【1990】

 新年おめでとうございます。昨年もなにごともなく暮れました。今年も何事もなく暮れるのではないでしょうか。
 『内輪』に続きまして、五〇回到達を果たしました。『宇宙海賊』亡きあと、前途を阻むのは、もう『内輪』だけである。「みだれめも」と名乗る前から、実は「経過報告」「読書メモ」といったタイトルで載っけているので、それとあわせると『内輪』を抜いてるはずだけど、渡辺兄弟の『SFスキャナー・インデックス』でも「マガジン走査線」を省いていることもあるし、いまさらそういうことは言わないでおく。実力で『内輪』を抜くことにする。
  
【現在からの注】
『内輪』はおなじくザッタで連載されている大野万紀の雑記コラム。もともとはクリストファー・プリーストの同題の長篇を翻訳連載していたのだが、いつのまにか前書きだけになってしまった。
『宇宙海賊』はおなじくザッタで連載されていた、米村秀雄のジャック・ヴァンスの長編翻訳。未完のまま中断中。
 渡辺兄弟というのは名古屋でファン活動をしていた渡辺睦夫、英樹兄弟のこと。英樹の方は現在SFマガジンで海外SF時評を担当している。『SFスキャナー・インデックス』は、SFマガジンで65年から85年まで連載された海外SF情報コラム「SFスキャナー」で言及された全作品を発行年等の資料をつけて整理した労作である。

 で、せっかくの五〇回記念ということでもありますので、今回は、まじめに作家論をやりまする。酒井昭伸先生御推奨、「風太郎より凄いかもしれない・隆慶一郎」であります。(ぼくに本を読ますのって、ほんとうに簡単なのね。「あれはすごい!風太郎よりすごいかもしれない」って言うと、もうそれだけで走っていっちゃう。山田風太郎のところが、氷室冴子であってもいい。そのかわり、紹介したのがカスだったら、バリザンボウの嵐になる。)
 隆慶一郎ってのは、まあ、納得できる範囲の人でありました。山田風太郎が引きあいに出されるのもわかるし、ある部分では、風太郎をしのいでいる。でも、やっぱり、天才じゃあないぶん、風太郎には至らない。作品の個性としても『黒い炎の戦士』(徳間)のときの白石一郎よりも、風太郎から遠い位置にいる。『黒い炎の戦士』も風太郎というよりは、ポール・アンダースンだったのだけど。
 作者と作品世界の間に、風太郎に最も近いスタンスを獲得している作家というのは、じつは意外なことに、菊地秀行という人でないかと考えている。菊地秀行という作家は本質的に、それくらい理知的な作家であるというのが、ぼくの直感の中にある。菊地秀行と山田風太郎とを区分するのは、たとえば『戦中派不戦日記』(講談社)で見せたような風太郎の内部に蓄積された大量の旧制高校教養主義的書物の重さと、菊地があとがきその他で開陳するSF/ホラーその他の、小説/映画その他に関する大量の知識の重さが、それぞれに素材となって導き出してくる、異なるタイプの重さのちがいであるにすぎない。でも、その差って、決定的なものがある。
 ついでに言うと、田中芳樹のファンというのは、一度、彼の小説をアイザック・アシモフの「肩に力の入った」初期作品と比較することをお勧めする。たとえば「母なる地球」のような《ファウンデーション宇宙史》に含まれている作品の背後の視線は、温厚なうわっつらの裏で、けっこう、田中芳樹に近い心根を感じさせる。アシモフを見直すことになるかもしれない。
 もひとつおまけ、夢枕獏って、ぼくは、西村寿行と開高健との間に引いたラインの上に押さえてみている。だから寿行と風太郎を大衆文学の対極点に位置づけているぼくの見方からすると、夢枕獏と菊地秀行の作品をひとくくりにして平気で論評している文章は、まずそれだけで、無視していい気がしてくる。それにしても日本SF大賞を、『上弦の月を喰べる獅子』が受賞したのは、(予想はしていたものの)残念なことであった。あの作品がどうこうということではなくて、夢枕獏にはやはり『キマイラ』か『魔獣狩り』の完結で、賞を取ってほしかった。賞というもののイメージのもつ、そしてついでに最近の〈いわゆるSF〉がもつイメージの、かたくるしさ、うっとおしさを吹き払うには、ああいう作品を積極的に評価していかなきゃだめだと思うわたしであったりする。SFって、《レンズマン》と『完全な真空』が、あれもいいけど、こっちもいいよって、どっちから、どっち向いても言えるところがよかったりしているはずのもののはず。この、《どっちから、どっち向いても》っていうことが、けっこう大事だと思う。そういう意味でも、山田風太郎は、ひとりで《レンズマン》と『完全な真空』を抱えこんでた作家だったといえそうだ。そういえば、日本ファンタジー・ノヴェル大賞受賞作、酒見賢一『後宮小説』は、《風太郎》であるかもしれない大傑作。作家として、うまく育ってほしい。(しかしあの帯は、安野光雅の立派な装丁をぶちこわす、近来希にみるひどいもの。しかもステロタイプのアニメ・キャラのなさけなさ。「品のいいポルノ」として売りをかければ、相当の部数をいくと踏んでたけれど、発売十日の様子をみるかぎり、出版元にはそういう気はなさそうだ。どこの本屋も『魔術はささやく』ばっかり置いてる。この傑作をフォローしない出版社の対応は許しがたい! と、怒ると、柳下毅一郎先生に馬鹿にされそう)
 うーむ。

 隆慶一郎はどうなった!

 『吉原御免状』(新潮)☆☆☆。処女長編である。昭和六一年刊行。直木賞候補。唯一の文庫ということで、まずここからはじめた。なんと超能力が平気な顔をしてでてくる。風太郎流の忍法ではない。予知能力とかテレパシーとかいう、正真正銘の超能力である。世の中というのはいつのまにかこんなふうにいいかげんになっていたのかと驚く。
 処女作とは思えないてなれた文章なのだけど、もともとシナリオ・ライターとして一家をなしてる人らしい。「にあんちゃん」の脚本家なんていわれると、たしかにはるか昔にそういう映画の名前を聞いた記憶がある。司馬遼太郎や柴田錬三郎の原作映画のシナリオもてがけていた人らしい。
 小説は、吉原というのが、実は、中世の自由人たちによる、江戸時代において生きのびた唯一の《公界》、砦であったという設定で、かれらが生きのびることのできた背景に、家康が影武者であったという秘話をもってきて、その事実を記した書状をめぐる、吉原者と裏柳生との死闘が演じられるという話。かなり重みを感じさせる歴史小説的結構を背景に落とした、伝奇時代小説。人間技とは思えない強い連中がいっぱい出てくるのは、長所でもあり短所でもある。これで小説が軽くなる。作者のなかには、ヒーローや忍者に対する相当強い愛着があり、たぶんそれが、《往来人》《散楽》に重きを置いた、天皇制を中心にした自由主義(!)歴史観へと育っていった気がする。(ふつうは逆の解釈をするんだろうね。《往来人》を中心にした史観を形成したから、従来の歴史小説では軽視された忍びの者がクローズアップされたのだと。小説だけから読み出すと、そういう解釈をしたほうが正しいようにみえるけれども、過去の日本の時代小説における忍者物の興隆であるとか、マスメディアに関係していた経歴、さらに第一作の題材、処理の仕方なんかを足し込むと、むしろこういう逆ベクトルでおさえるほうが正しいのではないかと思う。)
 この作品には続編がある。『かくれさと苦界行』(新潮社、昭和六二年)☆☆☆。前作のあとかたづけ本である。たいしたことはない。もったいぶった箇所が増えている。星☆☆でもいいかもしれない。
 この連作は宮本武蔵の秘蔵っ子やら、天皇の落とし胤やら、いっぱいはでなおまけを連れてるれど、メインアイデアは二つである。すなわち、往来自由を夢とする自由人たちの一族の、時の体制との戦いと、徳川家康はじつは影武者で、しかも自由人の一人であったのだとするアイデア。(でも、こうしたアイデアや設定って、見覚えがけっこうあるんだね。このへんの話って、『カムイ伝』とつながるし、悪役裏柳生となると『子連れ狼』だしね。このあたりのイメージのオーヴァーラップにあまり神経質になってないのも、軽みが生む原因になっている。くりかえすけど、こうした軽みは長所でもあり短所でもある。)
 このアイデアをさらに正面きって、堂々たる歴史小説にしあげたのが、代表作といわれている大作『影武者徳川家康(上下)』(新潮社、平成元年)☆☆☆☆である。
 基本設定は(一部修正しているけれど)『吉原御免状』のなかで全部書かれている。関ヶ原の決戦前夜に家康が殺されてしまう。徳川家の安泰のため、影武者が家康になりすますことになるのだが、この影武者が、家康のそばに位置すること十有余年、家康の戦略技術をほとんど自家薬篭のものにしているすぐれもの。しかもその心の底に、出自である自由人の理想を燃やし続けているという傑物だった。かくしてこの偽家康は、短期間の心積もりであった関係者の思惑を越え、冷酷苛烈な次代将軍徳川秀忠を敵に回して、一六年の長きにわたり実権を握り続け、しかも、駿府に自由人の理想の天地、《大公界》を築こうとさえするのである。こうした秀忠との暗闘が全体のほとんど三分の二を占める。
 歴史小説の貫禄十分の大作であるのだけれど、ここでも忍びを始めとするけれんが小説を軽くしている。風魔一族を重用し、ブレーンとして、関ヶ原で死んだはずの島左近とその配下のピカ一の忍びの者をつけるなど、現業部門の従事者で国家政策の参謀スタッフを固めてしまう横紙破りが、歴史小説としての押し出しを弱めてしまった。あとから思うと、仕事のなかで、現場部門と管理部門の間における感覚の乖離にいらだった体験をもつ人間の、確信犯的配置でなかったのかという気もするのだけれど、たとえそうであったとしても、組織集団、社会関係等についての常識に照らして、作品のリアリズムが大きく犠牲にされた面は否めない。『妖説太閤記』を絶賛した背景に、従来の小説のなかで、ほとんど気づかれることのなかった社会科学的な人間関係図式に対する視線というのがあったのだけど、そういう点では、比較にならない。
 時代小説の考証趣味というのは、結局SFの論理性とはつながらないのでありますね。一見理詰めであるところ、おなじようにみえるのだけれど、結局、歴史的意外性というやつは、一般にはこう言われているけれど、ほんとはこうかもしれないといってるだけで、事実認識をひっくりかえす力はあっても、形而上的な世界認識に対する異化作用を生み出すだけの力がない。山田風太郎というのはそういうことをやってたのであるし、たとえば半村良や豊田有恒なども、そういうところをおさえていた。
 忍者や剣豪大好き人間。歴史小説を書くうえで、ほとんど致命的ともみえるこの傷が、しかし予想外の傑作を生み出すスプリングボードになるのだから、小説というのはわからない。
 『一夢庵風流記』(読売新聞社、平成元年)第二回柴田錬三郎賞受賞作。☆☆☆☆☆をやってもいい。前田利家の養子であった、八方破れのかぶき者、前田慶二郎の一代記である。最近、その一部がジャンプで漫画化されたので、そっちで知ってる人もいるかもしれない。なまじの枠におさまりきれないこの人間像を描写するのに、作者の超人趣味はところを得た感がある。並の歴史小説にない躍動感がある。とりわけ、主人公の回りに集まってくる、くせのある従者たちはなかなかのもので、ほかの作家が書いたら、まず、マンガになる。おなじ時期を扱った風太郎の『叛旗兵』(サンケイ)が一種の笑劇めいた構成を組まずに入られなかったことを思えば、この小説に突出した一面に関するかぎり、作者は風太郎をしのいだのだと、素直に評価していい。従来の歴史小説にみられなかった豪放磊落が低音部の悲哀と重なり合ってかもしだされる重厚さは、隆慶一郎という作家で初めて書き得たものだといってもいいし、作者の脱皮をはっきり印象づけてくれた。処女長編を読んだとき、この作家はもう完成されて、安心して読める反面、レベルアップはないだろうと思ったのに、作家というのはわからないものである。
 その他の作品では『鬼麿斬人剣』(新潮社、昭和六二年)が、苦しまぎれの結末がちょっとつらいところであるけれど、『一夢庵風流記』への先駆けを思わす潔さが心地よくて、評価☆☆☆☆。『柳生非情剣』(講談社、昭和六三年)はつまらない。☆。これにあと三つほど長編があるようなのだけど、この前死んじゃったので、完結してるかどうかがわからない。
 『吉原御免状』『影武者徳川家康』『一夢庵風流記』『鬼麿斬人剣』と、とりあえず、この順番でこの四冊、それだけ読めば必要十分だと思います。
◇それにしても、うちの書院のバカ・ワープロめは、「徳川」が出ない、「家康」が出ない、「豊臣」が出ない、「剣豪」が出ない。そのくせ「有恒」なんてのが一発で出てくる。なんなんだ。
◇総選挙が二月一八日に確定したようで、わたしはスケジュール調整にかなり苦しむことになりそう。もちろん、ドラクエとの調整である。なんといっても、あの楽しい選挙速報を徹夜で見ようと思ったら、二月一一日発売予定のドラクエの方をなにがなんでも一七日にはめどをつけないといけないわけで、これははっきり言って不可能な気がする。仕事もしないといけないし、佐脇洋平(※注)みたいなプロにまで勝とうとはもう思ってないけど、それでも、てらさんその他には負けたくない。勝たねばならない。やるからには、勝たねばならない。(だけど、予約をやってないのね。ちゃんと買えるのだろうか。)
 
【現在からの注 神戸在住のゲーム・デザイナー。グループSNE。震災による家屋全壊のため中断しているが、てらさん、菊池誠夫妻その他と一緒に2ヵ月に一度くらいの割合で、ボード・ゲームで遊ぶ会を開いている】

◇小説がへただ、へただ、と共通了解が成立してしまっているけれど、バリントン・ベイリーって本当に小説がへたなのだろうか。うーむ、やっぱりへたな気もする。だけど、巻頭たった六行で、ひとつの世界の時間的空間的イメージをこれだけ鮮やかに切り取ることのできる作家というのが、果たして、どれだけいるだろうか。『時間衝突』にしても『禅銃』にしても、ぼくはメイン・アイデア以上に、この人の社会構築と世界表現の才のほうがずっとすごいような気がする。『時間衝突』の出だしって、絶対に、SFにしかなりえない、名文だって思いませんか。



〈SF汎論〉への覚書
【現在からの注 またまた挿入。前年のノヴァ・マンスリイとよく似た名前のノヴァ・クォータリイ、じつはこっちが本家で、関西海外SF研究会という組織が発行していた。組織は雲散霧消したのだけれど、じつはザッタはこの会の会内個人誌として出発したという来歴がある。ノヴァ・クォータリイは、ここの機関誌で、どうせつぶれるならきちんと終刊号を出したいという編集人岡本俊弥のこけの一念で、前の号から6年ぶりで刊行された。ここに連載していたのが、この「〈SF汎論〉への覚書」。連載第4回である】



 《 S F 汎 論 》 へ の 覚 書 ・ 4
   書物という名の海、主題という名の船

 今回は短い。
 五年も前の連載の続きなんかできるわけがないのである。あいだでぼくのこだわりも、「SFについて」というところから、「SFを読むことについて」とか、「SFを読むことについて書くことについて」、さらに人から見るともっとどうでもいいようなところにずれてきている。
 そしてたぶんそいつとどっかでつながってると思うのだけど、いつからか、本を褒める、評価するということが、わりとつらくなってきた。評価するとか分析するとかいう行為って、作者であるとか作品を、たてまつってる一方で、やっぱりどっか見下しているところがあるような気がする。そういうことのできる自分って、いったい何様なんだろねってなうしろめたさがどっかで出てきた。なんて言いつつ、相変わらず、そういうことをやってるけれど。
 ただ、最近、ぼくがほんとうに、読んだ本について言いたいことって、「好きだ」「嫌いだ」の一言だけではないかという気がしている。理屈をこねずに説明できたら、それが一番なんだけどなというようなそんな思いがたしかにある。
 小説の出来不出来、すぐれているかすぐれていないか、くだらないくだらなくない、面白いつまらない、好き嫌い。この五つの判断の仕方をけっして混同しないように。面白いけど嫌いだという本もあれば、すぐれているかもしれないけれどくだらない本というのも存在するのだ。とりあえず、いま、ぼくが思いついているのは、この五つだけど、ほかの判断の仕方もあるかもしれない。ここにあがった判断の順列組み合わせをやってみて、それぞれにふさわしい作品や、こちらの気分のありかたを考えてみるだけでも結構時間がつぶせるのでないのでしょうか。もちろん今のぼくの気分としては、さっき言ったとおり、できることなら好き嫌い、あるいはそれに面白いつまらないを加味するかたちで読んだ本の記憶を積んでいくのが理想のような気がしている。単なる理想でしかないのだけれど。(しかも“正しい”理想かどうかもはっきりしない)
 さて。
 以上のようなまえふりと、主題的にはほとんど無関係、気分的にはつながりあった本論へと突入する。タイトルに偽りありで、SFがまるで登場しないのだけれども、テーマは「書物とはなにかをめぐる一考察」。
 はいります。

