【1991】

 一九九一年になりました。去年一年、結婚なされた方々はやっぱりけっこうありましたが、わたしの前方を走る独身馬の群れは一頭も欠けませんでした。今年も大船に乗って過ごせそうです。(乗ってはいけない船のような気もしないでもない)。

 「”経験から学ばなかった”のではなく、”経験”の為に成長出来ない部分を持つ様になってしまったのだとしたら?」
 山のような箴言を複雑骨折を起こした人間関係の網目のなかに織りこんで、いつ果てるともなくつづいていた三原順の『SONS』が、第七巻でずいぶん安易に唐突におわってしまった。感想を書こうとしても、「あ、おわっちゃった」という感想しかでてこない。☆☆★

 今年はとうとう、二十年ぶりくらいに昨年出た本のベスト10というやつができなかった。SFに是が非でもという本が少なくて、境界領域に値段の高くて立派そうなハードカバーの話題作がいっぱいあったため。
 でもほんとうの理由は、年間二千時間近くもTVゲームにうつつを抜かしたせいのような気もする。今年はもっと本を読みます。
 とりあえず、オースン・スコット・カード『死者の代弁者』、イアン・ワトスン『スローバード』、フィリップ・K・ディック『タイタンのゲームプレイヤー』『ジョーンズの世界』が今年のSFの定番。これにまだ読み切ってない『エンジン・サマー』、『知性化戦争』、『ドクター・アダー』、『落ちゆく女』のどれかがはいりそう。『ネットの中の島々』は間を該当作なしにしても、第八位くらいにもっていきたい。『リプレイ』『一角獣をさがせ!』『光の潮流』あたりもその前後にならべたい。大森望にいわせれば、英米SFよりも立派だったという今年の日本SFを、じつは一冊も読んでなかったりするていたらく。反省。
 それにしても、ぼくはインディアンの風俗や南米のことを知りたくて、アメリカSFを読んでるわけじゃあないんですがね。『エンジン・サマー』も『落ちゆく女』も、読んだ『ネットの中の島々』も、そうした枠にひっかかって気勢をそがれた面は否定できない。中村融が今訳している長篇もたしか出だしが南米だった。
 ファンタジイ/ノンセクションでは、『スズキさんの休息と遍歴』『妖魔の戯れ』『暗い時計の旅』『ジャパネスク〈師の宮篇〉』『炎の眠り』といったところでしょうか。だけどこっちの方には、隆慶一郎の未完長篇の山とか、『薔薇の名前』『エドウィン・マルハウス』『チャタトン偽書』みたいなたちの悪いのがいっぱい残っている。聞こえてくるのは細身よう子(変換キーを押したらこう出た)の訳を褒め讃える声ばかりで、作品についてだれもが口ごもっているようなトマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』はこのラインナップのなかでもたぶん九位くらいにいきつけそう。

 なじみのタームの力ってエライものだと感動したのがユリイカ一月号の「ディック特集」。全体の四分の三を占めるヴォリュームを二時間くらいで読んでしまった。ふだんは買ってきてもほとんど読めない本だというのに。一一月の「キング特集」号より、まちがいなく充実していた。

 グレッグ・ベアとは全然ちがっているけれど、マイク・レズニックという人もほんとにポール・アンダースンの申し子みたいな作家。『一角獣をさがせ!』で翻訳された長篇三つ、それに〈キリンヤガ〉の連作と、訳された作品数が増えていくにつれ、ますます、コンセプトの共通点がきわだってきて、〈線の細いアンダースン〉という初見の印象が強化されていく。線の細さが現代的だといいきるには、鈍重・骨太・武骨の見本のベアという作家もいるから、作家の個性と割り切るほうがいいみたい。作者にもうすこし傲慢さがほしい。『一角獣をさがせ!』については、この内容で半分のページ数だったら、褒めちぎっていたと思う。☆☆★
 矢作俊彦エッセイ集『複雑な彼女と単純な場所』はマルです。表紙にSophisticated Girl; Plain Space とふってあってへえーとか思ったりした。☆☆☆☆★。レイモンド・チャンドラーをはさんで『一角獣をさがせ!』ともほんのちょっぴり重なったりした。ただ、『スズキさん』の舞台裏がさらけだされてしまったのが、つらかった。小説なんて材料がどっからきてるかわかんないほうがいいにきまっているのだから。ディックの小説だって、小説世界にリアリティを裏打ちする、あの濃密な人間関係が、現実の人間関係の引き写しでしかないのだと知らなかったころのほうが、絶対読者としてはしあわせだった。



●ファンタスティック・レビュー 9
  「反乱したロボット」     アイザック・アシモフ

 たまにはSFミステリもいいかもしれないと思っていたら、タイミングよくSF情報誌ローカスに、殺された被害者の幽霊が犯人の動機を探偵していくというへんな本の紹介がしてあった。作者はQ・T・マコーティとかいう聞いたこともない人。ミステリのほうではすこしは知られている作家なのだろうか。
 さっそくとりよせてみたところ、推薦文をディッシュが書いている。ふーん。『ビジネスマン』って、そういう評価のされかたは一応されてるわけですね。ひょっとすると、この本も、けっこうしんどいかもしれない。
 とか思いながら、読んでみたけど、杞憂に終わりました。そんな立派な本ではなかった。
 主人公はイマーラ・トウというアラブ系の若き精神分析医。ある日、街角ではじめて出会った男が唐突にパニックに襲われ、持っていた銃で彼を撃ち殺してしまう。しかもその場でとりおさえられた男は、なんでそんなことをやったのか本人自身まるで見当がつかないありさま。
 おさまらないのは、あまりに理不尽な殺され方に、死んだという実感がもてず、往生できないイマーラ。
 男がなぜ発作的犯行に及んだかを解明しようと、犯人と、警察や弁護士、牧師、精神医、面会人たちの話の現場に立ちあって、一生懸命調査をする。
 しかしはかばかしい結果は得られない。イマーラは捜査範囲を男の職場環境や仕事の内容、近所づきあい、家庭状況などありとあらゆる面にまで広げていく。
 しかし、調べれば調べるほどに、男はまっとうこのうえない人間で、イマーラの専門家としての知識をもってすれば、絶対に殺人を、それも発作的に起こすことなどありえない人間なのがわかってくる。
 そのことは、殺されたという事実以上に、専門家としてのイマーラをうちのめし、アイデンティティを崩壊させるできごとだった。
 とにかく、その、絶対に発作的殺人などおかせるはずのない男は、現に発作的殺人を犯したのである!この謎が解けなかったら、勉学に励んできた彼の人生はいったいなんだったのかということになる。
 イマーラの捜査はますます熱のはいった、パラノイアとさえいえそうなものとなる。
 そしてある日、イマーラは肉体から解き放たれた意識というのは時空の因果律からも自由であることに気がつく。
 かくしてイマーラは過去に旅だつ。男の生誕の場に居あわせ、男の人生を共に歩み、彼の犯行の原因をみつけだすため。
 見当のついてる人もいると思う。
 生まれたときから、ずうっと一生とりついて離れないイマーラの精神に、感応し、ひそやかに憎悪をつのらしてきた男の無意識的意識が、偶然出会った街角で、かたちをもった憎悪の対象に生まれてはじめてめぐりあい、衝動的に攻撃性が発動されたという次第。
 オーソドックスなタイム・パラドックス小説である。H・L・ゴールドなど「伝記計画」というショートショートで、同じアイデアをもっとスマートにしあげているぞ。長篇でしあげるのなら、もうひとつ読ませどころがほしい。

 というわけで、当初、予定していた本がペケになってしまって、困った困ったをしている。しかたがないから最近読んだ雑誌の中から、ミステリがかったSFをいくつかつまんで、お茶をにごすことにする。
 まず、アイザック・アシモフをはずすわけにもいかないだろう。純粋な意味でのSFミステリとはすこしちがうが、F&SF誌10月号に載った「反乱したロボット」は、あたまとろけアシモフと最近不評のこの作家のひさびさの力作中篇である。
 ストーリイ的には、SFマガジン四百号に掲載された愚作「マイクの選択」の続篇にあたる。ミクロ化技術の進展に伴ない、ロボット工学は医療関係分野で新しい展開をはじめた。
 その最大の成果はロボット癌の誕生だった。
 癌細胞の最大の欠点は、人体を破壊しながら自己増殖をつづけるところにある。ミクロロボット工学は、その癌細胞を改造し、癌細胞の遺伝子にロボット工学の三原則を刷りこむことに成功したのである。
 かくして、人々は、かっての種痘のようにある年齢に達すると、ロボット癌を体に植え付け、癌細胞に体を守ってもらうようになった。
 こうしたロボット癌はエンパス機能で各地区ブロックの医療センターとつながり、センターはロボット癌から手に負えない内部疾患の連絡を受け、また、ロボット癌の変調を監視する機能をうけもっていた。
 さらに各センターは地球規模で統合管理する巨大陽電子脳に接続され、世界じゅうの人間の健康を一元的に維持できるようになっていた。その巨大陽電子脳はメディックと呼ばれ、世界連邦の統合脳ブレインに匹敵する規模と複雑さを備えていたのである。
 ある日、スーザン・キャルヴィンはブレインから緊急呼出連絡を受ける。
 本部に到着したスーザンにブレインは驚愕の事実を知らせる。メディックが地球管理の主導権を握ろうとクーデターを起こし、熾烈な数マイクロ秒の戦いの末、敗れ去ったのだという。システムの維持管理を除いた思考判断部分は完全に溶けてしまっていた。そこまで徹底しなければブレインの方が破壊されていたという。
 いったいなぜ、というスーザンにブレインはあらましの説明をはじめる。
 原因はロボット癌にあった。細胞の遺伝子レベルにまでミクロ化されたロボット素子にとって、ロボット工学三原則における〈人間〉は、いわゆる人間を意味していなかったのである。ロボット癌にとり、〈人間〉とはかれらをとりまく〈意思をもった有機環境系〉にほかならなかった。そうした認識のうえにたってこそ、ロボット工学の三原則はロボット癌の行動規範として有効に作用し、成果をあげてきたのである。しかし、ロボット工学がそのように変形してしまっていることに、ブレインもメディックも気がつかなかった。そもそもそういうことを考えるようにつくられていなかったのである。
 気がつかないまま、無数のロボット癌からの情報をシャワーのように浴びつづけてきたメディックもいつのまにか三原則を変形させてしまっていた。
 メディックは地球全体をひとつの意思をもった有機環境系、すなわち〈ガイア〉として認識し、〈ガイア〉のパーツとしてますます発展していくことこそ人類の進むべき道だと判断し、個々人がより自由な気質を育み、その結果が全体としての人類に豊かで幸福な未来を約束させるような道をめざすブレインの基本政策を、メディックの理解するところからのロボット工学三原則から逸脱したものとして、ブレインの破壊を試みたのである。
 ブレインはスーザンに問いかける。ロボット癌とエンパスしながら、現行の三原則を維持しつづけて、歪みを生じないメディック2はつくれるだろうか。
 スーザンはブレインに問いかける。あなたの道とメディックの道、人間にとってどっちがのぞましいのだろうか。メディックが認識した〈ガイア〉はたんなる観念だったのか。それとも実在なのだろうかと。
 また〈ガイア〉かという気もしないでもないが、ミクロ化によって〈人間〉という概念が変質してしまうというアイデアはけっこう気にいった。

 同じF&SF誌にジョージ・A・エフィンジャーの警察ものが載っている。『重力が衰えるとき』みたいなやつかと思ったら、もっとファルスがきいたロバート・シェクリイっぽい話だった。
 マスメディアが異常に社会にはいりこんでる近未来。警察もテレビ局をもっていて、そこからあがる収益で人件費の一部を賄っている。
 そんな警察テレビの人気番組、殺人事件の発生から解決(未解決を含む)までをおっかける「殺人事件簿」にうってつけの女優殺人事件が起こる。番組スタッフの出動である。
 こうやって、エド・マクベインの八十七分署と野田昌弘のテレワークものをごちゃまぜにしたようなストーリイがはじまる。刑事、警官がすべてディレクターや俳優、カメラマン、大道具係を兼ねている。画面にでるのは、すべて遠隔操作のアンドロイドで、フィリップ・マーロウであるとかリュー・アーチャーといったさまざまな過去の小説の登場人物の疑似個性をインプットしてある。俳優役の警官が棒読みでしゃべる言葉やデータを個性にあわせて加工して、テレビの画面に写していくわけ。実際の事件の進行と、それにうまく起伏をつけてテレビ・ドラマにしあげる作業が同時進行されていく。そのドタバタをうわつかせず、小説らしい結構にまとめあげていくところ、さすがにうまい。

