【1989】


■天皇陛下の崩御なされた一月七日の土曜の午後、NHK教育テレビをぶっとうして見てたら、頭がすっかり高尚してしまった。だあってさ、ファイナルファンタジー2なんかとっくに終わってカオルねえさんに貸しちゃったし、あらためて見ようってヴィデオもないしさあ、『降伏の儀式』片手にあれつけとくしか仕方ないんだもん。そうやって到達した真理のひとつが、ニーヴン&パーネルはNHK教育と合わない、ということ。
 『降伏の儀式』は星☆☆だけど、けっこうに楽しんだ。小説の粗っぽさ、野蛮さ、デリカシーの欠如、と数えあげていけばきりがないけど、だけどこういうダメさ/ヴァイタリティこそアメリカなんだ、ああアメリカを読んでいるんだという満足感がある。『地球防衛軍』という指摘は正しい。あのレベルから小説の知性がまるで向上していない。たまにこういうバカを読むのは好きだ。
 『北里マドンナ』(集英社)☆☆、『冬のディーン、夏のナタリー1』(コバルト)☆☆、『レディ・アンをさがして』(角川)☆☆。氷室冴子本としてはどれも不満。しいてあげれば『冬のディーン、夏のナタリー』。ボーイ・ミーツ・ガールのまるっきりなかみのない話がこうも抵抗なく読めるというのが凄い。これからあと作者の気の入れかた次第でどうころぶかわからない可能性がある。あとの二つはそういう意味での期待がもてない。うしろむきの作品である。
■『北里マドンナ』には失望した。『なぎさボーイ』『多恵子ガール』の続編を構成するにはあまりに低調すぎる。森北里という主人公設定が失敗だった、というのが周囲の一般的な意見だけど、そしてそれも正しいと思うけれども、それ以上に許せないのが槙修子の軟弱化である。主題が原田多恵子と槙修子の緊張関係からほかに移ったことである。前二作には現れなかったキャラクターを何人も登場させた作者の逃げの姿勢である。前にも書いたかもしれないけれど、槙修子/原田多恵子の関係は、作者にとって『さよならアルルカン』の語り直しの一面があった。『北里マドンナ』で、槙修子からそういうこわさが消えた。
 マイケル・ムアコック『ブラス伯爵』☆☆、『ギャラソームの戦士』☆、大長編の開幕を予兆させる第一作のあとは、いつもの読みきりムアコック。
 クリストファー・スターシェフ『グラマリエの魔法家族』☆☆☆。富士見文庫からどさくさまぎれにガチガチのSFが出た。封建制やら共産主義やら、こういう抽象概念をおもちゃにして、はしゃぎまわる話こそ、もっともSFらしいSFなのだと思うのだけど、最近のSFってのは長くなれば長くなるほど、こうした概念とたわむれることができなくなっていっている。ハーラン・エリスン、サミュエル・R・ディレイニー、ロジャー・ゼラズニーからアーシュラ・K・ル・グィンの時代のあたりまで、そういう作法は当然のものとして定着していた気がするのですがね。すくなくともまっとうなSFに関しては。そういう意味ではやっぱり「スター・ウォーズ」というのが悪かったのかもしれない。こいつのヒットと雨後の竹の子が暗黙の裡の水準点というバケツの底を抜いてしまったような気がする。この小説を、友成純一の『恐怖の暗黒魔王』(双葉ノヴェルズ)と一緒に読むと、いっそう楽しみが増すはずである。
 グレッグ・ベア『蛇の魔術師』☆☆☆。といっても☆☆に近い。長い長い話が、別にさしたる意外性もなく、なるようになって終わったということです。グレッグ・ベア/ポール・アンダースン論については、いずれどこかできちんとけりをつけます。
 菊地秀行『魔界都市ブルース2』(詳伝社)☆☆。最悪の状態からはなんとか持ち直した気配がある。菊地秀行のセンチメンタル路線に分類される作品処理が行われていて、この路線というのは、ぼくにはわりとうっとおしい。この本にはかなりすごい話がひとつある。第四話「Aという名の依頼人」で、セルフ・パロディ的な部分があるのでこのシリーズを読んできてない人間にどこまで楽しめるかは疑問だけれど、キャラクターの右往左往が魅力的である。ただし、作者自身、アイデアを扱いかねた気配があり、出来栄えとしてかならずしも満足いく、とは言いがたい。『血闘士』(光文社)も☆☆☆よりの☆☆。
 『亡霊のゲームボード』(教養文庫)☆☆。《ゲーミング・マギ》第二作は褒めるのもけなすのも難しい中途半端な作品。たんなる中間地点でしかないんだもん。ただ、いろいろと趣向をこらした努力のみえた一作目とくらべると、退屈で見覚えのある、なじみぶかいストーリーへと収斂しそうな予感がある。所詮デヴィッド・ビショフか。
 最後に『FFU』☆☆☆。複雑なストーリー・ラインという前評判だったけど、手間がかかるというだけで、展開が不自然すぎる。こういうのを立派なシナリオだと褒める手合いの読書評はまずまちがいなく信用しないほうがいい。小説だったら星☆。物語としてのふくらみは、『桃太郎伝説』よりもはるかに貧しい。『ドラクエ3』と比較しようなど、おこがましさもはなはだしい。




■引っ越します。新しい家では、六畳二間と四畳半がぼくの部屋になります。書斎ができます。テレビ/ビデオ/ファミコンのある部屋と、本とワープロと机のある部屋とに区分けを予定しております。すこしは仕事をするようになるかもしれません。それとも本のある部屋に寄りつかなくなるか。どちらかでしょう。不安なのは、これが全部二階の部屋になるということ。二トンを超える(たぶん数年で三トンに達する)本を、床が支えることが出来るでしょうか。乞御期待。
 自分で呆然としているのだけど、洋書をみかん箱に詰めていったら、十八箱になってしまった。翻訳の出た本はどんどんどんどん放出していき、宿賃代わりに持ってった本もあったりして百冊以上減ったはずなのにねえ。知らない人もいると思うから教えたげるけど、わたしは英語が読めないのである。読めない人間が、これだけの本を集めているのは立派でしょうか、馬鹿でしょうか。
 P・D・ジェームス『女には向かない職業』☆☆☆。読んで驚いた。女流本格ミステリの第一人者のひとりと聞いてたけれど、ミステリ部分の仕掛けの粗雑さは、日本作家の新書本と遜色のない出来。だけど小説のたのしみはちゃんとしている。
 リチャード・ホイト『デコイの男』☆☆☆。『シスキューの対決』☆☆☆☆。二転三転どんどんはめがはずれていくのに、それでいて荒唐無稽の寸前で踏み止まる、踏み止まっていないか。それでも展開に不自然さを感じさせないうまさは感嘆の一語。まだ読んでないひとは、とにかく『シスキューの対決』冒頭のシーンを読むこと。それでおもしろくなかったら、読まなくてもよろしい。マニアのベストをみると、二作に票が割れた点を差し引いても、もうひとつふるわない。八八年ベスト5にこのどちらかの名前を入れていないミステリ評論家の指図については、すくなくとも、おもしろい小説を読もうとミステリに手を出す人は無視していい、FFUのシナリオを絶賛する人の小説評価を馬鹿にしてかまわないのとおんなじくらい。
 ロデリック・ソープ『ダイ・ハード』(新潮)☆☆☆。けっこうしがらみめいたところが重たくて、アクション主体の展開をひきしめている。たぶん映画よりいいような気がする。黒丸尚訳の本をいっぱい読んだけど、ここ三年くらいのなかではこの本がベスト。
 ローレンス・ブロック『八百万の死にざま』☆☆☆。アル中の自己憐愍ムードが売り物なんだろうけど、甘ったるくて冗長すぎる。村上春樹を引用しまくる「ヒル・ストリート・ブルース」のラルーといったところだろうか。だけどラルーは所詮ラルーであって、村上春樹ではない。『聖なる酒場の挽歌』(二見)☆☆☆はかなり気にいった。ただし、気にいったのは、最後の数十ページの処理で、そこまでは前作ほどのうっとうしさはないものの、可もなく不可もなしというところ。この二冊がベストであるなら、まあ、どうでもいい作家。
 ウオーレン・マーフィー『二日酔いのバラード』☆☆☆。これは気持ちよく読めた。トレースとチコ、別れた女房、その他いろいろ知り合い同士の会話が楽しい。そういう面で知的な作家。けれども、小説構成に知性がたりない。会話のしゃれっけが話の筋にあんまりからんでこない。そのへんがホイトとの差なんだと思う。
 ロバート・パーカー『約束の地』☆☆☆。はじめて読んだわけだけど、スペンサーの性格がきらいだ。ホークとかスーザンとか、脇役は気に入った。まあ、もう何冊か読んでみるつもりはある。
 『恋する女たち』を見た。氷室冴子の映画でもなく、大森一樹の映画でもなく、斎藤由貴の映画だった。二時間という時間枠がたぶん最大の原因でしょう。小説のなかでのキメのセリフばかりが連発されて、少女たちの日常の、流れていく時間が表現されない。キメというのはあくまでも、だらだらつづく日常の、分節であってはじめて値打ちが出てくるもののはず。日常の時間の記憶を背後にもたないキメの連打は、作品のシノプシスを形成するにすぎない。六時間はほしかった。




■「里見八犬伝」☆☆☆。ファミコン・ソフトである。オリジナリティがみごとにないんだよねえ。ドラクエのゲーム・プロットをほとんどそっくりパクっている。だからよくないというひとも多いんだけど、こういうのこそ、むかしポール・アンダースンも主張した「ジャンルの発展にもっとも必要不可欠な」、「質の高い凡作」にほかならない。こうした、安心して遊べる、だけどやってもやらなくてもおんなじものがいっぱいでてきてはじめて、エンターテインメントとしての市場は成熟する。オリジナリティなんてその次の問題じゃないんでしょうか。
 そりゃあ、結構に破綻をきたしても、それを補って余りあるほど、オリジナリティに自負を持ってる場合は別だけどね。でもドラクエだって、ウィズだって、オリジナリティ以上にエンターテインメントの安定感を大切にしてると思うのですね。
 「源平討魔伝」・ カス!。
 氷室冴子『ジャパネスク4』(コバルト)☆☆☆。平和である。のどかだ。ものたりないよお。
 『大いなる天上の河』☆☆。グレゴリイ・ベンフォードはこのままだめになっていくのだろうか。キャラクターに託された、作者の思いのたけこそ読みどころである作家であったはずなのに、なんなのだ、この型どおりのお話は。あたらしいデータをいくらほうりこんでも、垢まみれのヴィジョンは所詮垢まみれ。おまけに思いのたけのほうまで、中身の薄い、単なるスタイル、形骸に堕してしまっている。ポール・アンダースンやグレッグ・ベアならともかく、わたしゃベンフォードのフォーミュラ・フィクションなんか読みたくない。
 ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァードライヴ』☆☆☆。こんなもんでしょう。
 パトリック・ジュースキント『香水』(文春)☆☆☆。☆☆☆☆をつけてもいい。求道小説の伝統的結構を安易に流れずきちんと処理している。型通りの小説というのは、本人が楽してしまって思考停止に陥らなければ、すごくちゃんとした小説になるという、見本みたいな作品である。
 デイヴィッド・エディングス『勝負の終り』☆☆☆。全5巻のなかで、一番できは悪い。とにかくめったやたらと数の多い登場人物を、大団円ということで、全部出演させて、しかもさまざまなエピソードのそれぞれに全部けりをつけようというわけだから、さすがのエディングスの技量をもってしても手に余ったという感じ。
 『青ひげ』☆☆。すっかり嘘臭い作家になってしまった、ヴォネガット。
 夢枕獏『呪禁道士』(詳伝社)☆☆。いつになったら『新・魔獣狩り』を読めるのでしょうか。
 『幻魔大戦@−S』☆☆。あはは。古本屋で二十冊五百円というのをみつけちゃって、衝動的に買って、二日で読んだ。SFアドヴェンチャーで途中まで読んでた『真・幻魔大戦』よりいい。そこそこ、つかず離れずの姿勢も取ろうとはしている。十巻目過ぎたあたりで、さすがに死にかけたけど、なんだかんだ言っても、やっぱりSF作家である。そこらの新書本とは格がちがう。
 マイケル・ムアコック『タネローンを求めて』☆☆。意余って力足らず。
 『殺人プログラム』(光文社)☆☆。ディーン・R・クーンツって、やっぱりこだわれる作家にできない。自分の書いた小説に対するこだわりみたいなものが、なんか作者のなかにないみたい。おんなじからっぽでも、なにかをこめようとしてこめるものがないヴォネガットなんかより、まだいさぎよい、とはいえるだろうけど。
 『ミステリーは眠りを殺す』☆。ミステリーのブック・ガイドって、SFや、その他のジャンルの小説や、一般科学書なんかのブック・ガイドにくらべて、ずっとらくらく書けてるような気がする。
 B・エヴスリン『フィン・マックールの冒険』☆☆☆☆。前々から評判を聞いていた教養文庫のアイルランド英雄伝説。やっと手にいれたのだけど、評判通りおもしろい。もっと、素朴なものを予想していたのだけれど、なんのなんの。ラファティ・ファンの必読本、それともラファティ・ファン読むべからず本、というべきだろうか。これで、ラファティの小説を、SF論の延長のみで押さえることは、はっきり言って、できなくなった。語り口にもう少し活達さが備われば、ラファテイの小説といわれたってわからない。
 結局、今月のお勧め品は『香水』と『フィン・マックールの冒険』の二本。あとは、まあ、だれても氷室冴子、の『ジャパネスク4』といったところ。