 答えられないない問いがある。
 答えることができない問い、あるいは答えそのものが存在しない問いというのが。
 逆に。
 問われず生じる答えはない。問いを持たない答えはない。
 では。
 答えとは、なにより、その答えをもとめた問題が存在するのを、教えてくれるところに、いちばんの存在意義があるといえないか。語られる、答えと呼ばれる中身ではなく、語らせた思いの発した一点を、指し示すものとして、存在している値打ちがあるといえないか。 だから。
 問題と呼ばれるわだかまりが、本来内包していたはずである、種々雑多の矛盾や疑問、あいまいさ、可能性といったもろもろを、かたっぱしから切り捨てて、多重多層の限定句を導入するということで、とりあえず提出された答えという名のひとつとおりの結論を、唯一無二の真実と、後生大事に抱え込む愚はなるたけ避けよう。問題に向かって遡るためのスプリング・ボード。そんな意識で答えと呼ばれる断定を、捉えていこう。どんなにぐしゃぐしゃであり、支離滅裂な、納得いかないものであっても、答えと呼ばれる存在は、その存在の在り方自体の図式のなかに、自らに対する正当性と、その正当意識に起因する、外部に向けた暴力性とを兼ね備えている。問題と呼ばれる存在が、存在自体に、自らに対するある種のうしろめたさと自信のなさを抱え込むのと対照的に。
 問題↓答えのメタモルフォセスは、あるいは問いの、アイデンティティイ獲得をもとめる自己運動でもあるのだろう。
 だから答えという存在を信用しないこと。答えを真理と決めつけないこと。答えは単なるひとつの指標にすぎない。
 指標(ガイドライン)は、参考資料と見下しているかぎり、有用便利な下僕である。けれども、いったんそこに寄りかかったとき、それはこちらの一挙一動を規制し、支配する暴君へと変貌する。だいたいこのぼく自身、どんなに多くの答えを受け入れ、身動きかなわず、がんじがらめに縛りつけられていることか。早い話が、いまここで開陳している内容自体、ぼくを今、縛りあげてる答えとよばれる存在の、とりわけでかい一群の、居丈高な吠え声以外のなにものでもない。
 さて。
 第二段。
 答えが問題のためにあるなら、問題はなんのためにあるのか。
 問題もまた別の何かを指し示すものとして、存在に値打ちを持つものなのではないか。 では。
 そこで指し示されるものは何か。
 《場》ではないかというのがぼくの、今の、とりあえずの答え。(うーむ。この文脈のなかで“答え”とか“問題”とかの単語を使うと、自分の頭ん中がぐじゃぐじゃになってくる。)
 問題を生み出した領域、問題が存在していた場所。そういうものを逆照射する存在として、問題は意味をもっているのでないか。
 答えが問題なくして存在しえないように、問題もまた無から生じることはできない。そして何かから生じたものは、常に何かの外部に向けた端末であるといえないか。ぼくらは、端末を経由することなしに、なにかにたどりつくことは、けっしてできないのではないのだろうか。
 もちろん。
 こういう展開をすれば、次の設問は決まっている。
 《場》もまた、何かを指し示すもの、何かより生じたものなのではないのか。
 たぶん。
 そうでもあり、そうではない。
 《場》というものに何かに向けて遡行しうる出自に類するものはない。問題の自己運動として把握可能な、問いと答えのあいだのような関係は、《場》と問題のあいだにはない。そういう意味では、《場》には運動性がない。ただあるだけの存在であるといえないか。しかしにもかかわらず、場》というものも、なにかの一部としてある存在であるといえないか。
 《場》というものは、本来は、存在していなかった存在なのではないのだろうか。(うーむ。わけがわからないことを言い出した)
 つまり。
 《場》は問題という存在を通じて、逆照射されてはじめて、その光の輪の中に照らし出され、照らし出された光の輪により区切られて、出現する存在なのではないのだろうか。もしも、そういう問題が生じなければ、けっして存在しなかった存在なのではなかろうか。 では。
 《場》とはなんなのか。
 逆照射された光の輪の中に浮かび上がってくるものと、ぼくは《場》を規定した。
 それなら。
 《場》の周囲に広がっているもの、それはいったいなんなのか。
 世界。
 それが世界なのではないのだろうか。世界とはそういうものではないのだろうか。
 そして《場》というものは、世界の断片なのだといえないか。
 世界は、全体である。すべてであるところのもの。
 そういうものを、ぼくらは直接認識することはできない。
 ぼくらもまた、世界に含まれ、世界の一部である存在であるのだから。
 けれども、ぼくらは問題を通じて《場》にたどりつくことはできる。多重多層の《場》の位置をぼくらはつかんだ気になることで、数かぎりない《場》の相互の位置関係、構成図を想定する作業を通じて、世界に対するゲシュタルト的認識がはじめて成立していくのではないのだろうか。
 そして。
 ぼくらにとってもっとも切実な欲求というのは、答えを得ることでもなければ問いをみつけることでもない、さらには《場》にたどりつくことでもなくて、ほかならぬ、世界という存在を認知すること、認知された世界の中で、自分という存在の位置づけられる《場》をみつけだすこと、そういうことではないのだろうか。
 さて。
 書物である。
 書物もまた、世界の模像である以上、同じ仕組みが組み込まれているといえないか。
 否。
 むしろ。
 模像であれば、それだけに、世界を再構成する必要上、そういう仕組みが美学的要請であるとか文学的方法論というような細分化されたルールのかたちで種々様々に、人為的無意識的にに組み込まれてきたのでないか。
 ばらしてしまえば、ここに書いてきたような、問いや答えや世界についての在り方は、世の中での暮らしのなかから引き出してきた結論ではない。本を読む、書評をするといった行為の積み重ねのなか、小説とはなにかといったかたちで身についてきた実感が、一般的世界へと敷延された結論である。それゆえ、書いてきたことは、この世としての世界以上に、書物という名の世界に対して、ぼくのなかでは、より確固たる妥当性をもっている。 たとえば、同じ問題を論じている二つの小説を、結論が正反対であるというだけで片方を評価し、片方をけなすというような、なさけないまねはやめたい。同じ問題意識から同じこだわりから発したものであるのなら、結論にいたる深さに差がないときには《小説として》評価していくうえからいけば、同じ値打ちをもっている。そして機械的にいってしまうと、小説は、答えを伝えようとするものは四流であり、問題意識を伝えるものは三流品、問題意識の背後にある場の存在に比重をおけば二流になって、そうした作業の積み重ねから小説世界の全体性をうかびあがらす意図をしてはじめて一流の作品になるともいえないか。
 そこには作家の資質というのもけっこう大きく作用している。すぐれた作家というのは本能的にそういうことを知ってる作家なのではないか。そういう作家の小説は、本人が意識的には単純な、結論のみを伝える小説を書いてるつもりであったりしても、意外と世界の実相に肉薄していく部分というのがあるようなそんな気がする。
 さて。
 というわけで、副題の解題である。
 書物というひとつの世界を渡っていくとき、ぼくらがしがみつく対象はやはりテーマと呼ぶものだろう。
 けれども、テーマを読み取ることが、小説を読むということなのではけっしてないと思うのだ。書物という海を、手掛かりなしで泳ぎ切ることなどできないからこそ、ぼくらは主題という船に乗り、結論と大団円という目的地に向け、海路を行く。そのとき主題を海に分け入り、海の上に航跡(ストーリー)を描く。そのとき、ぼくらは、主題が切り裂いた航跡を見入ることで、普段はただたゆとうているだけの海の内部に、はじめて触れた気分を味わえるのだ。
 テーマという名の船に見入れば、それなりに堅牢華麗な人工物を楽しむことは可能だろう。けれども、そちらに気をとられると、肝心要の海との出会いが抜け落ちる。そういう危険の認識を、本に向けた視線の一部に残しておきたい。



■どらくえにっき
 一月7日 例会に行く。大阪ではどらくえの予約はほとんどとれないとの話。あっちこっちで抱き合せ商法をみかけたという。前回、社会問題になったことでもあるし、今度はあんなひどいことにはならいような気がするが。
 一月十日 加古川そごうに行く。別にどうということもなく予約できる。2という番号がついている。どうやら、二人目の予約らしい。だけど全額先払いさせられる。消費税込み八七七五円。高い。
 一月一四日 例会に行く。予約券をみせびらかす。大野万紀が逆上する。
 一月一八日 新聞でどらくえ抱き合せ商法が大きく掲載される。古沢嘉通から電話。どらくえを買ってくれいとのこと。
 一月一九日 そごうに行く。どらくえを買う。まだ整理番号は98番。それほどすごくない気がするのだが。
 一月二〇日 佐脇洋平・細美遥子邸にてゲームの夕べ。佐脇はまだどらくえを確保していない。当日手に入れることにはそれほど必死になってない様子。よしよし。
 一月二八日 例会に行く。岡本俊弥が来ている。ノヴァ・クォータリイが出来たという。その完成記念パーテイを二月十日、十一日の泊りがけで、奈良の岡本邸で開くという。この野郎はいったいなにを考えとるのか。十一日といえばどらくえの発売日ではないか。ばかもの。
 二月四日 どらくえ発売一週間前。例会に行く。わたしも覚悟を決めた。岡本邸に行って、エンパイア・ビルダーをやる! それから十一日の朝、一番電車で家に帰ってどらくえを買い、一遊びしてからその成果をひっさげて、例会に行く。
 そう決意を固める。細美遥子から翻訳勉強会(東京)が二月十五日に開かれるとの連絡をもらう。行けるか、ばかやろう。しかし、これで大森望も脱落である。よしよし。それから、じんきち(京大SF研OB)の結婚式の二次会が十一日にあるらしい。うーむ。ホテルでの二次会ってちゃんとした服着ないとだめだろうしなあ。やめ。だけど、これで、佐脇(京大SF研OB)のスケジュールは完全につまった。よしよし。
 二月五日 しかし、大森先生はどらくえと勉強会とをどう調整するつもりだろう? 東京方面の入手状況についても調査をしよう。だれも手に入れてなかったら、楽しいしね…
 大森邸に電話を入れる。返ってきた答え。
「へっへっへ。もう、おわっちゃったよ。斎藤芳子(大森望・妻)がどらくえ公式ガイドブックの仕事をうけちゃってねえ。もう一月中に、二回もやっちゃった。へっへっへ。全部ビデオにとってるから、送ったげようか?へっへっへ。」
 ‥‥‥
 ばかやろう。あんなやつ、だいっきらいだ。くやしいから大野万紀にも教えてやろう。



 隆慶一郎について、もうすこしきっちりおさえておこうと、(こういうことをやるから読む本が増えてしまう)、かの有名な五味康祐『柳生武芸帳』(新潮文庫)に手を出したら、いまさらという気もいたしますが、じつになかなかの大当り。隆慶一郎は相当に、この作家を意識しながら小説作りをしてきております。漢字だらけ、四百五十ページの三巻本で、なおかつ未完の大作だけど、人間関係図式がはっきりいってめちゃくちゃ。上巻本の最後のへんで、ついにわけがわからなくなった。予定調和に収束していくストーリーというのは、大衆小説たるものの、忘れちゃならない大原則と思っていたけど、どうもそうではないらしい。読んでる最中がおもしろければ、小説なんて終わらなくてもかまわないというものらしい。それにしても図式がわからないうえ、主人公がわからないから、小説の遠近感がなかなかつかめない。読めない漢字、わからない熟語はいっぱい出てくるし、こんな本がたくさん売れたのだから、昔の大衆小説の読者というのはえらかった。ほんとうにえらかったのだ。山田風太郎とは、またちがった天才である。風太郎や五味康祐とくらべたら、隆慶一郎ってやっぱり現代風でひと回り小粒でございますよ、酒井先生。このまま五味康祐から柴練へなんて走って、伝奇時代小説のパースペクティヴをおさえようなどと考えると、やばいことになりそうだなあ。と、腰が引ける水鏡子でした。
 PS. 『柳生武芸帳』って、もしかしたら『デューン』と似ているかもしれない。

 開高健『花終る闇』(新潮)に失望している。こういうタイプの話であるなら、ラッセル・ホーバン『それぞれの海へ』(評論社)なんかの方がずっといい。仕上がらなかった話をけなしてみてもしかたがないかもしれないけれど、ほんとうに、この程度の作家だったのだろうかという気がしてきている。ぼくの文体って、かなりの部分をこの人を読みこむことで作っていったものなのだ。『ロマネコンティ・一九三五年』(文春)の堪能を最後に、エッセイ書きにそれてしまったこの人の小説世界というものとほとんど絶縁してきていたのだけれど、それでも『闇』三部作の最後を締める『花終る闇』だけは、もう書けないんじゃあないだろうかと思いつつ、ずっと待ち続けてきたのである。『夏の闇』で至福の時間を味わったのが、ぼくのSF観のじつは重要な一要素を成していたりする。今になって気づいたのだけど、ぼくのジェイムズ・ティプトリー・ジュニアへの傾倒も、SFからもっとも遠い存在と仮想していた『夏の闇』という作品のような濃密な小説空間が、SFというフィールドのなかでも再現可能であるのだと、眼前につきつけられた、そんな奇跡のような作家作品に出会ったという、そういう衝撃だったようなのだ。この失望を埋め合わす唯一確かな方法は、『夏の闇』を読み返すことであるのだけれど、結果が凶と出るのがこわい。せっかくの至福の時間の記憶というのが、若読みのなせる業だったということなどになったりしたら、それこそ無残このうえない。いまのぼくには開高健を読み返すのはこわくてできない。
 それはそうと前の号で大野万紀が、ぼくのドラクエ電話がうっとおしい、とほざいているが、気が狂うのがわかっているから、ファミコンを、あえて買わずに我慢していた人間に、ツインファミコンを買ったからもういらなくなったと、古いファミコンをうれしそうに押しつけたのは、いったいだれだったのでしょうかね。これを自業自得と申すのです。



●続・どらくえにっき
 一月十日 「エンパイア・ビルダー」の箱を抱えて奈良・岡本俊弥邸に着く。山んなかの高層住宅群で道に迷う。到着午後六時。結局、「悪の帝国」に負けて、「エンパイア・ビルダー」は開けず。「悪の帝国」を十一日の朝、五時までやる。八時に帰ると宣言して寝る。
 一月十一日 結局、起きたのは九時すぎ。電車を乗り継ぎ、帰りついたのは十二時前だった。
 どらくえをはじめる。頭がぼんやりしている。午後一時佐脇洋平からTEL。第一章終了とのこと。二時間半でおわったという。うーむ、こちらは反応がにぶっているせいか、三時間くらいになりそう。午後七時までどらくえ。例会に出ていく。古沢嘉通にどらくえを渡す。かおる先生は外商ルートで一日早く入手したとのこと。大野万紀の顔がみえない。きてないということは、どうやら手にいれたということらしい。家に帰ってどらくえをやる。
 一月十二日 未明。第三章がおわったところで、佐脇洋平にTEL。第五章に突入したという。むむ。やばい引き離されかたである。あいつは初日に入手できないはずではなかったのか。だけどこれからスキーなのだという。そうかそうか。のんびり楽しんできなさい。
 午後大森望からTEL。川又千秋が裏ルートで発売前にどらくえを手に入れ、みせびらかしに箱をファックスして送りつけてきたとのこと。当然即座に返事の電話をいれて逆上させたとのこと。進行状況を聞かれてルビーの涙の受け皿と黄金の腕環の謎でうろうろしているあたりというと、言わんでもいいことをどんどんしゃべりだす。古沢嘉通、大野万紀、竹村かおる邸へTEL。古沢はのんびりやるよ、という返事。かおる先生はすでに射程圏にはいった。大野万紀は手にいれてなかった。日曜は風邪で寝こんでいたらしい。
 一月十三日 天空セットをそろえたところで次にやるべき指示がでない。なにをしたらいいのかわからなくなって、しばらくカジノで遊ぶ。すこしだれてきたので大森電話をする。言わんでもいいことをいっぱいしゃべられる。最後の戦いを前に、とりあえず寝る。仕事だってあるんだい。
 一月十四日 進むのをやめてカジノで遊んでいると、古沢嘉通からTEL。おわったよ、とのこと。気のない返事をしておって、あやつ、たばかりおった。しゃあないわなあ。ポーカーを五時間くらいやってるもんなあ。大野万紀先生に電話したら、とっても機嫌が悪かったとのこと。あたりまえでしょうが。どらくえ終了。
 一月十五日 再履修開始。 具体的な分析を書きたいけど、かなり本気で逆上する人がいそうなので、黙っとこう。



◆SFセミナーちらし
 
【現在からの注 ひさかたぶりで、SFセミナーの雛壇側に座ることになり、プログラム・ブックに雑文を書いた。
 セミナーの発表内容は、〈SFという暴力−『宇宙船ビーグル号の冒険』を基礎に〉とかいったようなタイトル。『乱れ殺法 SF控』の第一章である】


 ◇〈制度〉ということば    

 「十年一日、馬鹿のひとつおぼえで〈制度としてのSF〉をワン・パターンにふりかざしてきた」と、まきしんじ事務局長にのたまわれた。あの案内文は翻訳するとそういう意味です。
 〈制度〉というのは、ぼくの多用するタームでないけど、たぶんぼくにかぎらず、ぼくらの世代の人間には、世界に切り目をいれる刃物として、とてもよく指になじむ感触がある。裏タームとしてけっこう決まってしまう言葉であって、わ、たった八文字で、ぼくの立場がまとめられてしまった、ぼくの立場というのは、たった八文字でかたづいちまうちゃちなものであったのだなあと、憮然としたりしているのである。
 だからまず、言い訳程度にこの八文字をそこそこひきのばしてみることにする。たぶん、ぼくのSF理解の方法は、おなじ〈制度とSF〉というくくりかたをすることのできる、三つくらいのちがうレベルの問題が、たがいにいれこになって、こんぐらがって組み立てられてる気がしている。
 まずは、社会的、文化的制度の枠組みのなかで存在しているもの、つまり〈制度内存在〉としてのSF。第二に、エスタブリッシュメントとしてのSFという言いまわしでよく言ってきたことだけれど、集団的文化的枠組みとして、成員の意識を規定していく、もの、つまり総体としてみずからが自立し、生成変化をくりかえす〈制度的存在〉としてのSF、そして最後に、科学のことばに代表される制度的思考を創作技法に組みこんだ小説ジャンルとしてのSF、と、この三つに区分けできそうに思えたりしている。
 さらに、これらのどのレベルにおいても、作者/作家/作品が直面する最大の問題にして、最大のテーマとなるのは、いずれの場合においても、規定してこようとする制度的枠組みに縛られつつ、いかにして個が自由と裁量を確保することができるかということではないか、つまりは〈反制度的自立〉の問題ではないのかなどと思えたりして、ただでさえ論理的とはいえない頭がぐじゃぐじゃになり、ぐじゃぐじゃのまま硬直し、ドグマ化してしまっているのがここ数年のかわりばえしないぼくの結論部分である。
 うーむ。
 しかし、〈制度〉ということばに、今、いったいどれだけの共通了解性があるのでしょうね、まきしんじ事務局長。ぼくらなんか、ほとんど準日常語の感覚で使っているのであるけれど、そういう了解性って、最近の雑誌やなんかの誌面を思い浮かべても、昔にくらべて、そうとう落ちてる気がする。
 そういうわけで、とりあえず、〈制度〉というタームの説明をひっぱってきてこの文章のスペースを埋めてしまおう。わたしもらくができるというもの。
 なにかてきとうにみつくろって、ということで、ぱらぱらめくっていると理想的な説明がみつかった。ちょっと長めであるので、こっちのつごうのいいようにかるくはしょって引用する。

【制度 institution
 一般に、「設立」や「制定」の行為を表わす場合と、「設立されたもの」「制定されたもの」を表わす場合とがある。すなわち、一方では〈制度〉は、あるときに作られた、しかし作られないこともありえた「偶発的な」性格をもつものとされ、他方では「永続性」と「安定性」をもったものとしてとらえられる。そして、ここからさらに〈制度〉はとくに〈自然〉との関係において次のような二つの相反する方向の意味をもつことになる。
 まず第1に〈制度〉は〈自然〉に対立するものとして、つまり、人間の積極的な意思的決定あるいはとりきめによるものとしてとらえられる。反〈自然〉的存在としての制度の把握である。
 第2の立場では、〈制度〉はむしろ〈自然〉のアナロジーにおいてとらえられる。〈制度〉は人間の単なる恣意的な意思によって存在させられるものではなく、自立的に持続するものとしてとらえられる。
 こうして〈制度〉は、人間により「設立され」「制定され」たという意味で、〈自然〉に対立するものであるとともに、「第2の自然」でもあるという一見相矛盾した二つの側面をもつところに、さらに固有の存在次元、存在構造と問題を含んでいる。
 すなわち、人間による物質的生産が高まると、そこに生産された諸物は、強く人間的「意味」を帯びるだけでなく、それ自身人間の、とくに社会生活のうちに大きく介入することになり、その介在なしに社会生活は営めなくなる。
 そしてさらに、そのとき、人間相互の関係は直接的なコミュニケーションを失って間接的なものになり、意思の疎通も欠きやすくなるから、社会生活の合理的な運営が要求され、ここに社会関係そのものが客観化されなければならなくなる。
 こうして客観化、客体化された社会関係、つまり〈制度的現実〉は、これまた人間によってつくりだされたものであるが、まさに「客観化」「客体化」されたものであることによって、人間から独立した客観的実在、いわば「第2の自然」として、その固有の法則と論理とをもつことになる。それは、人間によってつくられ、役だたせられるかぎり、人間の統御と支配のもとにあるが、そのもつ固有の法則と論理が自己展開し、人間の統御と支配がそれに及びえなくなるとき、疎遠な、拘束的な力として、つまり「疎外態」として働くようになる。それというのも、〈制度的現実〉は「擬制的」なものでありながら、物理的な力にも似たリアルな強制力と意味とをもつからである。
 こうして〈制度〉は、「物質性」や「メカニズム性」と結びつく、その「実定化」が人間の「能動的」「意思的」行為の所産であり、その「意思」による定立は「意思自身」の「外在化」「客体化」であるという点で「疎外的客体性」というべきものである】

 出典は講談社現代新書『現代哲学辞典』、筆者は中村雄二郎です。はしょりかたが悪くて内容がねじまがってたら、ぼくの責任です。だいたい、こういうことがぼくの言いたいことだと考えてください。ぼくの場合、客体化された思考形式をぜんぶひっくるめて〈制度的思考〉ということにしてしまっているから、ここで書かれていることより、もっと範囲が広くなる。ただし、そういう言葉で指摘している問題点は、つまりはここで書かれているようなそういうことであります。
 このような〈制度〉概念とその延長上に位置する〈疎外的客体性〉の認識がアメリカ大衆文化の日常性に浸透してきた時代こそ、1940年代から50年代という時代であります。そうした風景の中から、文学的結実としてサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』やノーマン・メイラー『裸者と死者』、ジャック・ケルアック『路上』のような作品が、リースマン『孤独な群衆』、ミルズ『パワー・エリート』といった社会学的名作が生まれてくることになる。こんなかで読んでいるのが『ライ麦畑』だけだったりする。困ったものだ。
 そのなかでSFは、日常性を制度的思考で切り刻む〈暴力性〉の快感をみずからの娯楽性の根底に据えつけてきた出自から、他の文学ジャンルをしのぐ先進性(さらに同時に弱点)を発揮し、〈制度〉をめぐる感触を楽しむ話を量産していく。
 SFと〈制度〉をめぐるかかわりは、単純化して、次のように図式化できるかもしれない。
1、制度的思考のもつ暴力的な快楽に無批判に酔い痴れていた時代。(40年代)
2、〈制度〉の疎外的客体性が意識され出した時代。(50年代)
3、反〈制度〉として、個人のライフ・スタイルに注目した時代。(60年代)
4、反〈制度〉としての〈制度〉的思考を模索した時代。(70年代)
5、〈制度〉を小説的主題からとりはずしてみた時代。(80年代)
 あんまり、本気でとらないでね。今、唐突に、思いついた、いいかげんな図式だから。時間つぶしのたたき台として楽しんでください。
 セミナーではこういう部分はほとんどふれない予定です。この小文でずうっと書いてきたSFのもつ〈暴力性〉というところについて、すこしくわしくのべてみようかなと思っているのでありますが、もちろん予定は未定、決定ではありませんので、どうなりますやら。