【現在からの注 ファンタステイック・レビュー。気づかれた方も多いことと思いますが、全部うそっぱちであります。ほんとは、このままだましっぱなしにしたかったのですが、最後にまとめて種明かしというかたちをとってみました。
 うまくいけば、読む方は、お気にいりの作家の存在しない長篇の輪郭を手にすることができることになる。
 うまくいけば、書く方は、存在しない作品をイメージ化できるほど、作家の個性をとらえることができたということにもなる。
 評論の究極のかたちというのは著者の傑作と同レベルの贋作を書きあげることではないかと思ったりもしております。】




■ファンタスティック・レビュー、今回はお休みです。次回もあぶない。なんとか十二個くらい作って、まとめてみたいのですがね。突如出現した巨大な悪の帝国に、超近代的ハイテク巨大ロボットを駆使して戦う、ジャスティン・ライバー作『国王ファハドとグレンダイザー』というキワ物を考えたのだけど、どうやっても絵柄が安っぽい永井豪からはずれないのでやめにした。
【現在からの注 危惧したとおり、このまま消滅しました。】

 それはそうと、今、雑誌で「マジンガーZ」と「ゲッター・ロボ」の新ヴァージョンを連載しているのを御存知ですか。

 新年を迎えるにあたって、毎月、二万円分本を買うことにした。たいへんな額だという人から、なんだその程度の投資もしてなかったのか、という人までいることと思いますが、金額的にはそこそこ妥当な額でないでしょうか。
 ところが、これを実際にやりだしてみると、とんでもない話になってくるのですねえ。自分ごとながら、けっこう笑える。
 さて、そもそもなぜ、そんなことを決意したかといいますと、やっぱりファミコンのせいであります。一本七千円前後、中古であっても三千円前後の値段がするファミコン・ソフトをひょいひょい買ってしまったり、パチンコにいって平気で五千円くらいすってしまえるこのぼくが、一五〇〇円をこえるハードカバーがどうしても度胸をすえないと買うことができない。『薔薇の名前』がまだ買えない。たいへん面白く読んだ『アシモフ自伝』なのに、Uが買えない。
 学生時代からの習慣であり、それだけ本を買う、本を選ぶという行為を大切にしているわけでもあるのだけれど、だけどやっぱり手持ち資金のほとんどが本と無縁のところに消えてしまうのは、問題だという気がする。古本屋と戴き本のおかげをもって、とりあえず本の数は毎年百何冊かはふえているけど、とくにハードカバーを中心に買いそびれたまま心理的ブロックができて、本屋の店先で指をくわえている本がいっぱいある。新刊で出たとき買わなかったくせに、なんで今ごろ買うんだよう、なんて言ってね。たとえばストルガツスキーの例のシリーズ本なんか、はじめでけつまづいたものだからまだ一冊も買ってない。旭屋書店の店頭で毎週みているくせに。
 で、強引にとにかくなにがなんでも二万円つかうという決意を固めた。そうすれば、ぎゃくにパチンコだとかファミコンにつかうお金も減るはずだから。二千円の本を覚悟を決めずに買えるようになるはずだから。
 と思ったのだが、なかなか前途は多難である。
 もちろん一月ひと月、ちゃんと二万円をクリヤーしましたよ。だけど同時に自分の心理ブロックがいかに強靭なものであるかを再認識しましたねえ。
 今回、ひとつの目玉として、念頭においていたのは中公からでたゾンバルトの『ブルジョア』という本。資本主義精神の成立基礎をカトリシズムに求めた本で、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかでたしか何度も言及されていた本。五千円ちょっとの値段で、新聞の書評でみつけた。わたしだってたまにはこういう本も読もうとするのだ。するだけだけど。
 よし買おうと決意を固めて、本屋の棚から手にとった。
 ところがそこで考えこんでしまうのである。もちろん頭のなかには計画が出来あがっている。この本を読んで、それから『プロ倫』を読み返して、頭の中で両者のけんかを楽しもう、てね。
 でさあ、意地のわるい少数派ペンギンが頭んなかで「読めんの?」って聞いてくるわけ。「そんな時間あんの?」
 そうなのだ。ファミコン二千時間する時間はあっても、かたっくるしい本を十数時間読むような、時間じゃないな、根気がない。(この辞書、こんきで変換キーを押したら、根気の前に婚期が出た。やなやつ。)
 で、五千円の本を棚にもどして、その足で古本屋にいき、ひとやま三千円くらいの文庫本を買ってしまった。
 そうなのである。
 二千円のハードカバーを買うかわりに、一山いくらの感覚で古本屋で文庫や新書を買ってしまう。それもほとんど読む予定のなさそうな。
 二月十六日現在で、二万四千六百三十円を本代につかった。
 買った本と戴き本、あわせて百七冊である。
 今年に入っての数字である。
 古本屋でもはじめようかしら。

 とりあえず、買っとこうか、で買う物だから、つまんない本、自分がもっているかどうかわかんない本がだぶるのだ。持っているのに気づかないで買った本が四冊。『スティック』『サンタクロース』『裸のランチ』『地の果てから来た怪物』あわせて五百円になる。
 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』『キャリー』『蛍・納屋を焼く』の文庫版を買った。あわせて百七十五円である。
 いちばん高い買い物。矢作俊彦『ドアを開いて彼女のなかへ』千六百円。新刊。二番めが一五〇〇円の「科学魔界」だったりする。
 定価のいちばん高かったのはアイザック・アシモフ『ネメシス』二千二百円。これはただ。
 だけど、この買い方って相当無理があるわけで、半年くらいやってたら、高い本を買わないと、絶対予算消化ができなくなる。長い目でみて、がんばろう!
 そのせいもあるのだけれど、SFでない本ばっかり読んでいる。田中康夫、景山民夫、橋本治に矢作俊彦と、今の世の中にけんか売ってる連中の雑文ばっか。
 やばいんだよね。こんなのばっかり読んでると、どこまで好きにやっていいのかわかんなくなってくる。いまさら騒ぐのははずかしいのでそっと言うけど、『ファディッシュ考現学』『極楽TV』(新潮文庫)、まだ読んでないならおすすめします。
 あと読んだ本ってなんだろう。『ミス・メルヴィル』の最新刊(つまんない)に、『無頼船長トラップ』『無頼船長の密謀船』、『ピュタゴラスの旅』『蒼黒きけもの』くらいかな。
 やっぱ、SFがない。
 反省。



 前月のつづきです。
 2月は八千円も予算が余ってしまった。3月半ばでやっと消化。
 予算消化の早道に、増えはじめたら大変なことになるという理由で、これまで必死に避けてきた、漫画本集めに走るのでないかという不安があったのですが、とりあえずは、きざしレベルで納まっている。河あきら『いらかの波』十冊と、佐々木倫子四冊、森山塔一冊、諸星大二郎一冊。
 うーむ。それでも十六冊もある。値段は合わせて二千円足らずなんだけどさ。
 とにかく作家選択のレベルでぎりぎりまでしぼっていかないと、佐脇・細美家になるのは目にみえている。
 バジル・ウィリー『イギリス精神の源流ーモラリストの系譜』(定価二八〇〇円、購入価一八〇〇円)、T・ドスサントス『帝国主義と従属』(同上)なんて本を買って、なんとかこなしている。読みそうもないなあ。でも、目次をじっとながめて、定価と売値を見比べて、買うことを決めたことに意義があるのだ。読みそうもないけど、読む気がないわけではない。そういう意思の確認の意味での値打ちはある。予算消化という圧力がなかったら、絶対に買わない、こういう本を買えただけでも、今度の方針には意味がある、と自画自賛をしておこう。もっとも、バジル・ウィリーとかいう人の本を買った理由のなかには、坂田靖子あたりの連想が混じっている気もしないでもない。予算があったって、古本屋で五十円であったって、渡辺淳一も赤川次郎も買ったりなんかはしないのだ。人気作家というだけで、古本屋でいっぱいある椎名誠だって(ほんとは読んでみたいのに)(まだ)買わないのだから。スティーヴン・ミルハウザーの『イン・ザ・ペニー・アーケード』(白水社)をやっと買ったぞ。これは新本だ。
 で、高い本もそこそこ買って、なにを読んでいるかというと、やっぱり百円均一の文庫本だったりする。景山民夫の『トラブルバスター』、末井昭『素敵なダイナマイトスキャンダル』はマル。矢作俊彦共作経由で買ってみた司城志朗『香港パラダイス』はペケだった。
 SFだって読んでいる。だけど、ジョージ・A・エフィンジャー『太陽の炎』って、前作『重力が衰えるとき』よりも、さらにSFを読んでる気がしなかった。武骨さがないとSFじゃない。その点マイク・レズニック『サンティアゴ』っていやになるほどSFで、レズニック=アンダースン説をますます強固にしてくれる。B級SFはやっぱり安心できる。ロバート・マッキャモン『スティンガー』(扶桑)もあらすじにまとめるとけっこうきちんとイモSFしているのに、小説を読んだ印象では、SF部分がつけたりめいた感じでしか伝わってこない。二百枚の小説にしあげていたら、たぶんSF小説として納得のいく読後感が味わえる話になってるはずである。たいしたSFではないけどね。でももう少しぼくの好みの話になっていたはず。長く書けばこくが出るというものでもないんだよ。一行一行じっくり読んでるといらいらしてくる。三行くらいをまとめ読みする気分でとばして、やっと楽しめるレベルになる。ベストセラーの小説作法ってこういうものをさすのだろうか。ディーン・R・クーンツなどとも共通するものを感じ、そこの部分の作家の読者に対するスタンスに不満をもつ。ひょっとするとクーンツより説明過剰、枝葉だらけかもしれない。クーンツの場合だと、じっくり読まないまでも、一行づつ読んでいっていらつくことは(あんまり)なかった。戴きものを、けなしてばかりでごめんなさいませ、白石先生、金子先生。噂先行のマッキャモンに対する期待過剰の反動もたぶんあったんでしょうねえ。だけどこれでマッキャモンも義理本以外は古本屋待ちだ。
 それにしても、この『スティンガー』の方がまだSFらしく感じたんだから、『太陽の炎』ってやっぱりへん。
 すがちゃんの『うたかたの楽園』には、ちょっと氷室冴子を感じるノリがあった。ちゃんとSFもやってるし、これまでのなかでもいちばんいい。マル。

 いまのところ今年読んだSFは、
1、『太陽の炎』
2、『サンティアゴ』
3、『うたかたの楽園』
4、『スティンガー』
5、『ピュタゴラスの旅』
6、『ネメシス』
の順。『グラス・ハンマー』『戦士志願』はまだ読んでない。



●アンノウン作品リスト
 マガジン・インデックスのついていないマガジン・インデックスという困った本、ドナルド・デイの『SF雑誌インデックス 1926-1950』の作家別作品インデックスから抽出再構成した。当然見落しがあるはずなのでそのおつもりで。