■人事異動が発令されました。これまでの業務とまるっきり畑ちがいのところに行ってしまって、慣れるまでしばらく時間がかかりそうですが、仕事量そのものは、どうやらほとんど残業しなくてすみそう。年間で、多くて百時間もいかないだろうといううわさ。なんたって、去年なんか六百時間を越えてたんだもんね。有給休暇も消化できるかもしれない。この差は大きい。
 と、にこにこばかりもしてられなくて、自由時間が増えたことはいいのだけれど、当然のことながら、さきだつものに不自由しだした。
 残業で入ってきていた金がなくなった。住宅ローンの返済で、毎月給料袋から二万いくらがさっぴかれる。借家というのでもらえてた住宅手当が、持ち家になってなくなってしまった。
 家には月々定額を入れるということで、のこりの残業分を全部小遣いにしていただけに、このままだと月々の小遣いが、ローン等で差し引かれる分とあわせると、コンスタントに十万以上減ってしまうことになる。助けてください。(という事態になって、はじめてわたしは毎月ならすと十万以上の小遣いを使っているのに気がついた。これじゃあ、一月の小遣い二万、三万円という所帯持ちの人間と人生観はちがってくるわなあ。)
 しかしまあ。
 それにしても。
 こうなると、もう、天の声である。
 天皇が死んだのはともかく、あわせるように手塚治虫がなくなって、松下幸之助が死んで、まさにひとつの時代の終わった感がある。関係ないけど。
 この同じ年に、家は買う羽目になるわ(&借金を背負うことになるわ、本の部屋とテレビの部屋を分けることになるわ)、職場は変わるわ(&時間はできるわ、金はなくなるわ)、ついでに妹のほうもどうやら片づきそうになるわで、これはもう、天がみずからわたしに対し、だらだらしないでここらできちんと人生のけじめをつけろと言っているとしか、思えない。周りを見ても、会社をやめる(といっとる)やつやら、東南アジアに行くやつやら、激変が起きている。
 うーむ。考えなければならないのかな、と考えてたら、とどめといっていいような事件が起きた。
 なんと。

  ファミコンがこわれた!

 ことここにいたっては、いかなめんどくさがりのわたしとても、覚悟を決めるしかない。
 けじめをつける(努力をしてみる)!
 けじめをつけるといったって、なにをしたらいいかとなると、アレか、アレのどっちかくらいのものしかない。
 で、まあ、アレは、はっきり言って、ジョークの世界にいってしまうので、アレのほうをする。
  本気でする!
 夏の終わりごろまでに、一応の目鼻を立てる。そうでないと、ドラクエWで、けじめもなにもガチャガチャになってしまう。わっはっは。
 そういうわけで、だらだらのひとつの象徴ともいえる、ザッタのこの連載を中断する。ノヴァ・マンスリイの方も同様。ただし、SFMの考課表については、もうほとんど書き込んでいるのでこのあとも送る予定。




●水鏡子、政治を語る

 いやあ。
 また書いちゃった。書けといわれると、書けなくなるのに、書かないと宣言すると、どうしてこんなに書きたくなるんでしょうね、まったく。
 ダイナコンのメッセージにも書いたのだけど、とにかく今年は世の中が、めったやたらとおもしろい。
 いくら自由奔放と叫んでみたって、小説というのは、読者を意識した美学的な枠組みの制約があって、めちゃくちゃやるにも限界がある。限界を越えてしまうと、リアリティに欠けるって切り捨てられたりしちゃって。それにくらべて、実際の《リアル》のほうはどんなにむちゃをやったって、そんなむちゃな!と絶句するのが精一杯で、リアルでないなど誰にも言われず、臨場感が増すのだからおかしな話じゃありませんか。疾風怒涛する現実の前には、フィクションなんていかにひよわな花なのかと、痛切に感じる。いま参議員選挙の発表を喜々としながら聞きながら、ハイになって書いてるのだけど、三百議席にはじまって宇野スキャンダルまでつっぱしり、今夜にいたる、こんな話を小説でやったら、常識をしらない馬鹿しか書けない超愚作といわれたにちがいない。中村融がこだわっている怪作ってのはまさにこういうやつでしょう。とにかく馬鹿って、ほんとにこわい。あいつらが馬鹿だというのは自民党に三百議席をやったときに、はっきりわかって絶望したのだけど、今度の結果も、結局あの三百議席とメンタリティとしてはおんなじなのね。これで従来の国会戦術、ノウハウはすべて役に立たなくなった。消費税にほんとうは反対してないくせに、会議に出席して反対して、自民党の賛成多数で法案を成立させるというような、せこいテクニックは使えないし、反対しても多数決で負けるからと、ボイコットすることもできなくなる。与野党みんなの顔が立つ、消費税廃止法案の唯一可能な妥協案は、二年間の消費税凍結(その間の財源は自然増収と一部物品税の復活でまかなう)により充分な見直し期間を置いたあと、廃止を含めた見直しに着手するくらいのものかと思う。
 予算案を強行採決したりしたら、参議院で慎重審議の時間稼ぎをやってから、否決することができるから、暫定予算はばんばん出るし、年金法は、まずまちがいなく通過不可能になってしまったし、防衛費の1パーセント枠なんか、今後大きな取引材料に生まれ変わることだろう。高級官僚の皆様方は頭を抱えておられることでしょう。大蔵省、厚生省、防衛庁あたり泣いているにちがいない。
 そんなことって、ほとんどなんにも考えてないのね。とくに、おばさんたち。選挙前にやっていた参議院選挙の結果として、どういうことに興味があるかというアンケートに、おとこの意見のトップにくるのが自民党政治の今後、という問題なのにおばさんたちの意見のなかには影もかたちみえない。消費税とか、政治改革とか、そういうトピックしかでてこない。男性たちのつくりあげた社会という枠組みから、おばさんたちと若者がスポイルされているということの見本みたいな男女の意識の差異だといえる。「男たちの知らない女」で語られていることって、じつはそういうことであるのですね。逆にそういう扱いをやってきたから、スポイルしてきた人間たちに社会の枠組みがしっぺがえしをくらわされたともいえるのだ。生活保守主義ってのは、要するに、スポイルする側される側双方が現状の体制を是認していたということを、かざりのいい言葉で言ってただけなのである。スポイルされてきているから三百議席を自民党にやることも、常勝一人区二六議席を、野党と総入れ換えするようなことも平気でできるのですね。世論調査をやったマスコミ各社が自分の調査結果を信用できなかったくらいのむちゃくちゃである。(それにしてもあの世論調査の結果を最初に発表したとき、関係者って相当びびっていたにちがいない。)消費税やら農業自由化やら、やったらきらわれるのに決まっていることを、なんで自民党がやんなきゃならなかったかてなふうには、ぜーんぜん考えてくれないんだもんね、あのひとたち。(農政問題についての農民の選択は許せる。あれを、消費税きらいのおばさんたちと一緒にするのはいけないことだ。)
 そういえば、云歳にして、生まれて初めて選挙権を行使した(やっぱり社会党にいれたらしい)神戸在住某女性翻訳家は、一人区と複数区と比例区とのちがいがとうとうわからなかったということである。
 自民党がどうなるかばかりクローズアップされてるけれど、たいへんなのは社会党だって野党だっておんなじなんだよ。かざりもののはずだった土井委員長がやたらでかくなってしかも子飼いの勢力をつくっちゃったりしたせいで、右派も左派もはっきりいって動きがとれなくなってしまった。社会、公明、民社、共産、別の路線とどの程度妥協できるかの差はあるけれど、はっきりいってどこも本質的に組織政党なのである。土井グループというのは、むしろ市民運動的色彩の強いアンチ組織型の体質で、ああいう連中が、国民多数の支持をバックに野党の最強グループを形勢すると、組織がどれだけ混乱するか、今後がけっこうたのしい。
 うーむ。
 最近になって、やっとわかってきたのだけど、わたしゃどうやら、根っこのところで、自民党の支持者であるらしいのだ。うまれてこのかた一度として、自民党に票をいれたことはないし、たぶん今後も入れることはないだろうけど、どうやらあれは、自民党がきらいなのでなく政権党がきらいなだけであるらしい。
 だってさ、人材の層の厚さって、野党全部をひっくるめてもたぶん自民党の半分もいないように思えるもの。長崎市長みたいなのもいれば、大臣の椅子を振っても、自分の主義を曲げないこまったひとたちもいっぱいいるし、あれだけの性根をもった連中をあれだけそろえてしかも許容していく度量というのは、ほかの党にはほとんどないもの。まあ、それも政権党であるからという面が大きいのだとはおもうけど。
 では、自民党が政権の座からすべり落ちれば、自民党を応援するかといえば、たぶんやっぱり応援しない。だって、えらいところでふんぞりかえっていた連中が転落していくのって、やっぱりみててたのしいもん。そういうわけで、今後とも自民党に投票することってないだろうな、と思うのです。それでも今後、支持政党は自民党と書くことにしよう。
 それにしても、不安なのは社会党にはたしてまともな政策立案能力があるかということ。反対決議、廃止法案のたぐいはまあできる。だけど、農政問題なんてどうすりゃいいと思ってるのでしょうね。たぶんなんにも考えてないにちがいない。なにせ今回は消費税で都市部の票を確保できるの胸算用から、すべての野党が農産物自由化反対をぶちあげてたもの。自民党も農水大臣と通産大臣を社会党にあげてみたらおもしろいのだけど。
 というわけで、社会党の人気をさらにアップし、人材を揃え、政策立案能力を強化する一石三鳥の方法をお話する。こんなところで書いたって意味ないのだけど。
 よろしいかな。
 どうせ、政策立案能力も、人材もないのだから、見栄や面子を捨てて、政策を国民から公募するのである。
 つまり、法案原案コンテストとでもいうようなもの。山積みする難問を解決する名案を外からもらい、それを党内で法律と擦り合わせ、肉付けをし、法案として提出するというわけ。
 まあ。原稿用紙二十枚から三十枚、優勝賞金1千万くらいのことはやってもいいんじゃないかね。悪くないけど、社会党の路線からはずれる、みたいなものまで公表しちゃって、賞を与え、民社や共産に紹介するくらいの度量をみせること。目的を大々的に発表しちゃえば、二億円くらい簡単に寄付で集まるはず。もちろん、寄付した相手の名前も金額をふくめてすべて大々的に発表する。このてのものなら、名前が出ても、寄付した人間はあんまりいやがらないはずだ。企業にとっては、宣伝にもなるし。
 セレモニーであるのだから、はではでしくやること。ぼくの構想としては、賞金対象作品として、一次審査で百本くらいのノミネートを、まず決定する。(おなじアイディアが集まれば、共同意見として処理をする。賞金は均等分割)
 それから、その百本を、ブロック別有識者会議にかける。つまり、五つくらいのジャンルの審査組織(ジャーナリズム、学者、難問当事者、社会党関係者など)を、それぞれ一五名から二〇名くらいで構成する。社会党関係者以外のブロックはできるかぎり党派色をうすめること。サンケイ新聞とか、右よりの学者なんかも入れたほうがいい。
 それで、それぞれのブロックが、おなじ百本の審査をし、上位5本を選び出す。これが第2次審査通過作となる。
 で、こうして選び出された、それぞれの五本をもって、各ブロックの代表者、(二名か三名)が最高会議を行ない、名案というのを、決定する。
  こういうことをやれば、有識者のあいだにおともだちも増えて、しぜんとシンパも出来てきて人材に加わってくる。政策にも柔軟性が出てくる。お祭りだから、マスコミもとびつく。うまくやれば、大ページェントを展開できる。あとは、すくなくとも百本のセレクションの段階までに、党派的色眼鏡による選別をやらないこと、応募策のアイデアの無断盗用をやらないこと、そういった点に注意すればいいかと思う。
 なかなかのもんだと思うのですがね。
 うーむ。
 なんでこんなに書けるのだろう。SFについても、こんな調子で書きたいよう。