■どらくえ騒ぎもあっという間に、ほんとうにあっという間に終わってしまって、いまはのんびり『女神転生2』『FF3』を待つ毎日。『ウイザードリー3』は買う気はない。てらさんあたりからいずれはまわってくることでしょう。すこーし悩んでいるのは、『女神転生2』の前に『サンサーラ・ナーガ』に手をだすかどうか(押井守が噛んでるらしい・評判がかんばしくない)と、『FF3』の発売日がセミナー/東京・最長の場合九日間の旅と完全に重なること。うーむ。ほかに悩みはないのだろうか。
□リストはいいかげんなものでいいというのは、ほかでも書いたことがある、ぼくの基本的な立場だけれど、ここまでいいかげんなリストだと、さすがのぼくも腹が立つ。
 『年表アメリカ文学史』荒竹書店。昭和六三年六月発行。定価二〇〇〇円。消費税六〇円。というのを買った。すごく、怒った。
 アメリカ作家のビブリオを生年月日順に並べて、翻訳作品についての書名を記した芸のない本である。生年月日順よりは、処女作刊行年順のほうがいいんでないかい、なんて高級な文句をいう気にもなれない、調査の杜撰なひどいリスト本である。たとえば、ジョン・アーヴィングの項をみると、『サイダーハウス・ルール』の翻訳書の記載はあるけど、それ以前に邦訳のある THE 158-POUND MARRAGE は未訳あつかい。なにより、THE HOTEL NEW HAMPSHIRE という作品が抜け落ちてるのが致命的。
 トマス・ピンチョンの『ロット49の叫び』という本は、昭和五四年にサンリオSF文庫で出たあと、昭和六〇年に志村正雄という人の訳でサンリオ文庫で出なおしているらしい。カート・ヴォネガット・ジュニアという人の、昭和六二年までの未訳作品には、WELCOME TO THE MONKEY HOUSE , HAPPY BIRTHDAY,WANDA JUNE , BREAKFAST OF CHANPIONS , JAILBIRD , DEADEYE DICK などがある。そのくせ、飛田茂雄訳の『パームサンデー』『ヴォネガット大いに語る』はきちんと載っているところなど、いかにも英米文学業界本風であります。だけど、こうやっていっぱい未訳あつかいされるのと、伊藤典夫訳『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』、池沢夏樹訳『スラプスティック』と記載されているのとでは、どっちがよけい腹がたちますか、浅倉さん?
 ほかにも、翻訳作品がひとつもわからなかった作家としてROSS MACDONALD,RAY BRADBURY,WALKER PERCY,CHESTER HIMESといった名前がみつかる。
 まあ、そのあたりは、作成者の無知を嗤い、業界がずれるとこんなにも常識に欠けるものかと感動しておいたらいいのだけれど、リスト作成趣味の人間として許しがたいのは、翻訳があることがわかったものの、どの作品が原典かわからないからと、ちゃんと調べず、ビブリオの末尾に羅列してよしとする態度である。日本で発行されてる本が、たとえば全集形式であったり、短篇集の内容を組み換えたりしたものであるなら、それもある程度は当然のやむをえないことともいえるけど、わかりません、最後に書いときます、などというのは論外このうえない。百歩譲ってみたところで、はしがきその他で、一言努力が足りませんでした、不完全なリストです、と誤っとくのが筋だろう。それを欠陥部分に口をぬぐって自画自賛する態度は、もはや人間性の問題だといえる。そういう手抜きをやるから、ジョン・ガードナーの翻訳書に『裏切りのノストラダムス』や『ゴルゴダの迷路』を載せる知ったかぶりをやらかすのである。
□だいたいに、おえらい文学関係の出版物には読者を馬鹿にし、ふんぞりかえった連中がごろごろしている。そういう連中の本を読んで、そいつらの無知蒙昧をあざわらっているこっちもあんまりいい性格とはいえないが、いわれたってしかたがない本ってえのがけっこうあるのだ。イーハブ・ハッサンの『現代アメリカ文学序説』(昭和五一年・北星堂書店、待鳥又喜・船津辰巳・野田寿共訳)というのも、訳のすさまじいことで昔から有名だった本らしい。ぼくは知らなかったのだけど、古本市でたまたまみつけたこの本がSFに言及していたものだから、つい拾い読みをしてしまい、あまりの訳に仰天し、思わず買いこんでしまった。ウィリアム・バラーズ、ヒューゴー・ジャーンズバックという作家を御存知でしょうか。「おどろくべき物語」「すごい物語」「銀河科学小説」という雑誌の名前もなかなかですが、さて、次の作品はいったいだれが書いた、ものでしょう。『新急行』『タイタンの魔女たち』『空の小石』『星船の軍隊』『挿絵人間』『礎』。
 最初、ここだけ読んだものだから、十五年も前の本だし、SFを馬鹿にしているからこういうことを平気でやれるんだろうと思ったのだけど、どうやらそういうわけでもないらしい。全編いたるところに嗤いがちりばめられている。ハーバート・マーキューズというのが、マルクーゼだとわかるのにはしばらくかかった。だけどアルヴィン・タッフラー、コンラッド・ローレンス、ボルジェズ、バーテルムあたりはすぐにだれだかわかったぞ。
 あっちこっちに、意味不明の文章はあったけれども、商業出版のレベルじゃないよなと、決定的に思ったのが、つぎの文章。
〈しかしこの時代がその喪失の誓約を見出すのはサリンジャーが書いた只一篇の小説『ライ麦畑で捕える人』においてである〉
 ちなみに『ライ麦畑でつかまえて』が日本で出たのはこの本の出る十年前のことである。
 言ってる意味がぜんぜんわからないのだね。だって、この文章の前まで、ずうっと『九つの物語』のことが書いてあるのだ。数秒たって、やっと、そうかこいつは NOVELを「小説」と訳したのか、と気がついた。馬鹿、すこしは日本語を勉強しろ。
 他にも、カポーティ作『冷然として』、ナボコフ『ロリッタ』、バース『道路の末端』、ライト『土着の息子』、ケロアック『旅へ』、ドンレヴィ『しょうが男』なんてところが、ぼくの選んだベスト。
 と、こう書いてると、怒っているみたいにみえるけど、じつはむしろ楽しんでいる。馬鹿はかわいい。ふんぞりかえった馬鹿はとくにかわいい。ただし自分に係わってこないかぎりは。
 それどころか、ちゃんとした訳の本だったら、途中で退屈して飽きてしまっていたような気がする。訳があまりに楽しいから、こっちも気楽に、構えることなく本に向かい、意味不明の文脈さえも、著者が難解なご高説をのたまっているわけでなく、どうせ訳者が馬鹿なだけ、と楽な気分で読みこんで、ふつうのこの手の本よりもけっこう印象深く読めてしまった気がするのである。
 そういうことを思ってしまうと、逆も当然成り立ってくる。立派な装丁とか、格調高い、すきのない翻訳とかいう代物は、文句のつけようはないのだろうけど、そのぶん読者を気圧する。本を読むという作業にいらぬプレッシャーをかけているのでなかろうか。読まずに積んでる高価なハードカバーの山なみを横目で見ながら、そういうことに思いを馳せるわたしであります。なんでウンベルト・エーコの『薔薇の名前』がベストセラーになれるのか、わたしゃわからん。
 とはいうものの、訳のひどさは置いとくとして、この本なかなかいい本でありまして、とくに第一章の総論三十ページが役にたつ。いわゆる五十年代SFのバックグラウンドを形成する文学がらみの文化状況がてぎわよくまとめられている。こういうものを読むとどうしてフィリップ・K・ディックのような作家が育ってきたかわかるような気がしてくるけれど、そう短絡するのはもちろんまちがい。もしもそうした因果関係が正しいものであるのなら、ディックは何十人も生まれてきていたはずだから。



●ファンタスティック・レビュー 1
 〈ニュー・バーサーカー〉シリーズ
  『情報部員ジョン・D』『セルヴェの赤い太陽』
          ポール・アンダースン&フレッド・セイバーヘーゲン
          &グレッグ・ベア

 五〇年代作家ポール・アンダースン、六〇年代作家フレッド・セイバーヘーゲン、八〇年代作家グレッグ・ベア。いずれも、すぐれもののB級作家の代表格といっていい三人である。この三人が顔を並べた豪華な共作本ということになっているが、最終的にはグレッグ・ベア一人の手でまとめられた気配がある。連作短篇集である『情報部員ジョン・D』には、セイバーヘーゲンが構想を受け持ったと思われる話が二つほどあるが、小説世界の雰囲気を一本化するため、すべてベアがアンカーとなって書きなおしているようなのだ。セイバーヘーゲンという人は、歴史感覚に欠けるのと、大衆小説の約束ごとを小馬鹿にしているところがあって、それが、せっかくの才気を生かしきれず、大成できない原因になっているとみているのだが、そうした彼特有の臭みが本書からまるっきり姿を消している。作家のプライドを重んじるアチラの出版風土からすると、かなりとんでもないことみたいな気がするのだが、それを可能にしたのは、この三人の世代格差と、アンダースン、ベアの(義理の)親子関係なのだろう。たぶん、まちがいない。

 広大な銀河に覇をとなえた〈地球帝国〉。だが、いまやその文化は爛熟をきわめていた。風紀はデカダンに流れ、かって雄々しく宇宙にとびだしていった人類の子孫たちは、日々の享楽にうつつをぬかす毎日をくりかえしていた。政治は汚濁にまみれ、軍隊はその肥大した戦力を実戦に使ったこともなく、人々はすでに何世紀にも及ぶ〈世紀末〉を楽しんでいた。
 だが、この怠堕で老いた帝国文化と、端から端まで旅行するのに光速宇宙船で一年以上かかる広大な版図こそが、巨大帝国の最大の武器であった。辺境地域で蜂起した敵対種族は、この強欲でしたたかなモラルのかけらも感じられない文化を前に、侵攻の成果をあげるいとまもなく汚濁のなかにのみこまれ、新たな人類世界の版図に組みこまれるのを常としていた。このことは施政者たちの間では、公然の秘密として知れわたり、かれらはみずからの文化的正当性を信じ、ますますデカダンを宇宙にはびこらせることに精を出していた。
 だが、かれら支配階級さえ知らされてなかった秘密があった。かれらが栄華を維持しつづけた背後には、こうした文化的武器をひそやかに、かつ積極的に行使して、敵対種族を篭絡し、内戦の危機を鎮め、国家組織のほころびを修復し、帝国の人的資源、物的資源の消耗を最小限にくいとめてきた、強力な組織があったのである。その名は〈帝国情報部〉。帝国の、官僚組織の一部局として、堂々と明記されているこの集団の真の力を知るものは、帝国広しといえど、〈情報部〉自身、それもトップ・クラスの幹部たちだけだった。
 だが、現在の帝国には、その帝国情報部のなかでさえ、数十名の人間しか知らされていない敵がいる。そういう敵が存在していることさえも、情報部の外部に洩らすことのできない敵。彼らの最大の武器である文化戦略の通用しない、やっかいこのうえない敵。
 それが〈バーサーカー〉だった。

 かって、まだ帝国が若かりし時代、帝国の戦闘力がもっとも旺盛だった時代、人類はバーサーカーに遭遇した。
 はるかなむかし、すでに滅び去った異星種族の星間帝国が建造した自動要塞の大集団。生きとし生けるものすべてを破壊しつくすことを至上目的とする殺戮機械たち。かれらは数千年、数万年にもわたる歳月、宇宙をさまよい、生命の抹殺をつづけてきた。だが、日の出の勢いにあった人類は、多大の犠牲を払いながら、一歩もひかず、バーサーカーたちと戦い、ついにはかれらの主力部隊を殲滅し、掃討することに成功した。
 バーサーカーたちは、銀河の深淵のかなたへと撤退していった。傷ついたボディを修復し、激減した戦力を立てなおし、いつかふたたび地球帝国に侵攻する日を夢見ながら。
 辺境地域の不穏な動きをさぐっているうち、〈地球帝国情報部〉は長い歳月を経て、バーサーカーたちがあらたな地球帝国侵攻の動きをみせはじめたのを察知したのである。かれらは力押しに攻めて、手痛い打撃をうけた前回の侵攻に懲り、潜行部隊を派遣して、各地でひそかにかれらの拠点を築きあげる作業をすでに何十年も前から開始していた。潜行部隊の拠点づくりが一段落したとき、銀河の深淵のかなたから、バーサーカーの本隊が姿をあらわし、地球帝国は一撃のもとに葬りさられることになるのだ。
 〈地球帝国情報部〉はその事実を表沙汰にすることができなかった。なぜならかれらバーサーカーには、施政者たちが信頼している帝国最大の武器、デカダン文化による同化戦略が意味をなさないのである。しかも軍も警察も、かれらに対抗できる機能を備えていないのだ。へたにこの事実が発覚すれば、それだけで、帝国はパニックを起こして、自壊するおそれさえあった。かくして、帝国情報部の孤独な戦いが開始される。バーサーカーの本格的な侵攻に備えて、国家と軍の組織を当人たちに気づかれることなく立てなおし、その一方、〈草〉とよばれるバーサーカーの先遣ゲリラ部隊をねこそぎ、かつ秘密裏に破壊すること。止むことのない戦いがはじまったのである。
 『情報部員ジョン・D』は、地球帝国情報部きっての〈草〉刈り名人、ギター弾きのジョンを主人公にした連作短篇集である。名前からもわかるように、マンリイ・ウェイド・ウェルマン『悪魔なんかこわくない』(国書刊行会)のキャラクターを重ねあわせにしている。
 第一話は〈草〉を主人公にした作品。読者には主人公の正体がふせられている。中世風の辺境惑星を舞台にして、領主制を打破して、よりすばらしい社会をつくろうとしている(かにみえる)主人公のもくろみが、悪徳領主に雇われた流れ者のギター弾きによって妨げられるというプロットで、正義の味方と悪人とが最後の最後でひっくりかえるどんでん返しがきもちいい。この作品がグレッグ・ベア一人の名前で雑誌に発表されたときは、まさかバーサーカー・シリーズだとは最後の最後まで思ってなかった読者たちから、絶賛された。評判もよくて、ヒューゴー賞にもノミネートされた。
 ただ、しかたがないんだけれどもねえ。こういう連作短篇集になってしまうと、その結末の驚きというのがとんでしまうのだ。この作品が契機となって、このシリーズが生まれたというのはよくわかるし、出来のいい中篇だし、ジョン初登場のかっこよさからいっても巻頭に収録されるのは、ほんとうにしかたないのだけれど、できれば、この本の第一話でなく、独立した短篇として、先入観なしに読みたかった。
 第二話からあとは、雑誌に掲載された時も、すべて三人の共作ということになっている。そこからみると、ベアの書いた第一話が非常に気にいったポール・アンダースンがみずから前面に乗りだし、共作の労をとったと思われる。社会背景であるとか、全体的な構想には、アンダースンの意見が相当強くはいっている。ベアの手による第一話には、むしろウェルマン流の土俗的風景が、アンダースンやセイバーヘーゲンの世界を構成する小道具の導入で硬質の宇宙的スケールの話に一気に変質してしまうところにねらい目があった。けれども第二話以降になると、そうしたウェルマン的感触はほとんど感じられなくなり、アンダースン世界の色調が全体を支配するようになる。最初に書いたバーサーカーと帝国をめぐる社会状況設定も、第一話ではそれほど明確には語られていなかった。
 その第二話はバーサーカーを小道具にした『ドラキュラ』の語りなおしである。短篇集のなかでいちばんセイバーヘーゲン色が強い作品である。ドラキュラ=バーサーカー、ヴァン・ヘルシング=ジョン・Dという、味もそっけもない配役で、アンダースン宇宙とバーサーカーの結合ということにも、それほど熱心ではない。むしろこの小説で熱をこめて語られるのは、ジョナサン・ハーカーとミナ・ハーカーの人間関係が、ほんとうは、どういうものであったかという、作者による、ストーカーの原典解釈講義である。あきらかに、バーサーカーよりドラキュラに比重のかかった作品である。
 第三話。〈草〉というタームから、だいたい覚悟はきめてたけれど、案の定、ニンジャの登場である。惑星ムラマサで跳梁跋扈するニンジャ盗賊団が〈草〉ではないかという調査命令を受けて、ジョンはムラマサの地方駐在員でシノビのジュツをよくする若い女性情報部員と共に、盗賊団と戦う。アンダースンじゃないよなあ。ベアだろうな、たぶん。時流受けを狙った俗っぽさが話を安っぽくしている。
 第四話。帝国軍特務部隊が幸運にも捕縛に成功した、辺境地区反乱分子の頭目がバーサーカーらしい。軍が真相に気づく前に、手を打たねばならない。帝国情報部は急遽現場へとジョンをさしむける。一方、バーサーカーもまた、同じ理由で部隊を走らせていた。クライマックスで、絶体絶命の危機に陥ったジョンを助ける、謎の集団〈影〉が出現する。情報部のまるっきり知らないところで、バーサーカーを追っていたグループが存在していたのである。いったい彼らはなにものなのか。情報部もバーサーカーも、この集団の正体を知ろうとやっきになるのが、これ以降の連作の縦糸のひとつになる。
 第五話。恒星間交易集団の労使紛争に暗躍するバーサーカー。広大な版図を形成する〈帝国〉の交易システムを始めとする帝国の社会制度の解説がえんえんとつづく。アンダースンの色合いがもっとも強く出ている話。ストーリー的にはよくある話。
 第六話。帝国杯チェス・トーナメントの決勝大会に進出した六台のコンピュータのなかにまぎれこんだバーサーカー。人間に化けるのではなく、知性を備えた機械のなかのバーサーカーというパズル・ストーリーはめずらしい。
 第七話。一朝ことあったとき、バーサーカー機械に変貌する兵器を各地に売りつけてまわるバーサーカーたちの武器商人グループ。それこそがバーサーカー潜行部隊の最大の拠点だった。この組織を壊滅させるため、帝国情報部と謎の集団〈影〉は総力をあげて挑みかかる。短篇集全体の三分の一の分量を占める堂々たるノヴェラである。〈影〉の正体はついに不明のまま、長篇『セルヴェの赤い太陽』に、持ち越される。

 長篇『セルヴェの赤い太陽』は、バーサーカー潜行部隊の中央拠点を情報部が急襲する場面から始まる。バーサーカー部隊は襲撃を直前に察知して、逃亡したあとだったが、残された資料の分析から、八ヵ月後に設定されていた本隊にあてた準備完了報告、侵攻開始指令プログラムを発見する。情報部としては、なんとしてでも、移し替えられたバーサーカー中央拠点を発見し、かれらの拠点地図を手に入れ、侵攻指令プログラムの発動を阻止しなければならなかった。
 さいわいなことに潜行本部の逃げこんだ先は、半径二百光年ほどの星域に限定されていた。帝国情報部トップは、ついに軍司令官、国務大臣に実情を話し、国軍を動かし、その星域の境界に鉄壁の包囲網をひいた。さらに、情報部全体のほぼ半数近い人数の精鋭をこの星域に絨緞投下し、トップみずから現場の指揮に赴いた。幾多の栄光と伝説のベールに包まれた、彼の名前は、サー・ドミニック・フランドリー!
 ポール・アンダースンの作りだした最大最長のシリーズ・ヒーローである。作品背景から当然予想すべきだったのですがね。ふいをうたれてけっこう感動した。
 その星域の中心にセルヴェがあった。帝国でも有数の古さと風格を誇る文化星系である。潜行本部をかまえる可能性はこの星がもっとも高く、また発見の困難が予想される星であった。だが、バーサーカーの一連の辺境活動を解析していた情報部は、この星域でのバーサーカーの活動記録に奇妙な不連続性を発見する。それがはたして何を意味するものなのか、情報部にもはっきりつかみかねる部分があった。
 じつは、この星こそ謎の集団〈影〉の本拠地だったのである。そうとも知らずにこの星域に逃げこんだ潜行本部は情報部と〈影〉の総力を結集した攻撃に完膚なきまでたたきのめさせられる。侵攻指令は発動されず、各地の拠点も発覚し、バーサーカーの戦略は手痛い打撃をくらうのである。そしてフランドリーによって解き明かされる〈影〉の驚天動地の正体。
 うーむ。たぶん訳されることはないはずだから、しゃべってしまおう。
 〈影〉は、かって殲滅されたバーサーカーの末裔だったのである。辺境に避難した主力部隊と反対に、帝国文化の中央部に取り残されたバーサーカーは、それゆえ本隊とまるで異なる情報を収集し、独自の分析をくりかえし、帝国が、むしろ敵の出現によって活性化するという結論に達する。仮に帝国壊滅に成功しても、その過程で、散り散りになった地球人種族はむしろかっての若さを取り戻すことになる。それよりは、人類種族を汚濁の中で種として老いさせていくことが正しい滅びの道だというのだ。〈燃焼〉ではなく〈酸化〉作戦というわけである。そして、フランドリーはかれらの方針を支持!するのである。
 フランドリーにとって、一万年先の人類がどうなろうと知ったことではないのである。このさき数千年の安寧を約束してくれるものであるのなら。
 かくしてバーサーカーの帝国侵攻作戦は失敗におわった。情報部の隠密裏の努力で、いまや、対バーサーカーの基礎体力をもつにいたった帝国宇宙軍は、バーサーカーを仮想敵とする本格システムの導入に着手する。この百二十年後、第二次バーサーカー大戦が開始されるのである。

