小説すばる『今月の、この一冊。』94年7月号〜96年6月号(集英社)

●contents

01 小野不由美『東亰異聞』新潮社
02 須和雪里『あいつ』角川ルビー文庫
03 法月綸太郎『二の悲劇』祥伝社ノンノベル
04 高村薫『照柿』
05 山田正紀『エイダ』早川書房
06 我孫子武丸『かまいたちの夜』チュンソフト
07 板東眞砂子『桃色浄土』
08 小森健太郎『コミケ殺人事件』
09 京極夏彦『魍魎の匣』講談社ノベルス
10 東野圭吾『パラレルワールド・ラブストーリー』
11 横田順彌『惜別の宴』徳間書店
12 瀬名秀明『パラサイト・イヴ』角川書店
13 小池真理子『怪しい隣人』
14 麻耶雄嵩『痾』(講談社ノベルズ)
15 金井美恵子『恋愛太平記』
16 梅原克文『ソリトンの悪魔』朝日ソノラマ
17 宮部みゆき『鳩笛草』光文社
18 西澤保彦『七回死んだ男』講談社ノベルス
19 神林長平『魂の駆動体』波書房
20 藤田雅矢『糞袋』新潮社
21 山口雅也『ミステリー倶楽部へ行こう』国書刊行会
22 牧野修『MOUSE』ハヤカワ文庫JA
23 小野不由美『ゲームマシンはデイジーデイジーの歌をうたうか』ソフトバンク
24 森博嗣『すべてがFになる』講談社ノベルス



【今月のこの一冊#1】(小説すばる94年7月号)
小野不由美『東亰異聞』新潮社

 日本ファンタジーノベル大賞自体すぐれてヌエ的な賞だから当然といえば当然だが――たとえば酒見健一 『後宮小説』 と佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』と北野勇作『昔、火星のあった場所』にどんな共通点が見出せるだろう――第五回の同賞最終候補作にあたる小野不由美の『東亰異聞』もまた、ヌエ的としかいいようがない小説である。
 新本格の文脈で読めば、麻耶雄嵩や竹本健一『ウロボロスの偽書』の系列に属する掟破りな破天荒パズラーだし、官能美に満ちた伝奇ミステリとしては(帯の惹句にあるとおり)乱歩の系譜に加えることもできる。鵺の鳴く夜は恐ろしいというくらいだから、当然、坂東真砂子につづく女流和製ホラーの注目作という見方も可能。読者によって推理小説にも怪奇小説にも幻想小説にも見える、その意味では書評者泣かせの作品だけれど、どのジャンルにおいても傑作の名に恥じないのだから、『東亰異聞』が今年最大級の大魚ならぬ大鵺であることはまちがいない。

 時は明治、ところは帝都・東亰。なぜ東京ではなく、とうけいなのかは最後まで読むと(驚愕とともに)理解できる仕掛け。とまれ、人魂売り、首遣い、闇御前、火炎魔人……などなどの魑魅魍魎が跋扈する「もうひとつの明治」が物語の背景である。
 ――などと書くと、化物ホラーのバリエーションを想像するかもしれない。しかし、本書の最大の特徴は、妖怪変化に代表される怪奇幻想小説の「混沌」と、探偵小説を支える合理主義の「秩序」とのせめぎあいにある。
明治の帝都に続発する怪事件は、やがて公爵家のお家騒動へと収束し、新聞記者とその助手の探偵コンビによる名推理が披露される。
 関係者を一堂に集めての「さてみなさん」的な大団円まで用意されて、スタイリッシュな謎解きミステリの要件は十二分に備えているし、「魅力的な謎と意外な解決」はうるさがたの新本格読者をも満足させるものだ。
 しかし、混沌と秩序の戦いは、小説の外枠のみならず物語自体にまで浸透し、重層的な構造をかたちづくる。つまりここでは、探偵の勝利は探偵小説の勝利であって、その敗北は怪奇・幻想小説の勝利を意味する。推理小説の枠組みが保証されていない以上、唯一の合理的な解決を提示した探偵も、安心して小説にエンドマークを打つことはできないのだ。
 小説の冒頭、東亰は浸食するものと堆積するもののせめぎあいから誕生したと語られる。
そのせめぎあいの必然的帰結として立ち現われる驚天動地の結末はかぎりなく美しい。混沌と秩序の狭間から浮かび上がる『東亰異聞』は、ほとんど数学的な精緻さで、マンデルブロー図形の「乱調の美」を獲得したのである。


【今月のこの一冊#2】(小説すばる94年8月号)
須和雪里『あいつ』角川ルビー文庫

書評といえども雑誌の一画を占める以上、巷の話題と無縁ではありえない。
 となりゃやっぱり、六月現在ワイドショウの話題を独占中の女流作家・林葉直子の最新作をとりあげるのは当然。どうやら彼女は将棋も得意らしいのだが、小説家としては、ティーンズノベル界最大手の講談社X文庫ティーンズハートが誇る看板作家なのである。
 てなわけで、人気の〈キスだけじゃイヤ〉(通称キスイヤ)シリーズ第8巻、『危ないドクター』を読んでみたのだが、残念ながらいちばん面白いのはあとがきという結果に終わった。一応ユーモア・サスペンスなんすけどね、ヒロインのいとこの女の子が変質者に殺されちゃったりして、この種の小説にあるまじき後味の悪さなのである。
そこで今回は、おなじティーンズノベル系
の新刊から、角川ルビー文庫最大の異色作、須和雪里の『あいつ』を紹介する。ルビー文庫は女の子読者向けのホモセクシュアル小説というかジュネ物というか、三省堂コミックステーションの分類方式に倣えば「耽美」と総称されるジャンル専門のレーベルである(ここで「あ、やおいってやつ」などと半可通の口をきくと、「やおいはアニパロが基本」と中学生の娘からチェックされがちなので注意が必要だ)。要するに男の子同士の恋愛をテーマにしたヤングアダルト小説の容れ物で、『あいつ』も専門誌の老舗〈小説JUNE〉に二回分載された長編なのだが、にもかかわらず本書は「耽美」でも「ジュネ」でもない。
主人公は、下ネタが試験より嫌いな男子高校生。ところがある日とつぜん彼のおちんちんがしゃべりだし、「やらせろよ〜」「こすってくれよお〜」などと神をも恐れぬ卑猥な台詞を吐くようになって大騒動、思いあまった主人公がカッターで切断を試みると、あろうことか下品なちんちんは本体から分離、独立したチン格を有する生物として行動しはじめる――と、ほとんどSFの展開(笑)。
思春期の少年の抑圧された性衝動が思いが
けないかたちで噴出し、それを正面から見すえることで解決にいたるプロットはビルドゥングスロマンの変種として読むこともできるし、『親指Pの修業時代』の下世話版として即物的な描写に快哉を叫んでもいい。
しかしじっさいには、本書の読みどころはこの奇怪な設定があくまで女の子向けティーンズ小説の文法で処理されている点にある。
なにしろ最初は気味悪がってわあわあきゃあきゃあいっていた主人公の妹も母親も、「さち」(笑)と名づけられた長男のペニスに、ペットに対するような愛情を注ぎ、裸(?)だとみっともないってんでフリルの服を着せてやり、亀頭に目と口と鼻を書きこんでやったりするのだから、おちんちんを所持する者のひとりとして驚嘆を禁じえない。けだし、最近のティーンズ文庫は侮れないのである。


【今月のこの一冊#3】(小説すばる94年9月号)
法月綸太郎『二の悲劇』祥伝社ノンノベル

 現代のパズラー型探偵小説は必然的に自己言及的な小説形態とならざるを得ない。といっても別にむずかしい話ではなく、密室殺人だの時刻表トリックだのが作中に登場した瞬間、登場人物たちは過去の探偵小説を否応なく想起してしまうというだけのこと。探偵小説の存在を登場人物が無視すれば小説のリアリティを損うだろうし、それを回避しようと思えば舞台を過去や異世界に移すしかない。
新本格と総称される小説形式は、ミステリ
の自己言及性に立脚したメタジャンルであると定義することも可能だと思うのだが、中でも自己言及の問題をもっともつきつめているのが法月綸太郎だというのはたぶんまちがい。
なにしろシリーズ探偵は著者と同姓同名で、職業は推理作家。法月c(作中人物)の探偵小説家としての苦悩は法月a(作者)のそれと容易に重なるし、法月cの探偵としての苦悩は現代本格ミステリが直面する袋小路の現状分析として読める。
こうした重層構造を小説の中においても徹底的に反復してみせのが、二年ぶり(!)に刊行されたシリーズ最新作『二の悲劇』だ。
〈京都―東京〉二都物語のコピーが示すとおり、ふたつの大都会を舞台に進行する遠距離恋愛が物語の核をなす。小説の冒頭ですでに殺人事件は発生し、加害者もほぼ特定されている。したがって、伝統的なミステリの分類に従えば、ホワイ・ダニット物の範疇に入る。
推理の手がかりは、加害者が残した日記。
しかし、本書の法月cは探偵というよりもむしろ批評家に近い。残された手記を探偵が解読するというパターンは最近の和製本格ミステリではクリシェに近い感があるけれど、法月cの分析手法は、ここでは御手洗潔的というよりむしろ小林秀雄的だ。 unreliablenarrator(信頼できない語り手)による一人称小説を読み解く文芸評論家の手つきで、法月cは真相に近づいていく。
作中の手記には巧緻なミステリ的トリックが幾重にも仕掛けられ、重層構造のそれぞれが転倒を内包する。その手記の中心に「純愛」を置くところに法月aの天才があるのだが、その恋愛が直面するジレンマさえも法月cの探偵/探偵作家としての苦悩に共鳴し、さらには法月aの作家的立場にまで拡張される。
キルケゴール的な「反復」をベースに、同質のパターンを虚構の各レベルでくりかえしてみせる『二の悲劇』は、そのフラクタル構造によって虚構の壁を越える。その意味では、法月自身による法月論、「本格探偵小説」論として読むことも可能だろう。
 ……といったような分析はしかし新本格おたくの戯れ言で、小説本来の楽しみ方からすれば、各章扉に引用された「卒業写真」のメロディに乗せて、悲しくも切ない純愛物語にどっぷり浸るのが正解に決まっている。傑作。