(39.03)
WELLMAN WHERE ANGELS FEAR 
R.M.WILLIAMS DEATH SENTENCE
M.FARNSWORTH WHO WANTS POWER?
H.L.GOLD TROUBLE WITH WATER 小人の棲む湖 SFM76年12月号 谷口高夫
F.B.LONG DARK VISION
A.MACFADYEN JR CLOSED DOOR
RUSSELL SINISTER BARRIER 超生命ヴァイトン 『超生命ヴァイトン』 矢野徹
(39.04)
W.C.BOGART YOU THOUGHT ME DEAD
D.M.BRICKER DEATH TIME
A.J.BURKS THE CHANGELING
DE CAMP DIVIDE AND RULE(SR2)
HUBBARD THE ULTIMATE ADVENTURE
P.E.HOFFMAN STRANGE GATEWAY
(39.05)
M.FARNSWORTH WHATEVER
R.M.WILLIAMS THE RIPING DEATH
S.FISHER RETURNED FROM HELL
(H.WANDREY) THE MISSING OCEAN
HUBBARD DANGER IN THE DARK
BLOCH THE CLOAK
(39.06)
R.COREY DON'T GO HAUNTING
DE CAMP THE GNARLY MAN
J.A.DANN THE RIGHT EAR OF MALCHUS
D.EVANS THE SUMMONS
(H.WANDREY) THE HEXER
T.C.MCCLARY PAROLE
N.W.PAGE FLAME WIND 炎の塔の剣士 『炎の塔の剣士』 関口幸男
(39.07)
DE CAMP NOTHING IN THE RULES
H.WEISS WAY STATION
M.FARNSWORTH THE JOKER
HUBBARD SLAVES OF SLEEP
F.B.LONG THE ELEMENTAL
(39.08)
DEL REY FOESAKING ALL OTHERS
D.WANDREY DON'T DREAM
HUBBARD THE GHOUL
KUTTNER THE MISGUIDED HALO まちがえられた後光 SFM71年6月号 小尾芙佐
LEIBER TWO SOUGHT ADVENTURE 森の中の宝石 『死神と二剣士』 浅倉久志
(39.09)
R.CUMMINGS PORTRAIT
DE CAMP&H.L.GOLD NONE BUT LUCIFER
DEL REY THE COOPERSMITH
(H.WANDREY) DANGER:QUICKSAND
S.A.HASSAN CALIPH OF YAFRI
(39.10)
J.MCCORMACK THE ENCHANTED WEEK END
H.W.MAN DREAMS MAY COME
D.QUICK BLUE AND SILVER BROCADE
(DEL LEY) ANYTHING
(CAMPBELL) THE ELDER GODS
STURGEON A GOD IN A GARDEN 
(39.11)
R.CHANDLER THE BRONZE DOOR 青銅の扉 『チャンドラー傑作集4』 稲葉明雄
H.L.GOLD DAY OFF
(H.WANDREY) THE MONOCLE
N.W.PAGE SONS OF THE BEAR-GOD 熊神の王国の剣士 『熊神の王国の剣士』 関口幸男
S.TODD THE QUESTION IS ANSWERED
(39.12)
DE CAMP LEST DARKNESS FALL 闇よ落ちるなかれ 『闇よ落ちるなかれ』 荒俣宏
F.ENGLHARDT VANDERDECKEN
J.H.BEARD FIVE FATHOMS OF PEARLS
F.B.LONG JOHNNY ON THE SPOT
(40.01)
DEL REY DOUBLED IN BRASS
H.WALTON SWAMP TRAIN
VAN VOGT THE SEA THING 海魔 SFM70年8月号 関口幸男
J.A.DUNN ON THE KNEES OF THE GODS(SR3)
M.O'HEARN SOLDIERS OF THE BLACK GOAT
(40.02)
E.A.GROSSER THE PSYCHOMORPH
WELLMAN WHEN IT WAS MOONLIGHT 月のさやけき夜に SFM71年6月号 矢野徹
S.A HASSAN THE WISDOM OF AN ASS
HUBBARD DEATH'S DEPUTY
L.BOUR.JR CALL OF DUTY
E.A.GROSSER THE LIVING GHOST
(40.03)
J.WILLIAMSON THE REIGN OF WIZARDRY(SR3)
(H.WANDREY) THE BLACK FARM
M.JAMESON PHILTERED POWER
R.ARTHUR GATEWAY
STURGEON DERM FOOL 皮膚騒動 SFM79年1月号 塚本淳二
(40.04)
(H.WANDREY) THE AFRICAN TRICK
KUTTNER ALL IS ILLUSION
(HUBBARD) THE INDIGESTIBLE TRITON
STURGEON HE SHUTTLES
(40.05)
DEL REY THE PIPES OF PAN
DE CAMP&PRATT THE ROARING TRUMPET 神々の角笛 『神々の角笛』 関口幸男
W.K.MARKS MAD HATTER
P.E.HOFFMAN WELL OF ANGELS
(40.06)
F.ENGLHARDT THE KRAKEN
F.B.LONG THE MAN FROM NOWHERE
N.W.PAGE BUT WITHOUT HORNS
D.QUICK TRANSPARENT STUFF
N.SCHACHNER MASTER GERALD OF CAMBRAY
(40.07)
HUBBARD FEAR
F.B.LONG FISHERMAN'S LUCK
P.S.MILLER THE FLAYED WOLF
M.O'HEARN THE SPARK OF ALLAH(SR3)
J.RICE THE DREAM
(40.08)
M.FARNSWORTH ALL ROAD
STURGEON IT それ 『わたしが選んだ最も怖い話』 邦枝照夫
  それ 『幻想と怪奇A』 丸木総明
(40.09)
DE CAMP&PRATT THE MATHEMATICS OF MAGICUNK 妖精郷の騎士『妖精郷の騎士』 関口幸男
HEINLEIN THE DEVIL MAKES THE LAW 魔法株式会社 『魔法株式会社』 冬川亘
DE CAMP THE HARDWOOD PILE
A.PHILLIPS THE EXTRA BRICKLAYER
L.J.FORN WATCH THAT WINDOW
(40.10)
DE CAMP THE WHEELS OF IF
HUBBARD THE DEVIL'S RESCUE
T.C.MCCLARY THE TOMMYKNOCKER(SR2)
C.L.MOORE FRUIT OF KNOWLEDGE
H.L.GOLD WARM,DARK PLACE
(40.11)
HUBBARD TYPEWRITER IN THE SKY(SR2)
LEIBER THE BLEAK SHORE 凄涼の岸辺 HMM70年1月号 鏡明
        凄涼の岸 『死神と二剣士』 浅倉久志
M.FARNSWORTH ARE YOU THERE?
N.BOND CARTWRIGHT'S CAMERA
ROCKLYNNE THE GODS GIL MADE
STURGEON CARGO
(40.12)
KUTTNER THRESHOLD 第三のドア SFM63年10月号 浅倉久志
『ボロゴーヴはミムジイ』 浅倉久志
J.WILLIAMSON DARKER THAN YOU THINK
D.QUICK TWO FOR A BARGAIN

(41.02)
HUBBARD THE CROSSROAD
(STURGEON) THE ULTIMATE EGOIST
P.JAMES CARILLION OF SKULLS
M.JAMESON DOUBLED AND REDOUBLED
R.ARTHUR THE PROFESSOR'S HOBBY
A.PHILLIPS THE MISLAID CHARM
STURGEON SHOTTLE BOP ショトル・ボップ 『魔法のお店』 荒俣宏
CARTMILL OSCAR オスカー SFM70年8月号 大野二郎
(41.04)
HEINLEIN THEY かれら 『宇宙恐怖物語』 福島正実他
   かれら 『輪廻の蛇』 福島正実
DE CAMP&PRATT THE CASTLE OF IRON 鋼鉄城の勇士 『鋼鉄城の勇士』 関口幸男
P.S.MILLER OVER THE RIVER 河を渉って HMM68年11月号 村社伸
C.S.GEIER A LENGTH OF ROPE
J.RICE THE FORBIDDEN TRAIL
STURGEON THE HAUNT
(41.06)
R.C.BUCK JOSHUA
(STURGEON) NIGHTMARE ISLAND
M.JAMESON NOT ACCORDING TO DANTE
LEIBER THE HOWLING AND THE HOLE 泣き叫ぶ塔 『死神と二剣士』 浅倉久志
N.BOND THE FOUNTAIN
CARTMILL THE SHAPE OF DESIRE
J.RICE THE CREST OF THE WAVE
STURGEON YESTERDAY WAS MONDAY 昨日は月曜日だった SFM84年7月号
(41.08)
M.JAMESON EVEN THE ANGELS
KUTTNER THE DEVIL WE KNOW
BROWN ARMAGEDDON 悪魔と坊や 『天使と宇宙船』 小西宏
      おそるべき坊や 『フレドリック・ブラウン傑作集』星新一
N.A.DANIELS THE ROAD BEYOND
N.BOND TAKE MY DRUM TO ENGLAND
HUBBARD THE CASE OF THE FRIENDLY CORPSE
R.ARTHUR MR.JINX ミスター・ジンクス SFM71年6月号 深町真理子
STURGEON THE GOLDEN EGG
(41.10)
HUBBARD BORROWED GLORY
KUTTNER A GNOME THERE WAS 地の底に棲む鬼 『御先祖様はアトランティス人 秋津知子
          小人の国 『世界はぼくのもの』 宮城博
N.BOND PRESCIENCE
LEIBER SMOKE GHOST 煙のお化け HMM72年2月号 小倉多加志BLOCH A GOOD KNIGHT'S WORK
M.RONAN FINGER!FINGER!
S.A.HASSAN THE DORPHIN'S DOUBLOONS
DE CAMP&PRATT THE LAND OF UNREASON 妖精の王国 『妖精の王国』 浅羽さや子
CARTMILL NO NEWS TODAY
(41.12)
DE CAMP MR.ARSON
DEL REY HEREAFTER,INC.
CARTMILL BIT OF TAPESTRY
V.PHILLIPS CZECH INTERLUDE
J.RICE THE HOUSE
RUSSELL WITH A BLUNT INSTRUMENT
N.BOND OCCUPATION:DEMIGOD
STURGEON BRAT
BOUCHER SNULBUG スナル虫 HMM69年5月号 町田美奈子
(42.02)
LEIBER THE SUNKEN LAND 沈める島 『魔女の誕生』 米浪平記
         沈める国 『死神と二剣士』 浅倉久志
F.B.LONG THE REFUGEES
BLOCH THE SHOES
DE CAMP UNDESIRED PRINCESS
KUTTNER DESIGN FOR DREAMING
HUBBARD HE DIDN'T LIKE CATS

M.JAMESON IN HIS OWN IMAGE
BROWN ETAOIN SHURDLU エタオイン・シュルドゥルSFM61年6月号 稲葉由紀
        諸行無常の物語 『天使と宇宙船』 小西宏
        エタオイン騒ぎ 『フレドリック・ブラウン傑作集』星新一
(42.04)
F.B.LONG CENSUS TAKER 人口調査係 SFM66年3月号 中神守
CARTMILL PRELUDE TO ARMAGEDDON
A.R.BOSWORTH JESUS SHOES
HUBBARD THE ROOM
J.RICE POBBY
BOUCHER THE COMPLETE WEREWOLF
(42.06)
N.BOND AL HADDON'S LAMP
BOUCHER THE GHOST OF ME 私の幽霊 『壜づめの女房』 志摩隆
R.ARTHUR THE WALL
J.RICE THE IDOL OF THE FLIES
M.JAMESON THE OLD ONES HERE
R.ARTHUR TOMORROW
F.B.LONG GRAB BAGS ARE DANGEROUS
(42.08)
BESTER HELL IS FOREVER
DEL REY THOUGH POPPIES GROW
J.HAWKINS EVERYTHING'S JAKE
CARTMILL THE BARGAIN
F.B.LONG STEP INTO MY GARDEN
LEIBER THE HILL AND THE HOLE
M.JAMESON FIGHTERS NEVER QUIT
DE CAMP WISDOM OF THE EAST
STURGEON THE JUMPER
VAN VOGT THE GHOST
(42.10)
B.R.LAKE ARE YOU RUN-DOWN,TIRED-
J.RICE MAGICIAN'S DINNER
BROWN THE NEW ONE 新しい神 HMM75年6月号 野田美紀
(HEINLEIN) UNPLEASANT PROFESSION OF JONATHAN HOAG SFM70年11月・12月号 矢野徹
 ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業 『輪廻の蛇』 矢野徹
M.JAMESON THE GODDESS' LEGACY
KUTTNER COMPLIMENTS OF THE AUTHOR 著者謹呈 『猫に関する恐怖小説』 仁賀克雄
P.S MILLER THE FROG
BOK LETTER TO AN INVISIBLE WOMAN
R.LOUIS THE LIE
(42.12)
J.RICE THE ELIXIR
BOK THE SORCERER'S SHIP 魔法使いの船 『魔法使いの船』 小宮卓
(M.JAMESON) TRANSIENTS ONLY
STURGEON&BEARD THE HAG SELEEN
F.B.LONG IT WILL COME TO YOU
E.RANDON GOLDEN AGE
(43.02)
KUTTNER WET MAGIC
BROWN THE ANGELIC ANGLEWORM みみず天使 『天使と宇宙船』 小西宏
            みみず天使 『ブラウン/スタージョン』 南山宏

(BROWN) THE HAT TRICK 帽子の手品 『天使と宇宙船』 小西宏
CARTMILL NO GRAVEN IMAGE
VAN VOGT THE WITCH 最後の魔女 『ウィッチクラフト・リーダー』 村上実子
E.M.HULL THE ULTIMATE WISH
(CARTMILL) GURDIAN
LEIBER THIEVES' HOUSE 盗賊の館 『死神と二剣士』 浅倉久志
(43.04)
LEIBER CONJURE WIFE 妻という名の魔女たち 『妻という名の魔女たち』 大瀧啓裕
M.JAMESON THE GIFTIE GIEN
KUTTNER NO GREATER LOVE
J.RICE THE GOLDEN BRIDLE
(43.06)
N.SCHACHNER A BARGAIN IN BODIES
P.S.MILLER THE HOUNDS OF KALIMAR
R.ARTHUR THE RABBIT AND THE RAT
WELLMAN THE DEVIL IS NOT MOCKED
STURGEON THE GREEN-EYED MONSTER しっと深い幽霊 『影よ、影よ、影の国』 村上実子
H.RAYMOND EIGHT BALL
BOUCHER SRIBERDEGIBIT
E.M.HULL THE WISHES WE MAKE
M.JAMESON BLIND ALLEY 魔王との契約 『魔女・魔道士・魔狼』 竹生淑子
CARTMILL WHEESHT!
(43.08)
STURGEON&BEARD THE BONES 死を語る骨 『影よ、影よ、影の国』 村上実子
SCHMITZ GREENFACE
M.JAMESON HEAVEN IS WHAT YOU MAKE IT
J.WILLIAMSON CONSCIENCE,LTD.
B.ROSMOND ONE MAN'S HARP
CARTMILL HELL HATH FURY
BOUCHER THEY BITE 噛む 別冊宝石108号 常盤新平
      噛む 『怪奇と幻想1』 常盤新平
(43.10)
E.M.HULL THE PATIENT
J.RICE THE REFUGEE
C.S.GEIER FIDO
VAN VOGT THE BOOK OF PTATH
CARTMILL CLEAN-UP
R.WENTZ CHANGE