 第三作“BERSERKER'S LAST WAR”が、今春刊行された。第二次バーサーカー大戦の話である。バーサーカーの超巨大部隊と帝国軍の大部隊が限定星域でまっ正面からぶつかりあっての消耗戦をくりひろげる過程をえんえんと書きつづった、まるでシミュレーション・ゲームの観戦記みたいな本らしい。とかいった話を聞こえてくる間もなく、同題のゲームが出たとの情報がとびこんできた。そういうものだ。
 ベアの本ではあるけれど、彼のほかの単独作品にくらべて、どれも冗長度が低い。なんとなくタッチがちがうなという気がしていたが、考えてみるとたとえば『セルヴェの赤い太陽』など、メイン・キャラに女性がひとりも出てこない。政府や軍の、〈馬鹿な〉上層部というのも出てこない。トップ・クラスがみんなりっぱな人間ばっかりなのですね。このへんが、たぶん、アンダースンの力のような気がしている。



◎て ら さ ん は 名 探 偵    
【現在からの注 ザッタ掲載時に一部関係者から絶賛をいただいた。「てらさんは名探偵」はもともと、物理屋菊池誠先生による連作集で、跳梁跋扈して悪事をなす、オオモリアーティのトリックを名探偵てらさんが解明するという骨法である。
 なお、M・HとかA・Hとかに対応する人が実際にいるかどうかは、書いた当人も忘れてしまったことにしておく。】


 眠りの中には真実(マコト)がある。
 激闘二十数時間、『文明の曙〈シヴィライゼーション〉』の敗残者となり、泥のように眠りこけていたまこっちゃんの脳裏でなにかがふるえた。がばととび起き、まこっちゃんはてらさん探偵事務所に走った。
「てらさん! わかった! 大森望の正体がついにわかった!」
「ふむ、言ってみたまえ」てらさんは、まこっちゃんの興奮にもすこしも動じず、かれがとびこんできたときとおなじ姿勢でさきをうながした。
「いいですか。ぼくらは大森望というのが怪人であるという前提で調査をしていました。それがまちがいだったのです。大森望というのは人間ではなかったのです。
 証拠はぼくらの目の前にあったのです。OOMORINOZOMI。ぼくらはOを〈オ〉であるものとばかり思っていました。そうではなくて、Oとは〈〇〉、つまり彼の真の名の、欠落した部分だったのです。そうわかれば、あとは簡単でした。彼の真の正体はちゃんとそこにあったのです。大森望の真の姿はKOMORINEZUMI、つまり、かものはしの仲間だったのです」
 てらさんは、コントローラーから手をはなした。まこっちゃんの方にゆっくりとふりかえる。
「だがなぜ、名前の一部が欠落していたのかね。そして、なぜ、子守ネズミが人間のふりをしていたのかね。それにかものはしの仲間はフクロネズミと言わなかったかね」
「そ、それは」まこっちゃんは絶句し、そして無残にしおれこんだ。
 てらさんはにっこり笑った。
「恥じることはない。君の推理は大もとではまちがったものではないのだから。たぶんここまで真理に近づいた人間は、世界でもわたしをのぞけば君だけだろう。
 だが、きみの犯した過ちは、欠落が意味することをあまりに軽く考えすぎたことだ。それが、こもりねずみという結論に安易にとびつく結果になってしまったのだ」
「すると、てらさん、欠落は真の名前を隠す意図ではなかったと」
「そう。欠落は、彼が彼の真なるものの、不完全な模像であるとを意味しているのだ」
「模像! では大森望はなにものかのクローンなのですか」
「これこれ、すぐそういう思考に走るのがSFファンの困ったところじゃ。結論を急ぐでない。
 自分であって、自分でない、自分の模像が生じるところ。それはすなわち、夢の中だと。そういうふうには思わんかね」
 まこっちゃんは黙り込んだ。徐々にてらさんの言ってることの重い意味が頭の中にしみこんできた。まこっちゃんはふるえる声でてらさんに聞いた。
「じゃあ、てらさん。てらさんは、ぼくもてらさんも、みんなその、大森望を夢に見ている存在が、大森望の周囲に作り出しただけのものだというわけですか」
「夢世界というものがどういう構造を持っているかはなんともいえない。ひとりの夢がひとつの世界をつくるのか。多数の夢が、次元の底でつながってひとつの世界を形成するのか。だが、いま、君が言った可能性もまたなきにしもあらず」
「そんなことがあるはずがない。いったいなにを証拠に」
てらさんは笑った。
「君がいま言ったではないか。〇〇M〇RIN〇Z〇MIの〇というのは欠落なのだと。大森望を夢見ている存在は、NEMURINEZUMIという生き物だ」
「ねむりねずみ、と言うと、
 あの、アリスの? マッド・ティー・パーティーの?」
「さよう。あのいつも寝ているねむりねずみを思い起こせば、きゃつの反対自我として、大森望がかくも精力的に活動するのも納得がいくと思わぬか」
「しかし、あれは物語の世界‥‥」
「夢に見られる国のなかでは、物語のなかにこそ、まことの世界の影がある」
「しかし、証拠が」
「マッド・ハッターを覚えておろう。ねむりねずみといつも一緒にいた‥
 あれのイニシャルはM・Hでなかったかな。かれらのやることなすこと、まるで例のお茶会みたいにみえないかな。かれらが西葛西という地域に集中しているのをどう考えるかね。気違いお茶会(偽茶会)と西葛西という地名とは、どこか模像を思わす共通性が感じられないかな。
 おそらく、あの地域で、夢の世界とまことの世界はもっとも近接しているのだろう」
 まこっちゃんの顔は蒼白になった。かくもつぎつぎ証拠をつきつけられることになるとは思ってもいなかったようだった。自分が崩壊してしまう恐怖におびえ、まっこっちゃんは必死で反論を試みる。
「だけど、お茶会には、ほかにもメンバーがいました。アリスだとか、三月うさぎだとか‥」 てらさんの目線が同情になごんだ。
「三月うさぎこそマッド・ティー・パーティーの最大の主役だよ。そしてねむりねずみもマッド・ハッターも西葛西在住の翻訳家。ザッタの名簿をよくみてごらん。西葛西には茶会と名のつく翻訳家がちゃんといる。ごていねいにも三月うさぎの頭文字は〈さ〉ときている。
 それからね、かれらにふりまわされるアリスだが、彼女のモデルとなった少女はアリス・ハーグレイヴス。三人が三人ともSFがらみの翻訳家であることからすれば、答えはおのずから顕れる。A・Hというのは、SF翻訳界の大御所のイニシャルにほかならない」
 よろめきながら、まこっちゃんは座を辞した。
 その日から、まこっちゃんの姿は見ることができなくなった。
 てらさんは、きょうもコントローラーをにぎりしめ、画面に見入る毎日である。



●ファンタスティック・レビュー 2
   『熊』       スティーヴン・キング

 八七年にフューチャー・ブックスという出版社が、若手作家チャレンジ・シリーズと銘打って、パスティーシュ趣味の強いSFやファンタジイをたてつづけに刊行した。これがそもそもの事件の始まりである。
 こういう方向性で売りをかけたにしては、出版社サイドの根回しや対応がりっぱなものといいがたく、多くの煩瑣なトラブルを抱えこんだまま、結局五冊出しただけで打ち切られたのだが、その四冊目として刊行されたのがO・テラーという聞いたことのない作家の(おそらく)処女長篇である『われら熊神の民人』という作品だった。
 人類が、地球とアルファ・ケンタウリを結ぶ能率主義統合管理政体〈人類調和連邦〉を形成し、黄金時代をつくりあげていた未来。旧アメリカの農業地帯で、作農のかたわら、大学で文学と生物学を教えていたアンソニイ・ロバートソンは、インテリ特有の反能率主義ロマンチシズムに没頭したあげく、ついに、全財産を処分し、一万件の凍結受精卵を積みこんだ巡航宇宙船を買いこみ、地球政府の管理がいきとどかない辺境の惑星もとめて家族総出で出発する。
 そしてとうとう自分たちの農業技術を十二分に発揮できる理想的な惑星を発見し、開拓村に着手する。
 ある日、どこからか、村にまぎれこんできた小熊のような原住生物。ロバートソン一家は知らなかったが、この生き物こそ、三百年を越える寿命をもち、最後には人をもしのぐ知性と全長二十七フィートの鋼鉄の肉体を備えるにいたる、この星の支配種族だったのである。そうとも知らずに一家は、子熊をかれらの仲間としてかわいがり、子熊もまたかれらの愛情にこたえる。
だが、ある日…
 物語の主人公は、ロバートソン家の三男、クリフ。近親愛の対象であった長姉を熊に寝盗られ、かれは道徳的憤りと嫉妬と復讐心のないまぜになった精神状態で、体を鍛える。そして夜陰に乗じて、姉とまぐわっていた熊を襲い、失明にいたらしめたが、そのときの反撃でかれ自身も性器をひきちぎられる。かろうじて一命をとりとめ、やがて熊と和解し、熊の目のかわりを果たしながら、熊のテリトリー、すなわちこの開拓村の繁栄にむけ、一族をひきいていく。
 ロバートソン家の地球からの旅だちから、クリフの誕生、成長、そして九十三歳での死、熊王の最後、熊王がいなくなったあとの開拓村の後日談とつづく、ストーリーは、ジョン・アーヴィングの小道具を随所にちりばめ、技術的にはともかく、勉強のあとのよくみえる、そこそこの力作だったといえる。
 「同じ単語を使えば、それで同じ話になるのなら、わたしも同じことをやってみたい。それではできないからもの書きというのはうんうんうならなければならないのだ。なによりもなさけないのは、この程度の内容で、パロディになっていると思われるほど、わたしの本がうすっぺらだと受けとめられていることだった」
 「想像力の貧困」と題して、ジョン・アーヴィングが最近の小説をめぐる、作者と、そしてそれ以上に読者の想像力の貧しさを糾弾する文章を発表したのはそれからわずか一月後。その典型例のひとつとしてとりあげられたこの本は、徹底的に罵倒され、作者は完全に葬りさられた。O・ティラーという名前はそれ以後短篇ひとつみかけることができない。そこらにころがっているSFやファンタジイのペーパーバックなんかより、ずっと野心的な、志の高い作品だったと思うのだけどね。
 さて、話はこれからである。ジョン・スミスといえばメイン・ストリームの世界では知る人ぞ知る敏腕編集者である。
 この人が、このジョン・アーヴィングの檄文を読んで、とんでもないことを思いついた。
 作家の想像力がどれだけちがうかたちにはたらくか、たしかめてみるのにちょうどいい方法がある。ふたりの作家がそれぞれに得意としているアイデアをかけあわせてつくった同じひとつの設定でそれぞれ作品を書かせてみるのはどうだろう。
 かくして、業界でのスミスのパワーが発揮され、とんでもない競作が書かれることになった。
 テーマ「恐水病にかかった熊」。
 競作者、ジョン・アーヴィングとスティーヴン・キング!
 この設定を料理して、三百枚ほどの中篇に仕立てあげたふたりの作品をカップリングして本にする。
 とても魅力的なアイデアで、しかも、このふたり。本になれば百万部は確実にはけるものになると、企画が発表されたときから、ずいぶんと話題になった。(じっさい、例によって、柳の下のどじょうをねらった出版企画がいくつもでてきた。平たい地球を舞台にして、アズュラーンに作られたからくり仕掛けの人形が、どのようにしてロボット三原則の呪縛から解放されたかを綴ったアイザック・アシモフとタニス・リーとの競作など、SFファンの間でも大きな話題となった。作品自体は凡作だったが。)
 残念なことに、この企画は本にならなかった。キングの作品ができあがらなかったのである。
 ジョン・アーヴィングの作品は、「スカーラッチ家の老いぼれ熊」という題の二百五十枚ほどの作品で、エスカイア誌の八八年一月号に載った。狂犬病にかかった犬から主人をまもって、その病気をうつされた熊。発病したその熊を薬殺しようとする警官隊からウィーンの下町一帯を逃げまわりながら、なんとかその熊のやすらかな臨終をみとってやろうとする熊使いの一家とそれにこたえようとする熊。こわがりながらも、一家を応援する下町の人々。ジョン・アーヴィングらしいエグさも随所にちりばめられた、いかにもらしい人情喜劇に仕あがっている。
 たぶん、スティーヴン・キングは相手がジョン・アーヴィングであることを意識しすぎたのだろう。テーマはどうあれ、自分には自分の小説しか書けないのだと割り切ったようなアーヴィングとちがい、キングはいかにアーヴィングの小説を消化するか、そしてなおかつ自分でなければ書けないような小説に仕あげよう、とマジに努力したのだろう。
 そんな企画があったことさえほとんどみんなが忘れてしまった九一年、発表されたスティーヴン・キング、一八〇〇枚の最新長篇は、まぎれもなくこのジョン・アーヴィングとの競作の完成した姿であった。
 避暑地のバンガローに突然乱入し、一家皆殺しを果たしたあとそのすぐ裏手の山の中で狂い死にした巨大熊。ひとり生き残った父親は、超人的な努力で体を鍛え、黒魔術に没頭する。死んでしまった狂い熊を地獄の底から甦らせ、みずからの力でより深い地獄の底へと永劫に封じこめんがため。
 いつもならスティーヴン・キングの作品は幸せな家族生活がじわじわ崩壊していくのだが、ここでは崩壊したまま死ななければならなかった家族に対する父親の悔悟と自責の念の高まりが狂気と化して、この尋常ならざるシチュエイションへと導いていく。フラッシュバック的に差しこまれていくすこしずつきしんでいく家族生活の回想。その修復のかけであったバンガローでの悲惨な事故。
 だが、ここで、死んだ家族のために、死んだ熊を甦らせてまで殺すという、暴力性はこれまでのキングの主人公にはみられなかった力強い性格である。
 そして、たぶん、この、力強い暴力性こそ、キングがアーヴィングから手にいれたものなのではないのだろうか。
 ストーリーはこの設定を、おそろしくオーソドックスに、正攻法に組み立てていく。次がどうなるか、最後がどうなるか、ほとんどすべてわかりきった展開しかなされない。
 それでいて一八〇〇枚のヴォリュームを感じさせずに読者をぐいぐいひっぱっていくストーリーテリングはまさにスティーヴン・キングの真骨頂といっていい。
 巻末一三〇ページを費やした、呼びだされた熊の死霊と父親との凄絶な死闘は、おそらくキングをもってしても二度書けるかどうかわからない高密度のシーンであった。
 必読!



■六月十七日の日曜日。ぼくのうちのコンセントから、アダプターが抜けた。今年にはいって、のべ一千時間をこえてしまったぼくのファミコン行脚がついにおわったわけです。…とりあえず、でしょうがね、どうせ。まあ、よかったよかった。
 ふだんであれば「女神転生U」や「ファイアーエンブレム」といった、遊びつらねたソフトについて、感想を書いてみようと思うのだけど、われながら、さすがに相当つかれきったとみえて、そういうことを考えるだけでしんどくなる。しばらくは、反動がきてくれそうで、正直わたしはうれしい。
 けっこうできのいいソフトをいくつもやったわけだけど、いまこうやってやった記憶を思い返すと、いちばん感動するのは、じつは予期せぬ偶然とかいうやつみたい。
 たとえば、ぼくがゲームをやるとき使う名前の手もちには、グレアム、アンジー、サーニン、マックス、ルー(女)、ソロモンといったところがあるのだけれど、ストーリーの展開で、ぼくの期待しているかたちにキャラクターの性格が育ってきたりしたときが、けっこううれしい。六人パーティ組むときなんか、だいたい、戦士ソロモン、勇者サーニン、盗賊/忍者アンジー、魔法使いグレアムなんてところでパターン化してしまっている。ルーとマックス、僧侶型がふたりいるのがいつもすこし悩みの種でどっちかを魔法使いにもってきて、グレアムを戦士系にしたりということもよくやる。
    
【現在からの注 三原順『はみだしっ子』『ルーとソロモン』のキャラクターである。合掌】

 「サンサーラ・ナーガ」では二人組にめずらしくサーニンとくーくーという名前をつけてゲームをやった。そうしたら、最後にくーくーが死んでしまったのに、やっぱりすこし感動した。でも、それよりも、以前「FFU」をやってたとき、どっかの地下の動物たちの温泉場にパーティが迷いこんだとき、突然、一行のなかにいたサーニンが「ぼく、動物たちの言葉がわかる」と言いだしたことがあって、あのときは、ほんとうに、腰が抜けるほど感動した。
 そういうことにくらべれば、どんなにすぐれた必然を組みこんでも、ストーリーはしょせん〈りっぱなもの〉にしかならないのかもしれない。小説の話だよ。とんでもない御都合主義が、作家の筆力やレトリックにより、宿縁めいた符合を暗示させることができたとき、物語というものは、ただごとではない感動を生みだすのである。

 モダンホラー・アンソロジー『ハードシェル』★『スニーカー』☆とかためて読んだ。
 SFファンなのはわかるけど、ちゃんとSFが書けないスティーヴン・キング。SFの結構というものはちゃんとつかんでいるけれど、根っこのところの志の低さが読んでてつらいD・R・クーンツ。それにしても、クーンツって、長篇でも短篇でも内容量はみごとにかわらない。だからといって、短篇の密度が濃いわけではもちろんない。だからといって、長篇の密度がうすいという意味でもないというのがりっぱといえばりっぱだけれど。(でもやっぱりうすい)
 前からぼやいている文句がまともに的中する凡作ぞろい。流行にあわせて、だいぶん読んだわけだけど、やっぱりホラー小説って、なんかおもしろくない。
 たとえばロバート・R・マッキャモン。たしかにクライヴ・バーカーなんかと似た才気みたいなものは感じるけれど、バーカーのときとおんなじで、だからどうだという気分がずっとつきまとう。エド・ブライアントはC・L・グラントとおんなじで、しんきくさいだけで、おまえなんか『シナバー』が翻訳されるまで見捨てるのを待ってやってるだけなのだぞ。グラントなんてもう見捨てたんだからな。ダン・シモンズにいたってはページをめくるはしから、書いてあったことを忘れてしまう。ジョージ・R・R・マーティン?
 うん。
 まあ。
 おもしろいけどさあ。これって、どこがモダンホラーであるわけ?ジャンルSFとほとんど密着しながら育ってきた由緒正しい都会派ファンタジイそのものじゃない。
 まあ、だからだれもジョージ・R・R・マーティンについて騒いでいないのかもしれない。そういえば、ハーラン・エリスンという名前って、紹介している人たちの文章のなかに一度も出てきたことないんだよね。モダンホラーなんてネーミングで遊んでいるうちはかまわなけど、ダーク・ファンタジイなんて言葉を使う時には、やっぱり、レイ・ブラッドベリ、リチャード・マシスン、ハーラン・エリスンくらいは射程に入れた発言をしてもらいたいとわたしは思う。
 大江健三郎『治療塔』(岩波)☆☆。文学者のSFって、どうしても、ユートピア小説の枠組みから抜けられないみたい。古くて新しいテーマといってしまえばそれまでだけど、SFって、そういうものを小説構造として温存しつつ、SF構造として別のものを対置させ、拮抗させて、ドラマを作ってきたんじゃないかしら。(うーむ。そうだったのか)。朝日/岩波文化人的問題意識と文学者らしい構図の引き方には、けっこううざったいなかにも新鮮なものがあるけれど、それって、SFのパターンに狎れきってない、未熟さととなりあわせの魅力であるのかもしれない。(わっ、言っちゃったね)