◆みだれめも42以降の今年に入って買った本、読んだ本(評価順。秀・優・佳・良・並・凡・駄・愚。未=未読)
《早川》
リー 『熱夢の女王』(上・下) 優
ブレイロック 『ホムンクルス』 未
ブルックス 『魔法の王国売ります』 並
アンソニイ 『王女とドラゴン』 佳
スターリング 『蝉の女王』 並
エヴァンズ・他編『アザー・エデン』 良
アシモフ 『ミクロの決死圏』 未
マクラム 『暗黒太陽の浮気娘』 優
スミス 『ミス・メルヴィルの後悔』 佳
《創元》
ディック 『去年を待ちながら』 優
ディック 『ザップ・ガン』 優
ゼラズニイ 『アイ・オブ・キャット』 愚
フォールコン 『ナイトハンター1』 駄
フォールコン 『ナイトハンター2』 凡
クーンツ 『十二月の扉』(上・下) 凡
グラント 『死者たちの刻』 駄
グラント 『真夜中の響き』 未
《その他の海外作品》
クーンツ 『戦慄のシャドウファイヤー』 凡
スタシェフ 『グラマリエの魔法家族3・4』 凡
マルツバーグ他 『決戦!プローズ・ボール』 良
シェタリー・他編『いにしえの呪い』 凡
シェタリー・他編『緑の猫』 未
ネルヴァル 『暁の女王と精霊の王の物語』 未
オースター 『幽霊たち』 愚
《日本作家》
筒井康隆 『残像に口紅を』 良
夢枕獏 『月の王』 並
夢枕獏 『鮎師』 並
菊地秀行 『魔豹人』 凡
菊地秀行 『夜叉姫1』 凡
菊地秀行 『メフィスト・兄妹鬼』 凡
橋本治 『ハイスクール八犬伝4』 良
松尾由美 『異次元カフェテラス』 並
《その他の本》
呉智英 『大衆食堂の人々』 並
ブロード他 『背信の科学者たち』 未
米本昌平 『先端医療革命』 良
米本昌平 『遺伝管理社会』 良
米本昌平 『バイオエシックス』 並




●ティプトリー拾遺 アイザック・ディーネセン

 ティプトリーについてのひとつのヒントに、アイザック・ディーネセンという人をチェックするよう教えてくれたのは、小谷真理である。全然考えてなかった名前であります。彼女によると、この人の経歴がティプトリーと異様に似ているのだという。共通点を聞いてると、たしかにチェックしておく必要がある気がしてきた。
 おそろしいことに、日本で出たこの人の最初の本、『ノルダーナイの大洪水』(新潮社)がちゃんと本箱に入っている。読んでないけど。なんでこんな本が家にあるかといいますと、いまは亡き「幻想と怪奇」創刊号に載っていた「世界幻想文学作家名鑑」第一回の項目Bに、カレン・ブリクセンという名前が入っていたからである。そう。この人、アイザックという男名前で小説を書いていた女性作家なのであります。
 で、まあ、山室静の解説を読む。
 うーむ。
 異様だ。
 作品を読まないわけにはいかない気がしてきた。とにかく、長くなるけどこの解説の異様な部分を紹介する。
「彼女の文壇へのデビューはすい星の出現のように唐突だった。その名がそれまではまったく未知であったこと、しかも文体は極度に知的でげん学的でさえありながら、強烈鮮明な感覚性をもち、かつはふしぎな香気にあふれていたこと、題材はまたいずれも奇怪で異様で、読者を煙にまくていの屈曲と謎にみちていて、それまでのどんな作家の作とも類似点がなかった点において。そして最後にまた作者はデンマークの男爵夫人でありながら、アイザック・ディーネセンの男名前で、それも英語で書いて、それがアメリカでいきなり出版されたことにおいても」
 第一作品集一九三四年出版。当時アリス・ブラッドリー一九歳。
「(序文を書いたドロシイ・キャンフィールドは)作者について想像して、英語で書いてはあっても少しく格にはまらない点があるからイギリス人ではないだろうとし、また話の設定からたぶんシシリヤ人ではないだろうとしているだけで、作者がデンマーク人であること、まして女性であろうとは、まるっきり気がつかなかったふうだ。いったいに彼女の文体は乾いていて女性的でない。日本で似た文体の作家をあげるなら、芥川だろう」
 !!!
「それはともあれ、小説集はたちまち識者のこぞって認めるところとなり、一九四五年にして古典扱いを受けて『神曲』や『カラマーゾフの兄弟』などとならんで有名なモダン・ライブラリに加えられるにいたる。
 彼女は寡作であり、しかもわたしの見る限りでは、初期の三冊の本がやはり最もすぐれているようだ。少なくとも、最も興味があり、彼女らしい特色を鮮やかに打ち出している。
 これらの作は、欧米では既に20世紀の生んだ最も洗練された芸術的完成度をもつものとして、すこぶる高い評価をえている。しかも、その人にも、作品にも、つねにある解きがたい謎的部分があって、それが彼女に魔術師ないし魔女めいた妖しい魅惑をよんでいる。彼女はある作品の中の作家に、こんな信条を洩らさせている。
 私は悪魔と賭をしたのです。私の読者の魂を迷わせ、彼を恐怖で転倒させたり、風に乗って飛しょうさせたりすることを」
 !!!
 はっきり言って、この発言はエンターテインメントのジャンル作家の発言である。実際山室静というまじめな人間は、こうした文章を引用しながら、必死になって、彼女の《純文学的意図》の存在を確信しようと努力をしている。もうほとんど、単語を置き換えるだけで、ティプトリーについての文章になるような気がする。
 まだ話は終わっていない。
 この人の経歴の華やかさがまた、ティプトリーにまさるともおとらないしろものなのである。
「彼女の生家は、ユトランド半島の名家。父のアドルフ・ウィルヘルム・ディーネセンは一七歳にして軍人となり、普仏戦争その他を転戦した。その後軍人と戦争に嫌気がさして渡米、ウィスコンシンでインディアンの友として過ごしたときの記録集『狩の手紙』はいまもデンマーク文学の一古典となっている。娘カレンは、この父から、文才、コスモポリタン気質、旅と冒険への好み、未開の土人への共感など、ほとんどすべてを譲り受けたとみられる。」
「彼女は一八八五年、コペンハーゲン郊外で生まれた。(つまり第一短編集は四九歳の時に出版されたわけだ)。少女時代のことはよくわからないが、最初は画家志望(!)だったといい、またその才気と美貌で早くから社交界の花形だったようだ(!)。中背で、槍のようにすらりとまっすぐで、死人のように白い肌と、途方もなく大きな黒い眼をしていたという。」
「一九一四年、いとこのブリクセン男爵と結婚したが、まもなく社交界を捨てて、夫妻でアフリカ(!)に旅立ち、ケニヤ地方でライオン狩り(!)などをしていた。そこへ第一次大戦が勃発し、夫君は連合軍側に従軍、それっきり夫妻が再会した様子はなく、やがて正式に離婚した。カレンはヌゴング山の中腹に六千エーカーの土地を求めて原住民たちを相手に独力でコーヒー園を経営することになる。この経営は十六年間続いたものの、結局失敗し、アフリカをひきあげることになる。
 彼女が小説に手を染めたのは、この農場経営に失敗してからで、それは自分ひとりの慰めのためだったという。なぜ英語で書いたかといえば、デンマーク版の序文によると、それがデンマークの読者の興味を惹くとは思われなかったからだという。
 死んだのは、一九六三年の秋。死の前三四年は、いつもノーベル賞の有力候補になっていた」
 一九七〇年に出た本の解説だから、その後に出た彼女の選集だか全集だかには、もっとくわしい情報が載っていることと思う。とりあえず、この『ノルダーナイの大洪水』を読んでみて、気にいるようなら、そっちのほうも買ってみようかと思う。とりあえず、本で仕入れた情報はこれですべてであるのだけれど、小谷真理の思いついたことで、ぼくも支持したい推論として、ディネーセンとティプトリーやその母親とは顔なじみでなかったかという可能性がある。
 同じ時代にアフリカを傍若無人にのし歩いていた連中による、アフリカ欧米白人上流社会というサロンが成立していた確率は百パーセントといってよく、ディネーセンもティプトリーの母親もまずまちがいなく、そうした社交界(これもまた社交界であったはずだ。卑小とはいえSFコンヴェンションがそうであるのと同様に)における有名人だったはずだから。そう考えれば、昔なじみのおばさんが、かっこよくデビューして、万雷の歓呼を浴びる、その様子を、花もはじらうティプトリー一九歳の目に焼きつけた衝撃は、有形無形の記憶となって、小説を書こうとしたときの彼女の行動様式に大きな影響を与えたとしても、すこしの不思議もないかもしれない。
 なお、無謀無敵の上流社会のイメージは、イヴリン・E・スミスの『ミス・メルヴィルの後悔』(ミステリアス・プレス文庫)を参照していいのでないかと思っている。『暗黒太陽の浮気娘』(同)のSFファンの行状があのとおりであるのと同様に、『ミス・メルヴィル』の上流社会も、かなりマジに正しいのではないかという、相当おそろしい直感をわたしゃあの小説に感じている。

【現在からの註】
 とかなんとか言いながら、いまだにアイザック・ディーネセンを読んでない。本棚にはいつのまにか六冊くらいこの人の本が並んでいる。困ったもんだ。





■さて。
 まあいろいろあったわけですが、六六号でやりました休筆宣言の解除通告を行ないます。
 あんまり、気が進まんのだけど、一応期限を区切った宣言だった関係上やらんわけにはいかないみたい。
 弁解以外のなにものでもないのだけれど、とにかく天安門から参議院、宮崎くんまでニュースがめっちゃくっちゃにたのしくて、せっかくめざした禁欲的生活態度の腰を完全に折られてしまった。ふとんの上に横たわり、平野次郎から久米宏、木村太郎を拝顔する毎日でございました。アレはほとんど青写真を書いた段階から、進んでおりません。
 さいわいなことに、ドラクエWもこれまたいつ発売になることか予断を許さぬ状況で、これすなわち天の配済にほかならず、再度リプレイにかかることにあいなりました。
 とりあえず、アレの全容を発表させていただく。

 [書名]英米SFガイドマップ
  第一部 出版年別英米SF書籍一覧表
 一九二〇年から一九九〇年までの七〇年間に発表された英米のSFとファンタジイの出版物を、一年最高百冊までに限定し、一覧表を作成する。六〇年代以降については、日本作家の本も対照表として添付する。
  第二部 主要翻訳作品雑誌別一覧表
 みなさまおなじみ例のリストを、有名作品を強調するため、一部簡略化するかわり、スパンを二十年代から八〇年代まで拡大し、展開していく。
  第三部 編集者、SF雑誌、出版社、&作家
 年代別に、どの編集者、どの雑誌、どの出版社から、作家がいろんな作品を発表しているか、データを集めて、人脈地図を構成してみる。さらに、フューチュリアンに代表されるファン・グループ、地域別地図、ユダヤ系をはじめとする人種地図にも挑戦する。
  第四部 SF作家主要百人ビブリオグラフィー
 アシモフからティプトリーまで百人の作家を選び出し、中短編を網羅した完全リストをつくる。
  第五部 大索引

 以上。

 うそだよ、もちろん。うそ。
 そんなものがつくれるわけがないでしょうが。もちろんつくれるものならつくりたいけど、渡辺兄弟とぱらんてぃあと弘前大学がせいぞろいして、一年くらいぶっとおしでとりかからないとまずできない。
 うん?
 ふむ。
 そうか、それくらいのメンバーをそろえたらなんとかなるのか。
 ふーん。
 ねえねえ、山岸せんせ、あそばない?