【今月のこの一冊#4】(小説すばる94年10月号)
高村薫『照柿』

 偏狭な新本格おたくを自認するわたしは、ハードボイルドだろうが警察小説だろうが冒険小説だろうがコンゲームだろうが、パズラー(=謎解きミステリ。日本でいうところの本格物)以外のすべてはハナっからミステリだと思って読んでいない。したがって、『マークスの山』で名実ともに「ミステリの女王」の座についた高村薫が非ミステリ作家宣言したところで動じる大森ではない。『黄金を抱いて翔べ』以来ずっとフォローしてるのも、もちろんミステリが読みたいからではなくて、高村薫のおそろしいまで濃密なディテール描写にどっぷり浸りたいためにほかならない。
 その意味では、ほとんどまったくミステリではないにもかかわらず圧倒的に高村薫的な小説たる『照柿』は、むしろ著者の本領発揮というべきだろう。ようやくこれでミステリのせまいサーキットを飛び出して、前人未到のオフロードを驀進しはじめたかと思うと、他人事ながら一抹の感慨を禁じえなかったりもするわけである。
 小説とは描写であるという蓮實理論に従えば高村薫はまぎれもなく小説の書き手であって、物語の枠組みを破壊してまで描写が暴走していくところに最大の魅力があると個人的には思っている。『神の火』や『わが手に拳銃を』がその典型的な例で、逆に世評に高い直木賞受賞作など高村作品にしては枠に安住しすぎて物足りないくらい。
 そしてこの『照柿』もまた、圧倒的に描写の小説だといっていい。だいいちここには物語らしい物語は存在しない。問答無用に女に惚れてしまった男がいて、その女と因縁浅からぬもう一人の男がいる。二人の男は西成の同じ町で育ちながらまったく違う人生を歩み、そして中年にさしかかったころ、運命の女をあいだにはさんで再会する、ただそれだけ。
 帯に書いてあるとおり、たしかに殺人は起きる。しかし、ひとめ惚れに理屈が存在しないのと同様、ゆきずり殺人にも理屈は存在しない。いやもちろん無理やり理屈をひねりだすことはどちらの場合にも不可能ではないだろうが、ミステリでは犯人探しの次に重要とされる動機の解明がおよそ徒労に見えてしまうほどの密度で殺人に至る過程が描き込まれた結果、『照柿』の世界ではどんなもっともらしい理由づけもほとんど意味を持たない。
 あくまで殺人を軸に考えるなら、「太陽がいかに黄色かったかを一四〇〇枚かけて書いたのが『照柿』である」と定義することも可能だろうが、ここで描かれる夏の濃密な暑さは、すでに不条理さえ超越している。物理的な存在感をもって立ち上がってくる町工場の描写とともに、ひどく暑かった夏の記憶のひとコマとしていつまでも脳のどこかに焼きつけられる――『照柿』とは、つまりそういう小説なのである。傑作。



【今月のこの一冊#5】(小説すばる94年11月号)
山田正紀『エイダ』早川書房

 英国作家B・W・オールディスによれば、近代SFの起源はメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』に遡るという。人間が創造した怪物が人間に復讐する――テクノロジーの自走性≠ニいうSFのキーコンセプトを具象化したこの小説の物語構造は、現代人の意識に深く埋め込まれている。ハリウッドの鬼才ティム・バートンなど、処女作以来一貫してこの物語の変奏曲を奏でつづけているといっても過言ではない(「フランケンウィニー」しかり、「シザーハンズ」しかり)。
 山田正紀の『エイダ』は、この定番の物語をまったく思いがけない形で再生する。
 題名のエイダは19世紀の詩人バイロンの娘で、数学の天才と呼ばれた実在の女性。数学者バベッジの愛弟子として、現在のコンピュータの原型にあたる計算機械の設計に協力した……といえば、SF読者ならそくざにギブスン&スターリングの合作長編『ディファレンス・エンジン』を想起するだろう。しかし、エイダをめぐるスリリングなエピソードも、本書の中では魅力的な一断章でしかない。
 同時代人たるメアリ・シェリー、ドイル、ディッケンズ、果てはシャーロック・ホームズまでが登場し、フランケンシュタインの怪物が現実と虚構の境目を越えて跳梁する。ビクトリア朝イギリスから文化文政の江戸へ、そして現代東京へと舞台はめまぐるしく移動し、杉田玄白と間宮林蔵、空間プロデューサーと量子コンピュータの軌跡が交わる。
 本書の中心的アイデアのひとつは一言で表現できる。すなわち、「物語だけが光速を突破することができる」。量子力学の多世界解釈を理論的背景として山田正紀が発明したのは、#物語#をエンジンとする宇宙船虚数号。前代未聞の想像力駆動{イマジナリー・ドライヴ}によって超光速で深宇宙を駆けめぐるこの宇宙船は、SFそのものの隠喩にほかならない。そして、虚数号に搭載されたコンピュータが紡ぎ出す無数の物語の航行モデルとして採用される小説こそ、かの『フランケンシュタイン』なのである。
 想像されたことが現実となる量子論的宇宙では、もはや虚構/現実の区別は意味を持たない。テクノロジーの暴走を描く小説=虚構機関の暴走により、語られた物語は相互に侵犯しあい、それぞれのリアリティを主張する。胡蝶の夢がおりなすウロボロス的迷宮の中で、読者は巧緻な叙述ミステリを読むのにも似ためまいの感覚に襲われることになる。なにしろ小説中には「SFが流行らなくなった時代のSF作家」として作家自身さえ登場し、山田正紀の旧作のストーリーを反復するのだ。
 ばらばらの雑多なエピソードの羅列に見えた断片のあいだに有機的なつながりが生まれ、一気に視野が拡大する瞬間の感動は何物にも替えがたい。今年の日本SF最大の収穫。年に一冊しかSFを読まない人にもおすすめ。


【今月のこの一冊#6】(小説すばる94年12月号)
我孫子武丸『かまいたちの夜』チュンソフト

 CD―ROMやフロッピーディスクに収められて、あるいはパソコン通信経由で供給される電子小説が増えてきたおかげで、小説は紙に印刷されるもの≠ニいう常識は崩れつつある。ま、印刷技術が発明されるはるか前から物語は存在したわけだし、その容れ物がいつまでも紙とインクに限定されている必要はないという考えかたも当然成立するだろう。
 スーパーファミコン用のROMカセットというメディアで登場した我孫子武丸の書き下ろし新作『かまいたちの夜』も、本≠ニは呼べないにしろ、画面上の字を読むことで成立している作品である以上、新しい種類の小説であると定義することは不可能ではない。
 プレイヤー/読者はコントロールパッドのボタンを押すことで一画面あたり百字〜二百字ずつ小説≠読む。ただし、ここでは物語は紙の上に固定されたものではなく、随所に挿入される選択肢のどれを選ぶかによって千変万化する。三十枚の短篇で終わる場合もあれば、二百枚の長篇に発展することもある。
 舞台はスキー場近くのペンション。ガールフレンドとスキーにやってきた主人公は、雪嵐に閉ざされたこのペンションで奇怪な事件に遭遇する……。
 本誌11月号の「本格ミステリー宣言の真意」で島田荘司氏が提示する「新本格の七則」にきわめて忠実な設定で、じっさい初めて"読む≠ニきのストーリー展開は、犯人当て形式の謎解きミステリーになる可能性が高い。
 しかし、共通するのはせいぜいその程度。読者が百人いれば百種類の小説に、百回読めば百通りのプロットに変化する。客たちが次々に殺されていく惨劇の一夜を体験するかと思えば、血沸き肉躍るスパイアクションに巻き込まれたり、戦慄のオカルトホラーに恐怖したり、あるいは爆笑のメタフィクションに腹を抱えたり。
"読むたびに変化する書物≠ニいうボルヘス的なコンセプトは、紙の世界でもひと足はやく実現されている。いわゆるゲームブックというジャンルがそれで、『かまいたちの夜』はそのテレビ版だといえなくもない。だが、スーファミの機能とROMカセットの大容量(3メガバイト)を駆使した実写とりこみの背景画像と臨場感あふれるBGMは、読書体験をがらりと変えてしまう。テレビの大画面に映し出される文字は複数の人間が同時に読むことも可能だし、選択する行為で物語をつくりだしていく感覚も味わえる。
『かまいたちの夜』は、同じチュンソフトが3年前にリリースした長坂秀佳原作の『弟切草』と比較しても、かなりゲーム性を重視ししたつくりだが、電子的なインタラクティブ・フィクション(対話型小説)というこのジャンルは、必ずしもゲームである必要はない。小説の新しい可能性を切りひらく電子兵器として、小説好きの人にはぜひご"一読≠。