 イアン・ワトスンとバリントン・ベイリーって、やっぱりぜんぜんちがっているのですね。ワトスンの作品評価に〈風景〉という言葉を使ってみたのは、そのことを強調したかったから。イアン・ワトスンって基本的に文学者。ばか!といわれかねないアイデアを、えらい!といわれるまで一生懸命粉飾するのがイアン・ワトスンで、こいつばか!といわれたくて、一生懸命ばかなアイデアを磨くのがバリントン・ベイリー。作品を総合的に評価していったら、たぶんワトスンのほうが上になるのだろうけれど、わたしゃ、やっぱり、ベイリーの姿勢が好きだ。
 イアン・ワトスンとバリントン・ベイリーをひとまとめにするカテゴリー分けが定着してきて、それはそれでしかたがないのだけれど、「マニアのアイドル」という冠は、立派な作家であるワトスンさんにはあげたくない。
 で、バリントン・ベイリー以外の「マニアのアイドル」該当作家を考えてみた。(これがけっこうむずかしい)
 ジャック・ヴァンス
 ルーディ・ラッカー
 ロジャー・ゼラズニー
 初期の長篇ディック
 こんなところでどうだろう。
 ちがうような気もする。

 『なんとすてきにジャパネスク6』(コバルト)☆☆☆。氷室冴子も一時期の低迷からすこし持ちなおしてきている感じ。とはいうものの、『碧の迷宮』(角川)につづいてまたこういう本の出し方をされるとねえ。
 『ガール・フレンズ』(コバルト)☆。
 『短篇小説講義』(岩波)☆。『着想の技術』のときみたいに、読んでてわくわくしてくるところがほとんどなかった。
 『炎の眠り』☆☆☆☆。気がつくと、ジョナサン・キャロルって拒否できない作家になってしまっている。ぼくの内部の座標軸では、たぶんラッセル・ホーバンや、W・P・キンセラの近くに置かれている感じ。
 うーむ。ホーバンと比較するのはよくないや。比べると、やっぱり格がちがう。

 菊池秀行『妖獣都市〈ニューヨーク魔界戦T〉』を買ってきたのだけれど、どうしても読む気がおきない。ページをぱらぱらめくってはほうりなげてしまう。出来のよしあしとかいった以前のところで、なんかあきてしまったみたい。これでやっと、惰性で出る本出る本買っては読んでしまうという、困った習慣からぬけだせそうで、わたしはうれしい。



●ファンタスティック・レビュー 3
 『どつぼ』      バリー・マルツバーグ

「小説を書くときに、いちばん大切なのは、アイデアでもなければプロットでもない。なにより大切なのは、文章と文章のすきまをうめて、間断なく物語を流れさせる、作者の気の充実だ。それさえあれば、アイデアもプロットも、レトリックのしからしむところ、文と文のはざまから、自然と導きだされ、流れだしていくものだ。傑作であると世間から評価され、私自身そう認めている若かりしころの作品も、じつはそういうプロセスで生みだされてきたものだった。そういうことがわかってきたのが、そういう気の充実が果たせなくなった年月のあと。こんなことならあの時期にもっと多くの作品に挑戦してみるべきだった。おそらくいまの私にはおよびもつかない傑作がいくつも書けていただろう」
 巻頭早々こんな述懐を語るのが主人公のSF作家ヴィクター・ホロヴィッツ。二十代の後半に衝撃的なデビューをはたし、十数篇の長短篇で若き天才の名をほしいままにしたものの、そのあと書いた三十冊近い長篇、二百篇におよぶ中短篇のすべてにおいて、好意、困惑、同情、無視とさまざまな段階の沈黙と黙殺をもって迎えられ、もうすぐ60に手の届く年齢になってしまった男である。
 かれの人生はただ小説を書くことだけに費やされてきた。どの作品も渾身の力をこめた力作だった。その点だけは、かれの本を読みつづける、すべての読者、すべての批評家たちも認めていた。彼は小説のためすべての人生を犠牲にしてきた男であった。だからこそ、だれもかれの小説をけなしたりはしなかった。かれの小説はつねに一定量売れつづけ、一定量以上絶対に売れることがなかった。それゆえ出版社もまた堅実にかれの小説を出しつづけ、初期の天才時代の数作以外は、絶対に重版したりしなかった。かれの本を読んだ読者は、みんながみんな、ただひたすらに沈黙をまもった。かれの小説をけなすような人間は、その一事をもって業界の事情に暗いことを表明するようなものだった。
 しかしもちろん作者も、読者も、出版社も、かれの作品についてはみんな同じ評価をくだしていたのである。

 いやあ、しょっぱなから暗い話であります。さすがマルツバーグという感じ。この、巻頭で開陳される創作原理論というべき述懐が、小説の中心テーマになってくるのだから、これはしんどい。
 とにかくこの主人公の書いた初期作品というのは、すごい傑作ぞろいだったらしい。残念ながら最後までその話の輪郭はでてこない。
 その後に書いた作品があまりにできが悪すぎたため、そうしたひどい作品が逆に脚光を浴びることになっては彼の名前に傷がつく、かわいそすぎるという人々の強力な好意が働いて、初期の傑作までもがSF史の表舞台にあがってこなくなってしまったという設定は強引だけどけっこういい。無名の作家でありながら、ある程度以上にその世界にくわしい人たちは、みんな知ってて、新作が出るたび、競って読み、悲しそうに沈黙する、特異なポジションを獲得してしまった作家。そういうしあわせな関係って、あってほしい気はするけれど、現実には絶対に不可能な、一種のユートピア思想である気がする。
 そうしたかれの読者のひとりである、生物時間研究所に勤務していたSFマニアの科学者が、ある日、面会をもとめてくる。巨大プロジェクトの副産物として、過去の自分に現在の自分の意識を投射させることのできる装置ができあがってしまったのだという。それの実験台にならないかという打診だった。それによって変化が生じても別の時間線に流れていくだけで、現実にはなんの影響も与えないということが証明されて、商業的メリットがまるでないため、試作品段階で破棄されることになったのだという。使った人間の、それも投射された意識以外はだれも変化を感じとれないそんな機械であるけれど、もしこの機械を使ったらホロヴィッツの別の小説が書かれた未来が生じるかもしれないというわけである。
 もちろんホロヴィッツが拒否するわけもなく、かれは二十二歳の時代へと自分の意識を投射する。
 そして青年時代の物語は、おさだまりといっていい青春小説としてはじまる。ホロヴィッツが生きてきた六十近い年数はさすがにだてではなかったようで、若者たちの間にあってのひとあしらいや心のゆとりはずぬけたかたちであらわれ、かれの周囲の人間たちの中心的存在にまつりあげられていく。金銭的にも、恋愛にも、人間関係においても、以前の若かりし自分とくらべものにならないバラ色の人生が開けてくるさまを、しかしいくぶんシニックな視線で追っていくのがこの小説の前半三分の一。
 ところが、このホロヴィッツという人は、小説を書くことに一生を捧げてきた人間なのである。あたらしい人生では蓄えた知識を活用し、政財界の小物程度にまでのしあがることも不可能ではなかったのである。しかし、かれはそんなふうには考えもせず、蓄えた知識を活用し、ふたたび小説家をこころざす。そして、ここから話は小説を書くことに七転八倒するうっとおしいストーリーに転調する。
 孤独と既視感の中で、だんだん狂気にとりつかれていく話になるんじゃないかとじつは危惧していたのだけれど、さいわいそっちのほうには流れなかった。乾いたユーモアをまじえ、ちょっとつきはなした感じの抑制のきいた展開で、一見軽薄そうな小説にしたてあがっているけれど、それでも内容はけっこう重たい。なんといっても、小説を書くというのはどういうことであるのか?が、この小説の最大のテーマなのだから。
 ホロヴィッツは、まず初期の傑作群に着手する。そこでかれは違和感に襲われる。ストーリー的には何度も読み返し、熟知しているはずの話であるのだが、一字一句同じ文章を覚えているわけではない。そして、いまのかれの意識というのはかっての二十代のそれではなく、六十代の感性なのだ。かくして、最初に紹介したホロヴィッツの述懐が生きてくることになる。
 その小説は、それでもかなりの評判になる。ストーリー的には元のものと少しも変わらないのだから当然のことである。だが、ホロヴィッツ本人だけは、その作品に、どこか気の抜けたところ、まがいものめいた雰囲気が漂っていることに気がついていた。そしてSF界の評価にも、かっての熱狂とどこか微妙なちがう部分を生んでいた。
 そして、かって天才呼ばわりされた初期作品群をすべて再発表しおえた時点で、かれはなにを失ったかに気がつく。かれの書きなおした作品には、読者がそのあと何十年もかれにこだわってくれることになるなにかが欠けてしまったのである。もう、かってかれを中心に形成されていたような作者と読者のしあわせな関係は、絶対に生じることはなかった。
 そしてなによりも、これから先、いったいどういう小説を書きつづけたらよいのだろうか?
 ホロヴィッツの選んだ道は、かってのかれの同業者たちの評判になった小説を、先取りしていくことだった。
 しかしそれでもかれの小説は、やはりほとんど無視される。おなじアイデア、おなじ設定をあつかってもなぜかかれの小説はおもしろくなかった。どこか気のぬけた、まがいものめいた、資質とあわない印象からまぬがれなかったのである。
 かってのかれの愚作には、すくなくともなかった欠点だった。かってのかれの愚作は、つまらないながらも、力作であり、本気の小説だという判定だけはもらっていたのである。
 こうしてマルツバーグは実在のSFの歴史と微妙に異なるもうひとつのSF史を構築していく。(このSF史がけっこう意地がわるくて楽しい)SFのブームのなかで、つねに先駆者のひとりとしてとりあげられ、しかし作家としてほとんど評価されなかったひとりの作家の個人史として。
 物語は、ホロヴィッツがふたたび六十近くになったところで終わる。小説を書く苦しみを他の作家の倍近く経験してきた男が、生物時間研究所の玄関に立ちつくすシーンで。


◎乱れ殺法不定期便I

 SCHRAMM,WILBUR(LANG) 一九〇七年生まれのアメリカの作家。一九五五年からスタンフォード大学でコミュニケーション論を教えている。サタデイ・イヴニング・ポストやアトランティック・マンスリーに載った陽気なほら話十一篇を集めた短篇集が一九四七年に出版されている。
 と書いても、べつに、なんだいそんな作家知らねえや、という人がほとんどのはず。ぼくだってドナルド・タックのSFエンサイクロペディアをたまたまぱらぱらめくっていたら、目にはいってきたというだけのこと。ニコルズのエンサイクロペディアにも出てこないし、コンテントのコレクション・インデックスにも短篇ひとつタイトルがあがってるだけ。短篇集自体は載っていない。
 でもさ、この短篇集のタイトルが“WINDWAGON SMITH” だっていうと、へえっとかいう人もいるんじゃないだろうか。SFマガジン七月号に載っていたローレンス・ワット・エヴァンズの「風馬車スミスと火星人」という作品と、どうつながってるか読んでみたくなったりしないだろうか。解説を書いてる尾之上俊彦に教えてやってあせる顔をみてみたい、なんて人もいるのでないだろうか。(でも、古き良きほら話というツボを押さえているのはりっぱ。もしかしたら知ってた?)
 こういう小姑根性こそ、資料あさりの醍醐味である。なんの役にもたたないのだけどね。

 たまたま、発見したことって、なんか符合めいてて、うれしくなって、つい、言ってまわったりしたくなるのだけれど、こいつをみつけたのも、ちがう作業の副産物。
 50年代前半のアメリカSFについて、いくつか書く機会をもらったりしているのだけど、はっきり言ってまだ生まれてない時代。当時出た原書を持ってるわけもなく、結局二次情報、三次情報を組みあわせて書きながら、パースペクティヴをつかんでいこうとしているのが実情。だからけっこうぼく自身、あたらしいことをみつけるのを楽しみながら書けてる部分がある。ベースとなるのは、伊藤典夫や野田昌弘といった人の文章からたたきこまれたイメージだけど、書けば書くほどだんだんと知識の欠落している部分(伊藤さんや野田さんが強調していなかった部分)があることに気がついてくる。そうした部分をつけ加え、あたまの中のイメージを微調整していく作業というのは、ちょっとした親離れ的満足感をかもしてくれて、なかなかたのしいものなのである。今回は、たとえば、五十年代前半の単行本市場のなかでバランタインとエースという二つの出版社はその対照性がきわだつあまり、クローズアップされすぎてたのでないか、ほかの出版社というものが、どういう状況下にあったかをおさえたうえで比較対照してみるべきでないのだろうか、なんてことを思ったりして、ダブルデイあたりを中心にぱらぱらチェックしてみていたのである。そこにはたとえばひょっとして、まだお金に不自由であった若かりし時代にあって、ハードカバーに手を出しにくかったひとたちのペーパーバックの叢書に対する思い入れみたいなものもあったりしたのでなかったか、なんてことも思ったりして。
 とりあえず、自分ひとりでしこしこやっても暗くなるので、ある程度サマになったら、ノヴァにリストを載っけます。しんきくさい作業なので二、三ヵ月かかるかもしれませんが。
 だけど、けっこうへんなところで暗礁にのりあげたりするものなのだ。今、のりあげてる暗礁は、なんと『火星年代記』
 ダブルデイ社から一九五〇年に刊行されたということになっている本でありますが、
 1、早川SFシリーズ版『火星年代記』の翻訳権表示においては、COPYRIGHT 1946となっている。
 2、同じ本の訳者ノートをみると、一九五〇年四月にダブルデイから出版されたと書いてある。
 3、そして、ぼくが最大級の信頼を置いている、ドナルド・タックの『SFエンサイクロペディア』には、この本の出版が DOUBLEDAY,1951 と記載されている。
 もちろん、1950という記載の方がやっぱり圧倒的に多い。別冊奇想天外『ブラッドベリ大全集』の小鷹信光による詳細をきわめた作品リストでも、ピーター・ニコルズの『SFエンサイクロペディア』でも、ブライアン・アッシュの『SF百科図鑑』でも刊行年は一九五〇年になっている。これだけ圧倒的な大差がつけば、タックの誤植ということで片づけてかまわないという気がするのだけれど、ここに妙な援護者があらわれてくる。
 ぼくにとって、タック、MITと並ぶネタ本であるウィリアム・コンテントの『コレクション・インデックス』である。
 どうへんかというと、この本もまた、『火星年代記』の発表年は一九五〇年五月(こちらは四月ではない!)であると記載しているのである。
 ところが、『火星年代記』のなかに載った作品、そのなかのいくつかの作品は本の体裁を整えるためあらたに書きおろされた話なのだが、この個々の短篇の初出年がすべて一九五一年になっているのである。
 一九五〇年というのがたぶん正しい答えだと、じつは思っている。だけど二割がた不安が残る。
 中村融大先生。あなただけがたよりです。こんなしょうもないことを一生懸命調べてくれそうな人というのはほかに思いつけません。
 よろしくおねがいいたします。            (ノヴァ・マンスリイ)



■ついつい買ってしまう角川文庫・読書の快楽シリーズ。さすがにシリーズも数を数えた『恋愛小説の快楽』となると、評者のなかにはタマ切れの気配が漂うものもあったりする。そんななかで喜んだのは、高橋源一郎の「ノン・ジャンル・ベスト50」。すこおし前のこの欄で、ぼくが読んだ恋愛小説ベスト10に入れていた、『愛のごとく』と『反=日本語論』がちゃんとはいっている。こういうかたちで裏打ちされるのって、けっこううれしい。
 ケン・グリムウッド『リプレイ』(新潮文庫) 何度も過去に意識転移をしては人生を生きなおす、時間の輪に閉じこめられた男の話である。星☆☆☆☆。お勧め品です。解説は物語のユニークさ、独創性をえらく強調しているのだけど、ぼくが驚いたのは、逆にこんなあたりまえの小説が、(中短篇ではいっぱいあるにもかかわらず)、長篇でいままでちゃんと書かれてなかったこと。そして、その理由というのも、また、この小説を読んでみたら、なんとなくわかったような気がした。
 タイム・パラドックスをからめた小説って、どこか挑発的に、奇怪な時間線のメカニズムを読者に押しつけようとする部分がある。『スローターハウス5』にしても『夏への扉』にしても、そういう奇のてらいをみせる(こんな用法はあるのだろうか)ところが根幹にある。(ぼくがSFらしさに欠けるといって、小説の読み方がわかっていないと怒られた『エリアンダーMの犯罪』でさえそういう部分がある)
 この小説は同じような外見を見せながら、そのじつ根本的には、未来を知りつつ人生を何度も生きなおすという夢を実現してみせた、願望充足ファンタジイを指向しているだけである。この小説の心地よさは、すべての論理がそうした日常性の枠組みに足場を置いて展開されるところにある。時間テーマの小説で、これだけの長さを、SF的な奇のてらいへともっていかずに(あるいはもっていけずに)ストーリーを書ききることができるほどのふつうの小説を書く才能って、ほとんどのSF作家にない才能だと思う。小説の中心的なテーマとして、人生というものをちゃんと書くことのできるタイプのエンターテインメント作家。そういう作家でなければ書けない種類の小説である。そして残念ながらSF作家というのは、そういうふうに小説を書かない訓練、つまりは挑発的に世界を提示することを小説作法の根本としてきた作家たち(のはず)なのである。
 まるでスティーヴン・キングの小説を読んでるような気になった。SFの書けないSF大好き作家、キングのSF小説。作品の魅力も、うすっぺらさも、限界も、あるいは逆に魅力の部分も、ほとんどキングのそれと重なる。この作者の正体がスティーヴン・キングであったとしても、ぼくはぜんぜん驚かない。(クーンツだったら、たぶん驚く、…はずである。)
■たとえば、タニス・リーという作家に惹かれるのも、SFとはちがうコンポジションのなかで、やはり、挑発的に世界を提示する意思を表明しているせいかもしれない。
 ルイス・シャイナー、グレゴリー・ベンフォード、タニス・リーと三人まとめて買ってきて、最初にタニス・リーを読んでしまったのは、けっしてこの本だけが一冊本であったためではないはずだ。
 『妖魔の戯れ』はもうほとんど神話の語りなおしにみえるくらい、奔放で、しかも説話臭いストーリーが並んでいる。これまで訳された十五作全部読んでいるわけだけど、いまだにこの作家の底がみえない。拠って立つ地点がつかめない。この作家に比べれば、ベンフォードなんて、ずいぶんわかりやすい底をしている。表面はともかく。
 うーむ。
 単にタニス・リーが女だというだけのことかもしれない。
 マイケル・ウィーランの表紙はじつにいいのだけれど、シリーズの統一性という点からは、やはり萩尾望都でいってほしかった。並べると、萩尾表紙があまりに質感に欠けてしまう。
 全作ウィーランで揃えなおすのならともかくとして。

