【1988】



《一月読み終えた本》
 『バービーはなぜ殺される』ジョン・ヴァーリイ ☆☆☆☆ 
 『空を飛んだ少年』ルディ・ラッカー ☆☆  
 『クリスティーン』スティーブン・キング ☆☆☆☆ 
 『悪夢機械』フィリップ・K・ディック ☆☆☆
 『それぞれの海へ』ラッセル・ホーバン ☆☆☆☆
 『親子ネズミの冒険』ラッセル・ホーバン ☆☆☆☆
 『双貌鬼』菊地秀行 ☆☆

□はっきり言って、読書量が大変に少ない。ファミコンが原因です。2月には、ドラクエ3がいよいよ出るし、こまったことだ。
 ラッセル・ホーバンがこだわる作家の列に入ってきた。『それぞれの海へ』(評論社)を読んでると、生きていくことの疲労感みたいなものがじんわり体んなかをしみわたっていくようで、わたしゃ好きだ。
「ある人の、はじめに見えた一面は、時を経て、また必ず顕れてくる。その間、どれほど違って見えていようとも。ある男が、はじめろくでなしに見え、次に魅力的に見えたとしたら、いつかまた、ろくでなしに見えてくる。それは信じていい。おびえていた男はいつかまたおびえ、途方にくれていた男はいつかまた途方にくれる」
「ときどき僕は、何かしたあとで、『結局こうなったか』という。『こう』はもちろん、その時そのことによっていろいろ変化する。僕の人生にはかってさまざまな『こう』があり、多分これからもあり続け、人生の最後の瞬間までさまざまに『こう』なり続けるのだろう。僕のいまわの際の言葉は『結局こうなったか』」
「この人は奇妙なほど若く見える。秘密は多分、インチクリフさんが、人生の各段階を全うできたことがない、という点にあるだろう。生きそこねた青春が、インチクリフさんの中に残っている」
 こういう文章にはわりと弱い。しいていえば村上春樹に似ている。もっとも村上春樹より生きることにこだわり、生きることに疲れている。子供に見せていい思想の持ち主とは思えない。こんな人が児童文学者だなんて絶対まちがってると思う。
 で、慌てて『親子ネズミの冒険』(評論社)を読んだ。
 なかなかのものである。
 人生はつらい。人生は苦しい。つらく苦しいその道をずっと歩きつづけても、幸せになるとはかぎらない。そういうつきはなした人生観がひろがっている。
 もちろん予定調和の文学世界であるわけで、涙の出そうな感動的なハッピーエンドを迎えるけれど、そこには、一生懸命生きたから、幸せになりました、といった道徳的な因果律がない。一生懸命生きるのは一生懸命生きるのが生き方として正しいからで、幸せになったのはあくまで結果としてのことにすぎない。いいね。
□『クリスティーン』(新潮文庫)がひさびさに満足のいくスティーブン・キング本。『デッド・ゾーン』『タリスマン』『バトルランナー』と話のスケールが大きくなるほど、そのスケールに付随する、抽象的概念、制度的概念に対する視点の甘さにため息をつかされることが増えてきた。お化け車というレベルがやっぱりキングには似合っている。SFの書けないスティーブン・キングと小説のへたなルディ・ラッカー、同じ青春小説という土俵のうえで、資質のちがいがきわだっている。



◆SF bibrio QUIZ
◇A欄の5つの作品を収録したアンソロジーの題名をB欄より選びだせ。また、そのアンソロジストの名前を記せ。[複数の場合はうち1名をあげればよしとする]
 ※収録作品のほとんどは翻訳されているものである。
[A]
1.BLACK DESTROYER/LIFE-LINE/BEYONDO LIES THE WUB/SCANNERS LIVE IN VEIN/ETHER BREATHER
2.FIREMAN/GURDIAN ANGEL/THE DAYS OF PARKY PAT/HE WHO SHAPES/HOPPER
3.DREAMING IS A PRIVATE THING/I SEE YOU/THE PRIZE OF PERIL/NOW INHALE/THE JESTER
4.TROUBLE WITH AUNT/KNOCK/THE MONSTER/DAY OF JUDGEMENT/THE NEW REALITY
5.HOTHOUSE/BRIDGE/ARARAT/THE LIFEBOAT MUTINY/THE SHIP WHO SANG
6.TO SERVE MAN/COST OF LIVING/THE MODEL OF A JUDGE/THE HOLES AROUND MARS/HORRER HOWCE
7.THE COUNTRY OF BLIND/THE WAIT/UNHUMAN SACRIFICE/THE PERSISTENCE OF VISION/VILLADGE OF THE DEAD
8.A PAIL OF AIR/DARK BENEDICTION/AT THE CORE/THE NEW ATRANTIS/THE STORE OF THE WORLDS
9.CHRISTMAS TREE/EPISODE ON DHEE MINOR/THE SHAPE OF THINGS/THE RULL/PLACET IS A CRAZY PLACE
10.DISAPPERING ACT/CALL HIM LORD/“REPENT,HARLEQUIN!"SAID THE TICKTOCKMAN/THE CRAB-APPLE CRISIS/HELPING HAND
11.STREET OF DREAMS,FEET OF CLAY/THE VANISHING AMERICAN/BILLENIUM/ “EAST WIND,WEST WIND"/TRAFFIC PROBLEM
12.A MARTIAN ODYSSEY/ARENA/ENCHANTED VILLAGE/STRIKEBREAKER/NIGHTFALL
13.BEHOLD THE MAN/A CANTICLE FOR LEIBWITZ/GOOD NEWS FROM THE VATICAN/AN ALIEN AGONY/A ROSE FOR ECCLESIASTES
14.FLOWERS FOR ALGERNON/THE SUBLIMINAL MAN/AND HE BUILT A CROOKED HOUSE/SEVENTH VICTIM/MOTHER
15.BLACK GOD'S KISS/THAT HELL-BOUND TRAIN/PRETTY MOGGIE MONEYEYES/GONNA ROLL THE BONES/THE ONES WHO WALK AWAY FROM OMELAS

[B]
A.THE LAST MAN ON EARTH B.GALAXY C.CATASTROPHES D.FIRST VOYADGE E.TV:2000 F.CULTS! G.THE GREAT SCIENCE FICTION SERIES H.SCIENCE FICTION ORIGINS I.CITY:2000 J.POLITICAL SCIENCE FICTION K.THE NEW AWARENESS L.TRAVELLERS OF SPACE M.ANTHROPOLOGY THROUGH SCIENCE FICTION N.INTRODUCTORY PSYCHOLOGY THROUGH SCIENCE FICTION O.THE FANTASY HALL OF FAME