【今月のこの一冊#7】(小説すばる95年1月号)
板東眞砂子『桃色浄土』

  お月さま 桃色
  誰がゆうた 海女がゆうた
  海女の口 引き裂いちゃれ

 冒頭に引かれたこの土佐伝承歌を一目見た瞬間、もう二十年も前に読んだ一冊の絵本が脳裡に甦った。『お月さん桃色』というタイトルしか覚えていないのだが、藩政時代の土佐の珊瑚をめぐる哀しい物語だったと思う。
 桃色の月とは珊瑚のとれる海を意味し、その秘密を洩らした海女が口を裂かれた……そんな言い伝えを背景に持つ、考えようによっては残酷なこの唄をモチーフに書き下ろされた五百ページの大作が、板東眞砂子の最新作『桃色浄土』だ。
板東真砂子の土佐物は、『死国』も『狗神』も現代の高知、それも山間部を舞台にしていたが、本書は大正時代の漁村(高知県南西部)が舞台。南北を海と山にはさまれた高知でも海側に育ったぼくにとっては、待望ひさしい海の物語である。
 高知市内の高等学校に通う健士郎が、生まれ育った月灘村に帰ってくるところから物語は幕をあける。鰹節製造場を営む村の名士を父に持つ彼は、代議士としての将来を期待され、村の中でも一種独特な立場にある。そしてその健士郎がひそかに思いを寄せる相手が、幼なじみの海女、りん。だがある日、一隻の白い異国船が沖にあらわれたときから、すべての歯車が狂いはじめる……。
 珊瑚の輝きにとりつかれた純朴な人々の悲劇として読むことも、あるいは(帯の惹句にあるように)「海女とイタリア人の禁じられた恋」を描く悲恋物語として読むこともできるだろう。しかし、この力強い海の物語を、特定のジャンルの枠の中に押しこめる作業にたいして意味があるとは思えない。
 下り潮に乗って補陀落浄土への渡海を夢見る僧、映俊は、渡海をつねに先へ先へと引き伸ばしながらそれを口実に図々しく月灘村に居座りつづけるしたたかで憎めない男だが、彼自身、補陀落の存在について半信半疑の状態にある。現実の彼方にあるユートピアがはたして実在するものなのか、それとも永遠の夢に過ぎないのか。夢を信じきれず、かといって現実だけを直視することもできない映俊と同様、物語自体も現実と虚構の境界線上を進んでいく。
 クライマックスでは死者が甦り、海が猛り、月が桃色に染まる。しかし、ここではむしろ、そうした超自然的な要素さえもあっさり包み込んでしまう土佐の大自然こそが主役の名にふさわしい。ラテンアメリカの風土がマジックリアリスムを生み出したとすれば、『桃色浄土』もまた、土佐の風土から板東眞砂子が紡ぎ出した魔術的リアリズムの産物なのである。


【今月のこの一冊#8】(小説すばる95年2月号)
小森健太郎『コミケ殺人事件』

本誌読者でコミケ参加経験のある人はたぶん小数派だろうからごく簡単に説明しておくと、コミケ(コミックマーケット)とは世界最大規模の同人誌即売会(最近はほとんど普通名詞化しているが、コミケ=同人誌即売会ではなく、無数にある即売会のひとつ)。
年に二回、8月と12月(夏コミ、冬コミと通称)に晴海で開催され、参加サークル数約2万、二日間でのべ20万人を動員するお化けイベント。外部の関心はやおいやコスプレばかりに集中しがちだけど、現実のコミケは日本が世界に誇るおたく文化の大棚ざらえ見本市的なお祭りで、パソコン、映画、TV、音楽、Jリーグ、アイドル、政治etc.、ありとあらゆるテーマが網羅されている。ミステリ方面なら浅見光彦本を筆頭に有栖川有栖や綾辻行人系同人誌が定番だし、プロ顔向けの研究書から超低俗なポルノまでなんでもあり。
――と、いくら言葉で説明しても、じっさいに参加しないかぎりコミケの本質はわからない。対面販売から売手と買手のあいだにコミュニケーションが生まれ、友だちの輪が広がっていく醍醐味を体験しないと、たんに不気味なだけだろう。そのせいか、同人誌即売会に取材した小説はけっこうたくさん書かれてるんだけど(最近では太田忠司『Jの少女たち』、竹本健治『妖霧の舌』など)、南田操の『コミケ中止命令』をほとんど唯一の例外として、コミケ的な気分をきちんと再現したものはいまだかつて存在しなかった。
そこに登場したのが、新鋭・小森健太郎の『コミケ殺人事件』。コミケのある一日に起きた事件を時系列をばらしてコラージュする凝りに凝った構成もさることながら、作中で紹介される架空のSFミステリー(とそれを原作とするTVアニメ)「ルナティック・ドリーム」のディテールがすばらしい。
「美少女戦士セーラームーン」と東映特撮戦隊物をミックスしたようなヤングアダルト系の小説が人気を呼んでアニメ化され、コミケでも多数のルナドリ系サークルが関連同人誌を出している……という設定で、登場人物たちの属するサークルもそのうちのひとつ。
 彼らが夏コミに向けてつくったルナドリ同人誌の中身がそっくり小説の中に挿入され、その作中作自体に連続殺人の謎を解く手がかりが秘められているという趣向。パターンとしては創元系の本格ミステリ(倉知淳『日曜の夜は出たくない』や若竹七海『ぼくのミステリな日常』の系統)だが、この複雑な構造がコミケという舞台と密接にからみあっているのがミソ。コミケという衆人環視の場での連続殺人を成立させるトリックにも舞台にふさわしい工夫が凝らされ、細部まで神経のゆきとどいた緻密さには脱帽するしかない。おたく文化の一断面を鮮やかに切りとってみせた、異色の本格ミステリである。



【今月のこの一冊#9】(小説すばる95年3月号)
京極夏彦『魍魎の匣』講談社ノベルス

 年明け早々、たいへんな小説が登場した。個人的には、ここ十年の日本ミステリのベストワンと断言する。京極夏彦『魍魎の匣』は、新本格が生んだ最良の成果であると同時に、夢野久作『ドグラ・マグラ』や中井英夫『虚無への供物』に匹敵する怪物的傑作である。
 著者の京極夏彦は、昨年、新本格おたくの話題を独占した『姑獲鳥の夏』でセンセーショナルなデビューを飾った新鋭。しかし、前代未聞の死体消失トリックに読者が腰を抜かしたこの驚くべき処女長編さえ、たんなる予告編でしかなかった。
 京極夏彦のおそるべき才能は、前作の主要登場人物を『魍魎の匣』にそのまま引き継いでいる点にもうかがえる。つまり、古風なシリーズ探偵物という趣向なのだが、いまだかつてこんな連作ミステリがあっただろうか。
 探偵側に位置する主要登場人物は四人。まずこのシリーズの事実上の主役、古本屋兼陰陽師の中禅寺秋彦(通称・京極堂)。対するワトスン役は、駆け出し純文学作家(バイトでカストリ雑誌に実話記事も書く)の関口巽。そして、元華族の御曹司で超能力者(!)で職業探偵の榎木津礼二郎に、謹厳実直な体育会系の刑事・木場修太郎。それぞれじつに型破りかつ個性的で、キャラクター小説としても十二分に楽しませてくれるのだが、プロットはそれに輪をかけて破天荒。
 物語は、前作の直後、昭和27年の晩夏から幕をあける。中央線・武蔵小金井駅構内でひとりの少女がホームから転落、列車に轢かれて重傷を負う。意識不明のまま、とある医学研究所に運び込まれた少女は、日本有数の資産家の遺産相続者であることが判明。やがて脅迫状が届き、警察は鉄壁の警護体制をとる。転落現場に偶然いあわせた木場刑事は、個人的事情から、管轄外のこの事件に没頭する。
 一方、カストリ雑誌の仕事で、世間を騒がせる連続バラバラ殺人事件の取材に駆り出されていた関口や、父親の口ききで探偵仕事を依頼された榎木津も、しだいに少女をめぐる謎へと吸い寄せられてゆく……。
 コンクリートの箱そっくりの外観の医学研究所。切断された腕をおさめた鉄の箱。▼御筥様▲をご神体とする民間宗教。匣を抱えた黒服の男をめぐる都市伝説。関口のライバル作家、久保竣公の作中作『匣の中の娘』……。
 奇怪な▼匣▲のイメージに貫かれた、一見無関係なエピソード群がしだいにからまりあい、複雑怪奇に錯綜して、眩暈を感じながら読み進むうち、読者はいつのまにか非現実の世界に入り込み、驚天動地の結末で茫然と立ちすくむことになる。
 島田荘司の奇想、竹本健治の蘊蓄、綾辻行人の論理、我孫子武丸のユーモア、高村薫の筆力――ミステリのすべてを過剰に備えることで、『魍魎の匣』は軽々とミステリを超える。残るライバルは『薔薇の名前』か。必読。