 で、まあ、ほんとうのことを言いますと、本を1冊ださないか、というお勧めを、青心社から三年くらい前にいただいとりまして、うん、とは言ったものの、気力体力が続かなくて、約10枚書いたところでダウンしてそのままになっておりました。それをきちんとけじめをつけようと考えたりしたわけでございます。
 当初、ダウンした最大の原因は、すべてを書き下ろしでやるという構想のもと、書かねばならない分量に圧倒されたということがあったので、今回は、半分あまりを昔書いた文章でごまかそうとしております。それにしても、昔のぼくというのは、今のぼくよりだいぶんえらかったのだなあと、たとえば山田風太郎論なんかを読み返しながら感銘をうけております。内容自体もなんだけど、構成がやたら込み入っていて、枕で書いてただけと思っていた話が突然本論の伏線になって生き返ったりする。
 たぶんあの頃は、書いとかなきゃいけないと思うことがいっぱいあったんだなあと思う。分量十のところに十五の内容を詰め込もうとしてきゅうきゅうとしていたみたいな感じ。最近は、十の分量のところに七くらいしか書くことが思いつけず、それをなんとか九までにふくらまして、まだ足りない、書けないと頭を抱えることが多い。昔はひきのばす力というのがなかったこともさいわいしていたように思える。今もあんまりうまくないけど。
 ZOM氏はぼくに注文したのが、米村秀雄にジャック・ヴァンスの翻訳を依頼したより前のことだと編集長に言ったらしいけど、それはまちがいだからね。ぼくの方が半年くらい後のはずだ。
 とりあえず、詳細については次号でやるということですこし時間稼ぎをさせてもらうということで、今回は、大雑把な目次を載せるにとどめておきます。ZOM先生に、ザッタに書いてもいいんでしょうかと尋ねたら、仕上がりスケジュールをちゃんと書くならかまわない、と言われてしまった。というわけで、とりあえず
◎主要目次
 序章  いいかげんであること  一〇枚
[『トーキングヘッズ27号』]
 第一章 端緒としての『宇宙船ビーグル号の冒険』  五〇枚
[一部『ザッタ』]
 第二章 マニアリズム生成の基礎と背景について  五〇枚
 第三章 ポール・アンダースン SFの基本型式 一〇〇枚
[メインはSFセミナー『風太郎論』]
 第四章 深化と矮小化 SFの変動図式  六〇枚
 第五章 こだわりとしてのティプトリー 一〇〇枚
[過去に書いたティプトリーがらみの雑文を年代順に並べるだけ]
 終章  書くことと。読むことと。  一五枚

 詳細は次号で。

◇ジョージ・A・エフィンジャー『重力が衰えるとき』は、サイバーパンクうんぬんよりもハリイ・ハリスン『人間がいっぱい』とつないだ評価をしてほしい、泣きのはいったいい話。こういうタイプの探偵小説ってわりと好きであるのだね。三好徹の《天使》であるとか、かわぐちかいじの『ハード&ルーズ』であるとか。うーむ。すこし中年趣味のような気がする。翻訳がすごい。浅倉翻訳の中でも最上級に属するのではなかろうか。だけどSFのよさ、じゃあ全然ないもんなあ。一〇〇点満点で八十四点。
◇世評に高い矢野徹『ウィザードリイ日記』が文庫に落ちたということで、やっと読んだんだけど、ウィザードリイに関する部分がはっきりいって良くない。「ウィザードリイ」の日記であるというには、弱いキャラからパーティが、何度も死にかけながら、必死になって強いキャラへと成長していく過程での、入れ込みの臨場感に欠ける。二十八点。




(あなたのSFマニア度テスト)
1、D・R・クーンツの長編タイトルを『十二月の鍵』と言ってしまう。
2、ディックの長編タイトルを『さあ、去年を待とう』と言ってしまう。
3、『ゴースト・トレイン』の作者をスパイダー・ローズと言ってしまう。
4、『暗い森の少女』の作者をジェリイ・ソールと言ってしまう。
5、D・R・クーンツの作品タイトルとして、『ビーストチャイルド』が五番目までにあげられる。

 それにしても、ディーン・R・クーンツはほんとによく出る。扉書きの粗筋を読んでしまうと、話が割れて、もう中身を読まなくても、充分読んだふりができる上下巻。ニュー・エンターテインメントとか、モダン・ホラーとかいろんな冠がささげられているけれど、この作家って、要するにパルプ小説作家じゃない。荒唐無稽なワン・アイデアをモロ出しして、ただひたすら畳み込むジェット・コースター・ストーリー。おもしろくないとは言わないけれど、小説自体に品がない。わたしゃ、若かりしころ、「SF実験室」を選ぶか「SFスキャナー」を選ぶかという二者択一を勝手にやって、「SFスキャナー」へと走ったときに、パルプ小説というものを敵対対象の一つに祭りあげたのである。なんでいまさらその軍門にくだらにゃならん。
 それなのに、数えてみると一七冊も持っている。そのうち、一四冊まで読んでいる。
 困ったもんだ。
 今後、当分、義理のからまぬクーンツは読まない。

 前号でアレの詳細を紹介すると言ったのだけど、考えてみると目次と原稿枚数まで載っけておいて、いまさら詳細もなにもないというのに気がついた。(あんまりくわしく書いておいて、できあがらなかったときというのもかなりはずかしいことでもあるし)
 原稿枚数の方は、どうやら四〇〇枚を越えそうな気配がしてきております。下手をしたら四五〇枚いくかもしれない。書けたらだけど。当初、三五〇枚の構想でやってたのだけど、だんだん伸びてく。書きたくないぶん、青写真ばっかり肥大していってるような気もすこおししている。
 前回の目次をみて、おわかりになった方もおいでかと思いますが、そこそこ気にはしていたわけで、ザッタには、ソレがらみでちょろちょろとネタを流してきております。ヴァン・ヴォークト/シートン説というのは、コレの原稿の一部であり、最近またよく口にしだした、ワイドスクリーン・バロックについても、この原稿の第一章とからんだこだわりでありました。休筆宣言の直後に載せた『老いたる霊長類』の改定版も、もちろん第五章を意識したものでした。(註 この総集編では削除)
 だから、あれを載せたあたりまでは、休筆宣言は本気だったのだ。天安門と参議院とで完全に腰を折られたもんね。
 問題は、いつまでに書くかということ。三年以内と書くのは、ちょっとZOM氏がこわいので、やっぱり来年の一月二〇日には目鼻をつける、と言っておきます。もちろん『ドラクエW』をにらんでの発言です。『FFV』であるとか『女神転生U』であるとか、すこしづつ世の中が騒がしくなってきております。とりあえず、現在の進捗状況を申しますと、序章と第5章はほぼ完成。第2章補遺、第3章補遺もあがっています。これですでに二〇〇枚。あと半分というところ。(全部、昔の原稿であるという説もないではない) ワードナさんになって『ウイザードリーW』の地獄のようなコスミック・キューヴをしのぎ、やっと地上にたどりついた人間にしてはよくやっていると褒めてください。『ウィズW』については、お城の門番に合言葉を聞かれてもこたえられなくて、第二ステージに行けません。完了したときに、ちゃんとレビューをするつもりです。それにしても、アスキーのあこぎな商法は早川なんかの比ではない。『ウィズWプレイング・マニュアル』八百円と『地上への道』千二百円と、二冊の本を買うことになって、わたしゃ激怒しておる。これが『プレイング・マニュアル1』と『プレイング・マニュアル2』とでもいうなら、まだ許す。姑息にも、アスキーとログインを使い分けるやり方がゆるしがたい。
 というわけで(?)、唐突に。
◎日本の恋愛小説十撰(順不同)
 氷室冴子 『なぎさボーイ/多恵子ガール』
 開高健 『夏の闇』
 山田風太郎 『妖説太閤記』
 村上春樹 『ノルウェイの森』
 蓮実重彦 『反=日本語論』
 山川方夫 『愛のごとく』
 読書量の貧困が露呈されて、恥ずかしながら、残り四編が埋まらない。まだ四つ、傑作が残っているのだと自分をごまかし、今後を待つ。橋本治、小林信彦は結局落ちた。三好徹の《天使》を入れようかと迷ったけれども、結局落ちた。しかしこうやって、並べてみると、『ノルウェイの森』がすこし弱い気がする。『反=日本語論』は評論という結構で、恋愛小説というものが書いてしまったというとんでもない本である。機会があれば御一読ください。




◇うちの近くに古本屋がある。文庫本半額(百円均一コーナーあり)、新書本三百円、学術系のハードカバー六割から七割という値段で、しかも出たばっかりの翻訳文庫本がそこそこ回転していて、新本でとびつくほどには興味もないけど買ってもいいなと思うような本をチェックするのにけっこう役立っている。(おまけにファミコンの中古ソフトもあったりする)。
 けれども、じつは、この店のポイントはハードカバー本の安さにある。日本作家の本でだいたい四百円。これは九八〇円くらいの定価の本のまあ半額ということであるわけだけど、この基準が、需要がただでさえ少ないうえ、日本作家のハードカバーにくらべると一・五から二倍くらい高い定価の翻訳ハードカバーにもそのまま適用される。つまり三百円から五百円。もっとも本の数はたいしたことがない。それでもこまめに回っていると、おもわずこの安さならと買っちゃう本がけっこう出てくる。アーウィン・ショーやらジョン・チーヴァらの、この先読むことがあるんだろうかと首をかしげるハードカバーが家のなかに何冊もあったりするのは、だいたいがここの本屋で三百円で買った本である。
 で、十一月のある日のこと、何の気なしにいつものようにここの本屋を覗いてみたら、小棚四段ぶちぬいて、SFとファンタジイのハードカバーが並んでいたのに目を剥いた。それも尋常の品揃えでないのである。早川SFノヴェルズにまじって『十億年の宴』や妖精文庫、『くも女のキス』『それぞれの海へ』『宇宙を駆ける男』などという、とんでもないキャスティングである。たった一冊まぎれこんでた久保書店が『時間帝国の崩壊』だったりするすごさ。まさか、古本屋の店先でこんな並びをみることができるとは思ってもみなかった。値段をみるとやっぱり三百円から五百円、『フェアリーテール』だけ出たばっかりのせいか、上下合わせて千四百円とりっぱな値段がついていたけど、ほかはやっぱりいつもの値段。しかも、かたわらには棚にはいりきらなかったとおぼしき何冊かの本が百円値札をつけられて、ころがされてるというしまつ。悲しいのは、そこに並んだ本のほとんどを既に持っていることだった。それでも何冊か、家の本棚を埋めるに足る成果をあげることができた。その成果をここに発表する。『ファウンデーションと地球』(五百円)、『雪の女王』(四百円)、『赤い月と黒の山』(四百円)、『オルシニア国物語』(三百円)、『オロスの男』(三百円)、『火山を運ぶ男』(三百円)。買おうかどうか迷った本がまだあったので、ひょっとしたらリストはもっとのびるかもしれない。でも『愛に時間を』(五百円)には家のしきいはまたがせない。こういうことがあるから古本屋あさりというのはやめられないのである。
 それにしても、百円の値札にショックを受けて、つい買って帰ってしまった(ほとんど身請けの感覚ですな)『九百人のお祖母さん』と『ローズウォーターさん、あなたに神の祝福を』のハードカバーは、どのように処分するのがよろしいでしょうか。
◇『ソフトウェア』と『ウェットウェア』にてこずっている。くだきゃあ誰でもわかると思ったらまちがいなのだよ。ルディ・ラッカーという人間は、みんな自分とおんなじくらいの頭だと思いこんでるにちがいない。こっちはそんなに頭はよくない。追っかけるので疲労困憊してしまう。どっちも客観評価としては、文句なしの秀作なのに、読むのがとんでもなくしんどい。『ウェットウェア』なんて、ほとんどラファティとハードSFのハイブリッドじゃあないか。最近、読みやすさだけがとりえの日本作家に逃げてるだけに、こういうのを喜々として楽しめない、気力の低下に反省しきり。




☆乱れ殺法 不定期便 
【現在からの注
 おまけである。
 1989年には、大森望がノヴァ・マンスリイという情報誌を月刊ペースで発行することにした。2年くらいで頓挫した。そこにも何度か寄稿した。もっとも一年めだけだけどね。ネタをどんどんヘヴィーにしていき、自分で煮詰まって勝手に倒れた。一部分みつからない原稿があるのだけれど、とりあえず載っけることにする。最初は、本文中に押しこもうと思ったのだが、かえって流れがつかみづらくなるので、それぞれの年のいちばんうしろにまとめることにした。読者のメンバー構成がちがうので、若干スタンスを変えて書いているつもりだけど、両方読んだ人間には、どこがちがう、おんなじじゃあないか、と言われた。
 なおはじめの方は、この情報誌で行なわれていた、SFマガジン掲載作品の年度別採点表へ文句をつけるかたちになっている】