◇3択問題
1、アイザック・アシモフ「夜来る」が日本ではじめて翻訳された時、アチラではどんな話が発表されていたでしょう。(a,終着の浜辺 b,鼠と竜のゲーム c,悪鬼の種族)
2、次の3人のなかでSF雑誌にデビューしたのがいちばん早いのはだれでしょう。
(a,ロジャー・ゼラズニイ b,アーシュラ・K・ル・グイン c,小松左京)
3、ワールズ・オブ・ツモロウ誌にサミュエル・R・ディレイニーが「スター・ピット」を発表し、ニューワールズ誌にJ・G・バラードが「下り坂自動車レースとみなした…」を、ブライアン・オールディスが『世界Aの報告書』を発表した同じ月、小松左京はSFマガジンになんという作品を載せていたか。
(a,極冠作戦 b,お召し c,牙の時代)
4、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアが「愛しのママよ帰れ」を発表した年の作品でないのは、どれか。
(a,鞭打たれる星 b,時は準宝石の螺旋のように c,人類の罠)
5、「悔い改めよハーレクイン、とチクタクマンは言った」が発表された月に、SFマガジンにはじめて小説を載せた作家はだれか。(a,梶尾真治 b,山野浩一 c,荒巻義雄)

【現在からの注 答えを残していないのでぼくにもよくわからない。問題1はもちろんテーマ・アンソロジーである。アンソロジー・タイトルからテーマを類推して、それにみあった作品群を選び出す。テーマにすこしひねったものがある。たとえば、Aの1の収録されたアンソロジーはB欄のD FIRST VOYADGE 『処女航海』。テーマは巨匠たちの処女作集、といった具合。】





[二月に読み終えた本]
1、『愛の矢車草』橋本治 ☆☆☆       新潮
2、『予言の守護者』デイヴィッド・エディングス ☆☆☆       早川
3、『ノヴァ』サミュエル・R・ディレイニー ☆☆☆☆☆     早川
4、『敵は海賊・猫たちの供宴』神林長平 ☆☆☆       早川
5、『妖戦地帯・淫闘編』菊地秀行 ☆☆         忘
6、『月に呼ばれて海より如来る』夢枕獏 ☆☆☆        忘
7、『ギャラクシー下』F・ポール他編 ☆☆        創元
8、『痩せゆく男』S・キング ☆☆        文春
9、『明治十手架』山田風太郎 ☆☆☆       読売
10 『いま哲学とは』? ☆☆         忘
11、『南から来た拳銃使い』中井紀夫 ☆☆        早川
12、『緑の瞳』ルーシャス・シェパード ☆☆☆☆      早川
13、『紅はこべ』バロネス・オルツィ ☆☆☆       創元
14、『鼻行類』ハロルド・シュテュンプケ ☆☆☆       思索社
15、『SONSB』三原順 ☆☆☆       白泉社
16、「ガラス吹きの竜」R・シェパード ☆☆        SFM
17、「…そしてこの歌をうたうと」 同 ☆☆☆☆      SFM
18、「ジャガー・ハンター」同 ☆☆☆       SFM
19、「竜のグリオールに絵を…」同 ☆☆☆?      SFM
20、「R&R」同 ☆☆☆☆      SFM



□コンテントの『続アンソロジー・インデックス』がやっと手に入って、楽しんでいる。BOOK−CONTENTSのしょっぱなに、アシモフ他編『三分間の宇宙』(講談社)が載っているのだけど、その第一行目がおかしい。アシモフの「楽しみ」のはずが、A LOINT OF PAW になっている。たしかちがう作品で、このタイトルはまだ未訳だと思う。(それとも、同じ話の別タイトルなんだろうか。)
 同じくアシモフ他編『ミニミニSF傑作展』(講談社)の原書百作品中、足切りされた29編の内容がわかった。けしからんのがけずられている。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「エトセトラ、エトセトラ」、フリッツ・ライバー“THE BAIT"、噂の翻訳不能作品のひとつシオドア・コグスウェルの“THE BURNING"といったところ。プン。
□作品番号1番。うしろふたつが書きおろしなんでてっきり連作だと思ったんだけど、別々の短編4つ。きもちいいのが「愛の狩人」、こわいのが「愛の矢車草」。子供の変化におびえる父親と母親、というのは、『クリスティーン』と同じ構図だけれど、(ふたりの職業まで似ている)、そのぶん比較できてしまって、こわさがきわだつ。橋本治=スタージョン説をぶちあげようかな。
□2番。読んでてデジャヴューのかたまりみたいな本で興奮はまるでないけど、脇役の書き込みがしっかり出来てて、飽きずに読めた。
□3番。☆☆☆☆にちかい☆☆☆☆☆。ブルース・スターリング『スキズマトリックス』が☆☆☆☆☆にちかい☆☆☆☆だから、評価としては微妙な差しかない。かっこよさというやつが、間が抜けているということの、婉曲語法にすぎないと、なかば本気で信じている人間には(ロジャー・ゼラズニーを見よ、ハーラン・エリスンを見よ)、ディレイニーの作品を支える隙のなさというやつが、奇跡のようにも思えるけれど、同時に、その隙のなさこそ、ぼくがこの作家に一歩距離を置いてしまう原因でもある。かっこよさが、本来露呈するはずの、作者の間抜けさ加減さえ、隠蔽してしまおうとする、サミュエル・R・ディレイニーのガードの堅さがうっとおしい。
 (完璧である)『ノヴァ』の一番の物足りなさは新奇さの欠如だ。ここには、『エンパイア・スター』(サンリオ)があり、『バベル=17』があり、「スターピット」があり、「漁師の網にかかった犬」があり、『虎よ、虎よ』がある。ディレイニーのすべてを盛り込んだ集大成である。けれども、ほかならぬ、そのことこそが本書の最大の不満でもある。『エンパイア・スター』を読んでいて『アプターの宝石』(サンリオ)の影をはたして読み取ったか。『ババル=17』を『エンパイア・スター』の異相としてはたしてとらえていたか。どの作品も、他の作品を経由せず、直接ディレイニー像へと流れ込んでいっていたのでなかったか。多層多様に詰め込まれたシンボルの配置に感動することは可能だけれど、『エンパイア・スター』や「スターピット」を読んでたときに、そういう読み方をしようといった意識が一瞬たりとも働いたことがはたしてあったか。『ノヴァ』から派生し、どこかへとつながっていく興奮とは残念ながら最後まで無縁だった。『エンパイア・スター』にはそれがあったし、「スターピット」にもそれがあった。『スキズマトリックス』にもそういうのだけはあった。『ノヴァ』は『エンパイア・スター』が流れついた《終着の浜辺》である。
□9番。著者が神の視点に立って物事を語るということが、あらゆる思考を(無政府主義的なものでさえ)必然的に体制是認のイデオロギーに変質させるということを教えてくれた山田風太郎が、また、振り子を戻しはじめている。新聞連載という事情のせいかもしれないけれど、『国定竜次』(講談社)といい本書といい、作者の視線が主人公によりそうかたちに帰ってきている。ただし出来栄えは不満。風太郎の話としては、スケールが小さく、造りも荒い。裏表紙の仕立て屋銀次の似顔絵が、大森望そっくりで笑える。
 