 来年は、やっぱり、クーラーを買おう。



●色をめぐるSF

 SFのなかでの〈色〉についてといわれたとき、いちばん最初に浮かんできたのは、『虎よ、虎よ!』のクライマックス。あのめくるめくシーンだった。その連想は、そのまま映画「2001年宇宙の旅」のおなじみのシーンと結びつき、そこから転じて、小説、アニメ、漫画の別なくえんえんと飽きもせずにくりかえされる、作者の思考回路の硬直を、恥じるどころか誇らしげにみせつける、色彩が乱舞し世界が爆発すればことたれりとする、ワン・パターンのラスト・シーンのイメージへとつながっていく。
 あの芸のなさ、体裁のいい思考停止のごまかしこそが、SFというジャンルのなかで〈色〉にまつわる要素に課された、いちばん大きな役割機能にあたったりしてたのではないだろうか。ちょっと、はすにかまえて、そういう言い方をしてみたりするのもいかがなものだろう。
 うーむ。特集の主旨に逆らってる気がしないでもない。
 タニス・リーの色づかいだとか、J・G・バラードの色彩感覚とかいうふうに、すぐれた作家の個性と分かちがたく結びついた小説世界の色合いというものは、たしかにまちがいなく存在する。それを味わいたいがため、つぎつぎその作者の作品に手をだすこともままにある。SFではそうでもないが、ファンタジイだとそういう感じがわりとある。もっともそうしたイメージのかなりの部分が作品から喚起されたものでなく、表紙カバーによるものだったりするのだけれど。
 だけど小説世界に塗り込められた〈色〉というのは、結局のとこ、小説世界をより厚みのあるもの、より磨きこまれたもの、体感を生みだすためのものだという気が抜けきらない。あくまで〈より〉という部分でしかないものなのでないのだろうか。ぼくらが本を読むとき、まず、いちばん最初に印象づけられるものであったりするのであるけれど、そのことをもって、それがSFを読む楽しみだとはいいたくない。じっさい、そのことが、その小説が〈SF〉であるということに、どれだけかかわりをもつことができるものであるのだろうか。(ファンタジイに関しては意見をすこし保留する。ファンタジイの場合には、こうした色づかいの問題が、小説世界構築の、かなり本質的な構成要素になることがあるような気がする。単なる思いつきだけど。今あげた、タニス・リーとかダンセイニとか。そこからSFとファンタジイの在り方のちがいみたいなものがみえてきたら、おもしろい)
 SFの、SFである部分というのは、かなり広義な使い方をやってしまうと、やっぱり、アイデア・ストーリーだといっていい部分にある気がまたしてきている。そのとき、〈色〉というのは、アイデアとして物語の中核に、なかなか据えつけにくい〈概念〉であるのでないかと思うのだ。(さらにいうなら、アイデアとして抽出された〈色〉というのは、おそらく、「カラフル・コスモス」という言葉で指し示される〈色〉とはちがうものになるはずだ)
 だからといって、ぼくがこのてのタイトルで書けるような話というのはそれくらいしか思いつけない。
 で、色彩テーマと呼べそうな、あるいは色にまつわるアイデアをうまく生かしたSFにどんなものがあるか、ちょっと記憶のなかをさらってみた。
 たとえば、半村良の『石の血脈』。石人病の描写として赤色色盲(だっけ)が登場する。世界が赤を基調としたモノ・トーンに変容する瞬間は、フリッツ・ライバーの「影の船」の世界変容シーンにも似た感動がある。
 逆に赤が基調の世界のなかで、狂っていく惑星遭難者の話を書いたのは、フレドリック・ブラウンだった。(「緑の地球」)
 こうした作品に共通するのは、色の欠落である。現実世界の色あいに、重ねあわされ塗りあわされたものとしての色でなく、抜き去られたものとして、強烈に自己主張をしている色。
 SFのなかで、日常に対置され、存在感を主張する最大の色彩世界というのは、おそらくたぶん、こうした欠落という操作によって、作りだされた偏色世界でないのだろうか。そしてその、たぶん、究極にあるのは、すべての色が捨象され、灰色までもが駆逐された白と黒、二色からなる世界であるのでないのだろうか。けっして、極彩色の乱舞する、サイバーパンクのハイテク未来社会でもなく、多色多層のエネルギー・ビームとエネルギー・スクリーンとがぶつかりあうレンズマンの華やかな宇宙戦闘シーンでもなく。
 ああした、デフォルメされたリアリズムへの指向のなかで、しょせん色が主題に従属する立場からのがれることはできないだろう。色が主役をはるためには、どこか中間段階で、ある種の抽象化の操作を加えたうえで、提出された、色づかい、そういうかたちで作りだされた色で塗られた小説世界のカラーこそ、SFというジャンルにとってふさわしい、宇宙の色だといえないだろうか。
【現在からの註 『カラフル・コスモス』 お茶の水大学SF研究会正会誌『COSMOS』増刊号に載せてもらったもの】




 ひったくりにあった。9月9日。日曜日の晩である。
 毎度の大阪例会に行った帰りの夜の十一時半ころ、家まで約一〇分の距離を自転車で、きーこきーこと漕いでたら、かごに入れてたボロカバンをうしろからきたオートバイにすれちがいざまひったくられた。現金七、八万円がはいっていたのがいちばんでかい被害なのだけど、なぜかそれより、今日買ったばかりのJR回数券と、四八〇〇円の値段に気押されながら奮発して買った『情報の世界史』(NTT出版)とかいう、題名さえまだちゃんと覚えていない年表本をとられたことの方がショックが大きい。だってさ、一回買った高い本って、どんな理由があるにしろ、二度買う元気ってちょっと起きないじゃない。そのへんのいらいらがけっこう尾をひく。四八〇〇円のレシートをとられたことなんかもけっこう怒ってたりして、どう考えてもバランス感覚がおかしい。
 あと、トマス・M・ディッシュの『ビジネスマン』をとられた。結末20nほどまだ読み残している。これも困った。だれか読んだあとください。
 すぐ警察に連絡して、被害調書を作ったのだけど、『情報の世界史』『ビジネスマン』と題名を並べて書いたから、お巡りさんは絶対に『ビジネスマン』という本の内容を誤解しているはずである。
 あとねえ、古本屋廻りに欠かせない、ハヤカワ文庫SF・FT未所有本リストというのがなくなった。けっこうつらいものがある。
 それにしても、とられたナニは当然いたいのだけれども、どうも楽しんでいる部分が強い。やーい、だれもひったくりなんかあったことないだろう、うらやましいだろう(なにが?)、などとけっこうにこにこしている。ばーか。だれにでも起こりうるけど、自分にはまず起こらないだろうと思いこんでた〈非日常〉との遭遇、ということで、気分がハレてしまった。
 人間ってそんなもんなんだろうか。それともぼくの反応が異常なのだろうか。
 木曜に休みがてらに、市内の古本屋数軒に、取られた本のチェックを頼んで廻った。驚いたことに警察って、その程度の廻状もまわしてくれてないみたい。いいかげんなもんです。



●ファンタスティック・レビュー 4
   『幻影界』        髓竅啻

 第7回日本ファンタジイ・ノベル大賞最終候補作品である。発想の点などで受賞作をしのぐといった意見も聞かれたが、しかけのあざとさに選者間でも評価が割れた。

「この物語はわたしが書いたものではない。わが発明にかかるからくり仕掛けを用い、この世ならぬ異界からたぐりよせた文書の中身を数年かけて可能なかぎりこちらの言葉に翻案したもの。理解不能な概念、描写はすべてもとの文書にあるものをそのまま使用した結果、そのほとんどが意味不明なものとなりはてた。
 しかるに、この文書には、われらが理解のはるかかなたに横たわる異界の秩序、コスモロジーの反映がある。幻想文学への深い造詣ある諸氏であれば、この物語らしきものが、けっして単なるでたらめ、狂人のたわごとのたぐいでないと理解はできるものと信ずる。ここに書かれた内容までが理解できると期待しているわけではないが」
 新人発掘のコンテストとしては、異例の成果をあげている幻想文学大賞。主人公のわたしが、かねてから知りあいだったその出版社の編集部員に、雑談ついでに第7回の選考経過がどうなってるか、たずねたところ、急に応答の歯切れが悪くなる。しつこく聞いたところ、奥歯にもののはさまった口調で、もしかしたら、今回は中止になるかもしれないというのだ。
 いったいなにがあったのかと問いただすと、下読みを行なったグループのなかから、おかしくなってしまった人間が何人か出たというのだ。聞いてみるとそのなかには、K・SとかN・Tなどわたしのよく知っている人間もいる。そういわれるとたしかにかれらとこのまえしゃべったとき、なんとなく異様な気配を感じた覚えがあった。
 その原因が、今度集まった原稿のうちのある一篇のせいではないかというのである。
 読んだのか?とたずねたところ、ちらっと流しただけでちゃんと読んでいないのだという。そのうちなんかそういう事件が次々起こってきて、こわくてとても読めなくなったのだという。「だってさあ」とかれは歩いて五分ほどのところに住んでいる翻訳家の名前をあげた。「あいつ、下読みのバイトが済んでから、半年経つのに、あれからひとつも翻訳ができないんだぜえ」
 そしてわたしはついに誘惑に耐えきれず、その物語のコピーを手にいれることになる。

 日本ファンタジー・ノベルの内情にある程度通じた人間による、かなり露骨な『大いなる助走』小説の部分があって、この〈物語〉に発した事件のなかで各選考委員がどのような対応をみせたか、出版業界の中でうわさがどういう波紋をひろげたかといったことを、間奏曲的にはさみこみ、かなり軽薄な興味で読者をひっぱっていこうとする。そういう書き方で、この賞に応募してくるのだから、これはやっぱり挑発というものだろう。
 ただし、これらの部分はあくまでもあそびである。もっともそのあそびの部分で喜んだり、いやがったりした人がけっこういたわけだから、それはそれで正解なのかもしれない。
 でもそのせいで、メイン・テーマのことを忘れてしまってはいけない。これにはかなり度肝を抜かされた。

 わたしが手に入れた小説コピー。その最初のページに書かれていたのが、最初に引用した神がかりじみた文章だった。そして、物語がはじまる。
 題名は『夏の闇』。異界でこの本を書いた人間の名は開高健。
 この題名が出てくるのがじつに百五十枚を越えたあたり。このタイトルで一気に世界のイメージがひっくりかえる。
 作品は、開高健を代表作する私小説。そこに描かれているのは、もちろん、ぼくらの日常を構成する素材である。
 ところが、この作品の主人公たちには、開高健の名前はもちろん、この小説になにが書いてあるのかさっぱりわからないという。
 かくして、ポーの「黄金虫」をさらに徹底させた展開で、テキストを解読していく物語が綴られる。
 「黄金虫」とちがうところは、読んでいるぼくらにとって、書かれている内容になんら理解不能な部分がないこと。そんな内容を理解できない主人公たちの謎解き作業と議論をとおして、ぼくらの世界とまったくことなる主人公たちの世界を浮かびあがらせようというのが作者のメイン・アイデアだった。
 たとえば、フレドリック・ブラウンの「歩哨」などのショート・ショートと同じショッカー効果を狙ったもので、そこにいたる百五十枚がまったくこちらの世界の雰囲気で綴ってこられているだけに、けっこうぎょっとさせられる。
 ただ、そこからあとの部分が、はっきり言って、力量不足なのである。
 テキストの解読と議論の部分が全部で二百二十枚くらいの分量になるのだが、〈雨〉であるとか〈男と女〉といった単語の意味がまるっきり理解不能な世界を描出しようとするなら、やはりこの二倍から三倍程度の分量とそこに投入するための大量の博識が必要なのではなかったか。
 アイデア・ストーリーを書くうえで、もっとも大切なのはオリジナルなアイデアだと考えるのはまちがいである。
 アイデア・ストーリーというのは単にアイデアを軸に構成されて呈示され、読者に過不足のない興奮を与えることをねらい目にした小説であるというだけのものなのであり、読者に興奮と納得を与えることができたなら、アイデア自体は陳腐なもので充分なのである。問題は使いまわしのアイデアであればあるほど、読者に興奮と納得を与えることがむずかしくなるという、ただそれだけのことなのである。
 では、アイデア・ストーリーを書くうえでいちばん大切なものはなんだろうか。
 要は、ドラマトゥルギーの感覚なんだと思う。
 このアイデアで物語を展開させていくのであれば、ここのところは一気呵成に、ここのところはなだらかに、話をつないでいかなければならない、ここには、これだけの分量の知識を投入することで小説にめりはりをつけていかなければならない。そういうストーリー感覚とその要求に応じて、書きこむための知識を取りいれ、とりいれた知識を必要以上に書きこまない、そういう能力である。
 はじめて書いた作品にそこまで要求するのは酷というかもしれないが、この作品のアイデアにはそれだけ文句をいうに足る魅力がある。
 なによりも、テキスト解読作業を通じてあらわにされるはずである世界が、すこしも分明なものになってこないのがいらだちを増す原因となっている。
 こういうところがこちらとちがう、こういうところもこちらとちがう、といくら言いつのっても、そういうものをひっくるめたところで、ではそこの世界のかたちというのがどういうものであるかというのは、まるで浮かびあがってこないのである。作者には、そうして書いた内容と、それまでに書いてきたモデル小説的部分における世界とがくいちがいさえしなければ、それで問題はないと思いこんでいるような安易な部分がある。
 しかし、なにより、この小説は、そうした世界のかたちというのを提出すべきものではないか。すくなくともこのアイデアには、作者にそこまでの作業を要求する内的必然がある。作者には、それに応ずる義務がある。それがドラマトゥルギーの感覚というものであり、その要請に肩すかしをくわしてしまったところに、この小説が、内的可能性にもたらされる興奮と結果のしての幻滅からくるいらだちを抱えこむことになった最大の理由がある。
 メイン・アイデアについて書いてしまったので、この小説を読む意味はたぶんもうない。(モデル小説の部分をジャーナリスティックな興味で読むなら話は別)
 しかし、この作者がアイデアをきっちり処理していたならば、こうやってアイデアをばらしてしまったところで、この小説を読む値打ちというものは、まちがいなくあったはずである。
 アイデア・ストーリーとはそういうものなのである。



●ファンタスティック・レビュー 5
   『長安夢想帖』     山田 風太郎

 山田風太郎に変名で発表した未完の時代伝奇小説があるという噂は、じつはかなり昔から風太郎愛好者の間でまことしやかに語られていた。ミステリ系の某同人誌に掲載されたお遊びらしいとか、いや郷土の地方文芸誌に乞われて書いた作品だとか、目のまわるほどの執筆量の最中に、こういう小説を書きたいねと酒の席の雑談で交わした話を私淑する若手作家が伏し戴いて書いた話らしいとか、話す人間さまざまにけっこう粉飾するものだから、ぼくもてっきり眉唾ものと思いこんでいた。
 だから本書を目にしても、一抹の疑いをぬぐいきれないでいる。没後2年にして、やっと遺族の了解をとりつけ、供養をかねた未完のままの発表を許してもらえたという断り書きからしても、けっしてわるふざけではないと思うのだけど、ないと信じこんでた作品だけになんか落ちつかない気分が残る。
 『長安夢想帖』(雑誌掲載時は『夢想戦国』)がなぜ未完におわったか、なぜ今までその存在が秘されていたかといった諸般の事情は後述の断り書きにくわしく書き記されている。
 それによると、掲載されていたのは「剣傳館」という新興出版社が四号まで出した「剣豪奇譚」という雑誌だという。懇意にしていた大手出版社の編集者が独立して興した出版社だったが、その辞め方があんまりフェアでなかったらしく、某大手が激怒してつぶしにかかったのだという。作家に対してはもちろん、取次にさえ、うちかあちらかどちらを選ぶか、といった強硬な姿勢で臨み、その結果、出版社は一年で解散、雑誌も四号でつぶれたという。けっこう有能な編集者だったらしいが、その後業界から足を洗って、消息はつかめないとのこと。
 さすがに山田風太郎クラスになると、出版社の意向を無視して、寄稿できたようだが、それでもおもんばかるところはあったらしく、「万引受候」という変名での連載だった。
 発表年は昭和四十三年。その前年からの連載『天の川を斬る』が終了し、『海鳴り忍法帖』『忍法封印』の連載が開始されるという、作者の油ののりきった、はっきりいってとんでもない時期である。しかも、単行本の題名からもわかるように、主人公はこの時代の風太郎キャラクター中最大のヒーロー、大久保長安。これでとびつかないようなら、あなたに風太郎ファンの資格はない!

 隔月刊行の雑誌に掲載されたせいか、読切連作のかたちをとっている。
 第一話は「家康落星」。羽柴秀吉により操られているとは夢にも思わず、朝廷寄りの大名・公卿グループとの密約に応じ、明智光秀は本能寺において乱を起こす。森蘭丸らの奮戦により、からくも死地を脱した信長は、徳川軍と合流し、京から落ちのびる。だが、おいすがる明智軍の攻勢のまえに、つぎつぎと倒れていく徳川の兵士たち。そしてついに、主君家康が…。
 のちに本多佐渡守が述懐する。「おそれおおきことながら、もしわれらが陣に信長公がおわせられねば、守るべき君がひとりであれば、けっしてあのような仕儀にはならなかったに」
 光秀の反乱は、図ったような大転換を果たした羽柴秀吉によって鎮圧される。この鎮圧で秀吉は、信長麾下の武将の中で筆頭と目される地位につく。一方、徳川家もまた、身を挺して信長を助けた功により、大幅な加増を受ける。しかし、カリスマをもつ主君を失った痛手は大きく、凡庸な君主秀忠をいただき、途方にくれているのが実情だった。
 だがそうしたなかで、家康の懐刀といわれた本多佐渡守は、秀吉のあまりに水際立った行動に疑惑をいだく。本能寺の変そのものが秀吉の遠隔クーデターだったとしたら。そして調査を進めるうちに彼の疑惑は確信へと変わっていく。
 かくして佐渡守は、秀吉が家康殺害の真犯人であるという前提のもと、秀吉打倒を念頭においた国家作りを開始する。
 それにはまず、信長の天下が盤石のものとなるよう尽力すること。その一方で徳川が秀吉に匹敵するだけの国力を備えること。さらに秀吉と織田家生え抜きの武将たちとの確執を助長すること。その背後に徳川がいることを極力さとらせないこと。
 そういう基本方針のもと、佐渡守は当時としては本末転倒ともいえる、過激な論理にたどりつく。
 そのためには、秀忠を排することも、場合によっては徳川家すら切り捨ててもかまわない。それが家康の仇を討つことになるのであれば。
 そしていま、本多佐渡守は一人の男に白羽の矢をたてる。この国には家康とまるっきりちがうタイプの、しかし、家康に匹敵するカリスマ性の持ち主がいた。かって、彼と家康が、徳川家のため、いつか除去しなければならないと了解しあっていた大器。大久保長安であった。家康型の君主ではなく信長型の覇王のタイプ。彼であれば、他の武将の為しえなかった信長の朋友としての位置すらも獲得できるかもしれない。
 彼でなければ、羽柴秀吉を追い落とすことはできそうになかった。

 思わず、全部の話をバラしてしまった。だってストーリーを話さないと紹介ができない。『妖説太閤記』というのが、ひとりの女を手に入れるためだけに天下をとってしまう男の話だったとすれば、今度の話は主人の仇を討つためだけに、主人の一族を滅ぼし、大嫌いな人間に天下をとらせてしまう男の話になる。このアナーキーさはたしかに風太郎である。徹頭徹尾家康の影であった男という本多佐渡守に対するこれまでの風太郎のキャラ設定があってはじめて自然となる、とんでもない設定である。

 第二話「大老大久保長安」
 ここではいかにして佐渡守が国力を削ぐことなしに実権を徳川家から大久保長安に移していったかが語られる。また、長安がどのようにして信長に重用されるようになったかを綴っていく。同時に、服部半蔵をつかっての各地の武将たちへの調略というかたちでの、もうひとつの歴史の地図が広げられていく。そのなかでの圧巻は秀吉本丸の切り崩し工作だろう。佐渡守は本能寺に関する疑惑を、ねねとその周辺にほのめかす。これには、じつは、ねねが信長に思慕しつづけているという風太郎史観の重要な伏線が噛んでいる。ねね周辺の確信というかたちで、その情報が外部に洩れはじめたとき、秀吉がどう動くか。

 第三話「南と北」。(二回分載)
 徐々に、徐々に、秀吉の勢力は拡大していた。だが、その速度は秀吉の意図にくらべると、けっして満足のいくものではなかった。その一方で恐怖政治、弾圧政治と恐れられながらも、信長の基盤はますますゆるがぬものとなっていく気配があった。
 秀吉も一代の英雄であった。そうした計算ちがいの裏に本多佐渡守の暗躍があることを、そして彼の真意さえつかんでいた。
 信長は、スペイン、ポルトガルの宣教師たちを通じて、当時の国家首長としては異常なほどに国際情勢に通じていた。そして佐渡守の目論見どおり、同様の国際感覚を身につけた大名として、大久保長安を重用する。
 秀吉もまた、信長側近の第一位として、信長とほぼ同等の国際知識を身につけていた。しかし、そうした知識を、あくまで内治の補完的情報として位置づける現実主義的な部分において、信長、長安のロマンチシズムを共有することがなかった。
 織田政権は貿易、通商の拡充と、水軍の充実に力をいれた。そうした政策が海外への覇権拡張へと意識を高めていったのは必然的な成行きだった。
 そして、ここに秀吉と長安は初めて、真正面からぶつかりあった。
 倭寇の跳梁に手を焼いて、その取り締まりを依頼しに朝鮮からの使者がきたのである。
 秀吉は倭寇鎮圧を口実に、朝鮮半島への進出を提言する。
 一方、長安は、むしろ倭寇の群れを、日本水軍の先遣部隊と考え、かれらの開拓したネットワークを政権内部に組みいれるかたちでの、東南アジア進出が日本のとるべき道だとした。
 西日本を中心に朝鮮半島への権益を確保していた秀吉と、堺、敦賀と並ぶ日本最大の貿易港、駿河港湾都市群を擁していた徳川(形式的にはまだ徳川家を頭に戴いていた)との対立といった面もあった。
 信長の考え方からすれば、長安が勝利するのは目に見えていた。にもかかわらず、秀吉は自分の意見に固執し、ついには、信長の勘気をこうむる。秀吉は外交への関与権をすべて剥奪され、長安は、織田水軍の実質上の統治者になった。
 その結果を聞いて、天をあおいだ人間がいた。
 本多佐渡守である。
 彼には、これが秀吉の策謀であるのがわかったのである。信長幕府の恐怖政治には、押さえこまれているとはいえ批判的な空気が底流にある。
 ここで国外派兵を目的に、大量の資金調達を信長と長安だけが突出して行なえば、底流で澱んでいた不満はあちらこちらでふきだしてくるにちがいがなかった。しかも、信長政権最大の功労者で現実的な政治感覚の持ち主である羽柴秀吉は口出しできない立場におかれている。
 しかも、秀吉に巧妙に誘導され、鼓舞されたロマンチスト二人の海外雄飛の熱情は、もはやとめどもなくエスカレートする一方にちがいなかった。諌言を試みたりしようものなら、彼までも動きを封じられかねない。
 火をみるよりもあきらかな結果に本多佐渡守は考えこむ。
 問題は、秀吉の頭のよさだ。かれにとっては自明とも思える結論に満足して、手を汚さずに果実が熟し落ちるのをじっと待つ気でいるようなら、すくなくとも時間の余裕がまだあるはず。
 ならば、生き延びる手段はひとつだけある。東南アジアの一角を、一気に攻め落とし、織田・徳川連合の大水軍を永続的に養える恒久基地を設立し、海外への展開はすべてそこから行なえるようにし、同時に、そこから本国へのにらみをきかすようにする。
 そして。そこの提督には、織田信長本人か大久保長安本人が就任、在住することになる!