@
 SFMの考課表の、採点上の注意であると、前号大見栄きっておる、中村融である。さすがマニアの鑑の名に恥じぬ立派な指導基準であると、まずは褒めよう。だが、いくら立派な指導基準を唱えたところで、偏狭なマニア趣味を脱することができなくては、せっかくの指導も台なしというものだ。受容端末の数をもっと増やしていかねばならない。いまの中村融だと、『なぎさボーイ』『多恵子ガール』を評価したら、評価したぶん『夏のディーン、冬のナタリー@』を《否定》してしまう、貧しい読みに落ちる危険がつおい。
 鉄槌をくださねばならない。
 「夢の通り」に二十二点をつけるような人間に、「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」に八十二点をつける資格はない。このふたつの作品は、おなじひとつのSF雑誌に掲載された奇跡によって、互いの感動をより深いものへと導いた希有な例である。
 凡庸であることは認めよう。フランク・R・ロビンソンという作家の作品は、おしなべて冗長であり平板である。だらだらとした展開のなかで奇抜さのないドラマが愚直に語られる。
 だが、愚直のなかには誠実がある。主人公の少年の思いに託した作者の気持ちがじんわりと効いてくる。レイ・ブラッドベリの「われは虚空の王たらん」、ロバート・A・ハインラインの「鎮魂歌」、ウォルター・ミラー・ジュニアの「大いなる飢え」といった秀作でくりかえし語られ、ジャンルのなかで蓄積されてきた想いが、紋切り型の物語のなかにリフレインされる。小説に立ち向かっていく姿勢で、いつも書物を読む必要はないのだ。ときには、やさしくいつくしむような気分でふれあうことも、たのしみの幅をひろげるテクニックなのである。そうやって、少年の宇宙に対する純な思いをいつくしみ、味わう気分に前後して、「そして目覚めると」を読むことで、底の抜けるような絶望感が全身を覆い尽くす。フランク・R・ロビンソンというひとの思いが凡庸であればあるほど、純朴であればあるほど、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの小説はまがまがしさをむきだしにして「夢の通り」に襲いかかるのだ。「そして目覚めると」が重ね合わさることにより、「夢の通り」は作者自身が考え及びもしなかった複雑な陰影を獲得することができたのである。
 小説は孤立して存在しているわけではない。小説を読むということは、作家を読むということであり、テーマを読むということであり、雑誌を読むということであり、ジャンルを読むということであり、加えるに作品を読むということである。さらにまたそれらを読んでいる自分を読むということでもある。
 この号の「そして目覚めると」によるティプトリーとの遭遇は、ぼくの二〇年を越えるSFとのつきあいのなかでも五本の指にはいる《事件》であったわけだけど、《事件》を構成する事象の一部に「夢の通り」という作品はまちがいなく組み込まれている。「そして目覚めると」と「夢の通り」がそれぞれ独立した読書経験だったなら、ティプトリー・ショック・その1はもうすこし規模の小さなものに終わった可能性さえあるのだ。
 中村融の採点自体については、問題はいくつもあるが、感受性の未熟さの問題であるから、批判しても仕方がない。どうまちがっているかは、わたしの採点と比較すれば一目瞭然であらう。正しい採点をしておれば、その点数はすべてわたしと同じものになっておるはずである。
 ただ一点だけ、問題を提起しておこう。四月号掲載のZ・ヘンダースン「女と子供の委員会」はすでにこの時点で、メリルの『年刊SF傑作選』のひとつとして創元から刊行されている。このような作品は、ほかにも「ビート村」など数編ある。これらを他の作品と同じ基準で評価してよいものかどうか。判断は各自にまかせることとする。


A
 引っ越すことになって、本を全部ダンボール箱に詰め込んでしまった。
 そういう時期に唐突に、話の輪郭さえ思い出せない凡作揃いの七八年の考課表を持ってくる背後には、皆勤賞を狙う中村融の、その強力なるライヴァルたる小生を蹴落とそうとする卑劣なもくろみが透けて見える。無念ながらかのかん寧な意図を成就されたといわねばならない。記憶をたよりに採点できる品数は、二〇編に達しない。
 で、しかたがないので、このコラムでこの年のベスト10を選んでおいた。コラム持ちの特権である。
 @「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか」A「鉢の底」B「ピクニック・オン・ニアサイド」C「コウモリの翼」D「残像」E「アイ・シー・ユー」F「獣の数字」G「限りなき夏」H「デトワイラー・ボーイ」I「信号手」
 うーむ。
 こうやってみると、そう悪い年でもない。10点選んで、まだいい作品が残っている。もっとも、ジョン・ヴァーリイ『残像』とかウォルハイム&カー編『年間SF傑作選』であるとか、露骨な刊行予定短編集一部先行顔見せ興行に興をそがれる部分はある。
 一位は仕方ないでしょう。居直りの醜悪さはあってもティプトリーはティプトリー。ジョン・ヴァーリイの順番は、Aイメージの美しさ、Bお気軽性転換文化初お目見えの衝撃度、D作品の安定感、で選んだ。
 総体に、海外SFマニア標準装備仕様に仕上がってしまい、独自性がいまひとつ弱い。そこでワン・ポイント、主張したのが「こうもりの翼」。
 たしか、プテラノドン版「野性のエルザ」といってしまうと、すべて説明できてしまうたわいのない話であったと思うのだけど、たわいがなくてなぜ悪い、と開き直れる、自然な気持ちのよさがあった。作者ポール・アッシュはアナログ中心で活躍する寡作作家。ポーリン・アシュウェル名義で女性を主人公にした未来学園小説も書いていて、大野万紀というひとのけっこうごひいき筋の作家である。男か女かは定かでない。
 読書の水先案内人、オピニオン・リーダーとして、ぼくが翻訳者という存在を意識した最初の相手というのは、実を言えば伊藤典夫でも浅倉久志でもなく、藤原英司という人でして、あの頃の記憶が評価に微妙に影響している気がしないでもない。
 さて。
 この年の作品で、一番気にいらないのが、「プリズマティカ」(サミュエル・R・ディレイニー)。
 小説を書くのに青写真は大切だと思うのだけど、同時に青写真はラフ・スケッチであるべきだという気がある。一字一句まで予定通りの段取りで、ただひたすら紙の余白が埋められて、できあがってきたような印象を与える小説は、どこかまがいものめいて好きになれない。書いてる途中で勝手に走りだしそうになる話を、青写真という最初にとりきめられた約定で押さえ込もうとするような、作者と物語とが格闘している、そんな感じの話がほしい。
 たとえば書評をやってるときに、ひとつだけ決めてたことに、一番最初の読者として読み手としての自分自身を想定し、読み手としての自分自身をまず楽しませるということを意識しながら、書こうとしてきた。
 だから、小説を読むときにも、作者がなにより、読み手として、あるいは作り手としての〈自分自身〉、を楽しませようと、意識しながら書いてる感じがするかどうかが、評価の意外と大きな比重を占める。最初に広げた青写真どおりに律義に升目を埋めてくような作業のしかたは、なんか義務感ばかりが先行して、躍動感に欠けてくような気がしてならない。
 危険性は警戒ラインに達しているけど、『ノヴァ』にはまだ、青写真にしたがった窮屈ななかにも、きちんとした緊密なものを組み上げよう、これまでの自分をまとめてやる、といった意志が感じとれた。たとえばデーモン・ナイトの「アイ・シー・ユー」もおなじように込み入った青写真にしたがっているけど、T・L・シャーレッドの「努力」へのオマージュめいたこだわりがあった。「プリズマティカ」の文章には、作者が余裕をもって、あらかじめ立てた青写真のとおりに作品を作り上げたという、小説に対する、作者のある種の傲慢を感じた。あらかじめ、わかっていることだけを書こうとする作家の作品からは、小説が勝手に変容していくようなスリルが読んでて感じられない。むしろそういう契機を自ら壊していく味気の無さがある。
 小説が知的になるほど、機械的な作業で作り上げられた印象が強くなる。それだけに、知的な作家の知的な作品であるほど、その小説からにじみでる作者の切迫感やこだわりを受け止めることができたかどうか。それを評価の決め手にしたい。
 「プリズマティカ」に対する反感と、「コウモリの翼」にたいする好感は、たぶん関係しているのだろう。


B
 アシモフ「夜来たる」にみるセンス・オブ・ワンダーの研究
あるいは予定調和と意外性との美しい関係

 学生時代、アイザック・アシモフというひとが、アメリカSFの体制と権威を代表しているかにみえて、わたしはくそみそにけなしまくっていた。ああいう保守反動のガチガチが、SFを型にはめこみ、おもしろくなくしていくのだと、本気で思いこんでいた。ロバート・シルヴァーバーグと並ぶ、わたしにとってのSFの敵ナンバー1と決めこんでいた。
 わたしも若かった。体制を是認するということが、イコール体制を支持することだと思いこむほど、若かった。今のわたしは、アシモフを、SF界でも数少ない、筋金入りの穏健派リベラリストと認めている。言葉の定義が、もしかして、ひとと違っているかもしれないけれど、たとえばシマックなんかの方が、思想的にはずっと右寄りだと思う。 「スト破り」という短編がある。
 完全な自給自足と自動化を達成したユートピアのような小惑星で、ストライキが起きる。ストをしたのは、この惑星で一番高級取りの排せつ物処理係の男。排せつ物処理といっても、一日に一度、決められたボタンを押すだけの仕事だ。だが、ちがう星から来ていて、たまたま調停を頼まれた主人公に、男が訴えた内容は、この社会で彼が汚れた仕事に従事しているということで、村八分にされている状況だった。男は言う。
「わたし自身のことはあきらめている。けれども、家族のものたちには、なんとか人並みのつきあいをさせてやりたい。子供がほかの子供たちと遊べるようにしてやりたい」 だが、人々の声は冷たい。「そんなことができるわけがない。だからこそ、それだけの特権が与えられているんじゃないか」
 そんなやむにやまれぬ事態の末のストライキだった。男に深く同情する主人公だったが、このままほっておくと、この星の自動システムそのものが破壊され、惑星すべての人間が死に絶えることになる。迷いに迷ったあげく、主人公は代わりのボタンを押す役目を引き受ける。仕事をやり遂げた主人公を待っていたのは、汚れてしまった彼に対する小惑星からの永久退去要請だった。
 この作品は、学生のころ読んで、アシモフにもこういう鋭い小説が書けるんだなあ、とわたしが感心したものである。差別という問題を作品のなかに持ち込んだものというと、ほとんどが、人種問題か、犯罪者を扱ったものしか、お目にかかったことがなかった時期に、いわゆる善良な人々による、社会制度として確立された差別、あたりまえの、正しいものとしてみなされる差別のありかたを、はっきりみせつけてくれたものとして、ひどく印象に残った。
 ただ、この小説で、アシモフは、社会の側が理不尽であるとわかっていて、なお、この星のためにスト破りをするのである。そこにはあきらかに、平和な社会、安定した体制の維持というのが、なににもまして大切だという作者の意識がある。
 この小説の場合、そういう差別の存在を照射すること自体が作品の骨格になっていて、しかも主人公がそこのところで心理的葛藤に苦しむところが作品の醍醐味になっているわけで、主人公の行動いかんと一応関係なく、うむ、なかなかの社会派SFである、とわたしも気に入ったわけだけど、たとえば、この小説の場合でも、スト破りをした主人公は許せない、こういうストーリーを書けるアシモフは詰まるところ体制主義的だというひとだって、当然いたって不思議じゃない。そして、この作品ほど、社会への批判的意図があからさまでない多くの小説のなかで、この作品と同じような行動をする人々の姿に、アシモフの保守反動性の匂いをかいでいたのが、学生時代のわたしだったということである。そのうえに、アメリカSFというエスタブリッシュメントのなかでの、アイザック・アシモフという作家のポジションがいっそうそういう意見の基盤となっていた。
 実際、アイザック・アシモフという作家の位置は、アメリカSFという体制のなかで、まさしく体制を具現するものだった。他人の心証をしん酌することに長けた、アシモフの周囲にたいするスタンスは、たぶん彼のユダヤ系移民という出自と深く結びついている。
 作家の思想的位置付けには、作家が置かれている位置が付与するものと、作家の個性から派生するものとの、両面あって、両者必ずしもおなじものとはかぎらないと、考えるようになるのはだいぶ年取ってきてからである。
 