【現在からの注 10番。掲載時、著者名を書かないでいたら、どこから出ただれの本  だかさっぱりわからなくなった。星ふたつだから、それなりに愉しんだらしいのだ  けど、中味もぜんぜん覚えていない。困ったものだ】

□12番。マイケル・ビショップにちかい作風だろうとあたりをつけて読みはじめたら、むしろトマス・M・ディッシュ。『キャンプ・コンセントレーション』(サンリオ)の連想が働いたせいだろうけど、たぶんそれだけじゃない。人物描写、行動描写が絶妙で、細部を味わう喜びがあった。こういう作家は、模倣者追随者がなかなかできない。尊敬されても運動体的パワーを生み出せない。作家としてひとりどんどん立派になって偏屈になっていく。たぶんまちがいなく80年代ディッシュだろう。と、考えながら読んでいくと、諸星大二郎になってきた。さらに読んでいくと《アンバー》になった。これはすごい、傑作間違いない、とほとんど断言しながら、読んでいくと、通俗三流SF常套プロットに収束していって、☆がひとつ、流れて消えた。ばかやろう。
□13番。面白かった。なんで唐突に読む気になったのか、自分でもよくわかんないけど、とにかく読んでよかった。必死になって読んでしまった。
□とにかくドラクエ3の月であった。ドラクエざんまいと後ろ指さされないよう必死で読んだ。これだけ読めば立派なもんでしょうが。それはそれとして、ドラ3は傑作。イエローオーヴをめぐるサイド・ストーリー、バラモスとの戦いにおける大展開ほか、感動にことかかない。連れが男か女かで、ぱふぱふの後の会話がちがうって、知ってた?




【三月に読み終えた本】
『地底世界ペルシダー』E・R・バロウズ ・     早川
『危機の世界ペルシダー』E・R・バロウズ ・     早川
『戦乱のペルシダー』E・R・バロウズ ・     早川
『白い少女たち』氷室冴子 ☆☆   コバルト
『さようならアルルカン』氷室冴子 ☆☆   コバルト
『クララ白書』(1・2)氷室冴子 ☆    コバルト
『アグネス白書』(1・2)氷室冴子 ☆☆   コバルト
『恋する女たち』氷室冴子 ☆☆☆  コバルト
『雑居時代』(上下)氷室冴子 ☆☆   コバルト
『ざ・ちぇんじ』(上下」氷室冴子 ☆☆☆  コバルト
『シンデレラ迷宮』氷室冴子 ☆☆   コバルト
『シンデレラ・ミステリー』氷室冴子 ☆    コバルト
『少女小説家は死なない!』氷室冴子 ☆☆   コバルト
『なんて素敵なジャパネスク』(1・2)氷室冴子 ☆☆☆☆ コバルト
『ジャパネスク・アンコール』(1・2)氷室冴子 ☆☆☆☆ コバルト
『わらびケ丘物語』氷室冴子 ☆☆   コバルト
『なぎさボーイ』氷室冴子 ☆☆☆☆ コバルト
『多恵子ガール』氷室冴子 ☆☆☆☆ コバルト
『ヤマトタケル』氷室冴子 ☆    コバルト
『東京物語』氷室冴子 ☆☆☆  集英社
『無花果少年と桃尻娘』橋本治 ☆☆☆  講談社
『餓狼伝・3』夢枕獏 ☆☆☆   双葉
『Dー聖魔遍歴』菊地秀行 ☆☆   ソノラマ
『運命のダイス』デイヴィッド・ビショフ ☆☆☆   教養
『独裁者の城塞』ジーン・ウルフ ☆☆☆☆  早川