 「明智太閤」を数倍するスケールで展開されたもう一つの戦国歴史。秀吉による日本制覇は成功したのか。長安による亡命政府は成立するのか。(たぶん成立するのだろう)。
 東南アジアを中心にしたスペイン、ポルトガル、イギリスとの確執、そしてもちろん、秀吉との戦い。明国ははたして登場してくるのかどうか。
 山田風太郎がどこまでこの夢物語を広げようとしていたのか、いまはもう、知る由もない。
 しかし、この小説が完成していたら、風太郎の代表作の一つとしてまちがいなく数えられていたはずだし、また日本SF界にも大きな影響を与えていたことだろう。(いくら無名の新人を装っていたとはいえ、この作品の存在に当時SF界がまるで気づかなかったということは、考えてみると残念である。前述の理由で雑誌自体の流通部数が少なかったということが、原因の大きな一つなのかもしれない。)
 つづきが読みたい。



■読もうかなというSFが見あたらなくて、しかたがないから古本屋で千円で買ってたスティーヴン・ホーキング『ホーキング宇宙を語る』に手を出した。第二次ベストセラー期の真っ只中に読むという不細工な仕儀となりました。
 読みやすい本であります。この手の本にほとんど挫折してきているぼくが最後まで飽きずに読めたというだけでも、いい本であります。理工系の博士のみなさまは独断的なところが目につくといいますが、しろうとにそういう批評的読みを求めてはいけない。
 なにより、いろんな難しい理論をなるべく説明しないですまそうとするところがいい。いつもぼくは、そのへんで、筆者がわからせようとするところでわからなくなって崩壊していくのである。
 この本は、とにかくこういう難しい理論があるのだけれど、その内容についてはとりあえずおいといて、そういう問題提議がどうして生じてきたか、こういう理論でそれが結局こういうことだと説明できるようになった(そう筆者が言ってるのだから信じなさい!)。そのかわり、そのため今度はこういう問題が出てきて、それをだれそれが解決していくと、こんどはそのせいでまたこういう問題が出てきて、そういうことの積み重ねが今のいろんなことの答えなのだよと、これまで断片的に聞いていたいろんな話題を整理してわかりやすくしてくれた。理論そのものについてはわからないけど、理論によってこういうことが正しいことになったから、もうそのことについては疑問をもたなくてもよろしい、といってくれるわけである。だから、ぼくでも読める。
 ついでに理工学書が読めない理由というのもわかったような気がした。この本によると、ニュートンによって絶対空間の概念が、相対性理論によって絶対時間の概念が崩壊し、そうした相対空間、相対時間の座標のなかで、すべての論理が展開されるのが理科学であるということらしい。だけど、ぼくって自分のなかに、かなりうっとおしい不動点を作ってて、そこを基点とした絶対時間、絶対空間感覚を抱えこんでるみたいなのだ。うーむ。ヘーゲル主義者といわれてもしかたないかもしれない。
 たとえば、原書が読めないのも、そのせいかもしれない。日本語で構成された不動点から相対的な位置に意識を移し変えられない。ちがうかな。
 ホーキングの宇宙構造論って、ブラックホールのアナロジーみたいに感じたのですが、読みまちがいでしょうか。特異点を基点として虚の方向に空間的に展開し、事象の地平に、ついにたどりつけないのが、ブラックホールの内部であるとしたら、そのイメージを1階程あげて、ビッグバンを基点として、虚の方向に時空間的に展開し、事象の地平線のごときところに向かい、かつ永遠にたどりつけない(つまり内部にいる人間にとって宇宙は永続する)というのが、いまの宇宙だということのように読めた。具体的にはそういう文章はないんだけれど(たぶんなかったと思う)、本の構成、伏線のはりかたがそういう意見を言ってる気がする。
 この宇宙は四次元レベルの実数宇宙にぽっかり浮かんだブラックホール宇宙。その内部は虚数時空で満たされている。宇宙は虚数時空のなかをビッグバンに向けて吸いよせられてることになる。だから時間の方向は一様であり、未来に向かっているように感じることになる。
 宇宙は未来に向かって膨張しているのではなく、過去に向かって収縮しているということになる。そうであれば、宇宙を統べているのは、ビッグバンの爆発エネルギーではなく、四次元レベルにおけるある種の重力ということになる。
 うーむ。
 科学しているのではないような気がしてきた。
 ハードSFにさえならない。バリントン・ベイリーやってるような気がしてきた。この本を読んで、ルディ・ラッカーの『時空の支配者』を読みなおすと、もっぺん楽しめそう。

 この初出速度を生かして、ちょっと科学してみようと思ったら、うちの本棚にはこのての本が十冊以上もあった。通俗解説書ばかりだけれど。(古本屋で買いこんだまま、ページをめくった記憶がまるでない)。
 ジョン・テイラー『ブラックホール』、佐藤文隆『アインシュタインのたまご』、小尾信弥『宇宙の進化』までいってダウンした。
 
【現在からの注 うーむ。読んだんだ。内容どころか読んだ記憶が完璧にとんでいる。これにはちょっと茫然としたぞ。】

 ぼくにとってホーキングのおもしろさって、結局のところ内容でなくてドラマトゥルギーだったみたい。
 もしかしたら、今なら、ルディ・ラッカーの『かくれた世界』と『4次元の冒険』も読めるかもしれない。乞御期待。

 回顧趣味だか懐古趣味だか知んないけど、最近とみに、昔がたりの企画が増えてる。
 テレビのスペシャル番組にはいいかげん飽きてきた。SFでも、商業企画でいえばSFMの四百号とか『SFハンドブック』の一部にそういう情緒がまぎれこんでる。
 「てんぷらさんらいず」や「トーキングヘッズ」の特集だって、やっぱりその基調には同じ気分がうかがえる。
【現在からの注 「てんぷらさんらいず」は東京創元社勤務の小浜徹也だかヤングアダルトSF雑文書きの三村美衣だかどっちかが主催しているファンジン。四号だか五号だかで中断している。
「トーキングヘッズ」は東京で永田弘太郎氏が主催する硬派ファンジン。最近は商業雑誌にテイクオフしている。東京の「SFセミナー」の主催グループでもある。】

 よくない気がする。
 昭和を総括するとか、SFの全体像を浮かびあがらせようとかするのと、昔話をたれ流すのは、本来ちがうもののはずなのに、どこかでずれて楽なほうにごまかしているのでないか。そういうのって、たぶんぼくが暗黙裏に是認してきたSFの、こっぱずかしい〈フューチュリアン的精神〉の、逆のもののような気がする。そういう三つ子の魂が、冒険小説やホラーに向けた反発を育てているらしい。ひさしぶりに読み返したフレドリック・ブラウンのシリアス・ドラマの青くささなんか、読んでてけっこうジーンときたりする。
 なにを言いたいかというと、最近そういう文章を、人からもちかけられたり、自分から進んで、やたら書いてる気がするのである。
 反省であります。



●ファンタスティック・レビュー 6
   『アルジャーノンに花束を』
              ダニエル・キイス、アイザック・アシモフ
              &マーチン・グリーンバーグ編

 とんでもない本が出た。
 とにかく、目次を見てほしい。

 序文        アイザック・アシモフ
「アルジャーノンに花束を」          アーサー・C・クラーク
「アルジャーノンに花束を」           ケイト・ウィルヘルム
「アルジャーノンに花束を」           ポール・アンダースン
「アルジャーノンに花束を」           バリイ・マルツバーグ
「アルジャーノンに花束を」           アイザック・アシモフ
「アルジャーノンに花束を」          ブルース・スターリング
「アルジャーノンに花束を」          ディーン・R・クーンツ
「アルジャーノンに花束を」             C・J・チェリイ
「アルジャーノンに花束を」        オースン・スコット・カード
「アルジャーノンに花束を」             ダニエル・キイス

 まったくもって、とんでもない本である。この目次を実現させたというだけで、じゅうぶんほめちぎっていい。
 こんな馬鹿な企画に、有名作家がこれだけ並ぶと、もうそれだけで衝撃がある。しかも、じっさい、そのほとんどがまじめな力作なのである。もちろんつまらないのや、小手先遊びの作品もまじっているが、そんなことはオリジナル・アンソロジーの半分宿命みたいなもの。
 これだけの作家を乗り気にさせたというのはやっぱりすごい。作家たちのファン気質をじつにうまくひきだした。SF史上に残る画期的なアンソロジーである。(だけど、これでまた二番煎じがいっぱい出てくるんだろうな)
 発端はSF大会のファンをまじえたパーティの席上だったらしい。旧交をあたためあっていたアイザック・アシモフとダニアル・キイスの間で、「アルジャーノンに花束を」の話になって、『ヒューゴー賞傑作選』の序文にもなったどうしてあんな話が書けたのかといった話題がむしかえされたのだという。
 そのとき、あのタイトルのおかげかもしれないとかいった軽口に、ファンの一人がアシモフに、ならあのタイトルであなたも話を書いてみたらどうかとか言ったのだという。
 その場はジョークですんだのだけど、その後マーティン・グリーンバーグとの仕事の席で笑い話として持ちだしたら、あっという間にこの本ができてしまった、とアシモフは言う。あのときヒントを与えてくれたファンの人は連絡してもらえれば、企画料を払わせていただくとのこと。
 アシモフとグリーンバーグが、作家に対して課した条件はたったひとつ。タイトルを「アルジャーノンに花束を」にすることだけ。ダニエル・キイスの作品は意識してもしなくてもいい、ということだったけど、意識するなという方がはっきり言って無理な話。結局全員がキイスの作品の別ヴァージョン、あるいは後日談になってしまった。巨匠たちが、いろいろ手を変え品を変え、呻吟しながら、そのくせけっこうはしゃいでいる。そんな気分が伝わってくる好もしいアンソロジーになった。
 アーサー・C・クラークはつまらない。白鹿亭を舞台にしたマッド・サイエンストもののほら話の体裁で、鼠、猫、犬と順番に知能を高くしていく話を書いている。もともとぼくにはこのシリーズは退屈である。
 ディーン・R・クーンツは『戦慄のシャドウファイアー』の作者から想像のつくげてもの。知性化の第二段階で、アルジャーノンが兇暴になり、小さい怪獣と化してしまうのですねえ。そのアルジャーノンを殺して、墓に埋めたあと、チャーリーはどこかへ去っていきます。すでに変化の兆しがみえてきたからだで、泣きながらアルジャーノンを追いつめる闘争シーンが売り物。これが長篇だったら怪物になってアリス・キニアンを追っかけまわすのだろうか。考えるだけでもおぞましい。
 おかげで『アルジャーノンに花束を』が『ジキル博士とハイド氏』と意外に近い物語なのがわかった。
 『クルーイストン実験』を書いたケイト・ウイルヘルムはアリス・キニアンの日記である。じつのところ精薄者に対する優越感に由来したやさしさと同情にあふれたライフスタイルを身につけていたキニアンが、チャーリーの変化によって、みずからの無意識にもっていた偽善性を自覚し、精神的に追いつめられていく話。結末はハッピイエンドになるけれど、これだけシヴィアにやられると、読んでる方はそうとうしんどい。
 バリイ・マルツバーグは知性を付与されながら、生きる目的を与えられなかった、アルジャーノンが孤独とむなしさのなかで気が狂っていく話。これしか書けないんだろうか。
 暗い話ばかりじゃないんだよ。
 ポール・アンダースンはちょっとサイバーパンクを意識したみたい。死を予見したチャーリーが超知能を駆使して、マイクロチップに全人格を移し変えようとする話。当然、キニアン先生との肉体的接触は立たれるわけで、その別れのシーンを中心にチャーリーのラブ・ストーリーが語られる。最後に語り手がじつはすでに機械に移植されたチャーリーで、語っている相手はキニアン先生だったというオチがつく。まあ、可もなく不可もなくというところ。
 アイザック・アシモフは、この物語を学会での先陣争いをする科学者たちの物語として捉えなおす。栄誉をもとめるストラウス博士とニーマー教授の確執や責任回避のドタバタを、揶揄する調子で軽くしあげる。アルジャーノンが死んでからの関係者のパニックぶりが滑稽ななかにも真実味がある。
 ブルース・スターリングは凡作。
 C・J・チェリイはこの本のなかで、たぶんいちばんダニエル・キイスに正面きって立ち向かった。彼女はキイスのキャラクターからアリス・キニアンをはずしてしまう。
 かわりに主人公にしたのは、ネズミたちの世話係をしていた研究助手の女の子。アルジャーノンを仲立ちにした、彼女とチャーリー・ゴードンのラブ・ストーリイをきちんと書いた。
 原作との大きなちがいは精薄であったときのチャーリーを彼女が知識としては知っていても、実際には知らないこと。
 そのかわり、アルジャーノンの面倒をずっとみてきて、誰よりも早くチャーリーの将来に気がつくことになる。
 少女を主人公に書かれたこの小説は、チャーリーと一緒に研究所を去っていく彼女の別れの手紙で締めくくられる。
 もちろん、その結びの文面は例の二行。
 マニュアルどおりのいい話。
 さて、オースン・スコット・カードである。本書のなかではこの作品がいちばん長い。もともと泣かせとえぐさで定評のある作家だけに、生理的に反発しながら、結局いちばん期待して読んだ。
 アルジャーノンを使った実験のなかには、もちろん交配実験があった。そしてアルジャーノンに関するチャーリーの研究はとんでもない事実を発見する。
 アルジャーノンの子供たちは、きわめて希釈化されたかたちでアルジャーノンの意識を転写され、しかもその子供たち同士で感応しあっていたのである。
 すなわちアルジャーノンの子供たちは、その一匹一匹が、アルジャーノンというホログラムのかけらであり、大量の子供たちをつくることでアルジャーノンというホログラム体は生きつづけることができるのである。
 しかし、このことはつまりアルジャーノンを生かしつづけるために、それこそ鼠算式に増えていく個体を必要とすることになる。このことはチャーリーにとってははたして福音を意味することなのか。
 そしてチャーリーはミス・キニアンの懐妊を知る…
 最後のキイスの中篇にたどりついて、ほっとする。この原作と、C・J・チェリイの作品がなかったら、けっこういらついていた気がする。小説の出来としてはむしろ優れたもののほうが多いのだけど、「アルジャーノンに花束を」という題名から、どうしてもこちらが期待してしまう気分をかなえてくれるのは、結局この二つだけだった。



▼いつまでも過去の話にこだわらないように。
 科学する水鏡子は死にました。ルディ・ラッカーなんてきらいだ。
▼だけどいま読んでる本も、科学本であったりする。菊池誠先生からお借りした〈ネメシス〉本二冊。なかなかSFに復帰できない。
▼氷室冴子も『マイ・ディア』(角川文庫)なんて本を出す前に、出さなきゃならんものがあるだろうに。『碧の迷宮(下)』はどうなった。
 本そのものも気にいらない。角川タイアップ企画であるのはしかたないとしても、だからといって、角川本だけで本を作ってしまうのは、作家にとっても損だと思うのだけれどもね。
 もひとつ気にいらないのは、この本の小説を読みはじめたあたりについての文脈が、ぼくの〈アレ〉とシンクロニティしていること。
 この本の真似したみたいに思われるだろうなあ。やだなあ。
 逆にいえば、それだけこの本のスタンスの取り方には納得しているということにもなるわけだけどね。
 でも、やっぱりやだ。
▼ピアズ・アンソニイの『トータル・リコール』(文春文庫)ってとってもへん。
 もともと「追憶売ります」という中篇は、同じパターンのひっくりかえしをくりかえす、「おお、ブローベルになろう」なんかと同じ、メカニカルなてざわりの作品で、ぼくとしてはあんまり気にいらないタイプ、だからフィリップ・K・ディックの短篇ってつまらないんだ、と言ってしまう根拠みたいな話である。
 この原作の長篇化ということで、あんまり期待しないで読んでみると、これがどうしてなかなかたいへん。
 けだるい朝の目覚めのシーン。送りだされた職場の猥雑な雰囲気。融通の効かないロボット・タクシー。悪女の妻と夢の女。そして、現実崩壊感覚を引き起こす混乱(二〇八n)。
 まさしくディックの長篇の魅力を構成するシーンが次から次と現われる。これがシナリオどおりとすれば、相当のディック・フリークが参加しているはずである。
 ところが、そうしたシーンのことごとくが、読んでてちっともディックらしくない。
 最初っから最後までただひたすら疾走しまくるプロットは、シュワルツネッガーを主人公にしたアクション映画である以上これはもうしかたないこと。
 問題は、アンソニイがいかにもディックっぽいシーンをすこしもディックらしく書いてくれないこと。
 たとえば、まぬけなロボット・タクシーとのとんちんかんな会話といえば、『タイタンのゲームプレイヤー』の巻頭みたいにじつに楽しいはずのものなのに、アンソニーはとんでもなく野暮ったく描写していく。
 なにより、いかにもディックっぽい配置をなされた登場人物たちに関する心理的な絵ときに、ディックであったらやるはずの屈折したリアリティが感じられないのが致命的。
 おかげで本の読み方が、アンソニイの書いた小説にオーヴァーラップさせながら、もしこの小説をディックが書いていたら感じていた(はずである)と思われる読書感覚を想像しながら読むという、とってもへんな読み方になってしまった。
 じっさいそういう読み方が可能なくらい、ディックの長篇しているのである。ディックの長篇としてみた場合、並の水準を充分クリアーする話である。
 ただし、実際の、ピアズ・アンソニイの書いたこの本の評価としては下の上くらいがせいぜいという
 そういうへんな本である。
▼最近ファミコンの中古ソフトをいろいろ買いこんだりしているのだけど、「ドラクエW」や「FFV」をけなしたりするのが、どんなにおそれおおいことであるか、ようやくわかってきた。
 とにかくシナリオがひどい。竜頭蛇尾とか、クライマックスにむけてちゃんともりあげていってくれないとか、物語のイロハの部分がわかっていないしろものがほんとに多い。新書本よりはましかもしれないけれど。
 おかげで、こういうことをやると物語は面白くなくなるのだな、といったことが、けっこう実感できたりする。
 なんてったって、新書本とはちがってひとつの話を片づけるのに、最低三〇時間くらいかかるわけだから。むなしさを分析する時間というのがたっぷりある。
 最後までやったソフトを列記する。「忍者らほい」「ナイトガンダム物語」「SDガンダム・カプセル戦記」「神仙伝」「メルヴィルの炎」
 うーむ。こりないやつ!