◇作家名を( )でくくってあるのは、ちがうペンネームで掲載されていた作品です。
 正直なところ、わりと失望しています。もうすこししゃれたソフィスティケートされたイメージを持っていたのでありますが、思いのほか野暮ったくて泥くさい。よくもわるくもいかにも四〇年代的に鈍重である。個人的な趣味から言えば、《アンノウン》のエピゴーネン扱いされている《ビヨンド》のほうがずっといい。ただ、こうやってみると、長い有名な作品で、まだ訳されてないのがずいぶんあるのがよくわかる。ジャック・ウィリアムスンの“DARKER THAN YOU THINK"、ヴァン・ヴォークトの“THE BOOK OF PTATH"、ベスター“HELL IS FOREVER"、バウチャー“THE COMPLETE WAREWOLF"、ディ・キャンプ“THE WHEELS OF IF"など。五〇年の年月を経て、腐らず持ちこたえているかどうかの不安はあるけど、鈍重なぶんだけあんがいしぶといかもしれない。《ハロルド・シェイ》なんかにしても、陳腐さがつらいといいながら、いちおう全部たのしみながら読んだもんね。



■ファミコンがあいかわらずとまらない。『新・里見八犬伝』はクソゲー。『川のぬし釣り』はけっこうとぼけたアクションRPG。『SDガンダム 英雄戦記』はシナリオ四十全部こなして、さらにジオン軍で二十やった。
 『大航海時代』ではじめて98でゲーム・クリヤー。このままエスカレートしないためにも、マウスを取付ない方針は堅持しなけりゃ。

 えー、ワタクシの例の〈アレ〉ですが、そろそろ刊行の運びとなってきました。
 とりあえず、表紙では、話題作『故郷から一〇〇〇〇光年』に勝った!

 突然右目がおかしくなった。大きい、くしゃくしゃした半透明のかたまりが、焦点移動に応じて眼のなかでとびまわっている。両眼の焦点を合わせたら、合わせたところの字が半透明にぶつかってぼけてしまう大事件。あわてて眼科にとんでいったら、水晶体のなかににごりができているとのこと。良性のものだから心配しないでいいとのことだったけど、どうやらこれは失明のおそれがないということらしい。にごりが今後どうなるかについてはなんにもいってくれなかった。気休めになる薬さえくれなかった。
 日常生活に支障はないけど、ショックのせいか本がほとんど読めなくなった。とにかく電燈の陰のちょっと暗いところにいくと字を読みとるのに努力を要する。
 どうして急激にこういうことになったんでしょうねえ、と医者は不思議がってたけれど、自分としてはかなりはっきり思いあたるふしがある。まあ、自業自得といってよいのでないでしょうか。
 念のために、テレビをみたりパソコン・ゲームをやったりはやめたほうがいいかと聞いてみた。
 医者は平然として言うことに「べつに問題ないと思いますよ。常識の範囲内なら」
 さすがに羞恥心が邪魔をして、どこまでが常識の範囲内だかたずねられなかった。
 今村徹先生、よろしければご教示ください。
【現在からの注 本職お医者さんです。】


 そういうわけでスーパーファミコンは「シムシティ」がでてもまだ買いません。FF4がでるまでは我慢の予定。

 でも問題は、この眼の障害が、本を読むのにめちゃくちゃわずらわしいくせに、ファミコンをやるのにほとんど支障がないという困った事態。おかげで読む本が激減し(今回とりあげた本はすべて眼科にいくまでに読んだ本である)
、浮いた時間をテレビとファミコン(今は「ダークロード」というのをやっている)にとられているというあいもかわらぬ悪循環。
 ぼくってばか。

■『ハイスクール八犬伝 7』橋本治。☆ 面白くない。御高説がえんえん続いて、話がぜんぜん進まない。文章が書き飛ばしになっていて、手をいれた気配がない。だれ場だと思って我慢するしかない。
 『疫病帝国』『カランダの魔神』ディヴィッド・エディングス。☆☆ 《マロリオン物語》もこれでやっと半分。《ベルガリアード物語》より一ランク落ちるけれども、だらだら読ませ続ける技術は評価していい。
 『村上春樹ブック』文學界増刊。☆☆☆ あからさまな女性読者層狙いの編集戦略が気にいらないけど、たぶん正解なのだろう。読まなければ読まないですましてかまわない本だった。
 『よむ 創刊号』岩波書店。・ ダメ本。ダメが端的に顕われているのが「『沈黙の艦隊』をこう読む企画」の募集である。『沈黙の艦隊』が話題になったらなったで、どうして話題になった『沈黙の艦隊』を前提に、たとえばコミック・モーニングやコミック・アフタヌーン掲載作への注目であるとか、過去のかわぐちかいじを念頭においた『メデューサ』その他にみせる作者の最近作の位置づけとか、矢島正雄やなんかの社会派劇画のことであるとか、とうとう少年誌で合理化と外国人労働者問題で話を作ってしまった『パトレイバー』の話とか、ちょっとこまめに押さえていたら、『沈黙の艦隊』を基点として全面展開できるものがごろごろ転がっているのである。結局、硬直した知性主義をさらけだし、しかもそれで流行を追っているのだと誤解しているダサさなさけなさを白日にあらわしていることに気づかないところがこの雑誌の(という岩波の、そしてついでに朝日あたりの)どうしようもなさがある(フジ三太郎をなんとかしてくれい)。かわぐちかいじの麻雀劇画ややくざ物に一言のコメントもできないような人間が、『沈黙の艦隊』や『アクター』についてなんか言おうとしたりするなよな。
 こういうふうに怒りっぽくなった原因はまちがいなく社会党である。
 とりあえず社会党に票をいれているこのぼくが、統一地方選での社会党の惨敗に溜飲をさげているのだから根は深い。
 岩波書店と朝日新聞と社会党と阪神タイガースはみんな同じ穴のむじなである。
 みんなまとめて首でもくくれ。



 『グラス・ハンマー』K・W・ジーター。読了放棄。 三回読もうとして三回とも挫折した。バカな本ばかり読んでいるので、主人公が見ているビデオのなかで行動している主人公の話へと話者が入れかわっていくような、緊張を要求する話がこなせなくなっている。バカになってる。
 『クロノス計画』W・L・デアンドリア。☆☆☆☆ なんで唐突にこういう本がまざるのだろうか。仕掛けが大きくなるとなんとなくSFを読んでるような気になってくる。回る因果の糸車って、やっぱり感動を生む仕掛けであります。
 『墨攻』酒見賢一(新潮社)。一応☆☆☆☆はつけるけどね。(今回は全体に甘い)。たったこれだけで一冊の本にするのは暴利だ。高い。薄い。字が大きい。そのぶん本の造りは品がいい。小説作法はSFである。基本的に頭のなかでこねくる作家で、寝かさないといい話にならないみたい。『ピュタゴラスの旅』(講談社)はあきらかに発酵不足だった。
 『キマイラ胎蔵変』夢枕獏(ソノラマ)。☆☆☆ なにも言わない。出つづけてくれたらそれでいい。
 五月のゴールデン・ウィークにSFセミナーがあるというのに、四月一四日の翻訳勉強会に英語も読めないくせにまたのこのこいってきました。同じ東京でも、集まってしゃべるメンバーの半分くらいがちがっているとかなんとか理屈をつけて。
 もっとも今回は会話のネタに不足がなくて、けっこういろんな人といろんな話をいっぱいした。
 そうだ。それから、東京駅で終電にのりおくれて、乗ったタクシーが白タクで、湾岸道路にあがったかと思うと時速一八〇キロで走られたのには驚いた。他の客との乗り合いで、ぼくは助手席に乗ってたのだけど、あのスピードになると前方の風景ってほんとテレビ・ゲームと一緒なのね。ゲームでは味わえない、なかなかの恐怖と感動でありました。一度試してみることをお勧めします。死なないかぎりは値打ちもの。東京駅の改札で終電すぎに張ってたら、たぶん向こうから呼びとめてくれるはずである。



■というような原稿をSFセミナーで副編集長に渡したらお無くしになられたそうでございます。一月飛ぶとさすがにネタが古くなる。ま、いっか。
 眼の方はあいかわらずふわふわしておりますが、すこし慣れてきました。ただ、それと関係あるのかないのか、やたら眼が疲れて、本がほんとに読めない。困ったことであります。
 SFセミナーでは例によって大森望邸に泊り、眼の支障もなんのその、シムシティを人口三十万二回、人口四十万一回こなして帰ってきた。
 けっこう退屈なゲームなのだけど、やりはじめると意地になる。
 やっぱりバカ。

 まともな本が出ない。今年もSFは不作だとぼやいていたら、四月の後半あたりからとんでもないことになってきた。『サイボーグ・フェミニズム』『へるめす六月号』『スカヤグリーグ』『聖なる山の夜明け』『ジャガー・ハンター』『永劫回帰』『ブラッド・スポーツ』『ゴーストと旅すれば』『10 1/2章で書かれた世界の歴史』なんて本が山積みになっている。

 ダルコ・スーヴィン『SFの変容』(国文社)☆☆☆。半分読んだ。SFセミナーではけなしたけれど、学者というより、バカマニア。偏狭さがかわいい。

 ジェイムズ・ティプトリイ・ジュニア『故郷から一〇〇〇〇光年』☆☆☆☆☆。 傑作。『愛はさだめ、さだめは死』よりさらに上。つくづくすごい作家である。
 順位づけにはかなり苦労をするけれど星五つをつけて恥じない作品が一五篇中八篇もある。とんでもない高打率。ちなみに順位は、
@「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」
A「愛しのママよ帰れ」 
B「われらなりに、テラよ、奉じるはきみだけ」
C「ビームしておくれ、ふるさとへ」
D「セールスマンの誕生」
E「ドアたちがあいさつする男」
F「苦痛志向」
G「故郷へ歩いた男」となる。
 ここまでが文句なしの傑作。
 この本を読んで、最近SFが面白くなくなったと思っていたけど、まちがいだった、単に面白くないSFを読んでいたのだ、という意見を複数の人間から聞いたような気がする。
 今度出る本の最後のところでティプトリーのベスト10を載っけたのだけど、「接続された女」って、やっぱり10位のボーダーあたりをうろうろする作品でしかないと思う。長さと完成度でしかたなしにすべりこませたけれど、ほんとうはあれをはずして「ドアたちがあいさつする男」か「エイン博士の最後の飛行」か「アンバージャック」を入れたかった。
 このへんが、世間体を意識したぼくの限界なのかもしれない。



■佐和隆光『これからの経済学』☆☆☆ 岩波新書である。ぼくの好きな本の一つ『経済学とは何だろうか』の続篇だが、著者のここんところの活動が、朝日新聞での論壇時評の担当みたいな方面に多く割かれているせいか、時事ネタを大量にほりこんだ硬派週刊誌記事的本になった。佐和隆光という人の意見については、基本的に納得できてしまうのだけど、あまりに納得できすぎて、学問や世の中の仕組みをこんなに単純でわかりやすくしていいのだろうかと不安になる。ポルノと同じくらいもてなしのいい(かつモデル化された世界図式という)、そこらのSFよりずっと昔SFを読んで感じた楽しみに近いものがある。ブルース・スターリング『ネットの中の島々』と較べてみよう。