■《ドラクエ3》を終えた後、《ペルシダー》を衝動的に三冊読んだ。どうしてでしょうね、わっはっは。古本屋で七冊セットで買ってきて、全巻通して読もうとしたけど、4冊目でダウン。いったいどういう読み方をしたら楽しめるのかがさっぱりわからない。世界をたのしむったってせいぜい一巻目くらいのものだし。あとはただひたすらに退屈で、読むポイントがわからない。そういえば冒険小説というやつが苦手なのにも、似たようなわかんなさが根底にある。
■氷室冴子という作家に興味が向いたきっかけが、「青春と読書」に連載された『東京物語』というエッセイだったということに、わりとじくじたるところがある。これでは、ぼくが口をきわめてののしった、『戦中派不戦日記』を読んで山田風太郎の知性に開眼した、とはずかしげもなく公言する、バカ知識人どもとなんら変わるところがない。
 ただ弁解させてほしいのは、あの、モロ少女小説家面したペンネーム、そしてなによりあのどピンクの背表紙には、三〇過ぎた男性が手にとることに公序良俗違反ときめつけるパワーがみちていることだ。古本屋で買った文庫は原則として、カバーをかけずに持ち歩いているこのぼくが、電車のなかで、カバーなしで読むことができなかったということが、社会の制度的圧力を端的にあらわしている。赤背表紙の久美沙織だと平気でひろげられるのだが、ピンクはペケ。
 それなのに、先月末まで三冊しかなかった(それでもなぜか三冊あった)ピンク色した本棚が、あっという間に二十二冊に増殖し、しかも全部読み終えてしまっているからおぞましい。生まれてはじめてコバルト本を、それも九冊新刊で買ってしまった。
 本棚で、菊地秀行と夢枕獏のソノラマ文庫のおとなりにささやかな陣を張ってたコバルト文庫の棚は、氷室冴子ひとりで満杯になり、残り部隊の久美沙織や新井素子ははじきだされて、いまだ落ち着き先がきまらない。
 ファミコン疲れのとある一日、かあるく読める本をもとめて、本棚に買い置いていた『シンデレラ迷宮』に手をのばしたのが第一歩。最初の日が一冊、次の日一冊、その次二冊、四日目が実に五冊の大量消費。あいだにマキシンジの結婚式がらみの東京行きなんかをはさみながら、二週間たらずで全巻消費してしまい、あっない、もうない、と呆然としている。『女神転生』なんか二週間過ぎてもまだ「炎の腐海」までしかいってないのに、えらい違いだ。
 ただ、評価をみてもらうとわかるように、(かなり辛めにつけたところはあるけれど)けっしてすごい小説を書く人ではない。すごい小説ではないけれど、あるいは、ないがために、逆にめちゃくちゃフィットする、そんな小説を書く作家である。小説は、すごくないけど、すごい作家といえる気がする。
 ドラマツルギーがうまいのですね。『東京物語』を読み返していて、『北斗の拳』から、正調木鑓歌を経てヨーカンの一子相伝につながるエッセイで、不覚にも、人前で読んでて噴きだす失態を演じた。はっきりいって、たいした話じゃないし、落ちも割れているし、再読だというのに。
 あんまりいいくせじゃないのだけど、ぼくの読み方は、にらみつけるような顔つきで本に向かうところがある。感情の起伏が表情にあらわれることをおさえこもうと極力努力しているところがある。もっとすなおになったほうがいいのはわかってるけど、そういうスタイルを作ってしまったのだからしかたがない。それだけに、電車の中なんかで、苦虫顔の防御線をするりと抜けて、笑い声を漏らしてしまうと個人的にはかなりショックだ。この種の記憶は、学生時代、『地球人のお荷物』を読んでてやったことがあるくらいしか、覚えがない。そういう人懐っこさが、この作家の魅力だ。
 読んでて最初に感じた作者にたいする印象は、いまの時代に不釣り合いな時代錯誤的文学少女。基本的には、重くて暗い心性の作家だ。それが、コメディ・タッチのストーリーとうまくあって幅と深みと陰影を供えた心地よい味わいを生んでいる。
 処女作にすべてがあるという言い方は、この作家には当てはまらない。『白い少女たち』は《完璧な秀作》というべきもので、少女たちの内面をシリアスに掘り下げているようで、実際には、テーマの追及にことよせて、作者の本音に類するものが作品内部に流れ出すのを巧妙に防いでいる。氷室冴子の原点は、むしろ短編集『さよならアルルカン』の表題作に置くべきだ。
 たぶんこの表題作は、彼女の当時の会心作だ。収録された他の作品は、掲載時期がはっきりしないので断言できないのだけれど、表題作よりあとのものではないかと思う。未熟さよりも、無理を重ねた息苦しさが目立つから。無理の間から、見せたくもない自分のなかの重いものまでひろげてしまう無惨さがある。けれども同時にそのなかで、みつけていった人間関係図式がその後のコメディ基調の作品の骨格になっていく。
 たぶんこのラインのままいってたら、氷室冴子は、三原順であったかもしれない人で、死んじゃってたかもしれない。
 氷室冴子の魅力はあくまでも、ジュニア小説の枠のなかでしか輝けないのではないか。ぼくの一番のお勧め品は、《ジャパネスク》四冊と『なぎさボーイ』『多恵子ガール』の二冊だけれど、どちらも基本は、まるっきり、おなじ図式の人間関係物語にもっていってる。
 それはけっしてマンネリとかワン・パターンといった非難の対象にすべきものではない。ちょうど、あるひとつの型に持ち込めば、横綱が相手であっても絶対に勝てる、という大関みたいなもので、その人間関係物語にさえ持ち込めば、のびのびと、かなり深刻な思いまでも心地よく、人懐っこくエンターテインしてくれる。
 でも、その人間関係って、ジュニア小説というジャンルでしか使えないたぐいのように思えるのだ。そこを無理に、ほかの場所で展開しようとすると、『アルルカン』とおなじ痛々しさに陥るような気がする。
 ヴァラエティに富んでるように見えるけど、このひと意外と不器用だ。ディックとおんなじ。うーむ、比較の相手がよくないか。
 だからどっちかというと、あたらしいことにどんどんチャレンジしてくれるより、おんなじシリーズをずーっと続けて書いててほしい。
■仏滅に結婚式をあげるといった、天に唾する行状を仕組む人間はいまどきそうめずらしいこともないが、この種の挑発に、天を反応させた人間となると、これはやっぱりめずらしい。
 大森望の結婚式は、朝から横殴りの大雨。タクシーで行こうとした参列者たちはつぎつぎ乗車拒否に遭い、遅刻者が続出、あまつさえ結婚式がはじまると、三月も二六日だというのに、なんと雪が降りだす始末。めちゃくちゃですな。
□もっとも、式自体は異様にまともだった。ドラクエのテーマなんかもけっこうきまっていた。なんでも最初は、もっとラフなかたちにもっていこうとしていたらしいが、二週間前のマキシンジの結婚式で、SFが傍若無人にふるまうのをみて、こういう結婚式はよくないと悔い改めたという話である。あの大森望をしてそう言わしめたというだけでもマキシンジの結婚式がどのようなものであったか見当はつくかと思う。
□マキシンジの結婚式は神田明神で行われ、ふたりの名前を書いた結び石というものが中庭に奉納された。ここは、あの、例の、将門の首塚をまつっている神社である。マキシンジの名前を刻んだ石が、将門のたたりを鎮める神器として使用されるということである。悪いことが起こらなければいいが。
□大森望ケッコンジン寄稿文、ベストテン。
 1 永田弘太郎。  2 古沢嘉通。  3 村山裕。
 4 岡本俊弥。  5 友成純一。  6 サワキ/ホソミ
 7 久美沙織。  8 巽孝之。      9 高橋良平。
10 川又千秋。
□マキケッコンジンはまだ入手できないのでパス。




【四月に読み終えた本】
『占星王はくじけない』梶尾真治 ☆           ?
『創竜伝2』田中芳樹 ☆☆         徳間
『蛇神の女王』ディヴィッド・エディングス ☆☆☆        早川
『ミラーシェード』B・スターリング編 ☆☆☆        早川
『ゴールデン・ボーイ』スティーブン・キング ☆☆☆        新潮
『デコイの男』リチャード・ホイト ☆☆☆        早川
『すい星の核へ』ベンフォード&ブリン ☆☆☆        早川
『当世・商売往来』別役実 ☆☆         岩波
『アグネス白書』(コミック版) ☆           ?
『なんて素適にジャパネスク3』氷室冴子 ☆☆☆       コバルト