 枕のつもりで書いてたことが、ずいぶん長くなった。昔、けなしまくったアシモフだけど、最近はきらいじゃなくなったよ、と一言言いたかっただけである。
 ただし。人間的に好きになったからといって、作品自体を評価するようになったわけではないのでねんのため。誰にでもわかるような小説を書く、ひとに嫌われたくないというアシモフのポリシーは、アシモフ自身の思考の深まりを決定的に制約してきた。作者の気配りが、居心地のよさと凡庸さをともに作品に付与しつづけている。
 アシモフの作品からお勧めするとしたら、長編では『鋼鉄都市』、連作短編集として『われは(わたしは)ロボット』といったところか。われながら目新しさのない意見である。
 アシモフの出世作となったのが、《アスタウンディング》誌一九四一年九月号に載った「夜来たる」である。
 この小説をわたしはあるアンソロジーで十年ぶりに読み返し、収録作品中ベスト3に入る秀作!と、絶賛したのだが、途端に、「年寄り!」「バカ!」「石頭!」「時代遅れ!」と周囲のの集中砲火を浴びることになる。まあ、言う前から言われそうな気はしてたのだけど、言われてみるとやっぱり反論しなくちゃいけないなあと、頭のなかでこねていたのが、ここからの本論となる。センス・オブ・ワンダーの原点ともいうべきものがここにある。
 アイザック・アシモフ「夜来たる」。
 一言で言うと、太陽がいっぱいある星で、何百年に一度、たくさんある太陽がみんな沈んで夜が来る、という話。
 この小説の、只事でない凄さは、タイトルでネタばらしをやっておきながら、ミステリ仕立てのプロットを組み、なおかつクライマックスで、意外性にみちた情景をひろげてみせたという点にある。この作品はじつは、「夜来たる!」という小説ではなく、「星来たる!」という小説なのである。このことは、けっして小手先の小細工扱いしてならない、なおざりにできない、大どんでん返しなのである。なぜなら、政権担当者や学者知識人たちが、滅亡回避にむけて邁進していたさまざまの努力が水泡に帰してしまうのは、かれらがあらかじめ予測をしていた「夜が来た」せいではなく、「夜が来る」までわからなかった「星が来る!」という現象のせいだったからである。
 「夜来たる」という事象をめぐる、ディスカッションに熱があるだけ、いっそう、この小説のラストの破局は感動的だといっていい。
 堂々とと、ネタをばらしているけれど、まさか「夜た来る」をまだ読んでないなんて人間は、いくらなんでもいないでしょうな。
 うーむ。本論のほうが短い。ちゃんと書こうとしてないな。
 構想二十枚、軟弱にも挫折した原稿を生き返らせると、こうなる。

 P.S.迫り来る災厄を前にした、政権担当者や科学者たちの大協議、それぞれの立場にたつ人間たちの、たがいの、自分たちの有利なかたちにもっていこうとするかけひき、策謀。「夜来たる」の読みどころは、えんえんとつづくこのディスカッションにもあるのだけれど、これもまた、SFの根源的な醍醐味である。こういうふうに抽象化して言ってしまうと、たとえば『宇宙船ビーグル号の冒険』でやってることと、小説作法としてほとんどおんなじものだとおわかりかと思う。たぶんアスタウンディング/キャンベルの魅力のひとつは、こういうアプローチにあったのだろう。ある意味で、フランク・ハーバートやグレゴリイ・ベンフォードというのは、こうしたキャンベル・アプローチの正統的な継承者だといえるかしれない。


C
 フリッツ・ライバー「バケツ一杯の空気」にまず60点をつけた。ものたりなさを覚えた記憶と飛び抜けた印象の記憶がどちらもない作品に50点をつけた。そしたらこうなった。クリフォード・シマック「ジャックポット」が唯一65点という結果には、内心じくじたるものがある。増刊号はぼくがはじめて新本屋で買ったSFマガジンである。それまでずっと立ち読みと、古本屋でのバックナンバーあさりで耐えていたのだ。この号については、つけた評点に気分的には10点づつ下駄をはかせてやりたい。読んだ本の記憶力には一番自信があった時代であるのに、『瞬間を貫いて』だけはどうしても話の中味が思い出せなかった。
 柳下毅一郎のコメントには、一部、事実誤認がある。68年が第一世代の作家がようやく活動しはじめたころというのは、誤り。第一世代の作家の活動に、ひとつの区切りが見え出したころとみるほうが正しい。小松左京、光瀬龍、筒井康隆というのが当時の日本SFの人気ビッグ・スリーであったのだけど、小松左京が『果しなき流れの果に』でそれまでの創作活動にひとつの結論を出したあと、短い試行錯誤を経て、歩き出した新しい方向、「極冠作戦」「HE−BEA計画」が従来の読者層から失望をもって受け取られたのが、この前年六七年のことであり、本質的にアイデア・ストーリイの作家であった光瀬龍が、その叙情性あふれたアイデア処理の技術を“無常SF”というネーミングで評価され、アイデア先行型からムード先行型へと作品構造を変化させはじめたのもこの前年、六七年あたりからのことである。一方筒井康隆もまた、「カメロイド文部省」「マグロマル」「ベトナム観光公社」「トラブル」といった疾走する作品群を終え、目線を沈潜させた、異なる凄みを発する作品へと移行しつつあった。2月号の「旅」、翌年2月号の「我がよき狼」とみていけばよろしいかと思う。
 第一世代の作家が、アメリカ50年代SFの影響下から出発した、という文脈を、時系列的に解釈し直し、50年代SFの翻訳紹介の時代というのがまずあって、そのあとおもむろに第一世代の作家たちが始動しだしたという思い込みが、ぼく自身あるのだけれど、かならずしもそういえないのではないかと、最近思い始めている。
 アメリカSFについて、パースペクティヴが日本において確立されるまでに、アメリカSFの紹介状況は、おおざっぱに三つの段階を経てきていると考えてよいのでないかと思うのだ。
 その第一段階は、元々社に代表される前SFマガジンの時代であり、編集者のレベルにおける情報収集の努力はたいへんなものであったとはいえ、日本人のなかでアメリカSFについて、まだ一定の輪郭がつかみきれてなかった時代である。ほとんど試行錯誤の時代といっていい。
 第二段階は、F&SF誌の日本版という、それなりのコンテキストのもとで創刊されたSFマガジンを軸に求心的なイメージ形成がなされた時期。それと同時に、サム・モスコウィッツとインデックス類をベースにした、福島正実による経時的及び状況的なSFの事実関係、作家名や作品名をひたすら羅列していく平面的な解説紹介が行われた時代。基礎情報を蓄積していくという意味で、高校の社会科の勉強レベルのものだったといっていいかもしれない。
 この二つの時代を経て、伊藤典夫、野田昌弘、浅倉久志、森優、(福島正実)といったSF専門の翻訳家兼紹介者が、自分なりの趣味主張をふりかざしてアメリカSFについて語り出した立体的な紹介の時期を経ることで、やっとアメリカSFに関する共通了解的なパースペクティヴは確立したといえるのではないか。その時期というのは、たぶん62年前後、第一世代の作家のデビューの時期とほとんど同じころではないか。
 つまり、商業誌を通じて、日本におけるアメリカSFのイメージが確立した時期と、第一世代の日本作家が輩出した時期というのは、同じ時期であるのだということ。50年代SFの影響下から出発したという言い方のなかには、むしろみずからのスタイルが確立されていく時期と、日本におけるアメリカSFのパースペクティヴが確立されていく時期が重なり合ったことによる共時的な影響力のほうが強かったのではないかということ。
 コメントのつもりで書いていたら、おそろしく長くなってしまった。乱れ殺法に格上げすることにする。
 それにしても、この年の翻訳作品セレクトの節操のなさというのは、SFマガジン30年の歴史のなかでも群を抜いてる。こういうアナーキーな状態というのも案外好きだ。


D
 世の中には、リストというのは正しくきちんとしてればそれでよい、読者は襟を正して熟読玩味すべし、と考える教条持ちの輩が掃いて捨てるほどいる。中村融、君のことだ。かような人間が、リスト愛好者層の拡大を阻止しておるのである。考えてもみるがいい。半分以上がまだ読んでもいない作品の題名が味もそっけもなくならんでいるだけの表を、なんでありがたがっておしいただかねばならんのだ。リスト作成者たるもの、自分の都合でこんなリストをつくってみました、家ん中で寝かせておくのももったいないので、こうして皆様方のお目にふれさせていただきます、たのしんでいただけましたら幸いです、くらいの謙虚な気持ちが必要だ。ああいう人間がいるから、リストづくりが萎縮する。リストなんていうものは、いいかげんにてきとうに、たのしみながら、数だけやたらつくりまくるのが肝要で、まちがいや調査の行き届かなさなんか気にしていてはいけないのだ。似たようなリストをいろんな人間が山のように作ったら、すこしくらいいいかげんなリストであっても照らし合わせをしているうちに、だれかがまともなリストにしてくれるはずだ、そういうつもりで作ること。立派なことでは定評のあるMITの《マガジン・インデックス》やコンテントの《アンソロジー&コレクション》といったリストでさえ、照らし合わせをしていると、いくつもミスが出てくるのである。そもそもリストのまちがい探しというものは、リストを読む人間にとって、最大のたのしみのひとつなのだということを、リスト作成者は忘れないこと。リストにきずがなければないほど、読み手の読みこもうとする熱意がうすれていくことを銘記すべし。ときにはそういう読者のために、故意に偽の情報を忍び込ませてみることさえ、やってみるのも一興である。
 なによりも、リストをのっけろ!と喚いていながら、「リストや洋書紹介じゃ読者は喜ばないかもしれない」などと公言できるなさけなさ。文章を切り売りしている人間の発言とはとても思えない。どうして、エッセイなら読者に読ませることを意識しなければならないのに、リストの場合はそういう意識を持たずに書いていいと思うのですかね。そういう感覚でのっけられたんじゃ、リストがかわいそうとは思わんのでしょうか。
 リストのもつ有意味性なんてものは忘れなさい。エッセイであってもリストであっても、ワタクシ性をどこまで反映させられるかということが、読ませるうえでの最大の武器であることにかわりはないはずである。
 しかし、リストにどうやってワタクシ性を付与するか。これははっきり言ってむずかしい。最も簡単な方法は、解説記事、分析記事の掲載である。あるいは、パラノイアックなまでにこまごまとした情報までリストに付け加え、いわゆる《熱意》というものを印象づけるという方法もある。その他、いくつかのテクニックはあるのだけれど、リストづくりにおいて、最も単純にして、重要なことは、リスト作成者が、そのリストを仕上げることによって、たとえばその作家について、リストをつくった人間があらたになにかをつかまえた、そういう感動を味わえたかどうか、そしてそういう気分を読み手に伝えることができるかどうか、それが掲載価値のあるリストたりうる最大大の条件であるといっていいだろう。
 そういう意味で、ジェイムズ・ブリッシュのリストは、分量をとりすぎているにしろ、F&SFの焼き直しであるにしろ、ワタクシ性の反映度において、評価してよい。しかしながら、コードウェイナー・スミスのリストなどというものは、このノヴァ・マンスリーというファンジンの想定読者層のなかにおいては、あまりにも体制主義的でありすぎる。再発見の、感動の気分に欠ける。この転倒した特殊な集団枠組みのなかにおいては、コードウェイナー・スミスやウィリアム・ギブスン、ブルース・スターリングのリストより、アイザック・アシモフやロバート・A・ハインライン、ロバート・シェクリイなどのリストのほうが、まだしも刺激的であるのだと、肝に命じておくように。なんで、ジェイムズ・ブリッシュのときにあげた作家たち、ジャック・ヴァンス、アルジス・バドリス、フリッツ・ライバーなどのリストをのっけないんだろうね。
 ここまで書いた以上、ぼくもリストをひとつ作ったほうがいいだろう。と、いうわけで、次回は、ちょっと意外な作家のリストをのっけることにする。
 乞御期待。