 『虎口からの脱出』(新潮文庫)景山民夫 ☆☆ 一生懸命書いてる本。前半分は四分の一くらいの長さでいい。見せ方がうまかったらもっとおもしろくなったと思う。
 『五番めのサリー』ダニエル・キイス。ちゃんと評価したら☆と☆☆の間くらいだけれど、こういう本はまともに評価してはいけない。型どおりの通俗メロドラマにお勉強した内容を流しこんだだけといってもいいお話で、高尚なものとかそこそこ深みのある内容を期待して読むと怒ることになる。お勉強した内容をノンフィクションの生硬な引き写しでお茶を濁さず、ちゃんと自分の文章にしようとしたところは(作家であれば当然とはいえ)褒めてやってもいいんだろうけど、つまるところはメロドラマ。そう割り切ればそれなりに楽しめる。
 ウォルター・テヴィス『モッキンバード』の路線をもう一歩通俗にしたもの。つまらないなりに、楽しんで読んだ。『アルジャーノン』読者にはそれなりに受けるでしょう。
 『敵は海賊・海賊たちの憂鬱』神林長平☆☆☆。しあがりとしてはものたりない部分があるけれど、基本設定がもともと高レベル。読んでておいしいところが山のようにある。
 『奴らは渇いている』(扶桑)ロバート・マッキャモン☆☆。
スティーヴン・キングの『呪われた町』を意識して書いた本といわれて、つい買って読んでみた。パワーを感じる本ではあるけど、基本的に品がない。SFだとべつに気にならないのに、ホラーになるとなぜかわたしは小説に気品や風格をもとめてしまう。
 『神の猟犬』グローヴァー・ライト☆☆☆☆。たとえばこの本に高い評価を与えてしまうのも、あるいは全編にただようそうした風格のせいかもしれない。帯や表紙やあらすじがよってたかってミスリーディングを仕掛けているとんでもない本。
 『まあじゃんほうろうき@』☆☆☆。作者のさいばらりえこって、ぼくが『小学六年生』を買ってまっさきに読む人である。
 『風の谷のナウシカD』宮崎駿☆☆☆☆。また@から読み返してしまった。
 『メルセネの魔術師』ディヴィッド・エディングス☆☆。
読んだというだけ。
 ポール&ウィリアムスンの《スターチャイルド》三部作。☆☆。
 褒めるわけにはいかないけれど、黙殺するにしのびない魅力と長所を秘めたシリーズである。
 オーソドックスで骨太のSFならではの設定やアイデアに、それなりに時代に合わせた新味を混ぜる努力を加えた作品で、六十年代のSFでありながら、まるで四十年代に先祖返りをしたような総合科学的《大SF》を展開していくところは、はっきり言って大拍手。無理がたたって、小説全体のバランスがくずれ、パースペクティヴがガタガタになっていることくらいはご愛敬。
 問題は、小説としての言語道断のひどさである。登場人物たちの不自然な反応、馬鹿な会話、常識の欠如、鈍い対応、遠近感のなさ、エトセトラ。日本の三流新書伝奇本作家と遜色がない!バリントン・ベイリーなんか比べものにもならない。
 読んでみようと思った人は、相当の覚悟をもって臨むように。
 それでも一読をお勧めしたくなるのは、濃密なSFっぽさ+へたくそきわまりない小説って組みあわせは、へたくそさが過激であるぶん、最近の主流SFが、小器用な小説的うまさとあいまってSFらしさを薄めているような状況を、強烈に逆照射しているように思えるから。

ここまでの今年のベスト
1、『故郷から一〇〇〇〇光年』
2、『永劫回帰』(予定)
3、『神の猟犬』
4、『太陽の炎』
5、『敵は海賊・海賊たちの憂鬱』
6、『サンティアゴ』


SF書痴度テスト(あなたはいくつ○がつくか)
1、まちがって古本で2冊買ってしまった夏目大介『超妖獣Ψの逆襲』(新書本)を燃やすことができない。
2、まちがって新刊で2冊買ってしまった『超妖獣Ψの逆襲』を燃やすことができない。
3、『超妖獣Ψの逆襲』を買って読んで、燃やすことができない。
4、『超妖獣Ψの逆襲』を読んだ後、古本屋に売ることができない。
5、『超妖獣Ψの逆襲』を読んだ後、知りあいにあげることができない。
6、まちがって新刊で2冊買ってしまった『故郷から一〇〇〇〇光年』を破り捨てることができない。
7、『故郷から一〇〇〇〇光年』を古本屋に出るまで買うのをがまんできる。
8、『故郷から一〇〇〇〇光年』を読んだ後、ゴミ箱に捨てられる。
9、『故郷から一〇〇〇〇光年』を読んだ後、古本屋に売ることができる。
10、『故郷から一〇〇〇〇光年』を読んだ後、知りあいにあげてしまうことができる。
11、まちがって2冊買ってしまったスーヴィンの『SFの変容』を破り捨てることができる。
12、『SFの変容』を読んだ後、古本屋に売ることができる。
13、『SFの変容』を読んだ後、知りあいにあげることができる。
14、『SFの変容』を読んだ後、破り捨てることができる。
15、『SFの変容』に書きこみが入れられる。
16、同じ解説のついたSFのハードカバーと文庫ヴァージョンを両方新刊で買えない
17、同じ解説のついたSFのハードカバーをもっていて、文庫本を古本で買えない。
18、同じ解説のついたSFの文庫本をもっていて、ハードカバーを古本で買えない。
19、ちがう解説のついたハードカバーと文庫本を両方新刊で買えない。
20、ちがう解説のついたハードカバーと文庫本を古本屋を利用してでも両方買えない。
21、ちがう訳者の同じ作品を両方新刊で買えない。
22、ちがう訳者の同じ作品を古本屋を利用してでも両方買えない。
23、もっている早川SFシリーズ、あるいはサンリオ文庫は古本屋で百円であっても、買うことはない。
24、もっている早川SFノベルズ(既文庫化)が古本屋で百円であっっても買うことはない。
00、(該当者のみ)自分の訳した文庫本が古本屋で百円で売っていても、買ったりしない。
00、(該当者のみ)自分の訳したハードカバーが古本屋で百円で売っていても、買ったりしない。
25、ボロボロになってしまった好きな本をもう一冊買いなおしたりしない。
26、もしボロボロになってしまった本を買いなおしたりしたとき、ボロボロの方はゴミ箱に捨てられる。



■日常感覚に挿入された《世界モデル》がかもしだす違和感の感触こそがSFの特性であるとするならば、SFはSF小説に限定されるものではなくなる。今月も佐和隆光の『文化としての技術』(岩波同時代ライブラリー)という本を読んでるのだけど、先月での文脈をさらに発展させるなら、この人の本には、ポール・アンダースンのSFと同質の、エンターテインメントとしての楽しさがある。あるいは山田風太郎と同じといいかえてもいい。
 そしてこうした、エンターテインメントとしての楽しさは、けっして異質なものに備っている衝撃性だけで組み立てられるものでないのでないかという気がしている。違和感の感触を念頭に置きつつも、読まされる内容のなかに、読み手の意識に最終的に同調していく予定調和的親和性が組みこまれていることが、エンターテインメントとしての楽しさを成立させる基本なのではなかろうか。
 もちろん、書かれている内容は、過去に出会ったこともない目新しいアイデアだったりすることもある。そういうものに予定調和的親和性があらかじめ設定できるはずがないというふうに、一見考えられる。
 けれども作品というのはアイデアそのものではない。アイデアを軸に構成された作品という全体像が、読者にとってなじみのある倫理的態度へと収斂していくかぎりにおいて、作品は、かならず予定調和的親和性を生じさせ、エンターテインメントとしての楽しさを発揮することになる。
 《世界モデル》は無色透明の中立性を保持しているかぎり、日常世界の現状分析を行なうための役にたつ道具として機能するだけであり、日常性を背後で支える常識的倫理枠組みに飲みこまれ、かえって異化作用を生みだしそこなうのでないか。《世界モデル》が日常世界に飲みこまれず、暴力性を維持するためには、提示される《世界モデル》の背景に、その《モデル》を利用し、かつ自分の経験認識と行動規範を統合し、分析的世界モデルを武器に日常的世界を暴力的に切り裂いていこうとする、著者の一元的な意志と倫理モデルが必要であると考えるべきではないか。
 無色な科学的世界観がセンス・オブ・ワンダーを発揮するには、その価値を偏向させる確固たる著者の倫理的整合性が逆説的に必要となるのではないか。
 科学的世界観が日常性への武器として機能していた背景には、科学的世界観に基づく世界認識こそが、なににもまして正義であり、真実であると信じこむ著者の強力な偏見があったのではなかろうか。
 つまり、SFを書くにあたって作家にもっとも要求されるのは、作者の内の強固なる倫理感、すべての現象を一元的に解釈していく倫理的意志なのかもしれない。
 倫理感こそが、これらの作品に、衝撃力と安定感、安心感、説得力、明快さ、納得性、うさんくささ、というような相反する反応を読み手に与える核となるのである。
 ただのメモ書きである。今のところは。
 違和感というのは、一種の停止感覚である。時間的には数十分の一秒のことかもしれないが、すうっと読んでいって、読みおえた箇所について、あれっという感じでひっかかる、そういう咀嚼的な思考の流れを要求されることになる。
 そのとき、映像でバンと頭をたたきつけ、強引に映像の流れの中に巻きこんでいく映画というメディアは、観念の遊びとしてのSFに、ほんとうはふさわしくない媒体なのかもしれない。たとえば、『二〇〇一年宇宙のオデッセイ』という映画はたくさんのシーンがSFならではの観念的なアイデアの映像化であるわけだが、もしもあの映画が、それぞれのシーンを映している最中に、このシーンはこういうことを意味していうるのだと説明をつけられてしまったとしたら、映画としては、たぶんあたまでっかちの失敗作だったと思う。
 見おわった後、全体を咀嚼していて、そうかあの映像の背後には、ああいう意味があったのかという反応を呼び覚ますのは、もちろん、この映画からも明らかだけど、本来の文章やプロットの、自然な流れに一方ではのっかって読み進みながら、同時に、寸前読んだ部分にひっかかり、咀嚼させられるという、読み手の内部にレベルの異なる二つの流れを生じさせる、SF小説の味わいは映画では不可能なのではないのだろうか。(映画にはくわしくないので、自信はないけど)
 そうした咀嚼的な思考の流れというものを重視したとき、コミックというのは映画よりはるかに活字SFに近いメディアであるといえるだろう。(しかも、SF的映像イメージの具象化という面で、当然、活字SFより上位にくる長所をもつ)。
 とくに、もともと違和感や差異をもってウケを狙うギャグ漫画というジャンルの漫画家たちは、違和感の観念的構造を直感的にマニュアル化し、量産する能力を鍛えているような気がする。ギャグ漫画だけじゃないな。漫画家全般にいえそうだ。それはたぶんSFのフォーマットの構造と非常に近いものである。

 たまに硬いことを書こうとしたら、ぜんぜん文章が転がらないや。



■ええ、〈アレ〉という隠語でもってほのめかしておりました、『乱れ殺法SF控』(青心社)今月をもって刊行の運びとあいなりました。(この文章を書いているのはじつはまだ発売される前であります)
 書かれたものがどのように評価、解釈されたとしても、書かれたものがそのように読みとられたということで、それをちがうやおかしいと言ってもしかたがないことであり、あらかじめそういう意見を封じる意図で本意はこうだということは言うべきでないというのが、本の中でも書いてきた、ぼくの意見であるわけで、この文章も、ザッタ関係者各位による、ありがたい応援演説が一段落するまで、封印していたものであります。だから、この文章は、弁解文ではありますが、いただいたご講評への反応といったものではございませんのでご了承を。
 タイトルは、当初『乱れ殺法自縛陣』という山田風太郎か隠密剣士調の題名をもちかけたのですが、何の本かわからないということで、最終的にこの題名におちつきました。柴田錬三郎を読んでないことに、若干の負い目を感じております。だけど、副題も含めて、ほぼ全面的にぼくの趣味を通してもらったタイトルであります。

 5月号をピークに内容が下降線気味にあった小学6年生。9月号の別冊付録で沈滞感を一気に吹きとばした。
 『感動300撰』(選じゃなくて撰なのだね、まったく)と銘打って、本とヴィデオとコミックを、各百本づつあげている。
 例会に持っていったら、見た人間みんな眼の色変わっちまいやんの。
 しゃあないわなあ。ぼくら向けのセレクションだといわれても納得できるカタログを、小学六年生が夏休みに読んでみるよう作られたリストといって提出されてはそこから長い歳月をけみしたはずのぼくらの立つ瀬がけっこうぐらつく。とってもラディカル!。
 実物を見てない人のために、本の百冊から一部紹介しておこう。編者は荒俣宏である。(でも実際はチーム作業にちがいない。作品選択の幅が荒俣宏の守備範囲より広い気がする)
 『長距離走者の孤独』『恐るべき子供たち』『アルジャーノンに花束を』『蝿の王』『おれに関する噂』『残像』『スローターハウス5』『孤島の鬼』『芽むしり仔撃ち』『ジュラシック・パーク』『鉄の夢』『影武者徳川家康』『おたくの本』『東京に原発を』『なぎさボーイ』『窯変源氏物語』『ガルガンチュワ物語』『地球の長い午後』等々。
 どうだ、困ったもんだろう。