□先月の氷室冴子の反動で、翻訳が読めなくなった。どうしてこんなに読むのに時間がかかるのだろう、しんどさに比例するだけの楽しさがはたしてあるのだろうか、と疑問を感じて、スティーブン・キングごときに四日かかった。ブリン&ベンフォードを読み切って、やっと常態にもどった感じ。グレゴリイ・ベンフォードの体質って基本的にぼくの好みなんでしょうな。解説をやったせいかもしれないけれど、『星々の海を越えて』がいちばん好きだ。
□それにしても氷室冴子の読みやすさというのはいったいなんなんだろう。『ジャパネスク3』を読んだ余韻で、前の四冊をぱらぱらめくっていて、気がつくと全部読みかえしていた。おそろしい。
 で、前回の過熱状態がすこしおさまり、いくらか冷静さを取り戻してみると、今の氷室冴子はだいぶレベルダウンしている。というより、『ジャパネスク1』『なぎさボーイ』『多恵子ガール』『ジャパネスク2』と並んだ時期はこの作家にとってさえ、一生に一度あるかないかの、異様なノリにとりつかれた時代だったのかもしれない。『ジャパネスク3』は手なれたうまさと裏腹の、けだるさに似たゆとりがあって、先にあげた四作に共通していた作者の必死さ、緊張が、どこかほぐれてしまった無念さがある。
 吉野君/槙修子タイプの緊張型キャラが出てこない、というだけのことではたぶんないと思うのだ。なぜなら、夏子姫という緊張型キャラが出てきた『続・アンコール』についても、小説の組み立てが彼女の作品中、一、二を争う出来であるにもかかわらず、文章の勢いにおいておなじものたりなさを感じたのだから。
 コミックをひとつ読んだのだけど、このひとのコミック化はむずかしい、というぼくの評価をたしかめる結果に終わった。一見、コミック化しやすいように見えるけど、『続・アンコール』の評価のしかたでわかるとおり、文章に想いがこもる作家と思う。コミックにしたくなるのは、よくわかるのだけど、なんかこのへんの誤解は、スティーブン・キングがやたら映画化される事情と似ているのでなかろうか。
□そのキングだけど、『ゴールデン・ボーイ』の出来栄えは、同じ本の片割れの『スタンド・バイ・ミー』より、ふたクラス落ちる。脱獄物語の方は、最後の仕掛けに涙腺を派手に刺激されたからまあいいとして、かんじんの長い方の「ゴールデン・ボーイ」が『クリスティーン』の出来の悪い試作品みたいでペケ。☆☆☆か、☆☆か、かなり迷った。
□逆に、☆☆か、☆☆☆か、かなり迷ったのが『創竜伝2』。めちゃくちゃな話だけれど、作者が本気で〈めちゃくちゃな〉話を書こうとしている感じがある。めちゃくちゃな話を、支離滅裂にもならず、ドラマツルギーを失うことなく、やりとげるのは、これはたいへんなことなのである。そういうことすらわかっていない、世間で一流扱いされている馬鹿作家が、想像力を解放するということを、なんにも考えずに、自分の貧しい品のない妄想をたれ流すことだとかんちがいして、伝奇小説に参入してくるものだから、困ったことだ。
□前回の、《苦虫面での読書》に関する補足陳述。
 そういう読み方になってしまった一因は、レヴューを書くのが本を読んでいくうえでの前提になってしまったせいである。
 それが証拠に、眉根の寄りが、SF↓ファンタジイ↓純文学の順にゆるくなる。おかしなことであるけれど、へんてつのない純文学やなんかのほうが、SFやファンタジイよりずっとエンターテインして読める。
 SFで、純文学とおなじくらい気楽に読めるものとなると、リチャード・S・マッケンロー『ソーラーフェニックス』みたいに、はなから評価を要しないB級作品。だから逆にB級作品には弱い。B級で開き直ったB級は大好きだ。
 デイヴィッド・ブリンであるとか、ある時期のロバート・シルヴァーバーグなどというのは、本来評価を要しないB級の身分でありながら、なまじA級面して評価をもとめてくるものだから、「バカ!」と評してあげないといけないことになってくる。この連中より、実はアシモフやシェクリイなんかのほうが、(絶頂期のころほど)意外と無邪気でえらぶらず、B級っぽい要素が強くて、わざわざ「バカ!」というのが気がひけるのだけど、彼らをA級としか思っていない《世間》という困ったバカがいるもんで、いきおいこちらも読み方がしんどくなる。
 もともと、この《おもしろい》というやつは、主観的なものだから、ほんとのところ、傑作もクズも「おもしろがってやる!」と覚悟をきめてぶつかれば、よほどのことがないかぎり、たいていおもしろがることができる。志茂田景樹ですらおもしろがれる。(うーむ、ちょっと意味がちがうか)
 けれども、レヴューというかたちで自分の意見を展開しようとする以上、なんでもかんでも《おもしろかった》ですまされない。本来、主観以外のなにものでもない《おもしろかった》を、なんらかの操作で他人への伝達可能な客観的存在に置き換えなければならなくなる。
 それがつまり《論》である。《リクツ》である。そうやって伝達することが、自分にとって、相手にとって、どんな意味があるのかと気にしだしてから、ぼくの文章はぐちゃぐちゃになってくるのだけれど、それはまあ、別の話。《おもしろかった》ということに、根拠法令を設定し、法律実定主義の確立をめざす。それがレヴューの基本だと、思う気分はいまもかわらない。
 けれどもそれは客観化操作のいうならば最終段階である。
 そのためには、その前段階に、読んだ本に対する反応を一律化するための、(なるべく)不動の受容体が要求される。
 というわけで、《苦虫顔》が登場する。
 本を読んで引き起こされる感情の起伏が、《苦虫顔》でシンボライズされた想像上の、厚みをそなえた防壁の、どの部分のどの深みまでしみこむか、どの岩盤ではねかえされるか、常におなじと想定された《苦虫顔》への浸透の度合いによって、《おもしろかった》という主観がある種の客観に置き換わる。そこではじめて評価が生じ、生じた評価の根拠として、ふたつの評価の差異として、《論》が《リクツ》が派生する。《論》があって評価が生じるわけではない。ここをまちがえてはいけない。評価が先で、《論》があと。逆ではないのだ、最初のうちは。(このあと、逆転が生じ、ぼくが《他律化された自己による自己拘束》と延々言い続けている事態にたちいたるのだけど、この話はもう疲れた。今日は《苦虫顔》の話である)。
 氷室冴子に接したときのうろたえは、この《苦虫顔》をいともたやすく抜かれたことへの衝撃だった。それも、たとえば西村寿行のときみたいに正面からぶちあたられて、粉砕されたというんじゃなくて、あっという間に《苦虫顔》の裏側に、するりまわりこまれた衝撃だった。




【五月に読み終えた本】
『ホテル・ニューハンプシャー』ジョン・アーヴィング ☆☆☆    新潮
『蜂工場』イアン・バンクス ☆     集英社
『カフェ・パニック』ローラン・トポール ☆☆     創元
『ミルクマン』スティーブン・キング ☆      扶桑
『社会の発見』コリンズ&マコウスキー ☆☆☆   東信堂
『活字中毒養成ギプス』 ☆☆☆    角川
『世間知らず』小林信彦 ☆☆     新潮
『ふくろう模様の皿』(再)アラン・ガーナー ☆☆    評論社
『ゴルの襲撃者』ジョン・ノーマン 放棄     創元

