 古本屋で手に入れて、やっと読んだ。朝日の文芸時評で知っていたけど、ここまですごいとは思わなかった。☆ひとつ少ないのは、もっとすごくなったときのためのスペースである。『SF控』を出す前に読んでいたら、書く内容をこの本からどうやって迂回させようか、悩んできっとめげてたはずである。必読。
 『****』***** ☆☆+ 題名やらなんやらで前々から気になっていた。第二作『****』が出た機会にまとめて買った。
【現在からの注 まだ安定した作風と評価を確立しているわけでない若手に対して批判的言及をまじえた文章をそのまま外に出すことに、ちょっとためらう部分があって、ただ、こっちもけっこうまじめに向かい合った意識もあって、削除してしまうのにも未練があって、伏せ字という処理をいたしました。ほかにも、伝聞内容等で、発信人の名前をいくつか伏せ字にしたものがある】

 若書きと悪ずれの部分がかなりつらい。登場人物が自分たちを小説内存在として自覚している言動は、もともとメタ・フィクションに連なっていく前衛だったはずだけど、いまやコミックその他で平然と使用されるレトリックになってしまった。だけどあれって使いこなしが相当に難しい。下手につかうと小説のリアリティをこわしてしまうことになる。早い話が、登場人物がなぜ小説内存在であることを知っているかを小説世界の在り様と矛盾させずに説明できなきゃいけないはずなのである。そこをうまくこなすと、けっこうすごいものになるのだけど、そこまで考えずに、すぐ〈パターン〉などという単語を使われるからいらついてくる。
 ただし、そういうスタンスを取りたがる性格自体はむしろSF向きともいえ、中に詰めこまれたアイデア、設定、骨格その他は、思った以上に硬質で、かなりつらい現物と重ねあわさる☆☆☆☆クラスの作品の幻像がうかんでくるというやっかいな本。読むだけ無駄、という本ではない。
 『スターライト』(福武)スコット・イーリイ ☆☆☆+ またヴェトナム戦争ファンタジイである。色彩感、インパクトでは『治療者の戦争』より上。おもしろく読んだけれども、読み終えてなんか不満が残って、よくよく考えてみると、『治療者の戦争』ってSFとしてどうのこうのと言えるけど、『スターライト』はSFとなーんも関係ないのだね。だれもSFだなどと言っていない本なのだから、わたしの読み方が悪かっただけのことなのだけど、仕掛けを読みとろうとして空振りしたのが軽い不満の原因である。
 わたしが悪い。
 だから、へたくそ、御都合主義、読者を馬鹿あつかいしていると文句をいくらでもみつけられるピアズ・アンソニイの『オーラの王者』に対しては、甘く見積もっても☆☆の評価しかできないくせに、SFの仕掛けだけは律義に守ってくれているものだから、気分的には読もうとしたものを読ませてもらえた安心感を味わっている。ピアズ・アンソニイとジャック・ヴァンスというのはSFに対して意外と近いメンタリティをもっているような気がしてきた。
 でもこの三部作、『キルリアンの戦士』だけ読んどきゃ充分だと思う。
 「ロマンシング・サガ」 やりだして最初の三日間くらい、このクソゲーとののしり続けていたのだけれど、やりこんでいくうちにやろうとしたコンセプトの凄味が見えてきて最終的には評価☆☆☆☆まで上昇した。
 とくに、キャラクターや進行次第で絶対できなくなるイヴェントやシーンが満載されているのが、すばらしい。遊んでもらえないかもしれないイヴェントに金と汗と時間をかけようという姿勢はこれまでのゲームになかった思想ではないか。いわゆる裏ヴァージョンとはちがうものだ。ゲーム・コンセプトとしてひとつの突破ではないか。
 けれどもこうした評価は、言ってみるなら作り手サイドの立場にまで踏みこんだ評論家的態度によるもの。ユーザー・サイドに立っていうなら、商売ものとしてあまりに杜撰なところが多い。
 メッセージの混乱、ヒントの少なさはしかたないとも思う。しかしイヴェント終了後のセリフの変化やしゃべらないキャラにはもう一工夫必要である。
 最後まであっちこっちの城にいって「帰れ!」「帰れ!」と言われつづけたことにはけっこう怒っている。会話の不自然さも気になった。
 二度三度楽しませるつもりであるなら、ダンジョンのオーヴァー・キルももう少し抑えるべきだった。主人公の数だけエンディングがあると聞いても、『女神転生U』を何回もクリヤーしているあの佐脇ですら、ダンジョンを這いずり回ることを思うと元気が湧いてこないという。
 心地よさに対してのドラクエなみの配慮があれば、凄い傑作になっていたはずである。



 今年の一月から原稿用紙二枚分のSF時評を書いている。二枚という枚数の収め方がよくつかめなくて、なんかまくらに場所をとりすぎたりで、まだひとつうまく書けない。それでも四月の分については、読んでもいない本まで含めて四冊まとめてとりあげて、そこそこまとまりのある文章にしあげることができた、と思った。
 読んでない本というのは、読まなくても書けるつもりの本だったからである。なんで読んでないかというと、その本がまだ出ていない本だったからである。その本が近刊予告にあるとおり、三月中に刊行されるという前提で文章を書いたわけである。
 本は『一億年の宴』である。
 書きおえてから、コハマに電話を入れた。
 そしたら、いつ出るかわからない、四月にずれこむ可能性もある、値段もまだ決まっていない、と言われた。
 原稿がぽしゃった。せっかく書いたのに。
 で、くやしいから、こっちに載せる。

【まだ日本でSFというジャンルが確立されていなかった時代から、現代英米SFを、追走し、紹介してきた立役者の一人に浅倉久志がいる。この人のここしばらくの活躍ぶりにはそれこそ目を瞠らされる。この半年に刊行された訳書の数がじつに七冊。もうひとつの得意分野であるユーモ ア・スケッチをまじえながら、刊行されるSF作
品ひとつひとつが話題作ばかり。
『アルーア』(R・コールダー、トクヴィル・二〇六〇円)はイギリス期待の新鋭による短篇集。
世紀末幻想の伝統をひく耽美的な人形趣味に、サイバーパンクの病んだハイテク現代文明風景を重ねあわせた力作集。
『タウ・ゼロ』(P・アンダースン、創元SF文庫・五八〇円)は、〈幻の名作〉として名のみ高かったベテラン作家のハードSF。超高速で大宇宙を突き進む宇宙船のブレーキが壊れて、どんどん加速され、光の速度に近づいていく。それに伴ない質量も(相対性理論に基づいて)無限大へと増大していく。そのときいったい何が起こるか。そして事故に遭遇した乗組員たちの運命は?
〈SFマガジン〉八月号(早川書房・七八〇円)
では、きわめつけの綺想作家R・A・ラファティの特集を組み、短篇三つを訳出している。たがのはずれた想像力と自己運動的ロジックが紡ぎだす小説世界は類をみない。
『一兆年の宴』(B・オールディス&D・ウィングローヴ、東京創元社・    円)は、SFの起源と歴史について詳細に論じた名著『十億年の宴』の続篇。起源の部分の検証にページをさきすぎ、前作が駆け足で走ってしまった現代SFの歴史部分をウィングローブ(文春文庫から『龍の帝国』で始まる大河歴史SFが刊行されだしている)の助けを借りてしあげたもの。前作より重厚味は薄れているが、そのぶんジャーナリスティックで読みやすい。
 SFというジャンル(そして同時に紹介者)に備わった、関心の質の高さと幅広さを一望に俯瞰するのに絶好といっていい四本。】


 この浅倉本の絨緞爆撃の半分くらいが出版社サイドの都合による偶然のたまものなのはわかってたけど、偶然だろうがなかろうが、一般読者に対して注目を喚起する千載一遇のチャンスだったのに。
 コハマのばか。
 まあ、いずれ、浅倉本では無理にしろ、酒井本か黒丸本で使える機会はあるかもしれない。

 フィリップ・K・ディック『フローリックス8から来た友人』はなにひとつ不満を感じず、気持ちよく読めた。あとからいろんな人間に、どう破綻しているか、どういいかげんかとか指摘をいっぱいもらったけれど、そういわれるとそうなのだけど読んでるときはぜんぜん気にならなかった。好きという意味では、ディックの本のなかでも半分より前にくる。 ☆☆☆+
 *****『****』も読んだ。一気に二冊読めなかったというところに、この作者の本を読むつらさがある。なんというか磨けば光る気もするし、磨けば壊れる気もするという、へんにいいとことどうしようもないとこがおんなじ根っこから出ている感じがするところは前の話と同じ感想。傑作の可能性を秘めた失敗作というより、傑作の無残な残骸というべきかもしれない。キャラや設定で佐々木倫子や高橋留美子を連想させるのもいいのか悪いのかわからない。今回のメイン・アイデア(かな?)、近未来の地球を一変させた謎の海面上昇の正体というのはR・A・ラファティなみにぶっとんでいた。評価としては☆☆−、とりあえず次回作も読んでみよう。
 夢枕獏『涅槃の王』 三巻めまで読んだ。もし宣言どおり四巻めで完結するようなら、全体のバランス構築に失敗した凡作である。アクス王の話にあれだけスペースを割いてしまえば最低でも五巻必要である。しかしハードカバーで四巻本と宣言していて五巻以上になるというのは、学生時分のぼくであったら怒り狂うはずである。五巻本だと『IT』より高いことになる。 ☆☆☆
 マイク・レズニック『アイヴォリー』 『サンティアゴ』『一角獣をさがせ!』の方がいい。大衆娯楽の見栄の切り方を会得したと思っていたのに、力がこもると腺の細さが面に出てくる。内に繊細さを秘めてくれるのは大歓迎だけど、表面はもっと武骨鈍重に。
 〈キリンヤガ〉でおなじみのマサイ族への偏愛が表面に出た作品だけど、読めば読むほどポール・アンダースンのバイキングへの偏愛とどこがちがうかわからなくなってくる。
 これがアメリカ人的異文化理解の構造的枠組みなのだというところまで、話を広げていいのだろうか?
 たぶん単に、以前から言ってるように、レズニックがアンダースンSFの後継者であるだけのことなんだろうな。 ☆☆☆
 かといって、ポール・アンダースンの、最近ではとんとみかけなくなった武骨鈍重な文章というのも久しぶりに接するとなかなかしんどい。『タウ・ゼロ』最初の数十n、ほんとにのるのに苦労した。そのかわり、いったんのったら後は楽。文章を味わう心配りの必要もなく、書いてある内容だけを読みとっていけばいいから。浅倉さんがあとがきで、ハードSF解説にケチをつけてる。
 中味は立派。立派であるのに、どこか凡庸で、平板で、いつもながらのアンダースンでしかないところがすごい。〈アンダースンのハードSF〉という触れこみに読む前なんとなく違和感を持ってたのだけど、なるほどたしかに〈アンダースンのハードSF〉だった。ハードSFを読んでる感じがぜんぜんしない。やっぱりSFはこうでなくっちゃ。(でも凡庸)。☆☆☆☆
 ロバート・アスプリン『銀河おさわがせ中隊』 『タウ・ゼロ』『アイヴォリー』『魔法の呼び声』とほぼ同時に入手して、じつのところこいつが一番読みたかった。(なおこの時点で『戦争熱』『クラッシュ』『結晶する魂』はまだ買ってもいない)。
 おふざけのなかに、SFとしてけっこうしっかり骨っぽいところを見せていて、こういうタイプの作品には、わたしゃ非常に甘くなる。軍隊コメディというのは、むこうの大衆小説の伝統あるジャンルであるはずだけど、ジャンルの全体像を紹介している文章というのをいっぺんも見た記憶がない。☆☆☆
 クリストファー・スターシェフ『魔法使いさまよう!』(富士見)も、律義にSFしようとするところが、ほのぼの好感を誘うユーモアSF。
 この〈グラマリエ〉のシリーズ、はっきり言って第一作で作者のやりたかったことは全部やりつくしたのに、できた世界が大衆受けする魅力を持ちすぎていたせいで、えんえんシリーズ化するはめになったようなところがある。
 第一作から本書の間に執筆期間に十七年の時間が流れているわけだけど、その時間をかけてスターシェフが行なったのは、作品世界のよりいっそうの成熟ではなく、SF啓蒙小説への転進だった。
 SFの殻をかぶった自然科学、社会科学の啓蒙書といった意味でないので念の為。そういう意味では、第一作のほうが、少年少女のための初級民主主義入門みたいなくささがあって、それがいかにもSFの味という感じで気にいったわけだけど、この本でスターシェフがやっているのは、〈SFについて〉の啓蒙なのである。転移装置によって遥かな宇宙の果てにとばされた中世社会出身のヒロインに主人公が科学的宇宙観の基礎をひとつひとつ説明していくという趣向。最近のSFにとんとみられなくなった、プリミティヴなセンス・オブ・ワンダー・シーンの箇条書である。
 十年前なら、まちがいなくくそみそにけなしていた本なのだけど、今だと喜んでしまう。
 氷室冴子『銀の海 金の大地 1』(コバルト) 氷室冴子久々の入魂の力作。相当陰惨な色あいの話になりそうで、ユーモアでくるむ書き方がかなりつらい時期にきていたんだな、と最近の不調になんとなく納得できた気がした。それとコバルトの読者を相手にしたら何をやってもかまわないみたいな信頼感が、とてもいい、のりと挑発を生んでる気がする。評価はまだ早いけど、とりあえず☆☆☆☆。
 だけど『碧の迷宮(下)』はどうなったんでしょうねえ。