E
 で、まあ、リストをつくりました。作家はイヴリン・E・スミス。だれも予想ができなかったでしょう。どうだ、まいったか。
 アルフレッド・コッペルだとかディーン・イングだとか、SF畑で記憶していた名前が出没しだして、最近の翻訳ミステリはどうにもこうにもうさんくさい。なかでも早川のミステリアス・プレスがうろんさではきわだってしまった。なんといっても、来年度星雲賞トップ候補、というよりむしろ、ファンジン大賞を取らせてやりたい『暗黒太陽の浮気娘』という傑作を出してしまった文庫である。ここから『ミス・メルヴィルの後悔』『帰ってきたミス・メルヴィル』と立て続けに出しているのがイヴリン・E・スミス。
 文庫の解説では、まるっきり触れられていませんし、SFの歴史のなかにもほとんど登場しないのですが、この人、じつは五〇年代を代表する女流SF作家の一人なのです。 SF史のなかでほとんど触れられてもいない人が、どうして代表的な作家であるのかと不審がられる方もおありでしょうが、それはひとつこのリストをみていただければよろしい。
 五〇年代を通じて、この人は、じつにギャラクシー誌に十五編、F&SF誌に十編も作品を発表しているのである。
 SF界ひろしといえども、五〇年代のビッグ・スリーに二五編も作品を発表している作家はざらにいない。もちろん女流作家としては首位に位置する。おまけに残りのうちの三編はギャラクシー誌の姉妹誌ビヨン掲載作品である。作品の数が全部で四五編だから、登場率は5割以上。コンスタントな質の高さを保証する数字といえるかと思う。あえて五〇年代を代表する女流作家という所以である。
 これだけの数字をもつ作家が、SFの歴史のなかでみごとなまでに無視されている。邦訳された二編をみても、いかにも五〇年代という心地よいなつかしさを感じさせる佳品である。たぶん、この、いかにも五〇年代風のマイルドな味わいが、逆に、作家の個性をピック・アップしていく史的抽出の網の目から、彼女をふるい落としてしまったのだろう。
 『ミス・メルヴィルの後悔』もまた、八〇年代の作品でありながら、五〇年代の雰囲気を漂わしたひとなつっこい小説である。銃で撃たれて人は何人も死ぬというのに、陰惨な血のにおいがまるでしない作風は、ある種、五〇年代文化の風格めいたものさえ感じさせる。そして、描き出される上流社会の破天荒なすばらしさは、まさにこの作家の作風とみごとにとけあっている。(その点、第二作はミステリ色が強まったぶん、上流社会の味わいが前作ほどいかされていないきらいがある)
 こういう作家を、ミステリのものにしておいてはいけない。ちゃんとSF作家としてファイルしておかなければならない。そういうアピールを込めて、このリストはつくられた。
 いっとくけど、『ミス・メルヴィル』は、これっぽっちもSFじゃあないからね。

◎EVELYN E.SMITH
GAL 52.09 TEA TRAY IN THE SKY
FSF 52.11 THE MARTIAN AND THE MAGICIAN
GAL 53.05 NOT FIT FOR CHILDREN
FSF 53.06 THE LAST OF THE SPODE
FAU 53.11 NIGHTMARE ON THE NOSE
BEYOND 54.01 CALL ME WIZARD
FSF 54.04 GERDA
BEYOND 54.07 THE AGONY OF THE LEAVES
FSF 54.10 AT LAST I'VE FOUND YOU
FAU 54.12 THE LAMINATED WOMAN
GAL 54.12 COLLECTOR'S ITEM
GAL 55.01 THE VILBAR PARTY
GAL 55.02 HELPFULLY YOURS
FAU 55.03 THE BIG JUMP
GAL 55.04 MAN'S BEST FRIEND
FSF 55.06 THE FAITHFUL FRIEND
GAL 55.06 THE PRINCESS AND THE PHYSICIST
FAU 55.06 TERAGRAM
FAU 55.08 THE GOOD HUSBAND 理想の夫 HMM85.05号
FAU 55.09 THE DOORWAY
GAL 55.10 JACK OF NO TRADES
FAU 55.10 WEATHER PREDICTION
FAU 55.12 FLOYD AND THE EUMENIDES
BEYOND 55.#10 DRAGON LADY
FSF 56.03 THE CAPTAIN'S MATE
GAL 56.06 THE VENUS TRAP
FSF 56.09 BAXBR DAXBR
FAU 56.12 MR.REPLOGLE'S DREAM
SSF 57.02 WOMAN'S TOUCH
GAL 57.03 THE IGNOBLE SAVAGES
FAU 57.03 THE LADY FROM ALDEBARAN
GAL 57.04 ONCE A GREECH ピンクの毛虫 奇想天外80.07号
FSF 57.05 OUTCAST OF MARS
SRN 57.05 THE 4D BARGAIN
GAL 57.06 THE HARDEST BARGAIN
FAU 57.08 THE MOST SENTIMENTAL MAN
GAL 57.08 THE MAN OUTSIDE
SSF 57.12 THE WEEGIL
GAL 58.02 THE BLUE TOWER
GAL 58.03 MY FAIR PLANET
FAU 58.07 TWO SUNS OF MORCALI
FAU 59.03 THE PEOPLE UPSTAIRS
FAU 59.09 THE ALTERNATE HOST
FSF 60.02 SEND HER VICTORIOUS
FSF 60.09 A DAY IN THE SUBURBS
GAL 61.02 SENTRY OF THE SKY
FSF 61.04 SOFTLY WHILE YOU'RE SLEEPING
FSF 61.10 ROBERT E.LEE AT MOSCOW
FSF 62.09 THEY ALSO SERVE
FSF 64.02 LITTLE GREGORY
FSF 69.03 CALLIOPE AND THE GHERKIN AND THE YANKEE DOODLE THING



F
読むことをめぐる思い
書くことをめぐるこだわり(1)

 ひさびさになぜかやる気が(瞬間的に)起きました。はたして持続できますか。
 しばらく、この副題の周辺をうろうろしてみるつもりです。またか、と思われる方もおられましょうが、御容赦ください。あいかわらず自分なりの答えを出しきれてない問題ですが、こういうのはうだうだくだまいてるうち、なんかひょんな方向が見えてくるんじゃないかみたいな行先不明の期待がもてて、がんばっちゃおうかなって自分をよいしょしやすいのです。そのくせけっこうしんどくて何度もケツを割っとりますが。
 他人の揚げ足取りをコラムのダッシュ材料に使ってばかりいることにすこおし反省しておるのです。
 と、いいながら、これまで書いたのを読みかえしたら、結局このあたりの話になってるケースが多い。意識してもしなくても、やってることはおんなじみたい。
 とりあえず、はじめます。

 本というものを評価していくうえで、決定的に重要であるはずにもかかわらず、ほとんどすべての人間が、黙殺している部分がある。あるいは気づいているにしろ、書評のたぐいのなかではほとんどふれられないでいるところがある。
 作者はこの作品を、どういう読者をイメージしながら書いたのか?というところ。
 どうでもいいことだろうか。作品のなかで展開されるテーマなんかにくらべたら枝葉の部分にすぎないようなことだろうか。
 もし。
 たとえば。
 面と向かって話をしている人間が、内心こっちを見下しながら、1時間も2時間もしゃべっているのを唯々諾々と聞いてたら、あなたは相手の声音の背後に見下す気分をかぎつけて、見下される立場に合わせて自分を再調整していくはずだ。あるいは聞き手が話し手に、どんな態度を求めているかで、話し手の口調や姿勢は変化する。これを役割期待のメカニズムという。
 読むことだって同じことであるはずだ。
 たとえば、立派な作家となるために要求される資質のひとつに説教のうまさがあげられることがある。裏をかえせば、読者という存在が、説教される立場という、作者との間にある種の上下関係が打ち立てられることを望んでいるのだということ。書くということの美学的構成そのものがそういう前提の中で形作られてきていることは意識しておいていいのでないか。
 そして、そのなかで、書き手もまたある種のジレンマを抱え込んでる場合がある。書き手は読み手というものを想定していくなかにあって、往々にして、自分自身を当面の読者のひとりに含めることがあるわけで、そこにはおなじ自分を読み手と書き手に分割し、かつそこにある種の上下関係を成立させることになるから。そこからあとのジレンマをどう解消していくかという問題は、意外と小説の仕上がり具合に大きな影響を与えているのでないかと思う。書き手がどういうスタンスで自分の作品に対応しているか、どういう読者を意識して、自分の文章を組み立てているかということは、その作品でどういうテーマを追及しているかといったことより、もっと根源的な作者のテーマであるはずである。
 作者が不特定多数を想定して書いた小説を読むとき、あなたは不特定多数という個性に落としこめられることになる。
 作者が特定少数を想定して書いた小説を読むとき、あなたは作者の想定する特定少数のサークルに見合った個性を付与されることになる。できることなら一緒にしてもらいたくないサークルから、本来ならとても近寄れない立派な集団まで、作者が想定したというだけで、すくなくともその本を読んでる時間、読者の帰属集団は変容することになる。読書の気分というなかには、そんな疑似的帰属感覚がきわめて大きな比重をしめているはずだ。
 さらに、さっきもいったとおり、不特定多数を対象にしようと、特定多数を対象にしようと、作者は、比重のかけかたに差こそあれ、読者のひとりに自分自身を想定していることが往々にある。自分自身を不特定多数におとしめての創作というものは、人間のありかたとして相当気もちのわるいもののような気がするけれど、たぶん小説全体の比率のなかではけっしてすくなくない数だろう。
 そういう読者を馬鹿にしたような本は読んではいけないと、言ってるわけではないのである。小説は相手に合わせた美的構成がなされているはずだから、小説が要求している読者イメージに自分を適合させていったら、どんな本でもちゃんと楽しむことができるはず、とむしろ逆のことを言ってる部分もある。作者が読者をバカにして、小説をものしているなら、作者が期待しているバカになって、その本を読みなさいといいたいわけ。そうすれば、せっかく金を払って買った本を読んで腹を立てるというようなもったいないことはしないですむわけだから。腹を立てる楽しみというのはまたべつにあるのだけどね。
 問題はそうやって本を書くとき想定された読者層のイメージが、へたをすると永続的に、本に書かれた内容以上に読み手の個性を規定して、影響を与えていくはずだということだ。バカであるよう期待され、無意識的にそういう状態を受容してると、全人格的にバカになる。
 だからこそ、本を読むとき、それぞれに、その本が読者としてどのような人間を想定しているかを意識することで、意識的に、受容端末としての読み手、バカであったり、キザであったり、きまじめであったり、自堕落であったり、その場その場に似つかわしい分離人格を形成することが必要なのだということである。そうした受容端末をいくつも持つということで、書き手の態度が読み手の全人格を規定していく危険からのがれることができると思うわけである。 そのためには、作者が想定している読者のイメージをある程度意識して読み取る作業が必要となるのでないか。
 そりゃあさあ、俺は立派な本しか読まない、クズは相手にしない、と言い切れるのなら、それでもいいんだろうけどさ。
 もちろんこういう論旨を展開していく前提には、本の読み方に関してぼく自身、まだ結論を出せないでいる、さらに大きな問題が横たわっている。
 小説を読むとき、その小説世界の深奥に作者という名のガイストを想定しながら読むべきか、読まざるべきか、はたしてどちらが《正しい》のか?という問題。
 今のぼくは作者と呼ばれる存在を意識しないで小説を読むことができなくなっているのだけれど、そんな読み方はいびつなのではないかという気だけはずっとどっかにひっかかっている。
 けれども、実際、ぼく自身、この種の雑文を書き散らしてきた経験を重ねあわせてみたときに、書くという行為はかならず読者という名の存在を想定し、その存在に向けられた呈示のかたちで、ある種、美学的構成がなされ、そうしたフォルムに規定されつつ文章が形成されていくのだと、そういうダイナミズムというものが、あらゆる文章、あらゆる構成、そしてあらゆる小説世界を成り立たせているのだという気がしている。それが小説というひとつの形式に押しこめられた《生》の実相であるのだと、思っているところがある。
 ならば。
 ぼくらが読み手として、ひとつの作品に接するとき、その作品が想定された読み手に対して美学的に構成された形式を備えているのであるならば、想定された読み手のイメージに読み手としての自分の個性を同調させていくことこそ、美学的に構成された小説をもっとも正しくうけとめる読み方であるといえないか。そして、たぶん、人間は意識するしないにかかわらず、小説を読むという行為のなかでそういうスタンスをとっていくものなのではないか。
 さらにまた、想定された読み手のイメージに自分を同調し、作者の美学的構成をうけとめたとき、その美学的スタンスの遠近法的構成の収束点へと遡及していったなら、収束点にむかうラインは正しく作者の視線を意味することにならないか。収束点は作者というイメージとして読み手の側からとらえなおされるのでなかろうか。かならずしも現実の作家とイコールにならないかもしれない、小説世界の背景に想定された作家像。
 そういう読み方が正しいかどうかはいまも言ったように、わからない。気分的には、正しくない、の方向にすこしかたむいている。
 ただね。
 ぼくにとって、作家論というのは基本的にそういう手順を踏んでのものであったと思う。そういうものでしかなかったと思う。
 うーむ。しかし、こっちのほうに話がいってしまったか。たったこれだけの文章でおなじところを何回もぐるぐる回ったあげく、あんまり予定してなかった出口に出てしまった。今回、書こうとしたことは、読者をバカ扱いしている作家や、作家自身がどうしようもなくバカであるひとの本とすなおにおつきあいをしていると、ほんとにバカになっちゃうよ、ということであったのだけどね。