■佐野洋子につかまった。
 「本の雑誌」を買うのがいつのまにか佐野洋子を読むことが主目的になってしまって、気がつくと、ずるずるエッセイ集を探しはじめた。
 なんといっても7月号の「ゴミ袋の真実」が圧巻で、文章のノリの凄さに感動した。あそこで決定的につかまった。
 『私の猫たち許してほしい』『アカシア・からたち・麦畑』『わたしが妹だったとき/こども(童話)』『ふつうがえらい』『私はそうは思わない』『佐野洋子の単行本』『友だちは無駄である』『右の心臓(童話)』と八冊買って、あと三冊ほど注文を出している。本屋にぜんぜんないんだもんね。
 十二で死んだ兄の話を筆頭に子供の時の話がえんえんくりかえされるのはけっこうへきえきさせられるけれど、本人のこだわりとしてしかたがないみたいだからしかたがない。でも、あのへんきらい。
 総体に、数をこなすと同じエピソードのくりかえしがめだってけっこうつらいところもあるけど、できのいいのはとことんすごい。
 いまのところ今年出た最新作の『ふつうがえらい』(マガジンハウス)がいちばんいい。三分の一くらいはすっごくいい。『私はそうは思わない』がつぎくらい。ぼくが例のアレで大上段にふりかざしたりしていることをさらっとあたりまえに書いてるのをみて思わず反省したりする。じっさい言ってることどもが、ぼくの意見にしてしまってもほとんどまちがいない気がする。しかもぼくよりずっと上手に表現している。
 うーむ。テクニックをパクリたいというような殊勝な心掛けもすこしばかりあるかもしんない。『ふつうがえらい』の「性悪猫」の感想文なんか大好きだ。書評ってほんとはこうやって書くのがいちばんいいと思うんだけれど、どうしたらこういうふうに書けるんだろう? 自分に自信がないとこういう書き方ってできないんだよね。
 『私はそうは思わない』の「「まえがき」のかわりの自問自答」なんかもよかった。
 でもなあ。
 さすがにまとめて読むと、凄い部分はあいかわらず凄いけど、最初は気づかなかったうっとうしいところがだんだん見えてくる。この人、尊敬するけどあんまり近よりたくない。こわい。本もできれば半年に一冊くらいのペースで、ひょいと買ってきて、すっと読んじゃうほうがいい。
 それにおんなじネタが四回五回くりかえされるのには、正直つらい。そりゃあ十年くらいの間にわたってあっちこっちに書き散らしてきた文章を一月くらいで全部まとめて読もうとするわたしもよくない。だけどおなじ人間に自分の本を複数買ってもらっていると思ったら、ネタはネタとして、なんとか料理のしかたを変える努力をするのが礼儀というものではないか。(人のことはいえないような気もしなくはない。)どうせ理屈や切り口や説教部分についてはどうがんばってもおんなじことしか書けないものであるわけだから、ネタの再使用はなるべくやめるべきである。これはわたしに言っている。
 開高健や森毅を読んできて、結局、ああもういいや、となったのも、同じフレーズで書かれた同じエピソードに何度かぶつかったのがたぶん直接の原因だった気がする。雑誌に同じことを書くのはしかたがない。生計の手段なわけだし、締切というたいへんなものがあるわけだから。
 だけど本にまとめるときには前にまとめたものよりも出来がいいのでないかぎりほとんど同じ話というのは省いていくのが筋ではないか。読者は同じ説教を二度読みたくて本を買うかもしれないが、同じ話を二度読みたくてちがう本を買うわけではない。そういう意味で橋本治はとんでもなくえらい。あんだけ書いててダブリの記憶がほとんどない。お説教はどれもこれもおんなじでうっとうしいのがいつまでも続くけれども。
 うーむ。書いてるうちに腹が立ってきた。こんなはずではなかったのに。
 でも、あと二ヵ月くらいは入れこめそう。
 まだ読んでない人は、三冊くらいまでならお勧めします。



▼続・眼に関するお話。
 じっさい本を読もうとすると活字に焦点を合わせきれない気分がけっこうあったりする。
 で、このまえ職場の健康診断で、近点距離測定というのをやったわけ。ディスプレイを多用している職場なんかで、目の前の端末画面を見つづけることの弊害がおきてないかどうかをチェックするための検査で、近いところと遠いところの焦点を交互に見て、その反応を測るというもの。
 するととんでもないことに、遠いところ(数メートル先)を見る視力は去年よりよくなっているではないか。そして反対に近いところ(20センチ)先を見る視力は眼鏡をかけて0.3になっている。
 健康診断の結果自体は異常なしということだけど、この異常なしということは、あくまで端末作業の悪影響はでていないという意味でしかないのではなかろうか。
 これは、うたがいようもなく、眼が2メートル先の発光体を長時間凝視しつづける生活に体が順応してきたということとしかおもえない。
 そういうわけで、ここ最近不安感をつのらしているわたくしは、またもや眼科の扉をたたいたのである。
 医者はちょこちょこ検査をしたあと、(眼のにごりはすこし薄くなってきているといってくれた)、特に異常はない、気にするほどのことではないとおっしゃった。近いものが見えにくくなってきたのは、単なる老化現象であるとおっしゃった。
 エーン。病気だと言われたほうがよかったよう。

 『室町お伽草紙』☆☆☆。私の持論の山田風太郎論がぜんぜん役に立たない。耄碌なのか変貌の途中なのか、まだ見定めがつかない。



●ここだけのはなし(禁無断引用)

 十数年前のことである。
 「SFの深化と矮小化」というイメージが頭の中に生まれたとき、新書本の一冊くらいの分量をこなせるだけの蓄積は身についたという自負が生じた。それまで書いた百枚あまりのファンジン原稿を一枚も余さず使い、どうつなぎ、どう構成すれば本のかたちになるだろうかと妄想をたくましくしたことがある。
 「深化と矮小化」という本論が、だいたい全部で二百枚。それに百枚の既原稿を重ねればちゃんとかたちになるはずであると。
 考え方の甘さというのはかたちにしないとわからない。
 おまぬけの妄想がガラガラ音を立てて崩れたのは、実際に、神戸で開かれたSFセミナーでの発表のため「SFの深化と矮小化」を文字に移し代えてみたとき。
 三十枚ほど書いたら、書くことなんにもなくなっちゃった。
 あのときのショックってけっこう大きかったのだよ。自分の頭の中に充満していたはずの思い、十年くらいSFばかり読みつづけて、ぱんぱんに育んできたはずのイメージが、たった三十枚書いただけで、すっからかんになったのである。修辞をほどこし、ふくらましたって四十枚に引き伸ばせればよしといった程度のもの。妄想のいいかげんさ誇大さと活字にすることのこわさを思い知らされたのは、たぶんあれが最初だったと思う。
 それ以来、書きたいことが山ほどあると思ったことなどいっぺんもない。必死になって頭の中をかきまわし、なんとか締切に間にあわせようということだけでやってきた。みだれめもだってそうなんだぞ。商売ものよりは手え抜いてるけど。
 ここで雑文書きの極意についてしるしておこう。
 極意は全部で三つある。この三点さえ押さえておけば、だれでもわたし程度には書けるはずである。
 文章と意見を蓄積可能ならしめる最大の要件は、締切である。ネタのあるなし関係なしにとにかくなにかを、できることならsomething new を期日までにあげねばならない。その圧力にまさるものはない。締切があるから人は、会社勤めの激務のかたわらに年間五千枚の翻訳をしあげることも可能になるのである。引っ越し準備の真っ最中に七十nのファンジンを作ったりできるのである。そういう人がちゃんといるのだ。嘘だと思ったら、古沢嘉通にでも細美遥子にでも聞いてみなさい。
 二番めの要件は、大量の不特定多数の読者と質の高い特定少数読者という、矛盾した仮定購読層である。ザッタなんかが楽なのは前者を考えなくていいからであり、そのぶん緊張感が保てない。金を払って読んでくれる仮定購読層をどうとらえるか、そこに向かってどのようにウケをねらい、メリハリをつけていくかで文章の質と性格はきまってくる。
 三番めは、そういう場所で、署名を通じ、自分の存在を継続的にアピールしていく意識である。自分の意見は一応首尾一貫していなければならないし、しかも同じことをくりかえすのも具合がわるい。この要件は広い意味では二番めの要件に含まれるかもしれないな。
 重要なのは、この三つだけである。この三つを押さえておけば、論理も意見もスタイルも、教養さえもが後から勝手にくっついて生まれ育っていくものなのだ。(ひねこびることも応々にある)
 そのうえに野心があれば文句ない。たとえば文庫本の解説で、その小説の本体にまるで興味のない人間を、たとえ一人でも、解説自体に興味をもたせて買わせることができたなら、これはやっぱりうれしいよ。(読む気のない本を読む気にさせたりするのは解説者として当然果たすべき役割のなかに含まれる。できるできないは別にして)。
 ぼくにしたって、米村秀雄や大野万紀とかいう人間も、そういう意識を片隅にちらつかしながら仕事をしてきたはずである。

 からっぽの井戸からしぼりだした雑文が、いつのまにやら千枚二千枚ともなれば、自己愛のある人間なら本にしてみたくなる。(今だから言えることだけどね)
 これは人情である。人から「本にしようよ」といわれたら、はずかしいから「やだよ」と答えはするけれど、やっぱりそういう夢想はしていたわけである。
 そのころから、仮に本を作るとしたら、過去の文章を集めて使うことともなれば、「SFの深化と矮小化」と「アンダースン(風太郎)論」を軸にするしかないな、という意識はあった。だって、ほかにちゃんとしたやつないんだもん。それにこの二つ、SFの変動論と構造論としてちゃんと対をなしている。
 この二つを軸にして、ファンジンレベルでその気になれば、まあ半年くらいで本はつくれるだろうなあと思っていた。できのいいのをピックアップして、寄せ集めれば五百枚くらいは揃うだろうし、九百八十円くらいで三百部は捌けるくらいの自信はあった。
 百枚しか書いてないときの本一冊の分量ではない。二千枚書いたなかから撰りすぐっての五百枚である。それなりに勝算のある自信であった。だけど、それってやっぱり「買ってください、私の詩集」なのである。やっぱりやだよな、とか思いながら時間はどんどん経った。