 人事異動がありまして、わたしゃ動かなかったのだけど、係の人数減らされた。とっても忙しくなって、怒っている。怒っているぶん、元気になって、SFに対してなんかやる気が出ている。こんなことで時間と人生つぶされちゃあたまんないってね。TVゲームと深夜テレビで時間をいっぱいつぶしている人間の発言かね。
 でもなにやったらいいか、わかんない。クソゲーばっかりやってちゃいけないよね。とりあえず、それくらいはわかっているぞ。わかっていながら、ファイヤーエンブレム外伝の四度めにチャレンジしているばか。
 前回のみだれめもを書いた後、近刊予告を見て、げっと言ってる。今度はカート・ヴォネガットですか。とどまるところがわからない浅倉本の大洪水。フィリップ・K・ディックやらウッディ・アレンやら、共訳・再刊本までぞろぞろ出てくる。なんなんでしょうか。
 その作品『ホーカス・ポーカス』ですが、カート・ヴォネガットという作家をどうやって読んだらいいかわからなくなってしまっている。それなりに楽しんで読んだという意味では、わるくない作品といっていいかもしれないけれど、この程度で楽しんじゃう程度にしかもうヴォネガットという作家に期待しなくなっているのだとも思える。ジョン・アーヴィングのまがいものみたいな感じさえする。主客転倒である。
 解説の引用が楽しい。
「本書はここ何年かのヴォネガットの最高作に思える」「古いファンたちよ、もどってこい。新しいファンたちよ、みんな集まれ。」
 やっぱりむこうでもそうだったのだねえ。『チャンピオンたちの朝食』を最後に燃えつきたという持論は変わらないけれど、それ以降の本としては、『ジェイルバード』の次ぐらいに楽しんだ。 ☆☆☆
 夢枕獏『キマイラ金剛変』 第十二巻である。十五巻めのシーンについて言及をするあとがきが、はっきり言って気にいらない。中味の方は、まあ☆☆☆。戦闘シーンをつないでいるだけみたいな気がしないでもないけれど。 『黄金宮W』はやや落ちの☆☆。
 『風のガリアード』 ピーター・S・ビーグルの本というだけで、読むスピードがぐんと落ちる。さりげない文章の、なかにこもった見方・考え方(というほど明確なものではないかもしれない、むしろ、もっとあいまいな、想いといったようなもの)、それを読みこぼすのが怖くてやたらゆっくり行間を見る。ちびりちびりと読んでいるうち、一週間がたってしまった。蘊蓄はとんでもない本なのに(わかんないとこがいっぱいあったぞ)、ファンタジイとしてはおざなりで、前の本だと寓意性の中できらめいていた人生観がえらく前面に出てきている。もちろんそうした自省や洞察が、好きな部分でもあったのだから、それはそれでかまわないといえないわけではないのだけれど、物語の豊饒のなか、作品が作者をはるかに凌駕していた感のある『最後のユニコーン』とくらべると、作者と等身大の小説に納まったものたりなさは否定しようがない。人生を語ることが物語を語ることより重くなってる。好きか嫌いかと聞かれれば、好きと(それもかなり積極的に)答えるだろうけど、積極的に人に勧めることができない本。 ☆☆☆+。
 その反動で、次のリアノー・フライシャー『フィッシャーキング』(扶桑)があっという間に読めてしまった。あの深読みの人間関係のあとにこういうおめでたいノヴェライゼーションを読むと、なんかほっとする。 ☆☆。
 『あうとふぉーかす』(青心社) 吉岡平の本というのをはじめて読んだ。蘊蓄を定型のなかに嵌めこんだ、けっこう気持ちのいい本。もっともネタそのものはニュースやカメラマン・コミックでわりとよくみる話題と論旨で、もう2ランクぐらい上をねらった本が読みたい。 ☆☆。
 『ルビコン・ビーチ』(筑摩) 訳者島田雅彦というのに、うさんくさいものを感じてさけてたのだけど、書評やなんかの評判がやたらにいい。二十nも読む内に、訳者名なんか飛んでしまった。『暗い時計の旅』と同じ、スティーヴ・エリクソンである。J・G・バラードやハーラン・エリスンの視線とパッションを組みあわせて、そこから科学的思考をとっぱらったらこんな感じの作風ができあがるのではないのでしょうか。
 サイエンス・フィクションとかで展開されてるいろんな単語やヴィジョンというのが、科学的思考の桎梏から解き放たれて、ロジックではなくアナロジーにより著者の極私的日常的な思考に奉仕していくと、こんなに不安定で曖昧で、そのくせ実感のこもった装置に変化してしまうんだなあと思ってしまった。この小説はちゃんとしたSF作家には絶対に書けない。
 『暗い時計の旅』の方がよかった。イメージに慣れたという面もあるだろうけど、女を主人公にした第二章がつくりものくさすぎる。オブセッションが魅力の核となる作風だけに、作品のはしばしに作者の計算が見える気がするのは、マイナスだろう。 ☆☆☆☆。
 『クラッシュ』 途中で投げた。趣味じゃない。 『戦争熱』も買ったけっど、そのまま積んでいる。J・G・バラードってだめなんだわ。
 ロバート・ホールドストック『ミサゴの森』(角川) よそで褒めた。 ☆☆☆。角川のこのシリーズの値段設定にかなりむかついている。創元文庫五八〇円くらいのかたちで出るのがふさわしい本。こういう本が、値段のせいで、本来の読者層として育ってほしい中高校生から切り離されていくことが、結局SFをいびつにしていくのではないか。おまけに、本のどこにも、同じ叢書である『スカヤグリーグ』や『ディファレンス・エンジン』の宣伝がない。読者教育の使命に目覚めたようなSFマガジンの広告をすこしは見習え。
 『獣の夢』(福武) 映像的シーンがえんえんと続く一人称小説というのは、どこか作者のスタンスに矛盾がある感じがして話にのれない。短い本だからがんばって読みおえようとしたけれど、結局途中で投げた。
 オクテイヴィア・バトラー『キンドレッド』(山口) わかりやすいSF。読みやすいSF。おもしろいSF。志の高さとエンターテインメント指向がほどよくバランスをとっている、こぶりな佳作。この軽い仕あげを積極的に支持したい。☆☆☆☆。
 ジュリー・ディーン・スミス『魔法の呼び声』 途中で飽きた。
 『外道士流転譚』 喜多川格という名前は『小学六年生』で覚えた。歴史が面白くなるブック・ガイドと銘打って、『ジャパネスク』や『影武者徳川家康』や『忍者武芸帳』『金鯱の夢』を挙げている悪いやつ。主人公が魅力に欠けるし、話のつくりはとしては型どおりの部分は多いけど、まだまだうまくなりそう。とりあえず構想する方向は魅力的。 ☆☆☆。
 ディヴィッド。ダンカン『魔法の窓』 小娘を主人公にしたジャリタレ異世界ファンタジイが続くFT文庫。ぶつぶつ文句を言いつつも、とにかく読もうとするところ、わたしゃどうやらこのタイプがまるっきりきらいというわけではないらしい。でもつまらない。一応最後まで読んだけど、サゴルンその他のキャラクター設定がちょっと気にいった程度。☆☆。 エディングスの力量があらためてわかった。(でも、そのマロリオン物語も9冊めでついにぶんなげたのだけど)
 早瀬耕『グリフォンズ・ガーデン』 ☆☆☆☆☆をやってもいいかもしれない。褒めるのもけなすのもとても簡単そうな本。結び方がものたらないけど、シンプルでストレートでいやみがない。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』風で、もっと中味がからっぽのラブ・ストーリーに科学の概念的ヴィジョンにまつわる対話をちりばめてみたという本。小説以前といわれてもしかたがない気もするけれど、SFのもつ初原的な興奮を小説という形式にうまくはめこんでいるところ、そこいらのSFよりずっとSFである。


◆題名アナグラム・20本勝負
 本当は百本勝負のつもりだった。だけど途中でしんどくなった。
20本ではインパクトもなにもないのだけれど、だからといってやめるのももったいない。出典はすべてハヤカワ文庫SFである。

01 総理の挑戦者
02 わさび狩りはいーとこ
03 吸いたくば くすねれ!
04 キセル安心乗り
05 胡瓜の布陣
06 牛と小鉄
07 低空艦隊
08 お湯の蒸気
09 空中軌道
10 ズキっとクリスマス
11 猿の罰よ
12 耐え戦ったやつ 悟りの日
13 都市の園芸
14 ひゅう お客にあの晩餐
15 憩いの墓場 汗も取り
16 戦争で異説
17 世界への救い
18 タコのしろい顔と
19 寿司売り
20 アドニスと魔
 〈おまけ〉
01 三島の会 一人や



 わけのわからないものをいろいろ読んだ。誰がわからないかというと、じつはわたしがわからない。人からみれば、じつによくわかる並びである。
 水玉蛍之丞『こんなもんいかがっすかあ』 三分の一はわかった。四分の三は楽しんだ。
 同『ナウなヤング』 おもしろかったけど、期待していたほどではなかった。
 寺島令子『墜落日誌 1』 三分の二くらいはわかったぞ。
 『ゲーム・ピア q』 立派だけどつまらない。
 『ログアウト 創刊号』 ウーム。古沢先生の言うとおり、中味よりも参加している顔ぶれの、人脈解剖をしている方が面白い。
 『OTOKO 2』流行通信の別冊らしい。SFを特集している。見たことのある名前がたくさんいる。書いてる文章が全体に短い。
 『六年生 六月号』 ここんところ急速につまらなくなって、買うのをやめようかと思ったら、なかたあき(!)が15nも載っていた。編集部もやばいと思ったみたいで、別冊付録で漫画セットを作ってその中に隔離したうえ、さらに、そんなものが載っているとは親がほとんど気がつかないよう注意深く構成している。でも、その他がほんとうにくだらない。

 「弟切草」が思いのほかに面白い。一回一時間弱だから、三回くらいはやってみなさい。(『銀河乞食軍団』の最新刊の帯を見て、つい「ゴンゲー」とつぶやきたくなった。)
 「シムアース」 つまらないつまらないとぼやきながら全シナリオをクリアーした。クソゲー。