□笑い話ひとつ。『ディープ・ダンジョンV』という退屈なゲームを、だらだらやっておりまする。四人のパーティを組んで迷路のなかをうろついて、モンスターをやっつける、毎度おなじみのゲームですが、じつは迷路のあっちこっちで出会うはぐれキャラと、パーティ・メンバーをとっかえて、だんだんパーティを強化していくのが、新趣向であったのですね。だけど、出だしのキャラ・ネームを、グレアム、アンジー、サーニン、マックスでやっちゃうとね。メンバー・チェンジができない。はは。
□考えてみると、『ノルウェイの森』のあたりから、読んでる本に、やたら人恋しいタイプのものが増えております。『ホテル・ニューハンプシャー』(新潮社)を突然読んだのも、古沢先生が面白かったとのたもうた『世間知らず』(新潮社)を感想を聞いた翌日衝動的に買ったのも、そういう読書傾向の延長線上にある。(しかし小林信彦は、男同士の人間関係を書いてるときは厚みがあるのに、異性関係になると急に底が浅くなる。この小説でも一番存在感のあるキャラは早逝する丘であり、メイン・ストーリーはつくりものくさくて安っぽい。) 氷室冴子にひっかかったのだってそういうことかもしれないし、紋切り型のエディングス『ベルガリアード物語』の評価が優しくなるのも、おんなじ理由かもしれない。で、なんでかなあと思って、つらつら考えるに、もしかすると、これはサイバーパンクのせいじゃないのだろうか、なんちゃって。
□『宝島』『ブルータス』『アクロス』とサイバーパンク・アイテム集めをやったのだけど、『朝日ジャーナル』で、もう打ち止めにします。みたことのある人間が同じことを言ってるか、見たことのない人間がバカなことを言ってるだけのしろものに、いつまでもつきあっててもきりがない。「破滅的な終局におけるテクノロジーと生体の濃縮空間を描き、人間進化の聖域を、SF的想像力の臨界点において設定する遊戯的な表現スタイル」などという歯のうくようなお題目をぱかぱか押し付けられるのにはいいかげんうんざりする。だいたい『ニューロマンサー』と『スキズマトリックス』という、小説原理として(うーむ、われながら意味不明の言葉だ)、あきらかに異なる指向性を有する作品を、同傾向とくくって平気な《サイバーパンク経由What is SF》論というものの無神経さは、ほんと、許してほしい。これにさらに、《What is サイバーパンク》論というやつと、《サイバーパンク経由八〇年代文化》論というやつがあって、こういうやつは、とくに最後のやつなんか、それはそれでかまわないのだけれど、素材がSFであるというだけのことで、ぼくにはあんまり関係ないわけなのですね。それより、むしろ問題は、書き散らされている雑文の多くに、そういう三つ(あるいはそれ以上)の論点が、ちがうものだという自覚すらされずに、まぜこまれていること。それは、たとえば、サイバーパンクという文字をフィリップ・K・ディックに置き換えても言えることであり、ぼくがあのての文章にうっとおしさを感じる理由であるのだと、いまこうやって書いてるうちに急に気付いた。(この付くという字の自動変換、どうにかならんのでしょうか、シャープの社員殿)
 『ニューロマンサー』はそこそこ面白かった(でも喚くほどのものじゃない)、『スキズマトリックス』はかなり面白かった(これなら騒いでもいい)、というのが、サイバーパンクについてしゃべるぼくの起点であるのだけれど、そしてSFについて、面白い面白くないというときに、常にSFとしての出来不出来という部分が大きく噛んでくるのが、ぼくの考えかたの枠組みであるわけで、だから他人の文章もそういう部分を気にしながら、つい読んでしまう。サイバーパンクをめぐる話はディックの時よりずっとはるかにこういう前提、読んで面白かったという気分、を、どこかに置き忘れた意見、はなから思いもしていない、そんな感じの文章が、(ファンジンを含めて)大手を振ってまかりとおっている様が、じつは相当うっとおしい。SFは通俗であるという大前提を抜かしてなんのSF論かと思ってしまうのでございます。否定する方も否定する方で、はなはだしいのは自らの貧しい先入感を振りかざし、サイバーパンクはもっと通俗に徹すべし、というやから。自分の消化できないものが通俗でない、と言い切れる独断性に頭が痛い。『ニューロマンサー』にしろ『スキズマトリックス』にしろ、本格的(?)通俗小説の王道はちゃんと踏んでいるのでありますよ。
■5/10付『活字中毒養成ギプス』の「SF・ファンタジイ・ベスト50」、風間賢二というひとがやってるのだけど、内容についてはおいといて、面白いことをみつけたので、御報告。44頁から46頁にかけて、次の六人の作家の作品が、次のような順番で並んでいる。ウィリアム・コッツウィンクル、スティーブン・キング、キリル・ボンフィリオリ、マーヴィン・ピーク、クエンティン・クリスプ、ラッセル・ホーバン。この順番に御注目。5/10発売の『宝島』の70頁、ブック・レビューのSFコーナーは『蜂工場』をやってるけれど、このなかで、紹介されてる作品というのが、次の順。1『バドディーズ先生のラヴ・コーラス』、2『深き森は悪魔のにおい』、3『魔性の犬』。しかもこのあと『それぞれの海へ』の書評が続く念の入りよう。レビュアーは倉林律。お付き合いの深さが窺い知れる配列である。
 
【現在からの注 誤解を招く書き方なので念のために注を入れる。風間賢二と倉林律は別人である。じつはこの時期、この二人が同じ会社の同じ職場で机を並べて仕事をしており、倉林律の方がザッタ関係者であった】

■昔、借りて読んで、内容の深みにショックを受けた記憶をながなが抱え込んでいた、アラン・ガーナー『ふくろう模様の皿』(評論社)をやっと買って読み返したら、いったい何が凄かったのか、よくわからない。現実世界と神話世界とを二重写しにした小説構造は、たしかにくせのあるものだけど、わからないというほどのもんでもない。でも、まえ読んだときって、たぶんわかんなかったんだろうな。わからないぶんだけ、図解可能なメッセージを、図解不能なもやもやした作者の複雑な思いのようにうけとめて、感動していたような気がする。あらためて、言うほどのことじゃないけど、小説って理屈でわりきれちゃうとだめなんだよね。おまけに、神宮輝夫というひとが、こんなに訳が悪いというか、読みにくい日本語を平気で書けるひとだって、気がついちゃったし。
 読まなきゃよかった。




【六月に読み終えた本】
『ニムロデ狩り』チャールズ・シェフィールド ☆          創元
『竜神の高僧』ディヴィッド・エディングス ☆☆☆        早川
『完本チャンバラ時代劇講座』橋本治 ☆☆☆☆☆      徳間
『怪奇日食』式貴士 ☆☆         角川
『ブックページ88』 ☆☆☆      ブックページ
『ルナティカン』神林長平 ☆☆        光文社
『薬菜飯店』筒井康隆 ☆☆☆☆       新潮
『パパの原発』マーク・レイドロー ☆☆☆☆       早川
『妖鬼特捜官』菊地秀行 ・           忘
『ウィロー』ウェイランド・ドルー ☆☆         早川
『獅子の門・青竜編』夢枕獏 ☆☆        光文社
『くろんの王 上下』夢枕獏 ☆☆         徳間
『ハイスクール八犬伝 2』橋本治 ☆☆☆        徳間