【今月のこの一冊#10】(小説すばる95年4月号)
東野圭吾『パラレルワールド・ラブストーリー』

 虎の子のハードディスクをそっくり飛ばした経験のある人なら、胸の奥を風が吹き抜けていくような寒々とした喪失感はおなじみのはず。しかし、考えてみると、人間の記憶なんか、パソコンのデータより256倍いいかげんに保存されている。バックアップもきかないし、ディスクの最適化も外部記憶装置の増設も不可能。年をとればとるほど記憶{メモリ}のアクセス速度が落ち、クラッシュしたらそれでおしまい。なんとも頼りないこの記憶媒体に全面的に依存して生活していると思うと慄然とするのだが、慄然としたところでどうしようもないので、その不安感を小説のかたちで表現してみたりするわけだ。
 そういう人が少なくない証拠に、P・K・ディックの「追憶売ります」(映画「トータル・リコール」の原作)をはじめ、記憶の問題を扱った小説は無数に書かれている。東野圭吾の最新長編『パラレルワールド・ラブストーリー』はその最新の収穫。
 東野圭吾といえば、ここ数年の長編群はさまざまな意味で実験的な野心作が多く、どんな小説なのか読んでみるまでわからないのが特徴。『変身』『仮面山荘の殺人』『むかし僕が死んだ家』など、毎回趣向を凝らして新しい仕掛けに挑戦するガッツと手腕には目をみはるものがある。そのわりに評価に恵まれてない気がするのは、ジャンルを固定して読む読書保守主義の読者が多いせいだろうか。
 本書も、「青春ミステリー」と銘打たれてはいるものの(東野圭吾=青春ミステリーという十年一日の図式はいいかげん見直したほうがいいと思う)、SFと推理と恋愛小説の極上のジャンルミックス。岡嶋二人『クラインの壷』や井上夢人『ダレカガナカニイル…』の雰囲気を思いうかべていただければ当たらずとも遠からずで、とにかくエンターテインメントとして抜群のおもしろさを誇る。
 主人公の崇史は、外資系大手コンピュータ・メーカーで仮想現実の研究開発に携わる研究者。愛する妻との幸福な日常に、ある日ふとした違和感が忍び込む。ささいな記憶の齟齬をきっかけに、しだいに「現実」の基盤が揺らぎはじめる。一方、カットバックでインサートされる一人称パートでは、それと微妙にずれた崇史の過去が語られる。親友の智彦とその恋人の麻由子をめぐる三角関係に悩む過去と、万由子と平和な結婚生活を送る現在。記憶の整合性を求める崇史の探求は、やがて予想外の結果をもたらすことに……。
 記憶をめぐるミステリーとしては、同時期に邦訳されたJ・P・ホーガン『マルチプレックス・マン』と好一対だが、凡庸なSFサスペンスに堕したホーガン作品にくらべて、本書の処理はあくまでもスマート。SFになじみのない人にもじゅうぶん楽しめる。唯一の不満はストレートすぎるタイトルかな。



【今月のこの一冊#11】(小説すばる95年5月号)
横田順彌『惜別の宴』徳間書店

 ここ数年、やれ元気がないの冬の時代のといわれっぱなしの日本SF界でひとり気を吐くのが、「明治時代SF」の大鉱脈を掘り当てた横田順彌。最新書き下ろし長篇の本書をはじめとする〈鵜沢龍岳〉シリーズは、その一連の明治物の中でも中核に位置する。
 明治末期を舞台にした小説というだけでじゅうぶん貴重だが、主人公・龍岳は、『海底軍艦』で知られる著名な実在の冒険小説家、押川春浪の弟子筋に当たる新進気鋭の科学小説家という設定。龍岳、春浪をはじめとする〈天狗倶楽部〉の面々が怪事件の謎に挑む、いわば明治版「怪奇大作戦」的な趣向である。
 著者の横田順彌はSFマガジン連載の『日本SFこてん古典』(集英社文庫)で古典SF研究家としての名声を天下に轟かせた人。連載当時は、古典SFにはろくに興味がない読者もSFマガジンを買ったらまずこのページを開いたくらいで、明治大正の怪しい小説にやたら詳しくなってしまうSFファンが続出。その後、SF大賞受賞の『快男児・押川春浪』や『明治バンカラ快人伝』などの人物伝を書く一方、当の押川春浪を主人公に据えた本格明治SF『火星人類の逆襲』(タイトル通り、ウエルズ『宇宙戦争』の明治版)を発表、日本SF史に金字塔を打ち立てた。
 そこから派生した龍岳シリーズは、主人公が作者の分身的存在ということもあってか精力的に書き継がれ、長篇SF『星影の伝説』『水晶の涙』(徳間文庫)、短篇集『時の幻影館』『夢の陽炎館』『風の月光館』(双葉社)、明治天皇誘拐(!)の一大事件に春浪たちが立ち向かう大活劇『冒険秘録 菊花大作戦』(出版芸術社)の六冊を数えている。
 そして――と前置きが長くなったが、本書『惜別の宴』は、この龍岳シリーズの七冊目にして(一応の)完結篇。時は明治45年、下町の少年の怪死事件(皮膚が鱗状に変異して死亡)を発端に、龍岳・春浪コンビはもちろん、阿武天風、河岡潮風、中川臨川などシリーズおなじみの面々が総登場。さらにはニコラ・テスラの向こうを張って無線送電を研究するマッドサイエンティストや、明治天皇の侍医団に潜り込んだ怪しい偽医者が出現、はては伊藤博文の暗殺や大逆事件の謎、乃木大将殉死の真相まで明らかになってしまうのだから、そのスケールには唖然とするほかない。
 このシリーズの例に洩れず、社会風俗のディテールや実在の人物(若き小酒井不木も登場する)の配置、言葉づかいにいたるまで綿密な時代考証が凝らされ、明治おたくにはこたえられない仕組みだが、べつだん蘊蓄小説というわけじゃないから素養のない読者でも明治気分が満喫できる。70年代型の日本SFがほぼ絶滅したいま、横田順彌の明治時代SFこそ、日本独自のSFの新しい道を拓く鍵かもしれない。新シリーズ開始が待たれる。
【今月のこの一冊#12】(小説すばる95年6月号)
瀬名秀明『パラサイト・イヴ』角川書店

「(物理学よりも)生物学に基盤を置く作品が日本SFの主流」と喝破したのは鏡明だが、じっさい英米SFにくらべて日本ではなぜか圧倒的にバイオもののシェアが高い。
 その中でも、いまやひとつのサブジャンルを形成した観があるのが、遺伝子レベルの変容によって人間が人間でないものに変わってしまう、あるいは人間ならざる怪物が誕生するタイプで、大森はこれを「ソノラマ印マタンゴSF路線」と命名している。ソノラマってのはいまや数少ないSF出版社のひとつ、朝日ソノラマのことで、たとえばこの五年間にかぎっても、小林一夫『サード・コンタクト』、梅原克哉『二重螺旋の悪魔』、結城辰二『緑人戦線』、梶尾真治『ジェノサイダー』……とマタンゴSFが目白押し。他社では、昨年の日本ホラー小説大賞佳作、カシュウ・タツミ『ハイブリッド』がこの路線。
 ただし残念ながら、これまで掛け値なしに「傑作」と呼べる作品は出ていなかったのだけれど、ようやくこのマタンゴSFの決定版が登場した。第二回ホラー小説大賞に輝く瀬名秀明『パラサイト・イヴ』である。
 昨年の選評じゃ「日本にホラーは存在しない」とかなんとか、さんざん日本のホラー状況を罵倒してくれた選考委員各氏の態度が一変、今回の選評は『パラサイト・イヴ』絶賛の嵐。いわく、「国際的基準に照らしても水準を超える力作」(荒俣宏)、「圧倒的な筆力に脱帽」(景山民夫)、「空前絶後のアイデア」(高橋克彦)……。天の邪鬼なわたしとしてはいやでもあら探しをしたくなるんだが、この選評はあながち誇大宣伝ではない。
 主人公は、最愛の妻の死に直面して肝細胞の継体培養を決意する気鋭の生科学者。「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」の流れを汲む、その意味では古典的フランケンシュタイン物語だけど、綿密に書き込まれたディテールのおかげで、(すくなくとも前半部分は)現代の医学サスペンスとしても一級のリアリティを誇る。結論が決まってるこの種のSFでは、神はアイデアよりも細部に宿る。細部をすっとばしたとたん荒唐無稽な活劇シナリオに堕すことは過去のマタンゴ作品がよく証明するところで、まともな日本SFになるかどうかは取材力とストーリーテリングの勝負。本書の語り口は、この技術の達人だった往年の小松左京の名作群を彷彿とさせる。
 もっとも、いまいち手放しで絶賛できないのは、本書がモダンホラーの形式を(わりと事務的に)採用しているため。もちろん「ホラー」小説大賞の応募作である以上、ミトコンドリアのお化けとの死闘を山場に持ってくるのは論理的必然だが、SF読者の立場からすれば、最後の最後で大魚に逃げられた悔いは残る。筆力はまちがいないんだから、次回作には全力投球の「本格SF」を期待したい。