 バリントン・ベイリー『スター・ウィルス』 ☆☆☆☆。 やりたいこととか言いたいことがすごくよくわかる処女長篇。書こうとするSFについての意志がここまで明確だと、欠点すべてが許せてしまう。たとえばディックの作品なんかも、このベイリーと結ぶラインでイメージをとりまとめてほしいのだけどね。
 まあ、そういう意味では大森望の贅沢な翻訳セレクションは立派に〈場〉をつくっている。バリントン・ベイリー、フィリップ・K・ディック、ルディ・ラッカーと並ぶところはやっぱりすごい。これに、ラファティ、ティプトリー、初期ディレイニー、ヴァンス、ついでにハーバートなんかもまぜちゃって、核SF群のイメージ化を図れないものか。基底にあるのは、たぶんワイドスクリーン・バロックだろうけど、(「非A」を除く)ヴァン・ヴォークトやベスターをまぜたいと感じないあたりに、イメージの偏向というか逸脱がある。
 神林長平『死して咲く花、実のある夢』(徳間) 『猶予の月』のウォーミング・アップのつもりで読んだ。☆☆+。〈海賊〉ネタを流用して、軽く流して書いた感じがする本。もすこしじっくり書きこんでほしかった。
 『惑星キャリバン探査隊』 スティーヴン・ポスケスなどと名前からして『レッドシフト・ランデヴー』の作者の親戚めいた情けなさだし、粗筋や解説その他を見ても、ああ、また、紋切型の書き割りに、だらだら中味の薄い御人間様御悩みドラマでページを埋めた、今風フェミニズム迎合泡沫作品が出てきおったわと斜めに構えて読みはじめたら、これが意外なめっけもの。遅れてきたLDGだ。
 登場人物それぞれの過去の傷もちゃんとSFとしてドラマツルギーしているし、きっちりメイン・テーマに関連している。人間とまるで異質な認識器官をもつ生物が、どうしてこんなにアメリカ人でしかないのかとか、あまりに安易に意志疎通ができすぎではないかとか、文句はいくらでもつけられるけど、とにかくそういう文句を言う気にさせるくらい、ちゃんとSFを書いている。最近のって言ってもしかたがないものばかりなんだから。
 構成にものすごく時間をかけている。何度も何度も頭の中で練り直している。複雑なことをやろうとしているわけではない。主筋と副筋のからめ方とかそういうことを、ちゃんとしたものにしようとして、とても一生懸命やっている。処女作にかける意気ごみが構成から伝わってくる。
 でも、へた。緩急とか盛りあげとかも計算し、構成しているのがよくわかるけれど、にもかかわらず平板だし、だらだらしている。それでいてゆとりがない。読んでて長すぎると感じたけれど、部分部分についてはむしろ、説明不足や書きこみ不足が目についた。とりわけ、隊員たちの心の動きの揺れだとか、対処の仕方の書き方がほんとにへた。ほとんど分裂症的に行動するから読んでてけっこう呆然とする。
 志の高さ、気の入れよう、こだわり、みたいなところを相当に高く評価し、好意的に接しないと、読むのがつらいかもしれない。努力賞として、☆☆☆☆。次作も読むぞ。
 そういえば、むかし同じような評価の仕方をやって、つられて読んだ人間に罵倒されまくったのがロバート・ホールドストックだった。だけど、今でも『アースウィンド』は『ミサゴの森』より支持している。
 うーむ。今回は星が甘い。少しきつくしよう。
『ガンスリンガー』スティーヴン・キング。クズ。でも、ハードカバー一七〇〇円の値段は、角川としては許そう。☆。
 神林長平『猶予の月』 期待外れ。この種の話をこれくらい書けるという意味では、客観的には☆☆☆くらいつけていいと思うけど、期待はこういうレベルの本ではなかった。
 十年近く書き継いだ大作と思っていたけど、勘ちがいだった。第一部となった部分というのは、当初構想していた方向に話がうまく進まなかった失敗作。第二部以降は、失敗作とはいうもののそれなりにもったいないものを抱えこんだ第一部を生き返らせようと、当初の構想とちがう方向で再度加えたフォローにすぎない。第二部、第三部とも読切のかたちをとっていながら、文章にそれぞれが独立した作品として屹立しようとする気概がみえない。第一部に従属するつもりしかないから、それなりにリキのはいった第一部のあとだと薄味の印象が強まる。
 それにしても神林長平の文章って、こんなに説明口調だったっけ。著者の才能が衰えてきたって感じじゃないんだね。本を書くとき想定している読者の質が落ちてるように思えるのである。ここまで書かなきゃだめなんじゃあないか、これくらい練ったら充分だ、って無意識的に作者のスタンスをずらしてきているような気がする。『狐と踊れ』や『七胴落とし』『雪風』なんてなによりまず文章にひかれたような気がするのに。
 せめてこの小説の第一部と第二部を入れかえてたら、もう少し盛りあがる話になったはずである。
 ルディ・ラッカー『ホワイト・ライト』『セックス・スフィア』 どっちも☆☆☆。前にも書いたことがあるけど、ルディ・ラッカーが想定している読者って、ぼくより一ランク質の高い人間だという気がしてならない。作者が読者とわかちあうつもりでさしだしてくる〈常識〉というか、共通了解のはずの部分を、一度咀嚼したうえでないと了解できないのである。そうした半歩の遅れが積み重なって、いまひとつフィットしきれない。イメージ、構想、スタンスなんて分けていったらみんなぼく好みなんだけどね。
 『空洞地球』がいちばんおもしろいといったら、大森望にへんなやつといわれた。
 『罠』(扶桑)モダン・ホラーのオリジナル・アンソロジー。ディーン・R・クーンツという作家を否定してはいけないことがよくわかる本。本書のなかのクーンツは光り輝いている。それくらいほかがつまらない。本のうしろ半分は十五分で走った。☆
 ロン・ハバード『フィアー』 アンノウン誌に載った存在論ファンタジイである。おもしろい。この本のホラー感覚の凄味にくらべ昨今のモダン・ホラーがつまらないのは、恐怖すべき対象に対する敬虔さが欠落しているせいではないか。むかしのロン・ハバードというのはなかなかのものだったのですね。☆☆☆+。


 クイズです。問題は作ったけれど、答えはまるで調べていない。気になった人は勝手に調べなさい。
 SFナンバー・クイズ
ァ 鉄腕アトムの七つの威力。
ァ パーマー・エルドリッチの三つの聖痕。
ァ 十篇の話からなる作品集、二つ以上。
ァ 創元文庫だけで、二冊の本に重なって収録された作品、二つ以上。
ァ 日本語版が分冊で刊行されて、結局最後まで出なかった本、五冊。
ァ 十冊以上翻訳のあるイギリス作家十人。
ァ 早川SFシリーズで出ているくせに、文庫化のときSF文庫にはいらなかった作品、作家別に三冊。
ァ 五つ以上の出版社から文庫本がでている作家五人
ァ 三つ以上のタイトルで出版されている作品。
ァ 早川SFシリーズに再録された作品二十冊。
ァ 早川SFシリーズで三冊以上訳されて、早川文庫にはいらなかった作家三人。

上段と下段、同じ作者の作品を線で結びなさい。 全部わかればビョーキである。
A 暗黒の塔                  1 明日への脱出
B 死のネットワーク              2 宇宙多重人格者
C 迷宮都市                  3 ブライド
D 天空の穴                  4 星々へのキャラバン
E 第五惑星                  5 美女と野獣
F ロボット・シティを捜せ!          6 ファーポイントでの遭遇
G ブロブ                   7 疑惑のロボット・シティ
H ファースト・ミッション           8 月光の魔女
I 太陽の炎                  9 ユニコーン作戦
J エメラルド・フォレスト           10 宇宙探偵ラスティ



 ある文章の枕にアイザック・アシモフが死んだことを持ってこようとして、何月だったかがわからなくなった。SFマガジンを調べたら、なんとどこにも死亡日が載ってない。月刊誌の編集の、ちょうど端境期のへんだっただけに、事情がわからなくもないのだけれど、そのあたりの、ある意味で、あたりまえであるデータについて、あたりまえであるがために発信者の側が軽んじてきた結果が、SFというジャンルの全体像をぼかしてきた一因でないかという気がしてきている。
 けっこうショックだったのは、「テレポート」と「響きと怒り」のアイザック・アシモフの死に対する反応の差だった。なぜHMMの読者から出る追悼みたいなものが、本家のはずのSFMの読者から出てこないのか。あるいは「テレポート」がそういう役割を果たせないのか。そこに専門誌に反映されるジャンルの衰弱ぶりをみてとっても、そう強引でないかもしれない。
 ジャンル雑誌というものは、ジャンルについての基礎知識、〈あたりまえの話〉をくりかえし反復しつづけなければならないのではないか。たとえばぼくらの年代のSFファンというものが共通了解をもちえた理由のひとつというのは、(資料の貧弱さもあって)サム・モスコウィッツをひきうつした福島正実その他のワン・パターンのSF発展図式をいやというほど反復教授されたせいだったのではないのだろうか。そこで評価された四〇年代傑作群にF&SF版権の小話風味を加えたものが矢野福島に代表される日本における初期海外SFのイメージであり、さらにそこに伊藤浅倉主導による、ギャラクシー系ノヴェレットからNW作品群までを加味したものが日本における英米SF像だった。
 あくまでも〈加味〉なのである。加味の部分のほうが圧倒的に面白く、読書の中心だったにもかかわらず、SFの中心が、とりあえずこばかにしている、アイザク・アシモフ、アーサー・C・クラーク、ロバート・A・ハインラインのいるあたりだと肯定していたはずである。
 いいのかなあと思うようになったのは、大物たちの新作情報がほとんど聞こえなくなったあたりから。麒麟も老いては駄馬に劣るかもしれないが、駄馬になったと非難するのも、また作家の栄光を讃えるひとつの方法なのである。クリフォード・シマックやレイ・ブラッドベリどころではない、アーシュラ・K・ル・グインやブライアン・オールディス、ロジャー・ゼラズニイあたりでさえ、近作情報ほとんどなしに唐突にヒューゴー・ノミネートに出現して、ああこの人まだ現役だったのだと気がついたりすることが少なくない。情報のバランスとしてよくないような気がしている。いまの読者がたとえばぼくらの時代のように文庫本のあとがきを寄せ集めてみるだけで英米SFの大雑把な全体像を読みとることができるかどうか、かなり疑問になっている。
 ブライアン・オールディス&デイヴィッド・ウィングローヴ『一兆年の宴』は『十億年の宴』の続篇というより、ジャック・サドゥールの『現代SFの歴史』の続篇といったほうが当たっている。もちろんけなし言葉なわけだけど、じつはこわもてのする『十億年の宴』より、のんでかかれる『現代SFの歴史』の方が趣味だったりする。評判のわるいところをウィングローヴに押しつけて、オールディスの権威を守ろうとする風評が、まえもって聞こえてきてたけど、とりとめのなさの主役はやっぱりブラーアン・オールディスだと思う。
 これはぼくの経験とつなぎあわせた推論だけど、SFとは何かといった問いに対する答えというのは、自分のなかにある現代SFというイメージに、収束してきた過去の歴史の総決算といえる面がある。答えが出てしまったわけだから、そこからあとで発表された作品からは、SFが何であるかの手掛かりがあらたに出てくるわけがない。たとえ手掛かりらしきものが出てきたとしても、それはあくまで過去のSFのなかでみつけだされていた手掛かりのニュー・ヴァージョンであるにすぎない。そうでなければならない。それゆえ、収束してからあとの時間の流れというのは、すべて自分にとってえんえん続く〈現在〉でしかなくなってしまう。歴史的過去とは〈現在〉に連なるものでありながら、同時に〈現在〉そのものからは断ち切られている〈過去〉である。変遷し、収束してきたものだからこそ、線形化が可能なのであり、だらだらひろがる〈現在〉を、〈歴史化〉するのは至難なのである。とりあえず、ぼくの場合のその〈現在〉のはじまりは、七〇年代前半であるわけだけど、オールディスの場合、たぶん六〇年代半ばから、ずっと〈現在〉なのだと思う。
 それがこの評論に筋が通った一本の骨を見い出しにくい理由と思う。
 そしてそれはそれでかまわないのだ。ぼくやぼくの世代は七〇年代前半へと収束していくものとしてSFを理解し、理屈をこねてきたわけだし、ブライアン・オールディスやジュディス・メリルはニューウェーヴに収束するものとして、理屈を作っていった。ひとりひとりの人間の趣味と世代に応じるかたちで、LDGに収束するものとして、サイバーパンクにたどりつくものとして、SF史はつぎつぎと生みだされていくべきもののはずなのだ。自分にとっての〈現在SF〉とみなす作品群に各人が、正当性と正統性を与えるためのものとして、つぎつぎ成立していかねばならないのである。ちがうでしょうか、山岸真先生様。
 そういう意味で巽孝之『現代SFのレトリック』は高く評価していい。いま言ったような意味での、現在へと収束していくものとしてSFを統合しようとする意図が強く打ちだされている本である。
 SFを未来小説から現代小説として読み替えようという論旨は、古く福島正実、小松左京、山野浩一の時代から(いやあとんでもないひとからげをしている)けっこうくりかえされている正統的な主張であって、それを新たな文脈で語り直したところが新しいといえば新しい。
 ただしここで積極的に評価されているSFの方向性というものの、かなりの部分が、ぼくにとってはSFのだめになってきた部分というのに重なってしまうわけだけど、その差というのはなにを〈現在SF〉とみなすかだけの問題であり、ちがっていたってかまわない。
 ただ気になるのは、中村融も指摘していた、語呂合わせをロジックと決めの文のキイとして連発しているところ。あれは批評の文章論理というよりは詩の文章論理といったほうがいいもので、気のきいた言い回しとしてぼくなどはけっこう楽しんでいるのだけれど、お堅いアカデミズムの業界では反発もかなり大きいような気がする。
 『文学じゃないかもしれない症候群』 朝日新聞の文芸時評を中心にまとめた高橋源一郎の本。『文学がこんなにわかっていいかしら』で過激なスタンスをすでに表明したあとだというだけで、おんなじ内容なのに、あっちは評論集でこっちはエッセイ集の読後感。ふしぎだ。単行本での初読み部分がファッションショーのレポートだけというのもつらい。
 『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』佐藤健志 好評の『映画宝島・怪獣学入門』で、基調論文らしき載り方をした著者の本で、アニメや特撮ものを素材にして、日本における反権力思想の甘えを糾弾しようという趣旨である。分析の7割がたまでは的確でかなりおもしろいことが書いてある。ただしそれにかぶさる残り3割が決定的に胸糞悪い。前半分は雑誌「諸君」に掲載されたもの、という言い方で内容の見当がついたと思った人には、思ったとおりですと言っておこう。自分の思考の硬直ぶりに気がつかず、一般大衆より頭がいいつもりで人を見くだすことに慣れたバカ。こんな杓子定規な感性で断罪されては、「ナウシカ」どころか「ヤマト」でさえも可哀そうになる。矛盾を抱えた人間が、首尾一貫した人間よりも当然劣っていると言いきれるのが哀しいし、権力的存在の必要性が、すなわち権力は悪でないと結論づけれる短絡性が耐えがたい。
 わたしなんか、権力どころかあらゆる社会的行為はその意図するところにかかわらず、個人に対するかかりかたにおいて、すべて基本的態様として悪である、と思っている。基本的態様において善である(と、とりあえず仮定も可能な)個々人が、種々の論理による正当化をはかってみても、基本的態様として悪である社会的行為という営みのなか、悪を行使する快感と善的心情に発する罪悪感を無意識的に重ねながら、他者と結びついていくのが社会であるというのが最近のぼくの考え方であったりする。
 環境保護論者というのはアンチ・ヒューマニストである、といった主張なんかレトリックとしてはそれなり楽しいものがある。けれども、それを鬼の首をとったようにふりかざし、環境保護を断罪できたと思いこむ党派的論調が、せっかくの楽しさを台なしにする。たとえば宮崎駿の、労働の喜びであるとか社会共同体といったものへの執着は、先入観なしで見ていたぼくでさえ〈偏向〉に気づいたくらい強固強靱なものがあり、理想主義が理想主義だというだけで反発をする、ある種の人間にとって耐えがたいこともわからなくはない。だけどそれにしては指摘があまりに浅薄で、むしろ「ナウシカ」なんかより宮崎駿のユートピア指向のメッセージがずっとはっきり出ている「天空の城ラピュタ」を評価してしまったりする。そもそもこの種のユートピアは実在すれば生じるはずの暗黒面を暗黙の了解のもとに留保して成立しているものであり、それをくどくどしくあげつらっても意味がない。
 ということで、「紅の豚」である。わがままなアニメ。全体のドラマツルギーとか細部の帳尻合わせをほったらかして、好きなように話を作っていく。他の作品を見てなかったら、シナリオを酷評しているところ。毎回こうならたまらないけど、一回くらいなら、これはこれでいい。次のもこうなるかもしれないという不安がすこしあったりする。
 『反逆の星』オースン・スコット・カード 反政府活動をした科学者たちが資源のない惑星に流刑され、各部族に分かれ、それぞれの専門分野を生かした能力を生みだし抗争している惑星。生物学者の裔は再生能力、地質学者は岩と語る力、哲学者は時間を操る能力、政治家は他人に嘘を信じこませる力。エトセトラ。
 あったま痛い。オースン・スコット・カードの科学理解って結局こういうレベルなのだね。プロのそれも第一級のSF作家がこういう設定で話を作っていくことを恥とも思わないということががまんならない。魔法も科学も区別がつかない。やっぱりこういうやつがのさばってるのって絶対よくない。話がへたならまだいいけれど、呆れるは腹は立つはでありながら、なぜかすらすら読めるから、よけい頭が痛くなる。
 『エンドレス・ワルツ』稲葉真弓 鈴木いづみの伝記小説。作者の入れこみが伝わってくる。もともと自伝的色彩の強かった鈴木いづみの本と重なり合いながら気分よく読める。
 『ライジング・サン』マイクル・クライトン。異文化論小説って、こういう構図にしかできないのかもしれない。ほとんどポール・アンダースンのSFと変わらない。登場人物の一人がいかにもジミー佐古田みたいでちょっと気が削がれるけど、型どおりのミステリ・プロットにデータをきっちり詰めこんだ過不足のない娯楽作。ところどころ違和感は残るものの総じてよく勉強している。ただ日本文化の特徴として力説しているものの半分くらいは、歴史が浅く、多民族により構成されたアメリカの直截的な社会と比較される、文化的練度の指摘であって、日本のかわりにヨーロッパをもってきても通用する論理である。ここで指摘される論旨のなかには、むかし、日本がアメリカや欧州の先進国にくらべてこういうところが遅れているという論調で聞いたことのある議論がいくつもあって、けっこう奇妙な転倒した既視感を味わうことができる。
 『法律事務所』J・グリシャム。 ハードカバーの戴き本。そこそこ楽しんだけど、ハードカバーで読むほどの話ではない。尾行・盗聴・監視されつづけていることに気がついている若夫婦が、何カ月も気づいていないふりをしつづけられるというのはけっこう苦しい。そういう常識の部分でクライトン以下。アドヴァンスとかの関係だとはわかっていても、やっぱりハードカバーに対しては一ランク高いレベルを要求してしまう。『ファイナル・オペレーション』クラスの本というのはさすがにそうそう出てこないのでしょうねえ、白石先生。
 『わが愛しき娘たちよ』コニー・ウィリス。山田和子の解説にほとんどつけ加えることがない。強いていうなら、けっこう直情的なモラリティを抱えた作家で、そのモラリティが暴走しないよう、多彩な技巧を駆使して抑えこもうとしているような気配がある。ある意味で自分の勢いを殺していく小説作法の持ち主で、最初のうちはその自制的なスタンスが心地よいものの、短篇集ともなると最後三分の一あたりでくたびれてきた。フェミニズムの一派だとばかり思っていたら、まっとうな正統的知性派エンターテナーである。最後に載った「月がとっても青いから」というたわいのないラブ・ストーリイがけっこう気にいっている。ねがわくばこの作品にもったいぶったコメントがつきませんように。
 夢枕獏『新・魔獣狩り1』 関係者を揃えただけで、話はほとんどはじまらない。『魔獣狩り』はよくも悪くも文成仙吉の物語であり、物語の広がりも文成仙吉に規定されていたけれど、今回はそういうかたちではおさめきれない気配がある。それが吉と出るか凶と出るかは今後の展開を待つしかない。
 『食べちゃいたい』佐野洋子 野菜やくだものを擬人的にあつかって、男女の話をからませた、へんにリアルでファンタスティックな連作小品集。今回二番のお勧め品。
 『戦争の法』佐藤亜紀 で、これが今回一推し。第一作『バルタザールの遍歴』よりもいい。著者略歴を見ると、舞台とか主人公の年齢が重なるのだね。表を読むのも裏を読むのも魅力的な一冊である。
 『金の海 銀の大地 2』 氷室冴子 彼女らしくない早いペースで連載がつづいている。他のシリーズの棚あげはしかたなさそうである。
 『ジェネレーションX』 ダグラス・クープランド。前の世代においしいところを全部持っていかれて、未来がなんにもなくなったと考えているドロップアウト三人組の物語。こういうタイプの本って、昔から本質的なところってずうっと変わってなくて、そんな本質を損なわず、いかに現代的にスタイルや風俗風景情報をフレッシュアップしていくかが勝負みたいな感じがする。はじめて読む気がしない。でもきらいじゃないよ。
 クソゲーをいくつもやった。「伊忍道」「SDガンダム外伝」(スーファミ)、「ロイヤルブラッド」(ファミコン)はとりえなしでただいらつくのみ。やらないように。
 次回はいよいよ一〇〇号であります。一〇〇号記念に五十枚規模の原稿を書く用意をしております。(ただし、最近の発行速度を甘く見て、ほとんど手をつけてません。しあがるかどうかは予測できませんが、とりあえずご期待ください。)