■『ブックページ88』は87年に出版された、漫画以外の全単行本リスト。すべての本に、二百字前後の《要旨》がついているのと、索引が整備されているのがセールス・ポイント。当然、全部読んだわけではないけど、新書本のとこなんか、全部読んだ。頭がくさるかと思った。志茂田景樹は、文庫落ちを含めて全部で四十冊出ている。惜しむらくは、短編集の収録作品、翻訳本の原題が載ってないこと。でも、SF年鑑の代わりとしては、そこそこ値打ちがある。
■たかが背表紙である。いちいち文句を言うのもおとなげない。そう思うところもあるのだけれど、こう続けさまに読んできている人間を無視してかかる仕打ちをされては、わたしも怒る。キングの『ミルクマン』、サンケイ文庫から扶桑文庫に変わったという点を割り引いても、キング短編全集全五冊の、第三巻目だけ赤い背表紙というのはたまらない。ハヤカワ文庫、あの野暮ったい背表紙のデザイン変えはいったいなんだ。せめて白抜きの長四角の位置をそのままにする方法はなかったのか。同じくハヤカワFT『ベルガリアード物語』、三巻目から背表紙を色染めした。やるんなら最初からやれ、馬鹿。本ってのは、読むだけのもんじゃないんだぞ。本棚に、きちんと揃って並んでいるのを見ることも、買い手の楽しみのひとつなんだぞ。ばかやろう。それまで十冊新書本で揃えているのに、最初から文庫本で出版されたというだけで『帝都物語・十一』を買えない人間だってこの世にはいるのだ。
【現在からの注 この文章を載せた次の週、当時扶桑ミステリの編集者だった金子さんから扶桑版キング短篇集表紙五点揃いをいただいた。
 ありがたいことである。愚痴は言ってみるものである。
 ベルガリアードについては、ベルガリアードを色染めしたわけではなく、FT文庫を色染めしたということだった】

■『薬菜飯店』(新潮社)がひさびさにおもしろい。理屈が先行した窮屈さが、みごとにふっきれている。傑作がある。「薬菜飯店」「ヨッパ谷への降下」のふたつ。「秒読み」なんか、あまりのオーソドックスに読んでるほうが赤面してくるただのSFである。「イチゴの日」や「偽魔王」みたいな《くだらない》小説が書けるようになると、このひとは強い。
■サイバーパンクはニューウェーヴと比較するより、ギャラクシーとフューチュリアンに重ね合わせたほうがいい。これがぼくの持論だけれど、また、その意見を補強する作品が出た。
 『パパの原発』(ハヤカワ文庫)の感想を、一言でいうと、C・M・コーンブルースのP・K・ディック割り、P・J・ファーマー風味というところ。ベースはあくまでコーンブルース。ギブスンにしろスターリングにしろ、社会をイメージする視点やセンスは意外と平凡で、よくお勉強しましたパチパチ、で終わってしまうのだけれども、この作家にはもっと生得的な味がある。へんなせこい素材主義(ex,プラグ・イン)にひっかからなけりゃ、相当の作家になるかもしれない。
 それにしても解説がよくない。世の中を笑いとばしている小説を、社会へのプロテストとして読み取るのは、せっかくの豊穣を貧しくするだけだと思う。小川隆というひとの、きまじめな性格が裏目に出た解説。ジョン・シャーリイみたいな頭の固い怒り者が相手なら、このての解説も似合うけれど、こういう本は、もっとひねくれた性格の悪い人間にさせたほうがいい。大森望だと小川隆と反対に悪ふざけの部分ばっかり強調しそうな感じだし、白石朗なんかが適任だろうね。
□『妖鬼特捜官』は最悪。一般客にはちょっとてこずりそうなアイディア(傾向としては『魔戦記』系)を強引に本にした努力はりっぱだけれど、その代償だかなんだか、脈絡無視にやたら意味のないベッド・シーンが乱発される。これまででいちばんひどい。
□『ウィロー』どうせノヴェライゼーション、と軽んじ気分で手にしたら、型どおりだけど意外とちゃんと小説している。
□獏のパワーはすこし落ち気味。
■『チャンバラ時代劇講座』(徳間書店)は大傑作。橋本治というひとは、読みすぎるとわりとうっとおしくなるひとで、最近はげっぷが出ないよう、距離を置いて読むようにしていたのだけれど、この本にはひきずりこまれた。
 個人的な事情もある。いろんなSF論を読んできて、感じていた不満、もし本格的にジャンル論を展開しようとすれば、こういう足場とこういう視座、こういう目配りが必要なのではなかろうか、ともやもやとひっかかっていた部分というのが、見事に押さえられているのだ。
 「時代劇」について書いてあることが、SF論をやるのにどう関係がある、なんて馬鹿なことを言わないように。対象を把握する方法論というものは、相手によってころころ変わるもんじゃない。あるジャンルの説明に使われている方法論が、ちがうジャンルの説明に通用しないようであるなら、そのアプローチがまちがっているか、そうでなければそのアプローチが通用しない理由のなかに、そのジャンルのもつ特異性がある。後者のケースはほとんどない。
 なによりも、通俗娯楽ということの《凄さ》を前面に押し出しているのがすばらしい。小説にしろ映画にしろ、通俗という基礎を肯定せずに語ることなど本来不可能であるにもかかわらず、なにかそれらを恥部として目をそむけようとする本が、この種のものには多すぎる。
 男女関係、人間関係をめぐっての、いつもの、いいかげんうっとおしくなるうじゃらじゃらにふみこんじゃうのは御愛嬌だけど、NHKの『赤穂浪士』で時代劇の時代が終わった、などという鬼面人を驚かすレトリックは健在で、こういうSF論がやれたらなあと、つくづく思う。
□で、『ハイスクール八犬伝』である。あいかわらずの心理解説が暑苦しいけど、たいへんな本になりそうな気配がある。話の川筋がここまできながら、まるで見えてこない。『チャンバラ』で強調された、通俗というものの底力、底深さをみずから体現しようとする決意めいたものさえ漂ってくる気がする。
 なによりこの小説と原本『八犬伝』とのつながりかたが並でない。橋本治のなかでこのふたつがどう重なっているか、そこのところが読みきれない。