【今月のこの一冊#13】(小説すばる95年7月号)
小池真理子『怪しい隣人』

 なんだかんだいってもいちばんこわいのは人間だよねってのはよくいわれることだけど、あかの他人とひとつ屋根の下で暮らしているとそれを実感する局面もままあるわけで、いちばんこわい人間の中でも最高におそろしいのは配偶者なのである。筒井康隆最後の(?)短篇集『家族場面』でも、女房が亭主の母親に対するうらみつらみを怒涛の勢いでほとばしらせる「妻の惑星」がダントツにこわかったもんなあ。
 というわけで、真剣にこわい心理サスペンスを書かせたらいまの日本でも三本の指にはいる恐怖小説の名手、小池真理子の最新短篇集『怪しい隣人』の中でも、いちばんこわいのはやはり妻である。タイトルが示すとおり、身近な人間がふとした瞬間に発動する恐怖をえぐりだすというのが短篇集全体のコンセプトで、いわば小池版『あなたに似た人』(ってロアルド・ダールです、念のため)の趣き。
 描かれるできごと自体は、友人の未亡人との浮気だったり、姑との確執だったり、仕事中毒者の恋だったりと、きわめて中間小説的なものなんだけど、小池真理子の鋭利な包丁にかかったとたん、その材料が恐るべき切れ味の恐怖小説に変貌する。
 いずれもクォリティの高い完成された短篇六本が並ぶなかで、いきなり血も凍る恐怖を味わわせてくれたのが巻頭の「妻と未亡人」。
 浮気相手の未亡人との関係に没頭して、ほとんど女房のことなんか忘れ去ってる純真無垢な(バカともいう)主人公の前に突然登場する妻の存在感は圧倒的。この逃げ場のないこわさを共有し得ない既婚男性は幸福だろう。
 一方、巻末の「隣の他人」は一転してドタバタ小説タッチなんだけど、ここでもまた、浮気相手と妻との三角関係からひとりとり残されて茫然とする純朴な男が主人公。つまりここでは、頭が悪いこと(というか、他人の身になって考える想像力の欠如)はきっぱり罪なのであり、バカな男は当然その報いを受けなければならない。問題はですね、主人公のバカさかげんが、「ああこいつバカ」と指さして笑える種類のものではなく、むしろ「そういうことってあるよね、うんうん」と身につまされてしまいがちな種類の愚かさだという点にある。自分勝手でわがままなバカ男にとっては、いつわが身にふりかかってきてもおかしくない恐怖のできごと。化物に追いかけられるより、ふとふりかえった妻の顔をよぎる一瞬の表情のほうがよっぽどおそろしかったりする、その一瞬を小池真理子は鮮やかに切りとって小説化する。
 これはもう、男にはほとんどありえないタイプの知性じゃないかって気がするけど、しかしまあ、そういう女性を妻にして円満に暮らしている男性がいると思えば、まだしも救われるというものである。


【今月のこの一冊#14】(小説すばる95年8月号)
麻耶雄嵩『痾』(講談社ノベルズ)

 麻耶雄嵩の『夏と冬の奏鳴曲』が現代日本ミステリの中で孤高の地位を占めるのは、孤島、密室殺人、素人探偵など、探偵小説の伝統的舞台装置を使いながら、その意味を徹底的にずらし、ジャンルミステリの素材から、それとは似ても似つかぬ異形のものをつくりあげた点にある。
 作中映画「春と秋の奏鳴曲」の上映をきっかけに、外部の存在だった主人公・烏有(探偵役はつねに外部から事件を観察するのが探偵小説の「お約束」だ)は、一転して内部に移動する。観察者(=探偵)の観察によって観察対象(=事件)が変化するという量子力学的メタファー以上に、事件のありようが観察者・烏有を中心に根本から読み直され、それまで綴られてきたはずの「探偵小説」は過去に遡って非・探偵小説に収束する。
 このような世界では、ほとんどどんなことでも起こりうる。ヒロイン桐璃が二人に増殖しようと、驚天動地の天変地異が起きようと、いまさら驚くにはあたらない。
 麻耶雄嵩の最新作『痾』は、この『夏と冬の奏鳴曲』の直接の続篇として幕を開ける。バナナの皮を踏んづけて階段から落ちるという言語同断な事故により、主人公・烏有は前作の記憶を喪失している。ヒロインの桐璃は終始一貫T桐璃Uと表記され、前作とは別人のように漢字を使ってしゃべる(ので、今回は某アニメのセリフの引用もない)。
 小説の世界では、登場人物はふつう名前で区別される(おなじ名前の人間が出てくれば、読者はそれがおなじ人物だと考える)ものだが、ここでは主人公の烏有さえも、前作の烏有との同一性が保証されない。烏有の過去は端役に等しい登場人物の過去とすりかえられ、コーチ役の銘探偵・メルカトル鮎から改めて探偵としての特訓を受ける(ついでにいえば、前作の事件の真相さえも逆転している)。
 そして、「春と秋の奏鳴曲」によって外部から内部へと反転した烏有は、本書でもやはり、事件内部の存在として、寺社連続放火事件の主役を張りつづける。探偵でありながら放火魔という前代未聞の主人公。
 しかし、真に驚くべきは、にもかかわらず『痾』が、(少なくとも独立した長篇として読むかぎり)ふつうの本格ミステリとして解釈可能な範囲にとどまっていることにある。
 一言でいって『痾』はじつにわかりやすいミステリだが、まさにそのわかりやすさによって、『奏鳴曲』の続篇としてはなにがなんだかわからない小説たりえている。そして、このわからなさゆえに、読者はトリックや事件ではなく、ミステリというジャンルそのものとの向き合うことになる。安心感を求めてミステリを読む読者にとっては犯罪にも等しい小説だが、ミステリが安心感のために存在するわけでないことは自明というべきだろう。

【今月のこの一冊#15】(小説すばる95年9月号)
金井美恵子『恋愛太平記』

 本を開いたとたんにメロメロになり、もうどうにでもしてといいつつ最後のページまで憑かれたように読みつづける小説というのがあって、僕の場合、『文章教室』以降の金井美恵子の長編群はその小説的麻薬の筆頭に位置する。すばるに丸五年連載された『恋愛太平記』がようやく二巻にまとまり、久しぶりに自堕落な至福の読書に浸ることができた。
 これは、高崎あたりと思われる関東の地方都市に生まれた四人姉妹の八〇年代の十年間(たまたまそれは昭和最後の十年に重なる)の「恋愛生活」を書いたもので、無論あまりにもあからさまな類似性から金井版「昭和細雪」だということも不可能でないにせよ、それではやっぱり実も蓋もないだろう。
『文章教室』のときには、そのデイヴィッド・ロッジ的な皮肉といい英文科ギャグといい、これは俺のために書かれた小説じゃないかと感動したものだが、本書に至っては、うちの女房の実家の話としか思えない。栃木県出身の妻は三姉妹の長女で、下の妹はアメリカと結婚して米国在住、上の妹は宇都宮で保母、本人は元編集者という具合だから、『太平記』の高橋四姉妹のうち三人の経歴とぴったり一致する――というのはただの自慢(笑)にしても、亭主たちに対して四姉妹から加えられる容赦ない批評には当然大いに身につまされるのだが、それ以上に強調すべきは、本書の風俗小説としてのたたずまいの美しさだろう。
 じっさい、これは『文章教室』以来の伝統というかお約束だが、あらゆる登場人物たちが都合よく関係しあう筋立ては風俗小説どころかほとんどテレビの連ドラで、どうせポッキー四姉妹物語を映画にするくらいなら『恋愛太平記』をテレビ化する勇気あるプロデューサーがいないものかと思うけれど、「恋愛という病」というテーマ自体、考えてみるといかにも通俗的ではないか。
 しかしそれが金井美恵子の小説である以上、細部に淫する描写に最大の魅力があることはまちがいなく、ブランド名をはじめとする無数の固有名詞や食事場面のディテールを楽しめない読者は、なんだか文章が長くて読むのがめんどくさいと思うかもしれないが、まあそういう人は読まなければいいだけの話だ。
 登場人物の中でもとりわけ魅力的なのは、やたらと口うるさくて世間的な常識には通じているくせに妙に現代的な高橋家の母親で、すばる94年12月号のインタビューで著者自身、「フローベールじゃないけれども、あの母親は私だと言いたいぐらい」と愛着を告白しているのだが、なるほど彼女の口うるささの質は批評家・金井美恵子の口うるささと一脈通じていなくもないのだが、その母が君臨する高橋家に、アーサー・ランサム的なユートピアを感じてしまうのは、たぶん僕がそれだけ歳をとったということかもしれない。