●ファンタスティック・レビュー 7
   『深淵からの帰還』   グレゴリイ・ベンフォード

 『夜の大海の中で』にはじまるシリーズの外伝である。
 冗談からはじまったと考えてたぶんまちがいない話だけれど、ベンフォードは他の主要作品に対するときと同じくらい本腰を入れ、シリアスに物語を語っていく。
 本書では、ついに最後まで人類が登場しない。おそるべき肉体的な力をもつ異星人が、たったひとり(一匹?)で、しかもいかなるメカ装備もせず、徒手空拳でメカの大軍に立ち向かい、とうとう殲滅させてしまうという話である。ピカレスク・ロマンに似た爽快感がある。ハードSFの夢枕獏である。
 グレゴリイ・ベンフォードという作家が読みやすいというと、晦渋な文体にうんざりしたことのある人たちから、けっこう異議が出てきそう。だけど、たとえばくだけた日常語を多用するルディ・ラッカーなんかより、じつはベンフォードのほうがずっと読みやすい。
 どうして脈絡もなく、ラッカーなんて名前が出てきたかというと、ラッカーの読みにくさ、あるいはしんどさの根っこが、彼が作品中にちりばめている科学的思考というやつのせいであると思うからだ。
 ルディ・ラッカーとグレゴリイ・ベンフォード、本来、どちらがよりハードSFと呼ばれているかといったとき、十中八九ベンフォードの名前に比重がかかるはずである。けれどもじつはベンフォードを読む方が、科学的思考のもたらす違和感を咀嚼しないといけない緊張がラッカーなどよりはるかに少ない。
 グレゴリイ・ベンフォードには、未知のものへのあこがれに人一倍強いものがあるけれど、その未知のものが異質であるという認識をほんとうの意味ではもってないように思えるのだ。そうした異質な思考に対する鈍感さが、異星人とのコンタクトの物語に読者が共感をもって受けいれられる向こう受けするドラマ性を付与しているのだといえる。ベンフォードの読みやすさ、親しみやすさは、彼が度しがたいくらい人間的であり、異星人を描いても人間的な視点から脱することができないという点にある。
 スナーク、マンティスといったメカ、そして磁気生命やクゥアートたちがかわす会話の人間くささというものは、たとえばレムあたりならめちゃくちゃけなすレベルのものだ。人間でないものの思考の異質さを見せ物にしている小説でありながら、その異質さの認識は、たぶんアイザック・アシモフが『われはロボット』でやったものよりレベル的には後退している。
 ベンフォード批判のように聞こえることと思うけど、まあ批判ではあるのだけれど、これはあくまでベンフォードの本が読みやすく、親しみやすい説明であるというのをお忘れなく。だからベンフォードの本を読むという行為は、適度の知的興奮と適度の緊張を強いる本になっていて、読みやすく、親しみやすくて、怠堕なぼくはとても好きだと言いたいわけ。これは皮肉でもなんでもない本音である。ラッカーなんかどこでとんでもない異質さが顔を出すかわかんなくてどうってことないシーンでまで緊張を強いられるから、ほんとうのところ、あんまりたくさん読みたくない。そういう意味で、ベンフォードって、案外オースン・スコット・カードあたりと小説家として近いところにいる。ジャンル的に根強い支持を受けるのはこういう作家なのである。
 さて、なぜ、こんなことを長々と書いてきたかというと、こういうレベルで異星人を書くことができる作家であったから、この、登場人物実質異星人ひとりだけの話がちゃんとした、ドラマチックな長篇になったと言いたいのである。ソラリスの海が有機生命体としての同胞意識に目覚めてメカと戦ったりしたんでは、マンガにもならないと、思いませんか。
 とりあえずストーリーの紹介に移ろう。

 〈それ〉は星もまばらな銀河系のはずれの宇宙に浮かんでいた。
 遥かな昔、かれらの種族はならぶものなき宇宙の支配者だった。そのかれらの一族もいまはいない。かって、卑劣な策謀のもと、母星に集結したかれら一族は太陽の作為的なノヴァ化によって超新星の内部へと飲みこまれてしまったのである。不死身をもってなる一族をしても、どうしようもなかった。かれら一族は数千年の歳月をかけ、超新星の重力と高熱の檻のなかでじりじりとあぶられ、焼きつくされてしまったのである。ノヴァに飲みこまれることからかろうじて逃れ、逆に爆風にふきとばされて個体というのも〈それ〉を含めて何体かはいた。けれども、そうした個体もほとんどがまちかまえていた殲滅部隊によって徹底的に掃討されたにちがいなかった。そうでなければ復活を宣言する念波が銀河系の隅々までわたっていたはずだから。
 それももう遠い過去の話だった。極寒の、漆黒の宇宙空間に〈それ〉はひっそりうかんだまま、はるか彼方からやってくる、ほとんどとらえきれないほど微弱な恒星からの放射エネルギーを糧にして、不活性状態で生き長らえてきて、もう数億年の歳月が流れた。絶望のなかで、〈それ〉を生かしつづけてきたのは、〈それ〉の体内にある12個の卵であり、その卵を孵化すれば種族が再興できるという希望であった。
 かれらこそ、すべての種族の王だったのではなかったか。一個の個体が、一つの文明種族の総力戦に正面きって立ち向かい、打ち破る力をもつ、未曾有の生命体ではなかったか。かれらこそ、この大宇宙が生みだした、もっともすばらしい芸術品だった。
 〈それ〉は名をイクストルといった。

 イクストルが放射する規則的なパルスに反応して探査メカ、スナークが引き寄せられた。スナークのエネルギーを吸いつくし、不活性状態から目覚めたイクストルは、スナークが警告を発した星域へと慣性運動を開始する。スナークからの通信を受けた前哨基地はさっそく超A級要撃体制をとり、セクター本部との協議にはいる。本部は恒星間戦闘メカ部隊をイクストルと前哨基地を結ぶ航路へと向かわせる。

 おまえはヤマトかガンダムか、というような話になっていく。
 ひとつ敵と遭遇するたび、エネルギーを充填し、情報を増やし、どんどん眠らせていた能力をめざめさせ、どんどん強くなっていくところなど、ほとんどRPGののりである。もしかしたらゲーム化の意図があるのかもしれない。
 とにかく、メカ文明の真っ只中に突入していくわけだから、卵の宿主になる有機体がまるでいないということになり、イクストルはますます怒り狂うことになる。そして、情報の断片が集まるにしたがって、このメカ対有機体文明の全体像がイクストル/読者の目の前にひろがってくる。『宇宙船ビーグル号』目当てで買った一見の読者にこうやって彼のシリーズを宣伝しようというわけである。
 そして、物語の中盤で、ついにイクストルは宿主探しを断念する。イクストルは有機体文明の代表者として、メカ文明を殲滅する決意を固めるのである。
 なぜならイクストルこそ大宇宙の作りだした芸術品、有機体種族の王だったのではなかったか。たとえ、追われし王であっても、みずからの誇りと尊厳をかけ、王たる責務を果たさなければならない。
 かくしてイクストルは身に寸鉄も帯びることなく、メカに立ち向かっていく。
 あらゆるメカ装備を排除して、なんて、本シリーズでやってることの逆をやるわけだけど、とにかく強いんだもんね。これだけ強けりゃ、そりゃサイボーグ化もモビルスーツをいらないわ。
 最後になって、メカ文明の誕生についてひとつの解釈がでてくる。
 メカたちのもとというのは、イクストルの敵対種族がイクストル掃討のため銀河全体に放ったロボットたちでなかったか、というわけである。
 ベンフォードは慎重にひとつの解釈でしかないと、真実性については保留してみせる。このあたり、本シリーズでメカの起源が重要なテーマとしてあがってきたときの予防線ということなのだろう。そのへんの計算のしかたはさすがプロということだろうか。
 アイデアとしてはわるくないんだけれど、最初にいったような、イクストルの心理があまりに人間的なのに反発する人もいると思う。



 12月1日(土) 京都フェス。京都宿泊。
 12月2日(日) 京都。帰宅深夜12時。
 12月3日(月) 仕事にいく。終業と同時に新幹線。東京。大森望邸宿泊。「桃伝2」開始。
 12月4日(火) 早川書房にいく。白石朗先生と晩飯する。関東KSFA、TOMON例会出席。小浜徹也先生と晩飯。大森邸帰宅。細美遥子先生ご到着。なんか飯を食ったような気がする。もう食事サイクルがわからなくなっている。「桃伝2」やる。
 12月5日(水) お留守番。晩飯を食う。ものたりなくておにぎりを買う。すぐ食べる。「桃伝2」やる。夜中に焼き肉を食べにいく。
 うーむ。朝飯とか昼飯とかいうのを食べた記憶があんまりない。
 12月6日(木) 「桃伝2」おわらず。(はっきりいって、必死になるほどおもしろくはなかった。未練はあんまり残ってない)細美と小浜先生にあって時間つぶしをしたあと、中村融先生と合流して、熱海の翻訳勉強会にいく。
 12月6日(夜) 勉強会。スクラブルをやる。伊藤さんと浅倉さんにアレをみせて、ヤバい部分について事前の了解をもらおうとする。
 12月7日(金) 岡山県湯郷温泉に直行。職場の忘年会である。さすがに疲れている。カチカチ(カブ札を使ったゲーム)で惨敗する。
 12月8日(土) 帰宅する。十五時間寝る。
 12月9日(日) 大阪。KSFA例会。

 と、まあ、遊びほうけてまいりました。家で晩飯を食ったのは、8日の晩1日だけ。とても、まっとうなサラリーマンとは思えません。翻訳勉強会というのも平日でない日に設定してほしい。平日でもいくけどさあ。有給4日まとめ取りって、けっこう目だつのでございますよ。
 とりあえず、収穫がひとつ。「ニュースセンター9時」「ニュースステーション」「築紫哲也」「木村太郎」という9時から1時までの毎日恒例、惰性TVスケジュールから解放された。これを機会に、なんとか、TVをつけない生活態度を確立させたい!
【現在からの注 なんか前にも書いてなかったか。】


 矢作俊彦の『スズキさんの休息と遍歴』(新潮社)を読んだ。(たぶん)ドンキホーテのプロットをヴォネガットのスタイルでなぞりながらいまの時代を怒っている、ノスタルジイがすてきな本。ラストの手練が姑息に思えたのだけれど、あれってドンキホーテと対応したものなんだろう。子供のとき子供向けで読んだきりだから、忘れてしまった。★★★★☆
 スティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』(福武)を読んだ。これって、絶対にデーニアという女が主人公の話で、バニング・ジェーンライトなんて脇役でしかないと思うのだけど、訳者の解説も、惹き文句を書いた編集者も、ぼくとちがう本を読んでるみたいに話のとらえかたがちがっている。自分の方が正しいというには、ぼくも話がもひとつよくわかってなかったりするんだけどさ。★★★★
 アイザック・アシモフの『ネメシス』について。
 京フェスでもひとしきりぼやいたことでありますが、解説でその作者をほめるため、苦しまぎれの理屈をひねりだしてみたところ、作った理屈に反論できなくなって、この作家よりすごい作家はこの世にいない!というすごい結論ができてしまった。
 困ったことに、書いてしまうとあれはあれで正しいように思えてくるから、しまつがわるい。
 だれかきちんと、そんなことはない、あの理屈はおかしい、と否定してくださいませ。
 いいことかわるいことかよくわからないのだけど、わたしゃこれまで解説を書くために読んで、怒った本ってひとつもない。なんとなくその本と作者に擦り寄っちゃうんだわ。すりすり。呑んでかかれる本だとそれなりにかわいくなるし、まじで立ち向かう本であれば、当然、敬意を表してしまう。
 それだけぜいたくな仕事をさせてもらっているということかもしれない。(でもそれだけでもないような気がする。その本を読んで怒る人っているから)

 早川文庫の最新版・解説目録から、早々とリチャード・ホイトの『シスキューの対決』が消えたという悲しい話(それに『デコイの男』『ハリーを探せ』も早晩同じ運命をたどることになりそう、ホイトの本が訳される見こみは当分ないといった話)をいろいろしたものだから、ついパラパラと『シスキューの対決』を読み返してしまった。
 いい話なのにねえ。ミステリがこんだけバカスカ訳されるのに、どうしてピーター・ディッキンスンやリチャード・ホイトみたいな、ぼくの好きな作家は冷遇されるんだろう。



●ファンタスティック・レビュー 8
 『帝国の建設者』   フィリップ・K・ディック

 ディップ・トランプの朝は最悪の状態ではじまった。目覚しのベルと同時に、昨晩の妻とのあいだのいさかいの空気が再現されたのである。
 しくじった!と思った瞬間、周囲の空気はみるまになごやかなものとなり、就寝中に昨夜のいさかいが解消されている、すがすがしい朝に変化した。
 ディップはほっとする。おそらく目覚めたばかりの過去の自分が、この未来に気がついて時間線を移行させたにちがいなかった。
 しかしこうしたささいな時間線の移行が時間線エントロピーを増大させ、いまにたいへんなしっぺ返しをくらうことになることも、ディップがよく承知していることだった。
 ディップはA級時間線変更能力者である。意思の力によって、直前の未来をかれにとって望ましい時間線に移行させる力をもっている。彼の住むカンザスでもA級能力者は八人しかいなかった。
 のんびりと朝食を楽しんでいたディップのところに、雇い主のレオ・ランシターから緊急シグナルがはいる。
 ニューヨークからデトロイトに向かう〈ライン〉が観測されたのである。
 また、〈ゲーム〉がはじまったのだ。

 フィリップ・K・ディック、一九六三年の作品である。六二年、ディックはヒューゴー賞に輝く『高い城の男』を書き、彼の経歴中もっとも不調であった時期から復調する。ここからSF作家としてのディックのいちばんおいしい時期にはいる。この六二年から、『タイタンのゲーム・プレイヤー』『火星のタイム・スリップ』から『ブラッドマネー博士』『逆まわりの世界』を経て、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』で安定し、『銀河の壷直し』で推力を失う六九年までをディック中期と捉えているのが、ぼくのディック観であることは過去にも何度か書いている。同じ年に書かれた『タイタンのゲームプレイヤー』と同様、本書もゲームが作品の大きな要素を占めているが、その方面にはくわしくないので、実際にモデルとなっているゲームがあるのかどうかよくわからない。ただ、『タイタンのゲームプレイヤー』で出てくるゲームが実在しているらしいこと、ディックにしてはめずらしく、カンザスを舞台にしていることなどからして、本書の場合も実在するゲームが関係しているとみてたぶんまちがいなさそうだ。

 ゲーム性を意識してか、フィリップ・K・ディックが設定した世界はかなり強引である。この世界ではアメリカ合衆国が孤絶している。メキシコとカナダの一部は存在しているが、それでもアメリカの国境からしばらくいくと白い霧に阻まれてなにもみえなくなる。輸入品というものは存在するが、それらはたんに港湾都市部に出現するだけのもののようにみなされている。
 この世界を支配しているのは、人間たちの目に見えない謎の存在である。人々はかれらをビルダーと呼んでいる。
 ある日、突然、ある都市からある都市へ、〈ライン〉がひかれる。それから貨車が出現し、都市から都市に様々な物資が輸送されていくのである。物資の到着と同時に、対価とみなされる額の金が銀行の金庫の中から消失する。ビルダーたちはそうやって、たがいの得た金の額を競いあうらしいのである。
 一方、そうして確保された遠距離物資を人々は近くの他の都市に売りにいき、支払った対価の数倍の利益を得る。そうやって各都市は財産を増やし、増やした財産で近隣物資を買い入れ、ビルダーがその物資を買い取ってくれるのを待つのである。
 各都市はそうやって自分の勢力を拡大していく。
 〈ライン〉はどんどん拡大し、網の目のように合衆国全土に張りめぐらされる。そして物資の流通が頂点に達したある日、〈ライン〉はかき消されたように消失し、世界はふたたび平穏さを取り戻すのである。
 いったいビルダーがなんの意図で、どうやってそのようなことをやっているのか、そもそもかれらが何者なのかはだれもわからない。そういう世界の在り方がずうっとつづいてきているため、だれも不思議に思わなくなっている。しかも、かれらによって引き起こされる物資と富の流通は、確実に経済を活性化させ、人々の暮らしをよくしてくれていた。いつからか、人々はかれらの干渉を〈ゲーム〉と呼ぶようになっていた。
 そんな世界のなかで、各都市の支配者たちは、みずからの都市が合衆国全土の支配権を握る日を夢見て熾烈な権力闘争を繰り広げていた。そのための最重要戦略は〈ゲーム〉の時期において自分の都市が、交通の要路として、また物資の補給地、消費地として、いちばん重要な位置をしめることだった。
 ニューヨーク、シカゴ、カンザス、アトランタ、シアトル、ロサンゼルス。この六つの都市が、今のところ他を圧し、優位を得ていた。ランシター社はカンザス・シティの事実上の支配者だった。
 ビルダーの貨車には常に九つ(3×3)の、特定の物資を運んでいく行先が表示されている。物資を消費地に降ろした瞬間、そのうちの三つの行先表示が消滅し、新たな三つの行先が出現する。ディップの能力は、その表示変更の場に居あわせ、つぎの行先がカンザス・シティに有利になるように時間線を切り替えることに利用されるのである。
 もちろんこうした超能力者はすべての都市が活用していた。なかには行先表示のかわりに事故に襲われた時間線を呼びだす能力をもつものもいた。
 ランシターからディップはダラスの動きを妨害する指令を受ける。北米に水をあけられているアトランタが中西部の中継点をカンザスからダラスへと移行させ、南部に有利な大陸横断ルートを作ろうと画策しているのだという。アトランタはそのために、秘蔵していた過去改変能力者ポーリン・パットまで送りこんできたのである。
 ディップは、さっそく、対パット要員として中和能力をもつ女の子、ナンシイ・パランスをつれて、ダラスへ向かう。だが、ナンシイの中和能力は、ディップの予想をはるかにこえる強力なものだった。かれの知っている中和能力者というのは、能力者が能力を行なう場にいあわせ、その効果を消してしまう能力だった。
 ところが、ナンシイの能力はちがうかたちに発動する。彼女が能力を使うと、その場の一定区域の過去と未来がすべて不確定になってしまい、効果が終了するまで、どういう過去と未来に落着するかがわからないのである。しかもその能力は時間に対して重複して機能させられるのである。
 ディップの旅はだんだんと悪夢のようになっていく。
 ナンシイの影響下で、ディップの指令の内容は微妙に変化していく。敵はダラスになったりヒューストンになったり、アトランタはまったく関与しなかったりする。
 それがナンシイの能力によるものか、それともこれまで彼がやってきた時間線変更の悪影響がでてきているのか、ディップにもよくわからなくなってくる。
 そして、ある日、ナンシイ・パランスが消滅する。ポーリン・パットが過去にさかのぼって、ナンシイの両親の結婚を妨害したのである。
 だがナンシイの能力は、消失しなかった。彼女は存在していた最後の瞬間につながっていたふたつの存在、ディップ・トランプとポーリン・パットを結ぶ線上で希釈化されて存在し、世界の時間線に影響を及ぼしつづけた。
 そして、ある日、ディップはポーリン・パットが存在しなくなっていることに気がつく。

 ストーリーは支離滅裂である。ダラス暗躍の背後にいたのはじつはランシターそのひとであるとか、そのランシターはオマハの念動者によって殺され、部下のC級過去改変能力者のせいで、生きても死んでもいない不確定の状態で幽冥境におくりこまれ、彼を通じて、ディップと消失したナンシイとがコミュニケートするとか、〈ライン〉を破壊してビルダーと対決しようとする宗教組織と、そんなことをしてもなにも意味がないと穏和に話す宗教組織の教祖であるとか、書き漏らしたことは山のようにある。翻訳が出ることがあったら、じっくり読んでみるように。正直なところ、わたしゃ途中で何がおこってどうなってるのかよくわからなくなってしまった。
 なんで、ディップがビルダーと〈ライン〉のひきあいをしなけりゃいけないんだろう。
 『タイタンのゲームプレイヤー』のプロットにちょっと『電気羊』を連想させるところがあったように、本書の場合、『ユービック』を連想させる部分がある。