◎叢書の研究1        
  ハヤカワSFシリーズ
     (ハヤカワ・ファンタジイ)

 〈HSFS〉、つまりハヤカワSFシリーズのいちばん最後、三一八冊目であるハリイ・ハリスン『殺意の惑星』が出版されたのは一九七四年である。
 もう、二〇年も前になる。
 これがけっこう衝撃だった。
 二〇年ということは、いまSFを読んでいる中心層の記憶の中では、新本屋の店頭にSFシリーズが並んでいる風景など、いっさい存在しないということである。あらたまって書きだせばあたりまえのことだけど、たとえばぼくが書く文章には、読む人間の記憶のなかにそんな風景があってあたりまえ、みたいなかんちがいがずっとはいりこんでいる。
 『乱れ殺法SF控』を読み返してみて、反省した点のひとつに、ロバート・シェクリイとスティーヴン・キングを比較してみた一節がある。スティーヴン・キングという作家がどういう作家かとりあえずの簡単な説明を加えていながら、ロバート・シェクリイについてはなんにも説明していないのだね。この本を読む人間は、スティーヴン・キングのことは知らなくても、ロバート・シェクリイなんて自明の作家だろうと思いこんでいるわけなのだね。そんなはずがないことくらいちょっと考えればわかることなのだけれども、何回も手を入れてながら本になるまで気がつかない。困ったもんだ。
 これなんか、早川SFシリーズ現役時代に思想形成された弊害の典型例といっていい。わかりやすく書くことのむずかしさって、じつはこういうとこにある。
 SF大会のオークションで、『宇宙人フライデイ』や『クリスマス・イブ』でさえ、サンリオ文庫の高値に及ばないといった光景に、怒りともとまどいともつかない気分を味わったことがあるけれど、それもしかたがないのだろう。時代の流れとはそういうものだ。
 ハヤカワSFシリーズというものについて、見たこともなければその意義について理解のしようもない人間が、いまではSFファンの大半を占めている。あのツルツルの表紙を本屋でさわるてざわりに、文字どおり感じていた高値の花の気分なんて、たぶん同世代にしか通用しない。もう、だれでも知ってる自明日常の存在ではないのである。
 HSFSも元々社なみに歴史的評価の対象として、説明していく必要がある時代になったのだ。じっさい、元々社のシリーズだってHSFSの一年半ほど前に開始され、HSFSとほとんどいれかわりのかたちでつぶれていたりするのだね。
 HSFSが創刊されてから終刊までの時間より、終刊してからの時間の方が長くなっている。(どうだ、こう書くと驚くだろう。わたしゃ気がついたときに驚いたぞ)
 きちっと整理をするのには、時間も資料も不足している。だからちゃんとした答えのきまったものでなく、調べていくうち気がついたいろんなことをほうりこんでく臨床的なメモ書きとして話を作っていくつもり。
 行きます。