【今月のこの一冊#16】(小説すばる95年10月号)
梅原克文『ソリトンの悪魔』朝日ソノラマ

 70年代ノリの正しい日本SFをひさしぶりに心ゆくまで堪能した。設定から行くと『アビス』だけど、これはやっぱり『日本沈没』+『ゴジラ』でしょ。オマケに『沈黙の戦艦』までふりかける大サービスで、「ノンストップ・ジェットコースター・アクション」の看板はダテじゃない。映画でいうならジェイムズ・キャメロンが撮った東宝特撮か。下巻が出る前にうっかり上巻を読んじゃったもんだから、まる二週間、禁断症状に悶え苦しんだもんなあ。これから読む人は、上下巻合計千六百枚を揃えて週末を待つことをお薦めする。
 さて本書は、いまを去る二年前、『二重螺旋の悪魔』で一部に熱狂的なファンを生み出した梅原克文の待望の書き下ろし新作長編。『二重螺旋』といえば、梶尾真治『ジェノサイダー』、カシュウ・タツミ『混成種』、瀬名秀明『パラサイト・イヴ』、鈴木光司『らせん』……とつづくバイオSFホラー(大森の場当たり命名によれば"マタンゴSF=jの潮流を生んだ記念碑的作品で、推理作家協会賞の候補にも名を連ねた話題作。ただしぼく自身は強硬な『二重螺旋』否定派で、北上次郎にいわせれば、「キング派の人間にクーンツがわかるか」(笑)ってことになるんだが、正確には、「これが日本SFの代表だと思われちゃかなわん」ってのが最大の不満だった(立派なSFになって当然の材料で別の料理をつくっちゃったっていう意味では『パラサイト・イヴ』もおんなじだけど、あっちはホラー大賞応募作だから笑って許せる)。
 ところがどっこい、本書『ソリトンの悪魔』は、前作から一転して、みごとなまでに日本型パニックSFの王道を突っ走っる。なにしろ八重山諸島沖(!)に二十兆円の巨費(!)を投じて建設された海洋情報都市オーシャンテクノポリス(!!)に襲いかかる未知の生物(!)と来たもんだ。この思いっきり大時代な設定にソリトン生命体をぶつけたのがミソ。前作のイントロンもそうだったけど(小松左京の再来というにはサイエンス部分の肉付けがやや弱いにしても)、目のつけどころはシャープでしょ。ソリトンを海に持ってってモンスターに仕立て、ホロフォニクスソナー装備の潜水艦と戦わせる発想には脱帽する。
 クーンツ型ローラーコースターノベルの場合、この手のSF的アイデアとほとんど無関係にプロットが暴走してしまうのが(ぼくには)最大の不満で、『二重螺旋』はその意味でたしかにクーンツ型だったのだが、『ソリトン』のプロットはあくまでSFのガイドラインを守りつづける。現代SFと呼ぶにはあまりに古くさいけど――あくまで事件を隠蔽しようとする政府首脳とか、危機また危機に襲われる少女とか――パニックSFのお約束をこれでもかと詰め込んだ結果、逆にその古さが気にならなくなるレベルに達している。
 けっきょく日本SFの神髄はこれだよ――といってしまうとSFの進化を否定することになるんではなはだ具合が悪いけれど、なんだかんだいってもやっぱり科学小説復古の時代が来てしまうのかもしれない。ゴジラもお亡くなりになることだし、東宝は20億くらいのバジェットで、『ソリトン』を映画化してほしいものである(もちろん金子修介監督・伊藤和典脚本ね)。


【今月のこの一冊#17】(小説すばる95年11月号)
宮部みゆき『鳩笛草』光文社

 ここ数年、日本のミステリ系作家たちがSF的モチーフを積極的にとりいれ、ミステリの幅を広げている。岡嶋二人『クラインの壺』から、東野圭吾『変身』『パラレルワールド・ラブストーリー』、井上夢人『ダレカガナカニイル…』、京極夏彦『魍魎の匣』など、数え挙げればキリがない。この夏も、タイムトラベルを扱った北村薫『スキップ』、超能力探偵連作の若竹七海『製造迷夢』につづいて、やはり超能力にテーマを絞った宮部みゆきの中編集『鳩笛草』が出た。
 いずれも題材からすればSFに分類されておかしくない作品だが、読んでみるといわゆるジャンルSFとは明らかに肌触りがちがう。もちろん作家的な資質の違いはあるにしても、想像力のベクトルが、SFのそれとは反対を向いているんじゃないかという気がする。
 SFにおける超能力は、『人間以上』『オッド・ジョン』の昔から、「地球へ」「機動戦士ガンダム」「ナイトヘッド」に至るまで、メディアを問わず、人類進化のヴィジョンとわかちがたく結びついてきた。超能力(PSI能力)は、SF十八番の「大きな物語」を語るための装置だったのである。
 なぜわたしが超能力を持つにいたったか、この力はいったいなんのためにあるのか――このWHYの部分を追求しながら視野を広げてゆくのが超能力SFだとすれば、『鳩笛草』の方向性はその対極にある。本書におさめられた三つの中篇は、それぞれ未来予知、念力放火(キング『ファイアスターター』のアレですね)、精神感応+リーディング(接触によって残留思念を読みとる力)という、わりと代表的な「超能力」を扱っているのだが、作品の眼目はWHYではなくHOWにある。この異常な能力とどうつきあっていくべきか、この力を使ってなにができるのか――というパーソナルかつプラクティカルな問題が小説のテーマ。つまり、SF的な設定を使いながらも、そこで語られるのは大きな物語ではなく、等身大の小さな物語なのである。これは前述の『スキップ』や、グリムウッドの『リプレイ』、ベイカーの『フェルマータ』などにも共通する方向性といっていいだろう。
 人類がどうしたこうしたなんて話はいまどき流行らないんじゃないの的な議論が十年前の日本SF界をにぎわせたことを思うと、古手のSF読者としてはいささか複雑な心境だが、いまはSF的仕掛けがそれだけ身近なものになっているということかもしれない。
 短篇の名手の手になるだけに、『鳩笛草』の三編はいずれも巧みな切り口で胸に沁みる人間ドラマを見せてくれるが、個人的には、念力放火という「能力」の可能性を思ってもみなかった方向から検討した「燔祭」に脱帽。ふだんミステリを読まないというSFファンにも一読をおすすめしたい。


【今月のこの一冊#18】(小説すばる95年12月号)
西澤保彦『七回死んだ男』講談社ノベルス

 今年はSFっぽい設定で書かれるミステリの当たり年だから、いまさら少々のことじゃ動じないんだけど、いやもうこの本には驚きました。帯の文句からして、「ミステリに新たな次元の扉を開く大怪作!」
 だもん。編集者も途方に暮れてる感じで、編集会議で内容説明するのはえらくたいへんだったんじゃないかと推察される。
 といっても大筋はふつうのミステリー。大レストランチェーンを一代で築き上げた八十二歳のオーナー渕上零治郎が、三人の娘と孫たちの集まる正月に会社の後継者を指名する。候補者は五人の孫と二人の社員。骨肉相食む後継者争いの夜、まだ指名がすまないうちに、渕上老が何者かに惨殺される。犯人はだれか?
 ってうんざりするほど当たり前のプロットでしょ。ただし本書の場合、五人の孫のひとり、主人公で語り手の久太郎が特異体質の持ち主。本人の意思とは無関係に、あるときとつぜん時間の"反復落とし穴≠ノハマりこむと、おなじ一日が九回くりかえされるんですね。作者あとがきの言葉を借りれば、「同じ日が何度も何度も繰り返されているのに周囲の者たちは誰ひとりその状況を認識しておらず主人公だけがその反復現象に翻弄されてしまう」という設定。久太郎自身は自由意思で行動できるため、この時間ループ中にいるあいだは(たった一日の単位でだけど)歴史を変えることが可能。最終的に歴史として定着するのは九巡めに起きたことだけなので、それまでは久太郎がなにをやっても将来に影響を与えることはない。つまり、時間ループ中の久太郎は、おなじ一日を八回練習して、その日を自分にとって"理想の一日≠ノすることができるというわけ。
 で、ご想像のとおり、祖父が死んだその日、たまたま反復落とし穴にハマってしまった久太郎くん、この特異体質を利用して、祖父が死なずにすむように必死に駆けずりまわる。ところがタイトルが明示するとおり、彼がどんなにがんばって容疑者を祖父から遠ざけてもまた新しい犯人が登場、祖父は死んで警察がやってきて事情聴取で一日が終わる。いったいなにがどうなっているのか?
 歴史を変えようと必死に努力するのにうまくいかないってアイデア自体は、SFの世界じゃ「時空連続体は変化を嫌う」(つまり変化を最小限に食い止める方向に動く)とか説明されるパターンで、必ずしも新鮮味があるわけじゃない。しかしこのアイデアを謎解きミステリの舞台に接ぎ木したとたん、空前絶後の爆笑ドタバタ殺人狂騒曲が誕生。「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」のドタバタを思いきり短いサイクルでくりかえしてるようなもんですか。どうもこの面白さがうまく説明できた気がしないけど、だまされたと思ってぜひご一読をおすすめする。今年のユーモアミステリーベストワンはこれで決まり。