【七月読み終えた本】
『黄金獣』夢枕獏                        詳伝社
『死者の書』ジョナサン・キャロル                 創元
『東方奇譚』ユルスナール                    白水社
『黒龍とお茶を』R・A・マカヴォイ                早川
『魔童子』菊地秀行                        忘
『発動、NY破壊指令』デヴィッド・ウィルツ            扶桑
『おお、エルサレム』ラピエール&コリンズ(かな?)        早川

■読んだ本を記録しないでいたら、よくわからなくなった。あと三、四冊読んでるはずなのだけれどね。一月程度のあいだの記憶がこうもあいまいになるんじゃ、ほんと、なさけない。
□考えてみると去年のこの時点というのは、ザッタ恒例夏の海水浴で、はじめてファミコンに手をかけてしまった時期であるわけですな。なんと驚くことに、まだ一年しかたってない。その間に、クリアしたゲームはというと、『ドラクエ1・2・3』、『桃太郎伝説』、『鉄道王』、『ファイナル・ファンタジー』、『女神転生』、『キャプつば』、『信長の野望』、『ギャンブラー自己中心派』、『バベル』、『ヘラクレスの栄光』、『伊達政崇』など。これに『ソロモンの鍵』『ディープダンジョン3』『ネクロマンサー』といった、終わってないゲーム、『上海』みたいな終わらないゲームをおんなじくらいやってるわけで、
 うーむ。
 書きながら、慄然としてきた。なんたる無駄!なんたる時間の浪費!
 これだけの時間で《なにか》をやったら、きっと、《なにか》できたにちがいないのに。ねえ。ZOMせんせ。
  
【現在からの注 青心社の編集者である。】





●京都SFフェスティバル ちらし記事
 
【現在からの注 京都大学SF研究会が毎年11月頃に開催している京都SFフェスティバル、略称京フェスという、参加者100名強の集まりがある。パネル・ディスカッションと合宿をセットにしたこじんまりした大会で、5月に東京で開催される「SFセミナー」と並んで毎年参加するのがぼくの恒例行事になっている。
 これのプログラム・ブックに書いた雑文をついでに載っけてしまうわけだけど、もしかしたら、この年でなかったかもしれない。毎年おんなじような人間が顔を合わせている集まりなので、ちゃんと日付を残してないから、この年でまちがいないかどうか、よくわからない。
 最近は、スタッフの世代替わりでここに書いたようないいかげんさがなくなってきた。それもまたよし、である】


◎美しい京フェスのわたし

 とにかく大切なのは惰性である。
 継続は力なり、というのはけだし名言であるが、世の人々はその言に誤りし解釈を与えておる。
 何事も継続してやっておれば、それなりに行為に重みが生じてくる。かような事実認識はむろん正しきものであるが、それゆえに中途半端に投げ出すことなく物事を継続していく努力こそ肝要とする、道学者的説諭に問題がある。
 そもそも継続とは、《ある》という状態が続くことを意味する。なんらかの、ある種の努力、ある種の行為を能動的に《する》ことで、維持されるような《ある》状態など所詮まがいものの《ある》にすぎない。継続を、根の張った強靭なものにするための、唯一最大の条件は、《ある》という状態に、惰性の力でしかたなく《あり》続ける位置を与えてしまうことにある。
 そのことをたとえば私を例として考察してみる。
 ファンダムに足を踏み入れたころからみれば、少しはエライということになってきている。それはけっして才能とかによるものではない。新陳代謝の動きのある集団で長くとどまってると、誰もが自然とエラクなれる。
 どうエラクなるかというと、まず、むかしならだれもが知っていたあたりまえのことを、知っている人間たちが、だんだん減っていく。そのかわりに、むかしならだれでも知っていたことを、知らない人間たちが増えてくる。そうすると、まわりの人間が知らないようなことを、さも知っているのがあたりまえといった口調でしゃべれることが、希少性という価値をもってその人間の社会的位置にまとわりつくようになる。これがエラクなるということだ。
 ではエラクなるにはどうすればいいか。
 なにもしなくてよいのである。そこからこぼれていかないこと。同じことをくりかえしていること。あいかわらずそこにいること。そうすれば、進取の気性に富んだ人々は、次第々々にいれかわり、むかしのことを知っている人が減っていく。同じ知識も千人が共有してるか、五人しか知らないかで情報価値がちがってくる。
 そういうことである。継続は力である。そして力を手にする最大の武器は惰性なのである。主義も主張も努力すら、じつはほとんど必要ない。進取の熱意などむしろ不用ともいえる。かえってそういうものにとらわれると、今の自分に反省をし、《ある》がままに《ある》ことが、かえってできなくなったりする。とにかく惰性でおんなじことを手を抜きながらやってれば、いつかそれは《伝統》という立派なものと誤解されることになる。
 そういう悟りを導いてくれたものこそ、京フェスであり、それに従事するスタッフの皆様方でありました。
 ただ《ある》というだけのコンヴェンション。企画なし。宣伝なし。昨年など、ついに《開催》すら2週間前になって初めて決まるという、究極の手抜きコンヴェンション。
 会場と宿屋が確保できるかどうか、それだけがコンヴェンション開催の唯一の懸念材料。宣伝広告がSF雑誌に載るのもせいぜい開催日の二週間くらい前。企画もなにももちろんやっつけ、パネラーが誰で、テーマがなにかということさえ、パネラーとされる本人自身、前日の合宿のときまで知らなかったりする。
 にもかかわらず、全国津々浦々から百名を越す参加者が集まり、それほどの不満をもらす人間もあんまりいない状態で、とどこおりなく終了する。
 おそらく一度でも入念な事前準備とサービス精神あふれる大会運営にまい進した経験のあるスタッフにとって、このようなコンヴェンションが《ありえる》という事実そのものが、許しがたい冒涜に思えるのではなかろうか。自分たちのあの涙ぐましい努力の数々はいったいなんだったのだろうと、自己崩壊を起こした人間もすくなくない。元ダテコン実行委員長きくちまこと先生などは、怒りのあまり京フェスの企画スタッフになってしまったほどである。
 惰性の力というのはかくもすさまじいものなのである。
 毎年やってるのだから、今年もやらないとしかたがない。とりあえず、会場と宿屋だけはなんとかしとかなけりゃならない。企画のほうはまあなんとかなるだろう。というのが主催者側であり、毎年行ってるのだから今年も行かなければしかたがない。どうせいつもの適当な企画だろうけど、去年も腹を立てなかったのだから今年腹を立ててもしかたがない。ああまたこうして惰性のぬるま湯のなかで、ひとつ年を取っていく。と、このへんが参加者側の感想なのではなかろうか。そういう意味ではスタッフだけでなく参加者も含めたところで、いいかげんさと惰性こそすべての力のみなもとであるということを、これだけ身をもって示してくれる存在は、ちょっとないのでなかろうか。
 京都SFフェスティバル。
 今後とも、惰性があなたとともにありますように。