 「ハヤカワSFシリーズ」(以下HSFSと略)は一九五七年一二月、「ポケミス」の愛称で親しまれる「ハヤカワ・ミステリ」のSF部門として発足した。SFマガジン創刊のちょうど二年前である。
 ちなみに発足当時の状況を見てみると、「EQMM」、現在の「HMM」が58年1月号で通巻第19号。まだ二周年にも達していない。この号は、フランク・R・ストックトンの「女か虎か」が掲載されていたせいで、たまたま買っている。他にもP・G・ウッドハウスが載ってたり、はじめて気がついたのだけど、山田風太郎のゲスト・エッッセイまではいっている、そこそこのお買い得品。雑誌の定価が、東京一〇〇円、地方一〇三円と、まだ二本立てだった時代である。
 「ハヤカワ・ミステリ」は、江戸川乱歩監修による全五〇〇巻の大全集という売りをしており、この時点で二六六冊、毎月六、七冊というハイペースで数をこなしていた。この中には、すでにここまでで、『幻想と怪奇@A』『ドグラマグラ』『黒死館殺人事件』『あなたに似た人』『木曜日の男』といった、SFファンの興味をそそる作品が含まれていた。(残り二三四冊にはそういうタイプの本がほとんどない)
 対して東京創元社。『世界推理小説全集』全八十巻。これが55年から59年にかけて刊行されている。『世界大ロマン全集』全六五巻。56年から59年。このシリーズにはライダー・ハガード五冊をはじめ、『ドラキュラ』『マラコット深海』『透明人間』『ドゥエル博士の首』『月世界旅行』『ジェニーの肖像』『第二の顔』『怪奇小説傑作集TU』などなど、SF怪奇小説系の本がいっぱいはいっている。HSFSとほぼ同時に刊行がはじまったものに『世界恐怖小説全集』全一二巻がある。だけど、たしか60年くらいに会社が一度つぶれちゃうんだよね。
 創元関係者に聞いたらすぐわかるんだろうけど、聞いてないからよくわからない。知っとかないといけないような気がだんだんしてきている。新書サイズの『スポンサーから一言』がいつ出たのかとか、文庫主体の決定はどうしてなされたのかとか、その他いろいろ。
 総じて、早川書房の戦略が作品群を英米のジャンル的秩序のもとに構築、囲いこみしていくものであったとするなら、旧東京創元社の戦略は、欧米を俯瞰する歴史的視野にたった大衆文学の大潮流のなかで作品群を位置づけようとしたとみることができる。かな?
 今の目で、どっちを支持するかと聞かれたら、けっこうためらうところもないではないけど、若いころならまずまちがいなく早川の方針を支持している。創元のにはおじんっぽい教養主義的くさみがある。
 このへんの事情にぼくはあまりくわしくない。この時期の人脈図は相当面白いはずで、くわしい知識の持ち主はまだ死なずにいっぱいいる。(そのうちの一部は小林信彦『夢の砦』などで窺える。ミステリに関しては江戸川乱歩を核に、かなりくわしい人脈図がいろんな人によって立体的に描かれている。だけど、翻訳大衆文化に話をひろげた場合の地図が見えてない。たとえば平井呈一や紀田順一郎といった荒俣宏・野村芳夫系列とかね)
 良平先生の近著がこういうところまで言及しているだろうと期待することにして、HSFS中心に話をしぼることにする。
 さて。
 最初に触れたEQMM19号。当然ながらここに「ハヤカワ・ファンタジイ」発刊の広告が載っている。
 二色刷り、見開き二nである。
 予告されている最初の本はジャック・フィニイの『盗まれた街』。「ハヤカワSFシリーズ」ではなく、空想科学小説シリーズ「ハヤカワ・ファンタジイ・ブックス」だった。銀色に統一された背表紙には「ポケミス」からの通しナンバーで3001の番号がはいり、通しナンバーの下、題名の上のところには赤い亀甲に白抜きでHFの文字がはいる。
 この、「EQMM」に載った広告には、最新刊として『盗まれた街』が値段なしで載っているほか、続刊予定の作品が三冊、それぞれ五行づつのあらすじつきで並んでいた。『ドノヴァンの脳髄』『火星人ゴーホーム』『狂った雪』である。このうちの最後の本は刊行されていない。(のちにアブリッジ版がジュヴィナイルで出ている。たしか「鉄腕アトム」の『宇宙豹の巻』のヒントになったという噂を聞いた記憶がある。ぼくは「コース」か「時代」の別冊付録で抄録版を読んでいる)
 以下近刊予定として『宇宙の妖怪たち』『21世紀潜水艦』『火星一番乗り』『消えて行く国道』『吸血鬼』『クリスマス・イヴ』と並ぶ。『火星一番乗り』は『宇宙人フライデイ』、『消えて行く国道』は『宇宙病地帯』である。
 資料が少ない。石原藤夫の『図書目録』や福島正実の『未踏の時代』さえ持ってない。『未踏の時代』はSFMの連載なので、そのうち連載号をひっぱりだすかもしれない。
 ぼくの家にある次のEQMMは58年10月号だから、間に九ヵ月がある。この号はポール・アンダースンの「火星のダイアモンド」やエドガー・パングボーンの「にやおうん」が載っていて、SFファンのコレクター・アイテムとして貴重な号だった。だったである。過去形だね、もう。昔は集める本がなかったから、このレベルまで情報としての値打ちがあった。いま、ここまでやろうとするのはバカである。
 広告を見ると、この段階で既刊が七冊。ほぼ月一冊のペースで順調に刊行されている。
 値段である。『盗まれた街』一八〇円、『ドノヴァンの脳髄』一五〇円、『火星人ゴーホーム』一五〇円、『宇宙人フライデイ』一五〇円、という値段が高いか安いかよくわからない。ただ「EQMM」(丸綴じ一四〇n)一〇〇円ということを考えるとそう安くはないとみるべきだろう。この月のミステリの最新刊にはロス・マクドナルドの『運命』が二一〇円であがっているけど、今の値段は消費税後の新刷りなしで八〇三円である。
 さて、当然気になるのは、「ハヤカワ・ファンタジイ」から「ハヤカワSFシリーズ」へ移行したのがいつかという問題である。これも広告をみるのがいちばんてっとりばやい。ところが、「SFマガジン」が創刊されると同時にEQMMは「ハヤカワ・ファンタジイ」の広告を載せなくなるのだ。広告が復活するのは63年10月号で、それもシリーズの広告としてではなく、『墓碑銘二〇〇七年』『地には平和を』『宇宙のあいさつ』という日本の新人作家の処女作品集売出し広告としてである。ちなみにこの三冊の定価はそれぞれ二七〇円、三〇〇円、二五〇円で、この号(角綴じ二一八n)のEQMMは一八〇円である。ただ、この段階で叢書名は「ハヤカワSFシリーズ」に変わっている。ちなみにEQMMでのSFシリーズの広告の完全復活の時期はというと、64年12月号である。ハヤカワ・ノベルズの発刊広告(『寒い国から帰ってきたスパイ』と『グループ』)をメインにこの号からSFMとHMMの両方にHSFSの広告が載るようになる。
 この号の広告では、シェクリイの『不死販売株式会社』の近刊予告が載っている。訳者は長岩喜与志となっている。結局このときは出ずに、SFシリーズの最後近くに福島正実の訳で出る。むかしむかしのことである。どれくらいむかしの話かというと、ここに最新刊として載っているルイス・パジェット『ミュータント』が、浅倉久志初めての翻訳単行本である。(3075番 64年11月)
 さて、なぜ長々とEQMMで話をつないでいたか、そんなものはSFMをみたらすぐわかるんじゃあないかと言われそうだが、じつはたぶんそうだと思う。それができない理由というのは、古い人ならお気づきのとおりの事情による。SFMの古書価は高かったのである。EQMMが一〇〇円、へたをしたら四〇円くらいで買える時代に、SFMは四〇〇円から八〇〇円くらいしていた。だからいまだに、最初の丸綴じ本時代のSFMは5冊しかもっていない。はたしてきちんと答えがでるのかどうかわからないのだ。調査結果を書いているのではないのである。調査と同時進行で書いているのである。
 61年11月号、バドリスの「無頼の月」の最終回が載っている号がある。この号をまず取りだす。なんとわたしは四回連載の第二回と最終回しか持ってないのに気がついた。それだけ読んでこの話を全部読んだつもりになっていたらしい。いろんな発見があるものだ。
 この号の裏表紙裏の広告はまだ「ハヤカワ・ファンタジイ」である。既刊の数を数えると、29冊。58年、59年、60年のまるまる三年プラス半年強の期間の点数だから、かならずしも順調とはいえない。
 12月号を持っていなくて、続く62年の1月号。チャド・オリヴァーの「雷鳴と陽のもとに」というぼくの好きな、ほかで読めない中篇が載ってる貴重な号だ。
 なんと「ハヤカワ・ファンタジイ」の広告がない!
 SF専門誌でありながらSFシリーズの広告がどこにもないのである。
 2月号にもない!
 これってけっこうこの時期のSFファンには事件だったのではないのだろうか? 伊藤さんか浅倉さんに聞いてみよう。
 3月号で広告が復活する。まだ「ハヤカワ・ファンタジイ」である。じつに2月の新刊として、三冊もの作品が並べてある。いやあ、すごいすごい。アシモフ『宇宙気流』二二〇円。やったね。シェクリイ『不死販売株式会社』大久保康雄訳二〇〇円。あれ? コッペル『黒い十二月』二二〇円。れ?
 4月号にはまた広告が落ちている。
 5月号! 一九六二年五月号!
 発見ですね。「ハヤカワ・SF・シリーズ」 この号ではじめて登場です。ここから赤い亀甲に白抜きのHFは白抜きのSFに変わるわけです。
 どこからというのがちょっとわからない。29冊目の『来たるべき世界の物語』まではまちがいなく「ハヤカワ・ファンタジイ」である。32冊目の『太陽の黄金の林檎』はまちがいなく「ハヤカワSFシリーズ」である。わからないのが30冊目の『宇宙気流』二三〇円と31冊目『最終戦争の目撃者』二三〇円。たった二ヵ月で版を替えて、一〇円高くなって出るとは思えないから、常識的にはどちらも「ハヤカワSFシリーズ」だと考えてまずまちがいない。
 こうやってみると、シリーズ名の変更は、売行き不振の打開策の一環だったとみてよさそうだ。
 第一回の値上げもだいたいこのへんの時期に起きている。61年11月号の広告までは、値段の変更はない。それが62年3月号最後の「ハヤカワ・ファンタジイ」のときはじめてバタバタと値上がりする。『盗まれた街』+10 『吸血鬼』+10 『21世紀潜水艦』+20円である。
 「ハヤカワ・ファンタジイ」から「ハヤカワ・SF・シリーズ」と改名しながら、旧の定価の本がほとんどだったということが意味するところはひとつしかない。重版できるくらい本が売れないということだ。改名はしたものの29冊目までの本はずっとHFのまま出まわっていたということである。

 ええ、訂正がはいります。
 今、家にある『最終戦争の目撃者』を調べたら、HFでした。HFは31冊目までに確定します。以上。

 新刊の値段はこのあたりからほとんどが二〇〇円台になる。『地球の緑の丘』は最初から二八〇円もしている。元々社で一度出ている本だというのも関係あるかもしれない。そのせいで、部数をしぼった可能性がある。
 ここでHSFSに再録された本というのを調べてみる。これが思いのほかに多い。再録といっても訳者が変わっている場合が多いので、改訳本というべきかもしれない。
 一番最初にはいったのがアーサーC・クラークの『火星の砂』(3025)。61年の3月である。室町書房からほとんどHSFSとおなじ装丁で55年の1月2月に訳者平井イサクで二冊だけ出たSFシリーズの片割れである。訳者はそのまま。片割れのもう一方、アイザック・アシモフの『遊星フロリナの悲劇』も62年の3月に3030番として収録される。あと、この前後にはH・G・ウエルズやジュール・ヴェルヌといったクラシックがぞろぞろ並ぶ。このへんも改訳本に含めてかまわないだろう。以下、表にしておいたので、別表1を参照のこと。