【今月のこの一冊#19】(小説すばる96年1月号)
神林長平『魂の駆動体』波書房

 七、八年前、東名高速豊橋インターのちょい先で高速バス待合室に激突、愛車の三菱コルディアを廃車にして以来、クルマとは縁のない生活を送っている。格別それで不自由とも思わないのは、たぶんクルマに愛がないせいだろう。買う予定もないのにカー雑誌を開いて新車のスペックを熟読吟味するカーマニアの気持ちは、パソコン誌や風俗情報誌(笑)に置き換えると納得できなくはないにしろ、しょせんは他人がハマる落とし穴。だからこのタイトルを見てもいまいちぴんと来なかったのだが、今年度の日本SF大賞受賞作家・神林長平の書き下ろし長編『魂の駆動体』は、クルマに人間意識の本質を仮託する小説。
 前半は、自動誘導支援装置が完備され、クルマが文字どおりの自動車=自分で動く車に堕した近未来が舞台。つまり、移動手段としての実用価値がクルマから剥奪されたあとに残るモノがテーマになる。老境にある主人公の〈私〉は、往年のクルマに対する郷愁が高じて、エンジニア上がりの友人と"理想のクルマ≠フ設計をはじめる。無論、じっさいに建造される可能性は皆無だが、にもかかわらずふたりの老人は黙々と設計に邁進する。
 ここまでなら、多少のヒネリはあるにしても、「物造りに賭けた男たちの夢とロマン!」的な物語の再生産でしかない。しかし第二部に入ったとたん、舞台は人類がとうの昔に滅びたはるかな遠未来に移る。"魂繭卵≠ゥら生まれる"翼人≠スちが機械文明に頼らない牧歌的社会を築いている奇妙に人工的な世界。
 翼人のキリアは、考古学的人間研究の一環として、変身装置を通じ、人間の肉体を獲得する。人間の思考や行動を理解するのが目的だが、やがてどうしようもない欠落感を抱く。大空を自由に飛翔する翼を失ったことを埋め合わせるものはなにか。研究所内の工場の協力を得て、キリアは自転車を再現する……。
 第二部では、意識=魂の問題が中心になる。キリアの変身に先立って、研究所は人造人間を開発するが、それは魂を持たない高度に自律的なロボットでしかない。
 ペンローズの話題の大著『皇帝の新しい心』にも詳述されている通り、"意識≠人工的につくりだせるかどうかは現代科学の大問題のひとつだが、神林長平は、いわば仏教的な立場からこの問題にアプローチする。「つくられるもの」ではなく「宿るもの」としての意識。人造人間に意識が宿る瞬間に、SF的な説明はない。あえていえば、#クルマが魂を呼び寄せる#。キリアは人造人間と二人で、第一部の老人たちの情熱を反復するように、古代の設計図からクルマを造りはじめる。
 ついにエンジンがスタートし、アクセルを踏み込む瞬間のカタルシスは、クルマに淫することのない読者にさえ、「魂のドライヴ感」を追体験させる。つまりその感動こそが、人間意識の本質なのかもしれない。


【今月のこの一冊#20】(小説すばる96年2月号)
藤田雅矢『糞袋』新潮社
 私事にわたって恐縮だが、京大SF研出身の大森はこれまで肩身の狭い思いを味わってきた。京大ミステリ研がこれだけ大量のミステリ作家を輩出してるのに、SF研出身者のSF作家は事実上ゼロ。こんなことなら創作系の会員をあんなに迫害するんじゃなかった(笑)と多少後悔しかけていたところ、雌伏十年、ついに京大SF研出身作家が誕生した。今年の日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を『糞袋』で受賞した藤田雅矢である。
 ……などと書くと仲間誉めかと思われそうだが、誉めないでケナすからだいじょうぶだ。だいたい『糞袋』などという題名の本をあなたは誉める気になるだろうか。
「この先一生、『糞袋』でデビューした作家といわれてもいいのかっ」という、某先輩の親身な改題の薦めを無視してあくまでクソにこだわった事実が示すとおり、『糞袋』は糞尿にまつわる時代劇である。江戸時代の京都を舞台に、「肥えとりはん」から成り上がってゆく孤児の立身出世一代記――と要約すると、いささか尾篭ではあるにしてもまともな小説のようだが、仮にもファンタジーノベル大賞候補作がそんなに素直であるわけがない。
 主人公のイチは、老舗和菓子屋の主人の知遇を得たことをきっかけに出世コースに乗るんだけど、この旦那の趣味というのが、ぽんと町の女郎の小便を飲むこと(もちろん飲尿療法系じゃなくてグルメ系ね)。イチはその経験を武器に花街の排泄物仲介業で稼ぎはじめ、やがて評判を聞きつけた旦那衆からも次々と注文が舞い込み、事業を拡張してゆく。
 もっともらしい史料からの引用とホントだかウソだかよくわかんない蘊蓄を大量に織りまぜながらイチの立志伝(本業のほうでもアイデア商法で新業態の開発に四年がない余念がない)が語られる前半は快食快便のおもしろさで、ひょっとしたら傑作かも――と思わせるのだが、後半、一転して美しいファンタジーへと飛翔しかけたところで踏切に失敗、野壷にハマってどっぴんしゃんになったのは残念というかなんというか。やっぱりやけくその糞力でふんばって、イチに生涯一糞尿業者の人生をまっとうさせるべきだったのでは。
 とはいえ、社会から排泄物が徹底的に隠蔽されようとしている現在、アンモニアの香気ふんぷんたる本書は、エコロジカルな意味においても貴重な存在――というつもりは全然ないが、クソみたいな小説が毎月大量に排泄されていることを思えば、クソであることに賭けようとする姿勢はそれなりに評価できる。
 SF研出身といっても『糞袋』のどこがSFなんだというもっともな疑問については、まあスカトロファンタジーってことで勘弁いただいて、当面の目標は「打倒! 綾辻行人」と著者にもいい聞かせてあるので、ひとつあたたかい目で末永く見守ってほしいわけである。しかしこの本で、京大ミステリ研うんこ事件(竹本健治『ウロボロスの基礎論』参照)の謎に新たな光が当たるかもだな(笑)


【今月のこの一冊#21】(小説すばる96年3月号)
山口雅也『ミステリー倶楽部へ行こう』国書刊行会

 新保博久『名探偵登場』所収のミステリ読書遍歴エッセイを読んでて、あんまり自分とそっくりなんで爆笑したことがある。こう見えても中学校時分の大森は、ポケミスと早川銀背、HMMとSFMを(図書館で借りて)分け隔てなく併読し、創元推理文庫のおじさんマーク(?)もSFマーク以上に読んでいた。ただしぼくの場合(新保教授とは反対に)長ずるにつれてSF率が増加、SF一色の大学時代を経て、現在の貧乏くじ的(笑)SF稼業につながるのだが、結局マニアの発生過程はジャンルを問わず共通なのかもしれない。
 たとえば、山口雅也の新著『ミステリー倶楽部へ行こう』に収録の「EQMMの頃」と題する一文は、EQMMをSFMに読み換え、固有名詞を適宜代入すれば、そのまんま、ぼく自身の古雑誌蒐集狂時代に重なる。SFの世界に置き換えるといちいち腑に落ちるって意味では、本書収録の他のエッセイ群も右におなじ。長年のブランクで海外ミステリー読書量が圧倒的に不足しているにもかかわらず、ぱらぱら拾い読みをはじめたら止まらなくなり、あっという間に楽しく完読してしまった(ってのは、むしろ畑違いのおかげかも)。
 そんなわけで、本書の重箱の隅をほじくる能力は幸いにも(?)欠落しているのだが、この手の文章の鑑識眼だけはある(つもり)だから、山口雅也のマニアとしての優秀性は保証できる。発表媒体(専門誌/一般誌)ごとの書き分け、冒頭のツカミ、解説における過不足のないまとめと鋭い分析(『呪われた町』と『災厄の町』のただならぬ因縁を考察する「キング・ミーツ・クイーン」は出色)。
 十九年にわたってあちこちに書かれてきた百編近いアーティクルを一冊に収集した本であるにもかかわらず、全体のトーンが驚くほど統一されているのも、「マニアのスタイルは学生時代に完成する」という大森の持論を裏付けると同時に、山口雅也のスタイリストぶりの証明でもある(テレながらカッコつけて、なおかつキマってる珍しいケース)。
 それにしても、学生時代からHMMに連載を持ち、イベントを仕切り、ガイドブックをプロデュースし、作家としてデビューするやたちまち天下をとり、ミステリーシーンの最前線でトリックスター的に活躍する山口雅也は、ミステリーマニアの一つの理想形だろう。
 SF業者の大森としては、同じ土俵じゃなくてよかったと安堵するわけだが、マニアの頂点を極めても、山口雅也がその地位にあぐらをかくことはない。本誌今号の座談会でも言及されている「過剰な言葉による本格擁護」は、ある意味で本書の通奏低音をなし、無理解なミステリークリティックたち挑戦状を叩きつける。笠井潔や夏木健次による評論家絨緞爆撃(笑)に山口雅也が参戦すれば、もはや安全地帯はどこにも存在しない。嵐の予感。