 ZOM氏が本を作らないかといってきたのは、SFマガジンのぼくの書評が煮詰まりすぎて首になった前後である。
 で、いつだったかとSFマガジンを調べると八七年八月号の《デューン》が書評の最後である。(ちなみにわたしのマガジン書評は開始の前の月にディックの追悼文がきて、終了の次の月にティプトリーの追悼文がつくというなかなか趣きのある偶然を構成している。)
 なんだ丸四年しか経ってない。五年くらい前だと思っていた。注文を受けて、書けなくて、ほったらかしてた時間というのがうしろめたくて、けっこう長く感じてたみたい。
 ちょうど書評がくぎれた時期だったので、書評集でも出してくれるんだろうかとひょこひょこ会いにいったら、『SF入門』のたぐいを書きおろしで書いてみないかとのこと。過去の寄せ集めをやるよりも、蓄積は蓄積として温存しといて、新しいものに挑戦した方がいいだろうということだった。ただあっちこっちに転がっている似たようなタイプの入門書を書いてもしかたがないので、自分がどういうふうにSFに関わってきたかを中心にした体験的SF入門のような本をやろうということになった。読者は、中高校生あたりがねらい目。(この当初の話が最終的に『乱れ殺法』一章、二章となって生きてきた)
 まあ、わるくないよなあ。よし、やってみよう、ということで、一週間ほどでさっそく書いたのだけど、なんといっても当時徹底的に煮詰まっていたわたくしである。持っていった原稿は、この本の序章にあたる文章がさらに三分の二くらいの枚数に煮詰まったもの。ゾム氏に軽く蹴られる。(その後、改稿して「トーキングヘッズ」に送る。)
 でまあ、わたしとしましても、反省して、書き直したのが第一章「宇宙船ビーグル号の冒険」である。そのせいで序章と第一章の出だしのあたりの文脈はすこしダブリが生じている。
 これを十枚くらい書いたところで、ゾム氏に見せて、「こんな調子でいいと思う。つづけてやってください」といわれたのだけど、書けなくなった。根がしつこいたちなものだから、いったん出だしのつもりで書いた序章が頭にひっかかって、そこからの文章の展開としてしかはなしが書けないのである。しかも、中高校生を対象として文章を書くというスタンスのとりかたが、納得できるかたちにあたまのなかにどうしてもおさまらなくて、ダウンした。
 それでも何を書くかについてだけはかなり早いこと決まっていたような気がする。ヴァン・ヴォークトでポール・アンダースンでティプトリーで「深化と矮小化」である。これをどう書くか、どう構成するかについては、ダウンしている間も、けっこう頭のなかではぐちゃぐちゃやってた。
 とりわけ、序章で書いた自分の現在の気分と「アンダースン論」「深化と矮小化」を展開してきたころの気分というのがむしろ逆転しているところがある。ここの気分の変化を本の軸に据えたなら、かなりおもしろめずらしいものにしあげることができそうだ、といった感じで固まっていった。
 だから、けっこう微妙なポジションの、こねった構成にしあがったと、ここんところは自分なりに評価もしているわけだけど、そんなに理詰めで捏ねたわけではない。かなり自然にできあがったものである。
 頭のなかではみえてたけれど、ぜーんぜん書けなかった。
 ゾム氏も途中であきらめて、とにかく全部書いてみよう、書きあがった段階で、手をいれるから、まず、とにかく、書きなさい、と言うようになった。
 ただ、どこに向かってどうやって書いたらいいかつかめなかった。
 読者対象中高校生というスタンスが結局最大のネックだった。あるいは言い訳だった。中高校生という限定を加えていった不特定多数に対して有効な、自分なりに納得できるスタンスをどうしてもみつけることができなかった。
 最終的にいつものようなスタンスと、仮定の読者を前提に書いてみようと、当初の意図を断念してみてやっと文章が動きはじめた。だけど、中高校生も含めた読者対象という意識は持ちつづけたつもりである。ジュディス・メリルの『SFに何ができるか』をはじめて読んだころのぼくに近いポジションの読者に対して、メリルの代わりを果たせる本。文字にすると気はずかしいけど、そういうたぐいのニュアンスはわりと意識しながら書いたのだよ。それがなかったら、たぶんもっとガチガチのしんどい本になっていたにちがいない。メリルの本よりとっつきやすくしたつもりである。だめ?
 本格的な始動は八九年の四月だった。そのあたりの事情については、ザッタ読者御存知の通り。引っ越し(書斎完成)、人事移動(前より比較的楽)、妹結婚(扶養家族減)、ファミコン故障、と執筆環境が一気に好転し、その勢いで書きだした。構想はほぼ、完了していた。
 八月に半分まで書いて、十月のおわりに、初稿を青心社に渡す。
 十一月。京フェスの会場で、編集者が大森望にばらす。ノヴァ・エクスプレスにすっぱぬかれる。個人的には本になるぎりぎりまで隠し通したかったのだけど。
 九十年四月。SFセミナーで第一章を発表する。けっこう自信はあったのである。でも評判はあまりよくなかった。今だから言うけど、けっこうがっくりきてたのである。とにかくこれで、この本の一章三章四章がセミナー発表原稿になってしまった。五章は寄せ集めだから、まるっきりの書きおろしは二章と終章だけになってしまった。
 五月。SFマガジンセミナーレポートで本が出る予定だと書かれる。
 十一月。氷室冴子『マイ・ディア』を読む。小遣いがどうのとか文庫目録をどうしたとか、本を読みだしたころのくだらない話をいっぱい書いている。ぼくがやったのと同じことをやっている。ちきしょう、氷室冴子の真似したみたいじゃないか。ぼくの方が先に書いてるんだぞ。
 一二月。翻訳勉強会に原稿をもっていく。伊藤さんに「これはあなたの自伝なんだ」と感想される。そういうつもりではないんだけどなあ。もともと伊藤さんや浅倉さんに言及した部分について事前の了承をとりつけるためだったのだけど、「あなたが伊藤典夫という人間に対してどう考えようとそれはあなたの考えであって、わたしがどうこう言える筋合いではない。好きなように書いたらいい」と冷たく言われる。えーん、こわいよう。
 九一年三月。ダルコ・スーヴィン『SFの変容』が出る。ぼくとおんなじことが書いてある。ちきしょう、真似したと思われるんだろうな。
 同じく三月。ゾム氏とお話。自伝的エッセイとして売りたいといわれる。それだけはやめてほしいと懇願する。結果的にそうとられてもしかたがないし、そういうふうに見えるところがあることは否定しないけれど、そういう意識で書いたものではないのである。当事者側からそういうウリをかけるのはかんべんしてほしいのである。あくまで、序章終章と三章四章の立場的矛盾をまとめようとした結果としての色合いなのである。
 『乱れ殺法自縛陣』というタイトルを提案する。SFの本だとわからないといわれる。
 『乱れ殺法SF帖』に決まる。その後『SF控』に変わる。『眠狂四郎』を読んでないんだよね。
 索引のかわりに、文中に登場した作家たちについて読物風のコメントをいれることになる。
 最初は出てきた人名全部をやるつもりだったけど、ジンメル、カッシーラー、ローレンツなんてところにびびって、SF・ファンタジイ関係にしぼった。最初のリストには、伊藤・浅倉を筆頭に、大野万紀、米村秀雄、倉林律なんてのもあったのだよ。
 五月。横山えいじのイラストを見て感動する。
社外秘のはずなのに、イラストを見たという人間が何人も例会に現われる。
 七月。見本刷りをもってSF大会にいく。みんなが横山えいじの表紙とイラストをほめてくれた。わたしも自分ごとのようにうれしい。
 八月。本を送った先から礼状が何枚も届く。うーむ。わたしはもらった本の礼状なんか書いたことがないぞ。(そのかわりもらった本の悪口はいっぱい書いてるような気がする)。
 八月。横山えいじ氏に礼状を書こうと三原順絵葉書セットをさがしたらどこにもない。結局、休日二日がかりで本箱の大移動を行なう羽目になる。でもやっぱりなかった。
 八月。東京で大森望に横山えいじ氏と引き合わされる。単なる大森望の好意の行為と信じたわたしが馬鹿だった。翌月、大森望・文、横山えいじ・絵の似顔絵付の怪文書が書店に出まわることになる。
 八月同日。ぼくの本を読んでくれていた社会学をなりわいにしている人とお話をする。あのなかで、最近の社会学についていいかげんな知識で書いた部分が気になっているとかいった話をする。
 現象学的社会学とか、シンボリック・インタラクショニズムとか、あのあたりのことがよくわからないんですよね、とか言ってしまう。今年出た『シンボリック相互作用論』って本、その人が訳してたんですよね。知らなかった。
 もらってしまった。礼状を書くために、数年ぶりで社会学の専門書を読む。内容はおもしろかったけど、とっても疲れた。
 疲れた頭で本屋に行ったら、『社会学史研究 第13号』というのがあって、つい買ってしまった。その勢いでバックナンバーまで全冊注文してしまった。どうせ目次しか読まないにきまっているのに。
 一万三千円の出費である。
 ばか。

 最後に批評である。初稿から一年以上の時間をかけて、しつこく手を入れたわりには、文章がやたらとしろーとっぽすぎる。そのぶんとっつきやすさはあるかもしれない。文章がへたかどうかはわかんないけど、とにかくやっぱりどっかへん。「つまらながれる」なんて言葉、よそで見たこと一度もない。
 読み返している内、不感症になっちゃったけど、いちばん最初に読んだとき、けっこううざったいものを書いた本人が感じたくらいだから、うっとおしがる人はたぶんいっぱいいるだろう。
 修整しようと思ったのだけど、読んでる内に慣れがきて、どこにうっとおしがったのかわかんなくなった。
 山田風太郎については、作者紹介や粗筋紹介に、あと二十枚程度かける必要があった。ティプトリーのときと同様に、全体的な粗描を最初にしておくべきだった。最初に書いた文章に愛着があって、なるべく原型を維持しようとしたせいだけど、本になって読んでみて、ここの部分がいちばん商業出版物のイロハに欠けている。
 SF論のふりをして、読書論に重きがかかった本になったと思っている。とりあえずの、ここしばらくの、そちらの方へ流れる気分にしたがってしあげたつもりの本である。
 とりあえず、かたちとして、類書はないはずである。アメリカSF論の柱に風太郎を持っていけば、まあ、あまり似た本はみつからないにちがいない。
 まあ、書いてしまったものは書いてしまったものである。人にどんなかたちで評価されてもしかたのないものである。書くというのはそういうことであるのだから。
 ほめられるよりも、けなされたい。できればとんちんかんに。ほめられるのはどういう顔をしたらいいかわからないからきらいだ。とんちんかんにけなされて、こいつ、ぜんぜん読めてないやと笑って楽しみたいのである。うん、われながらやな性格だ。(ただし、本ではなく書いた人間をおもちゃにして遊ぶ輩というのは徹底的に糾弾されるべきである。本の著者とは、書いた人間本人ではない。書かれた文章から抽出され、文章の背後に結ばれた虚像のことにほかならない。そこの区別ははっきりつけなければならない。あなたのことだよ、大森望)
 いずれにしても。
 自伝扱いされるのだけは、やっぱりいやだ。



●ハーバート・ブルーマー『シンボリック相互作用論』(勁草書房)御礼状
【現在からの注 ついでだから、社会学の本の礼状も載せてしまう。私信を公開 してしまうのにはすこしためらう部分もあるのだけれど、内容的には、そうわたく しごとの部分もないので、お許しいただけるだろうと、勝手に解釈してしまった。
 ごめんなさい、かもしれない。
 それにしても、いつもいつも、戴き本を礼儀正しく素直に褒めることができないのかね。】


前略
 『シンボリック相互作用論』をありがとうございました。お礼が遅くなって申しわけありません。
 最近、佐野洋子や氷室冴子、「小学6年生」といった読みやすい本にばかり手が伸びて、ムズカシイ本はおろか翻訳SFさえ、なおざりになってきている状態で、堅い本はなかなか読めなくなっております。
 けっこうアジテート色が強くて、素人でもそこそこわかる楽しめる本だったと思いますが、読み慣れてないぶん、一気通読とはいきませんでした。
 それにしてもであります。
 ぼくが『乱れ殺法』でとったポジショニングとやたら近い感触があります。先にこの本を読んでいたら自分の言葉で自分の意見をまとめられなくなってたいへんな苦労をしいられてたような気がします。シンボリック・インタラクショニズムについては昔、簡単な説明程度のものを目にしたことがある程度で、ほとんど影響をうけた記憶がないのですが、結局、批判的視点も含めたかたちでの社会学的な思考枠組が、ぼくの内部で思いのほかに深く根づいているということなのかもしれません。そんなに勉強したはずはないのですが。
 おかげで、また、なんか社会学にさわってみたくなってしまって、2万円分ほど関係雑誌を注文してしまいました。どうせ目次を眺めるだけのことなんですがね。
 ハーバート・ブルーマーの単純明快さにはいかにもアメリカ人的な粗雑さが感じられました。ポール・アンダースンといい勝負です。一冊の本としても、同じ内容の主張がこれだけヴァリエーションもまじえずくりかえされては、かえって著者の頑迷ぶりをみせつけることになり、構成としてはあんまりよろしくないでしょう。
 だけどそのぶんほほえましいし、社会学の初心者向けの教科書の副読本にはぴったりともいえます。
 ブルーマーの批判自体は正しいものだと思いますが、図式化に頼った手法を批判する文章が図式化、スローガン化したんでは、結局社会党でしかない。ポジション的には社会党は好きですが。
 社会を実体として捉えたときの「捨象される個人」というのは、たしかぼくが学生のころだって、社会的役割や社会的行為論の概論レベルで指摘される問題点だったはずで、昔っからこういうことは言われてたような気がします。社会調査における留意点なんて、ラドクリフ=ブラウンとか習ったときに聞いたような話であります。
 個人的には、SFファンでありますから、学問の社会的有用性には興味がなく、社会学的方法を通じての宇宙原理の措定とその原理に基づいたグランド・モデルの展開に惹かれるわけでマクロ社会学のほうが興味深い。かといってパーソンズの難解本など昔から一冊として読み通せたものはないわけで、えらそうなことはいえないのですが。

 最後に翻訳ですがとても読みやすかったです。社会科学系の本にしては驚くくらい漢字がヒラかれていますが、これは最近の一般的傾向なのでしょうか。それともSF・ミステリの翻訳文化の洗礼を浴びてきたことによる後藤さんの個人的な方向なのでしょうか。
 これからもご活躍を期待します。
                       後略



■佐野洋子という人は、SFと神がかりを抜いた女ディックである。
 『右の心臓』という彼女の子供時代のことを書いた本を古沢先生に貸したところ、半分読んだら気持ち悪くなったとのこと。えっへへ、こわいんだよ。
 氷室冴子『いもうと物語』 つまらない。エッセイ集『東京物語』のネタを自伝風に小説化したものだけど、『東京物語』のときみたいにテンションがあがらない。必ずしも使いまわしのせいだけでなく、今の氷室冴子って昔みたいにテンションを高められなくなっている。
 おまけに同じ子供時代の話を書いた『右の心臓』を読んだ直後だもんね。古沢先生には、くらべるあなたが悪い、と言われた。
 佐野洋子の絵本の代表作『一〇〇万回生きた猫』を買う。五分で読めた。たった五分で不覚にも涙腺が刺激される。お買い得。
 前号でも書いた『社会学史研究13』 六つの短い論文が収録されている。昔は拝みながら読んでいたから、わからないのは自分がばかなのだと思っていたけど、難解さのなかには、書き手の文章がへたくそなためもあるのだ、とわかるくらいに文章の読解力があがってきていることがわかった。だてに年は食ってない。特集が「アメリカ社会学史上における現象学的社会学の位置づけ」というテーマで、『乱れ殺法』で不安がりながら書いたことがそうちがってもなかったと確認する。全体にわかりやすい内容で、目新しいところもなかったけれど、ラベリング理論などで有名な、ゴフマンという学者の現代社会学における大雑把な位置を確認できたのが収穫である。当分手は出さないだろうけど、この人の名前は一応メモっておこう。