 うーむ。
 たいへんなものがみえてきた。
 25冊め以降、というのは61年にはいってからということなのだが、早川のSF路線は急激に積極性をなくしている。
 今、新たな資料を手に入れて、HSFS全部の初版年が確認がとれたのだけど、それによると、HSFSの発行年は多少の出入りはあるけど、だいたいつぎのようなところにおちつく。
 57年 01〜02番     2冊
 58年 03〜08番     6冊
 59年 09〜18番     10冊
 ここで、HSFSの出版は最初の大きなつまずきをみせている。60年の前半半年間というものシリーズ新刊は一冊も発行されていない。60年というのがどういう年かというと、これがSFマガジンの創刊された年だったりする。(正確にいえば59年の12月だけどね)
 SFMの創刊と同時にHSFSは一冊も出なくなったわけである。
 そうか、EQMMに広告が載らなくなったのはSFMに移ったからではなかったのか。本が出なくなったためなのか。
 いったいなんで早川書房は、SFMを創刊したのだろう。
 好意的な解釈としては、SF担当者の数がいないため、SFMの毎月刊行に手をとられ、HSFSが出せなくなったという考え方もできる。最終的には、
 60年 19〜24番     6冊
 という結果におわる。
ハヤカワSFシリーズに再録された作品(創元競合本を除く)
NO 作 品 年 旧 出 版  年 25 火星の砂 61 室町書房 55 28 超能力エージェント 61 元々社 56 29 来るべき世界の物語 61 30 宇宙気流 62 室町書房 55 33 タイム・マシン 62 34 海底二万リーグ 62 35 モロー博士の島 62 36 脳波 62 元々社 56 37 地球の緑の丘 62 元々社 57 38 人間の手がまだ触れない 62 元々社 56 39 マラコット海淵 62 40 月世界最初の人間 62 42 アーサー王宮廷のヤンキー 63 43 宇宙恐怖物語 62 東京ライフ社 57 45 巨眼 63 47 火星年代記 63 元々社 56 48 ロスト・ワールド 63 56 宇宙戦争 63 57 地底旅行 63 58 夏への扉 63 講談社 58 62 第四間氷期 64 講談社 59 63 天の光はすべて星 64 講談社 58 65 華氏四五一度 64 元々社 56 68 虎よ、虎よ! 64 講談社 58 90 裸の太陽 65 講談社 58 15 時間と空間の冒険1 66 ※ 東京ライフ社 57 21 海竜めざめる 66 元々社 56 27 発狂した宇宙 66 元々社 56 78 月と太陽諸国の滑稽譚 68 09 動乱2100 69 元々社 56 18 地球光 69 元々社 56 79 長く大いなる沈黙 71 久保書店 68 99 地衣騒動 72 SF全集 ※『時間と空間の冒険』はどちらも抄訳で、内容的には相違がある。(他『光の塔』『悪魔のいる天国』『山椒魚戦争』『神々の糧』など)  早川SFシリーズにはいる前に、雑誌等で内容の一部が人目にふれている本(短篇集なら半分以上 前表及び創元競合本を除く) NO 作 品 年 初   出 24 刺青の男 60 SFM 少 32 太陽の黄金の林檎 62 SFM他 少 41 月は地獄だ 62 SFM 全 49 宇宙翔けるもの 63 SFM 全 51 墓碑銘二〇〇七年 63 SFM 全 52 地には平和を 63 SFM 全 53 宇宙のあいさつ 63 SFM他 全 54 われはロボット 63 SFM 少 55 宇宙行かば 63 SFM 少 59 SFマガジン・ベスト 1 63 SFM 全 60  SFマガジン・ベスト 2 64 SFM 全 61 わが手の宇宙 64 SFM他 少 66 影が重なるとき 64 SFM他 全 70 SFマガジン・ベスト 3 64 SFM 全 71 妖精配給会社 64 SFM他 全 77 SFマガジン・ベスト 4 64 SFM 全 79 ヒューゴー賞傑作選 1 65 SFM 少 80 ヒューゴー賞傑作選 2 65 SFM 多 82 落陽2217年 65 SFM 全 85 拠点 65 SFM 全 86 宇宙震 65 SFM 全 88 日本売ります 65 SFM他 全 91 ソラリスの陽のもとに 65 SFM 全 95 準B級市民 65 SFM他 全 96 十八時の音楽浴 65 全 99 東海道戦争 65 SFM 全 03 宇宙の孤児 65 SFM 半 04 地球の脅威 65 SFM 多 05 竜座の暗黒星 66 SFM 全 06 恋人たち 66 宝石 半 09 地球巡礼 66 SFM 多 13 タイム・パトロール 66 SFM 少 14 東京2065 66 SFM他 全 (以下略)  ただし、この15〜24の10冊はHSFS全体を通してみても、非常に興味をひくラインナップである。企画を推進していく当初のエネルギーはまるでこの10冊で使いはたされたかのようだ。並べてみる。  『アトムの子ら』『鋼鉄都市』『呪われた村』『果てしなき明日』『アンドロイド』『300:1』『時の風』『都市』『海底牧場』『刺青の男』  このセレクションって、名作表をリストアップして出てくるようなやつじゃないのね。評判のいい本をかたっぱしから読みまくって、そのなかから日本人受けする話をきちんと抜きださないとこのラインナップはつくれない。  当初サスペンス風味の強い作品を揃えたところ、むしろそのなかのSF味の強い作品のほうがよく売れたことから方針が変わったといった話を読んだ記憶があるけれど、その成果がこの10冊だとすれば、ある意味でアメリカ・エスタブリッシュメントをそのまま移植した感のある、元々社のセレクションより、ずっとオリジナルで好感のもてる作品群である。都筑・福島・矢野トリオによる最上の成果とみているのだけどいかがでしょうか。  この路線が引き継がれていったら、日本の翻訳SFは今とはまるでちがったカラーを生みだしていたかもしれないのだが、残念ながら10冊きりで終了する。  ここからあと、25番め以降のセレクションは急激に変化する。  とにかく再録が多い。まず、クラシックの山である。ウエルズ、ベルヌ、ドイル。大ロマン全集の売行きなんかをにらんで、現代SFより、こちらのほうが売れそうだと判断したのかどうか。そして元々社や室町書房の本 がどんどんはいる。  61年 25〜29番     5冊  62年 30〜43番     14冊            (重版4冊)※初  63年 44〜59番     16冊            (重版11冊)  64年 60〜77番     18冊  65年 78〜0104番    27冊  66年 0105〜0130番   26冊  67年 0131〜0167番   37冊  68年 0168〜0205番   38冊   ※重版のチェックはSFMに載ったHSFS一覧広告の定価変更に基づくもの。   64年6月号からあと、一覧広告がなくなるので、それ以降は確実な数字がわから  ない。    ただ、6月号時点での64年重版数は2点しかなく、それ以降の値段変更などと  重ねあわせたところでは、最高で20点くらいの重版があったものと推定される。  こうやってみると、出版物としてのHSFSがほんとうに軌道に乗ったのは64年の後半くらいからなんだな。ただし、内容については、逆だったりする、現代SFにおける古典的名作は、だいたいそこまでの70冊に含まれてて、このへんから、作品の粒は全体に小粒になってくる。  そのあたりの話はまたあとで。  それよりも、60年61年62年という、この、SFM創刊からの三年間である。日本においてSFが定着するかどうかのかなりたいへんな時期だったという気配が発行数と作品内容から伝わってくるようなのだ。  発行数が最小、たった5冊の61年。再録である『火星の砂』『超能力エージェント』に、初めてのクラシック、H・G・ウエルズの『来るべき世界の物語』と並び、スタニスラフ・レムの『金星応答なし』が映画原作本のひきによるものだから、純然たる現代SFのセレクト本は『宇宙商人』だけである。   この年のおわりに、SFMは二年間つづいたF&SF誌との特約を打ち切る。  F&SF誌のカラーが日本の読者の好みとあわなかったとか、F&SFの日本版として、編集上の制約が強すぎたとかいった説明を聞かされた覚えがあるけれど、それだけでもなさそうだ。  HSFSの状況とリンクすると不採算部門の経費節減という意味合いが強かったようにみえる。だって、EQMMの方は65年まで、日本版契約をつづけているのだから。  元々社や室町書房からの再録が増えたのも、一度翻訳が出ているものは、未訳のものより版権が安いとか、そんな事情もあったのではないのだろうか。そういう方面からみていけば、ウェルズ、ヴェルヌの出現も別のかたちで理解できる。  62年はそうした合理化対策を講じつつも、出版点数において拡大路線に転じた年である。  この年の14冊(うち1冊は番号が前後していてじっさいは63年なんだけど)のうち、再録、クラシックはじつに11冊にも及ぶ。  『タイム・マシン』『モロー博士の島』『月世界最初の人間』『マラコット海淵』『海底二万リーグ』『アーサー王宮廷のヤンキー』これが金背(クラシック)。  『宇宙気流』『脳波』『地球の緑の丘』『人間の手がまだ触れない』『宇宙恐怖物語』 これが再録。  残り3冊のうち、『月は地獄だ』はSFMに連載されたものである。再録みたいなものだ。  『太陽の黄金の林檎』もいくつかがすでに雑誌掲載済みだけれども、これはまあそこまで強引にいうほどのことはないだろう。  残るひとつは、『最終戦争の目撃者』である。SFファンをあてこんだ本ではない。  この時期の最大の社会的事件はキューバ危機である。ぼくらは「世界が滅びるかもしれない」と皮膚感覚で心配する快楽を味わえた世代だったのである。中国の核実験のあと、雨にあたったら頭がハゲると大衆がなかば本気で恐れていた時代があったのだ。そんな時世のなかでの、最終戦争ものブームに乗ったものである。アルフレッド・コッペルの本は最近二見文庫からいくつか軍事ハイテク小説が出版されている。基本的にそっちのほうの人なのだろう。  このての本としては、63年には科学者たちが嘘ついて、冷戦を終結させる『巨眼』が再録されたほか、64年に映画「博士の異常な愛情」のどこが原作なのかよくわからない、ピーター・ブライアント『破滅への二時間』が収録されている。  他社からも、『フェイル・セイフ』『レベル・セブン』などいろいろ出ていて、SFの側面援護になったブームである。  以上の点から鑑みるに、62年のHSFSの純然たるオリジナルはブラッドベリの『太陽の黄金の林檎』だけだといってもいい。  63年にはいっても、再録重視の傾向は基本的にはかわらない。  ただし、再録とはいえ、積極的な大企画が始まる。SFM等に発表した作品を寄せ集めた、日本の新人作家3人の短篇集である。小松、光瀬は処女作品集である。毎月のように広告を打ち、3冊同時に刊行する。  小松左京『地には平和を』  光瀬龍『墓碑銘二〇〇七年』  星新一『宇宙のあいさつ』  同時に、そこまで大々的ではなかったが、同じくSFM掲載作を集めての、ソ連SFアンソロジー『宇宙翔けるもの』、SFM最初の一年に掲載されたF&SF誌との版権がからまない作品集『SFマガジン・ベスト1』も出版される。  これらの企画を成功させることこそが、この年の中心課題であったとみていいかもしれない。  全部で16冊の刊行だが、残り11冊の内訳は  『ロスト・ワールド』『宇宙戦争』『地底旅行』が金背。  『巨眼』『火星年代記』『夏への扉』が再録本。この『夏への扉』のはいっていた講談社SFシリーズというのは、HSFS別動隊という業界横断的なけっこうとんでもない企画だったという話である。あまりおいしくなかったらしく、半年で終了。五年ぶりにHSFSで出直すことになる。以下、残りの作品もHSFSにつづけさまにばたばたはいる。  『宇宙行かば』は今でいえば『スタトレ』的なTV映画のノヴェライゼーション。  残り4冊は『われはロボット』、創元とぶつかった『トリフィドの日』、『地球脱出』『人間以上』である。  うしろ二つが矢野徹の訳である。  HSFSの矢野徹デビューは、61年9月、28冊めの『超能力エージェント』が最初である。SFMの方では61年3月号から短篇を訳しはじめている。  『超能力エージェント』は、元々社の本の改訳だが、つづいて62年3月には31冊め『最終戦争の目撃者』を刊行。『月は地獄だ』(SFM62年5月から8月号に連載)が62年の11月で41冊め、『地球脱出』が63年1月で44冊め、『人間以上』が63年4月で46冊めと、オリジナル本の乏しいこの時期のHSFSできわだった動きをしている。  ところが、このあとの動きを追っていくと、意外と影が薄くなる。
 3064『超生命ヴァイトン』   64年3月
 3073『時の支配者』      64年9月
 3089『半数染色体』      65年7月
 3103『宇宙の孤児』      65年12月
 3136『宇宙の戦士』      67年2月
 3152『オッド・ジョン』    67年8月
 3169『ロスト・オアシス』   68年1月
 3194『ハウザーの記憶』    68年9月
 3216『月は無慈悲な夜の女王』 69年4月
 3238『アルタイルから来たイルカ』69年11月
 3247『コマンダー1』     70年3月
 3279『長く大いなる沈黙』   71年10月
 『人間以上』とハインライン(あと文庫の方の『デューン』)のせいでイメージが分解するけど、このへんを除いてしまうと、むしろジャンルを代表する作品よりサスペンス風味の方に興味が寄っている。
 これをもうひとりの立役者、福島正実と並べてみよう。
 3001『盗まれた街』
 3016『鋼鉄都市』
 3058『夏への扉』
 3067『幼年期の終り』
 3104『地球の脅威』(共)
 3115『時間と空間の冒険』(共)
 3271『不死販売株式会社』
 こちらのほうは、また息がつまるくらい堅苦しい。立派さも、ここまでくるとドグマティズムである。双方に名前のあがってこない四十年代の大物に、ブラッドベリとヴァン・ヴォークトがいる。伊藤典夫と浅倉久志にこの二人の作家の翻訳本があるというのがちょっとおもしろい。
 いずれにしろ、当初の翻訳SFのセレクションが、この両者の振幅のなかで、生みだされてきたということは、かなり喜ばしいことであったように思える。

 六三年一月号の広告で値上がり本が再び二点。『21世紀潜水艦』がまたまた3刷りの+30円、『金星応答なし』が+20円。
 いやあこれはけっこう意外な本ですねえ。ここまで既刊42冊。『金星応答なし』が27冊め。それ以前に出ている『鋼鉄都市』『アンドロイド』『都市』『海底牧場』『火星の砂』『火星人ゴーホーム』『宇宙の眼』『刺青の男』といったところは売れていないということらしい。
 『金星応答なし』はたしか映画がからんでいたと思うのだけど、この『21世紀潜水艦』のヒットはなんなのだろう。こっちも映画がらみだっけ。でも、『金星応答なし』が止まった後も、ずっと売れているんだよね。ぼくはその理由として軍事おたくが、むかしからいっぱいいて、とくに冷戦華やかりし時期にSFのなかに大量にまぎれこんできたという説を唱えている。
 43冊目のグロフ・コンクリンの『宇宙恐怖物語』。これがはじめての三〇〇円台、それもいっきに三六〇円という強力無比な値段である。

 ここで突然とんでもないことに気がついている。版を重ねるごとに値段をあげる早川書房の悪徳商法を糾弾しようという趣旨で、いじこく値段のチェックをしようとしたのだけれど、ただの読者であったむかしとちがって、出版事情がある程度わかるようになってきたぶん、矛先が狂ってきた。
 HSFSってぜんぜん売れてないじゃない!
 鳴物入りで創刊された第一号の『盗まれた街』の二刷りめが五年後である。文庫じゃないから何万部も刷れるはずがない。同じ月にポケミスだけでも六冊くらい新刊が出ている。倉庫の容量から逆算しても見当がつくというもの。三千から五千部くらいじゃないかといった噂を聞いたこともあるけれど、たぶんそれくらいのものだろう。
 まして重版となると多くてその半分くらいの部数とみるのが、まあふつうである。
 ということは、五刷りまでいっても一万部あるかなしか。
 そんでもってぼくの持ってる本で三刷り以上になってるのって、ほとんどなかったりする。
 これはたいへんなことである。
 SFファンというものは、少なくともぼくの同世代前後のSFファンというものは、創元五〇冊、HSFS一〇〇冊の合わせて一五〇冊程度は読んでいるはずだ、とぼくは頭から思いこんでいた。そして、そんな人間が、全国に、少なくとも一〇万人くらいいるはずだと考えていた。
 だけどこうした数字を順番に拾っていくと、そういう、ぼくが基礎教養だと信じこんでた知識について共有している人間の数は、へたをすると万のオーダーを割りこみかねない。それがもし正しいようなら、自分の書いてる文章の、想定している読者について、実情とかなり大きな誤差がでてくる。
 なんと小さな世界!
 そしてそういう小さな世界を相手に、五年ぶりの重版をたった10円しかあげなかった早川書房の営業方針というものは、これはこれでなかなかに良心的といっていい。

 ということで、HSFSの重版状況を調べてみようと思いたった。これが口でいうほど簡単ではない。
 こんなものは出版社に聞いても、ふつう教えてくれないものだし、だいいちわかってなかったりする。結局持っている本の奥付をあたる以外に方法がないわけだけど、同じ本を重版別に持ってる人間なんてふつういない。いたら病気だ。
 で、何人かの方々の協力を得て、わかったかぎりというのが次のページの表である。 (ご協力いただいた方:まきしんじ、小浜徹也、中村融、山岸真、大森望)
【現在からの注 ごめんなさい。表がどっかにいっちゃいました】