【今月のこの一冊#22】(小説すばる96年4月号)
牧野修『MOUSE』ハヤカワ文庫JA

 デジタル・アンダーグラウンドを取材したD・ラシュコフのノンフィクション『サイベリア』を翻訳したとき、アメリカの薬物使用者たちの理論武装ぶりに、妙に感心したことがある。ルパート・シェルドレイクの形態形成場理論(どちらかといえばトンデモ本系の学説で、早い話、ユングの集合無意識を物理的に拡張したアップデート版)をとりいれ、「オレのドラッグ体験は人類全体の知のプールに共有されるものであって、種の進化に貢献しているのだ」と強弁するかと思えば、客観的現実が存在しない以上、薬物が見せる幻覚も無数にある「現実」のひとつである――という理屈から、"デザイナーリアリティ=i自分用に誂えたカスタムメイドの現実)を提唱してみたり。
 毎晩クスリでハイになってクラブで踊り狂う自堕落な生活を屁理屈で自己正当化しているだけでしょ――と思うのが健全な常識なんだろうけど、理屈としてはそれなりに説得力があって面白い。
 それをSF的設定に移植し、ドラッグがもたらす幻覚が客観的現実(とぼくたちが考えているもの)と同等の意味を持つ世界を構築してみせたのが、牧野修の待望久しい初SF長篇『マウス』。
 舞台は近未来の日本。大地震によって廃墟と化した街に家出した子どもたちが住みつき、やがて十八歳未満立入禁止の独立エリア"ネバーランド≠ェ誕生する。住民たちは腰につけた"カクテル・ボード≠通じて数十種のドラッグを常時摂取し、それぞれのデザイナー・リアリティの中で暮らしている。幻想と現実の区別が意味を持たない、つまり、より強い幻想がより強い客観性を獲得する世界……。
 個人の幻覚によって現実を改変できるとすれば、それはもう、魔法の範疇に属するものだといっていい。じっさい、『マウス』における子ども同士の戦い(「真の名前」を知ることで相手を支配できる)は、伝統的なファンタシーにおける魔法使いの戦いとほとんど区別がつかない。実験動物になぞらえてみずからを〈マウス〉と呼ぶ少年たちは、シュールリアリスティックなイメージに満ちた言葉を投げつけ、相手の現実を破壊しようとするのだが、これも呪文のバリエーションだろう。
 とはいえ、物語の舞台は、子どもたちがクスリを買うために体を売り、暴力と殺人が日常茶飯事の、血と精液にまみれた街。サイコキラーや幼児虐待などの現代的なエピソードと魔法の論理とが交錯することで、奇妙な魅力を持つ異形のハイブリッドが誕生する。
 P・K・ディックは客観的現実がばらばらに崩れてゆく恐怖をモチーフに抜群のサスペンスを書きつづけてきたわけだけど、牧野修は土台となる客観的現実そのものを物語から平然と剥奪する。登場人物同士のデザイナー・リアリティが衝突する『マウス』では、"現実崩壊≠ウえもひとつの技術として体系化されている。
 その意味ではきわめてポストモダンな小説なのだが、フィルムノワール風(あるいはクローネンバーグっぽい)ムードが全体を包み込み、SFともミステリーともスプラッタともつかない一種独特のテイストを醸し出す。「SFマガジン読者賞で圧倒的人気」の看板に嘘はない。強力な「遅れてきた新人」の登板に拍手を送りたい。


【今月のこの一冊#23】(小説すばる96年5月号)
小野不由美『ゲームマシンはデイジーデイジーの歌をうたうか』ソフトバンク

 知り合いの息子(小学3年生)が大長編小説を書いたってんで見せてもらったら、なんとこれが架空のTVゲームの攻略本。「アップル城の魔女を倒して毒リンゴのカギを手に入れたらこのステージでやることはおわり」とか、ほとんどスタニスワフ・レムの架空書評集『完全な真空』の世界。彼の頭の中には架空の世界設定や物語がきちんとあり、それを表現する段階で、いちばん身近な「ゲーム攻略本」という形式が選択されたわけですね。
 これをゆゆしき事態と見る活字人種もいるだろうけど、攻略本の原稿書きが生業のわが同居人は大喜び。刺身のツマ的に見られがちなゲーム本の世界にもそれだけ真剣な読者がいるってことで、たとえばゲーム歴一年の宮部みゆきさんなんか大の攻略本コレクターと化し、買ってもいないゲームの攻略本まで熟読、「いつかは自分で攻略本を書きたいっ」という野望を胸に秘めているくらい。
 じっさい、物語を生きるという意味で、TVゲーム(とくにRPG)は小説ときわめて近い関係にある。ぼくの経験からいうと、小説にどっぷり感情移入できる人は、やっぱりゲームにもハマりやすい。知り合いの作家連中はなんだかゲームおたくばっかりだし。
 そういう"ゲームの達人≠フ極楽ゲーム生活ぶりをあますところなく伝える名著が、小野不由美のエッセイ集『ゲームマシンはデイジーデイジーの歌をうたうか』。
 小野不由美といえば日本最強の異世界ファンタジー〈十二国記〉で爆走中だから、本来なら最新刊『図南の翼』(これまた必読の傑作)を紹介するのがスジですが、TVゲームの文化的成熟という観点からすると、その軟派な外見(っていうか、水玉螢之丞画伯の絵が濃すぎるんだな)にもかかわらず、本書もまた重要な意味をはらんでいる。
 じっさいこの本を読んでいると、小説を楽しむのと同様、ゲームを楽しむのもひとつの才能じゃないかって気がしてくる。さんざんプレイしたはずのゲームでも、なんか小野不由美の筆にかかると256倍面白そうで、思わず瓦礫の山の下からソフトをひっぱりだしたりするんだけど、著者と同僚の同量の楽しみを発見できるかどうかはやはり才能の問題。
 某誌でゲーム評らしきものを毎月書いている身としては悔しい話ながら、ゲームに没入する能力とその快楽を表現する技術に関しては脱帽するしかない。こういう本が出るってことは、ゲームが文化としてようやく成熟しはじめた証拠かも。「けっ、子供のおもちゃなんかで遊んでられるかよ」と思ってる人も、ぜひこの一冊で蒙を啓いていただきたい。
 ところでこの本を読んでると我孫子武丸氏が(技術的に)めちゃくちゃゲームうまい人みたいですが、ふっふっふ、それはどうかな。わたしはだれの挑戦でも受けるっ(ただし対象年齢三十歳以上)。


【今月のこの一冊#24】(小説すばる96年6月号)
森博嗣『すべてがFになる』講談社ノベルス

 孤島の研究施設地下のコンクリートの部屋に十五年間篭りつづける天才女性科学者。唯一の出入口をたえずビデオカメラで監視されたこの「完璧な密室」で起きる殺人事件……。
 新鋭・森博嗣のデビュー作『すべてがFになる』は、絵に描いたような密室殺人をフィーチャーする堂々の本格ミステリである。
 じっさい本書の場合、「絵に描いたような」要素を過剰に用意することで、「新本格」としてのアイデンティティを強烈に主張する。
 なにしろ密室の住人・真賀田四季は、「情報工学の第一人者」と「言語学の最高権威の一人」の間に生まれた娘で、九歳でプリンストン大学の修士号、十一歳でMITの博士号を取得した天才。十四歳のとき、両親を殺害した疑いで逮捕され、心神喪失を認められ無罪となるが、この事件以来、三河湾に浮かぶ島に設立された民間の研究所に隠遁し、他人との物理的接触を絶って研究を続けている。
 通常の小説的リアリティとは隔絶したところで成立する作品であることは、この設定を見ただけで一目瞭然。探偵助手をつとめるのは美貌の大学一年生、西之園萌絵なんだけど、この萌絵嬢がまた名家の出で、両親を飛行機事故で亡くし莫大な遺産を相続。叔父は愛知県警トップだし、叔母は県知事夫人――と、まるで二階堂蘭子の現代版(ただし性格はいい)みたいな設定で、つまりこれまた絵に描いたようなヒロインなのである。
 人物が記号化されること自体は、パズラーでは珍しくない。いやむしろ、「名探偵」や「密室」を記号化するところから、ジャンルとしての本格ミステリは出発するわけだが、ふつうは、小説であろうとすればするほど内面描写その他の挾雑物が入り込み、記号化とは反対方向のベクトルが働くことになる。
 本書の革新性は、「最先端のコンピュータシステムに管理された民間研究所」というデジタルな密室を用意することで、アナログ的な「現実」の侵入を極力はばみ、パズラーにとって理想的なアーキテクチャを構築した点にある。もちろん、現代パズラーにとってこの種の舞台は不可欠だが、本書の場合、「デジタルであること」に物語的な必然性がある。アナログからデジタルへ、アトムからビットへ、十進法から十六進法への移行によってはじめて成立するトリックを核心に据え、そのメタファーを物語全体にまで拡張することで、みごとな統一性を獲得している。
 そのスタイリッシュな洗練は、優秀なプログラムだけが持つ無駄のない機能的な美しさに通じる。したがって、インストールしたものの使い方がわからないというような実用上の問題が万一生じたとしても、それは当然、プログラム自体の価値とは無関係なのである。
 ところで、本書の主要登場OSはUNIX系なんだけど、これがWindows95とかNTとかで、犯人がビル・ゲイツだったら凄いかも。