G
読むことをめぐる思い
書くことをめぐるこだわり(2)

 前回使った言葉のなかに、ぼくの造語がひとつある。読書における「受容端末」というやつで、ひょっとしたら気づいていただいてくれてる方もおられるかもしれませんが、ノヴァで使用するのは二度目であります。そうとりたてて難解な概念ではないのですが、それぞれの作品に合わせた種々様々の受容端末をどうやって作ればいいかという点を、そんなふうに簡単に個性をかえられるわけがないと思われる方もおられるかもしれないので、説明しておこうかと思います。
 よろしいでしょうか。前回の復習になります。
 作者の想定する読者像に自分を同調させることができれば、その小説世界の美学的構成の遠近法的収束点へとさかのぼっていくことで、一定の読者像をイメージしながらその読者像に対して美学的構成を行いながら自分の内的世界を展開していく作家像にたどりつきます。そうすればその作家像に自分を同調させることにより、その作者の視線の延長線上の展開としての、作品世界の形成と読者像のイメージがみえてくるはずです。そして、そこにみられる読者像の根底には、作者が考えている、作者の分身としての個性をそなえた読者像というものが存在しているはずです。ちがいますか。すなわち、あなたが「受容端末」として成立させるべき分割された自分の素材となるのは、読者としての自分から、作品世界を経由してたどりついたイメージとしての作家が想定する、作者の分身である読者の個性にあなた自身をエンパサイズさせることでつくりあげられる、あなたであってあなたでない、作者であって作者でない折衷的個性なのであります。論旨の因果関係になんかへんなところがありますが、だいたいそういうもののことであります。
 読書における受容端末をつくることで読み方がどう変化するかといいますと、読書の気分が本体に回収されるまでにワンクッションおかれることになるわけです。
 つまり、感動したり腹を立ててる自分というのは受容端末としての自分であるわけで、そうした自分が感動している気分を外から味わえてしまったりする。
 うーむ。
 これはやっぱり、読み方として正しいこととは思えない。
 正しくないと思ったら、なおせばいいじゃないかという人は、読むことの難しさということがわかっていない。
 人間、読み方を自由に変えることなんか絶対といっていいほどできないし、変わっていく読み方を変えずにおくこともたぶんできない。
 記憶というのはおそろしいもので、たとえば『ビーグル号』とか『非A』とか、ぼくがSFを読み始めたころの本の場合、今でもエリオット・グロヴナーとかリンカン・パウエル、ジョン・アマルフィーにマーク・ヘイズルトンなんて名前やいろんなシーンが映像的に浮かんでくるのに、たとえば『焔の眼』とか『光の王』とかいった小説の場合、ヴィヴィッドな情景はほとんど抜け落ちて、構図やテーマのようなものしか思い出せない。はなはだしいのは最近作で、読んで一週間ほどすると、面白かったか面白くなかったかということしかおぼえてなくて、どういう話の筋立てだったかほぼ完全に忘れている。
 正直、この状況には頭を痛めている。《新しい太陽の書》であるとか《平たい地球の物語》だとか、前回のあらすじがわからなくて不安な読みをさせられることが最近とみに増えている。そういや『モナリザ・オーヴァードライヴ』も、だった。
 どうしてこういうことになったのか、いろいろ考えてみたのだけれど、どうも読み方が変化してきたせいらしい。 読み始めたころというのは、単純に小説の世界に没入していたわけ。小説の世界を泳ぎ回って、読み終えると小説の海から浮かび上がるという、それだけの単純きわまりない読み方をしていたのだと思う。
 そういう読み方を馬鹿にしているんじゃないのだよ。
 むしろ、そういう読み方こそ本当の読み方ではないかと思っている。知恵の木の実を食べる前の時代みたいなもんです。
 で、そういう読み方が、この小説はあの小説にくらべてこういう部分がよろしくない、ここはいままでの本になかったいいところだ、なんてやってるうちに、できなくなってくる。
 この小説は、どのように組み立てられて、どういう意図で語られて、どういう効果をあげてるか、SFとしてみてどの程度のものか、小説としてどう評価したらいいのか、この作家の作品系列のなかでどういう位置づけをするべきか、なんて読み方に変わっていく。作品を突き放して、分析的にみようとする、コンディションに左右される部分を排して、できるかぎり客観的な評価をしようと試みる。
 ところがその一方で、小説を読むってえのは面白がることであるはずだという意識が、ずうっとそういう読み方を批判するかたちでぼくの気分のかたっぽにいすわっていて、どれだけそういう骨組みやテーマや効果といったメカニズム類を読みこんだってしかたがないんじゃあないんじゃないか、そういうことを書いたってなんにも意味ないんじゃないかとちくちくいたぶってくれるわけ。むしろその本を読むことでどんな気分を味わったのか、そういうことの方が重要なんじゃないのだろうか、というようなそういうことをずうっと言ってくれるわけ。そういうことがくりかえされているうちに、ぼくの読書という行為は、本を読んで自分がどういう気分を味わえたかを《読む》行為、《味わう》行為になってしまったようなのである。ここ数年さらに症状はエスカレートしたらしく、作品の背後に作者の像を設定し、その作者に同調し、作者の気分であったと想定されるものを追体験してみようとする、そういう読み方になってきている。
 どういう意味か、わかりにくい人がいそうなので、具体的に説明すると、たとえばひとつの小説で、臨場感あふれるクライマックスがあったとする。読者に提供されたその臨場感を、どうも読者として受け入れてるわけではなさそうなのだ。作者が、その場面で読者が興奮させようと努力していく過程において、作者のなかに生じてくると想定されるノリの感覚、昂揚の気分を作者になりかわり体験している気分になって、本を読んでるらしいのだ。(そしてさらに、そういう気分を味わっている自分自身をながめているということらしい)作家の知性や人格に乗り移ることができるとまでは思ってないけど、その時々の作家の気分に関しては、追走するのが可能であると、ぼくはどうやら思い込んでいるらしい。社会学者や人類学者の原住民理解の方法論にかなり近いやりかたを、書物という名のフィールドに持ちこんだような気分がある。自分のやった作家論のたぐいに対し、ある程度の満足を得ている理由のひとつには、そうやって作者の気分にのっかって、作者の書いた小説をながめてみた気でいるからかもしれない。
 だからといって、こんな読み方が正しいなんて思ってないんだからね。たとえば作品のドライヴ感、ダイナミズムなんてものを味わうためにはひょっとして最良の方法かもしれないとは思ったりする。
 けれども、(作者)の気分を読むという読み方の最大の欠点というのは、おわかりのとおり、書いてあった中身が二の次、三の次になってしまうということだ。読んで一週間もたったら、中身をほとんど忘れてしまう、読んでどういう気分だったかということしか覚えていないということは、このシリーズもの全盛の時代のなかで、かなり困ったことなのだ。
 小説なんかは、それでもまだいい。それよりもっと困るのは、ネタのたしにしようとして、堅い学者の書いた本を苦労しながら読んどきながら、読み終えてみたら、本を読みながら感じた興奮の、心地よい記憶しか残っていないということ。読んでる自分がほんとうになさけなくなってくるのだよ。
 だけどね。正しくない、とは思うのだけど、いまのぼくにはこういった読み方しか《できない》のである。正しくない、と思い続けていさえすれば、そのうちちがう読み方に変わっていくかもしれないけれど、いまのところはこういう読み方しかできない。
 だから教えてほしいのです。正しい読み方とはどういうものか、どうやれば、読み方というのは変えられるのか。



H
読むことをめぐる思い
書くことをめぐるこだわり(番外編1)

 今回はあのしんどいやつはパス。他人のふんどしで相撲をとる。
 中村融や柳下毅一郎という人間がたたかれやすいのは、文章のかなりの部分を読む人間に共感されてしまうから。その分、自分の論旨と違うとことか、筆者の論理の甘い部分が読む人間にわかってしまって、揚げ足とって遊んでみたくなるというわけ。だから、落ち込まないでがんばってほしい。
 と、言わなくたって、がんばるか。
 一応、こういう伏線を張ったうえで、柳下批判となる。まだ8号を見てないので、7号のやつ。まず引用しておこう。
 「(『アザー・エデン』について。)でもさ、なんでこんな本が出たんだろうね。本自体が悪いもんじゃなくても、こんなふうに前後の脈絡もなくぽこんと出た日には、日常のなかに埋もれてしまうこと必死じゃないの。早川書房も戦略を欠いた会社だ。SFマガジンで連載したもんがまとまったから、じゃあ単行本で出そう、じゃないでしょうが。それならSFマガジン傑作選にでもいれとけば済むことだ。」
 とりあえず、常識として考えればわかる勘違いの指摘をひとつ。
 SFマガジンで連載したものが本になったんじゃあないんだよ。短編集の版権を取って、本を出すことになったから、そのプロモートをかねて、おいしいところをSFマガジンに載せてるのだよ。そういう意味では、この本は、1冊の本に対するものとしては、おそろしくプロモートしていることになる。
 でもさあ。聞きたいのは、一介の読者がどうして1冊の本について、その商売の仕方について、出版社に文句を言わなきゃなんないわけ?
 そりゃあたとえば、角川文庫の半年前に出た本の評判を聞いて、慌てて買いに走ったら、どこの本屋にいっても手に入らないとか、サンケイ文庫から扶桑文庫に移ったせいで、スティーヴン・キング短編集全5巻の第3巻目の背表紙だけが赤くなってしまったことに、編集部のバカヤローとかいうのはいい。あるいは一連のシリーズもんを訳し溜めて、毎月1冊づつコンスタントに出したりするのを褒めるのはいい。
 だけど、ちゃんとした本を、ブームをしかけず売り出したからって、そんなことを非難できるほど、読者ってのは偉い存在じゃあないと思うんだよね。柳下先生だけじゃあないよ。カチンときている理由のひとつは名古屋の『SFファイル』のなかでも同じような発言をみかけたからだ。たしかに読者が何を言っても自由だけれど、受け手と送り手としての立場のちがいというものは厳然としてあるわけだし、受け手として、読者としての自分の立場というやつを大事にしないと、結局、いびつな読み方というかたちになって自分にはねかえってきかねない。
 出版社が売り出しにかかったかどうかなんて、はっきりいって関係ないじゃん。どっちかてえと、売り手が勝手にブームを作ってきたら、中身がどんだけりっぱなものでも、乗んないよっていうくらいの態度をとるのがほんとじゃない?
 だからディックに対してかまえてんでしょ。そういう人がこういう発言をしたんじゃダメではないかと思うのですよね。ぼくがサイバーパンクに横向き加減になったのだって、出版社主導のブームに反発した部分というのが半分弱ある。(ついでに言うと、この前、ここ20年ほどのSF界の小ブームというやつをチェックしたら、そのほとんどのブーム発生時において、わたしゃブームに横向いてたというのがわかった)
 『アザー・エデン』という本について、読者の立場で早川書房の《売り方》に文句をつける部分というのははっきりいって一つしかない。同じ話をSFマガジンと短編集とでの二重売りしている問題だ。やむをえない理由についてはある程度知っているけど、純粋読者の立場に立てば、やっぱり怒っていいことだと思う。
 出版社がプッシュしなかった自分の好きな本こそ、ほんとうに、自分のみつけた自分にあった本だといえるものでないのでしょうか。そういう本をみつけたら、後生大事に抱え込み、ことあるごとに喚き回ればよろしい。ぼくなんか、《ジャンプドア》でもう10年それをやっている。