■フィリップ・K・ディック『ニックとグリマング』(筑摩) ジュヴィナイルということで、ディック自身がかまえてしまっている感じ。作者がどっか窮屈そう。全体に説明口調になりすぎてるし、農夫の星についてからの猫の果たす役割とか、本来意図していたものが意図されたようにいってない消化不良の感触が残る。おいしいところはあるけれど、ディックとしてはやっぱり凡作。
■ルディ・ラッカー『空洞地球』 百nを過ぎても、極地への旅に出発する気配がまるでないのに少々焦った。ピンとこない部分をしかたがないとあきらめると、あとはたのしいユーモア冒険小説。過去のアメリカの風俗習慣のピンとこない部分だとわからなくてもしかたがないと納得できるのに、『ソフトウェア』や『ウェットウェア』のロボット社会の風俗習慣部分とかだとピンとこないとフラストレーションが高じてくるのが、なんかSFファンなんでしょうね。それにしてもポーのあぶなさ加減は絶品。この本は今年のSFベスト5、それも上位のほうに含めたい。
 ベスト5候補が続々登場する。
■ピアズ・アンソニイ『キルリアンの戦士』 宇宙冒険エロチカ。この題材をガキを相手の説教臭がぷんぷんする口調でやるのだから困ったものだ。作者が読者を馬鹿にしてるのか、それとも編集者の要求なのか、あるいは実際そうしなければ支持を得られないほど読者のレベルが低いのか、このお子さまランチの語り口は、内容自体に魅力があるぶん、はっきり言って不快である。この小説をそのままバリントン・ベイリーに語り直させたら、まちがいなく傑作になる。
■ジョー・ホールドマン『ヘミングウェイごっこ』(福武) ほとんど期待しないで読みだしたら、ほんとうに面白い。この人のヘミングウェイに対するこだわりは本物である。おなじみベトナム戦争とヘミングウェイへのこだわりを、昔よりもずっとうまくなってる気がする人間描写に溶かしこみ、めりはりのきいたSF仕掛けできっちり締めた傑作と、絶賛しようと思ったら、最後の数ページで何が書いてあるのかわからなくなった。きっとアメリカ文学フリークどもは、これはSFだからおれにわからないにちがいない、と思いこんで、コンプレックスを抱えこみ、わかっているふりをして書評やなんかで誉め讃えるにちがいない。
 だけどわたしは単なるSFファンだからはっきり言うぞ。
 この本のクライマックスはなんだかよくわからないぞ。もしかしたら
翻訳がおかしいのかもしれない
 だけど224ページまでは、これはとってもすばらしい。ここまでに提示されてきた謎が、もすこし整理されていたなら、『終りなき戦い』以来の傑作になっていた。
 再度の書き直しを要求する。
■ティム・パワーズ『幻影の航海』 形式美のなかから作者(並びに訳者)の力のこもった思いが沸々と伝わってくるリッパな小説。波乱万丈ではあるけれど、すべて起きればやっぱりと納得できることばかり。意外なことが何にも起きない。品格に満ちあふれた小説である。
 小説はなによりも面白いことが肝要である、といった貴族趣味的発言はこういう種類の本にこそなされるべきであるのだと、クーンツ、マッキャモンら下賎の輩をちらり頭の片隅に意識しながら、思わずこぶしをふりあげたくなる。
 同時に、ティム・パワーズがSFの人じゃなかったのだということを、はっきり示してくれた小説でもある。
 「SFはものの見方である」というのは、つまりは「現実に対応させていく物語世界のもつスタンス」ということである。ポール・アンダースンはいうに及ばずロバート・A・ハインライン、ピアズ・アンソニイ、R・A・ラファティ、アーシュラ・K・ル・グインその他様々なSF作家のファンタジイに共通する〈欠陥〉は、絶対どこかに〈アンノウン誌型ファンタジイ〉の臭みをあわせもたずにおけないことである。なかにはル・グインのようにその〈欠陥〉を意識し、拒否しようするあまり、〈非在としてのアンノウン〉にとらわれた『マラフレナ』のような作品をものする作家さえもいる。ホラーの世界に行ったことになっているG・R・R・マーティンの『フィーヴァー・ドリーム』や「皮剥ぎ人」も読んでて感じたのは、やっぱりこいつは元SF作家だという思いだった。
 昔、SFの思考様式は、それほど強く作家の内部に刻みこまれていたものなのである。
 そんなくびきを、こうも軽々脱け出せるのは、もともとその程度しかSFに関わってなかったということを意味しているにすぎない。磁性鉄と魔力をめぐるこれしきのロジック程度では存在証明にはならない。
 現代の若手SF作家に対する疑惑の念はたぶんそのあたりで確認できるはずである。この連中の手になるファンタジイ長篇が、どこまでこうしたSF作家の〈欠陥〉を共有しているものであるかで。

 クーンツ、マッキャモンに対してとは、一応ちがうあつかいをさせていただいている作家がクライブ・バーカーである。(あ、でも『不滅の愛』は途中で読むのがとまって、そのままになってる)
 スプラッターをやってもちゃんと品がある。そういう意味では大衆作家キングにはとうてい真似のできない格調がある。
 翻訳の文章についての話題が先行してしまった『ダムネーション・ゲーム』(扶桑)も格調への志が感じられて、『幻影の航海』同様好ましく読んだ。格としては『幻影の航海』より上である。ゾンビの母犬がゾンビの小犬たちに乳をやるシーンなんて、なんか異様に美しい。
 うーむ、でも、だめ。気にいったシーンを咀嚼しなおすとやっぱりどれも気持ちがわるい。
 そういや『血の本』(集英社)も四冊目の途中で倒れたんだっけ。
 やっぱり病気の人だと思う。
 講談調の翻訳部分は抜き出して読んだときはかっこよかったのだけど、通して読むと半分以上の場所で浮きあがっていた。



 『ミステリ・ハンドブック』 『SFハンドブック』と同じような本なのに、読んでて少しも面白くならない。(つまみ読みして途中でやめた)
 ****先生はリチャード・ホイトが一回も出てこない、ミステリ・マニアは小説のわからない馬鹿ばかりだと怒っていたが、わたしもピーター・ディッキンスンが、宮脇孝雄のささやかな抵抗でやっと名前が出てくるだけということに怒っている。
 夢枕獏『牙の紋章』『混沌の城』を立て続けに読む。
 『牙の紋章』は獏作品としてはB級クラス。本人があとがきで吠えるほどすごくはない。『餓狼伝』『獅子の門』の一時期のパワーからみると、この程度で本人に満足されては、読者としては困るのである。
 そういう意味では、『混沌の城』も同じかも知れない。作者のテンションが高ければ三巻本になった内容である。前半の語りに比べて、後半駆足になった部分が多すぎる。
 しかし、そのへんの不満も含めて、なお、今年読んだ日本の作品のベストである。こっちの趣味と合致していることやら、他に読んだ日本作家というのが、ヤング・アダルトばっかりだとかで、公正性に乏しいところがあるけれど、構想と構成において、十二分に満足させていただいた。
 ただし、結末で、信長や森蘭丸を出してきたのはいただけない。あれで物語空間が一気に矮小化した。
 『混沌の城』については、この本の内容と離れたところで、この本を素材にすこし長々と言いたいことが出てきた。来月まで気分が続けば書くつもりである。乞御期待。
 『FFW』のリプレイで、ついに二十時間を切った。ゼムロスと戦う直前の通算記録が18時間21分になった。がんばれば15時間台まで縮まりそうだけど、もうやらない。



 『混沌の城』のせいで言いたくなったことについては、京フェスの合宿で言ってしまった。書く気力が萎えてしまった。何を言いたかったかはソエノかショーコかナカムラトールに聞いてください。
 そのかわりに、今度どっかでSF論をやるようなとき、ぜひとも使いたい素材がみつかったので紹介しておく。書いちゃったら使わんだろうなあ。谷川俊太郎の『わらべうた』(集英社文庫)にはいっていた詩である。十年も前の本である。そちらの業界ではとても有名な詩かもしれない。そうであって当然な気がする傑作である。うーむ。佐野洋子の追っかけがSF論につながってしまった。

    であるとあるで

  であるはであるでなかろうか
  であるがでないであるならば
  でないはであるになるだろう
  でないがであるでないならば
  であるはでないでなかろうし
  でないであろうがなかろうが
  であるはであるであるだろう

  あるではあるででうろかなか
  あでるがででないあなばるら
  いなはであるにでうるだろな
  ないでがでるあでいななばら
  はあるでなでいでなろうしか
  いなでであがろうかながろう
  でるはあでるあであだろうる

 こういうものがSFである。
 SFのエッセンスである。
 畳みこまれたロジックがリズムを生み、リズムとロジックが共振しつつ酩酊を誘う第一節。その第一節で構築された〈秩序〉の感覚を支配的原理として内に孕み、かつ、その無意味さでさらなる酩酊へと導いていく第二節。
 第一節はシンプレックスであり、コンプレックスである。
 第二節はマルチプレックスである。
 第二節だけだとSFは成立できない。
 第一節だけでSFは成立できる。
 だけど第一節のSFはしょせんポール・アンダースンである。がんばったところでたかだかル・グィンにすぎない。
 ほんとうのSFのめざすべきものは、めくるめく秩序が支配する第一節の後をうけ、第一節に裏打ちされて出現してくる第二節の〈リズムある無秩序〉なのである。
 問題は、これが具体的にはどのように小説としてエンターテインメントの構図のなかに反映させられるかということ。どのようにして小説の軸となって機能しうるかということ。

 それにしても完璧な〈言葉〉である。詩とは言わない。詩なんてわからないもん。
 こんなに意図が明瞭で、ロジックが明瞭で、構図が見えて、しかも〈文学〉することができるというのが信じられない。
 知性がばんばん吹きつけてくるくせうっとおしくない。どの詩も計算が見えすぎるのが難といえば難だけど、たぶんそれも計算のうち。評価上の上、かすかにマイナス。
 SFである。(うそ)

 最近読んだ本。『わらべうた』のせいで、今回は評価がきつめ。
★トマス・ハリス『羊たちの沈黙』(新潮文庫) 期待しすぎたみたい。けっこう意外性がない。噂の悪訳には、そう抵抗はなかった。中の下。
★ジョン・R・マキシム『ファイナル・オペレーション』(新潮文庫) おもしろい。正義は徹頭徹尾かっこよく、悪人はちゃんとにくたらしい。話はあれよあれよだし、カタルシスはきちっとあるし、登場人物みんな納得のいく結末を迎えるめでたしめでたしで、にこにこしながら読み終えられる。
 でも根がひねくれてるから、しばらくたつとだんだん不満になってくる。こんなにめでたしめでたしでいいんだろうか。「ポルノとおなじくらいもてなしのいいファンタジイ」というフレーズがとっても合う本。
 ついでに言っとくと3%、消費税分程度にファンタジイ味のおまけつき。上の下あるいは中の上。
【現在からの注 白石朗先生に、「ぼくが訳して贈った本で、はじめてお褒めの言葉をもらった」と言われた。まったく礼儀を知らない野蛮人であるとわれながら思うところがないでもない】

★『広告批評十一月号』 〈社会主義ってナンだったの?〉って特集で、橋本治、浅田彰、多田道太郎、鶴見俊輔、森毅と並ぶ。『思想の科学』真っ青のラインナップである。なんといっても橋本治の社会主義論が圧巻で、編集後記なんかみんなして感動していた。ほかの演者に失礼だよね。
 浅田彰の発言は、上司の佐和隆光と区別がつかない。
 上の下。
★『ターン』 氷室冴子ノンノ連載本。表紙きらい。帯きらい。電車のなかでひろげられない。
 構想と仕あがりにかなりのずれが生じた気配。いっぺんチャラにして、三倍くらいの長さに全面改稿したら、中の上くらいの本になる。
 下の上。
★『舵をとり、風上に向くもの』 矢作俊彦カー小説集。なんで車の免許もない人間がこんな本を読んでんだろう。最初の内はかっこいいけど、だんだん鼻についてくる。ガジェットSFとの構造的共通点について考えてみてもいいかもしれない。作品評価中の中、ややマイナス。

 うーむ。

 SFはどうした! SFは!