 とりあえず、62年の4冊、63年のの11冊、64年の確定している2冊についてもう一度並べておこう。  62年 『盗まれた街』『吸血鬼』『21世紀潜水艦(2・3刷り)』『金星応答なし』  63年 『吸血鬼(3刷り)』『21世紀潜水艦(4刷り)』『宇宙の眼』『鋼鉄都市』『アンドロイド』『海底牧場』『火星の砂』『来るべき世界の物語』『宇宙気流』『太陽の黄金の林檎』『タイム・マシン』  64年(4月時点) 『時間溶解機』『宇宙恐怖物語』  ごらんのようにウエルズが強い。アシモフ、クラークも室町書房の再録をこなして元気がいい。ブラッドベリは一点送りこんだものの最初に出た『刺青の男』がまだ初版のままである。ハインラインも出遅れている。  版を重ねた主な作品を表にしてみた。ただし65年以降の本の、かなり惨澹たる状況と比べてみるため、上段については、本来ふくめるべき作品のかなりの数をはしょっている。 (『吸血鬼』『アンドロイド』『都市』『火星の砂』『地球の緑の丘』など)  クラシックや創元競合本での意外な健闘がある。とくに金背においては、ぼくなんかとまるで異なる読者層があったのだなと痛感する。  なにぶん中途半端な表であります。興味を持たれたかたは、この虫食いの穴埋めにご一報くださいませ。(できれば何年何月何日までの情報を)  重版状況を調べているうちに、気がついたことがひとつある。  ノヴェライゼーションが強いとか、古典的評価が確立した作品はやっぱり強くなるとかいったことは、いまと同じで別に驚くことはないのだけれど、なんと短篇集がよく売れているのである。  じっさいぼくも、むかしは短篇集の方が一冊で何回も楽しめるから得だ、シリーズものは一冊でかたづかないから損だといった感覚があった。  こうやってみると、むかしはそういうふうに考える人間がやはり多かったのだ。いちいち構えなおさないといけない短篇集より、思考停止をしてだらだら読みつづけられるシリーズものの方が楽でいいといった反応は、結局出る本の量、読むつもりの本が量が増えてきた時点での読み手の側のある種の防衛機構かもしれない。  さて、64年である。三〇六〇番から三〇七七番。この年の前半で、SFの名作を網羅するというHSFSの当面の意図が終結したようにみえる。それほどに、この年の前半の大物の集結ぶりと、後半の小ぶりな、しかし現代的になった作品との落差ははげしい。  六月まで刊行された本は全部で12冊。  『SFMベスト 2&3』『第四間氷期』『影が重なるとき』『妖精配給会社』に『幼年期の終り』『虎よ、虎よ!』『華氏四五一度』『超生命ヴァイトン』といったところが並ぶ。半分近くが再録である。  なかなかのものである。  じっさいにぼくがHSFSに接するのは、68年前後である。その時点でのHSFSの出版点数は二〇〇点に達している。  しかし、その時点においても、名作の宝庫といった早川SFシリーズのブランド・イメージは、ほとんどこの七〇冊に網羅されていたのである。  とりあえず、ここまでの七〇冊中、五〇冊ほど読んでいればSFファンとして、だれにも胸を張ることができたといっていいだろう。  当初の七〇冊をほとんど読んでなかったら、残り一三〇冊中一〇〇冊を読んでいたとしても、SFを知っていると口にするのがはばかられるというくらい、当初の七〇冊には重みがあった。  しかし同時に一方で、そうした重みは、元々社や講談社の再録に支えられた重みであった。元々社と、HSFS別動隊だった講談社版をひとくくりにして論じるのはじつはちょっといけないことではあるのだけれど、じつのところ、再録本を切り離し、オリジナルだけで比較してみた雰囲気では、元々社の最新科学小説全集のラインナップの方が、HSFSよりも現代SFの宝庫としての風格を強く漂わしていたりする。 早川SFシリーズ主要重版作品 作    品 1 2 3 4 5 6 7  盗まれた街 57 62 65 66 73  21世紀潜水艦 58 62 62 63 69 73  鋼鉄都市 59 63 67  刺青の男 60 69 74  金星応答なし 61 62 67 69  超能力エージェント 61 73  宇宙恐怖物語 62 64 65 69  人間以上 62 67 69  火星年代記 63 68  われはロボット 63 65 68  夏への扉 63 68  華氏451度 64 67  幼年期の終り 64 67  虎よ、虎よ! 64 67 69  SFマガジン・ベスト 1 63 66 71 73  SFマガジン・ベスト 2 64 66 67 73  SFマガジン・ベスト 3 64 65 73  SFマガジン・ベスト 4 64 66 作    品 1 2 3 4 5 6 7  ヒューゴー賞傑作選 1 65 67 71 74  ヒューゴー賞傑作選 2 65 67 71  太陽の影 65 66  宇宙震 65 66 71  裸の太陽 65 71  宇宙の孤児 65 67  恋人たち 66 67  地球巡礼 66 67  タイム・パトロール 66 66  時間と空間の冒険 1 66 69 73  発狂した宇宙 66 71  宇宙の監視 67 68 70  秘密国家ICE 67 67  宇宙の戦士 67 68  地球の長い午後 67 70 71  ミクロ潜行作戦 67 69  宇宙軍団 68 71  人間がいっぱい 71 73 73 早川SFシリーズ日本作家 作    品 1 2 3 4 5 6 7  墓碑銘二〇〇七年 63 72  地には平和を 63 71 72  宇宙のあいさつ 63 72  第四間氷期 64 69  影が重なるとき 64 67 72  妖精配給会社 64 72  落陽二二一七年 65 72  日本売ります 65 72  東海道戦争 65 67 72  ある生き物の記録 66 69 72  SFの夜 66 71  ベトナム観光公社 67  悪魔のいる天国 67 72  神への長い道 67 70  アルファルファ作戦 68 72  午後の恐竜 68 72  星殺し 70 72  馬は土曜に蒼ざめる 70 72 クラシック・創元競合作品状況 作    品 1 2 3 4 5 6 7  来るべき世界の物語 61 63 71  タイム・マシン 62 63  マラコット海淵 63 67  トリフィドの日 63  宇宙戦争 63  地底旅行 63 69  破壊された男 65  重力の使命 65 71  宇宙のスカイラーク 66  都市と星 66 67  スカイラーク3 66 69  最初のレンズマン 67  観察者の鏡 67  銀河パトロール 67  ヴァレロンのスカイラーク 67  銀河帝国衰亡史 68  天界の王 69 73  山椒魚戦争 74

 HSFSは24冊めまでで第一弾の企画を終了した。
 71冊めまでで、第二期を終えた。
 そして、六月から九月まで間があく。
 第三段階の始まりである。
 ポール・アンダースン『最後の障壁』。ウィルスン・タッカー『時の支配者』。エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』。ルイス・パジェット『ミュータント』。ポール・アンダースン『審判の日』。『SFMベスト 4』
 これが64年の残りの作品。
 『SFMベスト 4』は連続企画物なので、とりあえず別にして、他の作品を眺めると、まず、再録がない。
 65年にはいっても、27冊中、純然たる再録は講談社SFシリーズの最後の一冊『裸の太陽』があるだけである。
 ただし、SFM掲載作を中心にした短篇集
については意欲的に企画を打ちだす。
 日本作家の短篇集は、光瀬、小松、眉村、海野、筒井と五冊に及び、さらに、ヴァン・ヴォクト、マレー・ラインスターの短篇集を独自に編集する。海外作家の個人短篇集を編集部で独自に編むというのは、HSFSのなかでこの時期だけである。(なお、編集部編の個人短篇集はHSFSとしてはあと一冊だけある。この時期に先だつ64年2月のフレドリック・ブラウン短篇集『わが手の宇宙』である)
 64年の後半にもどろう。
 ポール・アンダースン二冊というのは、いったいなんなのか。(それもどっちもはっきりいって凡作である)
 問題はアンダースンではない。
 このアンダースンの二冊の原著発行年が、それぞれ63年、62年というバリバリの新作だということである。さらに、エドモンド・ハミルトンの名前で見まちがってはいけない。『虚空の遺産』も60年刊行の本である。
 驚いてはいけない。この本が出るまで、HSFSは60年代の刊行された本は二冊きりしか出ていないのである。その二冊も『最終戦争の目撃者』『宇宙行かば』。版権争奪にひっかかったような最終戦争ものと、時期を逃すと売りようのないノヴェライゼーションである。
 もちろん、最初のHSFSが出たのが57年12月だから、そんなに驚くべきことではない。
 第一号である『盗まれた街』は55年の本だから、原著刊行からほぼ二、三年の間で訳され出版されていることになる。
 実際、当初の24冊については43年刊行の『ドノヴァンの脳髄』以外すべて50年代本で刊行三、四年で翻訳されている。
 差が開き始めるのは、やはり第二期25冊めからである。

 この急激な変化の理由と推定できそうな二つの要因がみつかる。ひとつはSF紹介の第二世代の登場である。伊藤典夫、浅倉久志、野田昌弘が活発な活動を開始するのがこの時期からである。
 伊藤典夫のSFMデビューは62年9月号。リチャード・マティスンのショート・ショート「男と女から生まれたもの」である。その後しばらくは目だたない動きだったが、63年11月号ウィリアム・テン「非P」を皮切りに、ほぼ毎号中短篇を紹介するようになる。そして64年1月号からは「SFスキャナー」の前身「マガジン走査線」が始まる。
 SFシリーズは次の通り。
 3083『破壊された男』     65年5月
 3106『恋人たち』       66年2月
 3139『地球の長い午後』    67年4月
 3203『10月1日では遅すぎる』 68年12月
 3268『ニュー・ワールズ傑作選』(共・浅倉久志) 71年4月
 3285『黒いカーニバル』    72年1月
 3306『世界の中心で愛を叫んだけもの』(共・浅倉久志)    73年7月
 これに『猫のゆりかご』や『二〇〇一年:宇宙のオデッセイ』が加わるわけだから、やっぱりすごいよなあ。名作という言葉のもつ鈍重な響きがないところがすごい。福島名作路線にはそれがあるのだ。でも、どっちが売れるかとなると、たぶんあっちのほうが読者を獲得できるはず。
 次に浅倉久志。
 SFMデビューは伊藤典夫に一号遅れの62年10月号。フレデリック・ポールの「蟻か人か」が皮切りで、積極的な活躍は65年くらいから。ただし、単行本の翻訳は伊藤典夫より早く、64年11月の『ミュータント』が第一作。
 3075『ミュータント』     64年11月
 3084『重力の使命』      65年6月
 3122『宇宙零年』       66年9月
 3138『自由未来』       67年3月
 3143『時の歩廊』       67年5月
 3148『大いなる惑星』     67年7月
 3157『タイム・トンネル』   67年9月
 3164『宇宙兵ブルース』    67年12月
 3167『タイム・スリップ!』  67年12月
 3181『時の凱歌』       68年5月
 3206『テクニカラー・タイムマシン』
                69年1月
 3211『無限軌道』       69年3月
 3223『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』
                69年6月
 3248『時の仮面』       70年4月
 3269『人間がいっぱい』    71年4月
 3287『タイタンの妖女』    72年3月
 3308『爆発星雲の伝説』    73年9月
 3318『殺意の惑星』      74年11月
 伊藤作品と対象的にいわゆる傑作が少ない。どの作品も、洗練されてスマートな反面、重々しさに欠けている。
 ただ伊藤作品が存在しなくても、SFというジャンルはなくならないけど、浅倉作品を消してしまうとジャンル自体が崩壊する。個々の作品は軽いけど、全体としてはそれくらいの重みを持っている。
 矢野徹、福島正実、伊藤典夫、浅倉久志、野田昌弘。この五人のうちのだれか一人の翻訳作品だけを全部読んでいる人間がいたとしたら、いちばんお友だちになりたいのは、浅倉本の読者である。
 伊藤典夫系というのは、じつは後継者があまりない。ポリシーからいうと鏡明がそうなのだけど、そのポリシーのせいで、伊藤典夫とまるで異なる作品群を指向してしまう。しいてあげれば、安田均、大野万紀、米村秀雄と旧KSFAを一まとめにした集団だろうか。
 そのあとに、やや浅倉がかった大森望がつづく。
 浅倉久志系翻訳作品群の後継者としては、岡部宏之、酒井昭伸、内田昌之がいる。
 現実にこの人の翻訳本しか読んでいないという読者を抱えているのが、野田昌宏。
 スペース・オペラというものを蔑視してきた若いころの習慣をわたしゃまだまだ捨てきれてない。
 「SF英雄群像」はSFMの63年9月号から始まる。その実績をひっさげて、スペース・オペラの翻訳を無人の野を行く気ままさでこなしていく。
 3107『太陽系七つの秘宝』
 3118『謎の宇宙船強奪団』
 3132『時のロスト・ワールド』
 3177『暗黒星通過!』
 3187『宇宙軍団』
 3208『航時軍団』
 3217『天界の王』
 うーむ。一冊も読んでないや。『スター・キング』は読んだ気がするけど。なんにも言わないことにしよう。
 この時期登場したもうひとりの翻訳者に川口正吉がいる。特定のカラーに偏することなく、SFの訳されるべき作品を教養主義的に押さえていくという福島正実のポリシーを体現した活躍をする。この人の翻訳作品が抜けていたらHSFSは安定感に欠けたシリーズになっている。でも、全体に鈍重。途中からクラシック専門になってしまうし。
 3074『虚空の遺産』
 3077『高い城の男』
 3091『闇よ、つどえ』
 3094『ヒューマノイド』
 3101『未知の地平線』
 3108『宇宙のスカイラーク』
 3125『スカイラーク3』
 3155『最初のレンズマン』
 3166『ヴァレロンのスカイラーク』
 3199『イシュタルの船』
 3212『時の塔』
 3221『金属モンスター』
 3235『三惑星連合』
 3242『ムーン・プール』

 こうした第二世代の登場がSFシリーズ変化の内因だとしたら、外因ではないかと思われるもうひとつの要因がある。創元推理文庫の出現である。
 ちょっと調べきれてないのだけれど、フレドリック・ブラウンの『未来世界から来た男』の初版が63年9月、『宇宙船ビーグル号の冒険』が64年の2月でこの本のあとがきによると『ビーグル号』はSFマークの6冊めにあたるとの由。
 この時点において、日本におけるSFのほぼ管理一元化を果たしていた早川書房にとって、コントロール不能の別勢力の台頭は、かなりの危機感をもったことは想像にかたくない。
 しかも、64年という年は、アメリカにおけるSFブームのひとつの頂点というべき53年から、まるまる10年経過した年なのである。
 日本に対して翻訳権10年留保という特別権利が70年まで認められていたのである。翻訳出版に関して、この特別措置とのからみがあまり言及されないのはどうしてだろう。とりあえず、次のページの表をひとつの資料にしていただくということで、疲れてきたので、これにておしまい。
原著刊行10年内翻訳刊行本(25以降)

作    品      原 翻 間 (特殊事情)

25 火星の砂 52 61 9 再録

26 宇宙商人 53 61 8

28 超能力エージェント 54 61 7 再録

30 宇宙気流 52 62 10 再録

31 最終戦争の目撃者 60 62 2 最終戦争ブーム

32 太陽の黄金の林檎 53 62 9

36 脳波 54 62 8

38 人間の手がまだ触れない 54 62 8  再録

43 宇宙恐怖物語 55 62 7  再録

44 地球脱出 58 63 5

46 人間以上 53 63 10

55 宇宙行かば 60 63 3  TV

58 夏への扉 57 63 6

68 虎よ、虎よ! 56 64 8  再録

69 破滅への二時間 58 64 6  映画・最終戦争 72 最後の障壁 63 64 1 74 虚空の遺産 60 64 4 76 審判の日 62 64 2


78 高い城の男 62 65 3

79 ヒューゴー賞傑作選12 62 65 3
87 渇きの海 61 65 4 90 裸の太陽 57 65 8  再録 93 勝利 63 65 2  最終戦争 98 地球人よ、故郷に還れ 55 65 10 01 思考の網 61 65 4 03 宇宙の孤児 63 65 2 04 地球の脅威 59 65 6 06 恋人たち 61 66 5 10 地球巡礼 57 66 9 11 都市と星 56 66 10 13 タイム・パトロール 60 66 4 16 天翔ける十字軍 60 66 4 22 宇宙零年 56 61 10 26 中継ステーション 63 66 3 29 火星のタイム・スリップ 64 66 2 30 よろこびの機械 64 66 2 作    品 原 翻 間 36 宇宙の戦士 59 67 8 37 象牙の城 65 67 2 38 自由未来 64 67 3 39 地球の長い午後 62 67 5 41 秘密国家ICE 59 67 8 44 ミクロ潜行作戦 66 67 1  映画 46 標的ナンバー10 65 67 2  映画 48 大いなる惑星 57 67 10 51 異星の隣人たち 60 67 7 53 タイムマシン大騒動 64 67 3 54 第五惑星 63 67 4 57 タイム・トンネル 67 67 0  TV 62 宇宙のかけら 62 67 5 64 宇宙兵ブルース 65 67 2 67 タイムスリップ! 67 67 0  TV 68 インベーダー 67 68 1  TV 70 太陽自殺6668 66 68 2 71 アンドロメダのA 62 68 6

◆クイズ ホラー・アンソロジー
 次の作品群は、それぞれ、ホラー・アンソロジーに収録された作品の一部を並べたものである。どの本に収録されたものか当ててみろ。言っとくけど、どれを読んでも金太郎飴みたいで読後感の区別がつかないぞ。『ナイト・ソウルズ』のなかで、場ちがいとしか思えないレイ・ブラッドベリの純SF詩「伝道の書のはるか後は」にぶつかったときなんか思わず感涙にむせいだくらいだ。「老エイハブの友、ノアの友なるもの、その物語をうたう」(ほら、まだタイトルを空でいえるぞ。だいたいあってるはずだ)なんかとつながる、わかりやすい詩である。なんでこういうSFSFしたものがこんなとこでしか見つかんないんだよう。もっとこういうのを読みたいよう。

1 ホック「魂狩り」、J・N・ウィリアムスン「イザベル」、クーンツ「罠」、F・P・ウィルスン「人生の一日」、マキャモン「リザードマン」、ランズデイル他「パイロットたち」、ゴーマン「ストーカー」、マルツバーグ「ダーウィン的真実」、レックス・ミラー「十二月の女」、R・レイモン「カッター」
2 R・キャンベル「恐怖の遊園地」、ブロック「スカラブの呪い」、G・ウィルスン「アーネス博士の遺書」、W・F・ノーラン「死者からの電話」、D・エチスン「真夜中のハイウェイ」、B・ラムレイ「不気味な囁き」、ポール・アンダースン「白い子猫」、D・グラップ「ヒトラーを売った男」
3 ブロック「クリスマスの前夜」、G・ウィルスン「罠」、R・キャンベル「闇の孕子」、ブラッドベリ「見えざる棘」、D・エチスン「遅番」、C・L・グラント「赤黒い薔薇の庭」、L・タトル「石の育つ場所」、D・グラップ「三六年の最高水位点」、T・E・D・クライン「王国の子ら」
4 G・ウィルスン「代理教師」、C・L・グラント「老人たちは知っている」、R・キャンベル「追体験」、マキャモン「夜襲部隊」、D・エチスン「あなたに似た人」、ブロック「ささやかな愛を」、F・P・ウィルスン「ソフト病」、テム「隠れ場所」、D・E・ウィンター「スプラッタ」
5 D・エチスン「血の口づけ」、C・L・グラント「死者との物語」、R・キャンベル「このつぎ会ったら」、バーカー「魔物の棲む路」、ストラウブ「レダマの木」、ストリーバー「プール」、
6 ホック「一九四四年のドラキュラ」、テム「十番目の学生」、ゴーマン「選抜試験」、D・シモンズ「ドラキュラの子供たち」、ファーマー「誰にも欠点はある」
7 テム「トリックスター」、C・L・グラント「眼」、マッキャモン「ドアにノックの音が」、ストリーバー「ニクソンの仮面」、ブロック「いたずら」、R・キャンベル「リンゴ」

■とりあえず、ごめんなさいを言います。アイザック・アシモフの死亡年月日はちゃんとSFマガジンのアシモフ追悼の年譜のなかにありました。本文ページばっかり見てて見落としていました。でも、そっからのつづきの部分は変えないよ。
 「ウィングス」という雑誌が守備範囲でないので、全然知らなかったのだけど、伸たまきの『パーム』ってとんでもなくおもしろいじゃないの。確認してくとまわりの人間の七割がたが知っている有名人だった。青池保子と三原順の匂いがする。青池保子の匂いというのは、珍しくもないけれど、三原順の匂いというのは珍しい。久しぶりに全巻揃えるため本屋のはしごをやった。『はみだしっ子』ファン必読。
 で、毎度おなじみワンパターンのサーニン+ルーとソロモンの名前をつけてやった『ドラクエX』。世間の評判はそこそこだけど、つまんなかった。途中でだらけてカジノに入り浸ったり、モンスター育てに走ったり。ゴールインがみんなより一日以上送れてしまった。再履修を、チョビ、ハムてる、ひしぬまでやったら、キラーパンサーを仲間にしたあと混乱した。
 スーファミRPGなら『ドラクエX』より『ヘラクレスの栄光V』の方がよかった。ジャンプ・システムが楽しい。エンディングが立派。
 ファミコンのほうはクソゲーばかりいっぱいやっている。『ナイトガンダム物語2』『マジックキャンドル』『ラディア戦記』が水準以下。『カオス・ワールド』が目新しさ皆無ながら、よくまとまっていた。
 掘り出し物が、コナミの『ラグランジュ・ポイント』。中古屋で二千円以下の値段しかついてないので時間潰しに買ったのだけど、夢中になった。ややきつめのゲーム・バランスで、出来がわるいわけでもないのに、売れなかった理由というのは、いまどきのRPGにはめずらしく、ドラゴンも悪魔も出てこない、ガチガチのSF設定のせいだろう。SFってたしかにとっつきがわるい。剣と魔法のルーティン設定になじんでしまって、のるのにてこずった自分にいささかじくじたるものがある。
 ジャック・ウォマック 『ヒーザーン』で投げた人も『テラプレーン』は読むように。こっちの方が読みやすいし、おもしろい。士郎正宗をひきあいに出した柾悟郎の解説は大正解。あの一言で内容の映像化がぐっとらくになった。
 『嘘ばっか』佐野洋子 童話のパロディ集。七年ぶりの再刊だそうで、あることも知らなかった。前の『食べちゃいたい』もすごかったけど、こっちもすごい。悪意のかたまりである。なんでこんな話がちゃらちゃら書けるんだろう。佐野洋子の底って、一時見えたと思ったけれど、気の迷いだった。ばけもんである。
 『ミノタウロスの森』 トマス・バーネット・スワンの処女長篇。ついでに言うと、ぼくが原書で読んだ唯一の長篇。へた。でも泣かせの勘どころはつかんでいる。
 『火星の虹』ロバート・L・フォワード 二十ページで投げた。この本に再チャレンジすることはまずない。
 『天空を求めるもの』 草上仁の処女長篇。上品なジュヴナイルである。少年が旅に出て、いろんな人間と出会い、成長し、世界の秘密をかいまみる。二段組、ハードカバー、五〇〇ページ、処女長篇の期待値を埋めつくすには、人物たちが善人すぎる。
 〈連れさらった〉という帯の文句は、すぐ日本語がへんになるぼくの感覚でも、やっぱりへんだ。
 デイヴ・ダンカン『天命の絆』『荒涼たる妖精の地』 こういうおんなじようなプロットで、SFもファンタジイも片づけてしまう節操のない作家は斬り捨てたい。ずっと前にも言ったことがあるのだけれど、SF作家ってSF特有の思考形式が刻印されてて、ファンタジイを書いてもSFっぽくぎこちない小説世界になるはずなのだ。ロバート・ハインラインや、ポール・アンダースン、ピアズ・アンソニイのファンタジイを見よ、と昔は言っていたのだけれど、時代に迎合して、グレッグ・ベアやマイク・レズニックのファンタジイを見よと言おう。基本的にはファンタジイの奔放さを冒す〈欠陥〉であるわけだけど、その〈欠陥〉を味わう快感こそがぼくの趣味なのだからしかたがない。
 デイブ・ダンカンの小説ってそういう〈欠陥〉がないのである。ファンタジイどころかSFにさえない。『天命の絆』はじつにうまくたくさんの、過去のSFが生みだしてきた大道具小道具類を配置してみせ、その意味では、すごく勉強している小説で、こっちを読んではじめて気がついたのだけど、同じ意味で『魔法の窓』『荒涼たる妖精の地』もジャンル・ファンタジイ(!)の約束事を非常にきっちり勉強している小説で、そういうふうに考えてくと、小説世界の造り方とか読者サーヴィスといったこともやっぱりきっちり〈勉強〉しているという、そういう意味では〈プロ〉である。それも読者に迎合してというよりも、自分の趣味でがんばっている気配がある。主義主張からすれば否定をしたいのだけれども、はっきりいっておもしろくなくもないのである。ジャンルSFが好きだとか、ジャンル・ファンタジイが好きだとかいうんじゃない気がする。いや、たぶん、好きなんだわ。ただ、その好きという部分が、SFとかファンタジイとかの部分じゃなくて、ジャンル化された小説世界というものが大好きな作家という感じ。センス・オブ・ワンダーとか異質性とかいった言葉で期待される部分をもののみごとに捨て去って、予定調和の結末めざして物語をひっぱっていく。
 こういうものを読みたくてSFファンになったわけではないんだぞ、と言いたい気分は残るけど、こういう本ばかりにさえならなければ、こういう本もあっていい、と許容してしまうくらい、反感というのが生じない。
 村上春樹『国境の南 太陽の西』 凡作ですね。『ノルゥェイの森』でわけのわからない大量の読者を抱えこんだプレッシャーがもろに出たみたい。『ノルウェイの森』って自然に流れ出るようだったのに、同じ感じを再現しようとすごく無理をしている感じ。『チャンピオンたちの朝食』のあと『デッド・アイ・ディック』を書いたカート・ヴォネガットみたい。